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中央教育審議会

 1998/3 議事録 
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第15回)議事録 

 幼児期からの心の教育に関する小委員会(第15回)

    議  事  録


    平成10年3月10日(火)  13:00〜15:00
    霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について
    3.閉    会


    出    席    者

委員 専門委員 事務局
木村座長 明石専門委員 長谷川生涯学習局長
鳥居副会長 油井専門委員 近藤審議官(初中教育局担当)
沖原委員 安藤専門委員 北村審議官(体育局担当)
俵   委員 猪股専門委員 富岡総務審議官
佐々木(光)専門委員 杉浦政策課長
佐野専門委員 その他関係官
佐保田専門委員
末吉専門委員
服部専門委員
平山専門委員
牟田専門委員
渡邊専門委員
和田専門委員


○  それでは、ただいまから中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会、第15回を開催させていただきます。本日は、お忙しい中、本会合に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。
  本日は、お手元に資料をお渡ししてございますけれども、中間報告の文案について、審議をいただくことになっております。
  それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局より説明>

○  それでは、ただいまから中間報告の文案についての討議に入りたいと存じます。3月末の中間報告の取りまとめに向けまして、文章化の作業につきまして、私に御一任いただいており、前2回、第13回、第14回では骨子案の「第2章」全体と「第3章」の一部の文案について討議を行っていただきました。
  そこで、本日も引き続き中間報告の文案についての審議を行いたいと考えております。本日準備しております中間報告の文案は、残りの部分全体、すなわち骨子案の「第1章  未来に向けてもう一度我々の足元を見直そう」、「第3章  地域社会の力を生かそう」のうち、一部既に終わりましたけれども、有害情報の問題に関する部分、そして「第4章  心を育てる場として学校を見直そう」であります。
  なお、骨子案において「第4章」に位置づけておりました、「『普通の子』の『いきなり型』非行の前にあるサインを見逃さないようにしよう」につきましては、親に呼びかけるほうがより適切であると考えまして、「第2章」に盛り込むということでお示ししてありますので、御検討いただきたいと存じます。
  お示ししました文案は、座長として盛り込むべきと考えた内容を急遽文章化してみたものでありまして、今後、文章を練ったり、資料などの体裁を整えたりすることがございますのでご了承ください。。
  それでは、まず、事務局から文案の朗読をお願いします。

