第4章 水の特性を生かした様々な活用 4 景観としての水

4 景観としての水 慶應義塾大学環境情報学部教授 石川 幹子

(要旨)

 美しい生き生きとした水のある風景は、人の心をなごませる。反面、見捨てられ塵芥の漂う、悪臭を放つ水辺の風景は、人の心をも荒廃させる。水辺の景観は、そこに住む人びと、社会の価値観を映し出す、鏡に他ならない。
 「景観としての水」に理想郷を見出し、それを手元に引き寄せ、創り出されたのが、庭園における水であった。

 19世紀中葉、急速な都市化が始まった時、世界の都市は様々な創意工夫を凝らし、都市の中に水辺の景観を生み出していった。ヨーロッパでは、旧市街地の改造に際し、水辺を公共に開かれた空間とすることを都市政策の基本とした。アメリカでは、パークシステム型の都市基盤整備の考え方により、水系を軸とし、保全、創出すべき緑地を定め、主要な街路計画と一体的な整備を行い、美しい水辺を創り出してきた。両者に共通する特色は、水辺と、隣接する地区の土地利用を一体的に、かつ、世紀を超えて、持続的に行っていることである。

 日本において、川に隣接する地は、河岸地とよばれ、江戸時代より、幕府の所有地であり、オープンスペースの担保が義務づけられていた。明治以降も、水辺の空間は、公共的空間であり、市民のパブリックアクセスが認められていた。しかし、大正8年の旧都市計画法により、都市計画事業の事業費の捻出のために、稠密な市街地における河岸地の切り崩しが行われる道が開かれ、昭和50年代に、河岸地の売却が一気に進んだ。
 水辺を重視するパークシステム型の都市基盤整備の考え方は、関東大震災後の防災都市計画の中で導入され、戦災復興事業で全国の戦災都市に適用された。横浜(山下公園)、東京(墨田公園)、仙台(広瀬川)、広島(太田川)等各地を代表する水辺の景観は、このような都市計画の考え方により、焦土の中から生み出されてきた。
 大正8年の旧都市計画法で導入された風致地区は、戦前までに108都市に適用され、それぞれの都市のシンボルとしての空間となっている。郷土の水辺の景観が、この制度により、維持され、今日に至っている。

 今日の都市における水辺景観の課題は、隣接する土地利用との関係を丹念にひもとくことにより、解決していくことが重要である。それぞれの地域は、固有の文脈をもっており、そのモザイク的集合体が、都市の水辺の景観を生み出している。
 水は、人間の生活に不可欠であり、時には、大きな災害となり生活を脅かすが、人々は、さまざまの工夫をこらし、生活の中に水のある景観を育んできた。ユートピアとしてつくりだされた庭園空間の中には、文化としての水辺空間の思想が凝縮されている。

 急激な技術革新による都市化の時代であった二十世紀をすぎ、私たちは、機能の時代から生命の時代へ、国家の時代から地域固有の文化を大切にする都市の時代への転換期にいる。市民の生活の中に生きる美しい水辺の復権には、隣接する市街地の土地利用との一体的思考、政策の展開が不可欠である。それは、地域により多様であり、具体的道筋は、そこに住む人々と行政が知恵を出し合いながら考えていかなければならない。既存の枠組みを取り払い、柔らかな思考の求められる時代となった。

4-1 庭園の中の水の景観

 美しい生き生きとした水のある風景は、人の心をなごませる。反面、見捨てられ塵芥の漂う、悪臭を放つ水辺の風景は、人の心をも荒廃させる。水辺の景観は、そこに住む人びと、社会の価値観を映し出す、鏡に他ならない。
 「景観としての水」に理想郷を見出し、それを手元に引き寄せ、創り出されたのが、庭園における水である。ギリシャ・ローマでは、尽きることのない命の源の泉として、ペルシャでは、過酷な自然環境の中のオアシスとして、イギリス自然風景式庭園では、田園のユートピアとして、そして日本庭園では、不老不死の仙人の住む南海の孤島、蓬莱島として立ち現れた。
 日本庭園の中で、景観としての水はどのように捉えられていたのだろうか、時代による変遷も含めて、考えてみたい。写真1は、15世紀末、足利義政により造営された銀閣寺である。京都が戦乱に明け暮れ、人心が荒廃していた時代に創り出されたこの庭園には、平安末期から受け継がれてきた浄土庭園、枯山水につながる銀沙灘と向月台、そして、東山の山裾をめぐる回遊式庭園の考え方など、後の日本庭園に継承されていく様々な意匠が未分化のまま、内包されている。東求堂前の灯籠は、水面により現された外界より、御仏を導き入れるものであり、向月台は、月明かりのなかで、銀沙灘に浮かぶ月を鑑賞したものといわれている。水そのものが、宇宙であり、心を癒す空間であった。このため、人間が居住する空間である建築と水辺の間には余分な要素は一切なく、直接、個人としての人間と水が対峙しているのが特色である。
 この考え方を、極限にまで押し進め、余分なものを、削ぎ落として生み出されたのが、龍安寺の石庭である。空間を限り、ヴィオドの空間をつくりだすことにより、無限の宇宙、様々なイマジネーションを見るものに喚起する庭園となっている(写真2)。

