1.国内外における脳科学研究の現状と問題点について

1.現代社会における脳科学研究の意義と重要性

1−1 科学的意義

 脳は、人間が人間らしく生きるための根幹をなす「心」の基盤である。そのため、脳はいつの時代においても人間の科学的興味の大きな対象となってきた。脳科学は、認知、行動、記憶、思考、情動、意志など、人間の心の働きを生み出す脳の構造と機能を明らかにすることを通して、真に人間を理解するための科学的基盤を与えるものである。

 また、脳科学研究は、ライフサイエンスにおける生命システムの統合的理解の鍵であり、「脳の10年(Decade of the Brain)」、「脳の世紀」等の標語のもとに一定の財政支援が行われてきた。こうした支援にも支えられ、「人間とは何か?」という哲学的な課題を解決する糸口を与えることが期待できるところまで研究は進んできた。

 こうした研究の進展により得られる脳科学の研究成果は、多くの関連領域の発展に寄与するものであり、その波及効果は生物学や医学にとどまらず、薬学、化学、工学、情報学等の自然科学の多くの領域に広く及ぶ。また、これまでの知の枠組みの中では、自然科学と距離があると考えられてきた哲学、心理学、教育学、社会学、倫理学、法学、経済学等の人文・社会科学の領域に加えて、芸術等の諸領域を含むあらゆる人間の精神活動の所産である文化が、脳科学研究の対象となりうる。

 このように研究対象分野の広い脳科学においては、脳の構造と機能についての知見を学問として究めるのみならず、これまで専門分化して高度な発展を遂げてきた関連諸領域の成果を融合・活用していくためのプラットフォームを築く役割を果たしていくことが期待される。

 同時に、脳は、機能分化した機能素子間の高度な相互依存・相互作用によって、極めて全体性の高いシステムを形成するという大きな特徴を持っている。したがって、脳機能を効果的に解明するためには、従来の要素還元的な研究手法に加えて、多段階の階層構造をもつ複雑な生体システム、ことに分化した機能素子間の「相互依存・相互作用による全体性」に合致した新しい学際的・融合的な学問のスタイルと、それを展開する人材の育成が極めて重要である。

1−2 社会的意義

 心身の健康は、人々の切実な願いであり、また、心身の健康寿命を伸ばすことは、少子高齢化を迎える我が国が持続的に発展するためにも必要不可欠である。社会が高齢化し、多様化・複雑化も進む中で、精神・神経疾患や心に問題を抱える人の数は著しく増加しており、例えば、認知症とされる人は約170万人(※1)、うつ病等を含む気分障害は約90万人(※2)、パーキンソン病は約15万人(※3)(いずれも推計)、自殺者の数は毎年3万人以上(※4)とされ、大きな社会問題となっている

 近年の脳科学研究は、記憶・学習等の脳機能、アルツハイマー病やパーキンソン病等の脳病態、子どもの脳発達への環境の影響等を着実に明らかにしつつあり、また、脳とコンピュータ機器や身体補助具の開発との連携により、脳機能や身体機能の回復・補完を可能とする技術等の進展ももたらしつつある。このようなことから、脳科学研究は、少子高齢化社会を迎える我が国の医療・福祉の向上や、将来的には、乳幼児保育や教育が直面している問題等へ適切な助言を与えうるという観点で、現代社会が直面する様々な課題の克服に向けて、社会からの期待や関心は極めて大きい。

 また、国際的な経済競争が激化する中、我が国においても、社会に新たな活力をもたらし、経済成長に貢献するイノベーションの創出が求められている。脳科学研究の成果は、例えば革新的な情報処理・操作システム、介護支援ロボット、産業ロボット等の開発を可能とすることから、それらを通じて新しい知見や技術に基づく産業を創出し、社会・経済の発展に資することが期待される。

 さらに、人間が自然や他の生命体との共存共栄を図りつつ、豊かな循環型持続性社会を築いていくため、脳科学研究の成果に立脚した、人間と環境との相互作用に基づく新しい自然科学的人間観に寄せられる期待も極めて大きい。

 一方で、脳科学研究の進展により、脳に操作を加えることが可能となり、人格への影響があるのではないかとの危惧も広がりつつある。また、脳科学研究に関する不確かな知見が、検証されないまま広がることにより、あたかも真実のように扱われる危険性もはらんでいる。このようなことを十分に認識した上で、脳科学研究の推進を図る必要がある。

 脳科学研究に寄せられる社会からの期待の高まりにこたえつつ、脳科学が長期的な展望のもとで持続的な発展を遂げるためには、脳を個別の臓器として取り扱うのではなく、人間・社会・環境といったマクロな仕組みの中でとらえ、研究を推進することも極めて重要である。


