安全・安心科学技術及び社会連携委員会(第2回) 議事録

1.日時

平成25年6月14日(金曜日)16時00分~18時15分

2.場所

文部科学省15階 科学技術・学術政策局会議室1

3.議題

  1. リスクコミュニケーションの推進方策について(作業部会からの報告・骨子案の検討)
  2. その他

4.出席者

委員

堀井 秀之 主査、小林 傳司 主査代理、内田 由紀子 委員、片田 敏孝 委員、河本 志朗 委員、篠村 知子 委員、田中 幹人 委員、奈良 由美子 委員、原田 豊 委員、藤垣 裕子 委員、三上 直之 委員、山口 健太郎 委員

文部科学省

土屋 定之 科学技術・学術政策局長
伊藤 宗太郎 科学技術・学術政策局次長
斎藤 尚樹 科学技術・学術政策局基盤政策課長
木村 賢二 科学技術・学術政策局科学技術・学術戦略官
関 加奈子 科学技術・学術政策局科学技術・学術戦略官付専門職

5.議事録

<開会>
【堀井主査】  開会。本日は、定数12名に対して12名全員出席である。まずは、文部科学省の人事異動があったので、その報告をお願いする。
【木村戦略官】  6月5日付の人事異動の報告。
【伊藤次長】  伊藤科学技術・学術政策局次長より挨拶。
【堀井主査】  本日は、リスクコミュニケーションの推進方策について、作業部会からの報告を踏まえ御議論をいただく。
【関専門職】  配布資料の確認。

<議題1.リスクコミュニケーションの推進方策について>
【堀井主査】  それでは、議事に入る。まず、作業部会の主査である田中委員より、作業部会の検討状況の報告をお願いする。
【田中委員】  資料1に基づき、作業部会のこれまでの議論について説明。
 