<事務局による朗読>

○  では、これからただいまの朗読部分について御議論をいただきたいと存じます。どなたからでも結構ですが、いかがでございましょうか。

○  前回欠席をしてしまいましたが、そのときに民放連の方からのヒアリングがあったようでございますけれども、私、質問というか、提案という形で、事務局のほうへお願いしておいたんですが、どうもその意が伝わらなかったみたいなので、このあたりを盛り込んでいただけるといいのではないかという気がしておりますことは、Vチップとか、そういう問題も重要かもしれませんけれども、今の国民の世論みたいなものを反映するようなことを提案してはどうか。
  つまり、視聴率というものが優先されまして、私もそういう方向の関係におりますが、要するに視聴率がいいとスポンサーがつく。スポンサーをつけるために視聴率を上げるという競争があるわけです。したがいまして、視聴率だけではなくて  ―視聴率というのは機械的にカウントされるようですけれども、それ以外に、一番感動したり、いいと思った番組みたいなことを、視聴率に関連する方々からとっていくシステムですね。それから、一番嫌だった番組というものもとる。つまり、ベストテンかワーストテンみたいなものが視聴率と一緒に併記されることによって、それは国民の世論でありますから、そういうことの中で、スポンサーに対してベストテンに入りましたとか、そういうことによってスポンサーを納得させることができる。今のままでは視聴率オンリー、つまり、何をやっても見てもらえるということが評価されております。そうではなく、それがどういうふうに国民に受けとられているのかということを見るような方向ですね。それをやっていただくことを提言してはどうかと思います。
  もう一つ、「第3章」の「24時間親が気軽に悩みを相談できる体制づくりをしよう」ですけれども、そこに「チャイルドライン」のことが書かれております。今、私どもある地区で実験を始めまして、56人の相談員とスーパーバイザーが10人、電話回線が二つということで、常時3人体制で子どもの声を聞こうということを始めました。初日の零時から私はおりましたけれども、つないだ途端に電話がかかってまいりまして、初日だけで107人、2日目が130人ぐらいという形で、2日間で230人ぐらいの子どもたちからの電話を受けとめております。
  その受けとめ方ですけれども、「電話相談」というふうにしなかったんです。「相談」ということは、問題解決を目指すための助言や指示が入るわけですが、そうではなくて、私どもは子どもの電話ということで、つまり子どもの声をとりあえず受けとめようということでやっております。今、児童相談所とか、教育相談という現場に子どもが来てくれないという現状があるわけで、来られない子どもたちをどうやって受けとめられるかということの中で、電話という方法がクローズアップされたわけでございます。電話で受けとめるというやり方で、実験の結果がどういうふうになるかわかりませんけれども、それによりますが、そういうことが全国展開できたらいいなと考えております。
  とにかく養護教諭に人気があるというか、保健室が人気があるということは、成績とかかわりがないということの安心感といいますか、直接評価されないということの安心感といいますか。子どもの現状は、指示されたり、そういうことに対して拒否反応を持っているという現状がございます。したがいまして、今申し上げました電話も、背後に学校という影が見えない状況で、とにかく子どもに信頼されて、受けとめようという方向も一つあるのではないかと私は思っております。
  もう一つ、教員の養成の問題ですけれども、教員が社会に出ないで、いきなり学校という一つの枠の中に入るわけです。そこで、企業等に入るということが提言されましたが、教員は地域と一番密着するわけでございますので、公民館とか、地区会館とか、そういうところで1年ぐらい研修して、社会の仕組みというのでしょうか、また社会の中の人々をつなげていく、コーディネートしていくというのでしょうか、そういう役割を学習することが、教員になる前にあると、これは教員としての資質を向上させることにつながるのではないかという気がしておりますので、合わせて提言させていただきたいと思います。

○  一生懸命朗読を聞いておりまして、大変つらい思いというか、そういう感じがするわけです。例えば、不登校への対応のところに「学校は、家庭や地域社会と手を携えて」というのが入って、これは当然なんですけれども、世界の人々が手を携えてとか、国々が手を携えてとか、いろいろ言われてなかなかできないのと同じように、正しいんですが、実に重い課題だ。
  それから、不当ないじめについてでは、真ん中あたりに「向上心を持って生きようとする子どもなど、高いモラルを持つ子どもたちがいじめを受け」という表現があるわけです。これはかつて学校現場で、一生懸命やる先生に、「そんなにやるな。早く帰れ」とか、「学級通信を毎日出すな。私のほうも出すようになっちゃうじゃないか」とか、まさに学校でも行われていたことなわけですね。これを、私も含めて学校等が本当に素直に受けとめて、真摯に取り組まなければいけないわけですけれども、学校の現場で白けてしまうような恐れもあるのではないかという危惧を持っています。中身は本当にいいんですが、非常に気が重く感じたところであります。
  さらに、具体的なことですが、幼稚園・保育所の合築ということが述べられています。これは動きとしてはわかるわけですけれども、ここの背景には、「両施設の合築等による施設の共用化」ということで、これは制度が二つあるわけで、2制度の一体化を遠く視野に置いているのか、それとも一元化が視野にあるんだろうか。それとも、単に弾力的な運用という程度になるのかどうか。この辺がよくわからないわけでございまして、私としては大変関心のあるところです。場合によっては大変心配になることにもなりますので、何か深い意味が視野の中にあるのかどうか、事務局からお聞かせいただければありがたいと思います。

○事務局  原案といたしましては、趣旨はそんなに特別な意味を持たせているわけではなくて、この字面どおり読んでいただいて結構だと思います。

○  今の合築の話ですが、以前、施設見学をしたときに、小学校と老人の施設が合築されているのがあって、いろんな見方があると思いますが、私は非常に感心いたしました。外国の例について少し聞いてみたのですが、なかなかそういうものは無いようです。合築は日本独特の非常にいいアイデアかなと思ったのですが、実はそうではなくて、あれは施設がないため止むを得ず取った措置のようです。しかしながら、結果として非常におもしろい効果を生むのではないかと思います。私も、この合築に関しては、今ご発言がありましたように、単に二つのシステムを合わせるということではなく、そういうものを弾力的に運営する一つの方法として考えてはどうかととらえております。