銀閣寺全景の写真

(写真1)銀閣寺全景

龍安寺石庭の写真

(写真2)龍安寺石庭

 茶の湯の発達による露地と回遊式の考え方が結びついて生み出されたのが、桂離宮である(写真3)。
 桂離宮は、隣接する桂川の度重なる氾濫から離宮を守るため、水害防備林としての桂垣と、高床式の書院を有する。雁行する書院群の前面に展開される水景は、神仙島を始めとする3つの大きな島と、小島からなり、複雑な水際線を呈している。庭園内には、松琴亭、賞花亭、月波楼等の茶室が配置されており、各茶室へ繋がる空間が、露地として、異なる物語で構成されている。一例を松琴亭にあげれば、待合いから、灯籠に導かれて苑路を進むと、景は急に開け、天橋立をイメージした州浜越しに松琴亭をのぞむ景観が、遠近法に基づく、構成で展開される(写真3)。
 更に、歩を進めると、護岸は、切り立った岩となり、荒磯をわたり、茶室に導かれる。松琴亭の前面は、水景越しに古書院をのぞむ開放的空間であり、個と対峙する空間から解き放たれ、複数の賓客と時空を共にする場となっている。月波楼からの水景は、目線付近に大刈り込みを配置し、水景を低くしつらえることにより、波間に浮かぶ舟から垣間見る情景をつくりだしている。一方、離宮内の最も高い位置にある賞花亭からは、水景の全体像が俯瞰できる構成がとられている。このように、桂離宮では、人の歩行にあわせた景の展開と、水を見る視線の位置により、豊かな物語性を内包した水の景観が生み出されている。
 明治期になると、宗教的空間から開放された、心を癒す空間としての水の景観が登場する。写真4は、明治の元勲、山縣有朋により営まれた京都・無隣庵である。東山を借景とし、最奥の滝組から流れ出す水は、渓流となり、たゆたう水面となり、建物の前面でせせらぎとなり、光と水と緑が戯れる空間が演出されている。ここに見られるのは、長い庭園文化の中で育まれた伝統に、近代の中で、新たな意味と生命が与えられた水の景観である。

桂離宮の写真

(写真3)桂離宮

無隣庵の写真

(写真4)無隣庵

4-2 都市における水の景観

 さて、それならば、現実世界のただ中にある都市における水の景観は、どのような考え方により生み出されてきたのだろうか。都市において、水や緑は、何らかの施策なしに、その持続性を担保することは不可能である。土地利用およびそれを制御、誘導するものとしての都市計画の視点が必要である。世界の都市はどのようにして、自らの都市の水辺の景観を継承し、かつ創造してきたのだろうか。本稿では、近代都市が形成される過程での水辺の形成史をレビューし、この課題に対して考察を行う。

(1)近代都市への脱皮と水の景観

 都市における水と緑の問題に都市計画の視点から、着手したのが、産業革命の進展に伴い、河川の汚濁、都市における住環境の悪化にいち早く直面したロンドンであった。19世紀中葉、テムズ川の両岸は、工場群、建築群により占められており、川沿いのパブリックアクセスは、存在しなかった。現在、国会議事堂から南北に連なる散策路は、ヴィクトリア・エンバンクメントとして、1860年代にテムズ川に新たな護岸をつくり、創出されたものである(図1、2)。

