7.第三次提言(案)に対する主な意見

1.総論、全体構成

○ 現在、知識量が増大しており、質的な転換が求められている。これは抜本的に考え直さないといけない問題だが、認識として触れておいても良いのではないか。

○ 大学院博士課程の役割が、世界トップレベルの研究者養成のところにしか記載されていないが、博士課程は研究のトップレベルのことだけという印象を受けるので、博士号取得者等の社会の多様な場における活躍促進の箇所に移すべきではないか。

○ 第三次提言ということだが、三部作ということか。社会との関連において、これで完結したものにすると、第一次、第二次の提言がやや中途半端な入り方になるのではないか。三部作というのであれば、再掲部分には注釈を入れるなり、社会との関係ということで、第一次、第二次の提言部分は少し省くなど、書き方をもう少し軽くしてしまうというやり方もある。また、最後に、第一次、第二次提言の目次を再掲するなど、この提言の位置付けをもう少し明確にすべきではないか。

○ 全体の構成として、人材委員会としてこの第3次提言ではこういうことを言ったということがわかるように、人材委員会として第3期の基本計画に向けて、こういうことが必要なんだということを強くアピールできるようにして欲しい。

2.新しい知の創造による社会貢献

○ 霞ヶ関にとって一番関係のあるのはむしろ社会科学、ある意味で人文科学だと思うが、霞ヶ関の人が来て何年間か勉強するような、大学の側に受け皿となるような体制が整っていないのが日本の大学の現状。

○ 流動性について、科学のすばらしい歴史を見ると、一流の先生方が流動している。その人たちが去った後にもそれなりの研究者が残っていて、新たなCOEを作る。それが現実であり、流動性について若手だけ任期をつければいいという問題ではないのではないか。多様性についても、非常に大事なのはトップの研究者が流動してきてくれることが大事であり、その辺を少し指摘してもいいのではないか。

○ 21世紀COEプログラムなどは大変有効に働いていると思うが、最近、いろいろな研究資金が重点的な研究領域に非常に特化しているが、これは多様な研究者をどうやって育成するかという点と非常に矛盾したことを言っている気がする。多様な人材をどうやって育てるかについては、トップレベルの研究機関に集中的に研究費を投入したり、援助するというのとは別の枠組みが必要ではないか。

○ 流動性はネガティブに人を追い出すという感じが強いが、良い人をプロモートするような環境を積極的につくるようなポジティブな表現があった上で、良い人を引き抜いてくるような環境作りに各大学が積極的にという方がいいのではないか。

○ 関係経費から本人の給与面で処遇とあるが、間接経費のついてない資金が多々あるので、その辺も踏まえた表現にすべき。

○ ライフサイエンス、情報、知的財産との記載があるが、データ集でソフトウェアへの投資が日本は低いというデータもあるので、「情報」という広い概念でなく、「ソフトウェア」とした方が良いのではないか。

○ 今のCOEは研究中心になっている。教育よりも研究を中心に選ばれている。この考え方は、教育のCOE、人材の育成に非常に価値ある教育体系、教育や教員の考え方を含めていいところを拠点として選ぶということだと思うが、研究を通じて教育をすることが難しいのであれば、教育の中でそういう拠点を作ることができるのかを考える必要があるのではないか。

○ 研究のCOEと教育のCOEというのがあるのかということになるが、研究の場合には、国際レベルの中で評価というのが割合はっきりと出てくると思うが、教育の結果としての評価というものをどう見るかは非常に難しいし、ワンパターンにならざるを得ないのではないか。多様性の中でそれぞれが良い教育拠点とせざるを得ないという難しい問題がある。

○ 世界で非常に研究をしているという、特にアメリカ系の大学では同時に教育をきちっとやっている。教育を積極的に評価するのは非常に難しいが、かなりの人が十分な教育プログラムを提供し、同時にそのプログラムについて本気で教えて、本気で教えたということを学内で評価すればそれで良いと思う。今問題なのは、先生が教育に時間をつぶさないことであり、COEに人が集まって、そこでしかるべき数の先生が本気で教育をすればよいのではないか。

○ アメリカを中心にしたPh.Dコースの教育評価というのは、その指導教員がどういう学生を育てたかということ、その学生がPh.Dを取った後で何をやっているかで十分評価できるが、日本の場合はほとんど行われていないのではないか。

○ 大学の先生の実態は研究主体で、大学院生はある意味ではコラボレーターとして研究している。教育というところに別の評価を入れないと、今のやり方では、大学で大学院を担当しながら研究を続けている人には非常にきつい状況にあると思う。

○ COEとか世界トップレベルの研究者養成は是非やって欲しいが、企業側としてはトップレベルのところだけから人をとっても企業の研究はできないし、企業の開発まで含めて考えるとそういうこともできない。企業側として一番欲しいのは柔軟性であり、新しいことを自分で始められるような人。そういう意味で、学部教育だとか、大学院の初等レベルでのきっちりした幅広い教育というのが将来テーマが変わってもその研究をしていくための基礎的な能力に通じていくと思う。メジャーだとかマイナーだとかという形で幅を広げるとか、そういうことが抜けている気がする。トップレベルでワンポイント集中、それと同時にもう少し違った視点、持続的というところを視点にしたような提言が加わっても良いと思う。

