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中央教育審議会

1997/2
中央教育審議会第2小委員会(第17回) (議事録) 

             中央教育審議会  第2小委員会(第17回)

平成9年2月12日(水)13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35F  シルバースタールーム

      1.開    会
      2.議    題
          「一人一人の能力・適性に応じた教育の様々な取組と教育上の例外措置」について
      3.閉    会

    出    席    者
        委  員
          木村座長                          辻村初等中等教育局長
          鳥居副会長                       工藤審議官(教育助成局担当)
          市川委員                          高  審議官(高等教育局担当)
          薄田委員                          板橋審議官(体育局担当)
          河合委員                          富岡総務審議官
          國分委員                          その他関係官
          小林委員
          坂元委員
          田村委員
          俵  委員

        専門委員
          小澤専門委員
          シェパード専門委員
          中  専門委員
          山極専門委員
          増井専門委員

○それでは、審議に入らせていただきます。
  本日は、前回予告させていただきましたとおり、「一人一人の能力・適性に応じた教育の在り方と教育上の例外措置」という問題について、前回お示しした「検討課題のメモ」をもとに、委員の先生方からいろいろ御意見をいただきました。その御意見を踏まえ、会長や運営懇談会のメンバーの先生方とも相談をして、私の責任で、文章化・具体化した「座長素案」を作成いたしております。
  前回よりは相当詳しくなっております。御意見を踏まえ、いくつかの柱をつくってかなり詳しく記述してございますので、これをたたき台に具体的に御議論をいただきたいと存じます。今後ともこういうやり方で、1回1回、「検討課題のメモ」を詳しくしていこうと考えております。
  前回に比べると分量が3倍強になっておりまして、「(1)一人一人の能力・適性に応じた教育の在り方について」、「(2)特定の分野について優れた能力や意欲を有する生徒に対する多様な教育機会の充実」、「(3)大学入学年齢の特例について」が柱となっております。その中で、具体的な問題として「対象分野をどうするか」、「対象者はどのような者か」、「受け入れ方法はどうするか」、「受け入れ大学の条件や大学入学後の取り扱いをどう考えるか」、「どのように実施していくか」、さらに「関連して『飛び級』についてどう考えるか」、というキャプションをつけて整理をしてございます。
  「(1)」の「一人一人の能力・適性に応じた教育の在り方について」、この部分はいわば総論でございまして、今後、総会等の場においてもさらに御議論をいただくべき問題かと存じます。したがいまして、できますれば―もちろん、「(1)」のところについて足りないということであれば、御意見をいただいても結構ですが、本日は、「(2)」以下の問題、特に稀有な才能を持った者の受け入れ方法はどうするかという問題でありますとか、どのように実施していくか、こういうことについて御議論をいただければと思います。
  また、「稀有な才能」という問題につきましても、この小委員会ではある程度のコンセンサスが既にできているように思っておりますが、やや抽象的だという御意見もありますので、その辺についても御意見をいただければと存じます。
  特に集中的に御議論いただきたいところを強調し過ぎたきらいがありますが、全体的な点について御議論をいただいても結構でございます。ひとつ濶達な御議論をお願いできればと思います。だいぶまとまってまいりましたので、あとは具体的な問題をどうするかということになろうかと思います。

○学習の進度の遅い子供に対しては適切な指導をしていく必要があるというところがございますけれども、現状を申しますと、高等学校の場合ですと、学習の進度の遅い子供に対しては、ほとんどの学校が今までに十分手を尽くしているんですね。例えば、成績会議というのが年に何回かございますけれども、そこでの時間の大半は、この子供たちに対してどういう指導をしていくべきか、今後どうすべきかということで、みんな知恵を出し合うわけです。どちらかといいますと、進んでいる子供たちはほっておいても何とかなるだろうというのが現状なんですね。
  そういうことを考えますと、今までこういう子供たちに対しては十分手を尽くしてきているけれども、「さらに……」というような、あるいは「一層展開していく必要がある」とか、そういうような書き方をしていただいたほうがよろしいのではないか。そうでないと、こういう子供たちに対して、特に公立学校現場では何も手を尽くしていないんではないか、あまり手をかけていないんではないかというふうな誤解を生むおそれがあるのではないかと懸念いたしますので、そのようにお願いできたらなと思っております。
  それから、これは後ろのほうになりますけれども、随分御苦心されて書かれたという印象を受けたわけですけれども、もしも稀有な才能を有するということが各方面から認められて、大学に入学したけれども、その後何かの事情で、大学すら卒業できない事態が生じた場合どうするかということで、これについて何らかの配慮を行う必要があるというふうに書いてありますが、私は基本的にはこれは本人の自己責任ということを明確に打ち出してもいいのではないか。やはりそういう子供でありますから、何らかの事情が生じたときに、4年でなくても、5年、6年かかっても、その大学だけは卒業する、あるいはさせるという、そちらのほうに重点を置いたほうがよろしいのではないか。大学を卒業できなくなったから、出身高校で何とか卒業の資格を与える方法を工夫してくれというようなシステムにもしなりますと、これは大変困った問題だなと思っております。とりあえずその点、今ちょっと気になりましたので。