○  私は合築の問題は、地域によっていろんな実情があるので、それがいいと思われたらするという程度で、あまり気にはしてなかったんです。
  それとは違って、「幼稚園・保育所の役割を見直そう」というところをずうっと読ませていただきながら、事務局として、また中教審として、スタンスをどこに置かれているのかということをちょっと伺いたいと思いました。ということは、幼稚園と保育所は、行政が二つあることの難しさがあるということを感じながら、こちらは文部省であるということで、保育所をどこまで書き込むのかということで、たぶん困っていらっしゃるのではないかと思うんです。ただ、ここは子どもたちの心の育ちにかかわることを語るわけですから、ゼロ歳、1歳、2歳を対象としている保育所を、この形だけで表現してしまうとバランスを欠くことになるのではないか。それをどのようなスタンスで事務局が表現されるか。ゼロ歳、1歳、2歳は家庭の問題であるとしてしまわれるのか。その辺のスタンスを教えていただきたいということが一つあります。
  それから、この文章表現というのは、教育者・保育者と親・子どもの位置関係がどうなっているのかなと感じます。何か全体的に教育者・保育者が上位で、というような文章表現がちょっと見られることと、それから子どもたち自身というか、乳幼児自身の自ら育つ力を信じているというスタンスで物事を語ったほうがいいのかなと感じます。
  例えばという感じで少し言わせていただきたいんですが、「幼稚園・保育所は、家庭での成長を踏まえて、家庭の外の世界に幼児を導き」という、この「導き」が一つ気になります。
  次に、「体験を通じて自立への歩みを促し、人との関わり方を学ばせる」とあるんですが、「人との関わり方を学んでいくなど、『生きる力』の……」というほうがいいのかなと思いましたり、それからその下にいって、「幼児に日常の生活に必要なよい習慣を」のこの「よい」も、「よい子」と同じようにかなり危険な言葉かなと感じます。
  また、「……よい習慣を会得させること、人としてしてはいけないことを気づかせる」とあるんですが、どちらかというと「人としてしてはいけないことがあることに気づかせる」とか、あるいは次に「何がよくて何が悪いかを考えさせることが大切である。」とあるんですが、「何がよくて何が悪いかを考えさせる機会をつくることが大切である。」とか、その後ずうっといって、「教員や保育者が道徳性の芽を伸ばし」とあるんですが、「教員や保育者が道徳性の芽生えを摘んでしまわぬよう、それを伸ばし」とか、これはスタンスの問題で言わせていただいたんですが、子どもの力を信ずるということと、保育者や教育者が偉いということではないという言い方にしてほしいという気持ちがあります。
  それから、「例えば、生き物への執拗かつ残虐な仕打ち」云々というのがあるんですが、このこと自体はわかるんですけれども、「例えば」でここだけ抽出しますと、幼児期の育ちの中に、やはり動物本能的な残虐さとか、攻撃性とか、発生してくる内なるものから出てくる体験を悪いことととらえてしまうことが、成長した段階で残虐さにくるということが、発達段階で言われているわけですけれども、その辺と誤解を生んでしまわないか。少し文章の中で何かうまく表現していただけないだろうか。すべて4歳児がトンボの羽をとることは残虐だから、とめろというふうに誤解する可能性があると感じました。
  それから、そのまた下にいって、園内で教員と保育者との日常的な接点が多いから、その「機会を積極的にとらえて、園内で把握した一人一人の子どもの姿を親にしっかりと伝え、家庭で行われるべき大切なしつけが欠けている場合は」とありますが、ここのところもその位置関係が言われている感じを受けますし、下手をするとかなり問題を起こしてしまう。もしかしたら「積極的にとらえて、園内で把握した……」、「把握した」もちょっと気になるんですが、「一人一人の子どもの訴えを」とか、「サインを親に伝え」程度で、保育園で子どもたちがいろんな問題をサインとして出しますので、それを親に伝えて、「一緒に子どもたちのよき芽生えのほうへ協力していくことを」、という形にならないだろうかと思います。
  そういう感じで、ほとんどそこのところで、あとは割合と私は気にならなかったんですけれども、要するにスタンスの問題かなと思いました。