※1 「認知症の医療と生活の質を高める緊急プロジェクト」報告書(平成20年7月厚生労働省認知症の医療と生活の質高める緊急プロジェクト)
※2 平成17年患者調査報告(厚生労働省)
※3 平成17年患者調査報告(厚生労働省)
※4 平成19年中における自殺の概要資料(平成20年6月警察庁)

2.これまでの脳科学研究の主な成果

2−1 神経細胞機能及び神経回路

 1980〜1990年代に情報処理に関与するイオンチャネル・受容体等の遺伝子のクローニングが行われ、その構造と機能の連関が明らかになった。1990年代以降には、神経細胞の興奮に依存して活性化する細胞内情報伝達分子(リン酸化酵素等)と、シナプス可塑性や記憶・学習機能との関連が明らかになった。また、特定の機能を有する分子の細胞内運搬、集積、維持等の細胞内分子輸送のメカニズムも解明されつつある。

 同時に、神経細胞の情報伝達のかなめとなるシナプスにおける神経伝達物質の放出とそのシナプス後部における受容・シグナル伝達に関与する分子の同定と機能の解析が進んだ。特にシナプス後部に存在する樹状突起スパインが、神経細胞間の情報伝達効率を調節する機能(可塑性)を持つことが明らかになり、その構造と機能の解明が進んでいる。さらに、従来の神経伝達物質の概念に属さない細胞間伝達物質や修飾物質の機能も明らかになっている。このほか、細胞内での機能分子可視化技術が進歩したことによって、受容体活性化による細胞内カルシウムの動態及びその情報伝達系の機構も急速に解明されつつあり、さらに遺伝子発現を介した長期的な脳機能の調節との関連を個体レベルで解明 する手法も開発されつつある。

 局所神経回路の機能については、大脳皮質を中心として、様々な脳領域における神経細胞サブタイプの化学的・電気的性質や、お互いの特異的な結合が明らかになってきたことによって、その解明の基礎が与えられ始めた。しかし、比較的構造が単純であるために理解が先行していた海馬の神経回路も含め、生体内(in vivo)での各種神経細胞及び特定の神経結合の役割をシステムレベルでの機能解明に結びつけるには、いまだギャップが存在し、その端緒についたところである。

2−2 発生・発達

 神経発生学においては、神経細胞がいつ、どの場所でどのように形成されるのか、特定の機能を持つ細胞へ分化するのかを解明することが重要な課題である。近年では、神経誘導や前後軸形成など、脳の基本的な解剖学的構造の決定や領域特異性の形成を支える分子メカニズムが明らかになってきている。

 神経幹細胞の研究では、ニューロンとグリアが共通の幹細胞から産生されることが明らかになり、その増殖、維持、分化に関与する分子シグナルの存在が確かめられた。また、脳内には、発生期だけではなく成熟期においても神経幹細胞が存在し、ニューロンを新生することが確かめられた。こうした基礎研究の知見をもとに、神経幹細胞を用いた神経変性疾患の治療や損傷神経系再生に向けた研究も進んでいる。

 分化した神経細胞は、標的細胞へ向かって軸索を投射し、シナプスを形成するが、この過程で神経軸索を誘引する分子と反発する因子が同定され、これらの受容体も確かめられた。また、シナプスを誘導する分子や特異的な細胞を認識する分子も同定されつつある。さらに、神経細胞の移動についても研究が進み、大脳皮質の層形成に必要な移動の制御が明らかにされている。

 神経系の生後発達期における研究では、感受性期(臨界期)の発現メカニズムの理解が進み、その開始や終止を薬物によって操作できる可能性が示された。また、高頻度使用シナプスの強化や低頻度使用シナプスの刈り込み等の形態変化及び機能変化が明らかにされた。発達期におけるシナプスの変化は、成熟期におけるシナプス可塑性とも関連し遺伝子組換えマウス等を駆使して個体レベルでも検証がなされている。

 さらに、特定の遺伝子が持つ機能を特定の部位や時期に操作する技術が確立され、脳の発達時期や部位に依存する機能の解明が進み、神経疾患の治療にも応用可能なことがわかってきた。

2−3 システム神経科学

 システム神経科学では、感覚、運動、認知、学習・記憶、情動、注意、意識など様々な脳機能に関する統合的な研究が進められてきた。感覚系では、特に視覚系において、知覚された情報は、どのような神経回路によって特徴抽出が行われ、階層が異なる脳領域で処理されるか、また、情報処理過程を通じてどのようにして「見える」という知覚や認知が生じるかについての概要が明らかにされつつある。聴覚系においても、階層構造のそれぞれの段階でどのような情報処理が行われているかについて、多くのことが明らかになってきている。

