平成25年6月4日(火曜日)9時30分~12時00分
文部科学省15階 科学技術・学術政策局会議室1
田中 幹人 主査、平川 秀幸 主査代理、大木 聖子 委員、寿楽 浩太 委員、三上 直之 委員、山口 健太郎 委員
斎藤 尚樹 科学技術・学術政策局基盤政策課長 木村 賢二 科学技術・学術政策局科学技術・学術戦略官 関 加奈子 科学技術・学術政策局科学技術・学術戦略官付専門職
<開会>
【田中主査】 定刻になったので、本日のリスクコミュニケーションの推進方策に関する検討作業部会第3回会合を開催する。
本日、委員は全員出席である。
まず議事に入る前に、本日は論点を更に深めていくために、お二人の有識者の先生方に御出席いただいているので御紹介する。リテラジャパン(株式会社リテラシー)の西澤真理子代表。そして、京都大学大学院教育学研究科の楠見孝先生。お二人には、後ほどそれぞれリスクコミュニケーションの在り方に関する知見を御紹介いただく。なお、西澤代表は別の会議に御出席予定のため説明後に退席され、楠見先生は最後まで御出席いただける。
それでは、事務局から、配布資料の確認を。
【関専門職】 (配布資料の確認。)
<議題1.リスクコミュニケーションの推進方策について>
【田中主査】 本日はまずリテラジャパンの西澤代表から、これからのリスクコミュニケーションの在り方について考えることについて、次に京都大学大学院教育学研究科の楠見教授から、認知心理学から見たリスクコミュニケーションの在り方について御説明いただく。その後、事務局による有識者へのインタビュー報告を行い、後半はそれらの御説明や報告を踏まえた上で、「リスクコミュニケーションの推進方策」の骨子案について、議論を深めていただきたい。
それでは、西澤代表に御説明をお願いする。
【西澤代表】 本日は、短い時間であるけれども、私から在り方については指針も何も言えることもないと思うので、私がこれまでの経験で思うことをお伝えしたい。
20分という時間なので、私が最も言いたいことを本当にざっくりと三つお話していこうと思う。まず私は、リスクコミュニケーションを研究してロンドンのインペリアルカレッジでPhDをとり、それから6年間、ポスドクも含めてドイツのシュトゥットガルド大学の研究者として、ドイツにおけるリスクコミュニケーションがどのようなものか、又はもう少し広く欧州、米国においての、特に参加型のリスクコミュニケーションの在り方をずっと研究してきた。日本に帰ってきて今年で8年目であるけれども、研究のペーパーを出しており、主にリスクコミュニケーションのコンサルタントとして、具体的なリスクコミュニケーションのアドバイスなどを行っている。
皆さんのお手元に資料1-2『リスク評価を読み解くハンドブック』があって、リスク評価について難しく思うかもしれないが、ここにリスクコミュニケーションとは何かを書いているので、このハンドブックに触れながら、今日はまず1のリスクコミュニケーションとは何なのかを、私が研究と実践を通じて思ったことをお話していきたい。
リスクコミュニケーションについて、私が少し懸念していることが、定義が非常にあやふやで、リスクコミュニケーションというと、いろいろな方がいろいろなことを思い浮かべられることがそもそも非常に大きな問題だと思っている。リスクコミュニケーションとは、米国でリスクアナリシスという科学的なリスク評価、リスク管理、そしてリスクコミュニケーションというトライアングルの形ができていて、そこにきちんとリスクコミュニケーションは入っている。だから、既に欧州ではリスクコミュニケーションの定義も、いろいろな議論の末確立したものであって、それに基づいた実践も行われている。そのため、リスクコミュニケーションとは、何かソフトな感じに聞こえるけれども、そうではなくて、きちんと確立したものだということを、最初にお話ししたい。
今、もうお話してしまったが、リスク評価として、いろいろなリスクについて科学的判断をもちろんしないといけない。それに対して、それに基づいて、行政であれば政策を立てる、企業であれば経営判断を立てる、これがリスク管理と言われている。この二つを伝えるということがリスクコミュニケーション。これは先ほどの最初のところと被っている。
それから、私がいろいろな実践を通して非常に思ったことで、理論でもそうであるけれども、やはりリスクコミュニケーションは、リスク評価と管理を役立てて、社会をよりよくするものでないと意味がないと思っている。結局なぜリスクコミュニケーションが欧米の社会で発達してきたかというと、もともとこれらの社会も、リスクコミュニケーションを余り重視していなかった。リスク評価とリスク管理をしていればいいじゃないかと。けれども、それが伝わらないことで、社会にリスク評価と管理を幾ら一生懸命やっても、どうもきちんとやっていないのではないかということになってしまった。そしてリスクコミュニケーションをしないと、リスク評価と管理が結局ないがしろにされてしまうという反省のもとから、リスクコミュニケーションが確立し、年代で言えば1980年の半ばに、アメリカの方で一つ大きなコミュニケーションについてのガイダンスが出ているけれども、そのようにしっかりやっていこうという意識立てができた。
最後のところのリスクコミュニケーションには、その先に相手がいるというのは、私は震災後に福島の飯館村で半年間、自治体のリスクコミュニケーションのアドバイザーとして、避難した住民の方に、実際にリスクコミュニケーションというか、放射線の低線量の被曝(ひばく)のリスクについてどう考えるか、どういうふうにお伝えするかというのをやってきた。やはりリスクコミュニケーションがうまくいかない場合というのは、恐らくその先に相手がいるということを余り意識されていないのではないかと思う。もしリスクコミュニケーションのプログラムに相手がいて、お伝えしたいと思うのであれば、やはりその方が分かりやすい言葉でその方がイメージできて納得するような、そういうようなことを考えていかないといけないはずである。
だから、やはり私は、リスクコミュニケーションのその先には必ず相手がいるということをもっと意識しないと、なかなかリスクコミュニケーションというのはうまくいかないのではないかなということを、震災での経験や、ふだんのリスクコミュニケーションの実践から感じたので、これをお話ししようと思った。
特にここ文科省さんということなので、非常にこの部分は強調したいと思っている。私は日本でリスクコミュニケーションがなかなか根付かないと、実はちょっと思ったりもしている。それはなぜかというと、日本ではリスクではなくて、ハザードについてのコミュニケーションがどうしても進んでしまうと。日本では、リスクコミュニケーションといろいろなところで言っているけれども、どうしてもハザードコミュニケーションで止まってしまっているという事実があると思う。だから、欧米で私がやってきたリスクコミュニケーションといっても、そもそもリスクというものが理解されていなければ、なかなかそこまでいかないので、多分皆さんもすごく御苦労されているのではないかなと思っている。
ハザードとリスクの違いは、明らかに違うものであって二つは別物だけれども、どうしてもリスクというと危険というふうに日本語で訳されてしまう。もちろん日本だけではなくて、欧米の一部の地域でも、リスクをなかなか訳せなくて、いつも社会に混乱が起きている国というのも幾つかある。特にアングロサクソンの国では、リスクとハザードというのを分けるように、あえて意識的にしているが、そうではない国、例えばラテンの国などでは、なかなかリスクという概念を、自国の分かりやすい言葉にできなくて、すごく苦労している。私はドイツが長かったが、ドイツでは一応リスクとハザードは別のものに言葉を使い分けている。
これは分かりきったことなのだが、ここにあるようにハザードというのは危害因子であって、リスクというのは危険度であって、定性的なものと定量的なものだから、これはやはり違いがある。でも、例えばメディアであれば、例を挙げると、2011年にWHOの関連機関のIARCというところが、ヒトへの発がん評価ということで、携帯電話の発がんのハザードのランキングを2Bとした。この場合に、日本のニュースを見てみると、多くのものが発がんだと、携帯電話は危険だというふうに書かれている。完全には間違っていないが、そうすると結局、2Bという評価は何なのかということがなかなか伝わらない。ここでは詳しくお話ししないが、WHOの関連機関が評価したものは、あくまでも発がんハザードであり、科学的に見てどれだけ根拠が強いかということしか言っておらず、リスクについては全く言っていない。そういうことについては、リスク評価ハンドブックについても、IARCのハザード評価について詳しく書いている。
だからどうしても、最初に冒頭に申し上げたように、何々が危ないというハザードの話が繰り返されてしまって、どうしても量の話、リスクの話になかなかいかないというのが現状だと思う。
私は大学で幾つか教えているけれども、どうしてハザードコミュニケーションになってしまうかというのは幾つかの要因があり、もちろんメディアが煽(あお)るということもあるけれども、私はこれの一つは教育の問題が非常に大きいと思っている。私が大学で学生に、あなたは高校までの間に、ハザードとリスクの違いをどう勉強してきましたかと聞くと、ほとんどの生徒が知らないと。そういうことは勉強していないと。結局、リスク教育の問題に恐らくなってくるが、誰がいつそれをやるのかというところで、恐らく高校生までの教育でもそれをやらない。大学でも別にリスク教育が教科に入っていないのであれば、それがそのまま社会に皆さん出て、ハザードとリスクの違いが分からないまま進んでしまう。これが、一つ改善すべきところなのではないかなと私は考えている。
日本の学校教育の中で、例えば家庭科では、いろいろな食べ物や、いろいろな環境についての授業がある。その中で、例えば食品添加物の話において今例を挙げた、食品添加物は結構体にインパクトがある、危ないみたいな話も一部ちょっと出るようなことを学生から聞いた。定性的な話は皆さんすごくそういう教科でやるが、一方で定量的な授業がないということで、ここが一つ、せっかく文科省の場なので申し上げたいなと思う。
分かりやすいことで、これもハンドブックの4ページに書いてあるけれども、お酒はハザードである。お酒は明らかにヒトへの発がんがあると分類され、IARCのランキングで1位なので、確実にこれは発がんハザードである。ただ一方で、お酒は少量であれば、適量であれば循環器系にいいということで、同じIARCという機関でも、お酒は適量だったらいいんですよというふうには言っている。だから、これも定性的にはハザードである。でも定量的には、少量であるか多量であるかということで、リスクが全然変わってくる。だから、ここの考え方を、もうちょっとリスクコミュニケーションの中で入れていかないと、やはりハザードコミュニケーションからなかなか出ないのかということも思ったりする。
3番目に、これは私が冒頭に申し上げた、私のロンドンでのPhDとドイツでのポスドクと、それからの大学の研究生活、ずっと私は参加型のリスクコミュニケーションが、果たしてリスク議論を少しでも和らげるのに有効かどうかということを研究してきた。この委員の中にもそういうことを研究していらっしゃる方がいるけれども、それについて細かくは幾つか論文を出しているので、配付資料の1-3などにもあるので、これを後で見ていただければうれしく思う。
いろいろなリスク議論を閉じられた扉の後ろでやるのではなくて、もうちょっと開いた、いろいろなステークホルダーの意見を入れようということで、例えば市民パネル、コンセンサス会議といったような様々な市民型のリスクコミュニケーションというのが、ここずっと欧米でもそうだし、日本でも注目されてきている。
その中で、確かに参加型というのは民主的であって、開いているということで、非常にベネフィットが多く見られる。ただ一方で、その評価というものが、果たして参加型が、違う形のリスクコミュニケーション、若しくはディシジョンメーキングと比べた場合にどれだけ優れているかというレビューが結構少ないのが事実。そのレビューが行われないと、何かそれがいいもので、それを進めようというのが強過ぎてしまって、逆に欠点が見逃されてしまっているというのが、欧米でもそうだし、日本でもそうではないかと思う。
その点で、私はずっといろいろなものをレビューしてきているけれども、二つの指標があって、FairnessとCompetenceという、この二つの指標であるが、そのプロセスが公平か、そしてやったことが、実践がCompetence、有効かということで、この二つの軸で見ていくというのが、一応私のやっている分析方法である。
参加型のリスクコミュニケーションが公平かということでは、プロセスの公平さということで、誰が参加するのか、主催者は誰なのかというところのプロセスが公平かということで結構見られる。そして有効かということでは、参加型の位置付けを、閉じられた扉の中でやるのではなくて、市民にオープンにしようといった場合に、その討議型、参加型のリスクコミュニケーションを政策につなげるのかというところになると、非常にこれは議論のポイントになってくる。
実は私はコンセンサス会議という、一つの参加型をドイツなどで見てきた。実際にドレスデンとベルリンでの二つのコンセンサス会議に参加して、その後ドイツ人の参加者の方や主催者の方にインタビューした。そうすると、私が感じたのは、やはり主催者側と市民側の考えることのずれがものすごく大きいということ。主催者側というのは、それをじゃあ政策に結びつけるんですかといった場合に、余りはっきりしたことは言えないし、言いたくもないというのも正直言っている。それはドイツでも同じ、多分どこの国でもそれはある。市民側というのは、やはりコンセンサス会議であれば、準備期間も2週間つぶされて、最後3日間も出ないといけないので、相当皆さん自分の時間を削って参加しているので、かなり深いところまで議論する。