○  例えば、今御指摘のところですが、「人との関わり方を学ばせる」という表現と、「学ぶ」という表現と二つあるんですね。これは非常に悩みの多いところでありまして、全部を読んでいただきますと、やはり今御指摘のようなところがかなりあります。御発言の趣旨はよく理解できるのですが、統一するということは難しいと思います、正直申し上げて。確かに、親と教育者という立場で、教育者が上位にいるという印象を与える点については、多少表現に工夫が要るかなとは思っております。少し考えさせていただきます。

○  以前、読書の大切さにぜひ触れてほしいということを申し上げましたところ、最後にこんなにきちんと立派にまとめていただきまして、大変ありがとうございます。本当に大事なことだと思います。
  一つ二つ気づいたことを申し上げます。一つは、どこかにマスコミの協力ということが触れられたらいいのではないかと思いました。今、何か学校で問題が起こったとき、その問題の背景を掘り下げるというよりは、どっちかというと犯人捜しというか、だれが悪いというか、結局は学校は何をしていた的な報道がかなり多いように感じます。その中で、今の世間一般にある学校不信ですとか、教師不信というものは、マスコミにあおられている面があると思うんです。こんないい先生がいますということはほとんど報道されませんが、こんなひどい先生がいるというようなことはかなりセンセーショナルに報道されます。書き方が大変難しいとは思うんですが、そんなことを書くとますます反感を買ってしまうかもしれませんが、問題行動への対応のところに、一番最後の段落ですけれども、「学校においては、学校外での様々な反応を懸念して、……ともすれば躊躇する傾向が見られる。」とあるのは、これはマスコミの報道に対するおそれが背景にかなり強くあると思いますので、どこかでマスコミの報道についても考えてほしいというか、ただただ事件をセンセーショナルに報道するのではなくて、何かこれからの教育にプラスになるような形の報道の協力を要求できたらいいのではないかと思いました。
  それから、教員養成のところですけれども、採用者数が減少しているので、丁寧な選考が行えるとあるんですが、採用者数は減っているけれども、受験する人自体はそんなに減っていないのではないかと思いまして、ちょっとここは気になりました。それとつけ加えると、採用者数が減っているというのを前提に書いてあるわけですけれども、教員の採用の数というものは見直せないものなんでしょうか。たぶん予算のことというのはあると思うんですけれども、今回のこれを読むだけでも、道徳教育から、カウンセリングマインドから、いじめから、薬物乱用に至るまで、そして最後のほうでは会議や研修で忙しいということを指摘されておりますので、今の採用者数の規定だけでは先生の数は足りないと思うんですね。何とか採用者数そのものを見直すようなことも提言できたらいいのではないかと思いました。
  あとは細かいことですけれども、本当に細かい言葉の問題ですが、最初のタイトルの副題に「次世代を育てる心を失う危機」と書いてありまして、これは日本語独特なんですが、係るところを間違えると意味が違うようになってしまうんですね。意味としては「次世代を育てる心、を失う危機」だと思うんですが、一息で読む分量を考えると「次世代を育てる、心を失う危機」とも読めてしまうので、ここはかぎ括弧かなんかでくくったほうが誤解がないと思いました。
  それとまた細かいんですが、カウンセリングマインドのところの「相手の目線で考える」というのは日本語としてすごく変だと思いまして、「同じ目の高さで考える」とか、そういうことだとは思うんですけれども、「目線」というのはテレビや映画業界の業界の言葉ですので、ここは「同じ目の高さ」というふうな言い方のほうが適切ではないかと思いました。
  それと最後に、「ディベート」ということがしばしば割と簡単に使われているんですけれども、「ディスカッション」というのはすごく大切だと思うんですが、「ディベート」というのはどちらかというと「相手を言い負かす」という技術だと思うので、むしろ相手の意見を聞き入れるのではなくて、いかに主張して言い負かすかという言葉の技術だと思いますので、それが割と簡単に「ディスカッション」と並べて使われている箇所があって、それはこれからの子どもたちに「ディスカッション」と並べて書くほど必要なことなのかなと、ちょっとそこが気にかかりました。

