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中央教育審議会

2000/12/05 議事録
中央教育審議会  総会(第240回)  議事録

        中央教育審議会  第240回総会  (議事録)

  1.日    時        平成12年12月5日(火)  10:00〜12:00

  2.場    所        霞が関東京會舘    「ゴールドスタールーム」  (35階)

  3.議    題        新しい時代における教養教育の在り方について討議

4.出席者  【委  員】  【事務局】
根本会長 本間総務審議官
木村座長 寺脇政策課長
河合委員 白川審議官(生涯学習局担当)
國分委員 御手洗初等中等教育局長
小林委員 工藤高等教育局長
坂元委員 その他関係官
志村委員
杉田委員
高木委員
田村委員
土田委員
永井委員
松井委員
横山委員

  5.議    事

○根本会長 おはようございます。第240回の総会を開催させていただきます。本日は,「新しい時代における教養教育の在り方について」(審議のまとめ(仮称))の案について,前回の総会の議論を踏まえて修正した点を事務局から説明していただいた上で,皆様との審議に入りたいと思います。では,事務局から修正点の説明をお願いします。

        <事務局から説明>

○根本会長  どうもありがとうございました。それでは,どなたからでもどうぞ。

○  細かいことだけ申しますが,今までの議論の中で,考えてみたら「IT革命」とか,「遺伝子革命」とか言ってますが,「革命」という言葉が中央教育審議会に出てきたのは初めてかもしれませんね。これは俗語ですけれども,こういうときに本当に「革命」という言葉を使っていいのかなと。
  それから,これは非常に難しいことですが,教養というときに,型をはっきり教え込むという方法と,型にとらわれずに伸び伸びやるというのと,全く違っているんですが,どっちも大事なんです。下手すると,型のほうを重要視し過ぎると,どうしても上から教え込むのが強くなってくることがあって。しかし,これは何も悪いことはないわけでして,どんなふうに表現するかということですが,置いておいてもいいとも思うんですが。

○  「どのように教養を培っていくのか」について,「特に重視すべき観点」として2点の例を挙げておりますが,その中で「異文化との接触」ということを言っております。私もそのとおりだろうと思うんですが,当然の前提にしているとは思うんですけれども,異文化というのは国との関係だけでないとは言いますが,かなり異国の文化というものが大事なことだろうと思います。やはり我が国の文化,伝統,あるいは歴史,我が国のことを知って初めて外国の文化も理解できるということ,当然それを前提にしていると思うんですけれども,その点について,なお考慮の余地があればと思います。確かに,我が国の「独自の伝統や文化,歴史等に対する理解,異文化など自分とは異なるものを理解する資質・態度」とありますのでその話を前提としているように思われますが,このことは大事な点なので,もし許されれば触れていただければと思います。

○  国語の力について,これは非常に大事なんですが,これで直ちにカリキュラムの中での国語の時間増だけの対応にならないような配慮をしていただければと思います。例えば,国語の教科書で,小学校の発達段階に合わせた文章があるんですけれども,例えば理科のいろいろな説明とか,社会科のいろいろな説明を,3年生用の文章で表現する,それも国語なんです。理科的な文章を読んだり解釈したりする。ですから,いろいろな科目を通しての国語の力というような配慮をしていただけるようにお願い申し上げたいと存じます。
  それから,読書は非常に大事なんですが,今の子どもたちに,特に読書が大事ということで,書き込んでいいんですけれども,ラジオとか,テレビの教育番組あたりでの体験とか,想像力の増大を入れると,読書からそっちへウエートが移っちゃうので,ちょっとつらいかなという面もありますが,その辺は読書を大事にしていきながら,そちらの新しいメディアによる知識の吸収みたいなところが入ってくるかなということでございます。
  最後にもう一つだけ,カリキュラム内の教養教育とカリキュラム外の教養教育で,「カリキュラム外の教養教育」について,例えばボランティア活動とか,企業とか,それから職業体験,スポーツなどがございます。これを一部はカリキュラム化するとか,大学が支援するということがあってもいいかなと。つまり,少子化で,だれでもが大学に入れる時代になったときに,こういうものを正規にカリキュラム化して,それにかなりウエートを置いた大学教育が出てくるんじゃないか。21世紀の大学で,特にだれでもが入れるような種類の大学では,こうしたことを正規のカリキュラムにすることが大事かなと思いますので,「このような活動の一部も大学によってはカリキュラムにしたり,積極的に支援する」なんていう文言が入り得るかなという気がいたしました。