 一方、運動系に関しては、眼球運動や歩行運動などを生成する基本的な神経回路が明らかになるとともに、それらを調節する小脳や大脳基底核の機能や学習のメカニズムが明らかにされつつある。また、一次運動野以外の様々な高次運動関連領野の存在が明らかになり、行動の計画や実行におけるそれらの役割分担も明らかにされてきた。さらに、行動の選択や意思決定における大脳基底核や大脳皮質関連領野の機能解明も進んでいる。

 また、学習・記憶や情動に関与する側頭葉や扁桃核、海馬をはじめとする脳領域の機能分化に関する研究も進展している。さらに、注意や意識などより高次な脳機能についても研究が端緒についてきており、意識に関連する神経活動が様々な脳領域で確認されつつある。その中で、意識に上らないが行動決定に重要な役割を果たす神経活動の同定など、「無意識」の世界も研究の対象とされつつある。

 これらはいずれも、サルやラット、マウスなどを対象とする動物実験と、ヒトを対象とする非侵襲的脳機能イメージング法や脳に対する磁気刺激法、さらには計算論によるモデリングやシミュレーションなどの研究手法が相互に影響を与え合って展開されてきている。

2−4 自律脳機能調節機構

 自律神経や内分泌系を介して体温、血圧、血糖値などの体内の恒常性を維持し、睡眠・覚醒等の生体リズムの調整、摂食・エネルギー代謝の調節、適切なストレス反応等を統御する司令塔として生命と健康を支えている間脳(視床・視床下部)・中脳・橋・延髄及び大脳辺縁系を中心とした脳の基盤的機能(自律脳機能)に関する研究が進められている。

 多くの基礎研究を通じて、体温調節、循環、摂食・満腹の中枢や生物時計などの局在と機能的役割が明らかとなり、神経核をつなぐ回路網の神経伝達物質の同定が進められてきた。さらに、近年、これらの脳機能に加え、嗜好と報酬、攻撃性や母性行動などに、様々な神経ペプチドや生理活性物質等が深く関わっていることが明らかとなった。また、自律脳機能に関わる新規ペプチドの探索においては、我が国の研究者が先駆的な役割を果たし、国際的に高い評価を得ている。

 生体リズムについては、我が国の研究グループが世界で初めて、哺乳類の時計遺伝子(Period、Bmal1)を発見し、生物発光による分子イメージング法の開発により機能解析を飛躍的に発展させるなど、世界を先導する位置にある。また、体温調節や循環系の恒常性維持についても、温度、pH、浸透圧に反応するイオンチャネル(TRP:(transient receptor potential)などの様々なセンサー分子の同定、イメージングや電気生理学的手法を駆使した機能解明など、我が国の研究者が重要な役割を果たしている。

 さらに、末梢臓器からの液性因子や自律神経を介しての食欲・代謝調節などの生体恒常性と高次脳機能を制御・修飾する機構、ストレスによる循環疾患・代謝疾患・消化管疾患や免疫低下の誘発など、脳.末梢臓器連関、脳.免疫連関に関する研究も進められている。

2−5 精神・神経疾患

 神経疾患の中でも、特定の神経細胞が進行性に脱落する神経変性疾患は社会の高齢化とともに増加し、その重要性が増大しつつある。我が国で患者数約100万人のアルツハイマー病(AD)(※5)の研究は、過去20年間の病理生化学と家族性ADの遺伝子解析から、特定のタンパク質(β-アミロイド)の蓄積が共通の病因として認識されるに至った。我が国は、β-アミロイドの産生酵素の研究、分解酵素ネプリライシンの発見で世界をリードしている。また、ADにおけるもう1種類の病因関連タンパク質であるタウの蓄積の発見と細胞障害性の研究においても、我が国は大きく貢献している。また、陽電子断層撮像法(PET)により、ヒトの脳内アミロイドのイメージングが生体で可能となるとともに、遺伝子改変動物によるイメージング標的分子の同定も進められてきている。

 一方、我が国で患者数15万人を数える運動障害を主徴とするパーキンソン病(PD)(※6)については、家族性PDの病因遺伝子研究がきっかけとなり、病態の急速な解明が進んだ。特に、常染色体優性遺伝性PD遺伝子で孤発性PDの鍵を握るα-シヌクレインのリン酸化が見出されたほか、常染色体劣性遺伝性若年性PDの病因遺伝子であるパーキンの発見と細胞死メカニズムの研究で、我が国は国際的に高い評価を得ている。