○  マスコミのことについては、テレビの「Vチップ」のところではかなり述べてあるんですが、今のご発言のような御趣旨では記述されておりません。その辺、少し工夫をさせていただきます。
  「ディベート」については、日本で意味が取り違えられてしまった。例のオウムの事件の「ディベート」、―あれは「ディベート」ではありませんね。要するに、相手の言うことは聞かない。自分のことだけを主張する。本来、「ディベート」というのはそういうのではない。その辺はちょっと気をつける必要があるのかもしれませんね。ありがとうございました。
  それから、先ほどの御意見にもございました全体の表現については、相当まだ直さなければいけないと思っています。ご指摘の「目線」の問題、そういう言葉の使い方がございますので、お気づきの点は、ぜひ私のところへお願いしたいと存じます。

○  きょうお話を聞いたことは、内容が大変充実しておりますので、これを実現するためには、先生方の力量なりが相当なくては、ある程度は実現できるんでしょうが、できない点も起こるのではないかと思いました。それで、教員養成の問題に入りますけれども、御承知のように、戦前は師範学校とか、高等師範学校という専門の学校があって、教員を養成された。それはまた師範大学ということも出ましたので、マイナス点もありましたけれども、今のような教員  ―こういう場でそういうことをあまり詳しく述べるのもおかしいかと思いますが、結果的に言えば、教員としてのトレーニングは十分でない点が非常に多いと思うんです。そういう中で、こういうことをやっていく場合に、教育の現場でどうなるんだろうかという気がするんですが、それは、校長先生方がおられたら、いかがでしょうか。ここにあることを今の先生方なりが十分やっていけるであろうかどうかということでございます。

○  有害情報に関することで、送り手の自主規制でずうっと貫かれているように思うんです。それだけしかないのかなという歯がゆい思いがするんです。例えば、最近、中学生同士が、一突きで心臓を突いてしまったというようなことが起こっておりますが、あれは映像からの影響で、本人はそれが一番いい行動なんだという考えに立っている。私はそのように理解したんです。例えば、殺人場面とか、性的描写がふんだんに出てくるように思うんです。そういうものを何とかできないのかなという思いが非常に強くあるんです。これは非常に難しいことなのかもしれませんが、そういったことは何とかならないかなという思いがいたします。それが1点です。
  次ですけれども、「科学に関する学習を生かし、驚きや自然への畏敬、未来への夢をはぐくもう」、こういう記述は非常に重要だと思います。非常に必要なことだなという印象を受けました。
  それから、道徳教育について、こういうふうな具体的な方向が必要ではないかという記述は有効だと思います。
  次は「よい放送番組ソフトを教材として有効に活用しよう」のところですが、「著作権処理」のことが今まで非常にネックだったわけであります。これをはっきり書いていただいて、非常によかったと思います。
  それから、特別活動のことについて、相当枚数を書き込んでいただいているんですが、これが小・中学校に限っているような印象をどうしても受けます。高等学校のことについて、量的なことで言っていいのかどうかわかりませんが、例えば1ページぐらいを費やして、ぜひ記述をいただければありがたいと思います。私は高等学校では、特別活動、特にホームルームが、今、ちゃんと目的に沿って行われていないという印象を持っております。中学校で道徳が2割程度の実行率という表現もあるんですが、高校でその数字がどうなっているのかというのはよくわかりませんが、特別活動、ホームルーム指導の実施率がよくない、目的に沿ったことが実現できていないので、それを重点的に改善をするんだという趣旨で触れていただけるとありがたいと思っております。
  それから、保健室のことですが、文中に「保健室は『心の居場所』」とかぎ括弧で結んでありますが、私は「心の居場所」というのは、保健室が実態としてそうなっている部分もありますけれども、例えば高等学校においても担任が「心の居場所」としてホームルームを位置づけるような努力をしなくてはならないのではないかという考え方を持っております。それは高校に限らず、中学校でも、小学校でも、各担任の先生が子どもたちの「心の居場所」をつくってやるんだという気持ちで教育に当たる必要があるのではないか。そういう点で、「心の居場所」という表現は、保健室に限っているようにこの文章から印象を受けるんですが、「心の居場所」という使い方をもう少し工夫していただけるとありがたいという印象を持ちました。
  最後ですけれども、入試改革のことについて触れていただいているんですが、中教審の第二次答申のことで随分書き込んでいただいているんですけれども、あの中教審の第二次答申で欠けている部分があるように私は思うんです。それは簡単に言いますと、大学入試で少ない科目の入試がだんだんに進行してきているような印象を受けているんです。しかも、少ない科目が長年固定しているような大学もあって、このことが高校教育に非常に大きな影響を及ぼしていると私は思っているんですけれども、そのことについて何らかの形で触れていただけるとありがたいなという思いがあります。