私が見たドイツの会議では、一つは幹細胞の利用ということでちょっと古いけれども、2004年、今日本でも議題になっているが、遺伝子診断をどう利用するかということでの会議を二つとも見てきた。彼らなりに、市民パネルなりに勉強して、すごくいろいろな意見が出てきて、これは是非政策につなげてもらいたいと、皆さんすごく熱意を持って言うけれども、結局主催者側としては、何となく曖昧にしてしまうというのが事実じゃないかなと思っている。
そうすると、市民側にインタビューすると、我々はこれだけやったのに、結局我々の意見はごみ箱行きなのかとなってしまって、逆に結局利用されるのではないかという不信感が出てきてしまう。だから、やはり参加型をやる場合には、これをどう位置付けるかをよくよく考えて、それから実施しないとならないのではないかなと、すごく思っている。もちろん参加型は結構お金がかかるので、費用対効果の面で、ほかのリスクコミュニケーションのプロセスと比較した場合にどう優れているのかをよくよく見ないと、費用だけかかって、結局少数の人だけが議論したとなりがちなので、ここの点も考慮すべき点だと私は思っている。
もう一つ、最後になるけれども、参加型というのは、もともと欧米の――欧米ってちょっとまたざっくりし過ぎているけれども、そういう市民社会から出てきたものであって、それをほかの政治、文化の社会に根付くかどうかというのは、これはやはり熟慮すべきだというふうに考えている。
実は参加型のコミュニケーションは、結構アメリカで早く始まっていて、それがヨーロッパのデンマークに伝わってきて、更にドイツの大陸の方で広がったということがある。ただアメリカ式のやり方は、ではヨーロッパに合うのかというと、アメリカの民主主義とヨーロッパの民主主義の在り方はやはり違うものなので、そこでもちょっと違和感があった。
デンマークでは、議会にそういう機関があって、議会が主催してコンセンサス会議とか、市民型の議論というものを行っていくが、デンマークのものをドイツでやろうとした場合に、果たしてうまくいくのかというと、ドイツはまたデンマークとは全然違う社会である。まず人口が、デンマークって横浜ぐらいの人口の小さい国で、もともと市民と議論するという文化がわりと根付いていて、それがドイツのように、あえてナチス時代の反省から連邦制にして、統一した意見を余り出さないようにやっている国でなじむのかというと、そこで非常にまた難しいことが起きてしまうと。やはり私はこれで考えたのは、社会土壌というのをよくよく考えないと、ある一つの社会で成功したものが、ほかの社会にそのまま輸入してうまくいくかというと、それは難しいところもあるのだよと。そこはやはり意識すべきだと、私はちょっと思ったりしている。
ただ、参加型が全部駄目というのではなくて、やはりいいところをとって、例えば日本でやるのであれば、日本に合ったようなやり方をやったらいいと思う。その辺はいろいろな論文とか、ほかにも科学なんかにも、ドレスデンで見たものも、10年前になるが、ちょっと書いてあるので、もし御興味があれば後で御覧いただければ、社会土壌と欧米で発達したモデルの摩擦という申し上げたいところが、ちょっと理解していただけるかなと思っている。
【田中主査】 それでは、今頂いた説明について、質問があればどうぞ。西澤代表は質疑応答の時間が終わり次第退席されるので、今、疑問の点があれば是非お願いする。いかがか。
【平川主査代理】 最後の点、僕もいつもそのあたりは悩むところである。その点で、一番伺いたいのは、参加型をやったときに結論をどこに持っていくかということ。議会なのか、それとも行政、例えばどこかの省庁なのかというのは、結構クルーシャルな世界かなと思うけれども、そのあたりはどうお考えになるか。例えばヨーロッパだと、わりと議会になっている、DBTもそう。ドレスデンの例は、これは省のものか。
【西澤代表】 その主催はあくまでも博物館が。
【平川主査代理】 ああ、こちらの衛生博物館。
【西澤代表】 ええ。いわゆる文科省みたいなところが全面的にバックアップしていて、そこからも人が随分いらしていたけれども、あくまでも主催はその博物館。もう一つのベルギーの方も、ベルギーでやったステムセルのものも、ベルリンの研究所がやっている。だから、ドイツの場合は主催者が議会とか行政ではない。デンマークは主催者が国会の。
【平川主査代理】 議会。
【西澤代表】 そう。だから、そこも違う。イギリスの場合は、あそこはジョン・ドランのいたところなので、科学……。
【平川主査代理】 サイエンスミュージアム。
【西澤代表】 サイエンスミュージアムが主催だったと思う。
【平川主査代理】 一方で、近年最近POST、イギリスの議会の方のParliamentary Office of Science and Technologyでも、主催者をロンドンにいっぱい集めると、旅費がすごくかかるなど、ある種財政的な事情で苦肉の策でもあるらしいけれども、最近は国会議員の人たちに地元で参加型の会議を開いてもらうという試みがある。これには、直接POSTの局長にインタビューして伺ったけれども、財政的なメリットだけでなく、国民の代表である議員が関わることによって、政治的なレジテマシーというのが生まれやすくなるというメリットもあるようだ。行政が直接やると、行政の立場からすると、この人たちの意見は、果たしてほかの国民の意見を代表しているかどうかが常に気になってしまう。けれども、議会のメンバーである議員が話を聞いて、それをふまえて、議員自身が考え、判断する場合には、1回そこで議員、つまり国民の代表というフォーマルな形のレジテマシーを獲得しているので、あとはそこから先は議員がどう考えるかということで、行政が悩むようなレジテマシーの問題が、ある種クリアできると。
【西澤代表】 おっしゃるとおりだと思う。いつもそこはすごく難しいので、議会がやるというのは、一つ有望かなとは思う。
【三上委員】 特に最後の部分の社会土壌というところに非常に関心を持ったけれども、とりわけこれは2003年のお仕事に言及されているが、私自身、西澤先生のこういった先駆的なお仕事にも学ばせていただいて、日本の社会にこういうコンセンサス会議みたいなやり方が、どうやったら根付くのかという研究や実践をこの10年ぐらいやってきたので、そういう社会土壌の話というのは、なるほどそうだなと思った。
それで質問は、最初に御紹介いただいたリスコミの定義のこと。この委員会でもわりと、こういう話はもしかすると入り口論かもしれないけれども、やはりそこにずれがあると、その先全部ボタンがかけ違ってしまうという思いが私はあって、その点はわりとここでも、今日は3回目の作業部会なのだけれども、議論してきた。リスクコミュニケーションというか、リスクというのをどう理解するのかというのはポイントだと思っているいて。
それで一つちょっとお考えを伺いたいと思ったのは、例えばアメリカなどでは、議論の積み上げがあって、れっきとしたリスコミについての定義というか、そういうものがあるけれども、日本ではともすると、わりとソフトなものとして理解されてしまうという御指摘があった。それで、これは先ほどの社会土壌ということを考えると、日本にもそういったユニバーサルなというか、例えばアメリカでそのように確立されているリスクコミュニケーションの定義をうまく輸入するというか、そのまま持ち込むような形でやっていくというのがよいのか。それとも、日本は日本でというか、日本の社会に合ったリスクコミュニケーションの定義みたいなものを見いだしていく、これから作っていく必要があるのか。必ずしもどちらかというわけにはいかないと思うけれども、ちょっとそのあたりをどんなふうに先生はお考えかを伺いたいなと思った。
【西澤代表】 アメリカでガイダンスが出ていて、ヨーロッパのものとかいろいろなリスクコミュニケーションについてのガイダンスの冊子みたいなものがいろいろなところで出ている。いろいろなのを見てみると、大体同じようなもの。多分私の次の先生が、人ってリスクをどう認知するかというところでは、もちろん人種の違いとかある程度の違いはあるけれども、多分人なので、同じな気がする。もちろんそれをどこまで入れ込みたいかによっても、リスクのコミュニケーションの定義は変わってくるけれども、基本的には同じようなものだとは思う。
それで、今ちょうど御質問を頂いたので、リスクコミュニケーションの定義だけではなくて、リスクコミュニケーションが実は何を目指すか。そこまでは、やはり議論すべきで、そこも定義した方がいいと私は思う。なぜかというと、私の問題意識の中に、リスクコミュニケーションは従来型の安全情報の伝達と同じ、それだというふうに誤解されているところがある。それだったら、リスクコミュニケーションの第一歩でしかなくて、その先にあるもの。つまり、リスクコミュニケーションはその先に相手がいるので、その方と情報を共有して、さらには、もしかしたらその先には共感とか、社会をよりよくするための責務の共有とか、信頼関係を作っていくとか、そこまで目指すべきものなので、定義をやるのであれば、やはり何を目指すかというところまでやらないと、何かリスクコミュニケーションの定義に沿ったものをうちでやっていますというふうになると、何かそこでアリバイ作りみたいになってしまう可能性があるので、もしやられるのだったら、そこまでやられた方がいいのではないかなと私は思う。
【寿楽委員】 私も最後のところに非常に共感した。社会土壌ということ、あるいはスティック・イン・ネイチャーと書いておられるのでいうと、例えば先ほどおっしゃったリスクコミュニケーションをしようと言いながら、ハザードコミュニケーションになってしまう状況というのも、社会土壌に深くかかわってスティック・インしているようなものなのか、それとも先ほど教育とおっしゃったけれども、みんなが算数をできるようになる、読み書きができるようになるという、そういう基本的なリテラシーみたいなものととらえて、適切な教育や啓発をしていけば、量的に何か向上して測定可能なような種類のものなのか、もうちょっとそういう社会、文化、政治的な土壌と深くかかわってしまって、そう簡単には変わらないような種類のものとお考えなのか、その辺御意見で結構なので、伺えればと思う。
【西澤代表】 日本と似たように、何かが危ないとなるとわーっと文化的に騒ぐという国、イタリアなんかはそうだというふうに聞いている。私はイタリアに住んだときがないので聞いただけだけれども、フランスに長く住まわれている方が、そうおっしゃっていた。ドイツは、実は余りそういうことにならない。だからといって、じゃあ国民のリテラシーの質、レベルが高いかというと、私は必ずしもそうだと思っていない。
リテラシーの話になると、日本と欧米の社会で比較したものをシュトゥットガルド大学でやったけれども、意外と日本人の方がリテラシーは高かったりもする。だから、それを考えると、じゃあそれはそうじゃないと。じゃあ何かというと、私はリスクコミュニケーションというのは、科学と人をつなげるものだと思う。やはり人って本能的に反応するので、やはり直感で反応するところがあると思っている。そこをやはり直感だけで行動してしまうとどうしてもずれが出てくるから、そこを、英語でナッチと言うけれども、ある程度少しだけ違う、余り直感だけにいかないようにするという、それが実はリスクコミュニケーションだと思っている。
だから、もし余りにも直感で危ない、危ないとなるのであれば、私はやっぱり科学の方からのアプローチが少し少ないのかなと。分かりやすく、ああ、そうかというふうに思えるようなアプローチがやはり少ないのかなと思う。これはただ単に私が考えたことだけだけれども。
繰り返しになるが、リテラシーは別に日本人が低いわけではなくて、ひょっとしたら科学からのアプローチが少ないのではないかと。あと、メディアが煽(あお)るということは、これは日本では事実だと思う。なぜかというと、高級紙と言われるもの、日本ではそれに当たるものがどれかというのは、私はよく分からないが、例えばアメリカで言えばニューヨーク・タイムズとか、ドイツでいえばフランクフルター・アルゲマイネとか、そういうものは何とかが危ないというような記事は一切ない。もちろんイギリスの場合は結構ゴシップなんかも好きだから、たまにそういう高級紙でも少し行き過ぎかなというのもあるけれども、基本的には高級紙、新聞に限っていえばそういうものはきちんとアナリシスをして、それについて分かりやすく科学を面白くわくわくするように伝えるというのをやっている。特にそれはイギリスがすごくうまいと思う。だから、そういう意味では、では日本のメディアを見たときにどうなのかというのは、やはり検討の余地があるのではないかなと思う。
【田中主査】 ありがとうございます。お時間になってしまったので、これで西澤代表は退室される。
【西澤代表】 失礼します。ありがとうございました。
【田中主査】 続いて、楠見先生に、お話を頂きたい。
【楠見教授】 (資料2に基づいて)私の方からは、認知心理学から見たリスクコミュニケーションの在り方というテーマでお話をしたい。一部は西澤先生のお話を引き継ぐような形になる。
私が専門にしている認知心理学というのは、人の心と行動を支えている認知過程。それは例えばリスクを知覚し、リスクについて考え、言葉で人によって伝え、そしてリスクという出来事を記憶するということを科学的な方法、実験や調査や観測などによって解明し、説明し、予測して、人や社会に役立てるということにある。その大きな特徴は、人の心を情報処理のプロセスとみなす。それからもう一つは、情報処理能力の制約、そしてその個人差に着目するという点にある。特に個人差では、リスクに限って言えば年代だったり、性別だったり、子供がいる、いない、知識、態度、リスクへの敏感性、そうしたものを配慮しながら情報を提供していくにはどうしたらいいかを考えることになる。
