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中央教育審議会

1997/3
中央教育審議会第2小委員会(第20回) (議事録) 

             中央教育審議会    第2小委員会(第20回)
                        議    事    録

            平成9年3月24日(月)13:00〜15:00
            霞が関東京会館  35F  ゴールドスタールーム
                                                                    

    1.開    会
    2.議    題
          「高齢社会に対応する教育の在り方」について
    3.閉    会

      出    席    者
        委  員
          木村座長                          本間審議官(生涯学習局担当)
          有馬会長                          小林教育助成局長
          薄田委員                          佐々木体育局長
          河合委員                          石川高等学校課長
          川口委員                          富岡総務審議官
          河野委員                          鴫野政策課長
          小林委員                          その他関係官
          坂元委員
          田村委員
          俵  委員
          土田委員
          永井委員

        専門委員
          小澤専門委員
          児島専門委員
          中  専門委員
          山極専門委員
          牟田専門委員


○ただいまから中央教育審議会第2小委員会第20回会議を開催させていただきます。
  本日は、「高齢社会に対応する教育の在り方」について、御議論いただきたいと存じます。前々回のこの会議でお出しいただきました色々な御意見を踏まえて、私のほうで論点を整理した「検討課題のメモ」を作成しています。本日は、この資料をもとに議論を深めていただきたいと思っております。

○高齢者と子供の関係というあたりで、現行の学習指導要領の中に、介護をしてあげるとか、何々をしてあげるという、一方的な部分がとっても目につくんですね。「奉仕」という言葉がやたら出てきたりして。そういうことではないということ、双方向からの学びの間柄というんでしょうか、そういう観点を少し強調していただきたいという思いが致します。
  それから、道徳と特活という部分が書かれておりますけれど、第一次答申の「総合的な学習の時間」というのがここに入れるべきだと私は考えます。
  それから、これはお願いでございまして、「高齢社会に対応する教育の在り方」も一つの柱立てでありますけれど、それに加えてもう一つ、加えていただけないかという思いがあります。それはどういうことかというと、学校のいろいろな制度改革であるとか、そういうことの重要性はわかりますが、それ以上に今一番心配なのは、情報機器とか、そういう文明の問題の中で、子供たちがどんどんそちらの方向に行ってしまっている。それによって、他者との関係が阻害されていったり、いじめとか、不登校という問題にぶつかっているわけでございます。第2小委員会の中での「情報化の影の部分」という記述は大変によかったと思うんですが、それに加える対応策を柱立てしていただきたいのです。では、どうやってそれに対策を立てていくかというと、この高齢社会にも通じますけれども、体験学習ですよね。片一方で、どんどん情報化社会に対応していく一方、それだけでは非常に危険である。だから、誤った方向にいかないように、しっかりと対応策を考えるべきであるということが強調されて、そこに対応策として自然体験であるとか、さまざまな体験を子供たちにあげてほしいと思うんです。それが一つの柱立てとして、この15期の中で位置づけられたほうが私はいいという気が致します。
  その対応策の中に、「『総合的な学習の時間』を使って」という形で、体験的な学習を奨励する方向を書き入れていただけたら第一次答申につながるという気がしております。

○先ず出だしの箇所で、高齢社会とはそれなりに素晴らしい社会なのだということに言及することが必要です。戦争のない平和が続いていること、医学が発達し、公衆衛生が普及し、健康保険制度がしっかりしていることなどです。そのような前提の上で、急速に高齢社会になっていく我が国においては、解決しなければならない多くの問題を抱えているといった流れです。高齢者になるのが何か申し訳ないといった風潮は良くないだけに一層強調する必要があります。

○平均的な高齢者を対象にしていると思うのですが、高齢者というのは非常に幅が広くて、最後は例えば半身不随になったり、痴呆になったりする人もいらっしゃるわけですね。そういう人たちに対し、一人の人間としてちゃんと尊敬しきるという部分がもう少し必要じゃないかという気がします。ですから、単に尊敬をするということ以上に、生の尊さ、意義を教えるという部分が必要なのではないかという気が致します。それが1点です。
  もう一つは、高齢化社会で子供が生きていくということは、単に気持ちを持つことだけでは十分ではなくて、実際に体が動くという部分を身につけてもらう必要があると思うんです。例えば、家庭で高齢者の面倒を見ていた場合に、面倒を見ている人に対して、あるいは自分自身が直接に何かやるということが大事ですし、それから特養などにいる人たちに対しても、例えば行ってあげるということもあるわけです。気持ちをはぐくむ以上に、高齢者に対して自分が動くということを教える必要があるのではないだろうかという気がします。それが2点目です。
  3点目は、私は実はよくわからないので、どうなのかなと思うんですけれども、高齢者の扱いを一人の人間として、それ以上のものではなくて、それ以下でもない、一人の人間として他の人を尊重するということの同じ立場でこれは書いているんだと思いますけれども、別に儒教の思想を持ち出すわけではないんですが、高齢者であるということの位置づけを、普通の人間の一人である、たまたま高齢であるということの位置づけでいいのか、あるいは人生ずうっと生きてきて、それだけの間、世の中に貢献をより多くしてきているわけですから、もうちょっと別な取り扱いをするのかというところが、私自身はよく答えが出てこないところです。

○「検討課題のメモ」は大変よく整理されてできているんですが、一つ、高齢者自身に呼びかけるところがあってもいいのかなという気がして、それを最初に書き込んだらどうか。高齢者自身が、もっと自分の体験を社会に還元する責務があるというか、非常に貴重な存在だという自覚を持ってほしいということをきちっと書いて、そのように生きてほしいという呼びかけをして、その社会がこれから来る社会だということで応じて、次の世代の教育をしていくという段取りなのではないかという気がするんです。
  僕らの小さいころは、年寄りの知恵というのがあって、灰で縄をなうにはどうしたらいいかというと、塩水につけてから焼けばいいとか、そういうことを老人が教えてくれたとか、そういう童話があって、年とっていることが非常に価値があるということを何となく教わっていたような気がするんですが、高度成長社会になるとそれが消えてしまった。今の子供は、そういう話をしても全然知りませんので、この教育は非常に大事なんですけれども、かぎは高齢者自身の心の持ち方という気がしますので、そういう呼びかけを中教審で行う、いいテーマではないかという気がします。