○最初に言われたところは、実は大学でも同じです。単位が取れなくてバタバタしてる学生を救うことにきゅうきゅうとしてるんですよ。できるのはほっておいても何とかなります。できない学生のためにしょっちゅう会議をやって、そういう学生をどうするかということをさかんにやってるんです。そういう点では、大学もそれ以下も同じだと思います。
  それから、後のほうは、なかなか厳しい問題ですね。日本的な考え方では、オウンリスクというのはなかなか難しい点があって、その辺、少し御議論いただければと思います。

○基本的な方向として、私も大体こういうことかなと思うんですが、しばしば議論がありますように、受験戦争を激化させないという大前提があり、この資料でも「単に大学に入学するための手段に用いないこと」とわざわざ断っているわけです。そういう趣旨からしますと、受け入れ方法とか、受け入れの条件とかありますけれども、これも建前としては、あるいは理念としてはこのとおりだと思うんですが、例えば受け入れの大学は、抽象的に「高度の教育研究活動を実施しているなどの一定の条件が必要」であると。まさにそうなんですが、それを誰が判断するのかという問題があって、そういうことをやることが、その大学の箔づけになるというふうな形で利用されると、今の制度では、A大学とB大学は同じ大学で、おまえのところは研究をやって、おまえのところは研究をやっていないというのは、なかなか言いにくくなってくる点があるんだろうと思うんですね。そこのところを単にそれぞれの大学の良識に任せておいていいのかどうか。大学自体の本質論にぶつかっちゃう問題ではありますけども、極端な例で、ほとんどの大学で「おれのところは高度の教育研究をやっているから」というふうにやり出したんでは困る。そうなると、判断の問題ですね、稀有な能力があるかどうか。その辺をどういう歯どめをかけてやるか。それがないと、稀有だ、稀有だということで、全大学がやり出したら、これは受験戦争の激化、あるいは入学の手段として利用されるというようなことが起きやせぬか。理念だけではうまくいかないのではないか、そんな気がいたします。
  それから、これは当然の前提にしているんでしょうけれども、数学、物理と言って、数学、物理に稀有な能力ということになるわけですが、入った後、数学、物理を専攻してもらわないと困るわけですね。けれども、別の分野に入る手段として使うということもないではないわけなんで、その辺の歯どめ策も、難しい話かもしれませんが、何か書いておかないといかんのかなという気が、正直いっていたします。

○そこのところが悩みの種でありますが、「どのように実施していくか」という点について、「各大学において自主的なガイドラインを策定し」というのも一つの方法であろうということで書いてあります。
  もう一つの考え方としては、国の規模といいますか、各大学自主的じゃなくて、ある共通のガイドラインをつくってはという考えもありますが、そうすると、ただ今の御意見のようなことが行われるんじゃないか。ガイドラインを満足しているから、うちも採ろうじゃないかということになるんじゃないか。その辺りのことは非常に難しい問題ですね。

○物理と数学で稀有な才能を有する者を選んで大学に入れる場合、将来、この分野で才能を発揮することができることが期待されていますが、両分野に稀有な才能を有する者が、例えば医学部を希望することもあります。それが悪いことととは言えませんが、大学入試に使われるという観点から、考慮する必要もあります。

○難しい学部へ入る道具として使われちゃうということですね。その辺、どういうふうに歯止めしていくかですね。大変難しい問題だと思います。
  それから、たまたまそういう非常に稀有な才能を持った人を育てて、企業に行くというケースはあっても良いんですが、私はそういうケースはあまり起こらないのではないかと思っています。学問のフロンティアを見つけてくれる人、そういう人を考えています。

○今回、物理と数学に限定した答申にすることに、若干の危惧を感じます。
  自然科学の分野でも、バイオなどの新しい分野が出てきていて、ずば抜けた才能を発揮したり、人より進んだ研究をしているというのも稀有な才能です。要するに、興味がわいて人よりははるかに先へいっている者を受け入れるということを考えると、これは数学と物理に限らないほうがいいのではないかと思います。
  医学に象徴的にあらわれていますように、数学と物理さえできれば、医学部の勉強はトップで走れるという状況ですね。これは実は世界的に見ると異常なことです。
  つまり、全人格的なバランスが必要だということを、我が国の場合にはもう1度考える必要がある。アメリカ、イギリス、中国、あるいは韓国では、宗教が社会の基盤としてはっきり存在してますから、そういうものを基本に持っている人たちが、競争しているわけです。もし特定分野の異能者を受け入れるとすれば、受け入れる大学の側で、全人教育のある種の受け入れ態勢がないとうまくいかないと思います。
  約30年前にスタンフォードで、18歳の若者が大学院の数学の講義をしていたことがあるんです。数学の天才らしいんですが、変り者で、ファカルティークラブの一番の変わり者なんですが、チャペルへ行くと普通の人なんです。そこが違うんです。日本にはそれがないですから。ですから、人格のバランスをとるものがどうしても必要であると思います。
  そこで、私は思うんですが、この制度は稀有な才能というよりも、むしろ進んだ人を受け入れることができる体制というふうに考えられないんだろうか。それから、受け入れる大学の側に、全人教育を強く要請していく、新しい動きを同時に出したらどうかと思います。

