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中央教育審議会

1998/1
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第11回)議事録 

       幼児期からの心の教育に関する小委員会(第11回)

    議    事    録

    平成10年1月29日(木)  13:00〜15:00
    霞が関東京會舘  34階    ロイヤルルーム


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について(ヒアリング及び討議)
    3.閉    会


    出  席  者

委員 専門委員 事務局
木村座長 青木専門委員 長谷川生涯学習局長
有馬会長 油井専門委員 近藤審議官(初中教育局担当)
河合委員 安藤専門委員 御手洗教育助成局長
高木委員 猪股専門委員 富岡総務審議官
佐々木(光)専門委員 その他関係官
里中専門委員
佐保田専門委員
末吉専門委員
那須原専門委員
服部専門委員
平山専門委員
牟田専門委員
山折専門委員
和田専門委員


    意見発表者
      1  汐  見  稔  幸  氏(東京大学助教授)
      2  森          亘    氏(「小さな親切」運動本部代表)


○  ただいまから中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会第11回会議を開催させていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会合に御出席を賜りまして、まことにありがとうございました。
本日は「早期教育の現状と問題点」並びに「『小さな親切運動』の取り組みの現状と課題」につきまして、お二人の先生からヒアリングを行うことといたしております。ヒアリングに際しましては、ただいま御紹介ありましたように、意見発表者の先生から御提出いただいております意見の要旨を資料にまとめてございますので、適宜御参照ください。
  それでは、初めに汐見稔幸先生を御紹介いたします。汐見先生は、現在、東京大学教育学部の助教授でいらっしゃいまして、早期教育の問題について専門的な立場から研究を展開されていらっしゃいます。本日は、「早期教育の現状と問題点」につきまして御意見を伺いまして、その後質疑応答を行いたいと存じます。
  それでは、よろしくお願いいたします。

