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中央教育審議会

1996/12
中央教育審議会第2小委員会(第15回) (議事要旨) 

             中央教育審議会第2小委員会(第15回)議事要旨


日  時    平成8年12月16日(月)午前13時〜15時

場  所    霞が関東京會舘35F「シルバースタールーム」

出席者
(委    員) 市川、薄田、江崎、河合、木村、小林、田村、俵、土田、永井、根本の各委員
(専門委員) 河田、小澤、シェパード、中、山極、牟田  の各専門委員
(文部省側) 辻村初等中等教育局長、工藤教育助成局審議官、早田大学課長、佐々木体育局長、富岡総務審議官、鴫野政策課長  その他関係官

議事等
1.自由討議
  「一人一人の能力・適性に応じた教育の様々な取組と教育上の例外措置」について、自由討議を行った。その概要は次の通り。

○飛び級などについて中学生に聞いたところ、みんなと一緒じゃなければいけない、一人だけ抜け出ることによっていじめなどを受ける恐れがあるなど、否定的な意見があった。

○中学校段階では飛び級や落第などはしない方がいいと思うが、学校段階が上がるに連れて、ある程度考えた方がいいのではないか。
  教育上の例外措置の対象分野については、数学、物理が最も顕著な領域だと思うが、外国語についても、高校段階では能力別授業にしてもよいのではないか。

○没個性的な偏差値教育が、創造性の育成を阻害しており、これをいかに打破するかを考えるべきである。
  戦後の日本の教育は平等ということにウェートを置きがちであったが、自由という面に配慮しなければ創造性のある人間は出てこないと思う。しかし、その場合、平等と自由をブリッジする倫理観を教えることが絶対に必要である。

○飛び級について考えるのであれば、留年についても許容するようにしていかなければならない。
  子供たちが興味を持てるようなアプローチをすることが大切であり、先生がそういう授業をできるよう、専門分野での研修制度の改革が必要である。

○個性化・弾力化という流れの中で、一人一人の能力・適性、興味・関心に応じ、子供たちをいかに伸ばしていくかということの一環として、教育上の例外措置の問題も考えていく必要がある。
  例外措置については、大学が大学教育の一環として行う場合、高校が高校教育の一環として行う場合、学校外で能力を発揮させる場合に分けて考える必要がある。例えば芸術や体育などは、学校外で大いに能力や適性を伸ばして認めていくほうがいいと思う。
  仮に17才から大学入学資格を認めるとした場合、その対象は非常に稀有な才能で、極少数ということになると思うが、科目等履修生などで大学レベルの授業を受ける機会については、人数的にも幅を広げるなど、少し広く捉えてもいいのではないか。

○アメリカでは、高校生の時に、コミュニティー・カレッジで大学レベルの授業を受けることができ、それが高校の単位にもなるし大学の単位にもなる。アメリカでは日本と比べ、そういうチャンスが非常に多い。

○高校の授業をなるべく能力別にするとともに、高校時代に取った単位を大学に入ったときに認め、大学は単位さえ取れば卒業できるようにすれば、かなり早く大学を卒業できることになるのではないか。
  また、辺地の学校では、通信教育や新しい技術を用いた教育などでアドバンス・コースを高校生に提供することも可能ではないか。

○受験エリートをつくらないことが大切であり、高校の授業を完全に能力別にすることは、受験との関係で問題も大きく、我が国ではコンセンサスを得ることが難しいのではないか。

○高校から大学への進学に際し、偏差値による輪切りの進路選択ではなく、自分の将来を見通して選択できるよう、進路に関する情報を子供たちにしっかり提供することが大切である。

○数学や物理の分野ではものすごくできる人がいるが、そういう人は大学の講義などを聞きに行って、どんどん先へ進み、大学入学後に単位を認めてあげればいい。それは受験には役立たない勉強である。

○高等学校段階でも、日本人の意識の問題もあり、実際に習熟度別の授業はあまり進んでいない。できない子供を救うための授業だけでなく、稀有な才能を持っている子供をどんどん伸ばしていくという考え方にも立って、習熟度別授業を取り入れていってはどうか。

○習熟度別学級は、日本の社会で定着させることは難しく、むしろ極少数の非常に稀有な才能がある者を大学へ入れることや、高校生が大学へ行って授業を聞いてもらうことが必要なのではないか。