【堀井主査】  続いて事務局から資料2の作業部会配布資料についての説明をお願いする。
【斎藤課長】  資料2と参考資料5に基づき、作業部会の議論の参考とした資料について説明。
【堀井主査】  この委員会から3名の委員に作業部会に分属していただいているので、補足をお願いしたい。まず、資料1の別添表を作成された山口委員にお願いする。
【山口委員】  資料1の別添表として、リスクコミュニケーションの五つの事例を説明。
【三上委員】  今、もうお二方のお話で大体尽きていると思うけれども、私も作業部会の議論に参加させていただいて、感想というか、特にポイントかなと思った点が二、三あるので、補足、コメントさせていただく。
 まず、田中さんからの御報告で、一番最初にリスクコミュニケーションとはという話があって、リスクの捉え方が、確かにバラツキがあるという話があった。それは全くそのとおりだと思うし、ただ、それと同時に、議論をしていく中で、なぜ今、リスクなりリスクコミュニケーションという議論をしなければいけないのかという方向性は非常にはっきり見えたのではないかという印象を持った。それは様々なタイプのリスクが、今、現代社会において問題になっているわけだが、ここでリスクなりリスクコミュニケーションが問題になるのは、それはリスクという言葉で一般に表現される災難や危害そのものが問題なのではなくて、それをどう把握して、それに対してどう対処するかというスタイルというのか、その様式こそが、ある種リスクの正体であること。例えば確率的に物事を捉えると、どれぐらい確率的に捉えるのかということ自体が、一つ議論になるわけだけれども、そういう危害とか災難に対する把握の仕方、対処の仕方に、今いろいろな理由があって、この社会の中で、ここ数十年間で大きな変化が起きていて、その捉え方、要するにある種の危害を運命であるという捉え方や、それから、絶対安全だといって、ある種のシステムで完全に制御できるという捉え方ではなくて、もう少し違う捉え方で捉えようということが、どうもリスクという捉え方の正体らしいということ。そのようになってきている状態について、社会としてどういうふうに向き合っていくのかということが、多分、ここでリスクという問題を議論している意味なのだろうという印象を私は持った。特に私自身が、社会学がバックグラウンドであることもあるかもしれないけれども、そういう印象を非常に強く持った。そこは一つの共通した方向性ではないかと思う。
 二つ目に、その上で、ではいかなる意味でのリスクコミュニケーションなのか、なぜ、リスクコミュニケーションなのかといったときに、これはなぜリスクコミュニケーションが問題になるかというと、そこである種の意思決定がかかわってくるわけである。もちろん個人レベルでの意思決定ということもあるし、コミュニティの意思決定ということもあるし、もう少し広く、企業や政府の意思決定ということもあると思うけれども、その意思決定の何らか質を上げるとか、納得性を高めるとか、そういうことのために、私個人の印象としては、リスクコミュニケーションは行われるべきなのだと思うけれども、これは作業部会の報告なので、ぜひこちらで先生方に御議論いただきたいという話に作業部会でなった。それは、様々な個人レベルのものもそうであるし、もう少し社会的な意思決定、政策決定みたいなものも含めて、それの納得の度合い、もう少し堅苦しい言葉で言えば正統性、そういったレジテマシーを高めることが、今、リスクコミュニケーションと呼ばなければいけない大きなバックグラウンドであることは間違いないけれども、議論していて、我々が少しわからなくなったというか、どう表現していいものかと思ったのは、その意思決定や政策決定ということとリスクコミュニケーションの距離感なり、つながり方というのをどれぐらい強く見ておけばいいのかということ。我々6人の間でも議論をしたけれどもなかなか難しい問題で、そういうこともある程度先ほどの田中さんの御報告の中で表現をしたけれども、そこは一つポイントで、先生方と議論をしたいと作業部会の中で思っていたことである。
 そのときに一つポイントになるのではないかとキーワードとして挙がっていたことが、田中さんの御報告の中でも挙げられていたけれども、非対称性というか、対称性を確保しなければいけないというお話。あらゆるところでリスクコミュニケーションがうまくいっていない要因に、情報であったり、それから権限と責任であったり、そういったものの非対称性があって、こういうものの中に、いかに対称性のコミュニケーションや対称性の場を回復していくのかが鍵だということも、繰り返し議論されていたことを確認しておきたい。
 最後に、実は、これは今、田中さんの御報告を聞きながら改めて思ったことであるが、作業部会のメンバーが、私も含めて6人中5人が大学関係者で、それで、このようなものをどう進めるかという場合、例えば私自身が関心を持って取り組んできた課題でいうと、科学技術の非常に微妙な問題、政策決定などにかかわる微妙な問題、エネルギーの問題や食の安全の問題などの問題について、まともなリスクコミュニケーションを行うようなプロセスを組み立てる、田中さんの御報告では独立した組織・機関が必要だという話で言われていたけれども、そのような組織・機関を日本の社会の中にどのようにつくっていくかということが私の問題意識としてあるけれども、それはなかなか、今そういう社会機運が十分ないということで、当面、大学が適切というようにまとめた。
 ただ、実際、議論の中ではそこまですっきりはまとめられていなくて、なかなかそういう社会機運が高まっていないので、大学もその一翼を担いながら、そういうものをつくっていく必要があるというぐらいの答案を書いたけれども、おそらく、かかわったメンバーの多くが大学関係者だということがあって、人材育成の主体としても、大学が一定の役割を担うべきだということも言っているし、それから、今のリスクコミュニケーションの組織者としても大学が役割を担うべきだと言っていて、かなり大学の役割を強調しているようなところがあるかもしれないけれども、おそらく、本来はもっとそういうところと、学協会であるとか、NPOだとか、社会のさまざまなアクターが協働して、このリスクというものに対処していくということにならなきゃいけないと思うので、もちろん大学の役割も大きいと思うけれども、社会の中の多様なアクターがどういうふうにかかわっていくべきなのか、もう少し議論を広げていただくというか、さらに次の作業に向けて、いろいろ御示唆をいただければというふうに思った。
【堀井主査】  それでは、ただいまの説明について、御質問等をお願いしたい。後ほどまとまった意見交換の時間があるので、ここでは事実関係の確認の質問をお願いしたいと思う。
 よろしいようなので、それでは、残りの時間はリスクコミュニケーションの推進方策についての意見交換とする。次回の委員会で中間まとめを取りまとめることを見据えて、作業部会の報告についての意見や、今後深めるべき論点について、自由に御意見をいただきたい。
【片田委員】  大変難しいなと、改めてリスクコミュニケーションという言葉を、自分自身、きちんと理解できていたのだろうかと、そんなことを思いながらお話を伺っていたけれども、僕はずっと津波防災ということで、確定的に来る津波は、あとはいつ来るかという話だけであって、地域の方々がそれをわかっているにもかかわらず逃げやしないという状況を、それをどう改善するのかということで現場を走り回ってきた。その中で思っている実感で、この議論の中にどう当てはまるのかなと思うのは、リスク認知がうまくできていない、そして、リスクをどう受容しているのかという問題と、生きる上での幸福論みたいなこととのかかわりみたいなもの。
 逃げない人をどう逃げるようにするのかという議論をするときに、こんな話をした。一つエピソードをお話しさせていただくと、まず、人は自分の死を意識できないという問題があって、私は、地域の方々に自分の母親のことを紹介した。私の母親は昭和3年生まれの85歳で、岐阜の山の中にひとり暮らししている。年金が余ったから貯金を積むと言ったので、思わず言いかけた言葉が「何のために」と。でも、私の母親は、来年の今ごろも、5年後の今ごろも、10年後の今ごろも生きているつもりであって、みずから迫りくる死というものを明確に意識していないから、きょうを心穏やかに幸せに生きているわけである。それでいいと思うわけである。
 あらゆる人が必ず100%の可能性で死を迎えるわけだが、我々はそれに正しく向かい合っているのか、また、向かい合うことが幸せなのか。これを考えるときに、例えば病院へ行って、「片田さん、残念ですけどあと1年です」と言われたらショックである。あと3年、あと5年、あと10年と延ばしていったら、僕は今53歳なのだが、「片田さん、残念ですけどあと50年です」と言われたらハッピーか。仮にハッピーだとするならば、1年だとアンハッピーで、50年だと幸せでと、こうやっていたら、どこで幸せと不幸せの境が来るのだろうか。30年と考えて、83歳、男性の平均余命ぐらいでまあハッピーかなと思うけれど、果たしてそうなのだろうか。次の誕生日であと29年になる。次で28年、7年、6年とカウントダウンされると、やめてくれと言いたくなる。そうすると、100%訪れることがわかっているにもかかわらず、我々は、それをあえて見ないことによって、きょうの心穏やかな生活を得ている。
 それは僕の母親が85歳にして年金が余ったから貯金を積むといった、何気ない会話の中に、僕はお袋の命を客観視しているから、女性85歳で、ぼちぼち、苦労をかけたお袋だから長生きしてほしいと思って、「貯金なんて言わなくていいから、隣のおばあちゃんとお芝居でも行っておいでよと、お小遣いぐらい僕がやるよ」と言いたいけれども、うちのお袋にすれば大きなお世話である。全くみずからの死というものを意識していない母親を、きょうを心穏やかに生きている母親を、僕は温かく見守るべきだと思うし、死を明確に意識させるべきではないとも思うわけである。僕自身が、例えば今の余命宣告を受けた場合のことを考えても、あえて曖昧にし、だからきょうを心穏やかに生きているという、この生きざまというものは否定されるべきなのだろうか。
 そう考えたときに、釜石で津波の浸水域の非常に危ないところに家を新築している人がいた。思わずそこに行って、ここは間もなく津波が来るのに、どうしてそんなところに建てるのかと言いたくなる。でも、大きなお世話である。でも、確定的に来る、海溝型の津波だから、それがもう間もなくだと言われている状況にして家を建てている人がいる。そして、実際にあの3月11日の午前中に銀行へ行って、判子をついて、権利書だけをもらってきた人がいる。午後には家がなかった。残ったのは借金だけという、このような状況。現実、こういうことが起きたけれども、じゃあ、僕がその人のところへ行って、どうしてそんな馬鹿げたことをするのだと言っても、多分、聞き入れられなかっただろう。
 こう考えるときに、今のお話を聞いていて、死という問題、リスク認知できているかと、確かに知識ベースでできているということと、積極的にそれに向かい合うという意味で認知できているか、認知に深さがあるのかどうかわからないけれども、それを受容している、幸福感とのかかわりの中で、これはどう扱われているのだろうかと、今の議論の中にあったのかなと。何か見当たらないような気もしているけれども、その辺、どうなのかという点がまず1点。