○  異文化について,「異なるものを理解し,忍耐と寛容の精神をもって受け入れ」とありますが,「寛容」ですらちょっと見下すような響きがあると思いますし,「忍耐」というのはいかにも嫌々受け入れるというので,ちょっと考えていただきたい気がいたします。

○  「忍耐と寛容」というのは,要するに「ペイシャントであれ」ということでございます。夫婦の間でもペイシャントが必要なわけで。また,「トレラントであるべし」と。夫婦の間でもトレラントであるべしということは通用するわけで。この翻訳をどうするか。「ペイシャンス・アンド・トレランス」という意味でございます。

○  そういう意味にとった上で,私はよく学生などに話しますときに,「受け入れる」とか,「寛容」とか,そういう言葉を異文化に接するときに言うけれども,それではあまりにも消極的だ。いろいろ異なった宗教,文化が世界に様々あることを,積極的に喜ばしいと思うという考え方を持ちたいと言っております。

○  「大人が高等学校や大学,大学院で学ぶことが当たり前のように考えられる環境」とありますが,生涯学習の観点からは,私もこのとおりだろうと思います。ただ,ここで意味していることは,大学あるいは大学院等で学びたいときに学ぶことができるような環境という意味でも扱ってくれているのではないかと思うんですが,大学に行かない方も我が国にはまだ半分くらいいるわけでありまして,「学ぶことが当たり前」というような言い方にちょっと違和感を感ずる人が出てくるのかなと思ったのが,1点でございます。
  それから,この報告書をどのような形で出すのかについて,終わりに何か言葉を付け足したほうがよいのではと思いました。