○今のお話に関連するんですが、対象の分野と対象者ということで、対象の分野のところては、理由を述べながら、「当面、数学や物理の分野に限ることがで適当である」と。つまり、「当面」ということが非常に重要だと思うんです。
  もう1点、対象者のところですが、「当面、対象を高等学校に2年以上在学した17歳以上の者とすることが適当である」と。これは1年やそこらでそんな効果があるのかという議論との兼ね合いもあると思うんです。
  今までの議論で、何で数学、物理だけか、それから1年かということについて、「当面」という意味合いが非常に強い。つまり、これまでの議論では、これはいいというふうに考えたところが、現実的な案になってはいると思っております。
  おおむねのところは、これでいいと思っているんですが、少し申し上げると、分野の問題でいきますと、「芸術分野、スポーツ分野などがある」というふうに関連して指摘しておりますが、これはこれまでの議論だと、これは第1小委員会との関係ですが、例えば中高一貫との兼ね合い等の議論が出てくるだろうし、それから場合によったら、将来的にはこれ、あるいはこれ以外のものも出てくる可能性もあり得るという気がいたしております。
  そういうふうに考えてみますと、「対象者はどのような者か」ということで、大変気になるのは、「極めて稀有な才能を有する、極少数の者とするべきである」と。ところが、稀有な才能を有する者というのは、一体どういうことを言うのかという定義がないんです。これは前期の中教審ですと、「一分野で突出した才能を保持しており、専門家から早い時期に適切な指導を受けることが望まれる者で……」、その後ですが、「……そうした支援措置を受けないと、あたら才能をスポイルされるのが惜しまれるというほどの異能の才能保持者」と。今回の場合に、ほかにもあるかもしれないんだけれども、数学、物理について言えば、後段の「あたら才能をスポイルされるのが惜しまれる」という感覚で、この二つをというのをとりあえず、選んだというふうに理解しないと、何で数学、物理だけなんだということになるのかなという気がするんです。ここの対象のところを、前期の中教審と別に同じというふうにはならないかもしれませんが、もう少し限定をしないと、これが出ていったときに、かなりの論議が出てきやしないかなということをおそれるというのが1点でございます。
  ついでですから申しますと、別に重要かどうかというのは別にして、「こうした取組を単に大学に入学するためだけの手段に用いないこと」というふうに設定してあるというお話があって、これは確かに重要なんですが、ちょっと言葉が少ない。これだと一義的には大学に入学するための手段なんだというふうにとりかねないんで、ちょっと言葉が少ないかなと。私の読み方の問題かもしれませんが、ちょっと気になったということです。
  そういうことで、関連して言いますと、「大学で教育を受けることが効果的な分野について」というのは、どういうことか。これももう少しはっきりさせたほうがいい。例えば千葉大学で、たしかギリシャ語入門なんていうのを始めてますね。それじゃなくてもいいんですが、次の段階には、これまでの議論を受けて「効果的な分野」というのはどういう意味だというのを、少し説明したほうがいいかなという気がします。
  そういう言葉だけのところにいっちゃって恐縮なんですが、「対象者は、極めて稀有な才能を有する、極少数の者とするべきである」というところですが、つまり、「極少数」なんですね。1校に1人もまずいないんだろうと思います。ところが、下のほうへいくと、「その際、1年間早めただけだが、本人はもちろんのこと、まわりの学生も」とありますが、この「まわり」というのは一体誰のことを言ってんのかなというところで、これは単なる言葉の問題ですんで。そういった点がほかにも、今の段階ですから、まだあろうかなと思いますが、その辺はちょっと気をつけたい。
  また、例えば、「アカデミック・アドバイザー」というのも、横文字の使用については一次答申のときにも出ましたけれども、少しわかりやすく、横文字だけじゃなくてという。これからの議論ですが、とりあえず文章だけで、形式論で気になったところを主体にいくつか申し上げました。

○一番最後のところに書いてある「まわりの学生も非常に意欲的になり」というのは、エクザンプルなんです。これまで日本の大学院の1年の年齢の違いというのは、学生にとってものすごく大きな障壁だったんです。ところが、3年次からの大学院入学を許したことによって、その連中が初めはビクビクしてたのですが、1年上の連中と一緒に研究したり行動することを全く変に思わなくなったという傾向が出てきたということはあるんです。たった1年でそんなに違うのかということに対して、1年でもものすごく違いますよという、自分の体験から発言したことがここに書かれているということだと思います。
  それから最初の、どうして数学、物理かということに対しては、おっしゃる通り、前期の答申を踏まえることが絶対必要だと思っております。
  それと数学、物理だけに限る必要はない、バイオなどもということですが、その辺は、私も自分の大学で、化学、バイオの連中に聞いてみたんですが、この分野で異能者を見つけることは非常に難しいと言っています。彼らも、数学とか、物理なら見つけられる―物理に対しては若干疑問を呈した人がいましたけど、数学なら絶対見つけられる、と言っています。
  それから、全人教育のところは、17歳で入れようと18歳で入れようと、今、あんまり変わらないんじゃないかという気がしているんです。大学できちんとやれば、同じじゃないでしょうか。18歳で、高校3年間ちゃんとやってきたから、人格的成長を遂げているという見方に対しては、私は疑問に思います。最大の目的は、やはり現在の硬直した教育システムに風穴をあけることだと、捉えております。