○高齢者だからといって、その位置づけは非常に難しいと思うんです。一般論から考えると、これは二つの立場から書いてあって、高齢者自身が高齢者として社会にどう貢献し、あるいは学習の機会をどう保障するかという高齢者自身の問題があって、それから子供にとってどうかという、両方からのアプローチがあるわけです。
  まず、子供にとって高齢者はどういうものかというと、一人の人生を学習するということだと思います。その人の背中や、その人の経験とか、その人とつき合うことによって。もちろん、リアルにそういう人たちとつき合う機会を、学校とか、社会とか、いろいろなところで用意することもできるのですけれども、もう一つ私が考えるのは、疑似体験として、文学とか、映画とか、芸術鑑賞とか、そういうことを通して学習するということがあるだろうと思います。学校教育と特別活動的なものを社会教育の中でどういうふうに切り分けていくのか、いま一つはっきりしないんですけれども、両方が協力し合う中で、体験ないしは疑似体験を積む場を積極的に設けるということを書いていったらどうかなと思います。
  もう一つ、学校教育の中でできることですけれども、メディア教育を進めたらどうかなと思うんです。これはアメリカなどでよくやっているんですが、学校の先生のところにメディアからの膨大な情報がいくわけです。非常にいい番組があれば―見てはいけない番組を言うというのはなかなか難しいんですが、見たほうがいいという番組は、積極的に先生が薦めるということで、とにかくいろいろな人生を体験してみなさいよということなのではないでしょうかね。あまり大上段にふりかぶって、「高齢社会に対応するために教育をどうする?」と言うと、ちょっと違和感があるような気が致します。

○今おっしゃった二つの点についてですが、中教審としては、この間から何度も申し上げていますように、「子供の側から見た」というところに力点を置くことになっていますので、その辺での議論を御願いします。

○「横断的・総合的な学習」の一つの典型的なものがここにあるのではないかと思います。どちらかというと、「総合的な学習の時間」というと、二つ、あるいは三つの教科をやって、いわゆる知識的な面ばかりにどうも学校現場はとらえ過ぎているような気がしますので、ここらあたりを強調していただいたほうがいい。やはり知識や理解は実際の体験を通さなければ本当に身につかないし、本当の学習とは言えないという意味を含めて、ここのところで「総合的な学習の時間」をPRしていただく場としてお使いただければいいのではないかと思うほど、非常に重要な部分と考えます。
  もう1点ですが、子供たちの特に高齢社会への対応の一番の問題は、私は今の家庭にあると思います。家庭が高齢者に対してどう対応するか。特に都会の子供たちなどは、ほとんど自分たちの祖父母と触れ合わないまま、何年かに1回顔を合わせて、お小遣いをくれる人という印象しかない。このあたりは家庭の責任がやはり非常に大きいと思います。今週のお彼岸のときでも、高齢者ではありませんけれども、お墓参りに行かない家庭が圧倒的に多いわけです。家庭の占める役割は本当に強いんだよということを言っていただく場としていただきたいと思います。

○基本的な考え方についてですが、環境にしましても、国際化にしましても、「共生」ということが一つのキーワードとして出されておりまして、そういう意味では、高齢社会への対応の場合においても、「共に生きる」という考え方をキー概念として書き加えたらどうだろうか。
  それから、高齢者の生き方とか、知恵に学ぶということも、基本的な考え方として加える必要があるんではないかということが一つであります。
  2番目に、実際に研究開発学校などの動きを見ますと、総合学習の中で、例えば「人間」という分野をつくって取り組んでいるところが幾つもございまして、試みは既に行われているという状況があります。そういうことで、総合的な時間の中に、高齢社会への対応の問題を組み込んでいくことは重要ではないかと思います。
  ただ、この場合に、実際に総合学習などで現在行われているものを見ますと、高齢社会への対応の問題だけではなくて、いわゆる障害者福祉の問題がかなりのウエートを占めて、実際に行われております。要するに、福祉教育の問題がどうしても絡んでまいりますので、そこらあたりを高齢社会への対応という形で限定してしまうのか。総合学習などに組み込んでいく場合に、福祉教育の考え方をもうちょっと広げて入れ込んでいくのか。学校の現実の動きやとらえ方から言いますと、若干広げたほうがよろしいのではないかという気も致しますけれども、そこらあたりの扱いを一体どうしたらいいかということは私自身もちょっとわかりませんが、その点を感じました。

○実体験から学び取る道徳学習推進会議「心のフォーラム」などと云う活動が国や県の働きかけにより推進されています。これは学校・家庭・地域が一緒になって取り組んでいくスタイルのものです。お年寄りの方々、子供たち、そしてそれぞれの家庭が一つになる、ものすごくいい場所を提供していただいていたと私は考えております。その事業が終わってからも、その地域でそれが生き続けているということですので、これはもう少し積極的に取り組んでいただいてもよろしいのでないかと思っております。いろいろな体験の中からそういうものが学び取れる、最良の場だと私は思っております。

○前回の話から、高齢社会の暗いイメージが強いと思っていたのですが、生き生きとしたお年寄りもいるというのが、ニュアンスとして伝わってくることも必要と思います。寝たきりの方というのが大体5%ぐらいでしょうか、あと95%は元気な老人ですので、そこのところがもう少し子供たちに伝わること、それぞれの生きてきたことを皆とともに学び合うこともできるんだよということが、基本的な考え方として必要なのではないでしょうか。
  それを受けて、学校教育の現場に高齢者を活用するということ。学校教育だけではなく、社会教育の場で、例えば欧米では博物館などで、ボランティアの方がものすごく活躍しています。御年配の方が体験と専門性を結び合わせたところで、子供たちに学びをさせているわけですけれども、そういった視点があってもいいのではないかと思います。
  それから、体験を積むことがとても大事だと思いますので、家庭教育の基盤として、[生きる力]の基本として生き方教育というのは、幼児期のときに、自然体験、あるいは生活体験を積ませることが大事なんだという、第一次答申とのつながりがもう少し書き込まれていてもいいのではないかという気が致します。お母さんたち、お父さんたちは、どうしても学校に入れることだけが重要で、遊びの中から学び取ることがどうも入っていないような感じが致します。
  それから、私がかかわっている地域での活動ですけれども、子供たちに「街ウオッチング」させたときに、街角にいる大人にインタビューさせただけで、子供たちはとても自信がついてくるんです。家庭と学校でしか大人には接したことがない子供が、見知らぬ方にその街の特性を聞くとか、そういうことを体験することによって、積極性が出てきたとか、そういったこともあり得ますので、プログラム化されないところにも子供の学びはあるのだというニュアンスを、入れていただけるとありがたいと思っております。