○  まず,「長い間人々の心のよりどころであった家族や地域共同体,会社などに従来のような形で依拠する生き方は」とありますが,「従来のような」とか,「長い間」という表現で否定されてしまうものばかりでない価値観ということで,家庭や地域社会や企業に,一方では残さないといけない価値観もいろいろあるんだろうと思うんです。確かに家族の問題,地域社会の問題,また企業も,それぞれ変わりつつあり,それもいい変わり方と悪い変わり方と両面を包含しているのではないかという感覚で読みますと,もう少し言葉が要るのかなという感じがこの部分についてはいたします。
  それから,「社会としての品性」という言葉が使われておりましたが,例えば日本の歴史を振り返ってみたときに,いつの時代,どんな時代が社会としての品性があった時代と評価できるのか。社会としての品性等を,それぞれの民族が自ら評価するということは極めて難しいことではないのかなと。ですから,「輝きを増すもの」と抽象的にはおっしゃられる意味はわかるんですが,例えばトロイの遺跡等にかかわられたドイツのシュリーマンが幕末に日本に来ておりまして,彼がその前に訪れた中国と日本の両方を見比べて,彼の物差しによる当時の日本社会の評価をいたしております。ちょうど幕末あるいは江戸幕府が終わろうとしているときの日本についての彼の評価は,すばらしい評価があるわけです。そういう意味で,民族なり,国家あるいは社会についての品性を自らが問い得るものなのか。感じていることをうまくお伝えできていないかもしれませんが,そういう意味で,「社会としての品性」の含意するものについて,もう少し説明を加えたほうがいいのではないかという感じがいたします。
  先ほど御議論がありました「忍耐と寛容」ということで,これは「ペイシャンス」であり,「トレランス」だというコメントもございましたが,今,我々が問われているのは,一方で理性的に主張することの弱さみたいなものを問われている面があるのではないか。もちろんアロガントであってはいかんわけですけれど,ここはほかの価値観のほうが,異文化の持つ価値観のほうがいいんだと。異文化と接しつつ,それを受け入れつつ,一方では理性的に是とする価値観を主張することの大切さみたいなものも少し要るのではないかという感じがしております。
  それから,「子どもから見て魅力のある大人社会」,あるいは「子どもたちが大人社会に夢や希望を持てなくなっていること」とありますが,最近は時代の大きな変わり目の中で,将来,例えば年金問題等の不安が非常に多いとか,あるいは今年の18歳卒業者の方々の就職の決定状況等,非常に深刻なものがあるわけです。親の時代より,子どもにとっての未来がよりよい仕事なり生活,人生を持つことができるという予感を与えられる,与えられないという目で見ていったときに,大人社会がこういう形で評価されることについてどうなんでしょうかと。親の世代,あるいは親の生きた時代について,子どもたちにもっと説明する必要があるという印象を,例えば年金の議論に参加してみまして非常に感じることが多いわけです。私一人の印象かもしれませんが,子どもから見て魅力のある大人社会というのは,どういう社会をいうのでしょうかということとあわせていただいたほうがよりよいのではないでしょうか。
  「個人の責任を明確にした上で,やり直しのきく教育の仕組みの実現や失敗の許される社会環境の醸成」とありますが,「やり直しのきく」とか,「失敗の許される」という,最近,この手の表現はいろんな分野で多いわけです。では具体的に「やり直しのきく教育の仕組み」というのは,どういう教育をイメージされていて,それから「失敗の許される社会環境」というのは,言うほど簡単に日本の社会でつくり得る話なのかどうか。その辺のことについても,もう少し意図する意味を説明する必要があるのではないか。

○  今御指摘のあった家族と地域共同体なんですけれども,おっしゃる意味は,まさに私もそのとおりだと思うんですけれども,「長い間人々の心のよりどころであった家族や地域共同体」などの在り方が急速に変わっていく中で,家族の価値と地域社会をはじめとする共同体の価値の再構築が喫緊の課題となりつつあると,そういうようにすればもっとはっきりすると,こういう御意見ですね。

