量子情報処理・通信(うち量子シミュレーション)に係る議論(H28.6.20、第4回)の骨子案

平成28年8月25日
科学技術・学術審議会 先端研究基盤部会 量子科学技術委員会

量子情報処理・通信(うち量子シミュレーション)
に係る議論(H28.6.20、第4回)の骨子案

研究動向

○ 物質中の電子のふるまいや相互作用は、超伝導、磁性、化学反応における溶媒効果など、多くの重要な物理・化学現象、ひいては物質の物性や反応を支配している。このため、多数の粒子の量子レベルのふるまいや相互作用を理解することは、現代科学における中心課題の1つと言って過言ではない。

○ 量子シミュレータは、解析の難しい物質中の多数の電子等のふるまいや相互作用の特化した問題に対して、人工的に別に作った多数の粒子の量子状態(量子多体系)で模擬してシミュレーション実験を行う技術である。この技術を上記の課題に応用すれば、未解明の物性や反応の理解、さらには、それに基づく新物質や物質が有する機能等の探索と開発が可能になると期待されている。(注3)

○ 古典計算機によるシミュレーションでは、粒子数が増えると計算量が指数関数的に発散するため、解析の手がつけられなくなってしまう。これに対し、量子シミュレータでは短時間の解析で手掛かりが得られる可能性がある。2020年に向け開発が進められているポスト「京」コンピュータでも、現実の物性や反応の十分な模擬・理解に必要と考えられる、例えば1000粒子の厳密な計算には10274年という非現実的な時間がかかってしまうことに対し、量子シミュレータでは、量子状態を用いて並列的にシミュレーションを行うため100ミリ秒以下のオーダーで模擬できる可能性がある。(注4)

○ 量子シミュレータを実現する物理的な素子は、基本的に量子コンピュータと同様の技術であり、実験技術的な基盤や発展基盤に共通する点もある。ただし、量子シミュレータでは、複雑な情報処理を行うのではなく、物理的な素子に存在する量子状態を電子の量子状態に見立てて模擬実験を行う点において複雑性が少ないという特徴がある。このため、量子コンピュータの実現に向けては数々のマイルストーンが存在するのに対し、量子シミュレータはより短期的に実現が可能であると考えられている。(注5)

○ 海外においては、量子コンピュータと同様に欧米が投資を拡大している(注2)。欧州委員会では4つのメインターゲットとして量子コンピュータ等と並んで量子シミュレータを掲げ、5年内に物質中の電子の挙動のシミュレーション、10年内に複雑な新物質の探索・開発への応用、10年以降に創薬を支える量子ダイナミクスや化学反応機構のシミュレーションを実現するというロードマップを掲げている。量子シミュレータは主要各国の量子科学技術政策におけるキラーコンテンツの一つとなっている。

○ 量子シミュレータの方式には、それを実現する物理的な素子の違いにより、冷却原子・分子方式(レーザー技術で原子・分子を捕縛してその量子状態を利用する方式で、多様な多体系を再現可能との特徴)、イオン・トラップ方式(電磁場でイオンを捕縛する方式で、単一イオンの制御が容易との特徴)、超伝導量子ビット方式(量子コンピュータでも代表例となる超伝導量子ビットを利用する方式で、特定の問題に対する高い制御性・拡張性が特徴)、線形光学素子方式がある。これらの方式の中で冷却原子・分子方式が、我が国を含め研究が進んでいる代表例として挙げられる。

(冷却原子・分子方式による量子シミュレータ)

○ 冷却原子・分子方式による量子シミュレータは、レーザー光によって空間的に捕縛された冷却原子の集合体によって物質中の電子のふるまいを模擬するものである。高い制御性に加え、様々な相互作用に基づく多様な物質の性質を調べることが可能であるという特徴がある。

○ 冷却原子・分子方式の研究開発については主に低温化と観測・制御の二つの軸がある。低温化に関しては、現在、反強磁性秩序の証拠が見られるところまで進んでいる。世界的な研究のスピードを概観すると、数年後には新しいアイデアが提案され、より低温環境での実験が可能となることで超伝導、超流動現象に関する定量的な理解が得られ、それに基づいた理論的な予測が可能になると期待される。