この図は批判的思考における情報処理プロセスを考える一例であるけれども、メディアの報道などの情報、あるいは広報、周りの人からの話を聞いて、まず情報を分析する。どれぐらい情報源が信頼できるのかとか、根拠が確かだろうかを考え、そして更に推論を行い、最後に行動決定する。ここでは,リスクを避けるような行動決定をするということになる。
ここに働くのは、人が持っている態度だったり、あるいはそうしたリスク情報を読み解くスキルだったり、知識だったりということで、これは教育、あるいはどういう経験をしているのかという個人差によって、この分析の深さとか、あるいは推論の適切さとか、行動決定が変わってくることになる。それからもう一つ大事なことは、メタ的なプロセスといって、それぞれのステップにおいて、自分が正しくそのことを行っているかどうか、あるいは立ち止まって考える必要があるかどうか、そういうところにメタ的なモニターをしたりコントロールしたりするプロセスがあって、この中で更に情報を明確化するとか、あるいは推論のプロセスを明確化するとか、そういうようなことが必要になってくることになる。
それから、もう一つ、先ほど西澤先生からのお話もあったけれども、人が二つのシステムを持っているというのは、認知心理学者に共有している考え方である。一つは、直観的なプロセス。これはある出来事があると、自動的に働く。つまり、特に努力を必要としないで、すぐに素早く働くプロセスである。そして、リスクに関して言えば、恐怖や不安のような感情によって働く。これは、私たちに進化的に備わっている、危険を避けるためのシステムである。
それから、プロセスでは、ヒューリスティックスと言われている、これは素早く解を導く方法が働く。例えばリスクの大きさなら、どのくらいそのことが思い浮かぶかという検索のしやすさ、あるいはそれがどれぐらい典型的なことかということによって、人は確率の推定を行う。例えば、飛行機事故が起こった直後にみんなが飛行機に乗るのを避けるのは、あれはリアルなイメージを頭の中に思い浮かべやすいということが、人のリスクの推定に影響しているのは、ヒューリスティックスが働いているということである。
そして、ヒューリスティックは多くの場合はうまくいくこともあるけれども、時によってバイアスが生じる場合がある。例えば、思い出しやすさとか、あるいは典型度とか、そういうものというのは確率そのものではないので、そうしたリスクの推定には系統的な誤りが生じる。それを修正するのが、ここでいう批判的な思考プロセス、あるいは論理的な思考プロセス、システム2と言われている部分である。こちらの方はコントロール的で、認知的努力が必要。つまり、立ち止まってゆっくり考えなければならないということ。だから、論理的に分析をする、熟慮する、そして振り返って考えるということで、意識的にバイアスを修正するプロセスということになる。こちらの方は、教育や経験の影響が非常に大きい。何かがあったとき、直観でまず考えて、そして修正する必要があるかどうかを考えるには、経験や教育が必要になってくる。もちろんエキスパートが優れた直感を働かせることができるのは、経験によって直観を磨き、更にそれを適切な形で修正することができるということがあると言えると思う。
先ほどの西澤先生のお話とも関わるけれども、そもそも人のリスク認知は何かというと、第一の段階は、ハザードの知覚、つまり、危ないと感じること、これがリスク認知の出発点であり、Slovicたちの研究では、不安とか恐怖というのが二つの次元が見いだされている。どの程度なのか、どの程度怖いかというので、人はまずハザードという形でリスクをとらえる。また、人は一方で非常に楽観的である。ちょっとしたことでは、これは大したことはないと思ってしまうことがある。地震のときに、津波が来るのに逃げなかった人がたくさんいたというのは、一方である種の楽観みたいなものが常にあるということである。
第二の段階は、便益。どのくらいそれによって便益があるかとか、受入れが可能か。例えば、私たちが自動車に乗るのはそれだけ便益があるからで、それによってリスク認知というのは差し引かれるという面がある。
第三は、定性的な部分である主観的な確率とか、損失の大きさの推定がある。私たちは、ハザードとリスクが分離できないという西澤先生のお話があったけれども、まさにそれらを統合し、心理的な評価をすることが、リスクの認知だということになる。
ここには先ほど話したように、人の認知能力の制約が働いていて、先ほど話したシステム1という、私たちが自動的に行うような直観的な思考のプロセスと、批判的思考、論理的な思考のシステム2によるチェックがあるけれども、そもそもシステム1は人に備わっていて、システム2はどれぐらい切迫しているかとか、どれぐらい知識があるかとか、そうしたことでいろいろと限界がある。それから、更に人口学的な変数で言えば、年齢や男女による違いがあり、心理学的変数としてはリスクへの敏感性とかリテラシーとか信頼感とか、それによって人のリスク認知は影響を受けるということがある。
図ではリスクリテラシーを支える批判的思考の関係を示したが、リテラシーはそもそも母語の読み書き能力である。これは自然に獲得できる話し言葉と違って、教育が必要になってくる。更に働いて仕事をするためには、文章を読み解き、計算をする機能的なリテラシーが必要である。
帰納的リテラシーは余り批判的に考えるということが重視されてはいないが、学校教育の中で、例えば科学的な情報を読み取るとか、数学的な情報を読み解くような、そうした学校教育を通じて批判的に情報を読み解くということが形成され、理数系、読解系、文章、メディアなどのリテラシー、そしてICTなどを活用して情報を読み解くリテラシーという能力が形成される。そして、その上にリスクのリテラシーがある。ここには、食品、健康、金融など様々なリスクのリテラシーがあり、更に自分自身で新しい情報を読み取っていく。更に調べるという研究や学問のリテラシーというものが学校教育の中で育成されることになる。市民に必要なのは、このリテラシーなのだと。更に自分自身で情報を集めるためには、リサーチリテラシーももちろん必要になってくることは言うまでもない。
リスクリテラシーがどういうものかというと、大きくこのように考えることができると思う。リスクリテラシーは、まず情報を理解し、理解する能力、基本的な知識。それから、単に知識を持っているだけではなくて、リスクを低減する政策だったり、サポートだったり、サービスだったり、そういうものを理解してリスクにどう備えたらいいのかということに関する理解。そして、最終的には単に知識だけではなくて、意思決定を行い、行動することが大事である。そして様々な領域において食品リスクのリテラシー、放射線リスクのリテラシー、医薬品リスクのリテラシーがあり、領域ごとのリテラシーは、特に知識やサービスの部分に関わる。
リスクリテラシーはほかのリテラシーから独立しているのではなく、大きく三つのリテラシーを含むものだと言うことができると思う。まず、メディアリテラシー。リスクについては、そもそも学校では余り教えてくれないので、学校を出てから様々なメディアを通して新しい情報を得て考えている。そのときに大事なのは、先ほども話題になった、メディアを読み解くメディアリテラシーである。メディアはもともとは事実そのものではなくて、何らかの形で編集されたものであるということにそもそも理解が必要だし、メディアが伝える情報を吟味して、そしてそこから立ち止まって考え、行動するというメディアリテラシーが必要である。それから、2番目が科学リテラシー。これは科学技術用語の理解、そして科学的な手法の理解、そして政策の理解、意思決定が含まれる。そして、最後にリスクに関して特に重要になってくるのが統計リテラシー、数学リテラシー、ニューメラシーと言われるようなもので、特にリスクに関しては、確率的に情報が提供されるので、確率の概念をうまく理解して、そして行動に利用するということで、ここの部分が非常に大切になってくる。日本の数学教育において統計は、最近やっと重視されてきたけれども、おろそかにされているところがある。すべての国民にとって大事な数学リテラシーの中の統計リテラシーということが言える。
それから、もう一つ、先ほどお話しした批判的思考。証拠に基づく論理的で偏りのない思考。特に科学的な証拠に基づく判断がリスクリテラシーの基盤になっている。批判的というと、相手を批判するということに誤解されがちだけれども、自分の思考が適切に行われているかを吟味するメタ的な思考、リフレクションの思考が批判的思考の大事なものである。そして最後は、市民リテラシーの中でも重要なジェネリックのスキルで、例えば批判的思考というのは、無目的に使うべきではなくて、批判すべきときに批判することが大事で、特に例えばリスクに関する情報を正しく読み解くという目的の中で、リスクに関する話を聞く、メディアに接する、文章を読む、質問をする、情報を集めるといういろいろなステップで、まさに働いてくることになる。
では、一般の国民がどれぐらいテレビ、雑誌の情報を鵜呑(うの)みにしないで複数の情報源で確認しているか。これはお手元の資料にないが、私がネット調査で、震災の半年後、1年後、2年後にとったものがある。「テレビ、雑誌の情報を鵜呑(うの)みにしないで、複数情報源で確認している」かどうかについて、これは自己評価になるが、「当てはまる」、「どちらかというと当てはまる」という人が、被災県では6割近くいる。それから、首都圏でも、そして関西圏でも半分ぐらいで、1年後、2年後でこれは下がってはいるけれども、しかし、国民の半数が情報を鵜呑(うの)みにしないて、複数情報源で確認していることが示されていた。4割が能動的に複数情報を集めていたということである。
そして次に、これらを踏まえてリスク情報に関していうと、心理学的に大事なのは、受け手をうまくグループ分けして、それらに応じたリスクコミュニケーションをするということであるが、二つのグループ分けの観点がある。一つは人口学的な変数で、年齢、性別、世帯規模、ライフサイクルなどだが、このグループは比較的属性が明確で、所属が明確である。例えば、年齢別に学校で子供に対して図入りの分かりやすい言葉で表現を工夫して伝えるようなことができるので、持っている知識や情報ニーズを適切に把握すれば、これは双方向的なコミュニケーションを図りやすい。
一方で非常に難しいが、しかしリスク認知に非常に関わってくるのが心理学的な変数で、先ほど言った心理特性、例えば、不安の大きさ、信頼感、知識、価値観はその人がどの程度そういう特性を持っているのかがそもそもつかみにくいし、一々心理テストをやるわけにはいかないから難しい。またそういう人たちがどこにいるのかも不明確である。そのため、そのグループをとらえて適切な情報を伝えようとしても、情報ニーズも分かりにくく、把握しにくいということもある。ただ、一つ鍵になるのは、ネットコミュニティは、比較的心理的特性の近いグループが自発的に集まっているので、これは一つの手掛かりかもしれない。ツイッターとかフェイスブックのソーシャルネットワークサービスを使っている人たちのグループは、これをとらえることになるかもしれない。しかし、利用者が非常に限定的だという問題点はある。
この表は一つのグループ分けの例だが、人口学的なグループ分けは、年齢別、ライフサイクル、そして男女、学齢、職業ということだが、例えば妊婦とか病人、そしてその家族、は、病院とか、あるいは患者グループとか、家族会というグループを作っているし、小さい子供の親は保育園や幼稚園、お母さんたちのサークルに集まっている。そこでリスクコミュニケーションの担い手は、医師、看護師、保育士、幼稚園の先生、あるいは、知人で詳しい人がリスクコミュニケーションの担い手になる。そして、お母さんたちや患者のグループ、ネットの中でグループがあるから、そういう人を通じて特別な関心やニーズに焦点を当てて、その人たちのリスクを下げる方法を伝えるという形で伝えていくことが、一つはできると思う。あとは年齢別で言えば、児童・生徒、高齢者。この人たちは比較的グループが明確であり、伝えやすいということもあるだろうし、一方では学歴とか職業によるグループ分け。特に職業人の人たちに対しては、知識や経験のレベルに合わせた形で、適切な情報を伝えていくことが大事になってくる。
もう一つは心理学的なグループ分けであるが、リスクに敏感な人、リテラシーの程度、信頼感、ライフスタイル、価値観、こういうものがあると思う。例えば、一番リスクコミュニケーションで問題なのは、リスクに鈍感な人たち、リスクリテラシーの低い人たちである。これは非常に難しいけれども、マスメディア、あるいはネットで、まずリスクの存在自体や対処方法を伝えることが第一だと思う。
もう一つ問題になってくるのが信頼感の問題である。この表は放射能に関する安全性の情報源の信頼感で、5段階評価において3以上が信頼できるというものである。放射性の安全性に関する情報源に関しては、3以上のものが非常に少ない。行政は非常に低い。この表は食品の安全性で、震災の直前に聞いたものだが、多くの情報源の信頼度が高い。これは更にその1年前、患者さんや患者の家族に聞いたものだが、患者や患者の家族は、非常にいろいろな情報源に対して信頼度を持っていろいろな情報を集めていることが分かった。このように原発関連に関していうと、非常に信頼度が低くて、そもそも情報源の信頼度、特に中立性ということに非常にこだわりがあって、この人たちはわりと中立だということで、信頼度を高く、一般の人たちは評価しているということがあった。