○  そういう面もあるかと思いますが,逆に今,家族の大切さを従来以上にみんな強めて思い出している。そんな感じが受けとめ方としてあります。

○  ヒアリングの際に機会をいただきましたので,前にいただいた文章,今回の文章を読ませていただいて,こういうことが加えられるといいなという意味で,3点ぐらい申し上げさせていただこうと思っております。
  1点目は,これは例の参考意見をお伺いしたときに,寺島さんも触れていましたが,私もそのとおりだと思ったことは,これからの21世紀の社会,特に日本の場合に確実に言えることは,教養教育が大衆化されるという部分を強調する必要があるという考え方であります。つまり,日本国民全員が外交官になるという,寺島さんはそういう言い方をしていましたけれども,まさに教養教育は特殊な層,日本人のある層がエリート的に身に付けるというのではなくて,国際化が進んで,日本人として外国人と付き合う機会が非常に増えるわけですから,教養教育の大衆化というのでしょうか。
  現場でいろいろな話をしたときに痛感するんですが,教養教育とか,エリート教育的なことをお話ししますと,それは先生方に拒否反応があるんです。要するに,「落ちこぼれをつくるのか」という言い方をするわけです。それは教養教育の内容が高度になればなるほど,ついてこれる人とこれない人が出てくるわけですから,そういう性格があるんですけれども,だからといって教養教育をやらないわけにいかないとすれば,解決の方法としては,敗者復活,やり直しのきくシステムを日本の社会に入れるというのが一番いい解決の方法だと思います。本人がその気になれば,いつになったってやり直しができる。特に生涯学習,あるいは初等中等教育,高等教育で教養教育を取り上げるとなれば,その性格をかなり強く述べる必要があるのではないか。これは最初のところでお触れになっておられるんですけれども,教養教育がそのように性格を変えたものとしてこれから行われる,みんなが考えなければならないことなんだという部分を少し強調する必要があるのかなというのが1点でございます。
  2点目は,これは全体の中に読み取ることができるんですが,これからの世界で人間として生きるために必要なことは,カギは「命」ではないかと思っているんです。自分の命とか,人の命という,命をいかに生かすか。命を充実させることが自分の教養教育であり,人の命を大事にすることが環境問題を議論することであり,共生につながる考え方という意味で,「命」のことを触れられないだろうか。命を触れますと,宗教の話につながっちゃうんですけれども,その辺のところをやはり触れる必要があるんではないか。日本人というのは宗教に非常に弱いんですけれども,命を考えるところから宗教が生まれ,そして宗教が正しい意味での職業観とか,人の役に立つということの意味を伝えてくれてきているのではないかという気がしますので,できましたらということですが,そんな感じを持ちました。
  3点目は,まさに先ほどの委員の方がおっしゃった部分と重なるんですが,もう少し日本の過去のよかったことに触れて,思い出させて,それを誇りにつなげられないだろうか。例えば,シュリーマンの話が出ましたが,ペリーもそうですし,もっと古く言えばフロイスも,日本への印象として非常にすばらしい民族であるということを書き残してくれているわけです。当時の国際交流では,日本は非常に高く評価されたわけですが,そのことを思い出して,何とかやり直しをしようではないかということがどこかに入るといいなと思って,感想を申し上げさせていただきました。

○  議論に先立って教養教育の在り方を考えますと,私どもが今立っている足元,土台の認識はどうなっているのかが重要となります。議論してもなかなか尽きない,それに立脚する地盤が違いますと相違した表現になるわけです。しかし,それにもかかわらず,日本という国土,あるいは歴史を踏まえた場合の認識として,真っ暗闇であったとか,影の部分ばかりという発言は非常に誤った認識である。むしろそれが現在の混迷のもとになっているという言い方もできるのでないか。したがいまして,糺すべきところは正し,主張するところははっきり発言していく。何か分裂国家のような形で,しかも,それを全部ひっくるめた体制で推進しているというところに,混乱が生じる。教育の上でもそれが多々見られるという状況ではないかと思います。
  したがって今回の報告書は,前に私も申し上げましたが,別の委員からも主導的御発言がございました,極めて簡潔にかつ短くしろという御指摘は,重要なところだけを取り上げて示すことが,議論誘発となって,そうして一つの方向へ集約あるいは是正ができていくのではないかという期待をかけた発言と受けとめ,賛同した次第です。
  もう一つ,前々から私は,常に理想像を打ち立てていくことが,教育において根本的重要な意味を持つと認識しておるのですが,ともすればリーダーシップ,あるいは富士山の方を向いて行きましょうというやり方が,必ずしも成功ではなく,随分影の部分も引きずってきた。こういう事実にかんがみまして,それに触れることはタブーであるとの意識がかなり低迷の原因とも思っております。しかし,無期限の低迷は許されないわけで,コンセンサスとしてある程度の主張をはっきりさせながら,方向づけをしていく。誠に極めて抽象的な言い方で,もっとはっきり申し上げたいのですが,ここでは抽象的発言をお許しください。機会を頂きました折に,もっと踏み込んだ意見も申したいと存じます。