○対象分野ということに関連しまして、前回、芸術分野はいかがですかという質問を受けまして、私そのとき、思いつきで答えてしまったんですが、まず文学に関しては本当に必要ないと思います。それは稀有な才能を見つけること自体、客観的に大変難しいと思いますし、特に手おくれということもありませんし、70歳になって小説を書く人もいますので、全く必要ないと思います。
  それと音楽に関して、指揮者の方にちょっと聞いてみたんですが、音楽の場合は確かに稀有な才能というのは明らかに、見る人が見ればわかるそうです。ただ、手おくれという点では、音楽はやはり三、四歳ぐらいが勝負で、10代ではもう手おくれだということで、逆の理由になっちゃうんですけど、ちょっとなじまないだろうというお話でした。音楽ですと、ここに書かれているように、学校教育以外の面で、幾らでも道が開けているということで、才能がある子供がいれば、周りがほうっておかないだろうということでした。
  以前、御意見として、音楽で世界的に活躍している人は、ほとんどが留学しているじゃないか、日本で育てられないのは情けないという御意見がたしかあったと思うんですが、そのことに関しても、今、音楽といえばおおむね西洋音楽のことを言うので、音楽をやろうと思う者は、日本だ、世界だというようなことで線を引く必要は全然なくて、海外で芽を出すというのはむしろ自然なことでしょうというふうな、そんな御意見でした。御参考までに。

○全体的に非常によく考えられていると思いますが、私も、下手にして、大学入学の手段に使われるというのが一番困ると思うんです。その際、やっぱり数学、物理に限っておられるのはいいと思いますね。これは確かにできる人は、さっきの音楽と一緒で、できるんです。
  このときに、稀有な才能というのをもうちょっとうまく定義できると思うんです。例えば、大学の4年ぐらいのことをポンとできますね。だから、そういう表現をしておかれたら防げると思うんです。できる人は、本当に大学院のときから超一流の仕事をしてるしというようなことになりますので。物理もある程度数学と関係するから、そこをうまく見つける手段さえガッチリやっておかれたら。そしてまた、実際そういう人を早く出さないと損ですしね、というふうに私は思ってます。

○校長会でも、今、皆様がおっしゃったことと同じような意見が出まして、稀有な才能の受け止め方が一人一人バラバラです。中学校で考えた場合に、稀有な才能の持ち主が1校に1人というと1年間に1万人、10年たつと10万人になります。稀有な才能の持ち主の代表的な例であるアインシュタインが日本に10万人出たとすると、日本はつぶれるな、という冗談がでたほどです。これが1点目です。
  それから非常に心配になったことは、これから生徒・学生が減少する時期になりますから、本日の座長素案にも触れられておりますが、学生の確保を目的としたいわゆる”青田買い”の心配があります。むしろ採るほうの側に対する規制が非常に難しく、教養審が大学を年間数校の視察に回る程度では、とても確認はできないであろうと思います。その意味からも、組織的に考えることが必要と思われます。
  それから、以前にも申し上げましたことですが、これから先、答申文が出ますと、学校関係者は隅々まで読みまして、用語の違いとか、この用語の意味は何かなどということに非常に神経を使います。前回の学習指導要領で非常に神経を使って示した「習熟の程度に応じた学習」という表現と、「習熟度別学習」という表現が、今回の素案では混在していますので、用語は統一して、従来の表現を踏まえながら使っていただいたほうがよいと思います。

○ここで議論をしていることは、私どもの大学では、ほとんどの先生、物理、数学の先生は知っておられるわけですね。そういう先生方は、慎重ですね。風穴をあけても、実行してもらえないのではないかと思っています。本当に責任ある立場に立てば、全大学がやりだすというようなことは、あんまり起こらないんではないかと思うんです。17歳から特別に入れるということは、今までの日本のやり方を完全に壊しちゃうわけですね。それだけ大きな責任があるのではないでしょうか。大学を信用しないと、それこそ青田買いをどんどんやってしまうのではないかという恐れも出てくるのでしょうね。数の話ですが、今おっしゃったような、とてもそういう数字ではないと思います。2桁以下の数字でしょうか、いやもっと少ないかもしれません。私は本当に稀有な才能だと思ってます。

○私も稀有な才能ということについて仲間と話したのですが、ここに書いてあるように、数学と物理だけが特筆される、ほかの教科に対して、数学と物理は別のものなんだよということを与えやしないかということが非常に懸念されるのです。また、それができれば何とかなるんだということが、親のほうにも起きやしないかということが考えられるんではないか。そして、2桁ぐらいの稀有な人のものであれば、わざわざ学科名を特筆しなくても、稀有な才能のある人には別な道が開けてるような対応はできないものであろうか。
  もちろん、芸術やスポーツの分野についてもと書いてありますけど、これは学校以外の場でも十分にできるといっております。もちろん体育大学もあれば、音楽大学も、美術大学もみんなあるわけです。芸術やスポーツを、学校教育と関連させなければ才能が伸びないというものではないという書き方をされると、この分野にいる方にとっては、ちょっとひっかかるかなという思いがするわけです。一般の人たちが見たときに、数学や物理という名前がただ二つ出てくるだけで、何か別のものに扱われているという見方がおきはしないか?一般的に文章の中身なんかあんまり読みませんから、これだけ出てくると、「今度はこういうふうになってんだ」ということで、間違えられやすいんではないかと思います。私のように出てきてお話を伺ってればわかるんですけども、ほかの教科との兼ね合いをもう少し何とかしたほうがいいんではないかと思います。