それから、ライフスタイルとか価値観に対応した情報提供は、広告やマーケティングはこのあたりに焦点を当てている。しかし、リスクコミュニケーションでは、どういうふうにライフスタイルや価値観に合致した情報を提供するのかに関しては、それほど実践が積まれているとは言えないと思う。
次は学歴とリスク対処行動の関連については、この図はインターネットで調査したものだが、批判的思考の態度は、学歴によって上昇するということが一つ分かると思う。一方で、リスク関連の行動、例えばリスク関連の食品情報を収集するとか、食品リスクに敏感かどうかは学歴ではなく、男性よりも女性の方が一般的に高かった。
そこで、どのような形でリスクリテラシーを考えていくのかということについての私の枠組みでは、学歴、教育歴、学校歴のようなものは、批判的思考態度を高め、リスクに関するリテラシー、科学リテラシーにかかわる情報理解、知識、そしてメディアリテラシーを高めていくという関係と、一方ではリスクへの敏感性は、食事を作る、食品の購買を担っている女性の場合には、食品リスクに関してかなり敏感であるということがある。
この資料に関しては、一部のまだ投稿中のデータなので、机上資料として委員の先生方のみに配っているが、学歴や批判的思考が影響を与えて、食品リスクリテラシーを高めるというルート。それから、一方では、批判的思考態度が高いと、食品リスクには敏感になるというルートがあって、食品購買を担う女性の場合には、輸入品回避という影響も出ているという結果が分かった。
残り時間が少なくなってしまったが、もう一つリスクの認知の変容を促す情報発信をどうしていくのかということに関して、特に低線量の放射線に関しては、危険があるという情報と、危険がないという情報がたくさんあるので、人はこの二つの情報をうまく統合していかなくてはならない。私の調査では、2通りの情報の出し方を工夫して、ブログの形式で、低線量の放射線は健康に影響がないという意見と、あるという意見をそれぞれ一人の人が説明した条件。それから、一人の人が、大人は健康に影響はないけれども、子供の場合はあるというような形で、同じ人が両面の情報を提示した条件を設定して、受け手がどのように情報を受け取るかを見たものである。
この表は「影響なし、影響なし」と、「影響あり、影響あり」という2人の人が片面情報を提供した場合。それから、「影響なし、影響あり」、「影響あり、影響なし」という2人の人が両面提示で情報提供した場合を示す。これを見てみると、全ての場合で、リスク評価は事前と事後で両方の情報を見ることによって下がっている。そして、自分自身のこのリスク評価に対する確信度も下がっている。一方、その情報に関する信頼度とか分かりやすさを見ると、「影響あり、影響あり」という危険情報だけを伝えた人が一番分かりやすくて、信頼できて、伝えやすい、伝えることができるというような評価をしている。一方、影響なしという安全の情報、それから両面を併記した情報の提供に関しては評価が低いということが分かった。このように片面危険、つまり、危険だけという情報を伝えた方が分かりやすくて、またその情報も伝えることができるという自己効力感も高いということが分かった。一方、両論出すということが必ずしも信頼度を高めていないことが分かった。
また、実験において提供したその中の情報には、例えば「子供は放射能の影響を特に受けやすい」とか、「キノコは濃縮される」という危険情報を配偶者、友人に伝えたいと、回答者は答えたが、「体内の放射性物質は放射能が減少していく」とか、「食品検査は定期的におこなわれている」といった安全性を高めるような、安全性の認知を高めるような情報は余り人に伝えたいとは述べられていないということで、危険情報の方が周りの人に伝えやすいと多くの回答者が答えているということが分かった。
最後になるが、今後の課題として、第一にリスクコミュニケーションの効果検証について、先ほど西澤先生もレビューが余りやられていないと言ったが、対象者別にどの程度うまく伝わっているのかを検証した方がよい。第二に、分かりやすさとか態度や知識の内容に加えて、リスクのリテラシーとかリスクを低減する具体的な行動がどう変化したかをとらえることが大事である。それから、第三に、リスクコミュニケーション手法については、市民は行政の広報を見ていない。また、信頼度もなぜか低い。まずはやはり見てもらうということが必要であり、どういう形で誘導するのかが問題である。第四の課題は、論争的なテーマに関する情報提示の手法で、両論提示が意外にうまくいかない。つまり、危険情報だけに注目して、更に伝達してしまうということがある。
それから、心理学的なグループ分けの対象者に効果的にアプローチするためにどうしたらいいのかという問題がある第一は、ネットコミュニティは鍵になると言ったが、その実践はまだ始まっていない。それから、第二は、双方向的に対話するには、市民の方のリスクリテラシーや批判的思考態度を育成する必要がある。これは必ずしも欠如モデル的な意味ではなくて、対等に対話していくために、参加してもらうために必要だというようなことで、この点を最後に強調したいと思う。
【田中主査】 それでは、ただいま楠見先生から頂いた説明について、質問等あればどうぞ。後ほどまとまった意見交換の時間もあるので、この時点では事実関係の確認をお願いする。
【三上委員】 非常に限られた時間で、密度の濃いお話を頂きありがとうございます。
それでリスクリテラシーの構造、それを構成する要素として三つ挙げていただいたけれども、もう少しそれぞれの関係みたいなものを教えていただきたいと思った。なぜそんな質問をするかという関心を申し上げておくと、やはりリスクというものの考え方について大人も含め、どこかできちんと学習するということをやっていかないといけないのではないかというのが、この部会の議論の中でかなり出ている。これはやがて学校の教育の中に、リスクの考え方というのを本格的に組み込んでいくという、ある種長期戦になると思い、リスクリテラシーの概念の構造を、もう少しよく理解したいと思った。
例えば、この数学のリテラシーはすごくリスクを考えるときに大事だと思うのだけれども、考えようによっては、これは科学リテラシーの一部なのかなという気もするし、今、メディアリテラシーが恐らく問題になる意味は、これはお話を伺って私が想像したことだが、リスクを判断する知識や情報がどう生み出されてくるかという、その過程についての理解ということだと思う。そうすると、科学リテラシーというのは、恐らくメディアリテラシーのある種の特殊例というか、非常に特殊な例で、科学という制度を介して、どういうふうに判断の根拠となる知識や情報が生み出されてくるかということなのかなとも思っていて、そのあたりのリスクリテラシーの構成要素同士の関係について、コメントいただけることがあったらもう少し伺いたい。
【楠見教授】 この図の中で説明したように、科学、数学リテラシーは共有する部分が非常に多い。例えば、この中の科学な主張や過程の理解というのは、統計的なデータの読み取り方が非常に大事であるし、両者は共有している部分が多いと思う。学校教育において、数学の中で確率統計は余り重視されていないということがあったので、確率統計が非常に大事だと思うし、科学リテラシーの中でも用語や概念の理解については教えていると思うけれども、科学的な手法、ハウ・サイエンス・ワークスのような、科学という営みがどういうもので、科学情報というのはどういう性質を持っているのかということはもっとこれからの学校教育で教えていくべきだと思う。
それから、科学リテラシーとメディアリテラシーは、科学コミュニケーションの中では非常に近い関係にあり、私たちが学校を出てから、新しい科学に関する情報をどう理解するときには、メディアを通してが多いから、メディアリテラシーの役割というのは非常に大きいのではないかと考えている。
リテラシーの構造図の中では、読解系のリテラシーと、科学、技術、数学系リテラシーを分けたけれども、現実には両方でリスクのリテラシーを支えている構造があると思う。
そして科学・数学リテラシーは、学校の教科の中で教えられている。読解系のリテラシーも国語とか情報科の中で教えられているけれども、リスクリテラシーに関しては、例えば家庭科だとか保健だとか、あるいは金融だったら社会の中の公民だとか、そういうところで教えられてはいるけれども、特にリスクに焦点を絞った形での教育というのはまだまだ足りないと思う。リテラシーの間の中の連関をうまく教えていくことによって、市民にとって必要なリスクのリテラシーを教えていくということが、今後大事になっていくのではないかと思う。
【三上委員】 各科目にばらばらにということではなくて、科目間の連関みたいなことが大事というイメージか。
【楠見教授】 そう。日本の場合には、教科を教えることをかなり重視し過ぎていて、教科を超えるような形での教育というのは、総合的な学習の時間はあるけれども、まだまだ足りないところがあると思う。一つの答えがないような課題が、まさにリスクというのは関わってくると思うので、そういうことに関しても、もっとやはり学校の中で取り上げ、そして議論することが必要なのではないかと思う。
【田中主査】 では、平川委員。
【平川主査代理】 2点ほど。調査結果の解釈について、一つは、批判的思考(クリティカルシンキング)の話で、震災後2年で複数の情報源を得る割合が低下している。逆に言うと震災直後は上がっているということもあると思うけれども。この部分に関しての解釈、何が要因となっているのかということ。
もう一つは、最後の方で出てきた、両論併記の話で、片論危険の方が信頼度にしても分かりやすさにしてもより強かった。これの要因に関して、どういう解釈をされているかということ。
【楠見教授】 まず、これはパネル調査で、同じ人たちに対して3回繰り返し調査したが、メディア自体の情報量が少なくなってきたことと、それからもう一つ別なところで不安感もとっているが、不安も震災後2年たつと大分下がってきたことともかなり関わりがある。震災後2年たつことによって不安感も下がり、能動的に放射能関係の情報を集めることも減ってきているようなことがこれを見て分かる。また、被災県、首都圏、関西圏の順で、福島第一原発との距離によって下がっている。
それから、両論併記の問題であるが、先ほどのデータは事前のリスクの評価を、3.66、3.71というように5段階で評価を見ている。ここでは、低線量の放射線が健康影響あると答えた人が、「そのとおり」という人と、「ややそのとおり」だと思うという人が全体の5割を占めている。だから、多くの人たちが低線量の放射能でも健康影響があると思っているという現実がまずあって、そうした事前の態度や考えがあるために、片論だけの「危険があり、危険があり」という情報の方が「分かりやすくて信頼できる」、「人に伝えやすい」ととらえているということがある。ただ、「危険がない」という情報も、このとき同時に読んでもらったので、3が中点とするリスク評価は、2.46になったので、どちらかというと中点よりもやや安全の方に寄っている。
そういう意味では、ここでは「低線量放射線の危険がある」と「危険がない」の両方の情報を提示することによって態度変化があり、更に自分自身の持っているリスク認知に関しての確信度も、中点の3のところから、確信度がややない方に偏っているということで、人は両方の情報を読むことによって、リスク認知が極端な方から中間の方に動き、また自分のリスク認知に関する確信度も下がっている。それは興味深い結果であると、私は思っている。
【田中主査】 まだいろいろ質問させていただきたいが、時間が押しているので、後ほどの議論の中で改めて。
【田中主査】 それでは、次にインタビュー報告を行う。前職で国立感染症研究所のメディアブリーフィングに携われていて、現在は川崎市健康安全研究所の岡部所長、あと東日本大震災に官邸広報を担当されていた、現在慶應義塾大学の下村健一さん、特別招聘(しょうへい)教授の2名に事務局がインタビューを行った。それに関して斎藤課長から御報告いただきたい。
【斎藤課長】 (資料3-1~3-3に基づき、有識者インタビュー結果について説明。)
【田中主査】 それでは、残りの時間は、これまでの説明を参考に踏まえながら、親委員会、安全・安心科学技術及び社会連携委員会に報告するためのリスクコミュニケーションの推進方策の骨子案の検討に入りたいと思う。
本日の作業部会に向けて、各委員に各事務局で作成いただいた骨子案の主要項目に関しての意見ペーパーの作成をお願いし、またもう一つ、山口委員にはリスクコミュニケーション事例の整理分析をお願いした。事例分析は資料4に、骨子案の主要項目は資料5-1に、それで各委員の意見をまとめたものが資料の5-2にある。適宜机上資料の委員提出意見も御参照いただければと思うけれども、まず山口委員より資料4の説明を頂きたい。
【山口委員】 では、手短に行いたいと思う。前回の作業部会の終了後に、親委員会の堀井主査からちょっと呼出しを受けた。大木委員が指摘された内容に関連するが、リスクコミュニケーションを通じて、どういう世の中を目指すのか。その目的のところとか、そのために何をしなければいけないかということ。従来のリスクコミュニケーションの定義もあるけれども、今回の作業部会で対象とするような、少し新しいコミュニケーションというものを、イメージでよいので、5W1Hで表現しなさいというリクエストがあった。
そういった事例を数多く知っているというわけでもないので、私が業務なり調査の中から知っている範囲で思いつくものを挙げて、それを5W1Hという形で切ってみて、これまでと違うリスクコミュニケーションの新しい形といったものがあり得るかどうかといったところを少し整理した。