○  全体的な印象から言いますと,コンパクトにしなければいけないということだったんだと思うんですけれども,ちょっと抽象的で,有識者の先生方の顔を思い浮かべながらこの文章をたどるとわかるんですが,一般的には国民の皆様にああいう具体的な,有意義な意見をどれだけこの文章の中で還元できるのかなということがございます。ですから,狂言のところだけ非常に突出しているような感じになっておりますけれども,型の問題は狂言だけではなくて,伝統的な生活文化,生け花とか,茶道とか,皆あれは型はでございます。型から入る。その型から入るものの中に,東洋の知恵のようなものがある。そういうもうちょっと一般的な形で文章を起こしていただくと,ある程度説得力があるのではないか。私たち戦後,そういう型から入るというものを,どちらかというと否定してまいりました。自由に西洋流に自分がよければいいのだというふうにやってきたんですけれども,逆にああいう話を聞くと,やはり型の知恵,日本の伝統的な知恵,何かわからないけれども型から入る。ピアノのレッスンなんかも,考えてみれば指先の使いなどはそれなんですけれども,そういうことを忘れているのかなということを思い起こさせてくれたような気がするわけです。そういう意味では,特に「狂言」と書かない一般的な書き方がありうべしと思います。
  それと同じようなことですが,例えば中村桂子さんの生命倫理の話は価値につながるのではないか。それこそ普遍的な価値につながるという御指摘は,そのとおりだと思います。自然体験とか,いろいろ書いてあるんですけれども,恐らく巻末の資料かなんかで先生方の意見のまとめが出るんだろうと思うんですが,何かうまい言い方で,この抽象性をカバーする,「あ,そういうことなのか」とわかるような,せっかくのいいお話をうまいこと添付するような形で生かせないかなと思います。
  それから,文章が全般的にそうなんですが,あいまいな文章が非常に多いんです。それから,文章が受動的に書かれている。もっと行動的なふうに書いたほうがいいと思います。
  いろいろ申し上げたいことがあるんですが,大変短い期間ではなかなかできないので,できる範囲の中で,今私が申し上げたようなことで,わかりやすくやっていただければ大変ありがたいと思います。

○事務局  私どもの説明が不十分で恐縮でございますが,この「教養教育について」の審議が今日で終わりということではございません。最終答申は,さらに年が明けてまた御議論をいただく中で――それはそう思われるのも仕方がないんで,今までは答申を出しますときに,「中間まとめ」というのをまとめます。そうすると,その「中間まとめ」に各界の御意見があって,多少直るところはございますが,基本的にそれより範囲が広がるということはないというのが「中間まとめ」でございます。
  今回は,「審議のまとめ」でございます。つまり,実はこの「教養教育の在り方について」の答申というのは,さっきから話が出ておりますような,具体的な提案等も含め,あるいは具体例も含めて,例えば最終的には巻末に資料をつけたり,先ほどお話に出ました有識者の御意見もつけたりした冊子になるようなものを想定いたしております。
  ちょっと変則的になりましたのは,この審議会がこの12月末で,全く外的な行政改革の関係で,中央教育審議会の再編成ということになるわけでございまして,文部省の七つの審議会を統合いたしまして中央教育審議会というメンバー30人の審議会に再統合され,この審議会が形式上なくなるものですから,この時点で,今までまとめてきたことをとりあえずまとめておこうということでございます。したがって,もちろんまだまだ議論すべきことはございます。
  それから,抽象的になるのも,今後の議論の方向性の部分だけまとめておこうということでございまして,大体どういう概念に基づいて最終的にまとめるかを,仮にこのメンバーが代わったとしても,今までこういう考え方でまとめてきた,新たに参加する人もそのことをわかって,次の議論に加わってくれよという思いもございまして,まとめておるものでございます。

○  細かいことですけれども,ただ1点,「教養教育の在り方を検討するに当たっては,高等教育だけではなく,初等中等教育を含めた学校の教育活動全体」の後に「教育的配慮の下に幼児期から学校外で行われる」云々とありますが,幼児期という教育を考えた場合,やはり家庭教育とか,そういうものが中心になるので,そのときに「教育的配慮」という言葉と,「幼児期から学校外で行われる様々な」ということで,「学校外」がここに出てくるのは,ちょっと論理のつながり方がおかしいのかなという感じがしたわけです。いろいろ御意見をいただきたいんですけれども,できれば「初等中等教育も含めた学校の教育活動全体や家庭教育を中心とする幼児期からの教養」と言っていいか,あるいは「しつけ」と言っていいかわかりませんが,「しつけや,その後の社会生活での様々な体験を通じて,生涯にわたっていかに教養を身に付けていくか」とやったほうがすんなりいくのではないかと考えたんです。ほかのところと比べてここだけが,内容はわかるんですけれども,つながりが私自身はどうかなと思ったので,御配慮をいただければと思います。