 それからもう1点は、資料1の中で、僕は今現実問題として大学から迫られていて大変困っている問題がある。人材育成のあり方である。僕は今、大学の中に広域首都圏防災研究センターを立ち上げたけれども、そのときに、大学学長直属の組織でつくるのか、学部につくるのか、学科の中につくるのかといったときに、僕は積極的に、学科の中につくらせてくれといった。教授会の面倒くさい手続は要らない、学長からもぐちゃぐちゃ言われないので。要は、学科の中で思う存分、自分の一人の動きでできるから、広域首都圏防災研究センター、実は群馬大学大学院何とか専攻の中の末端の組織である。単なる研究会にすぎないみたいな組織であるが、そのときに条件を出したのは、お金は要らない、人も要らない、口も要らない、思うようにやらせてくれということでつくった。
 ところが、ここのところの動きの中でいろいろ派手になっているものだから、大学から、しっかり大学の組織として位置づけたいといわれている。概算要求だ、何だかんだでいろいろ言ってくるわけである。僕は、面倒くさい、要らないと言っている。そのときの議論の中で、君のやっている活動で人材育成をして、教育プログラムとして立ち上げて、大学院のカリキュラム化をして、そこで君のような人材を全国にどんどん育成していくというプログラムを立ててくれと言われる。できるはずなかろうにと思うわけである。
 災害情報学会という学会のシンポジウムの中で、ちょっとイラッとしたのだけれども、災害情報学会、まさしく防災の専門家で、これだけの現実的な津波想定が突きつけられた中でどうするのかという、3.11以降の議論のシンポジウムの中で、片田が100人いたらいいという。冗談じゃないと思うわけである。その防災の研究者たちが、100人、これだけ議論をして、現場に手を入れて人々が逃げるような形に変えなければいけないという議論ばかりしていて、ところが、誰も現場に行って、そのコミュニケーションをやっていない。それで次に出てくる言葉は君が100人いればいいと。自分たちはどう考えているのだと、こんなところでくだらない議論をしているのだったら現場に行けよと思う。このままだったら、あの3.11以降にみんなで総ざんげしたように、間もなく首都直下型や、南海トラフが動くと言われている。今、起こったら、またもう一回総ざんげするのだよと。こんなことをやっている暇があったら現場に行けと、僕はシンポジウムで言っているのだけれども。
 そのときに、人材育成との絡みの中で話すならば、リスクコミュニケーションに必要な資質を整理して、それは学習プロセスとして獲得できるものなのかということ。僕は、これまでも大学院の学生を何人も指導してきたし、学位も何人にも取らせた。でも、彼らができるとは思えない。私が、例えばプレゼンテーションをしているパワーポイントをそっくり渡して、さあ、やってみろといって横で見ていると、全く同じシナリオで同じように話をしているのだけれども、全然できていない。そうなると、それは学習によって獲得できるものなのだろうかと思う。加えて、僕は教育プログラムをつくれといっている大学に回答しなければいけない。それで、そのような人材をはけるようなプログラムをつくれと僕は大学に迫られているのだけれども、非常に困っている。できるはずなかろうにと思いながら、このような状況にあるので、先生方に質問したいことは、学習によって獲得できるのか、教育プログラムによって練成できるものなのかどうか。この2点を思った。
【堀井主査】  では1点目から、いかがか。
【片田委員】  幸福論とのかかわりみたいな話。
【田中委員】  作業部会の議論の中で出たかということに関しては、幸福論という形ではそれほどは出ていない。ただ、逆にそこが、ある意味では前提にされた議論にはなっていたかなと思う。つまり、リスクについて考えたくない人を無理やり引き込むという、いわゆる無関心層の引き込みという部分は、そこに強制性を持たせようという議論は特になかった。むしろ、先ほどワークコミュニケーションのほうをベースにした話でいくと、違うタイプの、リスクよりも、リスクそのものではないところの価値観を持っている人たちに対して、その人たちはどの程度意識して、どの程度そこの議論に入ってきてもらうのかといった形では行われていた。
【片田委員】  でも、津波防災はそれでいったら、関心がないとか何とかいったら、そのまま死ぬわけである。でも、防災という実務があって、国民の命を守るという至上命題がある。関心がない人はほっとけばいいという議論にはならなくて、そうすると、そこが前提になっているというのが、そこに手を入れてぐちゅぐちゅやらないと何の解決にもならない問題に僕らは直面している。
【田中委員】  一つは、それはそういった種類の議論で、多分、いつもは教育に行くことになる、やはり。一つは、選択の機会を経て、強制的にそれを思考する機会がまず前提として提供されることが必要だという話になると、教育課程の中で、それを一回考える機会があることは、一つ重要なポイントになるのではないかと。まさに先生はその辺、取り組まれているのではないかと思うけれども。
【片田委員】  私はそういう状況の中でどうコミュニケーションしているかというと、今みたいな例を話して、こうやって我々は死に向かい合えないのだよと。これが人間だと。みんな死ぬのだと。でも、めでたいことに、誕生日のたびにおめでとう、おめでとうと言うと。明らかに1年縮んだという話なのに、毎回毎回おめでとうと言って、最後の直前までおめでとうと言って、僕らはめでたい、だけどそれが幸せなのだと。
 でも、そうなると、まずおのれを知ること、死に向かい合えない自分を知ることがすごく重要になってくるのだと。だけど、寿命が尽きる問題は避けようがないから置いておこうと。最後までおめでとうと言いながら死んでいこうじゃないかと。でも、津波は違うのだと。そこに向かい合えれば難を逃れることができる。だから、敵を知るよりもおのれを知ろうと。敵というのが津波。津波研究者は、次の津波はこれだといって、あたかもわかっているかのごとく言うけれども、あんなのうそだと。次の津波がどんな津波なのかはわからない。だけど、もっと知らなきゃいけないのは、そこに向かい合えない、今の死の例を出しながら、自分を知れと。自分を知れ、だから、そこを律するのだと。だから敵を知るよりも、おのれを知ることが防災なのだと、こういう教育をする。そうすると、向かい合い始める。こういう誘導をしている。
【小林主査代理】  少し質問してよいか。すごくおもしろい、大事な論点だと思う。多分、レメント・モリという議論と同じ構造になっている。だから、宗教がおのれと向かい合えという言い方とほとんど同じだが、「死を忘るるなかれ」というのは宗教の言葉。今、何のために貯金するのかという形で、向き合っていない、そこにある幸福を認めるべきだというニュアンスを片田さんの発言から感じるわけである。しかし、同時に、向き合いなさい、そうすれば変わりますよというふうにおっしゃっているようにも聞こえる。
 そこで、宗教がそのような形で向き合いなさいよという形で語りかけるものを、確率論と技術によって語るのが近代科学。だから、向き合うべきだとおっしゃるのか、それとも、場合によっては向き合わなくてもいいという選択も含んだ上での、何かお考えなのか、どちらか。
【片田委員】  僕は、命の問題は避けようがないから、だから向かい合わなくてよろしいと考える。僕のお袋が最後の最後までたくさん貯金してくれることはお互いのためだから、それはともかくとして、冗談だけれども、そうやって死を意識せず、きょうを心穏やかに生きている母親の生きざまを否定すべきではないと。命の問題は無視していいと。不確定であって、認知しないことが幸せであるならば、それでいい。
 だけど、それこそ津波のような外的要因によって、認知すれば避けることができるものについては、認知すべきである。でも、認知できない自分に気づきなさいと。自分の死が認知できないように。だから、そこはおのれを知れと言っているわけである。認知できない構造を自分が持っているということを、そして、みずからを律することによって、津波の難は逃れることができるのだということを教育する。それは、認知しろといっているわけである。
【小林主査代理】  認知しろと言っているわけだが、そうすると、いろんなものを認知しろという議論になる。つまり、普通だったら認知してなくて機嫌よく暮らしているときに、あなた、これは認知できるのだ、これもできるのだ、これもできるのだというふうに科学技術がどんどんと教えてくれる。そして、それは認知すべきなのだと。
【片田委員】  それはまた幸福論との境が出てくるわけである。例えば、今、津波想定がばかみたいなでかい津波想定が出ていて、今、僕の仕事の大半はその尻ぬぐいに回っているみたいなことをやっている。どこもかしこも、避難放棄者が出て、逃げることをやめてしまうという状況の中で、僕は、専門家が、今、国の津波に対する方針が、L2想定という、あり得ることの一番でかいのを示すという想定が出ているものだから、ばかみたいな津波想定が出ていて、数分以内に34メートルとかいう津波が来て、もうどうにもならないと。
 それに対して僕は、3.11クラスであるならば、これは1,000年確率だよと。1,000年確率というのはあり得るのかといえばあり得ると答える。でも、隕石に当たって死ぬ可能性があるかと言われればあり得ると言う。だけど、僕は鉄のヘルメットはかぶらない。この1,000年というのは、多分認知できないから、10分の1、100分の1で考えてみようと。100分の1で考えたって、一生の間に1回ということ、もしくは、世代で考えると4世代、25歳で一世代が終わると考えると。自分、お父さん、おじいちゃん、ひいおじいちゃん。ひいおじいちゃんの時代にあったらしいよというレベルが100年で、その10倍で1,000年だよと。
 実際、これは尾鷲のおじいちゃんと会話したことがあるのだけど、80歳のおじいちゃんが僕に、これまでは孫に迎えに来てもらっていたけれど、もう来なくていいと言ったと。じいちゃん幾つと聞いたら、80歳といったから、じいちゃん、心配するなと。じいちゃんは津波で死なない、普通のお迎えが先に来るから心配するなと言ったら、うれしそうにおじいちゃんはニコリと笑うわけである。このように、あたかも想定をばーんとぶつけられてあり得るのかと言われればあり得るとなって、じゃあ、これまでは孫に迎えに来てもらっていたけど、ちょっとやめておくわみたいな、このようなコミュニケーションになってしまう。でもそれが、あなたのリスク認知は間違っているよと、対応が間違っているよということを、今みたいに解きほぐして伝える中で、次の津波は1,000年に1回のものになるかもしれないのだけれども、でも可能性は小さくて、今までどおりの対応を一生懸命やればいいよという、それだけを言うために、あちこち、国の大きな想定に対して現場が混乱している状況を解説して回っているようなところがある。
 だから、リスクに備えるべきだと言いながらも、今のは津波だけの話なので、もう海辺は嫌だから内陸へ入るとすると、土砂災害の危険を計算したらもっと高いかもしれない。自然は嫌だといって都会の真ん中へ行ったらぶすっとやられるかもしれないと。どこへ行ったってリスクはあるのだと。それを全部意識しながら生きていくことが幸せなのかということになってくると、これまた話は別だと思う。