◎汐見意見発表者    汐見でございます。よろしくお願いいたします。
  私に与えられましたテーマは「早期教育の現状と問題点」ということでございますが、お手元の私の発言要旨のメモと添付いたしました資料に沿いまして、私が日ごろ考えていることをお話し申し上げます。
  まず最初に、「早期教育」という言葉がはやっておるんですが、その定義が意外とあいまいであるということを書いております。例えば、母親が我が子の成長を祈って、ハイハイをするときに、「こっちまでおいで」と手をたたいたりして働きかけるのは、これは教育と言うのか言わないのかということになりますと、非常にあいまいでしてね。おむつをかえるときに声をかけているのは、言葉を覚えてほしいと思っているから声をかけるのであって、これも広い意味では教育であるとなりますと、生まれた瞬間から教育は始まっているわけでありまして、早期の教育は絶対に必要であるという説を唱える方がたくさんいらっしゃいます。
  それと少し区別をするために、私は暫定的にこういう定義でいつも使っています。「子どもの何かの力を伸ばそうとして、意図的に行う大人からの働きかけの中で、その社会の中での平均的な開始時期よりもかなり早くから開始されるもの」と一応漠然と定義して進めております。
  その中で、私は0、1、2歳ぐらいから、文字だとか、数だとかの教育を始めるのを、ちょっと区別しまして、「超早期教育」なんていうことを言っております。これはまた乳児期と幼児期に形式的に分けた場合に、乳児期にそういうものを始めることの弊害を私は感じているからです。
  さて、早期教育の実態でありますが、実はその実態は大変把握しにくくて、私などは別にこの問題のプロではないのですが、必要に応じて調べなければならなくなって調べてはいるのですが、正確な実態は把握しにくいように思います。これは教室がさまざま開かれておりますが、監督庁がないというのが現状でありまして、駅前にできては消えという形になっております。したがって、後で数は申し上げますけれども、正確な数はまだだれもつかめていないのが現状だと思います。
  それから、さまざまな教室があります。赤ちゃんのときからプールに入れるというのもありますし、そろばんを2歳から始めるという教室もありますが、一応、知的なもの、文字だとか、数だとか、知能検査の訓練のようなものに限定いたしますと、大きく3種類にタイプが区別できます。
  一つは、教室に親子で来て、指導者の指示に従って、子どもが勉強するタイプ。大体小さな子どもの場合は、親がそばについております。
  二つ目は、定期的に教材が届き、親が指示者になって子どもに学習させる通信教育型のタイプ。これが今、大変はやっております。
  三つ目は、訪問販売や通信販売で教材をまとめて買い、あるいは月々に少しずつ送って、保護者などが子どもにそれをさせるタイプというのがあります。2番目と違うのは、フォローがあまりないということであります。
  それぞれ大手の教室や業者の生徒数について、資料を添付してありますが、4ページを御覧いただきたいと思います。
  「幼児教室の数は不明」と最初に書いてありますが、実は『ぴあ』という情報誌がありますが、その子ども向け専門に『こどもぴあ』という雑誌が以前発売されておりました。その「おけいこ百科」号  ―それだけでも200ページぐらいの本です  ―に紹介されている教室を全部数え上げてみましたが、東京都とその近郊だけで、ぴったり1,000教室挙げられていました。また、『こどもぴあ』の「知育グッズ大百科」号というのがございまして、そこにさまざまな教室のいわば本社名だけが挙げられていますが、それだけで全国で大体150教室。例えば、「公文」といったら、「公文」というのは一つしかないわけです。「公文」だけで全国に数千の教室があるわけですが、個々の教室を除いた本店名だけで150あるというのが、一つの目安になろうかと思います。
  それから、先ほど申しました2番目のタイプですが、ベネッセコーポレーションというところが展開しております通信添削事業ですが、「子どもチャレンジ」と言っております。この受講者数が大変増えてきておりまして、これは先日、「今、何人ですか」ということで全部調べてみたんですが、業者発表ですが、大体125万人です。これは1、2、3、4、5、6歳児です。今、一番増えているのは1歳児、2歳児だそうです。
  それから、「公文式」ですが、最近はあまり増えていなくて、伸び悩んでいると言われていますが、就学前の乳児・幼児の生徒数は延べ27万人ということです。これは27万人の生徒さんということではなくて、国語、算数を両方やっていると2回数えることになっておりますので、実数はもっと少ないと思います。
  もう一つ、「七田式チャイルド・アカデミー」ですが、これはフラッシュカードといいまして、カードに文字を書いてあるのを、パッパッパッと見せて、先生が読んでいって、子どもに刺激を与えていくというやり方をやっているところです。ここの生徒数は、正確に教えてくださいましたけれども、現在、2万人弱でありまして、7割がゼロ歳から3歳であります。
  参考のために、幼児数をここに添付しておきましたが、これで計算いたしますと、正確な数ではありませんけれども、俗に御三家と言われているのが「チャレンジ」「公文式」「七田式」なんですが、その受講者の幼児人口に占める割合は大体13%台前後だと予想されます。ほかにもたくさん教室がございますので、いわゆる知育の教室に通っている乳幼児は、これよりももっと多くなると予想されます。