○  最初のところの自主規制はどうでしょうか。それ以上書き込むのはなかなか難しいのではないかと思います。この前も申し上げたかと思いますが、英国は今、テレビは4チャンネルしかないのですが、番組の内容はここ10年間で驚くほど変わっています。暴力でありますとか、セックスに関する場面が少なくなっております。そういうふうに我々は努力してきたのだということを、時々、政府ではなくて、放送協会みたいなところのテレビで云っております。日本もそういう姿でいくべきではないかと個人的には考えております。
  それから入試のことですが、科目、すなわち少ない科目で云々ということについては確か書いたと思います。会長がしょっちゅうおっしゃっておりますので、科目数を少なくして高校教育をゆがめるようなことをしてはいけないということは書いた覚えがあります。

○  きょうの「第3章」の「地域社会の力を生かそう」というところは、有害情報を主体に書いていただいていますから、ここには出てこないと思いますが、学校の章などでは、新しい視点で、保健主事や臨床心理士の位置づけを明確にしていこうという御指摘がございます。
  関連して考えますと、家庭、地域社会の力を生かそうというところ、それから学校の先生方の再教育、体験教育の場ということで、企業や公民館とか、いろんな発言がありましたが、家庭、学校、社会のかけ橋と言いますか、かなめの役割をしている社会教育主事についても数の問題もありますが、その位置づけもこの際触れなくていいのかどうか。明確にすべきではないかと考えます。

○  「第4章」の「心を育てる場として学校を見直そう」を学校関係者として大変重く受けとめたわけでございますが、「(2)小学校以降の学校教育の役割を見直そう」のところ書いてあることは本当に大事なことであり、これらの内容が、今並行して行われている教育課程審議会のほうにどのように反映していくかということについては、文部省のほうで調整をしていただけるのかと思っておりますし、またそれを受けて、教育課程審議会が具体的にやっていくかなと思っております。
  それから、教員養成に関しましては、教育職員養成審議会のほうでも教職に関する科目の重要性ということで具体的に言っていますし、あるいは社会体験的なこと、あるいは行政体験的なことも、もっともっと入っていくことによって可能になっていく。現職の研修については、各都道府県で初任、5年目、10年目というような、ここに書いてあるようなことが進められておりますけれども、これはただ単にやれということだけではなくて、そういうものに参加した、あるいはカウンセラーとしての資格を取った、司書教諭の資格を取ったということに対する処遇の面でのメリット等も、今後、考えていただく必要があるのかなと思っております。何よりも現在、学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法というものがあるわけでございますが、これの趣旨が正しく生かされることによって、今後、より優秀な人材を求められているのではないかと考えております。
  最後に、これはちょっとうがった見方ですが、読書指導というところで「司書教諭や学級担任など教員が自分の読んだ本を紹介したり」と、司書教諭と学級担任を分けていただいていることに、私たちは定数改善の中にも一つの光を見出していると、これはうがった見方かもしれませんが。

○  今の御発言については、会長からも同様の御要望が出ております。一生懸命やっている先生方がたくさんいらっしゃいます。そういう先生に対してもう少しサポートするようなシステムをつくるべきではないかということを入れてくれというお話でございましたので、考慮させていただきたいと存じます。