 だた、津波のように、確定的で、最低限、100年に1回は必ず来ると。そこに対して備えていないという状況が続いていって被害にあうものだから、そこに対しては、海辺であるならば、揺れたときぐらい逃げることが、その地に住むお作法だよという物言いをしている。そういうことをやっているけれども、今の場合は、津波だけに限定して、だけど、その津波のリスクはうんと高いものだから、突出して高いものだから、それを積極的に対処しなさいということは迫っていくけれども、でも、それを考えたら、客観的にはもっといろいろなリスクがあって、どこまでこれをやっていけばいいのかというのが、正直、よくわからないなと思いながらやっているところがある。お答えになっていないような気もするが。
【堀井主査】  多分、片田先生の方針というのは、大体多くの人が共有できる方針だと思う。とりあえず、人の命を救う防災という、そういう方針で、明らかに津波が来ることがわかっていて、こうすれば人の命が救えるというときに、その人の命を救うという方向で、それが幸せかどうかということについては、引き続き部会に検討していただくことにして、二つ目の論点に移りたい。二つ目の論点、学習で獲得できるのかというところ。
【田中委員】  個人的な意見で、皆さん実践の場で教育に携わっている方が多いので、それぞれの御意見も伺いたいけれども、個人的には、片田先生はどうやって獲得したのかというと、経験によって獲得されたということだと思う。片田先生のある種の対話のスキルなども含めて。とすると、タイプによってはバーターになる部分があって、つまり、講義型のものではなかなか伝わりにくい。けれども、ある種のものによっては伝えやすいというものはあると、私は個人的な部分では思っている。
 例えば、私が特に問題とするマスメディアと専門家の間のインタラクションの部分で言うと、一番効率的なのは役割交換をすること。例えば、一番効率的に、確実に学習できるのは、物理学者をジャーナルの新聞記者とかに放り込んで、生物学者の取材をさせること。そうすると、いかに専門家がわかりにくい言葉を使うのか、見下してくるのかを痛感するわけである。そうすると、その物理学者は、次から極めて説明が上手な、しかも協力的で、先々にどう情報が伝わっていくのかがわかるような、インターン、あっという間に変化するということが知られている。それはつまり、経験によってあっという間に逆の立場を学習するということ。もちろん、2週間とか1か月とかインターンをやるわけなので、それを全員にやるわけにはいかないし、そもそも、第一線の研究者を一々ジャーナリズムの中に放り込んで、身分を隠して新聞記者として活動させるのかといったら、うまくいかない。
 それらのリアルな経験をどう伝えるのかというと、例えばもしプログラムの中に組み込んで、先生のところでやられるならば、一つはインターンかもしれない。現地滞在型の調査をさせるとか、そういったものが実習に入るとかはあるかと思うが、学習プログラムによって不可能かと言われたら、多分、できる部分はあるのではないかというのが、実際、私自身が大学院でジャーナリスト養成するというプログラムに8年間かかわってきて感じていることで、うまくやれば気づく、うまく設計したものの中では、それなりには経験を詰めるとは思っている。私の個人的な回答としては、そう思う。
【堀井主査】  ほかの委員の方、いかがか。
【小林主査代理】  私の経験というか、確かに今までのような問いの立て方をすると、そんなに簡単に生産できるわけがなかろうと答えたくなる。それは、例えばファシリテーターの育成ではどうかと。そうすると、プログラムの履修証をもらって、そしてファシリテーターですといっているけれども、全然使い物にならないファシリテーターはごろごろいるじゃないかという話はすぐわかる。
 でも、どうしてそのコミュニケーターやファシリテーターに関してだけ人材育成プログラムの限界が指摘されるのかは不思議で、例えば有能な物理学者がつくれるかというときに、同じことが実は起こっている。立派な大学の物理学科を出て学位を持っているけれども大したことないとか、あるいは有能な官僚がつくれるかとか、官僚の試験をきちんと通っているけれども全員が有能かといったら、それは全員有能なのでしょうけれども、というふうに、人材育成という枠組みで何を期待するかという問題。
 そうすると、多分、私は発生確率を上げることで十分というか、教育はそれしかできないのであって、その中で、とりわけこの人材育成プログラムという枠組みで議論すると、何かものすごく発生確率を上げろというプレッシャーがかかっている感じがする。それは無理なのであってというふうに私は思っているが、どうか。
【片田委員】  今の話はわかりやすい。なるほどという感じがする。
【堀井主査】  ほかにはいかがか。
【原田委員】  1点、前回にも出たお話かと思うけれども、教育プログラムで、それが教えて身につくかということと、それから、そこで言った人たち、キャリアパスとしてどういうふうに習ったことが生きていくのかというのは、世の中の仕組みとしてかなり違うところがあるのではないかと思う。前回、片田先生もおっしゃったと思うけれども、現場でズボンの尻を汚して歩き回っている人が、なかなか学会的な面で、論文の数が少ないという形で評価されないというお話をいろんなところでいろんな方に聞く。実は日本だけではなくて、私、おととしのアメリカ犯罪学会大会に行った際、アメリカは犯罪大国でもあり、犯罪学の大国でもあるので、参加者が三千人ぐらいいる非常に大きな学会なのだが、その中で、研究と実践をつなぐという特別プログラムが、四つぐらいのジャンルをそれぞれに分けて、それで1日の中でストレートに、同じ大きな会場で次から次に繰り返してやるような特別セッションがあって大変印象的だった。そこの中でも、同じような、今の、例えば大学のシステムとか、あるいは科学研究費のつけ方のシステムのようなものと、地元に長期にわたって張りついて、現場の実践に正面から向き合うような人材が、どれだけ居場所があるか、どういうふうなキャリアパスが持てるかということで、大きなジレンマがあることが指摘されていた。
 印象的だったのは、大学にせよ研究ファンドにせよ、何か新しいことを立ち上げるためにはお金がつくが、立ち上がったものを続けていくためにお金を取るのはすごく難しいという話が出ていたこと。洋の東西を問わず、とても共通するところがある。そういうのは、さきほどの幸福論の話とは少し違う、世の中の仕組み的な問題として、正面から議論をして、何かの仕組みとして問題提起する余地があるのではないかと思った
【堀井主査】  キャリアパス、評価、そのほかのシステム、それはぜひ検討しなければいけない重要なポイントだと思う。
 それでは、片田先生から挙げていただいた二つの論点以外で、何か御意見あればお願いしたい。
【奈良委員】  まず、短い期間の間でこれだけすばらしいものをまとめてくださったことに、本当に感謝申し上げたい。
 二つあるけれども、一つは、きょうの中間報告で、私がなるほどなと改めて思ったのが、リスクコミュニケーションの失敗事例で、非対称性が存在しているということの指摘。これは、私もこれまでいろいろなリスクに関連する現場で、自分が経験したことなどを思い浮かべてみても、確かにそうだったなと納得をしている。それと関連して、したがって、市民だけでなくて政策決定者も行動変容をしっかり起こすのだということがリスクコミュニケーションの前提だということを言ってくださったのが、私は今回、すごくよかったなと思っている。しかも、多分、重要なことは、市民がそのことを知っていること。このテーブルにつけば、会場に行けば、そして、自分たちの思いを伝えれば政策決定者側が行動を変えてくれるのだということを市民があらかじめ知っていることが必要で、やっぱり、市民にそれをどうわかってもらうかということも含めた、多分、それこそリスクコミュニケーション、これはほとんど信頼の問題になると思うが、こういうことも考える必要があるのだろうなと思った。これが一つ目。
 二つ目は、きょうまとめていただいた中で、これは本当にそうだなと改めて思ったのが、リスクのフェーズに沿ってリスクコミュニケーションを整理してくださっていて、きょうの資料で言えば、資料1の1ページ目の下のほうの表で、OECDの議論に基づいてまとめてくださったものだが、これを見て、とてもきれいに整理されていてありがたいなと思っている。やっぱり、有事のときのリスクコミュニケーションは、なおさら、クライシスコミュニケーションになれば、平時からいかにリスクコミュニケーションがされていることが大事か、平時からのリスクコミュニケーションが前提ということがよくわかった。
 そうすると、さらにもう少し前の平常時のことを考えれば、リスクコミュニケーションの前提は、やっぱり科学コミュニケーションかなと思う。これは第1回目の安全・安心科学技術及び社会連携委員会で、田中委員が出してくださった図にあったと思うが、リスクコミュニケーションの前に科学コミュニケーションがある、この委員会の中ではまさにそこも含めて考える必要があって、平時からのリスクコミュニケーションは、平時からの科学コミュニケーションあってのものという認識をしっかり持って、リスクコミュニケーション限定の取組というものは、多分、形骸化していくような気もする。なので、科学コミュニケーションとセットで、抱き合わせでうまく平常時に定着化するような仕組みというものを考える必要があるのかなということを思った。
【堀井主査】  何か関連して御発言あるか。
【山口委員】  では、形骸化させないような取組ということで、少し事例として私が念頭に置いているのが、別表の中にある鳥取大学さんの取組である。これは、継続的にその自治体さんとの交流の中で問題をつくるところからやる。なので、常にその地域の中で起こっている、何となく問題だなというのを科学者の方から能動的に入っていって、問題を定式化して提示してあげる。そこが官庁の方々や先生方にとっては少し負担になる部分もあるかもしれないけれども、そこで報告書などのペーパーを生産するなりして、うまく継続的にやっていると。ただ、これも自治体さんのほうも人を出したりするところでコストの面でも負担になるところもあるので、全国的にできるかというと、なかなかできないかもしれないけれども、一回こういう仕組みが定着してしまうと、わりとうまく回ってくるような部分もあるので、一つ参考になる先行事例かなというふうに考えている。
【小林主査代理】  それに関連してよろしいか。今、鳥取大学の例を御紹介いただいたけれども、こういうリスクがあるのではないかという発議をするチャンネルというもの、常に専門家側からこれがリスクではないかと思っているよという形で議論してあげるだけではなくて、社会の側から、消費者や市民の側からこういうリスクはないのでしょうかと発議があったときに、それに対して答える、そういう仕組みもこれからおそらく必要になるだろうとよく言われる。
 実際に、既に食品安全委員会はそれをやっている。つまり、BSEの事件が起こってから設立されたのが食品安全委員会で、それをつくるときの検証委員会がつくったペーパーの中で、消費者をリスクコミュニケーションの単なる対象ではなくてパートナーとして扱えと、そして、消費者団体や市民からの発議に対しても答えるという姿勢を持つべきだという提言があって、現在、ではどうなっているかというと、食品安全委員会の場合には、リスク管理機関である厚生労働省や農林水産省からのリスク評価依頼に対してリスク評価をする、返すという仕事に加えて、いろいろな形のチャンネルで入ってくるものを年度の最初か末に集約して、翌年度に「自ら評価」という名前のもとで、ボトムアップで上がってきたものに対して、どのテーマに関してリスク評価するかを決めるという、回路を回している。