○  全体的な構成は,前に他の委員からコンパクトにまとめろということで,3章構成で,「Why」「What」「How」という形でまとめられている全体の構成については異議はございませんし,大変読みやすくなっているのではないかと思います。
  ただ,今まで委員の方々から御指摘されたことと重複するところはできるだけ避けたいと思いますけれども,一つは,教養教育のとらえ方にかかわって,「教養とは,万人に共通なものではなく個人の属性や職業,生き方などによって具体的に必要とされる内容が変わる可変的なものである」とありますが,ヒアリングをしたどなたかがおっしゃいましたし,寺島さんや広中先生だったか,かつてのようにごく一部の社会をリードしていくような人々を対象にした教養を考えるのか,そうではなくて,大衆全体,万人に共通なものとしての教養を考えるのかということは,その際にも意見があったんですけれども,私としては万人に共通に必要な一般教養を基本に置いて考えるべきだと思うんです。
  学校教育法を見ていたら,42条の「高等学校の目標」のところに1か所だけ「教養」という言葉が出てくるんです。そこではもちろん具体的には書いていないんですけれども,「社会において果さなければならない使命の自覚に基き,個性に応じて将来の進路を決定させ,一般的な教養を高め」云々ということで,「一般的教養」というのが高等学校を終えるに必要な目標の中に挙げられているんです。そういうことを考えたりすると,さっき指摘した指導的立場にある者を強調するような文章表現はむしろ必要ないのではないかと一つは思います。
  それから,型の問題について,「読み・書き・計算」を型にはめて教え込むみたいな形のものがあって,今回,そこは表現としては若干緩められていますけれども,読む人によってはここは誤解を生みやすいので,この表現は少し変えたほうがいいのではないか。確かに野村萬斎さんがそういうことを指摘されたことは事実でありますけれども,それを教養教育の中で,型だけをピックアップして取り出して,そこで引用をするというやり方でなく,もっと一般的に書くか,何か工夫をしていただきたい。
  それから,今,家庭教育の重要性とか,地域社会,コミュニティ,共同体としての教育力をいかに見直していくかということで,中教審は15期以来ずっと強調してきているのが,ここで今までの中教審が主張してきたそういう考え方が間違っているかのように受け取られかねないような表現になっている点については,会長もそこは工夫したいとおっしゃっていますけれども,少し考えていただきたいと思います。
  なお,全体として「Why」とか,「What」のところはいいんですが,「How」のところが具体的に教養教育を重視して,これから具体的にどのようにやるのかということについてはほとんど――例えば国民会議みたいに,17の提案みたいにズバッと,何をどうするというのが,この中ではないと言えばないですし,またそれは確かに難しい面があるし,2002年の学習指導要領の改訂をめぐっても様々な意見がある中で,指導要領そのものをここで部分的に手直しするということはできないということですから。それにしても,国民全体に与えるインパクトとしては,何か具体性のあるものを一つか二つ出さないと,非常に抽象的な教養教育が大事だということの一般的な提案に終わってしまいかねないということを,全体を通じた印象として持っております。継続されるということですから,その部分については今まで議論があまりなされていませんので,とりあえずは引き継ぐ形での審議経過をこういう形で,次の中教審の方にバトンタッチするという意味であれば,この段階ではやむを得ないのではないかと思います。そういう印象を持っていることを申し添えておきます。