○色々なお話、全くそのとおりだと思います。教育の場で基本的に強調していただきたいのは、シニア・シチズンという思想、つまり今迄社会貢献を果たして来た世代である年寄りを大事にするという情操的な発想を欠いているのに対し、、それをどうやって入れていっていただくか。先ほどからのお話にも出てきてはおるわけですが、例えば「楢山節考」という有名なお話もありますし、その対局のお話も含めて十分教材になり得るわけです。それから、若年の世代(子供)が年寄りと色々なところで交流をしながら、社会の実生活の中でお手伝いをしていくことを通じて、また、年少の子供たちが直接老人や障害者をボランティアの対象としてだけではなく、日常的活動にもっとはっきりしたイメージを持って対応を図っていくことを、教育の場で積極的に議論すべきだと思うんです。今までそれがあまりにもなかったのではないか。
  いつかオランダへ参りましたときに、満席の1等のコンパートメントに、そんなにお年寄りには見えなかった御夫婦が入ってきて、どう見ても20代か30代ぐらいにしかお見受けできない人の前に立ったんです。本を読んでいた若い男は気配からちょっと見上げ、驚いた顔をし立ち上り直ぐに出て行ってしまいました。「どうぞ」というつもりだったのかもしれません。通路に立っているわけです。
  私はそれを見て、図々しい年寄りがいるなと思ったんですが、そうでなくあたりまえのこととして考えているようです。後で聞いてみますと、あの国は、60歳を過ぎるとみんな切符は5割引なんだそうです。それなのに随分調子がいいねというような質問をしたのですが、それはあたりまえのことで、それに対してだれも抵抗する人もいないし、むしろ自発的に……。たまたま気がつかなったために、前へ立ったのではないか、というような雰囲気でした。年寄りを擁護する御説明を同行者から聞かせて頂いたわけです。
  これは一つの例ですが、日本は、かつてどうだったかという議論をしてもよいのですが、我が国の現状には教育の場で実践教育として当然とり入れるべきという認識が今のところ全く無いように思われますし、日常生活でも、却って精神的疎外感のほうが大きい。これは国の将来を考えました時に、避けて通れない問題です。ですから、老人ホームをボランティアでお助けするとか、あるいはクラスで演芸会を催して年寄りを慰めるというようなことは結構ですけど、とってつけたような話が非常に多い。むしろそうではなくて、当然のこととして日常の中で何とかこれが実現できないのか。宗教問題とか、その国の倫理や社会の考え方と非常に深い関係があると理解致しますが、私どもはもう一度考え直してみる必要があるのではないか、そういう意味で、中教審の答申の中へはっきりした形で織り込んでいただくことは重要だと思うわけで、一言申し上げました。

○前回も申し上げましたが、「高齢者についての教育」と「高齢者のための教育」と「高齢者による教育」という視点が必要だと思います。
  コメントは二つあるんですけれども、一つは、お話が出ていましたが、今、核家族であり、御老人になると特養ホームに行かれるという状況があるものですから、元気な御老人と触れ合う場を設けることは、それ自体大事ですが、ホームに入られた方に対してボランティアと同時に、メディアの活用ですね。核家族とか、特養ホーム等々で、触れ合う機会が少なくなることを配慮してという形で、テレビ電話型のメディアが重要であるということを位置づけていただければ大変ありがたいと思います。
  第2点は、老人の問題というのは、結局、歴史とか、伝統とか、先達の知恵を大事にするということの延長といいますか、その流れだと思いますので、私ども人間が生きていくときに、文化的な伝統とか、しきたりというものが、社会で生きる知恵になっている、それをお年寄りの方が具現してきているんだというような、お年寄りも歴史のうちの一つなんだという位置づけで、お年寄りを尊敬するということをどこかに書けないかという気が致しました。

○基本的な考え方として、高齢社会というのはどんなものかということは、もう説明する必要はないと思います。ただ、それを教育という視点から、特に子供の目からということを考えますと、1点は、この30年ぐらいの間に、核家族というものが増えていったので、子供にとって高齢者と触れ合う機会が非常に減ってしまったということです。高齢者が増えたのに、高齢者と触れ合う機会が減ったということをちょっと指摘しておいたほうがいい。
  第2点は、昔は高齢者が今より少なかったということはどういうことかと申しますと、若いときに死ぬ人がたくさんいたわけです。私どもの世代ですと、小学校の6年間のうちに一人ぐらい必ず同じクラスの子供が死ぬ。中学になりますと、結核というものがありまして、どのクラスでも結核で休学していく。つまり、落第していくから、いなくなって、下の学年にいく。一方、治って、何となく青ざめたような顔の回復期の少年が私どものクラスに入ってくるというようなのがあります。大げさに言いますと、私たちの世代は、いつも死というものがかなり間近にあったといえます。とりわけ戦争中はそうでした。現在の若者は、死ぬということは考えてもいないです。ですから、老人との触れ合いが減ったということを指摘して、だからこそ触れ合いを通じて、生きる、老い、そして死、むしろ老いと死を見て、そこから生きることとは何だということを考えるのは意味があると思います。そういうことを学ぶ機会をどこかでつくる必要があると思います。

○これからの社会というのは、国民が国を選ぶのだと思うんです。どの国に属するということを選択する。今の若い人はそういう考えがかなりあるんです。ですから、生まれたらその国に属しているという考えではなくなってきているんです。だから、その国民になったらどれぐらいその国はやってくれるのかということを比較しながら、国を選ぶという時代になってくる。これは学校も、学校が選ばれる時代になってくるわけですが、そういう時代の流れということを考えると、国として当然老人問題をまともに取り上げて議論しないと、その国の伸長、運命にかかわってくるという部分があると思います。国を選ぶという立場に立つと、その国がどれぐらい老人のことを考えてやってくれるかというのは、非常に重要な要素だと思うんです。