 だから、リスクの形骸化ということに直接結びつくかどうかは微妙だが、少なくとも信頼などを考えたときに、常にリスクに関しては、専門家の側から提示して専門家の側から答えを出してくるのだよというチャンネルだけではないということ自体が、やはり大事な要素ではないかと思う。
【三上委員】  今、小林先生が言われたことの意味は、少し作業部会でも議論したけれども、おそらくリスクコミュニケーションにかけられるリソースに限りがあるので、何を本格的なリスクコミュニケーションの対象にするかということ自体がリスクマターである。その意思決定自体が非常に多大なリスクを負っていて、ある意味ではリスクの様式の中に入って政策コミュニケーションをして、意思決定をしていくことの必然的な、つまり、何がリスクマターになるのかについてアンテナを張っていくというのは、ある種リスクの様式の中で意思決定していくときの、多分必然的な流れの一つだと思う。
 今、奈良先生のお話を伺って、作業部会での議論したことも思い出したけれども、やはり平時からのコミュニケーションが非常に大事だということは、つまり、先ほど片田先生がおっしゃっていたお話というのがある。つまり、この問題をリスクの枠組みでとらえるのか、それとも違う次元でとらえるのかというようなことを、クライシスの場面でその議論を多分やるわけにはいかなくて、クライシスの場面では逃げなさいとか、こうしなさいということしか言えないけれども、でも、あらゆること、危害がリスクという形で表現されて、それに対応せざるを得ないという状況になってきている中で意思決定を迫られているのだということの理解の共有というか、そういうことを多分平生からやっていく必要があるような、そういう体制に入ってきているのだと思う。
 私どもの大学の取組で、半分研究プロジェクトで半分実践のような取組で、例えばBSEの問題や遺伝子組換え作物などの食の安全にかかわるリスクのコミュニケーションの場をつくるということをやってきているけれども、やはりそういうコミュニケーションをすると、最初にそこに集まってこられた市民の方というのは、必ずしも事態をリスクの様式ではとらえていなくて、これは必ずある方法をとれば、絶対安全になるやり方があるに違いないという様式で理解している。それを、ある部分ではリスクという形で理解をする。例えば最近やった議論だと、BSE検査が全頭必要なのかという議論を、市民の方に集まっていただいて討論会をやった。そうすると、最初はゼロトレランス的な認識で対策が必要だと言われる方が非常に多いけれども、もちろんずっと議論していった後でもそういう認識の方も一定数いるが、ただ、議論をしていく中で、これをある種リスクの問題として引き受けて、どう政策決定していくかを考える方も一定増えていったりする認識の変化もある。これはどっちが正しい、どっちが間違っているということではないと思うけれども、そういうリスクという様式でいろいろな危害や災難を受けとめる形があって、それが社会のいろいろなところに広がってきているという認識を平生からつくっていく仕掛けはやっぱり必要なのだろうと考えている。
【奈良委員】  今の三上先生と小林先生の御発言に関連するが、今日の資料の1で、リスクコミュニケーション作業部会の目標として、1から5を挙げてくださっていて、エンドユーザーの行動変容から被害の回復と未来に向けた、1から5の中の2で、私、最初にこの資料を拝見したときにあれと思ったのが、ぱっと読んだ瞬間に、2がさも、何というか、主体が専門家だけのように読めてしまった。田中先生の口頭の御説明を受けて、そうでもないのかなというのはわかったが、なおさら、小林先生、三上先生の今の御発言を受けて思ったのは、やっぱり専門家とのやりとりを通じて、より住民や生活者のような人たちも自分で潜在性のリスクに気がついていく。そして、その気づきが当事者性を持たせて、リスクコミュニケーションのコストをある程度和らげて形骸化を防ぐので信頼も培っていくところにつながるのであれば、2の書きぶりとして、少し住民とか生活者があっても。
【田中委員】  少し言葉が足りなかったかどうか、念頭に置いているのは、人文社会科学というところにそこは含まれていて、つまり、漠然とした不安というものをそのままではリスクがあると表明ができないサバルタンと言っていいのか、集団というものがあったときに、例えば言語化して、こういう不安を持っている人たちがいるとまとめ上げるのは、例えば社会学の得意とする分野だと思うので、それを念頭に置いた記述になっていて、まるで市民の声は聞かないというイメージになっているが、そうではなくて、何かもやもやとした不安感を形づけるところをサポートするようなイメージであるという意味で、人文社会学も含むという言い方をしたが、ここは指摘を受けて検討の必要があると考えている。
【堀井主査】  警鐘を鳴らすと書いてあるけれども、そうだと何か、専門家が警鐘を鳴らすみたいなイメージになるが、それだけではないと。
【田中委員】  先ほどの小林先生の提案も含めての、どういう道筋をつくるか、不安を形づくって共有するための道筋をつくるかということも含めて。
【三上委員】  今の点を補足したい。おそらくいろいろなことが、もしかすると前提にされてしまっているというか、議論の中でこういったことは前提なのかなという上で議論もして報告してしまっているところがあるのかなと思っている。例えば2番目のことで言うと、今、田中さんも少し触れられたことだけれども、ここで言っている調査とか研究というのは、一方的に研究者が議題を設定して地域からデータをとってくるような調査や研究ではなくて、例えばコミュニティーベーストリサーチだとか、参加型調査だとか、そういった類いの研究で、そういったモデルを前提に議論していたのかなということを今、御指摘をいただいて思ったので、そういうこともきちんとわかるように表現していく必要があるかなと思った。
【内田委員】  私の専門は文化比較の視点から心を考える文化心理学であるため、特にリスクコミュニケーションを日本という文脈の中でどう構築するのかが大事なのではないかと感じた。これまでの研究から日本では主体的な意思決定が難しいということが示されているように、リスクコミュニケーションについても「あなたの選択です」というように主体性に働きかけることはうまくいかない可能性もある。
 そういう意味ではリスク時にあなたはどうしますか、という個別のスキル上昇だけではなくて、あなたは誰を頼りにできるのかとか、誰のために意志決定を行うべきかなどを抱き合わせたメッセージにしておくことが必要かもしれない リスクがあったときにどうやって、誰と一緒にいればいいのか、どこに情報を求めて判断すればいいのか、という付帯情報が設定されていることも大切かと思われる。日本型のリスクコミュニケーションというのを考える上で、日本人的なコミュニケーション、あるいは、日本的な意思決定の在り方にうまくフィットさせることができれば、効果が上がるのではないか。
 もう1点は、8割主義ということは重要かもしれない。つまり、白か黒かという情報ではなく曖昧だけれども大意が伝わるコミュニケーションは、さっき申しあげた日本的スタイルという視点からも効果的なように思う。
【堀井主査】  日本型ということでいかがか。
【田中委員】  先ほどの説明で少しはしょってしまった部分が一部回答になっているかと思うので補足すると、4ページ目で、先ほど小学校ぐらいだと、例えば天気予報の確率とは何なのかということで、ある意味ではリスクの自己責任の引受けみたいなことの教育のきっかけになるかなという話があったけれども、その次の段階でそこに予防接種という話が書いてある。予防接種の副作用は今までもやはり日本で議論になっていて、そこでまさに、先ほど言われた話とつながるかなと思うのは、お上が何とかしてくれるだろうという部分と、一方それでお上によって被害をこうむったという被害の意識とのせめぎ合いという部分は、僕も日本の議論でもやはりあると思うけれども、そのときに例えば、一つのパターンとして考えたのは、天気予報ということで、まずリスクの個人的な判断を考えた上で、予防接種ということを考えたときに、その予防接種をしないと100万人で3,000人死ぬのが、みんなすると、30人に減るよと。ただし、その30人は予防接種を打ったせいで亡くなるよ。それだけれども、みんなが打つとその効果が得られるといった、要するに個人的にリスクの引受けと社会全体としての公共的なリスクの引受けみたいなところは、例えば、多分高校生ぐらいだと十分議論可能だと思う。
 そういったものの中で、答えはもちろんないわけだが、でも、その中で考える、そういった教育プログラムは成立し得るのではないかというのが作業部会の議論の中であったということは御報告申し上げる。そうすると例えば今申し上げたような、御提案いただいたリスクというものをどう社会的に受けとめていくのかにつながっていく、日本人的なものから広げていく感覚はあり得るのではないかということが話し合われたことを御報告しておく。
【内田委員】  つまり、そういう自分の行動が他者にどういうインパクトをもたらすのかということまで理解してもらうことは大事だと思う。
【田中委員】  そう思う。
【内田委員】  自分のためだけであれば自暴自棄あるいはその場しのぎの判断をしてしまうこともあるかもしれない。しかし、そのことにより周りが困るあるいは悲しむのだ、ということはメッセージとしては効果的ではないか。
【堀井主査】  この資料1の中では例えば、1ページ目のところで、日本ではということで書いてあるのだけど、もう少し日本型というか、日本の特徴みたいなところに踏み込んでいただくと今のコメントに。
【田中委員】  この日本ではという記述は、作業部会で招いた有識者の中で、西澤先生が専門のリスクの研究を踏まえて言われたのは、新聞の見出し。見出しにおいてリスク的な要素を含まず、被害のばーんというものだけが見出しになるのが日本の特徴だと。それはドイツのリスク研究の第一人者であるオートウィン・レンとか、後で学ばれた西澤先生がそれぞれの国と比較する中で、見出しの時点で全然違うというのは指摘されたことで、それは確かに私もジャーナリズムの研究を長くやってきてそのとおりだなと思うので、そういったところはまさに日本型なのかなと思う。
【三上委員】  ついでに記録にとどめる意味で、今のお話、ほんとになるほどなと思って伺っていて、報告の2ページにある作業定義の部分で、リスクに関する多様な情報という中に、単にそのリスクの自然科学的なありようということだけではなくて、リスクに向き合う主体のありようというか、それはやっぱり個人一人で立って、田中さんもおっしゃっていたように、一人で全部引受けるという形ではなくて、どういう引受け方ができるのかという制度の面もそうだし、また、あるリスクを引受けるときに身の回りにどういうことが起きるのかという情報も含むということか、おそらく。
【内田委員】  はい。
【三上委員】  ここにやはりそういうことをきちんと書き込む必要もあるということを非常に感じた。