分野としては、表頭にあるように自然災害、それから社会リスクという意味で過疎問題。それから、今事務局からも御紹介いただいた感染症のメディアブリーフィングの件。それから、食品安全の食品の市販後調査というのは、これは生協の会員さんがネットで注文する際に、御家族の健康状態なんかを併せて報告して、それを奈良医大の今村先生のチームが見て、食中毒が起こっていないかどうかを分析しながらコミュニケーションをとっていくという、そういう先進的な研究をされているわけだけれども、そういったものを挙げた。それからもう一つ、公共交通事故というもので、この5分野を挙げている。
自然災害でいうと、参考事例として防災まちづくりを挙げさせていただいた。これは、例えば地域の中に防災まちづくりの推進体制、推進主体というものを見つけて、専門家がそこに関わっていく。その中で、地域住民と専門家が一緒に防災まち歩きをしたり、ワークショップをしたり、ロールプレイをしたりして、この地域はどこが危ないかね、何を直したらいいかねといったところを共に議論しながら進めていくというもの。地域の中にはいろいろなリスク認知を持つ人がいるけども、そういった人たち同士が渾然(こんぜん)としながらも、何とか地域社会を前に進めていく、そのためのコミュニケーションであるというところ。そういった一つの例として、防災まちづくりを挙げさせていただいた。
左から2番目の過疎問題も、それに近いもの。今回は鳥取大学を特出しして挙げさせていただいているけれども、この事例の特徴的な点は、例えば地震とか水害とか一つのテーマに限らない体制をとっていること。過疎から発生するいろいろな問題を、とりあえず大学に相談してくださいという間口の広さをとっていて、そのため大学内の体制も、それぞれの学部から先生たちがプロジェクトチームを構成しているところ。それからもう一つは、自治体から、常駐する職員が大学に出向しているということ。このあたりで、ふだんの何げない会話とか立ち話から、いろいろな地域の問題が先生方にインプットされて、じゃあちょっと研究をしてみようという機運が生まれる。研究を通じていろいろなコミュニケーションが始まって、実際にその社会をよくしていくための専門家の社会参画というものが、シームレスな形で実現するような、非常にうまい体制が組まれている。これはコミュニケーションの一つの体制の在り方だと思うけれども、そういうやり方をしているところもあるという事例である。
感染症のメディアブリーフィングの事例は、一つの模範解答だと思うけれども、今、事務局からも詳細に御説明があったので、説明は割愛させていただく。やはり核心の一つは、メディアと専門家との間で、まずは信頼関係を築こうとしたところ、ここがぶれなかったのが一番よかったのではないかと認識している。
それから食品安全。これは少し特殊な事例である。コミュニケーションの目的で、「早期察知及び原因食品の推定による被害拡大防止のためのコミュニケーション」と書いているけれども、今しゃべりながら、生協の会員さんが購買行動をする上で、自分の家族の健康はどうだろうか、こういった健康状態のときにこれを食べさせるのはどうだろうか、などといったことを、アンケートへの回答を通じて一々考えないといけないということで、そういったところを取り入れながら、無理なく行動変容を起こさせているのかなと、ここも一つ仕組みとしては面白い部分があるかなと思っている。
ただこれは、幸いに、まだ食中毒が実際に発生した事例を引っかけていないので、もしそういう有事があったときにどういったことになるかは、まだ実際には実証されていない。とはいえ、エンドユーザーとのリスクコミュニケーションに、事業者だけではなくて、中立的にアカデミアが日常的に関与していくといったところが非常に面白い。
公共交通事故は、これは取り上げようかどうしようか少し正直迷ったところだけれども、親委員会の方で福島の話が少しあったので、そのあたりも念頭に、挙げさせていただいた。例えば福知山線にしろ日航機の事故にしろ、被害者の方やその御遺族というのは、事故を起こした事業者と直接コミュニケーションをとらなければいけない。これが心理的に負担であるので、国交省が、数年前だったと思うけれども、コミュニケーションを媒介する窓口を設置しますという政策を打ち上げられた。
この中で国が行っているのは、情報の窓口機能ということで、関係者がこういう情報が出ないとか、事業者が出してないのではないかといったときに、直接事業者に言うのではなくて、一旦国に話して、そうすると国が一旦それを受けて事業者に要求するなり調整を行うといったことと、あと生活の回復をする上で、いろいろな制度が使えるとか、こういう専門家がいるとかといったことを、国が一旦要望として受けて、コーディネートして御関係者、御遺族の方々に戻すといったことで、コミュニケーションのバイパスといった役を国が受けているという、少し変わったコミュニケーションの形という例として挙げさせていただいた。
一つ一つ詳細に進め方とか内容とか御説明する時間がなかったけれども、今回、少し新しいリスクコミュニケーションの形というものをもし定義していくのであれば、御説明したような、地域に入り込む形であるとか、リスク認知を直すだけではなくバイアスを前提に社会を前に進めていくやり方とか、それらの実践が一つの参考になればと思い、五つの事例を挙げさせていただいた。
【田中主査】 それでは、この後は骨子案、その次の資料5-1の丸のついた項目ごとに時間を区切って御意見を頂きたい。これまでの西澤代表、楠見先生、そしてここに座っている皆さんの議論として、もちろん今の山口委員と斎藤課長から頂いたインタビューを踏まえた上でお話しいただきたいと思う。
山口委員の事例分析は、主要項目の一つ目のリスクコミュニケーションとはの部分と、その次の在り方という二つの項目に関係しているので、たった今御説明いただいた山口委員への質疑応答の部分と、この二つの項目、リスクコミュニケーションとはと、リスクコミュニケーションの在り方、この二つについての議論をまとめて行いたいと思う。皆様、質問、意見あるか。
【大木委員】 楠見先生に質問をしたかったのだが、よろしいか。ハザード・リスクという言葉が、最初西澤先生の方から出てきたけれども、地震防災をやっているので非常にそれが明瞭で、ハザードは地震で、リスクはそれにどう備えるかというところのコミュニケーションをやっていくが、リスクを認知して、防災意識を高めるというところまではできる方法が分かってきたが、それを本人の行動に結びつけるというのが非常に難しいということも分かってきた。多くの人は、ハザードのコミュニケーションを求める。地震の仕組みとかばかり聞きたいという。
それでそういうことを社会調査していたら、やはり仕組みだけでは全然認知が上がっていなくて。認知を上げるためには、それこそいろいろな研究を活用して、映像を使ったり個別例を使ったり。意識が高まるところまではできるようになったけれども、それを行動に結びつけるのはかなり難しいことが分かって。その点に関しては、何か先生の御研究からヒントとか、そういったものはあるのか。
【楠見教授】 人の態度を変えるのはまず難しくて、そして態度を変えることができても、更に行動を変えるのは難しいということは確かに言えると思う。特に地震のように必ず起こるかどうか分からないことに備えて、何かいろいろな準備をするとか、あるいはリスクを下げるような行動をすることに関していうと、これは非常に個人差があるのは確かだと思う。
一つ可能なこととしては、その行動に移すためのまずコスト。例えば、それは時間的なコストだったり経済的なコストだったり様々なコストがあると思うけれども、それを容易にやりやすくする、あるいは容易にできるようなことをまず明示して、それを実行してもらうようなことが一番大切なのではないかなと思う。つまり、行動に移すためのハードルを下げるということ。それをまず着実にやってもらうことが、最初のインプットとしては必要ではないかと。ただ、それはリスクを認知して、態度を変えている人がまず前提だと考える。
【大木委員】 それで気がついたのは、子供はそれができるということが分かって。大人にハードルをどう下げさせるかというと、子供を守りたいでしょうと持っていくと、大人もできるというので、結局だから、子供の方から入っていくしかないかなというのが、今の状況。
【楠見教授】 それは一つはあると思う。つまり、子供がそれを学校から持ち帰って、家庭内で話してもらって、「うちはやっている?」 とか、「お父さん、お母さんはどう思う?」 とか、そういうような形で聞いてみることによって、それを共有して、そして家の中でできることから実行していくのは、一つのいい方法だと思う。
【田中主査】 では、改めてリスクコミュニケーションとはという部分に入っていきたい。各委員のそれぞれの意見のまとめとして書いてあるけれども、共通している部分としては、先ほどの西澤代表のお話と若干すれ違ってしまう部分もあるけれども、画一的なリスク情報の共有や、意思決定、合意形成を目的とするものではないよねということは大体共通している。ただし、コンフリクトしない部分は、やはりある一方でリスクというものがアセスメントの成果としての基準というものがあると。そのリスクの部分は明確にできることに対して、コミュニケーションをどう考えるかということが一つあると思う。
あとは有事の際はクライシスコミュニケーション。この委員会の初期においては、ありとあらゆる世の中に存在する生存、あるいは人生に対するリスクが入っていたけれども、そういったこの中でも有事のクライシスコミュニケーション、シチュエーションにおいては、災害直後のような状況においてのクライシスというのは別に考えましょうということ。そういったものは平時のリスクコミュニケーションの上に成り立つものということ。
まさにそして今の大木さんの質問からもつながっているけれども、行動変容という目的を伴わないような、あるいはアリバイ作りとか合意調達を目的としたような情報提供や説得というものは、リスクコミュニケーションとして扱わないと割り切った方がいいだろうということ。今のことに関しては。いかがか。
【大木委員】 ということは、ここで話し合うリスクコミュニケーションとか、それに関する人材育成とかそういったことは、それができるかどうかは個人の資質によるけれども、でも、最大限行動までいけるようなものをなるべく目指すという認識……。
【田中主査】 先ほどの目的ということでいったら……。
【大木委員】 できるかどうかはともかく。
【田中主査】 それを含めてリスクコミュニケーションと定義をするのか。この作業部会として、いろいろな人たちがリスクコミュニケーションと言い出して混乱している部分があるので、そこの軟着陸するためも、こういった意見を踏まえて整理するというのが、現状である。
【大木委員】 リスクを伝達するとか、リスクという意味を理解してもらうというのよりも、もう一段上のものを、できるかどうかはともかくも目指すという認識で。
【田中主査】 で、入れていくか。事務局案として、最初にアンケートには、社会のステークホルダーの行動変容と、これによる問題解決を目的として、リスクに関する情報及び意味の共有を図ることというたたき台を頂いて、それらに対して、皆さんから御意見を頂いた形になっているかと思う。なので、行動変容を目的としてという点はあると思うけれども。
そこに対して例えば私は、問題解決という言葉を入れてしまうと、合意調達みたいな部分を勘違いする人が出てくるから、問題解決と書かない方がいいのではないかなと指摘している。
【平川主査代理】 そこは同じく。直接問題を外した方がいいとは書かなかったけれども、何か意思決定をすること、政策決定をすること、あるいは、いろいろな関係者の間で何らかの合意形成をするなど、何かディシジョンをすることというのは、リスクコミュニケーションの次のフェーズではあるけれども、またそこに向かってリスクコミュニケーションを役立てていくというのはあるけれども、直接リスクコミュニケーションの目的にそうした決定するというフェーズを入れてしまうと、やっぱり弊害があるだろうなと思う。
一つは、特に政策の場合だと、最後に決めるのはやはりフォーマルな代表である議会なり、ポリシーメーカーたちの仕事であり責任であるということ。そこの部分は、リスクコミュニケーションの外側にならざるを得ない。そこにはいろいろな妥協や、いろいろな政治的駆け引きや力関係が働いてこざるをえない場面なので、そこはやはりリスクコミュニケーションから外した方がいいだろう。
あともう一つは、リスクコミュニケーションをどう評価するかというときに、合意が形成できたとか、何か問題解決できたということを入れてしまうと、過剰な期待というか、過剰なハードルを課してしまうことになるのではないかということ。つまり、リスクコミュニケーションしたからといって、何か合意ができるとか、うまく問題解決できるというケースは実はかなりレアケースで、それを最初から評価基準の中に入れてしまうと、大部分のリスクコミュニケーションは失敗ということになってしまう。
そうすると、例えばリスクコミュニケーションした方がいいですよということをある場面で、ある文脈で、いろいろな関係者に対して説明あるいは説得しようというときに、うまく合意ができないのだったらやってもしようがないじゃないかみたいなことにもなりかねない。そうすると、本来リスクコミュニケーションの中でできているいろいろなこと、例えばそれには個人の行動変容というところまで射程に入れていいと思うけれども、その範囲の中でできるいろいろな豊かなことが、ごっそり流されてしまうという危険もあるので、そういう意味でも、政策的な意思決定にしろ、合意形成にしろ、問題解決にしろ、リスクコミュニケーションからは外して考えるというのは必要なのかなと。