○確かにそういう心理的な側面はあると思いますね。その辺は、答申でどう決着するかわかりませんけども、書き方としては相当気をつける必要があると思います。

○数学と物理というのは、私も、これは学校以外ではなかなか伸ばしにくいと申し上げて、議事録にも載っているわけです。
  一つは、なぜそういうふうに限定したかと申しますと、別に数学、物理は人間認識が薄くてもできるということではないんですが、一方で、先ほどの意見のように、全人的な教育がやはり大事だという視点から見ますと、範囲を広げないほうがいいと私は考えたわけで、数学、物理を私が特別視したわけではないんですけれども、やはり人間認識がかかわるところでは、あまり天才教育をしないほうがいいと思います。例えば、文学なんかそうだろうと思うんです。じゃあ、数学は人間認識が要らないのかというと、その辺難しいですけれども、極めて抽象度の高い学問であるということ。
  何かここに、早期の教育を進める反面、全人的な発達についても配慮しないといけないということを、書いておいたほうがいいんじゃないか。そうしませんと、確かに数学ばかりできてしまうというふうになっては困ると思います。
  もう一つ、進度の遅い子供のことですが、実は私も大学と高校で教えている時間の半分は、一番できない学生の世話にとられているわけです。例えば、卒業できない学生というのに何遍も会ったりしなきゃならないんです。そのことは、実際現在でも、教員の努力はなされていて、むしろ遅い子供のために時間とエネルギーを割かれているということを書いてもいいんじゃないか。このことも実は私の責任がありまして、こういうことをまたきちっと書いておかないと、それこそ中教審は、できる子のことばかり考えていると。世の中には平凡な子供のほうが圧倒的に多い、できない子もいる、そういう人はほっぽっておかれるのかという議論が出されますので、こういうのをぜひ入れてくださいと申し上げたのは私だったものですから、これに何か少し工夫をしたらいかがかなと思います。以上です。

○いわゆる能力からいいますと、既に数学、物理については、実験をやっていますので、
大学入試に取り上げることは素直な流れかなと思います。それ以外の分野に関しては、少し実験をするということを考えるということで表現されたらいかがかなと。全然やってないですぐ入試でやっちゃうのは、ちょっと危険じゃないかという気がしました。
  それから、理由づけを丁寧に書く必要があると思います。国際競争、メガコンペティションの中で、日本が負けちゃうよということをきちっと書いておく必要があるんじゃないか。才能のある人間をやるんだということは認めてるけども、やらないと日本が負けちゃうということをはっきり書かれたほうがいいんじゃないかという気がするんです。

○物理と数学に限るより、対象分野は書かないでおいて、実際には運用面で、まず物理とか、数学とか、やりやすいところからやっていくという考え方が一つあると思います。

○そのために、「当面」ということを書いたんです。

○私も、「当面」というところに相当意味があると思うんです。私、方向として賛成だと言ったのは、当面数学と物理に限定したというのが、大きな理由で、どう理論づけるかというのは難しいところですけれども、一つは、前に数学や物理をやったって金にならんよと議論があったのがヒントで、そういう意味で、数学とか、物理とか、いわゆる学問としてやる人たちについては金にならないし、立派なことだとは思っても、いわゆる世俗的な意味での立身出世ではないんですね。そうすると、親なり何なりがそれ目がけて、子供のしりをたたくということはあまりないだろうという、実際的な意味合いが一つあるということです。これがほかの分野まで広げていくと、まさに受験戦争を引き起こすことになっていきやせんだろうか。
  もう一つは、稀有な才能というのは、ピラミッドの頂点でなくて、ピラミッドの外にある人間だというどなたかの御発言を議事要旨で読んだんですけれども、まさにそうだろうと思うんです。特別みんなと比べてできるというんじゃなくて、全然、何ていうんですかね、別の次元で、こういうのは私ども個人的体験でも、クラスに一人くらいは、とんでもなくできるやつがいた、これはかなわんと。しかし、クラスに一人程度じゃ、数が多くなりますから、もっともっととんでもないやつの話なんで。それは先ほどお話がありましたように、あれにはかなわないというのは、ちっとも恥ずかしいと思わないんですね。あれは別の人間だと。そういう認識で多くの人はいるんじゃないでしょうか。
  ですから、我々一般の人は、「中学、高校のとき、数学ができなかった」というのは平気で言うんですね。だけども、世界史ができなかったとか何とかというのは、何となく恥ずかしいような気になるという、そういうところがあって、これをどう理論づけるかというのはわかんないんですけども。
  ただ、理論的な意味で、数学、物理に限定するというのはなかなか難しいと思いますから、「当面」と。しかし、それをやってみた結果、どういうふうに世の中が動いていくか。それから、お話がございましたように、習熟度別というものを徹底するなり、あるいはいろいろな実験をやってみて、他の分野に広げるなりという工夫をその過程でやっていったらどんなものかなと思うわけでございます。