【小林主査代理】  それに関して、結局天気予報で雨が降るかどうかの判断で、外れたって自分がぬれるだけ。だけども、予防接種の場合はそうじゃないとおっしゃった。これは結局、社会防衛とか公衆衛生政策の話になってくる。そうすると、例えば今、既に起こっていることだが、受験期の子供はインフルエンザの予防接種を必ずしないと学校の中で、あるいは父兄から問題視されるみたいな世界が起こっている。そういう意味では、先ほど三上さんがおっしゃった、全てがリスクという様式の中で物を考えることがよいというか、肯定されている社会に既になっているのかもしれない。そういうものも社会防衛的な観点でどんどん正当化されていく社会は、おそらく片田さんが最初のころにおっしゃった、幸福みたいな議論とは正面からぶつかるような部分もどこかにある。このあたりのところで、リスクコミュニケーションというのは、どのレベルまでをやるのかというのがものすごく悩ましい。そういう問題の議論はどうされたか?
【三上委員】  それは多少、論点だけは出していて、先ほどの小林先生が言われた議題構築の話もそうですし、それから平生からリスクの様式で話し合うということを受け入れるのかどうかという話も含めて、これは、作業部会の議論では、例えば私の使い方ではメタリスクコミュニケーションみたいな使い方を一応していて、そういうリスクコミュニケーションに関するリスクコミュニケーションの次元ですよね。でも、やっぱりこれは絶対避けて通れなくて、ただそれは、何かメタリスクコミュニケーションみたいなのをまずやって、土俵を整えて、じゃあリスクコミュニケーションをしましょうという話では多分なくて、いろいろなそごもあり、ひょっとしたら失敗もあり、でも実際にやるしかないので、リスクについてここに書かれているように、いろいろ情報共有をして、試行錯誤して話し合ってとやるしかなくて、その中でそういったメタ的な次元が時々出てきて、そもそもそれって知ることは幸せなんだったっけみたいな話が出てきたりして、そうやって行ったり来たり、しばらくせざるを得ないのではないかという議論である、今のところ。
 もう少し幸せに行ける方法があればいいけれども、ただ、そのときに議論していたのは、そういう中で、例えば権限と責任の分配。そういうものについて決定的なアンバランスが起きて、これはやっぱり許容できないだろうというようなことがないような、ある種のミティゲーションというか、そういうものが多分リスクコミュニケーションのすごく大事な性能というか、機能なのだろうというような議論は一定あった。
【堀井主査】  次回の委員会では、中間まとめを取りまとめなければいけないということもあり、もう少ししたら、取りまとめに向けた意見交換をしたいと思うけれども、その前に、もしまだ御発言いただいていない委員で、あったらお願いしたい。
【河本委員】  中間報告を拝見して、最初、読ませていただいたときにコミュニケーター側というか、専門家側に偏っているなと思った。ところが、今の議論を聞いているとそうではなくて、コミュニケーションの場に立ち会われる、それは住民であったり自治体の人間であったり、いろいろなステークホルダーそのものが、今、三上委員のお話にあったメタレベルの話も含めてリスクにどう向き合うかということの、学んでいくことが必要だという議論になったので、そこは安心した。しかしながら、そうであれば、もう少しこの中身として、専門家側、あるいはコミュニケーター側だけではなくて、それ以外のステークホルダーの皆さんたちがリスクに向き合う教育をどうするかとかいうところをもう少し厚目にしていただいたほうがいいのかなという気はするし、むしろそれが前提にならなければ、おそらくどれだけコミュニケーターを育てても、それはうまくいかないという話だから、その前提というか、地盤をまず固めようという議論では、そこをちょっと強調してもいいのかなということを思った。
 それともう1点は、さっき8割主義という話が出ていて、私はよく理解できていないのだけれども、多分今の日本の現状を踏まえて8割主義にならざるを得ないということなのではないかと思う。例えば、メディアの皆さんがそこを狙っておられるというのは、多分この程度のことをしないとおそらく国民は理解できないよねと、あるいは変に誤解をしてしまうよね、だからこの8割程度なんだよねという話なのか、だとすれば、そこをむしろ変えていくことを考えるべきなのかなとちょっと思った。そこはどうか。
【田中委員】  私の個人的な意見からすれば、それは私の専門の研究の分野なので言うと、8割主義以上は無理だと思う。というのは、受取り手の集団が多様なので、それを言い出したら、もちろん国民の必ず持っていなければならないリテラシーということで、地震についてはみんな小学校から試験をやってとか、マグニチュードで、P波、S波の時間でも、みんな震源の距離が何となくわかるようになれというのだったら可能かもしれない。でも、それを全てのリスクについて行うのは不可能なので、そうした場合には8割主義以外は僕はあり得ないと思うし、そしてまた、伝え手の点から言っても、現実にはそれはしようがないと思う。
 ただ、興味深いのは、残りの2割をフォローアップすることは、現状においてメディアは可能になっていると私は考えている。それは、実際には例えば、新聞記者が科学技術のリスクを伝えた後、おまえ、この表現じゃ伝わらないだろうというのに対して、よく最近では、ツイッターなどで専門家と議論をしている。これはこういうことを考えて、ここの2割は捨てたんですよと言うと、大体の議論は、なるほどと言って専門家側が矛をおさめる。それは重要な点で、またそれが、今ではソーシャルメディア上で可視化されているので、残りの2割を知りたい人は、ある意味では検索でたどり着いている。それは僕は、メーンストリームメディア、主流メディアしかなかった時代にはなかった、一つの社会的な機能は、ネットによって補完されていると考えることはできると思っている。なので、僕は8割主義、8割と言っちゃうのだと。僕はほかの先生の、逆だと思って、多分伝わるのは4割ぐらいかなと思ったので、と思ったわけであって。
【河本委員】  そう、今、私が申し上げたのは8割が高いと言っているわけではなくて。
【田中委員】  高めようということで。
【河本委員】  そう。8という数字に意味があるのではなくて、目指すものとして、ほんとはもっと低いのだろうと思う。国立感染症研究所の岡部先生がやっておられた勉強会だけれども、いわゆる基本的な知識が全くない新聞記者の方が、例えば感染症がどーんと起こったとき、パンデミックが起こったときに、そのときになって今こうですよという議論をしても基本的なことを全然理解していないので、新聞で伝わらない。その混乱が例えば2009年なんかに起こったし、SARSも起こった。
 それを契機に、その前にまず信頼を醸成するのと、基本的なところを知っておいてもらって、もし感染症が起こったときには、基礎から、一から話をしなくても理解していただける、効率的にコミュニケーションができるということで始められた。メディア側にも非常に評価が高い。ただ問題は、実際何かが起こったときにそういう方は必ずしも取材に行かないという問題もあって、そこはだから、リスクコミュニケーションの中のメディアの果たす役割は非常に大きいので、そのメディアの部分も少し盛り込んでいただくとありがたいかなという気はする。
【小林主査代理】  私はこれは、10割主義だと思って聞いていた。つまり、この8割というのは、専門家同士が議論するときの知識水準のレベルで言えば8割になっているだろうけれども、リスクコミュニケーションという文脈の中では10割主義でなければならないと読むべきだと思っていたので、そういう意味では、この8割であれ、6割でも4割でもいいのだけれども、リスクコミュニケーションにおいては、専門家同士の学会発表で通用するような知識水準というところを基準にしたときには10割にしてはいけない。しかし、そのリスクコミュニケーションにおいて達成しなくてはいけない10割はあるはずであって、例えば、片田先生がやっているのは、僕はそれは10割だと思う。そういうふうにリスクコミュニケーションを捉えるべきではないかというふうに読んでいたのだが、誤読だろうか。やり過ぎ?
【三上委員】  いや、そんなことはないのではないか。だから、多分それを8割主義というふうに、ある意味では専門家の側からというか、その目から見て表現しているということなので、それはそんなにずれていないのではないかと私は思う。
【田中委員】  そう思う。
【堀井主査】  大体共通の認識になっているかなと思うが、それ以外の点でいかがか。
【藤垣委員】  行うべき取組のところの二つ目だけれども、この初等中等教育においてリスクを学ぶプログラムというところで、学芸大附属高校の教科融合型の実践事例は非常に興味深く見たけれども、それだけではなくて、理科教育自体の見直しも少し考えてほしいのだが、それは、2ページのところで、下から四つ目、専門家の見解は単一ではないことを大震災によって知ったと書いてあるけれども、イギリスの普通の理科の教科書では、リスクを学ぶだけではなくて、科学者の間で意見が異なることもあるとか、それから科学者が正しいという考え方も答え方も、時代が移っていけばどんどん正しいことは違っていくのだということ自体を学んでいる。
 ところが、日本の理科教育はどうしても知ることが1個に答えが定まる。入試の弊害もあると思うけれども、そういうところがメーンの教育になってしまっているので、そちらの見直しも何らかの形で取組の中に入れていただけたらと。それで、それは20年、30年たてば、そういう教育を受けた人が今度はメディアの側に行く。それで白か黒かではないということを小学校のときに学んだ人が大人になっていくわけだから、20年後、30年後ぐらいに向けての投資として、そういうことも取組として入れていただけたらと思う。
【堀井主査】  全くそのとおりだと思う。
【田中委員】  はい。
【篠村委員】  このリスクコミュニケーションの推進方策という報告書は、リスクコミュニケーションを汎用化しようという意図が見えていて、それは学問の一つの分野として成立させる上でとても重要なことだと思うが、どう考えても現実にはあらゆるリスクに取り組める推進方策はないと思う。それで、自然災害、過疎問題、感染症、食品安全、公共交通事故という例が並べられているが、これらを成功事例としてピックアップしようということだと思う。
例えば交通事故ならば、交通事故に対する対策は、幼稚園児から対象に既にやっていて、ある程度の成果も上がっている。それから、食品安全に関してはこうというのがある。しかし、今の時点では、具体的に我々が直面している大きな課題があるはずで、地震に際して津波が起きたときに何かの対策をしなくてはいけないということを国民が共通認識として統一的に考えていなかったことが明らかになった。今、それに対して我々は非常に問題意識が高い。
 そのほかにも、今までの枠組みでうまくいっていない幾つかの大きなテーマがあると思う。何もかも取り込んで対策しようと思うと、何となく全体の平均値みたいなものを並べてしまうことになりかねない。本当に大切なのは、わかりやすく伝えることなのか、それとも本当に大切なのは、当事者が意識を高めることなのかというところが何となく伝わりにくい文章になっているような気がする。個々に見ればとても深く考えられていると思うが、そういう意味で、私はこのリスクコミュニケーションの推進方策というもののターゲットを一つ、二つに決めていいのではないかと思う。「大規模地震に伴う災害に対応するために」とか、そういう作業部会はもしかすると他の省庁にあるかもしれないが、文科省の、我々のこの委員会からの視点での提言と議論というのはあり得ると私は非常に強く感じる。