 同じく運動障害を主徴とする筋萎縮性側索硬化症等の運動ニューロン疾患は、呼吸筋を含めた全身麻痺に陥る難病であるが、グルタミン酸受容体のRNA編集異常、蓄積タンパク質(TDP-43)の同定など、変性メカニズムに関する重要な知見が我が国から発信されている。また、異常伸張ポリグルタミンの蓄積を主徴とする脊髄小脳変性症の病因遺伝子の同定(SCA2、SCA3、DRPLA)と細胞障害メカニズム、治療(球脊髄性筋萎縮症)の分野においても、我が国の研究者が先駆的な役割を果たしてきた。

 精神疾患のうち、最も重症であり約76万人(※7)の総患者数がいる統合失調症、および気分障害の中で最も重篤な疾患である双極性障害に関しては、統合失調症家系における遺伝子(DISC1)の変異が注目されているほか、様々な遺伝的危険因子が報告されている。さらに、形態及び機能のイメージング研究により、総合失調症の聴覚皮質の構造異常や、視床、前頭皮質におけるドーパミン受容体の変化が注目されている。分子細胞生物学的およびシステム神経科学的アプローチにより精神疾患の全体像の解明に向けて、我が国からも統合失調症の不飽和脂肪酸代謝不全説や、双極性障害のミトコンドリア説が提唱されており、このような解析には、動物モデル研究と死後脳研究、さらにそれらをつなぐ生体イメージング研究が重要な研究戦略となっている。

 うつ病は、自殺の要因になるなど、我が国において大きな社会問題となっている。ストレスの影響を調べる研究、抗うつ薬の薬理作用を調べる研究は行われているが、病理学的研究はほとんどなく、疾患概念自体が未成熟であるとともに、客観的な診断法も未確立である。また、神経細胞の形態学的変化がその病態に関与するとの仮説が提案されているが、死後脳研究による検証はほとんど行われていない。さらに、うつ病には心理社会的ストレス、虐待などの養育の問題、生活リズムの問題、遺伝要因、性格、エピジェネティクス要因、脳老化など、さまざまな要因が関与することが示唆されており、多方面からのアプローチが期待されている。


※5 高齢者介護研究会報告書「2015年の高齢者介護」(厚生労働省)による平成17年の認知症推計患者数(169万人)の 60%(Meguro K, Ishii H, Kasuya M, Akanuma K, Meguro M, Kasai M, Lee E, Hashimoto R, Yamaguchi S, Asada T. Incidence of dementia and associated risk factors in Japan: The Osaki-Tajiri Project. J Neurol Sci. 260:175-82, 2007) として算出
※6 平成17年患者調査報告(厚生労働省)
※7 平成17年患者調査報告(厚労労働省)

2−6 計算論、ブレイン・マシン・インターフェース等

 我が国では脳科学における理論的なアプローチの重要性が古くから認識され、世界をリードする成果をあげ続けてきた。特に、神経回路網の数理現象を明らかにする分野では、我が国は世界のトップの位置にあると言える。また工学的な視点から、脳と神経回路網にヒントを得た視覚パターン認識機械の提案などでも、我が国は世界に大きな影響を与えてきており、小脳の理論モデルについては、実験研究のレベルの高さと相まって世界をリードしている。

 また、実験研究者と理論研究者が緊密な共同研究を行う我が国の特長を活かし、実験データの解釈から新たな実験パラダイムを創出する計算論的神経科学が進展してきている。なかでも、小脳の内部モデル理論、大脳皮質の確率推論、大脳基底核の強化学習など、脳機構を定量的にモデル化し予測することが可能になるとともに、実験脳科学との融合が急速に進んだ。また、独立成分分析やサポートベクトルマシンなど、脳内情報処理に学んだ新しい信号処理アルゴリズムや機械学習手法の開発が進み、広く応用されるようになり、さらには、脳の学習原理の一部について理論的な解明が進んだことを基礎として、感覚運動機能を持ち模倣・学習するロボットの設計、試作、応用が進んできた。

 脳型チップの開発は、人工網膜チップ(ビジョンチップ)等として産業化され、経済波及効果を生み出し、社会に影響を与えた。また、非侵襲脳機能計測によって得られた信号から、人間の意図や受容している刺激を推定する脳情報解読技術が目覚ましい進歩を遂げつつある。特に非侵襲的な方法で脳活動を計測し、使用者の訓練なしに脳内の情報を解読する技術では、我が国は世界をリードしている。それと補完関係にある脳情報制御技術と相まって、ブレイン・マシン・インターフェース技術としてさらにシステム化が進むことが期待されている。

2−7 社会性脳科学

 脳が発生・発達し、環境との相互作用によって高度な機能を得ていく過程において、「心」の形成過程や、社会的行動を規定し、多様かつ大規模な社会組織と文化の形成基盤となる「心」の働きを理解するための研究が、近年萌芽的に進められている。