○一つ、先ほど来御議論されている例外的な措置で、物理、数学で、今まで試行実験もあるし、そこで稀有の才能が選べるといいと思うんですが、だんだん高等学校の指導要領が変わってまいりまして、情報とか、いろいろ出てまいります。そうすると、ソフトウエアなんていうのも、稀有な才能の可能性がありますので、最初、物理、数学でスタートして、様子を見ながら、また研究をしながらだんだん広げていく。そうすると、例外措置がだんだん例外でなくなっていくというような形のステップで。ですから、当面論に私も賛成でございます。これが1点。
  第2点は、ちょっと先生方と御意見が違うところがあるのかもしれないんですが、数学と物理ができる子供が、大学の理学部の数学科と大学の理学部の物理学科に行かなければならないとなってはいないと思うんですが、もしそう誤解されますと、いかがかなと。つまり、数学ができる人が、先ほどの経済へいっちゃうという可能性とか、それから物理へ行く可能性とか、あるいは電子工学に行く可能性ですね。それから、物理ができる人が制御工学へ行ったり。そういう稀有の才能は―理論的とおっしゃったんで、イメージが違うかもしれないんですが、非常にずば抜けた者が工科系のようなところでも大きな貢献をするんじゃないか。特に日本の経済発展などを支える大きな貢献が、その辺の人から出てくる可能性もあるので、物理―物理、数学―数学という固定したものじゃなくて、物理―応物とか。つまり、高等学校では数学と物理は教えてますけれども、ほかの科目は教えてないものですから、もしそういう科目を高等学校で教えていれば、そこで稀有の才能を発揮したかもしれないけども、今は物理で発揮してる、数学で発揮してるという子がいると思うんです。その範囲が、医学部にいったらいかがかというようなことがありますんで、できれば数学の人がいく範囲の学科はこれぐらいだとか、物理で行く学科はこのぐらいだとか、ある種の限定をするか、先ほど御議論になっていますように、ぼかしておいて、実行上上手に割り振っていくのかですね。その辺の検討が要る。これが第2点です。
  第3点は、それと絡んで、何かの形でそういう受け入れ学科であるとか、稀有の才能を評価する―受け入れ学科を評価するということは、大学評価になっちゃうんですけれども、そういう認定機構というのか、仕組みを検討する必要がある。これは外でするか、学内でなさるかということも含めて、必要だという感じがいたします。以上でございます。

○今の御発言は、きょう冒頭問題提起しました、どうやって選ぶかということに関係してくるのですが、その辺どうでしょうね。やはり見つける仕組みをつくらなければいけないわけですね。それから今おっしゃったように、例えば数学ができる子、あるいは物理ができる子を、電子物理だとか、電子工学、制御だとか、そっちへも持ってこられるかというふうな問題ですね。その辺のところはどうなんでしょう。
  私は、やはり何かパイロット事業みたいなものを通して、そこで見つけていくということがまず妥当なところじゃないかと思います。いきなり大学と高等学校とコミュニケーションしろといっても、非常に難しいと思います。

○稀有な才能を有する者をどのように選ぶのかということについて、座長メモには、具体的に書かれています。基本的にこれでよいと思います。
  一回の試験で決めるとかではなく、受け入れる大学が中心になりながら協議機関を作るなど、時間をかけ、丁寧な方法で選ぶことをすべきです。また、入学後もフォローアップして、色々な問題点を明確にしたり、追跡調査をするなども大切であると思います。
  稀有な才能を有する者の専門分野は、原案にあるように、当面は、数学と物理で良いと思います。我が国の基礎研究等の充実・発展に貢献できる人材が生まれたら良いと思っています。

○どのようにその優れた人を選ぶかも、優れてるというのは何かということが大問題です。数学を例にとりますと、新しいセオリーを論文に書いて発表し、数学界も無視できないという場合は、はっきりしてます。一方、ずば抜けて何でも数学についてはできる。そういうのを異能の才能という範疇に入れるのでしょうか。もしそれを入れるとなると、それは試験するということになるわけです。
  学界がある種の異能な業績を認めるようなものを入れてやるという仕組みだと思うんです。そうすると、それは実はある種のスカウト入学になるわけです。
  一方では学生選抜の多様化を考えようとしているわけですから、学生選抜の多様化の一つとして、稀有な才能を持っている人を入学させ、オールオーバーに数学は何でも知ってるという子供を異能な才能と呼ぶんだったら、それは試験の激化を招くことになる。