【堀井主査】  大変いい御指摘をいただけたと思うけれども、そういう意味で、この4ページ目の「行うべき取組」というところで、作業部会から挙げていただいているけれども、東日本大震災があって反省とか、それから、次に想定されている南海トラフの津波とか、地震とかいうものに対する必要性という観点、いろいろ社会的要請が高いわけだけれども、ここで挙がっている取組で、そういう社会的な要請に応えたことになっているのか、あるいは、ここでは一般的に書いているけれどももうちょっと対象を明確にするのか、そういう観点で御意見をいただければと思うが、いかがか。
【片田委員】  どうでもいいことかもしれないが、いきなりのっけから「震災後の実践者の」と書いてあるが、震災後には人が死んでいるので、そこからは助け合いの、慈愛の精神みたいな話なので震災前じゃなきゃいけない。そうすると、やっている人はいない。
【田中委員】  個人的な意見として、今、御指摘いただいた点は重要だと思うけれども、落とし込んでいく時点で具体化していくというのはあると思うけれども、全て同じパターンでやるというのは、ある種のパターンのリスクコミュニケーションを捨象してしまうのではないかなという危惧もある。
 というのは、今、小学校では、例えば仮のものとして提案したけれども、10代、特にリスクの社会心理学でよく知られているのは、若年層はとにかく自分たちはリスクに遭わないと思っている、リスクを低く見積もる傾向があること。片田先生は御経験されているかもしれないが、そういう人たちは極めて自己責任的なことを言う。そんなのは頑張って逃げればいいのだよと。「俺がおばあちゃんでも救ってやるよ、やれたら」みたいなことを言って、自分たちは津波でも泳いで切り抜けられるぐらいに思っていたりする。そうするとターゲットとの関係性、一つのテーマとしても、要するに教育ターゲットとある種のリスクとの関係性でも大分反応が違ってくると考えると、そこは極めて慎重にやらないと、気づくと、例えば自己責任的な取組の固まりになってしまったとか、あるいは逆に、極端に高い公共意識を要求するものになってしまうということで、事例ごとに引っ張られるパターンもあるのではないかと一つ危惧している。
【堀井主査】  この中間報告で、1、「リスクコミュニケーション」とは、2、リスクコミュニケーションの在り方、3、人材育成の在り方、ここまでは一般的なリスクコミュニケーションで、行うべき取組ということなのだが、では最後の行うべき取組までごく一般的な話でいいのかということ。
 例えば、これは作業部会で御検討いただければいいと思いますけど、3まで書いた上で、3と4の間に今どんな課題があるのかとか、緊急性があるのかとか、そういうことを入れていただいて、最後に行うべき取組と来るのであれば、行うべき取組は今社会的要請の高いものに応じた取組という形で書くことも可能になる。そこは少し御検討いただければいいかと思うけれども、何か関連して御発言あるか。
【三上委員】  議論を作業部会でさせていただいた印象では、もし仮に初めからそのように領域が絞られていれば、ひょっとするともう少し議論もしやすかったかもしれないし、ただ、やっぱり田中さんが言われたような危険性もあったかなと思うので、包括的に議論ができて、何ていうか、私自身は非常に収穫があったと思っている部分もあるけれども、当然この先やっぱり、今、堀井先生がおっしゃったように、もうちょっと社会的要請にマッチして議論を絞り込んでいく必要があるかと思うので、もし先生方にこういう課題があるとか、こういう領域をもうちょっと勉強してみるようにとか、そういうコメントがあればいただけると、次、まだ議論が続くので、ありがたいかなと思う。
【原田委員】  それでは、せっかくなので、自分たちの領域にすごく偏っているのでどうしようかなと思っていたけれども、ちょっとした資料を持ってきたので、回していただければと思う。最初に回覧させていただいているのは、去年の11月に池袋で行われたアジア地域セーフコミュニティ会議という国際会議。これはもともとスウェーデンのカロリンスカ大学とWHOがジョイントで安全な地域づくりのために科学的な方法論とデータを踏まえて取り組んでいるコミュニティを、ある程度のざっくりした基準だが、それを満たしたところを国際的に認証しようという取組。日本ではまだ六つしか取ったところがないが、自治体単位でやっている。
 アジア圏では結構、百十幾つぐらい既に取ったところがあり、そこそこ広がりを見せている。身近な防犯とか、交通事故防止、あとは子供の遊び場の中での事故やケガの防止、WHOが主体なのでその辺のところについての身近な取組として、多様な関係者、ステークホルダーが連携したということと、それから科学的な根拠に基づくということを二大柱にして認証するというものである。自治体によっては首長さんが本気を入れてやり出して、それによって行政側がみずから変わるというきっかけになっている。そういうもののために地元の人たちとも連携をして、地元の中で進められるようなことをベースにしながら地域が全体として変わっていくという狙いを打ち出しているので、おもしろい取組だと思っている。何十年か何千年に一度の大きな地震、津波のような、プロバビリティは非常に低いけれども、シリアスネスが非常に大きいみたいなものとは対極のもので、リスクコミュニケーションというよりはリスク対策そのものだが、行政とそれ以外のステークホルダーが連携して行う取組の事例として、一つの参考事例という形で考えていただけるとありがたい。 さらに手前みそな話で恐縮だが、それに関連して、この前の3月に行われた日本セーフティプロモーション学会でお話させていただいたものの抄録集の原稿を今回覧していただいている。自分たちの、以前やった共同研究でつくって、今少しずつ改良を進めているものだが、先ほど話題にも出たコミュニケーションの双方向性とか、それから、いわゆる非対称性をどう対称性に近づけていくかに関連するものとして、一つ参考にしていただければと思う。無料のパソコンのソフトを我々の共同研究の中で開発して、それと、とても安い道具立て、GPSなどを使うものを組み合わせて、いわゆる自主防犯活動を地域でやってくださっている方々が自分で街歩きをして、防犯的な観点からここは危ないという情報を、わりあい簡単に客観的なデータにすることができるツールをつくった。そういうもので、専門家とか行政とか、そういう非対称性の中で出てきた「統治者」側と「当事者」側、それの中の、「統治者」側ではない、むしろ「当事者」の側からデータをつくることも含めてやっていける仕組みに育てていければいいと思っている。そういったことと、地域のステークホルダーがみんなで連携して、かつ科学的なデータに基づいて身近な取組をやっていくものの一つのあり得る形として、御検討の俎上にのせていただけるとうれしいと思う。非常に個別な話で大変恐縮だが。
【堀井主査】  今期の前の安全・安心科学委員会は、リスクの表のようなものをつくって、網羅する作業はしているわけなので、そういうものは引用するようなことは可能だろうし、多分全部挙げ出すときりがないところもあるのかもしれない。やっぱり東日本大震災を踏まえて、文科省から何かを出すときに、一体何を出すのかは人々はかなり注目するところだと思うので、そこはやっぱり、今何なのかというのはぜひ作業部会で考えていただきたいなと思う。
【片田委員】  少し思ったことを。焦点を絞れていないかもしれない。
 僕は、目の前に子供をたくさん置いて、その子たちを教育する仕事をやっていた。とにかく揺れたらこの子が逃げなきゃいけない。もうアウトカムは明確なわけである。この子は一生懸命逃げる、そういう子にどうするかという話。でも、具体的に教育という手だてをもって、その子の行動変容をとにかく導かなければいけないということで、どうしたらいいのかとずっと試行錯誤でやってきた。
 防災教育って何だろうと最初に考えたときに、津波は怖いよ、逃げなきゃ死んじゃうぞ、昔津波ってこんなにいっぱいあったよと、だからここは危ないのだから逃げなきゃだめだろうと言う。これは脅しの防災教育といって、要するに恐怖喚起のコミュニケーション、これはバツだと。何の効果も残らずに地域のことを嫌いになっていく、海のことを嫌いになっていく。そうすると地域教育としてもよろしくない。こんなものは効果もゼロだ。だから、脅しの防災教育はだめだとなる。
 次に、学校の先生方との議論だと、日本の教育は知識供与型の教育というのか、要は知識を持っていれば合理的な判断ができるようになるであろう、行動が導けるであろうということで、津波のメカニズム、津波の力とか、生き残るためのハウツーをやる。そうすると大体、それこそ情報理解の非対称性で、ハザードマップ、ここまで津波が来ると言われればその外側で人が死んでいくと。リスク情報は、要するに災害イメージの固定化を招いてしまう、上限値にしてしまう、嫌な情報だから。
 結局釜石でも今回ハザードマップの外側で人がいっぱい死んでいる。色を塗られたところの人たちは逃げているという変なことが起こっている。知識じゃないのだと。では、何なのかというときに、やっぱり生きることに対する主体性だと思う。姿勢の防災教育と僕は言っている。これは具体的にどう教えていくのかと。要するに知識を与えていくという教育ではない、姿勢をつくっていく教育って何なのか、すごく難しい。
 具体的にやった話、長くなるから簡単に話しますと、簡単にも話せないのだけれども、要は……、すごく難しい話。
 最初子供たちにコミュニケーションするときに、先生方にも言ったことは、津波の話からするのはやめてくれと。僕は、子供たちに話すときに「先生は岐阜県の生まれです。今、群馬県に住んでいます。共通することは何だ? 海がないことだ。先生は釜石に来ると海がばーっと広がっていて、釜石に来るのは大好きだし、君たちはこの街に生まれ育ったから知らないかもしれないけど、魚はおいしいし、釜石はめちゃくちゃいいところだ。ここに住むに当たって一番大事なことは、釜石を誇りに思うこと、自慢に思うこと。未来永劫恵みが受けとれるように」と、まずは恵み側で。で、「受け取れるように大事にしていくことが一番大事だ。海に思いっきり近づいているから、ほんの時々だけど、大きな振る舞いにもつき合わざるを得ない。でも、心配するな。こんなのは一生に1回あるかないかだ。だから、そのときだけばちっと行動できる君であればいい」。あとは、「海を見ながら、津波、津波なんて思っていたら、釜石のこと嫌いになっちゃうだろう。だからそんなことは思うな。ただ、その日、そのときだけばちっと行動をとれる自分であれ。それがこの地に住むお作法だ」と。そこでの付随情報として、「だけど、おじいちゃんたちは逃げないと思うよ。なぜならば、おじいちゃんは津波で死んだことがないからだ。大丈夫であった経験しかしていないから、また大丈夫って絶対言う。でも、じいちゃんが生きた70年、80年なんていうのは、この間にないのは当たり前で、もっと大きい時間の中で来るからおじいちゃんの言うことは信じちゃだめだ。おじいちゃんにだめだと言え」という部分も教えて、要はお作法という形で、恵みがあって、それをもらい続けるためのお作法と、姿勢だと言った。
 そのときに人間は逃げられないものだという正常化の偏見の話をして、「非常ベルが鳴るだろう。このときに逃げなかっただろう。どうして逃げなかった?」という話から始まって、「君は逃げないという意思決定をしていたわけじゃない。逃げるという意思決定ができなかっただけなんだ。迷っていただろう。それから、かっこ悪いと思っただろう」と、そんなような話もしながら。だから、みずからを律する、その日、そのとき逃げられない自分という、「そのときだけばちっと行動できる君であれ、それがお作法だ」と、こうやった。