○ 冷却原子・分子方式は既に原子数に限れば105個以上の規模に達しており、今後は規模を大きくするのではなく、原子の個別観測に基づき、原子間の相互作用といったパラメータを精度よく制御していくことが次の重要な課題である。現在、原子を個別に観測できる量子気体顕微鏡の開発が進んでいるが、将来的には、任意に原子を空間的に配列する手法や、量子状態を制御して安定化させる量子フィードバック制御技術の発展も期待される。量子状態の安定化は、量子コンピューティングにも有益な示唆を与えるものと考えられる。

○ 現在、冷却原子・分子を使った量子シミュレータでは、リュードベリ原子や極性分子を初めとする大きな双極子モーメントを有する粒子を使う研究も進んでおり、隣接する原子間の相互作用に関する研究から、長距離相互作用まで含めたシミュレーションに関する研究へとシフトしてきている。この他にも時間発展(ダイナミクス)といった、低温化と観測・制御の二軸以外の研究も含めて重層的に進めていくことにより、光合成メカニズムのシミュレーションなど、多様な物質に関する重要な知見が得られるようになることも期待される。

(各アプローチの概観)

○ イオン・トラップ方式についてはこれまで、20個程度の原子を一次元に捕捉した量子シミュレータが研究されてきたが、二次元で300個程度の規模へ拡張する試みがなされており、2016年には200個以上の原子の相関を確認したという報告がある。超伝導量子ビットについては、2個の量子ビットを用いた量子シミュレータの実証実験が2015年頃から始まっている。

日本の強み・課題

○ 物性や反応に係る理論と実験の比較を重ねることは量子シミュレータの信頼性を高めるのに不可欠である。我が国には優れた理論研究者が若手も含めており、量子物性理論、特に強相関電子系の研究は伝統的な強みと考えられる。一方、我が国は伝統的な分野の影響が強く、新しい分野に弱いため、量子情報理論では非常に優秀な研究者がいるものの、人材数は大きく不足している。

○ 実験グループの少なさは看過できない弱みの一つである。個々のグループは成果を出しているが、欧米と比較すると層が薄く、特に若手がリードするグループが少ない。低温実験では大規模な初期投資が必要であることが、若手参入のハードルを高くしていると考えられる。また、各分野の高い専門性は我が国の強みではあるが、一方でそれぞれの分野で閉じがちな研究環境が、研究の新規性や、融合化を阻害している面もあり、基礎物理から理論物理、システムまで幅広く扱うための環境作りが重要である。

○ 光格子時計やコヒーレント制御の研究に見られるように、我が国における光技術のレベルが非常に高いことは強みであり、関連する技術を冷却原子・分子方式の量子シミュレータに有効活用できると考えられる。また、光学素子やガラス加工、エレクトロニクス分野の国内メーカーについても高い技術力を有していると考えられる。

○ 格子上に原子が配列する物質中の電子の挙動を記述するハバードモデル等については、その定常状態を量子シミュレーションする標準的な研究は欧米の層が厚く大幅に先行している。

推進方策の検討にあたって考慮すべき点

○ 既に実験室レベルで実現している大規模な量子多体系の存在を前提に、物性理論研究者や潜在的ユーザーと一緒になって、探求すべき物質等について一定の目標を定め、量子状態の個別観測・制御の高度化といったハードの課題に取り組むとともに、現実の物理系を量子シミュレータに写像する理論や誤差の理論的評価といったソフトの課題に取り組むような、トップダウン的な開発アプローチが必要ではないか。

○ 層の厚い欧米に対し、我が国は独自性のある研究を進めていくことが非常に重要であり、物性理論の強みを基に、例えば、定常状態の計算より格段に難しい非定常な時間発展(ダイナミクス)のシミュレーションや、ガラス・液体等のソフトマターといった不規則系の物質を対象にしたシミュレーションに挑んでいくことも重要ではないか。

○ 理論や実験など、各分野のレベルが高度化している中において、分野間の協力や融合努力を積極的に評価する視点や、基礎物理からシステム開発まで見通せる人材を育成する観点が必要ではないか。