○週休2日制になりましたので、そういう時間を、老人と子供が接する機会にうまく使える時期になるんじゃないか。子供が高齢者から得るし、高齢者も子供から得るという、相互作用を色々工夫できる日が土・日とありますから、そういうことも言っていいんじゃないかという気がします。
  それから、私の知っている方で高齢者の方に、何でもいいから思い出話をしてくださいと言って、それを記録して、それをまとめて、結局はその人の自伝ですね、自分史とかいいますが、そういうのをつくった人がいるんです。そうすると、そのお父さんに非常に喜ばれて、楽しみが増えたというのがありました。子供たちが、おじいさん、おばあさんが自分の歴史を書かれるのを助けて、出してもらうというのか、読書感想文ばかりでなくて、おじいさん、おばあさんの体験を文章にするなんていうことも考えるとおもしろいんじゃないかと思っています。これは老人の方は非常に喜ばれるようです。特にそれに写真を入れたり、このごろ色々できますので、そのアレンジするのをどうしたらいいかというようなことをお互いに相談したり、「そんなことがあったのか」ということで子供たちも驚くとかいうのがありますので。

○厚生省の懇談会で高齢者像を変えようということを提言しています。今までの何となく暗いイメージから変えようと。変えるには、高齢者が動かなくてはという方向での提言でございますけれども、高齢者のほうはそのまんまで、子供だけというわけではなくて、両方ともが変わっていかなくてはいけないのではないかという気がしております。
  そういう意味から言うと、高齢者といっても多様であります。しかし、死という問題、それから老いという問題について、高齢者との関係において子供たちが考えるという状況をどうしたらつくれるのだろうかということは大切だと思います。実は3世代家族がいかに合理的であったかということが、我々は今になってわかってきたような気がするんですけれど、それは今さらどうすることもできないわけで。
  私は、「うちのおじいちゃん、おばあちゃん」というタイトルで作文を書かせたら、自分のおじいちゃんのことを書いてくれる子がほとんどいませんでした。老人ホームに行って、そこでお年寄りと出会ったというわけで、自分のおじいちゃん、おばあちゃんのことは話題にならないというか、論外であるみたいなふうに考えているのかわかりませんけれども、自分のおじいちゃん、おばあちゃんをどういうふうに考えるか。身近なところで自分のおじいちゃん、おばあちゃんという発想をつくっていく。それは家庭教育という問題に落ちつくのかもしれませんけど、社会教育として、「君のおじいちゃんはどうしてるの?」とか、「おばあちゃんとはどうやっておつき合いさせていただいてるの?」というように、身近にいるおじいちゃん、おばあちゃんという問題について、子供に考えてもらう場面をつくっていくべきだと考えます。

○今の意見と関連するんですが、高齢者から人間の生き方を学んで、それによって高齢者への尊敬を持つことができるようになるという視点をぜひ入れていただきたい。高齢者をただ尊敬しろと言ってもだめで、高齢者が自分より優れているというところがわかると、そこで初めて尊敬するわけです。学ぶだけでなくて、尊敬の契機になることが非常に大事ではないかと思います。

○高齢者が、倫理的にきちっとした行動をとってもらいたいと思っているんです。ある程度の年齢の人々は、子供たちが見て、「あ、あるほど。あれはいいんだ」という感じを持てるような生活をしてほしいと思うんです。ですから、中教審の今度の答申は、むしろ社会に対して言いたいのです。もっとちゃんとした、常識的な行動をとってくれ、できればもう少し倫理観を持ってやってくれ、思いやりを持った人生を送ってくれ、そういうことができないと、老齢者を幾ら尊敬しろと言ってもだめだと思うんです。

○間違いなく高齢社会というのがくる、世界でも類を見ない高齢社会になることをみんな承知していると思うんですが、その一方で、今の日本の社会というのは、これほど若さというのがちやほやされて、若いということだけで特権的な扱いを受けているというのも珍しいと思うんです。
  ルーズソックスとか、たまごっちとか、社会中が若い人を注目している、若い人に今何が受けているかということばかりに関心を抱いている社会というのは、かなり珍しいような気がするんです。その点については、大人も反省しなくてはいけないような気がして。何となくこの子供たちの機嫌を損ねたらまずいというか、将来、面倒を見てもらわなきゃいけないという弱気の姿勢ではなくて、ほっといてもこちらが尊敬されるような大人にならなきゃいけないような気が致します。

○一つは自立して生を全うするという姿勢を子供のときからつけさせるべきである。それが役に立つのは、子供たちが高齢者になってからの話ではあると思うんですが、いかに3世代同居が望ましいとしても、現にそうなっていかないわけですから、自分で周りに頼らないで生き抜くという部分が、それは基本的な考え方の[生きる力]というところで一部は入っていると思うんですけれども、生きていくための基礎的な健康・体力の問題を超えて、人に迷惑をかけないで、自立をして自分で生きていくという考え方を身につけるということが必要かと思います。
  次に、高齢化社会というのはかなり女性の問題でして、女性のほうが平均余命が長いので、年とっていくのも女性ですし、家庭で面倒を見るとしたら、面倒を見ていくのは女性であるわけですが、これもこれからの社会では非常に難しくなっていくわけなので、この部分での男女共同参画といいますか、高齢者の面倒を見るのも、男も女も両方やるんだという発想を子供たちに身につけてもらいたいという気がします。それから、これは面倒を見る問題だけではなくて、例えば“濡れ落ち葉”とかいろいろな話がありますけれども、高齢者になって定年になったら、三つ指ついて「失礼させていただきます」と言われないことも大事なので、高齢者が生きていく段階でも、男女共同、同じ立場で強く自立して生きていくことが大事だというところを、特に日本の社会では強く教え込むべきではないかと思います。