 「心」の形成には遺伝的背景と生育環境が影響するが、前者については様々な発達障害の病態や遺伝子型に関する研究が展開されている。特に自閉症は、精神疾患の中でも遺伝率が高いとされ、その候補遺伝が探索されるとともに、モデル動物も開発された。後者については、生後最初に影響するのが親子関係であることから、親の養育行動と子の発達の因果関係に関して、動物モデルを用いた研究が展開されている。さらに、幼児期における虐待が精神発育にどのような障害を持ち、その障害はどのような養育を施すことでどの程度まで回復するかという問題を、脳機能の変化として捉える研究も開始されている。

 社会的行動の確立においては、自己と他者を識別し、他者の意図や感情を理解することが必要不可欠である。他者の心的状態を推測する精神機能は、認知心理学の分野では「心の理論」として研究されてきたが、その脳における実体を電気生理学的手法や脳機能イメージング法を用いて解明しようとする研究が現在行われている。運動の実行と他者の行為の両者に関わる「ミラーニューロン」は、当初、サルの運動前野腹側部で発見されたが、これと類似の活動がヒト脳機能画像でも検出されると、これを言語やコミュニケーションの基盤と見なした研究が進められ、「心の理論」と共通の脳活動も報告されている。このような「心」の働きを制御する脳機能の理解は、情緒障害、ひきこもり、いじめなどの社会的病理の解明に本質的であり、動物モデルとヒト脳機能イメージングの相互作用による研究の一層の進展が期待されている。

 人間社会の大きな特徴は、家族や近親集団に限らない多様で大規模な組織や、地球的規模での政治・経済ネットワークを構築することである。このことは、人間の持つ模倣や言語などのコミュニケーション機能と、その上に成り立つ文化的継承、さらに、それらの背後にある情動制御が深く関与していると考えられる。そのような観点から、個々の人間の心の働きに注目して経済理論を確立しようとする「神経経済学」が注目されており、また、人間が共存していくための社会規範や行動倫理の基盤となる心の働きがどのようなメカニズムで生まれるかについても、現代脳科学が解明すべき課題となってきている。これらの研究を推進するためには、従来の脳科学の枠組みを超えた、人文・社会科学諸領域との融合が必要不可欠な段階を迎えている。

3.国内外における脳科学研究政策の現状

3−1 海外における脳科学研究政策の現状

 米国における脳科学研究への期待の大きさを示す尺度の一つとして、国立衛生研究所(National Institutes of Health;NIH)では、2007年の研究開発費のうち、神経科学領域に投資された研究費は約48億1千万ドル(約57百億円)に上ることが挙げられる(※8)。この数字は、研究開発費以外も含めたNIHの総年間予算約290億ドルの約17%に相当しており、がんの研究開発に対する約56億4千万ドル(約19%)に匹敵する(※9)。また、この投資の規模は、単に脳科学研究に対する期待やニーズに比例しているのみならず、実際の波及効果にも確実につながっていることが示されている。例えば、NIHの国立精神疾患・脳卒中研究所が公表したデータでは、研究費を投じた8件の新規治療・予防技術により10年間にもたらされた経済的利益は、総額150億ドル(約1兆8千億円)に上ったとされている。

 近年の神経科学領域は、他の領域との融合を必要としていることを反映して、NIHではこれらの予算を背景に、神経科学と直接関連がないものも含めNIH内の16の研究所やセンターの連携により、神経科学のためのツール開発、リソース整備、及びトレーニングの推進を目的としたNeuroscience Blueprintイニシアティブを立ち上げている。このイニシアティブでは、神経疾患バイオマーカーの探索、制御可能な遺伝子組換えマウスの作成、脳イメージングの新たな技術開発、ニューロインフォマティックス、ブレインバンクや遺伝子発現データベースの構築等が進められ、こうした総合的な基盤整備に基づき、幅広い神経科学領域における研究成果の獲得を目指している。

 また、このイニシアティブでの研究対象としては、神経変性、神経発達、神経可塑性を取り上げており、特に神経変性については、アルツハイマー病やパーキンソン病など、これまで重点的に扱われてきた神経変性疾患に加えて、視覚や聴覚等の感覚器障害、薬物やアルコール依存、さらには、次々と明らかになっている精神疾患や慢性疼痛等との関連までも含めて、広範な疾患に対する治療・予防に資することを目的とした、多様な視点からのアプローチを可能とする取組を行っている。