でも、逆に、決定とは切れていますという話をしてしまうと、これは最初の西澤さんのお話の中にもあったけれども、じゃあ参加する意義があるのかという話になってしまうので、ここで意思決定するわけではないけれども、ここで議論されたこと、出された意見や情報は決定の際に考慮されますよ、逆に、決めない分だけいろいろと自由に意見をくださいということも強調すべきかなと。
【三上委員】 私もこの宿題を頂いたときに、そこが一番悩んだというか迷ったところである。それで結論から言うと、私は、そこはこの事務局案をむしろ支持する方向で、つまり、問題解決を目的だとまで言うとちょっと強過ぎるかなとは思いながらも、ただやはり何のために一体リスクコミュニケーションをするのかを考えたときに、さっき山口さんが示してくださったように、このWHYの部分、具体的行動の発現の部分が大事だと思った。発現するには、先ほど楠見先生のお話にもあったように、意思決定が事前にあるわけだし、解決策の設計というのは、まさにある種の社会としての意思決定であるはずだな。それから、ちょっと感染症は少し性格が違うと思うけれども、食品安全で言えば、被害拡大の防止のためにある種の意思決定がある。そうすると、やはりある種の意思決定をよりいいものにするためにリスクコミュニケーションがリスクコミュニケーションってあるのだろうと考えた。
ただ問題は、その表現の仕方。やはり「問題解決が目的だ」とまで言うのは、少し私は重たいと思って、私は少し逃げるような形かもしれないが、ここにあるように書いた。逃げて。ここで「意思決定」と言っているのは、必ずしも政府、自治体の意思決定だけとは考えてなくて、これは個人であっても、つまり大木さんがずっと指摘してくださっているような、避難するかどうかという意思決定をしてから避難するということもあるし、家族の意思決定、企業の意思決定もあるけれども、とにかく納得がいく意思決定をしたいと、我々はみんな思っている。正解はないということはもう分かっているわけだけれども、なるべく納得できる、なるべく後悔しない意思決定をしたいと、これはみんな思っているいて。それをキーワードで言うと、多分正統性ということになるのだと思うけれども、それを少しでも高めることを目的に置かないと、何でコミュニケーションしているのかが分からなくなってしまうので、ちょっと逃げつつも、私はやはりそれは入れておきたいと思う。
ちょっと今、自分の資料を読みながら言っているけれども、「それによって意思決定の正統性を高めるため」というのは、ちょっと強かったかもしれない。ただ、最終的にそういう意思決定の正統性、納得の度合いを高めることを目指しながら行う活動というぐらいのことは言いたいと、私は思う。
【田中主査】 その次の部分、在り方も含めながらの話で。この取りまとめ案の概略を御覧いただくとお分かりのように、ここはかなり分厚くはなってきているので、大筋で姿は見えてきていると思う。ただ、今までの話を含めても、レジテマシーをどう表現するのか。日本語でそのまますっきりくる、納得の度合いというのはまさにそうだと思うけれども、言葉を短くした中で定義付けるのは難しいのかなというのは、ちょっとお聞きしていて思ったけれども。でも、正統性ではある。
定義としては、もう1回もみ直すしかないか。ここで定義論を再開するわけにはいかないので。
【三上委員】 恐らく、ただ今この段階で、かなり論点は明確になってきていると思う。相当収れんしてきていると思う。だれの意思決定かという点で、特に今議題になっているのは、文部科学省の政策におけるリスクコミュニケーションをどうするのかという話なので、余り主体を広げて考えても、私はしようがないと思っている。科学技術政策なり、科学技術関連政策に関する意思決定にリスクがかかわってくるときに、そこの意思決定に関わるリスクコミュニケーションはどうするかということが、この議題だと思う。
そのときに、今はっきりしているのは、リスクコミュニケーションが必要になるということは、それは意思決定と何らか関わっていることは非常に明らかだと思うけれども、その関係をどう表現するかということ。実態としてどうなっているべきであって、それをどういう形で今、押さえておくことができるのかというのは、幾つかの多分理解の仕方が、まだ幅としてある。これは作業部会なので、明確に何か1個答えを出す必要は、私は必ずしも今の段階ではないのではないか。もちろん7月に答案を書くときには、ある程度一本化したいと思うけれども、そういう幅があるということを親委員会に報告して、更に議論していただくということで、私はいいのではないかなと思う。
【田中主査】 ほかに今の幅という点に関して、リスクコミュニケーションとリスクコミュニケーションの在り方に関して。今、落ちている幅とかそういったものに関して何かあるか。
【寿楽委員】 私もずっと悩んでいて、余りいい答えはないけれども、ただ、非常にこれは重層性みたいなものがあって、大木委員がずっと言われているように、個人のレベルで防災行動のようにプラクティカルに、どうリスクに対する対処をすべきか、してもらうのがいいのかみたいな次元と、あとは我々、特に科学技術社会論のバックグラウンドのある委員からは、正統性という話があり、更にこの三上委員の表の一番上にあるようなメタリスクコミュニケーションというのがある。ただ、我々はこれがメタだと思っているけれども、多分大木さんのところからすれば、これはメタメタぐらいで、我々が正統性うんぬんとか言っているところは既にメタなのだと思う。
このリスクコミュニケーションを推進する方策を考えるのだ、というときに、どのレイヤーまで含めて推進するのかということは、やっぱり、余り一気に決める必要はないのではないかとは言いつつも、はっきり考えないと、例えばそのための政策を考えたときに、全然ソリューションというか、何をやるべきだというタスクの質が違ってくると思う。それで、ちょっとそれは決められないのであれば、それをどこまでやるのかによって全然違うんだというような書き方にならざるを得ないのかもしれないけれども、ちょっとそこは結構思っているよりは、後で議論すればいいよね、とはいかないのではないかなという気がしながら、今、聞いていた。やっぱり何をするのがリスクコミュニケーションが進んだことになるのかということのイメージが、全然やっぱりまだ共有できていない。違っていていい、違って当然で、どれかがおかしいということでは全くないと思うけれども、この設定で求められていることが何なのかというのは、もう少し注意深く見ていくべきではないか。
【平川主査代理】 今の関係でいうと、さっき私は、リスクコミュニケーションと意思決定とは一応区別するということを強調したけれども、特に当事者同士の間の合意形成の場合だと、実は結構、概念的には両者を区別できても、実際の状況では余り区別できない。例えば、柏で消費者や生産者の人たちがみんなでできる安心の形ということで、いろいろとコミュニケーションをとりながら、そこでどういう方針で地産地消を進めていくかを決めたという例では、リスクコミュニケーションをしながら、その中で最終的な意思決定まで、ほとんどシームレスに連続してつながっていたと考えられる。
これをあえてリスクコミュニケーションと決定のフェーズというふうに概念的に整理することはできるけれども、実際にやっていることは全部一続きにつながっている。そういうふうに実際につながっているということと、概念的には区別した方がいいという話をどういうふうに整理するかというのは、少し課題なのかなと。
【三上委員】 恐らく今の寿楽さんのお話と、平川さんのお話を総合してというか伺って思ったのは、一つはもしかしたら入れてみた方がいいのは、非常に単純な軸、幼稚な図式だけれども、個人の意思決定と、社会全体の意思決定みたいなことである。
何でそれを思ったかというと、今平川さんが出してくださった千葉県柏市の例は、これはリスクコミュニケーションの形としては非常にコミュナルコミナルなというか、つまり、「これは公共性ではないんだ」と、やっている方もはっきりおっしゃっているそうで、この意味は非常に大きい。そのある種の一回性というか、その地域についたというか、その現場についた非常にコミュナルコミナルな合意形成なのだと思う。それで、個人が例えば避難をするのかどうかとか、この食品を食べるのかという、そういう意思決定にも当然これはリスクコミュニケーションが必要である。そういうものと、今、平川さんが導入してくださったコミュナルコミナルな意思決定にかかわるリスクコミュニケーションと、それから、もっと社会全体の意思決定を考えるリスクコミュニケーション、というような広がりがあるのかなと思っている。
やはりここは文部科学省の委員会だから、まずは考えるべきことは、文部科学省のいろいろな政策をお決めになるときに、どういうリスクコミュニケーションをしていくのかについて、何らかここで議論した結果が生かされることが必要なのだろうなという前提で、その在り方のことを私は考えてみた。もちろんそれがやがていろいろなところで、例えば個人の意思決定を充実させることに波及していくとか、それから、地域ではそういったコミュナルで自律的な意思決定を政府の政策が支援するという形になっていくのが理想だと思うけれども、まずやはり公共性のある政策決定をすることと、ここでやっているリスクコミュニケーションの関係を整理することが、私は大事なのかなというふうに思っている。
そういう意味で、現実的に照準にすべきなのは、国や自治体と書いたけれども、まずは文部科学省の政策ということで私は結構だと思うけれども、そのようにちょっと考えてみた。
【大木委員】 私が行動変容を伴うところに少しこだわったのは、サイエンスコミュニケーションとリスクコミュニケーションというものがあると思うけれども、ただワークショップをやって、みんなでわいわいこれは危険だとか、こういうふうに避難しようとか、多分やってみたら楽しい。防災マップを作ることもやってみたら楽しいのだけれども、やってみて楽しいだけで終わっていると、それはサイエンスコミュニケーションとしては多分成功だけれども、リスクコミュニケーションとしては全然成功じゃない。多分震災前は、サイエンスコミュニケーションとしての成功で、多分私は満足してきたと思うけれども、あるときこれは違うのだと。行動変容を伴わないと、死ぬと分かっている人たちがまさに死んでいくのだと思った。防災は特殊な事例かもしれないけれども。
かといって、隣組制度みたいにこういうふうに逃げることにしましょうとか、そうしなければ駄目ですみたいなことはおかしい、それを持ち込むのは。だから、よりよい社会になるために自分が何をできるか、そういうような丸い表現なのかなと。この目的について、問題解決というのがちょっと強過ぎる表現なのではないかというのを。もし自分がまた防災ワークショップを開くときに、どういう表現を使うかなと考えたのだけれども、やっぱり社会全体がよくなる。そして、自分自身の命ももちろん助かる、暮らしがよくなるときに、自分が何をできるかという、そういうことなのかなと思った。
【平川主査代理】 そのところでちょっと考えると、さっき三上さんが、この場では文部科学省の科学技術関連の政策を決めるのに伴うリスクコミュニケーションということを言われたけれども、また親委員会の考えている射程がどうなのかということとも多分関係すると思うけれども、もう少し広くすると、今、大木さんが言ったような、防災や減災の取組などは、もちろん国の政策等とも関係するけれども、地元の現場での意思決定なり、あるいはいろいろな行動変容とか行動とか主体的な取組をどう促していくかというところまで含まれる。必ずしも政策決定に伴うというだけではなく、もうちょっと幅広いものまで入れないといけないのかなと。
【三上委員】 同感。恐らく余り狭く限定してしまうと、ここで議論してきたことのせっかくの意味を多分減じてしまうので。そういう幅を、持たせるべきだと思う。ただ、やはりある種の中核にくるのはそういった、まあ、文部科学省のと限定してしまうのは狭過ぎるかもしれないけれども、やはり科学技術をめぐるリスクが絡む意思決定、政策決定に関するリスクコミュニケーションというのはわりと幹になるのではないかなと思っている。
【田中主査】 次のところへいきたいのだけれども、人材育成の在り方、資料5-2の2ページ目の上から3分の2ぐらいのところ。
今までの議論、現実には個人の意思決定、社会の意思決定という議論とも重なる部分だとは思うけれども、それを実際にどう具体化するのか。多分そこが文部科学省の話としては、人材育成の部分はコアになると思うけれども、そこに関しての御意見は何かあるか。
【三上委員】 ちょっと各論からになってしまうけれども、先ほど御紹介いただいた下村さんのお話には、本当に貴重な指摘がたくさん詰まっていると思うけれども、その最後の人材育成のところで、トレーナーの育成が必要ということを言われていて、これが私自身は余りそういうことを自分の答案には書けなかった。でも、すごく大事なことを言われているのではないかなと思った。
結局、多分こういう政策を一つ何かやられたときに、そこで養成できる人の数は相当限られていると思うので、その人が持つ波及効果を生むような、その人がリーダーになってその地域なり職場なりでリスクコミュニケーションやリスクの考え方の普及啓発をしていけるような人というのは、すごく大事かなと思った。