○実は昨日、放送大学の卒業式があったんですけれども、84歳の方が卒業なされました。こういう方に、中学生なり高校生なりがインタビューする。「どうして勉強をされているんですか」と。それをメディアで流していただくというようなことは、いろんな意味で大事ではないかという気がするんです。
  今、高度情報通信社会で、メディアをもう少しこの問題に活用できるのではないか。つまり、核家族であったり、特養ホームとか、老人ホームに行かれて、4世代世帯、3世代世帯というものがなかなか実現できなくなっているので、ネットワーク上での4世代世帯なんていうものは実現しやすい時期がきているのではないか。学校教育の中で、インターネットとか、テレビ会議が入ってきて、離れた地域の子供たちが交流して、冷たいメディアを通して暖かい人間関係ができて、メディアを通して知り合った者がお互いに訪問し合う。そして、大変仲良くなっていくようなことが頻繁に起こっているわけです。これは国内的にも、国際的にも起こっている。国際はなかなか行ったり来たりは難しくて、近所の国ぐらいしか行けませんが。
  今、テレビ会議システムが100万円を切り始めていますので、幼稚園とか、学校とか、老人ホームにそういう装置を入れて、「きょうはだれちゃんのおじいちゃんとお話ししましょう」と言って、幼稚園児が全部集まっておじいちゃんのお話を聞いて、「いいおじいちゃんだね。おじいちゃんはだいぶ体が弱ってんだね」とか、先生もついているわけですか、そこからいろんな話が展開できる。
  やがて値段がもう少し下がって、家庭に入るようになりますと、今、電話で孫とおじいちゃんなり、曾おじいちゃんなり、おばあちゃんなりがお話をしているのが、顔を見ながらテレビ電話で―今の段階ではテレビ会議システムですけれども、そういうものでやりとりできるということになりますと、場所を克服できる。時間もある程度克服できるわけです。そして、ネットワークを通して、御老人とお孫さんといいますか、お子さんたちとの間の交流を確保する。その辺への設備投資とか、その使い方の開発研究があってもいいなという気が致します。

○高齢者を、一つは人生の先輩として敬意を払うべき存在というふうに位置づけたらどうかと思います。21世紀には、4人に1人が65歳以上という世の中になってくるわけですが、経済的な姿はさまざまですよね。高齢者のほうが資産があるというような調査も出ております。経済的にはさまざまですけれども、身体的には強い人もいるけれども、相対的に見れば弱い人たちが多くなってくるわけで、その人たちとどう共に生きるか、あるいは子供にとってはどうつき合っていくかということが大きなテーマになると思います。
  日本は敗戦から立ち上がって、今や「サミット」の一員になれるような経済的に豊かな国の一つになったわけですよね。この豊かな社会を戦後50年とにかく築いてきたのは、我々の先輩たち、名もない多くの先輩たちが築いてきたんだということを、きちっとどこかで教えるということを一つやってほしいんです。それは“フジヤマの飛び魚”とか、中間子を発見した人とか、個人の名前が出るんですけれども、そうではなくて、本当に劣悪な労働条件の中で、一生懸命働いてきたたくさんの先輩の努力の上に、今の繁栄があるんだということを教える必要があると思うんです。ただ尊敬しろと言っても無理だと思うので、なぜこういうことになったのか、それにはそういう先達があるんだということを、子供たちに知ってもらわなきゃいけないと思います。
  それから、尊敬すべき高齢者の先輩もいるし、やっぱり尊敬するに足りない先輩もいるんです。でも、それはそれなりに一つの人生だと思って、否定的な姿の中からも何か学習できるというのが私の考え方です。その中から色々学習しつつ、これからの21世紀は、どういう世の中にしていくのかということを、子供たち一人一人が考えて生きていくということが大きな使命であるということをどこかに書いたらと思います。

○教育というのはいろんな観点がありますが、マスメディア、たとえばテレビを見ても、映画を見ても、個人によって感受性が随分違います。そこから帰納的に、自然発生的に、一つの流れがでるということは理想的で望ましいことでございます。人のものを盗んじゃいけないとか、人殺しをしちゃいけないなんてことは、云うまでもない当然のことだと思います。まだ何もわからない幼児のときに徹底的にしつけるべき人間にとっての基本道徳とでも云うべき問題で、日本の教育では、しつけというものを間違って理解し、頭をなでてさえいれば自然発生的に立派な社会人に成長できるとの勘違いがあるんじゃないかと思う時があります。
  今、何か言おうと思いますとみんな理屈が必要で、根底にかえって、前はこうだった、こうでこうだという話が必要になります。勿論それはやるんですけれども、やっぱり基本的な問題は、人のものをとっちゃいけない、人殺ししちゃいけない、年寄りは大事にしなくちゃいけないぞということは、自明の理だという形での大前提であって、こっちの人は足が悪いから同情するとか、頭がいいから尊敬するとか、大金持ちだから何をしても良いというような、判断基準とは全く違う次元で、はっきりさせるべきだと思うのです。
  それから年寄りの無責任な態度も非常に多い、その最たるものとして次の世代は若い人の世の中だから、みんな若い人に任せるという態度で責任回避に一生懸命になる。然し、そのために大きなミスやむだをしていないか。そういう問題も議論しなければいけないという気が致します。

○科学博物館とか、美術館とか、文学館とか、色々なものがこのごろかなり充実してきているんです。ところが、一番問題は、学芸員があまりにも少ないということ。学芸員を増やすということは大変お金がかかることでありますので、なかなかできない。入れ物のほうと中にあるものはかなり充実しつつあるわけです。そこで、ボランティアの話が重要になってくると思います。
  学校の先生だった人などは、定年になってから手持ちぶさたになっている人がいるんですね。そこで、何らかの格好でそういうボランティアを組織する必要があると思います。既に上野の科学博物館ではこれをやっておられて、大勢のボランティアの候補があったという非常にいいニュースがあります。ですから、たぶん各地区地区で、地域社会ごとにその世話をちょっとすれば、大勢の方が、やってあげようとおっしゃってくださると思います。学芸員の代わりというだけではなくて、いろんな面でそういうボランティア活動をやりやすくすることによって、大勢の人がやってくれると思います。ですから、あまりお金をかけなくても、何かの格好できっかけをつくれば、ボランティアが活動してくれるし、しかも割に高年齢の人たちが喜んで、生きがいを感じてやってくださるのではないかと思うので、技術的な話になりますが、ボランティアを何らかの格好で組織化をすることができればいいなと思っています。