○事務局  今後の扱いについては,この部分だけでは,率直に申し上げて文部大臣からの諮問文に全部答えることにはなっておりません。全部諮問に答えていただく際には,今ございましたような具体的な面,提案等も含めて答申をいただかなければいけないと思っております。したがって,また今後,審議を続けていって,「中間まとめ」という形にするかどうか,そこら辺の取り扱いについては,新中教審のほうで諮らねばならないことで,今の段階で,1月から先こんな運びでやるというのを申し上げるのは僣越な話でございますので,この12月末までの議論はこういうことをやっていたと。今後,当然,足りないところは,分量的にまだまだ,特に3番目の「How」という部分については,基本的な方向性ぐらいの話であってということになろうと思います。今,皆様方からちょうだいしました御意見で,方向性としても入れるべきだというのは,当然また入れてまいらなければならないと思いますけれども,全体がそういう段取りで非常に変則的な形になりまして,失礼な部分もあろうかと思いますけれども,御了解いただければと存じます。

○  「審議のまとめ」は,事務局からの説明によれば,内々の心覚え的なものということですが,一応外に出すわけですね。そこで,どう表現するかはまた別として,そういうものであるということをこの中か,あるいは会長談話の中か,あるいは記者クラブへの発表か,それをやらないと何だろうなということになりますので,その辺,御配慮いただけたらなと。説明を聞くと,なるほどそうだと。形式的に中教審がなくなっちゃうので,とりあえずこういうものだというのは十分理解できますので,そのことを何らかの形で世の中に明らかにしておく必要があるのではないかという気がいたしますので,御検討いただければと思います。

○  今のお話とも関連するのですが,一種のオンゴーイングの状態で,これをとりあえずは締める。しかし,それは次へバトンタッチするんだと。だから,従来型の「中間報告」とまたちょっと違いますよというお話ではございますけれども,大変なエネルギーを使ってこれだけのものをまとめていただいたんですから,これはやはりこれなりのものとして,中間的ではあるけれども,しっかりとまとめる必要があるのではないか。私はそう思っているんです。
  「Why」「What」「How」でありますけれども,最後のところがしり切れトンボの感なきにしもあらずということで,まとめというのか,そういうものを後ろにつけて,今おっしゃられたようなことも含んでやる方法が一つあるのかなと。そのまとめの内容は,まさに「Why」のところに相当言ってしまっているわけですが,これをどういうふうにするのか。
  もう一つ,これは参考になるかどうかわかりませんが,前に申し上げたイギリスのデアリング卿との話のときに,英国はとにかく学習社会を目指す。学習社会のかなめになるものはシチズンシップだというように言ったわけです。それは恐らく私の解釈では「市民道」,一種の「武士道」ではないけれども,「市民道」だと。その「市民道」とは一体何かということですが,社会の一員として義務と責任を果たすような人材教育,そのために精神的,道徳的,文化的な教育を施すんだということを言っているわけです。それはまさに我々がここで取りまとめてきた教養教育なんです。
  この理念に従って,具体的なシチズンシップ教育が,たしか2002年だったかな,ナショナル・カリキュラムに織り込まれるそうです。
  我々の場合も同じだと思うんですが,一番最初の「Why」のところに目標,ターゲットがるる書いてあります。それを具体的にどうやって実現していくかについては,時間的に言っても,次の中教審がやることになるのかなと思います。あるいは,若干その点について,今のまとめのところに何か触れる。そして,次の人はしっかりやってくれということにしないと,この中教審がやっていたことが,ズルズルといってしまうのではないかという感じを私は持っております。

○  これはこれで一つちゃんと筋が通っていると思いますので,これはこれで――さっきおっしゃったように,これで出すんだったら,最後に何か一言要るというのは,確かにしり切れトンボのところがありますけれども,全体としてなかなかよく書けている。私が,教養について,これだけ言えと言われたら大変だなと,むしろ感心して聞いていたほうなので,これはこれである程度まとまったものとして言っていただいてもいいと,私はそう思います。

○  細かなことなんですけれども,これは個人的な趣味とかかわってしまうかもしれないですが,「音楽や美術など」というところを,「音楽,美術や演劇など」と入れていただけるといいなと思います。