○高校段階で、履修できるプログラムの多様化を進める中で、習熟度について考えるべきではないか。多様化は、高校の授業の中だけではなく、大学の講義、公開講座、社会教育など様々なものを活用しつつ広く考えるべきではないか。
  異能な才能のある人は、どんどん先に行くことを認める一方、鉛筆を握るのが嫌いな子供たちには、いろいろな形で単位を取れる用意をすることが必要ではないか。

○高等学校から大学へ行く人と行かない人は半々くらいであり、大学へ行かずに実社会に出る人に対応した高校教育を提供することも必要ではないか。

○第一次答申で指摘したように、これからの教育は「生きる力」を育成することが前提条件であり、稀有な才能を伸ばすという特殊な考え方を認めるのは、どの学校段階からかについての共通理解を持つ必要がある。

○義務教育レベルではなく、高校以上について考えるということでいいのではないか。

○特異な才能を教育するシステムについては、学校という仕組みの中で育てようという考え方と、学校での仕組みでは教えられないので、学校は才能が伸びる邪魔をしないようにするという考え方があると思う。教育上の例外措置は、学校外の仕組みによることとし、それによって学校が変わる、すなわち、数学オリンピックなど学校外のいろいろな活動を学校が評価するという方が効果的ではないか。学校は集団を教えるところであるので、学校で何か特殊なことをやろうとすると、必ず反対が出て、稀有な才能を育てるのに邪魔になると思う。

○子供たちをアンビシャス(意欲的)にすることが必要であり、例外措置は、能力のある人が学校でどんどん意欲を伸ばし、勉強していくことにもつながる。

○物理はナチュラル・サイエンスの分野では一番基本的な分野であり、また物理と数学は密接に関係しており、例外措置の対象には、数学だけでなく、物理も考えられるのではないか。

○高校生が大学のいろいろな授業を、どんどん受けられるように可能性を開いてあげることが重要ではないか。

○優れた先生がいないと学生が伸びない領域と、それほどでもない領域があり、数学は、特異な才能を伸ばすためには、優れた先生が必要な領域である。物理も、数学に次いで、同様の領域である。
  また、数学と物理は、特に、独習で特異な才能を伸ばすことが難しい領域である。

○特別に才能のある子供を伸ばすということを考慮するならば、もう一方で、遅れた子供のことを考慮する必要がある。
  誰にでも自分の得意の分野は必ず何かあるが、それを探しているのが子供のときであり、それに対応するのが教育であるという考え方のもと、若干早く伸びる子供にも対応してあげることも教育には必要である。

○大学への入学年齢を1歳、2歳早めたとしても、どの程度の効果があるかは疑問である。

○現在、大学3年から大学院へ入れるようになったが、1年早くなったことにより、学生が意欲的になり、全体の雰囲気ががらりと変わった。1歳の違いが大きなインパクトになって出ていると思う。

○単に1年違うというのではなく、そういう可能性が開かれていることによって、根本的な態度が変わってくる。そういう点で非常に大きな意味がある。

○例外措置の対象をどのようにするかは、第14期の中教審における審議や専門家の意見を十分に踏まえることが必要だと思う。

○教育上の例外措置の対象は、ピラミッドの頂点にいる秀才ではなく、むしろピラミッドの外にいる人であると考えるべきである。

○子供たちの自由な気持ち、自由な感性を伸ばすことが必要であるが、試験や偏差値にとらわれると、そういうことができないのでははないか。

○教育上の例外措置については、受験競争を激化させないなど、配慮しなければならないことはあるが、子供の能力・適性、興味・関心の多様化に応じ、学校間の連携に風穴を空ける必要があるのではないか。大学入学の18歳の年齢制限を全部取り払うという考えもあるが、いろいろな弊害も起きてくるだろうから、まず最小限の分野について、特別な能力を持った子供たちに対して年齢制限を撤廃するということから考えてもいいのではないか。


2.次回開催日
    第16回会議は、1月21日に開催し、本日に引き続き、「一人一人の能力・適性に応じた教育の様々な取組と教育上の例外措置」について自由討議を行うこととした。

(文部省大臣官房政策課)
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