○今、言われた同じことを、私は「文化ボランティア」という名前をつけています。そうでないと、ボランティアというと、何か気の毒な人を助けにいくというイメージが強過ぎるんですね。そうじゃなくて、もっと文化的活動をするボランティアがあるということについて、ちょっと雑文を書いたんですが、そうしたら非常に反響がありました。ただ、それを組織化する人が要るんです。特にこのごろ地方自治体では、文化会館とか、色々できているんです。入れ物ばかりあって、催し物があまりないということがありますので、文化ボランティアを組織化する人ということを、地方自治体の中でももっと考えていいんじゃないかと思っています。

○高齢化社会についての考え方という点で、世界がというか、あるいは日本社会かもしれないですが、高齢化社会に入るわけですけれども、年とった人に対する対応ということを、先ほどから色々お話を伺っているわけですが、昔は日本の基本的道徳は、大ざっぱに言うと儒教だったと思います。「親の恩」とか、「恩」という言葉は、このごろだんだん聞かなくなってきたと思います。その「恩」というものの支配が強いときは、昔は小学校で、「親を尊べ」「おじいさんを尊べ」「年寄りの言うことをよく聞け」という形で、儒教で教えることができました。今、日本はどうも儒教社会かどうかわからない。多少残っていると思いますけれども、かなり衰えていると思います。
  一方で、先ほどオランダの列車内のお話、あるいは自立する老人というお話を伺ったのですが、これは儒教社会でなくて、権利の社会です。フランスで同じように私はバスの中で経験したんですが、おばあさんが「私は座る権利がある」と言いました、若い人に。「立て」と言いました。そしたら、若い人が「私よりもっと若いのがいるのに、何で私に言うんだ」って言い合いになった。こんなことを言ってまで座りたくないなと思ったのは、私に儒教的要素が強いからであって、フランス人は平気で言うんです。一般に、皆さんヨーロッパ、アメリカへ行くとお気づきのように、おばあさんというのは非常に強いです。だけれども、日本で高校生に「座る権利がある」なんて言ったら危ない。物理的に危険ですね。特に四、五人の高校生の群れなんていうのは非常に怖い。
  今、社会が変わっている端境期で、まだ儒教的な要素が残っている。例えばフランスの人が日本で研究発表をすると、最初に年寄りから質問を始める、不思議な国だ、といいます。いまだに研究者の間で若い人が先頭を切って質問をしない。というのは、まだ儒教社会が残っている。一方で残っているんだけれども、同時に「恩」という言葉は聞こえなくなって、権利社会に変わりつつあるんですね。そういう意味で、高齢化社会というのを日本は初めて経験しているのだと私は見ているのです。これがどうなるかということは、見定めていかなければいけないんですけれども、当然、「恩」がすたれれば、年長者に対する尊敬は今までの形では得られない。それは一方で覚悟しておく必要があると思います。それでは、どうやったら年長者の知恵とか、生き方に敬意を払えるかという問題があるんだろうと思います。

○前に千葉の科学技術博物館を見学に行きましたときに、あそこで子供たちに説明しておられる方はほとんど企業のOBでしたね。相当な数の方がいらっしゃったように憶えています。千葉というのは多くの企業がありますので、そういうところをリタイアされた方が子供たちの相手をされていたということで、私はその辺のところは相当進んでいると思っています。ただ、どうも分野が偏っていて、科学技術のほうは割合人に事欠かないんだと思うんですが、文化の、例えば美術館とか、その辺のところは随分人手不足だという気がするんです。外国へ行きますと、美術館で子供たちに絵の説明解説をしているのは、学芸員の人じゃなくて、ボランティアが多いと聞いています。そういうところまではまだ日本はいっていないようですね。そういう意味でいうと、「文化ボランティア」というのは非常にいい名前かもしれませんね。

○富山の県立美術館に行ったときに、ボランティアの方が立っておられて、現代美術が多いので、わかりにくい絵が多いんですけれども、しばらく立って首をかしげたりしていると、サーッと背後から寄ってきて、「この人は……」と色々説明してくれるというシステムがありました。聞いてみると、美大を出ているとかという専門家ではなくて、近所のおばさんなんですが、ボランティアを志願することによって絵について勉強ができた。それをまたみんなに伝えていく。1枚の絵の前にずうっと立っているわけですから、すごく説明も上手になるし、その人自身も勉強ができる。自分が既に蓄えてきたものを伝えるだけではなくて、そこがもう1回勉強する場になっているという点で、大変すばらしいシステムだと感じました。

○学校における取り組みの場合に、文化ボランティアだけではなくて、スポーツ関係でもかなりやっております。学校の、特に小中学校の教員で年をとって退職した人は、子供と一緒に触れる場で、ワーワー、ギャーギャーやっている子供をパッとまとめ上げるとか、それなりの段階を追った指導ができるという特性を持っています。同時に、今の学校は規模が小さくなっておりまして、OBは頭でっかちでどんどん多くなっておりますけれども、現在の学校の現職の教員がどんどん少なくなっている。かつての教員が持っていた、子供たちを掌握し、指導し、育て上げていく技術を、特に部活動の分野、学校が今非常に重荷になって悲鳴をあげている部分で、もっともっと活用できないかということを考えております。スポーツ分野では、その意味では、生きがいを持って指導していただいているOBもかなりおります。芸術分野もそうです。