○  私は、主に問題行動のあたりを話していきたいと思いますが、教員がカウンセリングマインドを身につけるということは大変結構だと思いますし、大事なことだと思います。ただ、生徒指導の前提として、学習のつまずきをなくす取組とか、子どもたちへの教科指導をまず基本的にきちっとやってもらいたいと思うんです。次に、生徒指導の技法の一つとしてカウンセリングマインドを身につけていく方法が有効なんだというスタンスで書かれていますが、時にはガイダンスや指示的な指導も、生徒指導の方法としては有効な方法なので、一面的にカウンセリングマインドだけを強調するのは、ちょっといかがなものかなという印象を持ちました。
  それから、いじめについて、この文章のとらえ方では、一生懸命頑張っている子どもがいじめの対象になっているという分析があるんですが、もう一つ、勉強のできない子や体格の弱い子、それから家庭的にマイナスを負っているような子どもたちもターゲットにされていることも多いわけです。そういう子どもたちも数として結構挙げられるものですから、いじめの対象にそのような「弱い子どもたち」も入れてほしいなと思いました。
  それから、「性をもてあそぶ」ということですが、この文章では女の子だけを対象にした文章となっていますので、男子生徒も含めて性教育の必要性をうたってほしいと思います。これは大事なことだと思います。それから、最後のほうに、大人社会の反省を求めていますが、はっきり成人男性の買春という問題を指摘してほしいと思います。それがあるから、援助交際の問題があるように思われるわけです。
  それから、校内暴力の問題ですけれども、提言では問題行動を起こした生徒への対応をずうっと書いているんですが、その前に、暴力で自分を主張するような行動は絶対いけないんだということを、日ごろの教育実践の中できちっと教育していく必要性を書いて欲しいと思います。その後、問題が起きた場合にどう対応していくのかという記述のほうがよろしいのではないかと考えます。
  ちょっと気になったのは、非常に細かいことですが、関係機関との連携のところの箇所ですが、教員が毅然とした態度で指導したんだけれども、教員の心身に危険が及ぶ例さえあるので警察等の関係機関との連携が必要なんだという流れになっていますが、「心身に危険が及ぶ」という一面的な事象だけをとらえて、関係機関との連携の必要性を訴えていると誤解されてしまうのではないかと思います。例えば、子どもの抱えている問題の原因が、家庭養育に起因しているために教員が立ち入りにくいとか、その問題行動の原因が、根深く、暴力的な表現でしか指導を受けつけないために、教員としては十分に対応できないというような場合に、学校だけで抱え込むのではなく、関係機関の力も借りて解決していこうというような、言い方にしておいたほうが良いかと思います。御検討いただければと思います。

○  今御発言がありました問題行動への対応のところで、「このため、校長が、保護者(PTA)や学校外の有識者からの助言を得ながら、警察への連絡や協力要請」云々とありますけれども、ここのところは私は個人的には弱いのではないかという気がしております。要するに、保護者や学校外の有識者からの助言を得ながら、もう少し積極的に警察への連絡や協力要請を行うべきであるという表現にしたほうがいいのかなとも思っております。したがってここのところは直させていただくかもしれません。