ヴィクトリア・エンバンクメント建設中風景の写真

図1 ヴィクトリア・エンバンクメント建設中風景

ヴィクトリア・エンバンクメントの写真

図2 ヴィクトリア・エンバンクメント

 ロンドンでは、この後、1930年代にテムズ川の広域計画を策定し、戦災復興計画をへて、現在のドックランドプロジェクトにいたるまで、一貫して、水辺と都市をつなぐ政策を展開してきている。
 ロンドンにおける水と緑の都市基盤のあり方に、影響をうけたのが、ナポレオン3世であった。彼は、亡命先のロンドンから帰国すると、すぐさま、パリ改造に着手した。特にセーヌ川については、並々ならぬ力が注がれた。その手法は、万国博覧会などのイヴェントにより、事業を牽引していくというもので、パリでは、1867、1878、1889、1900、1937年と万国博覧会が開催され、シャン・ド・マルス、エッフェル塔など、セーヌ川沿いに新たな景観のストックがうみだされた。近年では、駅舎を改造したオルセー美術館、シトロエン自動車工場の最開発なども、世紀をまたぐ、このようなセーヌ川沿いの水の景観創造のルーツに連なる。写真5、6は、近年、オープンしたシトロエン工場跡地につくりだされた公園である。川沿いに走る地下鉄を高架とし、セーヌ川へのパブリックアクセスを確保しているのが、特徴である。

シトロエン公園(パリ)の写真

(写真5)シトロエン公園(パリ)

シトロエン公園(公園からセーヌ川へのアクセス)の写真

(写真6)シトロエン公園(公園からセーヌ川へのアクセス)

(2)水の景観とネットワーク計画論の展開

 旧市街地を改造し、水辺の景観を生み出していったヨーロッパに対して、新大陸アメリカでは、拡大する市街地の成長に対応し、ネットワーク型の計画論が生み出された。これは、パークシステムと呼ばれる。
 パークシステムとは「公園のシステム」ではなく、正確には「公園と広幅員街路のシステム」を意味する。これは、市街化に先立ち、保全、創出すべき緑地をあらかじめ担保し、主要な街路計画と一体的に整備を行ったものであり、19世紀中葉から20世紀初期にかけて、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ボルティモア、ワシントン、カンザスシティ、ミネアポリス、セントルイス、ピッツバーグ、サンフランシスコ等、アメリカの主要都市の骨格的都市計画として実現されたものであり、日本にも大きな影響を与えた。その背景にある考え方は、良質の基盤整備によるアメニティと資産価値の向上、及び都市を緑で分節することにより、市街地大火災から都市を守る防災都市計画、及び水辺へのパブリックアクセスの確保であった。以下、その先駆的事例であるボストンのパークシステムについて述べ、その考え方について検証する。
 ボストンは、アメリカ東部のまちであり、その基礎は、17世紀初頭、イギリスから移住してきた清教徒により築かれた。ボストン湾に面した港湾都市として繁栄し、19世紀中葉になると、急速な工業化の進展と移民の流入により、市街地の拡張を行う必要が生じた。まず、はじめに行われたことは、市街地に隣接する沼沢地を埋め立てて、市街地をつくることであったが、行政当局には資金が不足していたため、州、市、民間の三者の出資による、今日の第三セクターを設立し、この事業を行った。この埋め立て事業の特色は、都心にあるコモン(共有地)から、新市街地の軸線として、並木のある広幅員街路(コモンウェルス・アヴェニュー)を整備し、旧市街地とは明確に異なる緑地を軸とする基盤整備を行ったことであった。このプロジェクトは、良好な民間投資を誘導することとなった。生み出された多大な利益は、大学、図書館等の建設へ資金として充当された。今日この地区は、歴史的建造物保存地区としてボストンで最も活気のある場所となっている。

ボストン・パークシステム図

図3 ボストン・パークシステム図

 このバックベイ地区の計画に触発され、次にボストン市が手がけたのが、隣接するマディー川の河川改修事業であった。マディー川は、都市の中小河川であり、たび重なる洪水による溢水地域であったが、ボストン市はコモン、コモンウェルス・アヴェニュー、そしてマディー川を結び緑地軸の創出を試みたのである(図3)。
 この事業を遂行したのが、フレデリック・ロー・オルムステッドであった。彼は、調整池に計画的に湿地植物の生息環境を整備し、河川の護岸は緩傾斜とし、自然環境の復元できる基盤整備を行った(写真7)。