○物理については私も未だはっきりとしたイメージを持ってないんですが、数学については、パイロット事業等をやれば、見つけられると思っています。異能者の定義については、ある協力者会議でこういう意見が出てきたんです。異能者には2種類あるだろうと。一つは、ろくろく学校教育を受けてなくても、突然新しいアイデアを思いつく人。それからもう一つのタイプは今お話があったように、いろんなことを習って、それを総合することによって、人が考えつかないことを考えつく人。恐らく、いろんなことを習った上で、総合して上にいくような子供達は、ここでは考えない。大して習ってなくても、どうしてこういうことできるの、という子がいるんですよ、いわゆる天才ですよね。そういう子をできれば探したいということなんです。それはパイロット事業なんかやった先生方に言うと、「いる」と言うんです。習ってなくても、「どうしておまえ、こんなことを考えたんだ」というのがいるっていうことをおっしゃってます。そういう意味では、見つける仕組み、学会主体でも―そういう意味で、財団法人と書いてしまったんですが、大学でもいいし、ほかの団体でもいいし、パイロット事業なんかやって見つける仕組みをつくる必要があろうと思っています。

○これから申し上げるのは抽象的なことで申しわけないんですけど、どうしても異文化という観点から考えてしますんですけど、中教審みたいな会議があって、アメリカで教育についての議論があるとしたら、昔からある議論なんですけど、どうやってもう少しアメリカの教育をスタンダード化するかと。逆の問題なんですよね。ですから、数週間前に世界中の、特に科学に限った発表だと思いますけど、高校生として検定試験の一番高いほうの点数をとっているということがあって、アメリカの教育者のほうでは、非常に心配しているわけなんです。だから、アメリカの教育をもうちょっとスタンダーダイズしなければならないのではないかと。
  それをどうやってするかということは、今日のお話を聞いて思いついたんですけど、逆にアメリカの場合には、じゃ、どこまでスタンダーダイズできるか。それはもちろん仕組みがあればできるんですけど、国民のほうでどこまで許していくかということなんです。だから、自由をどこまで失って、スタンダーダイズできるようにできるかということなんです。逆に日本の場合には、基本的に一人一人の能力・適性に応じた教育をするために、どこまでほかのものを犠牲にして、それを取り上げて、実施していくかということなんですよね。
  何回か、ほかの委員も、私のほうからも、じゃ、一人一人の能力を高めて、一人一人の能力に応じた教育をつくるんだったら、幾らでも話があると。一つは、私の専門ですから言いますけど、語学学習のことですね。口で早くすぐ言えるのは、中学校あたりから能力別に分けてやっていくのがすごくいいことではないでしょうか。これは別に天才ということじゃなくて、一人一人のできる、やりたいことを支えていくということなんです。
  きょうの話は、少なくとも二つに分けられると思うんです。一つは、システム全体のことに対して何かやりたいのか、あるいはきょういろいろと取り上げた、何千万人に一人の異常の才能を持っている人にどうやって対応するかという話だけなのか。もちろん連結する部分もあるんですが、本当に日本のシステムを変えて、もう少し一人一人の能力・適性に応じた教育をする、あるいは創造性を与えるということになると、アメリカは大変なことになるんですよね。だから、国民のほうで、今のスタンダーダイゼーションをどのくらい犠牲にして、これから一般的に、才能のある人ということだけじゃなくて、音楽でしたら、音楽がたまらないほど好きだという子供たちをエンカレッジしていく。数学の天才の人だったら、今日の話にも出てきましたけど、誰でもすぐわかると思うんですよ、異能の天才でしたらね。その人を見つけるのに、今の日本の教育制度の中では、どこに障害があるのかということなんです。今、教室の中にその障害があるのか。音楽を非常にやりたい、あるいは数学が天才的にできる子がいるとしても、その子は自分の能力を生かすことができないということなんでしょうか。生かせないとしたら、どうしてそれができないのか。周りの先生がそれをエンカレッジしてないのか。あるいは、今までずうっと話してきた入学者選抜の問題のほうにどうしてもまた回っていくということになるんでしょうか。
  考えがあまりまとまらないんですけど、こうやって聞いてると、いや、やっぱり対照的になるなと思いながら。いや、ほんとに審議会の最初から、日本はクリエーテビティーを高めるような制度がないんじゃないかと思いながら、他方では一つの基準があって、それを生かす、それを実現していくということが、すばらしくできておるものですからね。だから、両方できるような理想的な制度を……。ある意味で、アメリカ人の観点から言いますと、今、お互いにそれを探しているというか、結果的にはお互い違う結論が出るかもしれませんけど、色々とおもしろいし、大変なチャレンジですね。

○英国もまさにそういう意味で言うと、スタンダーダイゼーションといいますか、平均値を上げる方向にいっているわけですね。ただ、非常に巧妙に、従来からあったようなトップエリートを育てる仕組みというのは、何とか残そうとしているんです。一部の人は、その仕組みは危機に瀕していると言いますけども、残そうとしている。日本は、今おっしゃったように、平均のところはかなり上がっているから、そこは堅持しつつ、そこへ少しピンホールをあけようということだと思うんです。と同時に、日本の国民は、これまでの平均主義といいますか、公正主義、そこをドラスチックに破るということは、今の段階ではとても許さないんだと思うんです。ですから、苦労しているんです。それができれば、ここまでやる必要はないんじゃないかと思うんです。