○学校レベルでも、お年寄りにボランティアで色々活動してもらう事例は、最近、相当増えてきております。石川県で、これは随分山のほうなんですけれども、学校農園の隣にわざとシルバー農園というのをつくりまして、年寄りは年寄りで一生懸命野菜をつくりまして、学校農園はあまり出来がよくないというので、わざと競争させて、お互い学び合うということをやったり、そこはPTAと言わずに、もう一つGTAというのがありまして、わざとお年寄りだけのそういうものをつくったりしています。そういうことで、学校レベルでも、高齢者のボランティア的な活動に学ぶという事例は増えてきているのではないかと思います。
  それから、これとは別に、全体を見ましてもう一つ感じたのは、どちらかといえば小学生向きの内容かなという感じが致しまして、中学生あたりが高齢者の問題を考えるには非常に大事な時期なので、中学生あたりを念頭に置いてもう少し書く必要があるのではないか。例えば、福岡県のある中学校ですけれども、ここで牛乳パックで葉書をつくりまして、これはよそもたくさんやっていますけれども、その葉書を何のためにつくるかといいますと、学校からちょっと離れたところの特別養護老人ホームと行き来しておりまして、そこへ中学生なものですから、部活動があったりでいつも行き来できないので、葉書を置いてくるんです。切手まで張って置いて、自分の対象とするおじいちゃん、おばあちゃんと葉書のやりとりをしようという形でやっておりました。ところが、葉書を出せば葉書が返ってくるということが、うまくいかない。葉書を出しても返事がこないということで、中学生は、どうして自分が出したのに見返りがないかという気持ちになる。そこから教育が始まるんですけれども、実は手が不自由だったりして手紙も書けない。というところから、じゃあ一体どういうつながりを持とうかという指導をずっとやっていった学校があります。結局、これはボランティアの問題になりますけれども、奉仕的であり、何か施してやるというレベルから、子供たちがどんどん精神性を高めていく。いわゆる生きる意味を知ろうとする。そういう教育は、教師の力次第だとは思いますけれども、そういうものをここでは学んでほしいという気がするわけで、生き方といいますか、生きる意味、なぜそういうふうにして生きているのか、その人から何を自分は学び得るのか、そういう自分に返ってくる教育が必要ではないかという気が致します。
  そうしますと、「生き方を学ぶ」というふうにここには出てまいりますけれども、そこのところは、特に中学生あたりになりますと、もう少し「生きる意味」とか、生き方、在り方の問題にかかわるようなものを考えさせるものとして、高齢者への対応の問題をもう少し考えていく必要があるのではないか。いわゆる「自分さがしの旅」を子供たちにさせる一つの重要な内容を持っているものとして、中学生にもう少し呼びかけるような、記述があってよろしいのではないかという感想を持ちました。

○視点として、高齢者になると、自分の時間を持てるということで、つまり忙しい子供たちに、時間を持つということはどういうことかということを、高齢者は伝えることができるのではないかという気がするんです。
  やっぱりプロセスをカットしてきている部分があるわけで、プロセスを伝えるということが、今、教育の中で非常に重要だと思っているんです。例えば農業は、時間がちゃんと必要であって、それを早くつくってしまうということは、ハイテクの中でできる方法も開発されているかもしれないけれども、そうではなくて、時間をかけることによって成果を得られるという、プロセスを伝えることを高齢者にお願いしたいという気がとてもするんです。つまり、ゆっくり時間をかけて生きるというのか、その辺のことを伝えられるのは高齢者ではないかという気がしております。
  子供というのはそれに対して、そんなむだな時間を使ってゆっくりすることはない、これはこうやればもっと早くできるじゃないかみたいな、そっちの方向の発想だけが先行しているような気がするんですけれども、そういうことばかりじゃないよと。ゆっくり行くことによって、そのプロセスを通していろんなことを発見して、それが一つの感動となっていくというようなことを伝えていく、そこを高齢者にお願いしたいと思うんです。
  そのプロセスのことで言うと、富良野塾の倉本聰氏が、農業体験を演劇志望者に味わってもらおうと思って、初めは一日だけ体験させていたんだけど、これではだめだと。一部しか見せないのでは、農業体験とは言えない。それから自分で土地を確保して、最初から最後までを味わってもらう状況をつくったという話を彼からじかに聞いたことがあります。殊に農業の経験豊かな高齢者がもっと生かされていただきたいなという気がとてもするんです。学校なんかでも色々農業にかかわることをおやりになっていて、さっき文化ボランティアという話がありましたけど、どっちかというと農業体験ボランティアというんでしょうか、そういう形での高齢者のかかわり方がもっとあっていいんじゃないかという気が致します。

○先ほど「共生」あるいは「男女共同参画社会」という言葉が出ておりましたが、もう一度そこのところを強調しておきたいと思います。第一次答申に「『男女共同参画社会』づくりも重要な課題となっている」ということが言われて、ここでは「自らの意思によって社会のあらゆる分野に参画する機会が確保される」ということが書かれているのですが、自立的に生きる、男女ともに成熟していくといったところが、高齢社会を迎えるに当たって重要な視点でもあるかと思いますので、もう一度繰り返させていただきました。

○少し大事な問題だと思うんですが、第一次答申では、「地域・家庭・学校の連携」ということをうたっているわけです。今、高齢者の問題ですから、高齢者に集中して論じているのはもちろん大事なことですけれども、やはり高齢者の問題は、色々なものが絡まりますが、「地域・家庭・学校の連携」の中に位置づけて施策を講じるべきものの一つだと思います。そこで一番大事なのは、地域教育カリキュラムみたいなものを、地域でつくる必要がある。学校教育のカリキュラムは、教育課程審議会、学習指導要領で全国共通なものをつくっているんですが、地域と家庭というのはそれぞれの地域、繊維産業の地域もあれば、工業地帯もあるし、農業地帯もある、文化も色々違っている、そういう地域を踏まえた地域の教育カリキュラム。その中の学校の部分は全国共通のものを持つ。学習指導要領を含み込んで、その地域全体を教育するカリキュラム―これは幼児から高齢者に至るまでの教育カリキュラムをつくる。これは地域が独自に、教育委員会が仕掛けの中心にならなくてはいけないんでしょうけれども、教育委員会も社会教育部門が担当するのか、学校教育部門が担当するのか、中教審で言っている地域連絡協議会が仕掛けるのか、主体を明確にする必要があるんですけれども、何らかの明確な主体が地域ごとの教育カリキュラムをつくって、文部省はそれをサポートして、事例集みたいなものを出す。北海道の富良野ではこういう地域教育カリキュラムです、東京の世田谷ではこういう地域カリキュラムです、八王子ではこうですよと。その中に文化ボランティアだの、スポーツボランティアだの、科学技術ボランティアだの、色々なリストもあるし、そのリストの人に活動していただくための基礎となる地域教育カリキュラムがある。うちは野鳥のサンクチュアリーがあるから、野鳥にかなり重点を置いた地域教育のカリキュラムで、それには異年齢の子供たちも絡まるし、お年寄りももちろん入る。
  そういう大きな構想といいますか、地域教育のカリキュラムを作成して、それは学校教育の全国標準カリキュラムと相互補完をしつつ、地域にいる人材―これは老人に限らないわけで、企業に勤めている人が土曜・日曜サポートされてもいいし、退職の先生とか、退職のサラリーマン、あるいは実際に農業をされている、山林業をされている、漁業をされている方々のプロのノウハウといいますか、お仕事で培われたノウハウを生かすような形で、かつその方々には、年金で生活されている方には若干の謝礼と2年契約ぐらいの辞令を差し上げて、ある人に偏らないとか、ある人がなって困ったことが起こっても切りかえられる、そして保険を手当てしてといろんな手当てを考えながら、地域教育全体で、つまり学校・家庭・社会の全体でもって日本の教育をよくしていく。その中の一つに、高齢者というのは大事な問題として入ってくるんだぞというようなことが、あるといいなという気が致しました。