 こう考えていくときに、子供たちに求めていったのは何かというと、何か困ったことがあると今の日本の子供たちは、自分の子供を見ていてもそうなのだが、すぐに「お母さん」と言うし、学校だったら「先生」と言うし、これではアウトなわけである。要は生きるということに対する、それを阻害する大きな大きな要因として目の前に存在する、釜石でいう属地的な大きなリスクという津波だと。これに向かい合うという姿勢を与えたということだと思う。
 僕はそのときに、だけど津波、津波と思っていくと幸せじゃないとも思っていて、だからこそ、ふだんは津波のことなんか思うなとも言った。今のリスクコミュニケーションの話からいくとすごく矛盾していると思う。でも、幸福論との接点を探る作業だったように思う。でないと子供たちは釜石のことを嫌いになっちゃうし、確かに明治三陸津波は100年前の津波だけども、6,500人のうちの4,000人が死んでいる。めちゃくちゃハイリスクで、それが定期的に昭和三陸、チリ津波と来ている。何かリスクの大きさからいったらほんとは住んではいけないのではないかとすら思うぐらい大きい。
 でも、海見て津波って考えるなと言っているわけで、そのときだけばちっと逃げる。海を見たら、今は何がおいしいだろうかと思えと。こういう、自分で整理がつかなくて、だから幸福論みたいな話を持ち込んで、その地に住まうということ、そこのリスクに向かい合うということの接点を子供たちにどういうふうに教えていって、自慢に思えと。そのときだけばちっと行動をとれる自分であれ、それは自分を律することだと。つまり生きることに対する主体性みたいな、主体的にリスクに向かい合うという、何かそんなところをごりごりと子供たちに迫っていたように思う。
 今の話の枠組みの中で、僕は全然概念論に基づいていないけれども、現場で子供に向かいながら、感覚として、どこが落としどころかを探った結果としてそういう行動をとったという事例である。
【堀井主査】  片田先生が釜石でやられたことを、今度南海トラフの巨大津波の被災が想定されるところで、もうちょっと組織的に、学習、教育プログラムではなかなか難しいところがあるのかもしれないけれども、そういうことがいろんな地域でできるような行うべき取組になっていることが大切だということなのかなと思った。
 少し時間がオーバーしているが、もう少しだけ時間をオーバーさせていただきたい。
【三上委員】  今、原田先生のお話と、それから片田先生のお話を伺って、焦点を絞るときの可能性として、これは災害や危害の種類ではないけれど、やっぱり地域というのが、地域においてどうリスクと向き合うかということがもしかしたら一つの鍵なのかなと思った。
 これはセーフティプロモーションやセーフコミュニティについての原田先生の情報提供を伺いながら思ったけれども、交通安全とか、犯罪から身を守るとか、自然災害の減災とか、そういういろいろなタイプのリスクを、いわば串刺しにして、そういったリスクに強い地域をつくるというお話を伺って思い出したのは、作業部会の中で慶應義塾の大木さんも一緒に議論をしていて、防災教育がうまくいっている学校ではほかの意味での安全、例えば、犯罪者から学校を守るとか、交通安全とかでも成果が上がっているということがあって、そこは非常に興味深いことだと紹介してくださっていて、何か一つそこにヒントがあるのかなと、今、お話を伺って思った。
 だから、それは、従来は多分交通安全と津波に対する対策って、おそらく別に行われてきているのかもしれないけれども、でも、そこには実はリスクに向き合う地域という意味では非常に通底するものがあるだろうし、そこを多分ずっと煎じ詰めていったところに、おそらく今、片田先生がお話しくださったような姿勢の防災教育があるのかなと思ったので、焦点を絞るときにコミュニティが鍵になるかなとちょっと思った次第。
【堀井主査】  そう。おっしゃるとおり。
【片田委員】  今の大木さんの話もそうだけれども、いじめがなくなっていく。
【三上委員】  大木さんもそうおっしゃっていた。
【片田委員】  それから、子供たちが一生懸命やる、それから、地域のお年寄りたちも救おうということをやる中で、自分たちの存在確認をして、非常にコミュニティの中での子供たちが悪さをしなくなるし、いじめもなくなるし、それから風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話だけれども、学力も向上していく。今度、僕、ティピカルに出ているところの学校に話を聞きに行くけれども、教育効果としてもっと幅広にある。だから、主体的に生きるとさっき話をしたけれども、リスクに向かい合うだけの話ではなくて、もう少しベースのところに、もっと根底のところに影響を及ぼすような姿勢の部分があるように思う。
【堀井主査】  あと、田中委員の説明の中で、リスクコミュニケーション能力をつけさせる相手として行政みたいなものがあるのではないかという御説明が口頭であった気がするけれども、私はそれも結構重要なポイントなのかなと思う。平時ということもあるだろうし、それから、実際に緊急時、被災時のリスク、クライシスコミュニケーションみたいなものも重要だと思うのだけれども、それをここでも取り上げるのか、そこはここでは守備範囲にしないのか、そんなことも作業部会では少し検討して、もし、行政に対してそのようなリスクコミュニケーション能力を高めてもらうことが重要なのだとすると、取組としてどんなことを考えたらいいのかを少し作業部会で御議論いただくといいかなと思った。
 ほかに作業部会に是非これを頼みたいということがあったら挙げていただきたい。
 あと、東日本大震災の反省という観点で出すとすると、やっぱり科学者、大学の研究者なり、専門家の信頼が失墜することにつながるような発言なり、報道なりがあって、専門家に対するリスクコミュニケーション能力の教育も必要かなと思うけれども、それがここに挙がったものでカバーされているのか、あるいはそこは足りないのか、そういう御検討もしていただいて、もし足りないのであれば、必要な取組を挙げるような御検討をしていただけるといいかなと思うが、ほかにいかがか。あまり注文されても困るだろうとは思うけれども。
【河本委員】  一つだけ、細かいことで申しわけないけれども、中間報告の1ページ目の目的という1から5まである中で、1と4に「正しい」とか「正しく」という言葉が入っていて、ちょっと違和感というか、正しいことって世の中にはあるのかなと私はいつも思っているので、ここはどうか。例えば1の「正しい行動」というのは、あるいは好ましい行動ということかもしれないし、4番の「正しい」というのは本当に要るのかどうかと思うが、どうだろうか。
【田中委員】  議論を圧縮する中で、私もちょっと鍵括弧、ダブルクオーテーションつきにしたほうがいいかなと思ったところで、意図したところは先ほど三上委員から御提案いただいたようにレジティメートということ。政治学的な概念の上での正統性という点で、それを正しいといって、これが例えばひとり歩きしてしまうと、専門家はおそらく自分たちの思っているように行動するのが正しいことだと思ってしまうし、例えば低線量なんて気にする必要ないのだ、それが正しい認識だみたいな話になってしまうと思うので、そこは言葉をもう少し検討させていただく。
【河本委員】  お願いする。
【堀井主査】  あと、もう1点重要な点としては、2ページ目のリスクコミュニケーションの定義のところ。「社会の関与者(ステークホルダー)の行動変容とこれによるマネジメントを目的として、リスクに関する多様な情報及び意味(含意)の共有を図ること」というのだけども、これは作業部会の、さんざんの議論を経て多分こうなったのだと思って、とりあえずこう書いていただいているのだけれど、これでいいかどうか、多分ここはいろいろな御意見がありそうだなという気はする。
【小林主査代理】  リスクの定義がない。リスクの定義がなくて、リスクコミュニケーションの定義に行っちゃっている。一番最初にリスクというのは工学・理学ではハザードと確率の積だと言っていて、その後はずっとリスクコミュニケーションの話になっちゃっているので、やっぱりリスクをこの部会としてはどういうふうに一応考えるかというのは何かあったほうがいい気がする。
【田中委員】  先ほどの片田先生の話を聞いてちょっと思ったのは、リスクとハザードを対照的に扱ってしまったけれども、先ほど幸福感といったものでいくと、ハザード、その幸福を害するものとの間というものとして、言語化はちょっと難しいけれども、リスクというものがあるという感覚にする。つまり最初の時点でこういう書き方だとリスクとハザードという択一的な関係性になっているんですけど、一方には幸福、それと、あるいは不幸の代表としてもたらすものとしてのハザード、その中間領域としての、グラデーションとしてのリスクという書き方で何とか伝える形で工夫してみるのが一番、今日の議論を踏まえての改善すべき点かなと思う。
【片田委員】  心穏やかに人生を全うするための阻害要因。それは命を奪うというものであったり、命まで奪わなくても不安に陥れられるというものであったり、そういったものとどう向かい合うのかみたいな概念が少し入ると人間らしくなる。
【田中委員】  承知した。
【堀井主査】  それと同じ2ページの下から何行目か、「当面は大学が適切」というところ、これはどうなのだろうかと、ぜひ議論してくれと言いながら議論がまだできていないけれども、ここも引き続き御検討いただくのでよいか。
【田中委員】  はい。先ほど三上委員からも御提案があったように、そもそもメンバーに大学関係者が多いという背景もあるけれども、実際上、民間という形でも、それがどれぐらいのパイのサイズがあるかというと、ある意味ではベックの言うところの危険産業化していく点もある。マッチポンプで危険をあおって産業化してしまうこともあるので、民間に落とすのがいいかというと必ずしもそうではない。それこそ健康食品商法と同じになってしまうので、そうすると、やはりある程度の公共性を持ったものが担わざるを得ないのは確かであるし、かといって政府がやったら政府がやったで信頼してもらえないということを考えると、大学ぐらいがどうしても妥当な落ちつきどころになってしまうのかなというのが今までの議論だったけれども、これからに関して、その在り方についても提案していきたいと思う。
【堀井主査】  では引き続き御検討いただくということで、まだまだ議論を続けたいところではあるけれども、既に司会の不手際で15分オーバーしてしまった。本日は貴重な御意見をいただき、感謝申し上げる。本日いただいた御意見については事務局で整理していただいて、次の作業部会での議論に生かしていきたい。

<議題2.その他>
【堀井主査】  最後に今後の日程等について事務局から説明をお願いしたい。
【関専門職】  資料3に基づき、今後の予定について説明。
【斎藤課長】  7月1日付の文部科学省の組織再編にともない、事務局が戦略官付から人材政策課に移ることを連絡。
【堀井主査】  以上で第2回安全・安心科学技術及び社会連携委員会を終了する。

 

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