ボストン・エメラルドネックレスの写真

(写真7)ボストン・エメラルドネックレス

 隣接地には、ボストン美術館、ハーヴァード大学の樹木園(アーノルド・アーボリータム)があり、これらの施設とマディー川が、連続した緑地として結日つけられた。また、ベンジャミン・フランクリンの寄付による基金を活用して200haにのぼる広大な田園公園が整備され、緑の都市軸が形成された。この都市軸の整備にあわせて、路面電車が敷設され、良好な郊外住宅の形成が促された。この整備は、1870年代の後半から約20年の歳月をかけておこなわれた。
 一方、河川を軸とするパークシステムは、広域圏における都市間の共働の必要性を喚起した。河川は市町の境界を越えて連続しており、中でも水資源の保護は下流に位置する大都市が責任をもって遂行しなければならないならない課題であった。ボストン広域圏に属する36の都市は、1893年にボストン広域圏公園委員会をたちあげ、それぞれの費用の分担を定め、広域圏における水資源、自然環境保護のための緑地の担保(買い取り)に着手するための法案を、州議会において可決した。保全すべき緑地の優先順位を明確にするため、広域圏における地質、水環境、植生、歴史的環境について、広範な調査が行われ、財源は、公園債を発行することにより、充当されることとなった。このボストン広域圏の事例は、その後、世界各地で取り組みが行われた広域都市計画の先駆的事例となった。こうして、1893年から1907年までの間に、4,082ヘクタールにのぼる河川を軸とする緑地が保全された。これらの緑地は、その改廃について、法に基づき、厳しい制限が行われたため、今日、そのほとんどの地域が、面積を減ずることなく、持続的に維持されており、市民のレクリエーションの場として、また、生物多様性を確保する保全地域として、存在している(写真8、9)

チャールズ川沿いの水辺の景観の写真

(写真8)チャールズ川沿いの水辺の景観

ボストン・メトロポリタンパークシステムにより保全された湿地の景観の写真

(写真9)ボストン・メトロポリタンパークシステムにより保全された湿地の景観

 ボストンにおける緑地計画は、上述したように、19世紀末から20世紀はじめにかけて、その基本的構造がつくりだされた。その後、急速な市街地の外縁的拡大がすすみ、1960年代以降、中心市街地のスラム化、空洞化が、社会的に大きな問題となった。ボストン市が当初、選択したのは、古い建築物を一掃し、新しい市街地をつくりだすことであったが、歴史的建築物保全の広範な運動がおこり、都市計画の方針は、保全修復型へと大きく転換した。なかでも、港湾都市として発達したボストンは、ウォーターフロント地区に歴史的建造物が集積しており、保存修復型都市計画は、この地区を中心に実施に移された。都市再生プロセスの初期の段階において、実施されたことは、民間投資を誘導するために、港湾施設に占拠されていた水際線に市民が憩うことのできるウォーターフロント公園を整備したことであった。この公園は、1975年より整備が開始され、廃墟となっていた税関跡は、ショッピングモールとなり、工場、倉庫は、博物館、住居として再生された。この時期より、ウォーターフロント地区を分断している高速道路を地下化し、跡地と公園化することにより、地区の再生を促す計画が策定された。このプロジェクトは、合意形成、財源確保に20数年の歳月をかけ、現在、地下化プロジェクトが進行中である。水辺は、市民の憩いの場として再生されている。
 図4は、ミネアポリス市のパークシステムの世紀に及ぶ変遷を示したものである。
 土地利用の骨格を河川と湖沼からなる水環境においていることがわかる。