 米国において、脳科学研究に対する助成を行うもう一つの政府系機関として、国立科学財団(National Science Foundation;NSF)がある。NSFの部局の一つ生物科学局の予算項目の中に、行動システム、神経回路の細胞生物学的な発達機構、計算論的神経科学、神経内分泌、感覚受容システム等の領域が設定されているほか、同局分子・細胞生物科学部の予算項目の中には、神経細胞の情報伝達機構、遺伝子発現調節、細胞膜、代謝研究が取り上げられている。さらには、社会学・行動科学・経済学局には、認知・精神・言語科学等を扱う行動・認知科学部が組織されている。このほか、N:ナノサイエンス、ナノテクノロジー、B:遺伝子操作技術を含むバイオテクノロジー、バイオ医療、I:進化したコンピューターとコミュニケーションを含むインフォメーション・テクノロジー、C:認識学的なニューロサイエンスを含むコングニティブサイエンス(認識科学)を融合、統一させた科学技術が、社会的かつ科学的な進歩を促進させるとの認識に基づき、ナノ・バイオ・インフォ・コグノ(NBIC)という研究開発政策が推進されている。

 英国では、医学研究会議(Medical Research Council;MRC)の2006年の神経科学・メンタルヘルス予算は、約1億9百万ポンド(約238億円)で、MRC予算の約19%であり、分子細胞生物学・基礎医科学予算の約1億9千万ポンド(約34%)に次いで2番目のシェアを占める研究領域である(※10)。英国保健省(UK Health Departments)全体の研究開発費における疾患種別の比較(2006年報告書)においても、がんの約28%に次ぐ約22%が精神・神経関連疾患に配分されている。また、MRCが優先度の高い研究領域として挙げている7領域のうち、4領域(慢性疲労症候群、多発性硬化症、心の健康に関する神経生物学的基盤、社会性神経科学)が神経科学に直接関連するものであり、高齢化や社会システムの変化に伴う精神・神経関連疾患に重点化する方向性が明確に打ち出されている。

 このほか、EU諸国では、多国間の共同研究開発体制が構築されてきていることが注目される。例えば、仏独共同の強磁場磁気共鳴による神経疾患のトモグラフ(断層撮像)技術プロジェクト(約2億ユーロ(約3百億円)/5年)では、仏国の強磁場磁気共鳴研究施設NEUROSPINと、独国の陽子線トモグラフィー施設(ユーリッヒ研究センター)との共同体制がとられている。


※8 独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター調べ
※9 独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター調べ
※10 独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター調べ

3−2 我が国における脳科学研究政策の現状

 1990年に米国で「脳の10年 (Decade of the Brain)」が開始され、これを契機に脳科学に関する幅広い活動が展開されたほか、欧州でもこれに続く動きがあった一方で、我が国においては、国全体としての総合的な脳科学研究の推進体制など総合力においては不十分であった(※11)ことから、「脳科学研究の推進について(勧告)」(平成8年4月日本学術会議)、「脳科学の時代」(平成8年7月科学技術庁脳科学の推進に関する研究会)、「大学等における脳研究の推進について(報告)」(平成9年3月文部省学術審議会特定研究領域推進分科会バイオサイエンス部会)において、研究支援基盤の充実や脳科学研究の推進体制の整備等が必要である旨が指摘された。

 これらを踏まえ、平成9年5月、当時の科学技術会議ライフサイエンス部会脳科学委員会(伊藤正男委員長)において、「脳に関する研究開発についての長期的な考え方」と題する報告が取りまとめられ、我が国における脳科学研究開発の戦略目標タイムテーブルが策定された。このタイムテーブルは、脳科学に関する研究開発領域を「脳を知る」(※12)、「脳を守る」(※13)、「脳を創る」(※14)の3領域に分類し、5年ごと20年間の具体的な研究開発目標を示した画期的なものであった(平成14年度から「脳を育む」(※15)領域を追加)。

 これを受けて脳科学研究の支援基盤の充実としては、科学技術振興調整費、戦略的創造研究推進事業(CREST)等を活用した政策課題対応型の脳科学総合研究のプログラムやプロジェクトが推進された。

 また、研究者の自由な発想に基づく研究(学術研究)を格段に発展させることを目的とする競争的資金である科学研究費補助金においても、特定領域研究として「総合脳」(平成10〜14年度)、「先端脳」(平成12〜16年度)、「統合脳」(平成16〜21年度)等が設けられた。なお、科学研究費補助金の制度見直しにより、特定領域研究は平成20年度に領域としての募集が停止され、新たに新学術領域研究が設けられた。