○今日の話でふと思いついたのは、異能の才能が何千万人に一人だけということになると、ある意味では、非常にセーフな方向性に向かっていくんじゃないか。セーフというのは、安全な議論になると思うんです。いろんな反発が出るかもしれないけど、エリート教育とかね。だけど、もし何千万人に一人のものすごい優れた、ジーニアスな人に対して、どうやって対応するかということになると、ある意味では、教育制度全般に対しては非常にセーフな、あんまり風穴があかない。また繰り返して申し上げますけど、一人一人の能力じゃなくて、何千万人に一人だけの。

○その辺は、日本のカルチュラル・バックグラウンドを意識しながら議論しているんで、そうなっちゃうんですが、私個人は、そういうちょっとしたピンホールがあけば変わってくるんではないかと思っています。そのいい例が、大学院の3年次入学ですが、私どもから見てて、日本の社会で非常に大きなイノベーションになったと思っています。3年次入学は数が多いんですね。一つの大学で10数人、20人ぐらいになっちゃいましたから。それぐらいないといけないのかもしれませんけども。

○やっぱり審議会の答申として何をねらうか、文部省が何をねらうかということを考えると、戦略的に考えたほうがいいと思う。大学の4年生をスキップして大学院に入るところは、制度的に認めることができて、自由化ができたわけです。今度は高校の3年生をスキップすることを制度として認めておいて、それは非常に狭い門だけれども、門はあけるということに焦点を置くのなら、国民は納得すると思うんです。ところが、数学と物理の異能な才能を一人か二人見つけて、育てて、メガコンペティションに備えようというのは国民は納得しません。

○いや、僕はむしろ逆だと思います。

○音楽の稀有な才能がある人は、ジュリアードへ行けばいいというのは、ジュリアードがあるから言えるのです。ところが、日本には数学のジュリアードがない。それをつくる政策のほうが、重要ではないでしょうか。

○いやいや、17歳で大学へ入れるとなったら、完全に受験競争の激化です。そこんとこを何とか避けたいわけです。

○制度として、17歳から大学受験できるという形になりますと、まず現在ある過熱した受験競争に、さらに油を注ぐことになるんではないか。そういう意味で、現場としては絶対認められないというのが大勢ではないかと思います。やはりこのまとめにありますような形で、異能な才能を、どういうふうに発見するか、私は専門じゃありませんのでわかりませんけれども、そういう学生を大学で採用していただくという方法でなければ困るのではないかと思います。また、どうやって選抜するかということについては、「推薦などに基づく丁寧な選考による入学を基本としたのは」いいんですけれども、これはぜひもっと具体的に力を入れて書いていただきたいと思います。一般の入学者選抜とは全く別の方法によるわけですから。

○受験というと、そうなるんです。私は大学の入学選抜という考え方で、自己申告によって、「私はこういう天才です」と言ってきた者を入学させるという入学制度もあるわけです。だから、これで受験競争があおられることは必ずしもないと私は思います。

○たぶん今おっしゃったことは、ある意味では理想的というか、最終的な姿としてみんなが考えていることではないかと思うんです。ただ、いきなりそこまでいけるかというのは、それぞれの見方もあるでしょうから、そこを今後、どう折り合いをつけていくかということだと思います。たぶん本当に理想的な姿で言えば、ただ今の御意見のように、大学のほうで選抜の工夫をしてしまえばおしまいなんで、それができないから、こうなっているということなんですね。
  それでは、ありがとうございました。
  今後の進め方についてでございますが、今後の中央教育審議会全体の審議スケジュールについては、文部省の「教育改革プログラム」、御承知のとおりでありますが、これを踏まえて、先日、総会において、本年6月をめどに結論を得るということになりました。このため、15期の任期である4月9日までにできる限り議論を詰めた上で、次期の中央教育審議会に引き継ぐことになっておりますので、よろしくお願いいたします。
  第2小委員会では、こうしたスケジュールを念頭に置いて、引き続き本日のような精力的な審議を進めてまいりたいと思っております。
  ここで一つ御提案でありますが、第2小委員会では、現在集中して議論していただいております「一人一人の能力・適性に応じた教育の様々な取組と教育上の例外措置」とともに、もう一つ大変大きな話題、「高齢社会に対応する教育の在り方」についても検討していく必要がありまして、これが課題になっております。この問題については、総会では御意見も出ておりましたが、第2小委員会としてはまだ一度も議論しておりません。しかしながら、今後の審議スケジュールを勘案いたしますと、この問題についても、早急に検討に着手することが必要ではないかと考えます。
  従いまして、次回につきましては、「高齢社会に対応する教育の在り方」について、自由討議をお願いしたいと思います。
  「一人一人の能力・適性に応じた教育の様々な取組と教育上の例外措置」については、本日、大変幅の広い御意見をいただきまして、うまく案がまとまるかどうか自信がありませんけれども、修正した案を私のほうで作成し、次々回の会議において改めて御議論いただきたいと思いますが、よろしゅうございましょうか。それでは、そういうふうにさせていただきます。
  それでは、もう一度申し上げますが、次回は「高齢社会に対応する教育の在り方」について御議論いただく予定でございます。日にちは2月24日、月曜日、13時から15時、本日と同じ、霞が関東京會舘、35階のシルバースタールームでございます。よろしくお願いいたします。
  本日は、これをもちまして閉会といたします。ありがとうございました。


(文部省大臣官房政策課)
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