それは実は岡部先生のお話にも通じるのかなと思っている。例えば、これは非常に具体的な場面が浮かんできて、このインタビューのまとめも本当に分かりやすいけれども、例えば若手にやらせることで、若手をそこで育てていくというお話があって、これは多分トレーナーをされているのだと思う。まさにそういう方が、いろいろな職場とか自治体とか地域にいて、そういうリスクに対する対処の身振りを広げていくことが、ここで目指していることに近づいていくのかなと思うので、その意味でもこのトレーナーの育成という要素を、是非追加したいと思った。
【平川主査代理】 恐らくそれとある意味並行して、重なっているのが、やはり下村さんのお話の中で、支援者を支援する。要は国が直接個々の被災者や当事者の人にサービスや支援を提供するのはすごく難しいので、そういう現場に一番近いところで働く人をうまく後方支援していくような、そういう発想は、実際の実践を考える上で重要。そういう担い手を育てる人たちをどう育てるかということ、さっき三上さんがおっしゃったような、どのようにトレーナーを育成するのか。いずれにしても、うまく普及の仕組みを作っていくときに、この発想は結構大事なのかなと思う。
あと、こちらの岡部さんのお話の中でも結構共通する大事なポイントとしては、これはまさに岡部さん自身がそうだけれども、専門家自身がコミュニケーションをやっていくという関わりのところ、この重要性がすごく表れているのかなと思った。その中でも例えばWHOの話で、事務職ではなく医学や公衆衛生の専門家がチームを組んでやっているという話。しばしばこの手の話だと、そういう専門職とは独立にコミュニケーターみたいな人を育てるという職種として考えがちであるけれども、これはこちらのまとめの中でも強調させていただいたけれども、職業、あるいは職種ではなく職能として、既存の専門職のアドオンするときに、いつも追加すべき職能として、例えばこういうコミュニケーションのスキルなり経験なりを積んでもらうというのは、一つ人材育成の中で大事なポイントかなと思う。そういうことをちょっと専門家コミュニティの一般の中にも、いろいろと理解していただくことが大事なポイントではないかと思う。
【田中主査】 今の話の流れで、軸としてははっきりしてきていのではないか。これまでの成功例を見ても、国立天文台など、幾つかの成功例というのは、ある種の専門家が職能としての部分というものを、これまではほとんどOJTによって身につけてきた。感染研もそうである。それによってリスクコミュニケーションに成功した事例というのがあるわけだから、それもOJTでやってきた部分を、例えばある種のトレーナーが担うことで付加することによって、例えばそれぞれのエキスパータリズムを持った上でのリスクコミュニケーション主体という形になると。当初、リスク研究学会さんの方でやられているリスクマネジメントの専門家とか、そういったリスクコミュニケーターというのもあったのでそれとは毛色が異なるかもしれないが……。
【平川主査代理】 ただリスク研究学会でやったのは、実際に企業や行政の実務の人が入っていたので、やはり職能としてである。
【田中主査】 ええ、多分本来の必要意識としてここに持ち込まれてきた、学術の意味での「専門家」のリスクコミュニケーターの人たちは、余り生まれていないということは村山先生から御報告いただいたが、そこのところをどう追加していくのかが分かると、多分トレーナーというのも大きな視点なのだろう。
【大木委員】 まさに、例えば私が3万人ぐらいいないと達成されないというのでは駄目なので、今、気象庁とか東京消防庁とか学校の先生とかに私は技術移転をしている。それはまさにトレーナーを養成している段階なのだが、そのときに私が気づいたのは、トレーナーの方々は、ハザードコミュニケーションに憧れて、それを目指していること。
なので、それではないのだということを、やはりスキルを教えるとかよりも、まずそれではないのだということを、トレーナーに伝えたい。トレーナーから習う個々人は知らなくてもいいかもしれないけれども。例えば、東京消防庁の方は、実際に災害の現場に行ってものすごいものを見ているわけで。それを話す方がよっぽど伝わるのに、プレートのどうのこうのを教えてくださいというふうに、研修に呼ばれるとそうなる。だから、トレーナーにどういうことを教えるかの中の一つとして、こういうバックグラウンド、リスクのコミュニケーションというのがこうこうこういう意味で必要なんですよということも併せて職能の部分以外に伝えたらいいのではないかなと。
そのぐらいのガイドブックだったら簡単に、あらゆるものに共通してできるのではないかなと。もうあるのかもしれないけれども。そういうふうに思った。
【田中主査】 きっと難しい。それこそ思考の歯車をちょっと一つシフトチェンジしないといけない。ハザードコミュニケーションしたがってしまうというのは、すごく納得がいく説明であるので。
【三上委員】 論点が少し別のところにいってしまうけれども、人材育成の中の3番目のポイント。特に学校を中心とした教育の中での強化であるが、今日の楠見先生のお話と、それから事務局の方から紹介していただいたお二人のインタビュー結果を続けて伺って得たインスピレーションというか思ったことである。
恐らく岡部先生のポイントと私が思ったのは、「一線を画する」というのが一つキーワードなのかなと思った。それはメディアの方との関係もそうだし、それから、あと非常に印象的だったのが、ストーリーに対する監修は自分たちがしないと。ある幅を示すのだと。これはストーリーというのは、要するに、映画のストーリーと言っているけれども、私がこれを聞いて思ったのは、ニュースのストーリーに対しても多分そうなのだろうなと思った。そういう一線の画し方が、私は岡部先生の今日のキーワードではないかなと思った。
一方で下村さんの方は、やはりこれは本当に熟練の放送記者の方が、こういうコミュニケーションの場面に出会ったことで発見されたことはいろいろあるのだなと思った思って。非常に限られた時間で、その場面に合った言葉をどう発するかということをずっと職業の中で追求されてきた方の発言なんだと思った。
なぜこれらを今取り上げたかというと、ここで問題にしているリスクとかリスクコミュニケーションの教育の求めている素養の幅の広さを感じたからである。これは単に、狭い意味での理科についての理解ということじゃなくて、恐らく岡部先生の言われていることは、学校の教科でいったら、倫理の教育に近い。コンダクト、行いというのをどういうふうに律して、そこに一貫性を持たせるかということの理解だから、これは多分倫理教育に直接は当たる話だろうし、下村さんのお話は、私は国語だなと思った。非常に限られた時間で、どうそこに的確な日本語を見つけて表現していくかという国語表現の問題かと。
何が言いたいかというと、つまりこれは前回の会議で、公民科の先生と地学の先生の協働のすばらしいプログラムを見せていただいたけれども、やっぱりリスク教育をやっていくのであれば、本当に総合的に、今までリスクということと直接関係なかったと思われるような国語であったり倫理であったり、そういうところに本当にリスクコミュニケーションの考え方を生かせるようなプログラムを、これから作っていかなければいけないと思う。そういう幅の広さが大事だなという、そういうインスピレーションを受けた。
【田中主査】 楠見先生、いかがか。人材育成ということに関して、教育の方で。
【楠見教授】 今、三上先生からお話が出たように、日本の学校教育は教科割りになっていて、教科を超えた形でリスクを取り上げるのは、次の大事なステップだと思う。すべての教科が関わってくると。そして、市民リテラシー、つまり、市民が身につけておくべきリテラシーとして、リスクに対するリテラシーを持っているというのは非常に重要なことだと思う。
そして、学校教育だけでは、既に学校を卒業してしまっている人たちに伝えるというのは難しいから、学校を卒業した人たちに対してどう伝えていくのかということは、もう一方で大事な問題だと思う。
さっきも出てきたけれども、学校の先生だったり、あるいは役場に勤めている人たちだったり、様々な形で私たち専門家と、そして市民をつなぐ役割の人たちをまずリスクを伝えるコミュニケーターとして育成していくということは、一つのステップではないかと思う。先ほど出てきた、職能として、それぞれの専門家育成の中で、やはりリスクコミュニケーターとして活躍することができる、あるいは科学コミュニケーションもそうだが、そうしたスキルや知識を身につけることができるプログラムを、専門家育成のそれぞれのプログラムの中に作っていくということは、次にやるべきステップだと思う。
【山口委員】 話を戻してしまうけれども、やはりちょっと今のお話を聞いていて、分野という横の幅と、あと縦の幅がある、政策から本当にエンドユーザーに至るまで。その分布の中で、それぞれのところでどういう社会を目指すのかというのがあって、そのためにアカデミックな立場なり専門性なりというのが社会にどう関わっていくのかを少し明確にしてから、ではどういうコミュニケーションか、というふうに議論した方がよい。ただ、そのための素材やキーワードは、多分ここにいっぱい上がっていると思う。1回その整理が必要なのかなと。
私の出したペーパーが、どちらかというとかなりエンドユーザー側に寄っていたところが少しあったと思うので、そこの部分の反省もありながら、1回その整理は、もしかして必要かもしれないと。
その上で、それが文科省、事務局のお考えなり、親委員会のお考えなりとちゃんと整合しているかどうかの確認も、もしかしたら必要かもしれないと少し思った。
【田中主査】 最後にもう一度全体として御意見を頂くけれども、一応こなさなければならない項目もあり、最後の新規施策・プログラムの提案に移りたいのだけれども、こちらに関していかがか。今のお話からつなげていくことが可能だと思うけれども、教育の仕組みといったこと、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の事例では、前回出たかなり理想的なやり方があり、それをどう普及し得るのかということだが、あるいは教訓というものの蓄積と共有化というのが一つある。リスク表現の蓄積などもあると思うし、あるいはリスクコミュニケーションの成功事例で得たものもあると思う。いかがか。
【大木委員】 SSHの件については、多分SSHでなくてもできる。私、教科書の編集委員を一つやっているけれども、最後の巻末とかのコーナーに、火山に関係する人を全部書いた。フォトグラファーもいれば登山者もいる、火山学者もいる、それから、林業の人もいるし、温泉の人もいると。それぞれが火山でいいと思っているということと、実は困っていることを、例えば専門家だったら、噴火レベルとか何も知らないまま山に入ってくること自体が困るとか、林業の人は、こういうのが困るとか、それぞれを要はディベートのように適当に分けて、それで議論させて合意形成みたいなもの。これはだから、巻末に防災のことを書いてくださいと言われて、防災のふりをして私はそういうことをさせたいなと思った。先生の方に豊富なアンチョコを用意してあげれば、実際林業の人は何を求めているか、何が困っているかというのを、先生は適宜言ってあげられるはず。「でも林業の人はこういうふうにお金をもうけているんだからこうだよね」というように。結局それは却下されたけれども、これは別に多分SSHじゃなくても、そういうのが好きな先生というのが必ずいるはずで、そうしたら巻末のを取り上げようとなってできると思う。
だから、そういうのがSSHでやってもらうというのは、事例を積み上げていく上でいいことかもしれないけれども、SSHに限らなくても、何かそういうハンドブックみたいなもの。多分火山をイカに変えれば、イカの密猟の人とかいろいろできるわけで。そういうものは気軽に用意とかできるのではないかなと思う。
【平川主査代理】 特に先ほども、これは理科に特化しない、もっと社会科とか総合的な横断的にできる話だし、またそうしなければいけない問題だということを考えると、SSHという枠は狭過ぎる。それから、本当にいろいろな学校でできる形というのを……。
【大木委員】 必ずそういう議論が好きな先生はいると思う。小学校のレベルから中学校のレベル、高校のレベル。
【斎藤課長】 SSHの仕組みを少し御紹介すると、まさにSSHだけで閉じてしまっては、先ほどのインタビューでも、大変もったいないと。そもそもプログラム趣旨が、文部科学省の中では異例だけれども、我々の科学技術・学術政策局の科学技術の人材育成という視点と、それから、初等中等教育局の教育課程のカリキュラムの開発がタイアップしてやっている。つまり、これは学校全体の授業で、将来的には一種の研究開発校として実施して、ここで開発された優れたコンテンツや指導内容を、可能ならば全国で使えるような形で、学習指導要領に盛り込んでいくというのが理想。しかも高校の学習指導要領というのは非常に柔軟、ある意味でいうと何でもありで、項目だけ書いてあれば、あとは解説書なり素材、教材を提供すれば、いろいろなバリエーションが組めるということで自由度も高いので、まさしく委員がおっしゃったように、SSHを出発点にしながら、それを全国に展開すればいいということになる。
ただ問題は、それを教える教員にはやはり限りがあって、確かに好きな先生はいるのだけれども、例えば学芸大附属のように公民と地学の先生ががっちり組んで、それぞれがそれなりの、それこそ公民の先生は科学リテラシーを持ち、地学の先生は社会リテラシーを持って組めるかというと、なかなかそういう先生は実際にはいない。そうなると、各学校を回るリスクコミュニケーターがスクールカウンセラーのように関わるのか、あるいは学会で資格のようなものを作って、それも語れるような先生が、できれば各校に一人いるといいよねという形にするのか、それは教科を問わずという形にするのか、そのあたりはやはり考えていかないといけない。単純にSSHでいいものができたから、じゃあ皆でやろうねということで指導書を作ればできるかというと、これはなかなか難しい。