ミネアポリス・パークシステム 1905の図

ミネアポリス・パークシステム 1905

ミネアポリス・パークシステム 1923の図

ミネアポリス・パークシステム 1923

ミネアポリス・パークシステム 1992の図

ミネアポリス・パークシステム 1992

図4 ミネアポリス・パークシステム

4-3 日本における都市の水辺

 日本において、都市の水辺は、どのような土地利用、及び政策がとられてきたのであろうか。江戸、東京を事例として検証する。江戸の各所図会には、日本橋、両国橋の袂における生き生きとした人と川の関係が描かれている。川に隣接する地は、河岸地とよばれ、江戸時代より、幕府の所有地であり、オープンスペースの担保が義務づけられていた。
 明治政府も、基本的にこの方針を継承し、明治9年にだされた河岸地規則には、「河岸地トハ、舟楫ノ通スル水部ニ沿イタル地ノ称ニシテ、従来確定セル民有地ノ外ハ人民之ヲ有スルヲ得サルモノトス」と明記されている。河岸を利用するものは、東京府に許可願いをだし、期限を決めて借り受けを行っていたのである。すなわち、水辺の空間は、公共的空間であり、市民のパブリックアクセスが認められていたことがわかる。
 このような歴史的経緯に大きな変化が生じるのは、大正8年に公布された旧都市計画法であった。その第9条には、「都市計画区域内ニ存スル国有河岸地ニシテ公共ノ用ニ供セサレモノハ第六条ノ費用ヲ負担スル公共団体ニ之ヲ下付スルコトヲ得」規定された。このため、都市計画事業の事業費の捻出のために、稠密な市街地における河岸地の切り崩しが行われる道が開かれることとなった。一例を東京の日本橋にみてみよう。日本橋周辺には、魚河岸、裏河岸、西河岸、四日市河岸の四つの河岸が存在した。現在は、橋詰め広場をのぞき建築物が林立しているが、土地台帳を明治から、丹念に追跡すると、昭和40年代の末まで、河岸地は、公有地として担保され続けてきたことが明らかとなった。河岸地の売却が一気にすすむのは、昭和50年代の美濃部都政の時期であり、財源確保のために、江戸以来350年続いたパブリックな空間としての、河岸の特性が根底から失われたのである。今日、日本において、河川に隣接し、高密な市街地が立ち上がっているのは、このような歴史的経緯に基づくものである。
 アメリカで誕生し、ヨーロッパ諸国にも大きな影響を与えたパークシステム型の都市基盤整備の考え方は、関東大震災後の防災都市計画の中で導入され、戦災復興事業で全国の戦災都市に適用された。その計画思想のストックは、全国いたるところに存在する。横浜では山下公園、東京では墨田公園、広島では、太田川の河川沿いを戦後一貫して、パブリックアクセスの可能な空間へと転換してきた。長崎の中島川沿い、鹿児島の甲突川沿いの緑地も、パークシステム型戦災復興事業の遺産であり、地域固有の水辺の景観を形づくっている。(写真10、11)。

広島市太田川沿いの水辺の景観の写真

(写真10)広島市太田川沿いの水辺の景観

長崎市中島川沿いの水辺の景観の写真

(写真11)長崎市中島川沿いの水辺の景観

 日本における都市の水辺を保全する施策として重要なものが、同じく大正8年の旧都市計画法で導入された風致地区である。風致地区とは、都市に隣接する緑地環境を維持するため、森林の伐採、土地の形状の変更、水面の埋め立てに規制を行い、あわせて建蔽率の制限、建物の高さのせ制限を行うことにより、環境の保全を行ったものである。対象地は、良好な樹林地や水面を有する地区に留まらず、歴史的環境を有する地域、温泉、住宅地など広範な地域に及んだ。1926年から1940年までに、全国で指定された風致地区は108都市、8万5500ヘクタールに及び、今日、それぞれの都市のシンボルとしての空間となっている。東京では、善福寺、和田堀、多摩川、水元等、郷土を代表する水辺の景観が、この制度により、一定程度の環境の保全が可能となり、今日に至る(写真12)。

広島市太田川沿いの水辺の景観の写真

(写真12)水元公園

 風致地区の指定と前後し、日本においても展開されたのが、水と緑を骨格として都市計画を行うという考え方であった。都市計画史からみると、1920年代に、イギリスで誕生した田園都市論と、パークシステム型都市計画論が合流し、広域都市計画の考え方が生まれた。1932年から7年の歳月をかけて策定された「東京緑地計画」は、今日の東京区部の骨格となっている(図5)。

東京緑地計画・環状緑地帯計画図

図5 東京緑地計画・環状緑地帯計画図

4-4 課題

 今日の都市における水辺景観の課題は、隣接する土地利用との関係を丹念にひもとくことにより、解決していくことが重要である。それぞれの地域は、固有の文脈をもっており、そのモザイク的集合体が、都市の水辺の景観を生み出している。
 例を東京の中心と西から東へと貫く、神田川を事例として述べる。図6は、東京の河川図であり、破線は、埋め立てられ、もしくは暗渠となった川である。中央を流れるのが神田川である。

河川図
図6 河川図

 図7は、東京緑地計画を踏まえた防空空地計画図であり、図8は、戦災復興計画である。神田川周辺は、いずれもオープンスペースを担保する空間として緑地地域として位置づけられた。

東京防空空地および空地帯図

図7 東京防空空地および空地帯図

復興緑地及び公園図

図8 復興緑地及び公園図

 緑地地区の制度は、1969年の新都市計画法制定時に廃止されたが、現在の緑地の分布状況をみると、緑地地域指定の有無による政策効果を如実に理解することができる(図9)。
 図10、11は、川沿いの水辺景観の現状を分析したものである。神田川の水の景観は、地形、自然環境のみならず、そこに展開されてきた都市の営みと密接に関係していることがわかる。
 図12は、地域の特性にあわせ、川と人との関係を再生させるためのモデル図であり、エコロジカル・コリダーの形成など(図13)様々の戦略の提案をおこなった。
 地区ごとの詳細な提案は、図14、15にその一部を示した。