 また、脳科学研究の成果を活用し、人文・社会科学を含めた視点から学習のメカニズムに関する研究を推進するため、独立行政法人科学技術振興機構が実施する社会技術研究開発事業において、「脳科学と社会」研究開発領域を設定し、平成13年度より非侵襲脳機能計測や行動学的観察を組み込んだコホート調査の準備的な試行等を通じて、研究成果の社会への還元を目指してきた。

 さらに、脳科学研究の推進体制の整備としては、平成9年10月に、我が国初の脳科学総合研究機関として、特殊法人理化学研究所(当時)に脳科学総合研究センター(以下、「理研BSI」という。)が設立され、関連諸領域を融合した戦略的脳科学研究を先導的かつ総合的に推進するとともに、人事制度、国際化等に新しい仕組みが導入された。

 また、大学や大学共同利用機関等では、研究機関や研究者間を結ぶネットワークの構築等による積極的な研究活動が展開されるとともに、若手研究者の育成が図られた。特に、大学共同利用機関法人自然科学研究機構生理学研究所(平成16年3月までは岡崎国立共同研究機構生理学研究所)では、脳科学の関連諸領域の研究者と多くの共同利用・共同研究を行うとともに、国際シンポジウム等を通して研究者のネットワークを活性化した。

 一方、我が国の脳科学研究を総合的かつ計画的に推進するための基本的な方針や方策を示す役割を担っていた科学技術会議ライフサイエンス部会脳科学委員会は、総合科学技術会議の設置とともに平成12年度に廃止された。また、第2期科学技術基本計画(平成13年3月閣議決定)に基づき、平成13年9月に総合科学技術会議が取りまとめた「分野別推進戦略」において、ポストゲノム研究の推進が強く打ち出されたこと等により、平成12年度以降、科学研究費補助金の特定領域研究を除いて、脳科学研究に関連した大規模なプログラムやプロジェクトが新たに推進されることはなかった。このため、それまでに生み出された脳科学研究の成果を、実際の医療・福祉・教育・産業など、社会への貢献を見据えた研究に、重点的に取り組む方策が不十分であった。

 このような状況の中、第3期科学技術基本計画(平成18年3月閣議決定)に基づき、平成18年3月に総合科学技術会議が取りまとめた「分野別推進戦略」においては、「脳や免疫系等の高次複雑制御機能の解明など生命の統合的理解」、「情報科学との融合による、脳を含む生命システムのハードウェアとソフトウェアの解明」、「こころの発達と意思伝達機構並びにそれらの障害の解明」等が、ライフサイエンス分野の重要な研究開発課題(5年間に政府が取り組むべき重要な課題)として選定された。これらの諸課題は、融合的視点に立つ新しい脳科学研究によって推進され、その成果は、社会的諸問題を解く科学的な基盤として発展していくと期待される。

 また、文部科学省では、平成18年12月、研究振興局長の下に「脳科学研究の推進に関する懇談会」(金澤一郎座長)を設置し、これまでの脳科学研究の動向を踏まえた今後の脳科学研究の在り方について検討を行い、平成19年5月に報告書「脳科学研究ルネッサンス−新たな発展に向けた推進戦略の提言−」を取りまとめた。同報告書においては、重点的に推進すべき領域を設定し、各領域の研究の現状等を踏まえ、特に社会的要請や緊急性が高いものについて、戦略的に研究開発を実施することが求められている。

 これを踏まえ、文部科学省では、「社会に貢献する脳科学」の実現を目指し、脳科学研究を戦略的に推進するため、平成20年度より「脳科学研究戦略推進プログラム」を開始した。初年度の平成20年度においては、脳内情報を解読・制御することにより、脳機能を理解するとともに脳機能や身体機能の回復・補完を可能とする「ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)の開発」、及び脳科学研究の共通的な基盤となる先進的なリソース確保に向けた「独創性の高いモデル動物の開発」について、研究開発拠点の整備等を実施し、戦略的に研究開発を推進している。

 我が国の脳科学研究を支える政府予算規模は、年間3百億円程度で、ライフサイエンス関連予算の7%程度にとどまっている(※16)。前節で詳述した英国ライフサイエンス予算の主要部分を担うMRCの脳科学関連予算規模(約2.4百億円)と金額において比肩するものの、米国ライフサイエンス予算の主要部分を担うNIHの脳科学関連予算の規模(約57百億円)には大きく及ばず、またライフサイエンス関連予算に対する比率(英国19%、米国17%)においても著しく低いのが現状である。


※11 「脳科学の時代」(平成8年7月科学技術庁脳科学の推進に関する研究会)
※12 脳を知る:脳の構造と機能の解明、人の心の理解
※13 脳を守る:認知症・うつ病等の精神・神経疾患の予防・診断・治療法の開発、老化制御
※14 脳を創る:脳型デバイス・アーキテクチャの開発、脳型情報生成処理ネットワークとシステムの設計と開発
※15 脳を育む:脳の発生・発達の原理の解明、発達障害の予防・治療、育児・保育・教育への応用
※16 脳科学ルネッサンス(平成19年5月文部科学省研究振興局脳科学研究の推進に関する懇談会)