【田中主査】 その点では、慶應の吉川先生などが作られて、関わられていらっしゃるクロスロードのような、ゲーム理論などに近くなってくる、公共的な意思決定のようなリスクの部分と、あとは個人の意思決定。だから、そういう教育現場のゲームというものに対する抵抗感は強いけれども、ただ、もう大分欧米の方を見ていても、相当数のリスクを学ぶためのゲームみたいなものは開発と普及が進んでいるので、それは割合普及しやすい形として真面目に考慮する時期に、そろそろきているのかなという気はする。
【大木委員】 私はSSH、あのプログラムはすばらしいと思ったけれども、あれの最大の教訓は、先生の方が答え1個に出せないのだということを伝えなければいけないということ。つまり、学校では、先生は絶対答えを、とにかく決まった答えを教え込むということをずっとやっているわけである。だから、あの最大の教訓は、実はあれを先生がやることで、ものすごい自分の中で超えにくいハードルを先生が超えるというのが、私は一番意味があると思っている。
だから、そのような形で、例えば誰かがそれでいいんだよと言ってあげられるような人がコミュニケーターとして入れば、それでいいのかといって、先生たちは真面目なので進んでいくと思う。だから、そのような形で、やや高地トレーニング的だけれども、学校でそういうのをやる。それにサポートする人がいて、先生が授業をしながらも、自分自身がトレーナーとして養成されていくみたいな、そういう仕組みがあるのはいいかもしれない。
【平川主査代理】 あとは多分、高大連携の仕組みをうまく使って、その地域の大学の教員と、地元の高校の先生たちの間でやっていくというのがいい。もちろん高大だけじゃなくて、中大もあるけれども。
例えば、私のいる大阪大学でも、文学部の歴史学の先生たちが、歴史教育で高校の先生たちと毎年セミナーを開くなど、いろいろな取組をやる中で、高校での歴史教育の改革を長年やっている。それはいろいろな科目でもできる話だと思う。
【寿楽委員】 やはりさっき大木さんが言われたことは極めて重要で、答えが一つではなくていいんだということを学校教育の中で教えるというのは、大変画期的だと思う。それは本当に画期的なこと、つまり、そうではないものが学校教育であるという強力な共通了解みたいなものが、教える方も教わる方にも、それ以外の社会一般にもある可能性がある。
例えば、先ほど主査からゲームがすごく学校は嫌いだというお話もあったけれども、そういうこともあるし、私が聞いた話では、例えば金融のことを、公民というと、日本の公民の教育は非常に政治に偏っていて経済が弱いとよく言われるけれども、とりわけ金融のところが非常に弱い。これを実際にシミュレーションの中で、株の取引をさせて経済の仕組みをダイナミックに学びながら、しかも当然これはリスクの考え方が身につくわけだけれども、そういうことをやろうとすると、子供にギャンブルを教えるんじゃないと、保護者の方から非常に強い抗議があって、ほかの先生からも眉をひそめられるという事例を聞いたことがある。
そういうことがあって、非常に今、戯画的に御紹介したけれども、やっぱり大木さんがここに繰り返し書かれているように、グレーがあるんだとか、あるいはリスクという構えで危険に対しては社会が向き合うのだということは、既存のいろいろな社会的な価値とか倫理観とかと、さっき最初に西澤さんが言われたのでいうと、社会土壌なものとコンフリクトを起こすことも非常にあって。それを乗り越えることの方が、プラクティカルにどこにどういうふうにお金をつけるかよりもずっと大事なことだと、私は思う。そこを乗り越えられないと、個別具体に幾らいいものがあっても、それが水平展開するとか、社会が変わっていくというふうにはならないのであって。
そのことについては、例えばこれを政府の政策としてやるのであれば、政府の覚悟があるのかどうかということを非常に、余り偉そうなことを言っては恐縮だが、こういう場に呼ばれる学者としては言わざるを得ないところがあって。文部科学省でそういうふうな価値を今後継続的にちゃんとコミットして、そういうことは教えてもいいんだ、あるいは教えるべきなのだということで、中期的、長期的な強力なコミットのもとに政策を打っていただけるのであれば効果があると思うが、そうでなければ、何をやっても結局、個別具体にこういういい例もありました、まではいくかもしれないけれども、その先にはなかなかいけない。
ましてそこに、ある特定の解にたどり着くことがリスクを理解すること、リテラシーが身につくことであり、あるいはコミュニケーションが達成されたのだというような雰囲気がちょっとでも出ると、これは私が繰り返していることだけれども、全部台無しになるから、すごくやっぱりそういう覚悟というか、私は「ポリシーを作れ」ということを書かせていただいたけれども、やはりどこかではっきり理念の部分を打ち出すということも、またプラクティカルにどういうやり方でどこのお金をつけるのかというのと同じくらい、あるいはそれ以上に重要なことだと思うというのが一つある。
それともう一つは、それと裏返しのことだけれども、どういう方向にいくにしても、汎用的に重要であろうというのはここに書いたが、こういうのをやるときには、ロジスティクスがすごく大変で、そこにお金も加えるので、そういうことを共通のプラットフォームとして提供してくれるような機関と、そこに実際にリソースがあること、これが大変重要。例えば、JSTのことを少し書いたけれども、そういうものを公的な機関で作って、そういうのをやろうと思うと、手弁当ですべて持ち出しになるか、その範囲でやれることしかできないか、逆に大がかりにやろうとすると、毎回外注をせざるを得ないという現状がある。それでは、大きなお金が毎回、出ていってしまう。そうではないようなサステイナブルなやり方というのも、本気でやるのであれば、それも同時に考えないといけないといけない。両面だけれども、それを最後に申し上げておく。
【斎藤課長】 文科省の覚悟というお話があったが、特に学校段階で考えざるを得ないことも、文科省全体といったら、幼稚園から大学、あるいは社会人まであるわけだが、やはりここで議論しているリスクなり幅のある情報提供、更に答えが一つに決まらないというのは、基本的には単純化すると、高校から大学ぐらい。やはり小中というのは、先生がそもそも小学校は何でも教えるし、一つ答えの決まるところから始まって、だんだん高度化していく。中学になると専門教科が入るけれども。そこは中高連携で、少しいろいろな答えの一つに決まらない世界もあるよということを連携で見せながら、最終的には高校段階でそういった幅のある情報提供、意思決定に関わるトレーニングをしていくと。それに活躍されるような教員をいかに育てるか。そのトレーナーという視点は、やはりSSHだけでは無理だし、JSTが支えるというのも限界がある。
そうなると、平川委員がおっしゃった、高大連携の仕組みというのは非常に有効。各大学、各地域には、少なくとも国立大学はあって、教育系の機関は必ずあるから、そこが例えば仕掛けとしては、教員免許の更新講習もあるので、そこでこういうリスコミ的なものが入って、それをちゃんと認証を受けたリスクマネージャーがかかわる仕組みにすれば、ある程度は具体化できると思う。あとはそれをどう広げるかで、そこでリソースが必要なら、コンテンツの開発、共有、活用のためのリソースを投入することはあり得るかと思う。そのための素材を、SSHのような先進的なところでどんどん作っていくというところから。それだと、教育課程を変えるという話も、多分高校から入ればいろいろなことができるし、小中を変えろといったらこれは大変で、中教審まで出てきちゃうので大変なのだけれども。
高校についてもう一つ申し上げると、今、金融工学といったものはギャンブルだという御指摘があったが、実はこれは真面目に正規のカリキュラムとしてやっている商業高校という高校があって、ここは私も担当していたが、今は簿記とか会計とか帳簿ではもう食えないので、いわゆる国際商取引とか知的財産のようなものをコアカリキュラム、コアスキルにして教育をやっている。例えば、世界的な市場が同時に動いている中で、どういう取引をしたらどういうことが起こるかというシミュレーションを実際やっている。そういう教育は、すべての普通高校でやるのは無理だが、例えば商業高校と普通高校が連携することによって、専門的な教育ができる先生も商業高校にはいるし、商業高校は必ずすべての県にあるので、そういうところも使う余地はあるのかなと。教育の方から考えると、そういういろいろなことができるのは、やはり高校だと思っている。
【平川主査代理】 さっき寿楽さんがおっしゃった中で、理念的な話でいくと、よく指摘されることで、いわゆるPISA型の知性というか、要は単に答えが一つに定まらないで、もっと考えなきゃいけないような不確実性とか、あるいは、科学でできること、できないことをちゃんと区別して答えるとかという、その手のタイプの知性をちゃんと育てていくという教育というのは、今後、教育界だけでなく、経済界からも結構求められてくる話なのかなと思うが、そのあたりは教育行政を司(つかさど)る文科省としては今後どんな感じなのか。
【斎藤課長】 今、教育再生実行本部で真剣に議論しているところ。学校段階の壁は、もう少し今より柔軟なものにしようというのは確実に出てきているし、その中で、いわゆるイノベーション人材を育てるというのは、方向としてはある。ただ、単に新しい技術を使って経済成長を目指すだけではなくて、それに伴う影の部分、あるいはリスクをきちんと念頭に置いてというのも、やはりこれからやっていかなければならないと思う。
【大木委員】 いろいろな学校がそれに参画してよかったと思えるというのは、多分生徒たちが変わっていく姿が一番先生はうれしいとは思うけれども、何かミシュランの星みたいに、そういったものがあったら、今まで踊っていなかった人も踊りだすと思う。それをいい星の基準を作らなければいけなくて、それは多分、学術の方の責任でやらなければいけないと思う、いい星を作るというのを。
だから、そういう研究が、例えば私は防災に関して、学校がすごい努力をしても地震が起こらないと評価されないとか。でも、防犯もよくなったとか、少しずつはあるけれども、でもそれをもっと客観的に地域の人が見て、ああ、越境させてここに行かせようと思えるような、ここの学校は星三つみたいなことを認定されれば、なるほど、防災に関してはこうだとかわかる、何かいい星の基準を、私が責任を持って作らなければいけないのではないかなと、今自分で薄々思っている。そういうアカデミアの人間がコミュニケーターにどうこうするというよりも、そのトレーナーを作るというのと、もう1個は、やっぱりそういう指標みたいなものを作る研究が必要なんじゃないかなというのが、今少し思っている。
【三上委員】 今の大木さんのお話に賛成という話。というのは、さっき寿楽さんが言われたことというのは、そういう理念というのは書き込まれるけれども、往々にして建前みたいな感じになって終わってしまうことが、日本の社会土壌の中ではよくある。大阪大学の神里達博さんが、「そうはいっても」というセリフを自分は封印したとおっしゃっているのを思い出した。「。ここに理念を書いたけれども、そうはいってもまあ、これはお題目ですから……」でというのをやめにしましょうという話だと思う。ただ、やめにしましょうといっても、それこそお題目にしかならないので、それを多分何かどこかつなぐものが必要かなと思う。
それで今、大木さんが言ってくださったことが一つヒントになるかなと思ったのは、今、かなり具体的な教育プログラムのピースみたいなものは出てきているけれども、それと先ほど寿楽さんが言われたそういう理念というのをつなぐものとして、やはりどういう人材を育てたいのかという、その人材の育成の目標や、評価の部分で。そこにリスクというものを理解して、それに向き合うような行動を身につけた人材を、やはり多分織り込んでいく必要がどこかである。あって、それは差し当たりは高校教育、大学教育になると思うけれども、そこの理念と現実の既成事実というか、そういうものの間をつなぐようなヒントがあるのかなと思ったので、発言させていただいた。
【田中主査】 まさに足りない部分としてのいい例をもう少しアプローチするというのがつながってくると思うし、また最後の、どちらかというと教育の話にいったが、インフォーマルな部分の、つまりもう社会に出てしまった教育機会が少ない、メディアに接触することが多い人たちに対してどうするのかということを、寿楽さんが提案いただいたとおり、多分そこは一番ある種の捨て扶持(ぶち)をもらう集団がいて、社会のリスクの問題のネタを起こしてもらう集団というものは、多分これからの社会コストとして必要。それをどこか、科学コミュニケーションセンターを寿楽さんは例として挙げられていたけれども、多分迷惑がられてでも、そういったリスクでこういう問題があるよと常にアラートを出していく存在というものが、もう一つは教育現場の一方で、実社会の中でも必要だという、多分それがもう一つの柱になるのではないかと思う。
貴重な御意見を頂き、ありがとうございました。本日頂いた意見については事務局で整理していただくけれども、6月14日に開催される親委員会の報告については、私の方、主査預かりとさせていただくが、よろしいか。
(委員了承)
【田中主査】 ありがとうございます。
<議題2.その他>
【田中主査】 それでは、最後に議論のまとめ方について、事務局の方から説明いただきだきたい。
【関専門職】 (資料6に基づき、今後の日程等について説明)。
【田中主査】 それでは、以上で第3回リスクコミュニケーションの推進方策に関する検討作業部会を終了する。
科学技術・学術政策局人材政策課