○ 量子シミュレーションの分野に限るものではないが、欧州では研究者が国境なく行き来して共同研究を実施しており、一国当たりの研究者数は限られていても、欧州全体として見ると多くの研究者が存在している。我が国の研究環境を改善することで、欧米との研究協力や共同研究を促進し、相乗的に研究レベルを向上させるような国際的な対応も重要ではないか。また近年、中国やシンガポールといったアジアの研究グループも急速に力を付けてきている。アジアの研究グループとの積極的な研究協力や共同研究を含む研究ネットワークの構築についても考える時期に来ているのではないか。

以上

注記

(注3)
高温超伝導物質は世界的に高い関心で研究が進むが、30年前に発見された酸化物高温超伝導物質についても、どういったメカニズムで超伝導が起きているか解明されていない。格子上に原子が配列する物質の中で、絶縁層と呼ばれる層から電子が供給され、超伝導層と呼ばれる層において電子がどうふるまって相互作用するかが超伝導メカニズムの鍵となるが、この電子状態は、例えばハバードモデルと呼ばれる、固体中で相互作用する電子を記述する最も単純なモデルの一つで記述することができると考えられている。量子シミュレータでは、ハバードモデルといったモデルで記述された高温超伝導物質の超伝導層の電子の量子状態をシミュレーション実験することが可能であり、これが実現されれば、実際の物質について現在も続く実験・観察事実の新発見を組み入れながらシミュレーションを行い、系統的な量子状態の理解と複雑な相を示す超伝導物質の物性や反応の理解を相乗的に深めることが可能となる。このような本質的かつ理論的な理解が進めば、そこから得られる理論的予言を指針に、より高い温度あるいはブレークスルー的に高い温度で超伝導を示す物質を、効率的に系統だって探索・開発することが可能になると考えられる。

(注4)
古典計算機では、厳密な計算(厳密対角化法)では極めて限定的な粒子数の計算が限度となるほか、模擬精度や計算精度を落とす近似計算が避けられない。古典計算機による量子多体系モデル(ハバードモデル等)の厳密なシミュレーションとしては、2004年に当時我が国で最も早いスパコンの一つであった地球シミュレータで、厳密対角化法を用いて正方格子ハバードモデルの計算が行われているが、4×5の正方格子にある20粒子の計算が限度である。例えば1格子当たりの電子の量子状態は、上向きスピン、下向きスピン、双方のスピン、スピンなしの4つの異なるスピン状態で模擬されるため、格子がN 個が増えると、解くべき行列の次元が4N倍になり、必要な計算量も大幅に増加する。そのため、現在稼働中の「京」コンピュータでも、5×5の正方格子にある25粒子の計算が限度となり、ポスト「京」コンピュータでも、5×6の正方格子にある30粒子の計算が限度となる。

(注5)
デジタル量子コンピュータは、量子力学的な効果を用いて超並列・大規模情報処理を行うもので、素因数分解やビッグデータの超大規模検索など特定のアルゴリズムが超高速に計算できると想定されているが、その実現に向けては数々のマイルストーンが存在する。また、アナログ量子コンピュータの一つである量子アニーリングマシンについては2010年以降、D-Wave社から商用機が発表されているが、これは組合せ最適化問題を対象としたものである。一方、量子シミュレータは物質中の電子の量子状態を物理的な素子に存在する量子状態で模擬実験をするもので、デジタル量子コンピュータよりも短期的に実現が可能であると考えられており、未解明の物性や反応の理解、さらにはそれに基づく新物質の探索等が可能になると期待されている。

用語解説

リュードベリ原子
電子が原子核から遠く離れたリュードベリ軌道と呼ばれる電子軌道上を運動している原子。原子核からリュードベリ軌道までの距離はナノメートルからマイクロメートルに達する。リュードベリ軌道上を運動する電子をリュードベリ電子と呼ぶ。マイナスの電荷を持つリュードベリ電子とプラスの電荷を持つそれ以外の部分(イオン核と呼ばれる)の間の距離が長いので非常に大きい双極子モーメントを有している。このためリュードベリ原子同士の相互作用は長距離に及び、この点が多体相互作用をシミュレートするのに非常に適した性質として期待されている。

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科学技術・学術政策局 研究開発基盤課 量子研究推進室

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(科学技術・学術政策局 研究開発基盤課 量子研究推進室)