○ Ph.Dの定義だが、基礎学力が高いから何にでも対応できるというのが一つ根本にあるのではないか。それをもとに置いて分類する方法がないので、なんとなくトップレベルなどと言っている気がする。

3.知の活用や社会還元

○ アウトリーチ活動については、注釈をつけるべき。

○ 大学院理工系教育や高等専門学校と出てくるのであれば、専修学校も入れるべき。

○ 技術者については全体に必要なことが全部記載してあるが、相互関係がわかりにくい。技術者の役割ということで、起業家、MOT、知財、高度技能者のようなものがあり、段階として、大学院、専門職大学院、専門学校などがあり、これらを整理すべきではないか。

○ 子どもたちの学びへのモチベーションが高くないことが問題。一流の研究者として落ちこぼれたから高校の教員になるというのではなく、ひらめきをもった先生が、子どもたちが目を輝かせるような授業をするような人材を育てて欲しい。抽象的に資質を向上するということではなくて、もう少しドラスティックに有能な人が教育界にくるように少し押して欲しいと思う。

○ 多くの潜在力を持った人の中から良い人が志を持って教員として入ってこられるようなメカニズムが非常に大事。また、教育の評価という点で、どれだけ良い弟子を出したかというのは確かに大事なメルクマールかもしれないが、本当は教育の質というのは付加価値で決まるはず。ややできの悪い者がいても、それをきちんと教育できるというのが本当の教育者だと思うが、非常に優秀な人を集めて、その上に乗って教育をしているというのが現状だと思う。

4.持続的な知識基盤社会の構築

○ 科学技術システムそのものを研究対象とする研究者が日本は非常に少ない。そういう専門家が行政などに入っても良いと思う。

○ 「持続的な知識基盤社会の構築」の趣旨が不明瞭。特定の人に着目して持続させるのか、それとも社会を持続的に発展させるということか。

○ 博士号取得者等の多様な場における活躍促進については、民間だけでなく、霞ヶ関など、官やその周りのファンディング・エージェンシーなども視野に入れるべき。

○ 霞ヶ関の中枢に博士や修士などを増やし、省全体の政策を決めていく段階で実力を持って発言できるようにするべき。

○ 初等中等教育の段階で、理科や数学の教員は大学院を出ているのが望ましい。修士、博士を持っている優秀な人材をもっと教育課に入れるべき。

○ 企業でも博士号取得者を研究者としてのみ見ているように感じる。企業でも、採用直後に研究開発だけでなく、製品の開発、設計に当たるような活動などがあっても良いし、年をとれば企業全体のマネジメントをすることまで踏み込んでも良いと思う。

○ 学位の取得優先が気になる。博士課程も教育であり、教育が優先されるべきなのに、学位を取得させることが先生の義務と勘違いしているところがある。従前より、学位授与率などが指摘されているが、指導教官が学生に対して教育を十分したと認識すれば学位を与えてよいのではないか。学位授与の基準についての再確認が改めてどこかでなされるべきだとか、原点に戻って考えて欲しいなど、警鐘を出してもらえないかと思う。

○ 論文博士制度を残しながら博士を進めるというのは、本質的なところを避けているように思う。

○ 研究と教育の関係について、ドクターの場合は研究を通じて教育をするのか、例えば幅を広げることの問題は、専門性の研究を通じて広げられるようなカリキュラムなり指導ができているのかどうか、できないとすればそれは最初からあきらめた方がいいのか。評価をどうするのかということぐらい区切らないと、特に大学院における問題は解決しないのではないか。

○ 博士課程の問題は中教審大学院部会の大学分科会でも今まさに検討し始めようとしている。日本の場合、大学院というものがそもそも研究者養成と位置付けられている印象が強いが、アメリカは教育課程。特に、人文・社会科学では適当に放置して、論文を審査して終わりということもあり、アメリカのような数年間にわたる徹底した教育プロセスが欠如している。

○ 理系では、論文博士はやめて欲しいという意見が多く、論文博士があるために、いわば国際水準のPh.Dと違ってくる。Ph.Dはそれなりの教育課程を通じて、初めてfinal examを通って、きちんとした審査をされるので、その違いをきちんと日本でもつくらないと国際的な通用性に欠けるのではないかという気がする。

○ アメリカの学生が一番苦労するのは、博士論文の審査ではなく、博士論文を出すための予備審査だが、日本にはそうしたものがない。そのことが基礎学力の低

○ 博士課程を出た人について流動性を増すことを行ってきたが、その結果がどうであり、これからどうするかについて、本当はきちんと整理しておくべきである。しかるべきポジションが現実に得がたいとか、社会にうまくフィットしている人もいれば、そうでない人もいる。
 下につながっているのではないか。その辺を検討していく必要があると思う。

お問合せ先

科学技術・学術政策局基盤政策課

(科学技術・学術政策局基盤政策課)

-- 登録:平成21年以前 --