神田川における緑地現況図

図9 神田川における緑地現況図

神田川における水辺の景観(杉並区環状八号線から環状七号線付近)の図

図10 神田川における水辺の景観(杉並区環状八号線から環状七号線付近)

神田川における水辺の景観(千代田区飯田橋から中央区豊海橋付近)の図

図11 神田川における水辺の景観(千代田区飯田橋から中央区豊海橋付近)

神田川都市再生ストラテジーの図

図12 神田川都市再生ストラテジー

神田川エコロジカル・コリダーの図

図13 神田川エコロジカル・コリダー

神田川と緑地ストックのネットワーク化の図

図14 神田川と緑地ストックのネットワーク化

神田川から密集市街地再生の図

図15 神田川から密集市街地再生

4-5 結び

 水は、人間の生活に不可欠であり、時には、大きな災害となり生活を脅かすが、人々は、さまざまの工夫をこらし、生活の中に水のある景観を育んできた。ユートピアとしてつくりだされた庭園空間の中には、文化としての水辺空間の思想が凝縮されている。混沌に見える都市の中にも、美しい水辺の景観を維持し、創出していこうとする思想は、脈々として流れていることを、本稿では明らかにした。
 急激な技術革新による都市化の時代であった二十世紀をすぎ、私たちは、機能の時代から生命の時代へ、国家の時代から地域固有の文化を大切にする都市の時代への転換期にいる。新しい時代の「水辺の景観」から、メッセージを発信していくことが求められている。
 市民の生活の中に生きる美しい水辺の復権には、隣接する市街地の土地利用との一体的思考、政策の展開が不可欠である。それは、地域により多様であり、具体的道筋は、そこに住む人々と行政が知恵を出し合いながら考えていかなければならない。既存の枠組みを取り払い、柔らかな思考の求められる時代となった。

(参考文献)

石川 幹子[2001]『都市と緑地』岩波書店.

 図1 ヴィクトリア・エンバンクメント建設中風景:出典:Barker, Felix and Jackson, Peter The History of London in Maps, Barrie & Jenkins, London, 1991, pp.130-131
 図2 ヴィクトリア・エンバンクメント:出典:Barker, Felix and Jackson, Peter The History of London in Maps, Barrie & Jenkins, London, 1991, pp.130-131
 図3 ボストン・パークシステム図:出典、Zaitzevsky, Cynthia. Frederick Law Olmsted and the Boston Park System, Cambridge, Mass:Harvard University Press, 1982, p5.
 図4 ミネアポリス・パークシステム図:出典、Wirth, Theodore. ”Minneapolis Park System 1883-1944, Retrospective Glimpses into the History of the Board of Park Commissioners of Minneapolis, Minnesota and the City ’s Park, Parkway, and Playground System, ”presented at the Anmual Meeting of the Board of Park Commissioners, July16, 1945.
Minneapolis Park and Recreation Board, The Grand Rounds Parkway System.(200)
 図5 東京緑地計画・環状緑地帯計画図:出典、『公園緑地』第3巻第2、3号口絵。
 図6 河川図:出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図7 東京防空空地および空地帯図:出典、『公園緑地』第7巻第4号口絵。
 図8 復興緑地及び公園図:出典、『公園緑地』第9巻第1号口絵。
 図9 神田川における緑地現況図:出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図10 神田川における水辺の景観(杉並区環状八号線から環状七号線付近):出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図11 神田川における水辺の景観(千代田区飯田橋から中央区豊海橋付近):出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図12 神田川都市再生ストラテジー:出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図13 神田川エコロジカル・コリダー:出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図14 神田川と緑地ストックのネットワーク化:出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 図15 神田川から密集市街地再生:出典、『都市の再生と神田川』慶応義塾大学湘南藤沢学会
 写真1 銀閣寺全景
 写真2 龍安寺石庭
 写真3 桂離宮庭園
 写真4 無隣庵
 写真5 シトロエン公園(パリ)
 写真6 シトロエン公園(パリ)
 写真7 ボストン・エメラルドネックレス
 写真8 チャールズ川沿いの水辺の景観
 写真9 ボストン・メトロポリタンパークシステムにより保全された湿地の景観
 写真10 広島市太田川沿いの水辺の景観
 写真11 長崎市中島川沿いの水辺の景観
 写真12 水元公園

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科学技術・学術政策局政策課

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