○高齢者の施設でボランティア活動をしたなどの、実践事例が増えているということですので、そういう実践事例集ができれば、全国的に、「ああ、こういう例もあったのか」ということで、インパクトが非常に大きいものになるのではないかなと思います。

○今まで描かれている老人像というのは大体勤勉で、尊敬されて、勉強がまだまだしたくてという感じが強いようです。もちろんそういうお年寄りも多くいると思うんですけれども、やっと定年になって解放されたら、遊びたいなというか、伸び伸びしたいみたいな、そういう方が楽しんで定年を迎えられるような道があってもいいかなと。今、産業界というのは若い人のほうばかりを向いていて、例えば時代劇というのは御老人に大変人気があるそうですけれども、時代劇を見ている人は老人が多い、そうするとなかなかスポンサーがつかないそうなんです。そこでコマーシャルを流してもあんまり購買につながらないんじゃないかと。必ずしもそうでもないと思うんですが、そういう話も聞いたことがあります。ですから、老人が楽しめる、遊べる社会というのもあったらいいなと。老人ファッションの新しい提言をしてみるとか、老人の遊びを開発するとか、極端かもしれませんが、ずうっと勤勉でいてくださいというのを強要するのも気の毒のような感じがして。老人も楽しく明るく遊べるようなイメージも一方であったらいいなと、ちょっと感想めいたことを思いました。

○先ほどの地域教育カリキュラムの御提案ですが、いきなり実践例とか、指導案的なものをつくるのは大変なことになりますので、イギリスの例ではプロジェクトをつくって、そこで地域の専門家、そして学校の先生が入って、この部分は学校で、あるいは指導要領の部分はこの部分、しかし、こちらの地域で活動できる部分は地域の専門家が受け持つと、そういうプロジェクト制でやっていくこともいいのではないかと思います。いきなり全部完結というのはなかなか難しいので、事例的なものをプロジェクトなり、地域の独自性を生かしてつくっていくという発想が必要かと思います。

○地域のボランティアのための教育の指導要領みたいなのをつくるというのは、ことボランティアにかかわることなんで、いかがなものなのかなあという気がしています。本来、ボランティアですから、今、新聞なんかでもいろんな情報が飛びかっているわけですし、それから我々の世代があと10年ぐらいたったらば、ある程度のレベルの人でしたらインターネットを駆使できるような人も増えているわけですし、いろんなところで自由な発想にもとづく活動がどんどんできて、その人たちが自由に自分の好きなグループをつくってやっていって、仮にその人たちが、例えば美術館で話をすることが十分でないということでしたら、その判断はその美術館なり、それを使う側がすればいいわけです。美術館も公的なものだけではありませんで、今はぷライベートな美術館も数多くできているわけです。生涯教育の一環としてそういうことを学びたいという人たちに、何か機会があるという程度であれば問題はないと思うんですけれども、ボランティア活動にあるレールを引いて、そこのところをマスターしていないとボランティアができないような形にしてしまうというのは、しかもこれからの規制緩和の世の中で、むしろ高齢者の健全な生きがいについての考え方を型にはめてしまうことにならないのかなと、若干懸念を感じました。

○私も最近のボランティアばやりには若干抵抗感があるんです。しかし、考えてみると、ボランティアというのは、日本で始まったのはごく最近ですよね。そういうことから言うと、一つの移行過程で、今危惧されたような事態が起こっても、ある程度やむを得ないのかなという気もしております。

○高齢者が持っているいろんな能力を発揮してもらおうという考え方で進んでおりますが、高齢者自身が子供たちと同じで、同質志向が非常に強いものがあるということも、一つ理解しておかなければならない点だと思います。考え方が固まってしまっていて、若い人とつき合うのは疲れるというようなことで、同じような年令の仲間でもって話していたほうが楽しいんだということもあります。多彩な能力を発揮していただく為にはそういう面をいかにしてクリアするかというのがここの課題でもあろうかと思いますし、またそういうものに対する考え方をヒアリングをやって、色々な方からお話を聞くことが大切なことになるんではないかと思いました。

○それでは、時間になりましたので、本日の議論はここまでとさせていただきます。15期としては本日が最後の第2小委員会になります。大変長い間、お忙しい中を審議に御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。
  4月7日、15期としての最後の第21回の総会が開催されます。総会では、第2小委員会の審議状況につきましては、私のほうから、「高齢社会に対応する教育の在り方」については「検討課題のメモ」を、「一人一人の能力・適性に応じた教育と教育上の例外措置」については前回お諮りした文案を、それぞれ配付させていただいて、御報告したいと考えております。
  今後は、引き続きの第16期におきまして、「高齢社会に対応した教育の在り方」について、本日の議論を踏まえて、「検討課題のメモ」をさらに具体化し文章化したものをつくり、それをもとに具体的に審議を深めていただく予定にしております。また、「教育上の例外措置」という問題につきましても、引き続き細部にわたりまして詰めの審議をしていただくことが必要かと思います。
  その意味で、第15期から第16期への円滑な引き継ぎが大変重要であると考えております。円滑な引き継ぎに向け、4月7日の総会において、有馬会長のほうから、これまでの「議事要旨」「議事録」などを取りまとめたものを添えて、会長談話という形で御発表いただく予定になっております。
  それでは、第15期としての第2小委員会は、これをもちまして閉会ということに致します。どうもありがとうございました。

(文部省大臣官房政策課)
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