○  「ゆとりある学校生活で子どもたちの自己実現を図ろう」というところで、先ほどご意見も出されたわけですが、昭和58年の第3のピーク以来、校内暴力等が急激に減っていった過程があるわけです。それは私たち教員がこれまでの一斉画一といった指導を大いに反省をして、一人一人を大事にし、一人一人に目をかけていかなければならない、そういう全国の学校の努力で、それがおさまってきたという経緯があるのではないかと思います。しかしながら、いじめの問題、登校拒否の問題、それから今ある様々な問題がここにきて出ています。
  ということは、一体何かというと、やはり教員が一人一人に応じた指導をしていこうとしても、既に教員の力量を超えていると、そのようにとらえていったほうがいいと私は思います。40人学級では子どもが多過ぎて、一人一人に手を差し伸べることができなくなった。そういう大きな現状を抱えていると思います。
  そういった意味で、クラスサイズの問題は、第一次答申の中でも条件整備のところで少し出てきているわけですが、学級の人数をもっと現実的に少なくしていくということが、ゆとりのある学校生活を生み出していくことの中で、もっと大事にしていかなければならないことではないかと思います。
  次に問題行動にかかわるところで、先ほども出されておりますが、学級活動、あるいは学級経営、学年経営が危機に瀕してきている現状があるように思います。学級活動や児童会や生徒会活動を通して、子どもたちの日常の生活のルールを子どもたち自身の手によって築き上げていくルールづくり、人間関係づくりの部分が非常に弱くなってきているような気がします。そういった面での努力をこのあたりのどこかに入れていく必要があるのではないかと思いました。
  それから、道徳教育にかかわることが出されておりまして、「道徳の時間」を中心に柔軟に子どもたちの現状に即した、体験を通した心の教育をもっと推し進めていこうということが見えてきたように思います。私がちょっと疑問に思っていることは、私どもの地域では、道徳についてはかなり実践している地域でございまして、そういった方々の言葉に耳を傾けてみますと、「道徳の時間」の指導項目が多過ぎはしないか。現在、小学校の低学年は、四つの大きな視点で18の指導項目があるわけです。それがさらに22、24と、少しずつ増えていくわけです。もう少し指導項目を絞って、じっくり子どもたちに身につけさせていくことを目指したほうがよいのではないかと思います。

○  内容ではなくて、形式だけ一言申し上げます。資料編の資料に基づきながらこの報告書が書かれているわけですけれども、資料は説明をわかりやすく、それから説明力を高めるために用いられていると思うんですが、そのために資料の提示の仕方をお考えいただければと思います。例えば、いろんな調査方法でやられたデータが用いられているわけですけれども、パーセントだけのところは、せめて実数、総数くらいは要るのではないだろうか。あるいは対象年齢が書かれているところもありますが、多くは全国サンプルですけれども、地域が限定されている場合には、そこも押さえてほしい。
  例えば、本当に細かいんですけれども、薬物使用に対するところですけれども、「(高校3年生男子で7割弱)」と。これはその資料を見ますと、75.2%なんです。それから、本文のほうは「(高校3年生男子で2割弱)」となっていますが、これは12%なんです。こういうのは単純なミスなのかなという気がします。
  それから、わかりやすくするために用いられているんでしょうけれども、先ほどの教員の話との関連で言えば、「資料  小学生が教員に悩みを聞いてもらった経験」はベネッセのものですけれども、こういう資料を使うとかえって混乱させることにはならないか。つまり、これはミルウォーキーとか、各都市のものを使っておりますが、サンプル数がさっぱりわからないわけですよね。これは何を意味しているのか。カウンセリングマインドというところでこれを用いられております。ということは、教員が教科のスペシャリストではなくて、カウンセリングマインドを持ったジェネラリスト型の教員になってほしいということを言っているのか、あるいはミルウォーキーであれば、教科カウンセラーとか、生活カウンセラーの教員に聞いているということかもしれない。そうすると、多様なスペシャリストを学校に配置することを説得するためのデータなのかもしれません。
  ですから、データ、資料を用いいることはいいことだとは思うんですが、気をつけて、わかりやすく、より一層提示を工夫する必要があるのではないかと思いました。

○  前にもヒアリングのときに、サンプル数の問題等についての疑義が出ました。その辺、悩ましいところでありますが、たしかに、こちらの主張を正当化するようにデータを使うというところはありました。しかし、世の中に出ますから、その辺、もう少し考えさせていただきたいと思います。
  恐らくまだたくさん御発言になりたいという向きがおありかと思いますが、本日はこの辺で切らせていただきます。
  文章等については、これはこうしたほうがいいということをお気づきの方がいらっしゃると思いますので、ぜひその辺は書面にしてお出しいただきたいと思います。
  次回、3月19日の第16回小委員会においては、総会での御議論も踏まえ、小委員会として中間報告の文案について最終的な審議を行う予定でございますので、よろしくお願いします。
  本日はどうもありがとうございました。ぜひ文案修正等、御意見をお寄せいただきたいと思います。

(大臣官房政策課)

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