4.脳科学研究推進に向けた課題

 我が国の脳科学全体の状況をみると、主に以下のような課題、改善すべき点が指摘される。

 第1に、我が国の脳科学研究の水準は高いのにも関わらず、基礎的な知見の集積の基盤となる研究を長期間に安定して支援するための方策が不十分である。

 第2に、脳科学研究に対する社会からの期待が高まっている一方で、脳科学研究の成果を社会に結びつけるための重点的な推進方策が不十分であり、基礎研究と社会への貢献を見据えた研究の間に大きなギャップが存在する。

 第3に、我が国の脳科学研究推進の基盤となる大学において、我が国の脳科学研究は、講座や研究所の一部門などの小さな研究単位で主に行われており、特色を活かした、より大規模の研究教育拠点及びネットワーク形成が不十分である。

 第4に、「総合的人間科学」を可能とする生命科学的基盤の1つである脳科学(※17)について、世界の一流機関と伍していくことができる競争力の高い国際的研究拠点の強化が不十分である。

 第5に、脳科学の特徴である学際性・融合性を十分に引き出すことのできる広い視野と深い知見、卓越したスキルを備えた人材を育成するための研究教育が、21世紀COEプログラムやグローバルCOEプログラムなどの時限付きの体制による取組に留まっており、長期的視点による脳科学の人材育成に取り組むことができていない。

 第6に、脳科学が自然科学としての信頼性を失いかねないような事態を避けるとともに、研究成果に関する誤った情報が社会に流布されることのないよう、脳科学と社会との健全な関係構築、及び倫理性の確保が課題である。

 こうした課題等を踏まえ、科学的・社会的意義が高い脳科学研究を効果的に推進するためには、関連諸領域との連携による新たな研究領域の開拓・醸成を視野に入れた高い目標を掲げて、脳科学研究を継続的に推進するとともに、学際的・融合的な研究領域が確立できるような研究体制・研究組織を構築して、我が国における脳科学と関連諸領域の飛躍的発展を目指すことが急務である。

 そのためには、長期的展望に立って我が国の脳科学研究の推進方策を策定し、それに基づき、人類の英知を生み知の源泉となる基礎研究や政策課題対応型研究開発をバランスよく推進するとともに、大学、大学共同利用機関、独立行政法人等がそれぞれの特色を生かしながら協力し、効果的に脳科学研究を推進し、人材を育成する体制を構築することが必要である。

 また、脳科学研究者は、脳科学の個々の専門領域に閉じこもることなく、機能分化した機能素子間の「相互依存・相互作用による全体性」といった脳機能の特徴や、学際性・融合性といった脳科学の学問としての特徴を最大限にいかすことのできるような研究に対する姿勢や科学観を身につけることが望ましい。

 さらに、脳科学研究の進展により、従来の人間観、倫理観、宗教観に急激な変革がもたらされ、社会との間に軋轢が生じる可能性も否定できない。脳科学研究の成果を社会へ還元するための大前提として、社会との調和に配慮して研究を進めていくことが肝要である。

 こうした観点を踏まえ、次章以降では、第2章において脳科学研究の基本的構想としての「脳科学研究が目指すべき方向性」と「推進についての考え方」を整理した上で、第3章以降において、その構想を実現するための具体的な推進方策として、「推進体制(第3章)」、「人材育成(第4章)」、「社会との調和(第5章)」に関する提言を行っていく。

 これらの提言を、現状の課題、目標、発展段階に沿ってまとめたものが別表のロードマップである。これは、脳科学研究全体を支える基盤技術開発を底流として、多様な学術研究を継続的・重厚に展開し、その結果として創出されるシーズを基に、政策に基づき将来の応用を目指す基礎研究や、さらには社会への貢献を見据えた研究としての政策課題対応型研究開発を、明確な時間軸に沿って戦略的に推進するといった方向性を、図として表したロードマップである。また、学際的・融合的研究環境の実現に向けた、人材育成の在り方や、効果的な研究推進体制についても併せて記載している。

 詳細については、次章以降で述べるが、脳科学委員会としては、本ロードマップの概念が、広く脳科学に携わる研究者等に普及されること、並びに本内容が研究現場における具体的方策に反映されることを強く望むものである。


※17 今後のライフサイエンス・ヘルスサイエンスのグランドデザイン(平成20年8月日本学術会議報告)

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