○  たくさん御意見をいただきました。この案は総会で皆様方からお出しいただいた御意見をもとに構成したものであり,3回しか議論できていませんので,確かに御指摘のように欠けるところが随分あるのではないかと思います。私もずっと教養ということについて考えてきましたが,事務局の頑張りもあって,細かいところはいろいろ問題があるかとは思いますが,全体的には割合うまく書けているのではないかと思っています。
  確かに御指摘のように具体性がないと思います。これについては,この後で組織される会議で議論をお願いするということで,我々は方向性を示すということを念頭において議論をいたしました。最後の所は,しり切れトンボになっていて,これではまずいなということは全員が意識をしていました。一番最後のまとめのところに,今申し上げたようなことを書くということでいかがかなと思っております。

○根本会長  ありがとうございました。それでは,審議はこれをもって打ち切りますけれども,今後のスケジュールについては,資料にお示ししてあるとおりでございます。次回の総会で文部大臣に提出することといたします。

○事務局  今後のスケジュールについて御説明させていただきます。今いろいろ御意見を賜りましたところは,座長,会長と御相談して,今日出ました御意見については対応させていただきます。また,今日御欠席の委員の方々からも御意見をちょうだいいたしますし,先生方もまた今日お持ち帰りの後にお気づきのことがございましたら,恐縮でございますが,今週中ぐらいでしたらまだ承れると思いますので,電話なりファクスなりで,お気づきの点があればお申しつけをいただければと思います。
  その後,調整をいたしまして,大きな変更点等があれば,あるいは最後のまとめのところの文章などは,また先生方に郵送等で御連絡をさせていただいて,事前に少し御了解をいただくということで,25日――本当はそれまでにもう1回やるということもあろうかと思いますが,内閣改造,あるいは予算編成,その他もございまして,また師走で先生方もスケジュールが大変お詰まりのところでございますので,個々に御連絡をさせていただく中で,御了解を賜れるようにさせていただきたいと存じます。
  それから,先ほどもちょっと申し上げましたけれども,来年の1月に今までの中央教育審議会,生涯学習審議会,教育課程審議会,大学審議会,教職員養成審議会,理科教育及び産業教育審議会,保健体育審議会,7つの審議会を統合して一つの審議会にするという,非常に無理な注文でございますが,これを受けて一つの親審議会をつくり,当然,審議事項は大体5つほどの分科会に分けてまいらなければならないと思います。またその分科会には,別の臨時委員と専門委員をお願いして構成していく。その全体構成も今詰めておる最中でございます。そういうことが決まれば御連絡はもちろんさせていただきたいと存じますけれども,従来のいわゆる昭和28年から続いてまいりました中央教育審議会は,当然今後も続いてまいるわけでございますが,ほかの6つを飲み込みました大きな審議会としてスタートをするということで,一応区切りを今年いっぱいということで,文部省も1月6日から文部科学省に生まれ変わるわけでございます。
  そういう意味で,諮問がこの5月末に行われまして,まだ半年そこそこでございます。この大きな課題を半年そこそこで最終結論というのは当然無理な話でございますので,次へ引き継いでいく。ただ,方向性については,きちんと皆様方の御議論を,先ほど会長からもございましたように,方向はこれでいくんだということを明確に打ち出す。また,「審議のまとめ」というのも「仮称」と書いてございますように,例えば「今後の指針」というようなタイトルにするのがいいかもしれない。ここら辺もまた会長,座長と御相談させていただいて,従来の先例とは違うことをやるわけでございますから,前例にとらわれずに,きちんとした説明を国民の皆さんに,マスコミ等を通しても私どもが責任を持ってやらせていただきたいと考えております。
  次回の会議は,押し詰まって25日にお願いしておりますが,詳細の御連絡は後ほど速やかに書面において通知させていただきたいと存じます。

○根本会長  それでは,今日はどうもありがとうございました。

以    上


(大臣官房政策課)

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