  参考のために、東海銀行総合研究所の調査では、資料の8枚目に飛びますが、一番上のところを見ていただきたいと思います。学習塾への通塾は、ゼロ歳から6歳ですが、10.8%です。通信添削等の通信教育の受講者は18.2%で、合わせますと29%になっております。ちなみに、東海銀行総合研究所の96年調査では、この二つの数を合わせたものが25.8%でして、1989年では9.3%でした。そういう意味では、今、急速に増えているという現状が浮かび出ていると思います。
  それから、おけいこごとに通っているというのは、剣道とか、そういうのを合わせますと、アンケートに答えてくれた乳幼児の61.7%が通っているということで、一番多かったのがスイミング教室です。最近急速に増えてきているのが英会話教室であります。このあたりがちょっと調べてわかるデータであります。
  それでは、私の発言要旨のメモのほうに戻ります。なぜこういう教室がはやり出したのかというのには、さまざまな理由が考えられると思いますので、ここには何点かだけ書いておきました。読み上げます。
  要因は複雑であろうが、何よりもまず、今日の親が育児の基本目標や方法でしっかりとした自己信頼を持ちきれずにいること大きいのではないか。その背後には、育児環境が少しずつ「放っておいても育つ」ものでなくなり、育児がひとえに生みの親の手にかかるようになってきたことがある。また、親自身が幼いころ奔放に遊んで育った世代ですでになくなり、親に神経質に受験に追い立てられた世代が、現在、親になってきている。そのために、子どもは自由に放っておいたほうがよく育つというような感覚を自分自身がなかなか持てないでいる。さらに、時代の変化が大きく、育児の目標を確固としたものとして持てないでいるので、それも一つの自信喪失につながっている。また、企業のほうも戦略の転換期に当たっており、育児支援や教育産業への進出が時宜を得たものであるとの認識を持っておって、周到なマーケットリサーチのもと、比較的上手に親に働きかけているという事情もある。これまでの早く効率的にという価値観から親自身がまだ抜け出ていないということもそれにつけ加わるだろう。
  基本は、私は、こうやっておけば子どもは大丈夫というものが親になくなってきていて、大変不安な子育てをしているというところがあることが大きいのではないかと思っております。
  4番目に、早期教育の評価ないし問題点でありますが、早期教育の効果そのものについては、まだ未定のことが私は多いと思っております。例えば、1歳、2歳で、何らかの方法で文字を覚えたことが、その子がもし覚えなかった場合よりも、頭脳の働きが将来にわたってよくなっていくということが必ず結果されるのかどうか、このあたりについてはまだ実験的なことが行われている段階だろうと思いまして、明確な判断は出せないだろうと思っています。
  ただ、子どもへの現実の影響は明らかに出ておりまして、それは早期教育そのものというよりも、早期教育が行われているときの親子の関係の変化だとか、あるいは親の我が子への期待の変化などがもたらす影響  ―ある方はそれを「早期教育的雰囲気」と命名しておりますが、そうした早期教育的雰囲気が子どもの心身の発達にもたらす影響のほうが懸念されるということであります。
  この点で、早期教育の提唱者の一人で、最も大きな影響力を与えてきました井深大氏がある反省を書かれているのが大変参考になります。6ページ目を御覧になっていただきたいと思います。これは大変なベストセラーになりました『幼稚園では遅すぎる』という本からコピーさせていただきました。この本は、その後、早期教育の業者がほとんど基本としている本でありまして、相当な数が出たと思います。その中に書かれていることの中で、私は9割ぐらい現在でも通用する非常にいいことを書いてあると思うのですが、1割ぐらいは少し気になるわけです。
  例えば、上の段の最初、12項目目に「三歳までの子どもの頭脳は、どんなにたくさんのものを詰め込んでも平気である。」というテーゼがございます。
  後ろから4行目、「したがって、『与えすぎ』などということは、すこしも心配する必要はないのです。」、どんどん与えろということがここで書かれています。
  下の段に移りますが、93項目目、「二歳までは『教育ママ』おおいにけっこうである。」と書いてあります。
  後ろから4行目を御覧いただきたいんですが、「二歳まではきびしい『教育ママ』に、それ以後はやさしい母親に、これが幼児教育にとって理想的な母親像といえましょう。」という言い方をされているわけです。
  これが意外と入っておりまして、「2歳までは厳しくっていいんでしょう、先生」という御質問が非常に多いです。「言うことを聞かないから、パチッと体罰をやっても、それは記憶に残らないから、2歳ぐらいまではいいんでしょう。いつになったら体罰はだめなんですか」という質問が時々ございまして、「どこでそういうことを聞いたんですか」と言わざるを得ない現状があります。
  その井深さんが、幼児開発協会というものをつくられて、実験的な教室をつくられたわけです。そこでゼロ歳児を育てるお母さん方に来ていただいて、子どもにこういうカードを覚えさせてくれとか、いろいろ実験的にやってこられたわけです。それから20年たちまして、1990年4月29日の朝日新聞に、資料の7ページを御覧いただきたいと思いますが、「幼児開発協会20年の経験」ということで、ある文章をお書きになっています。それをそのまま私が打ってきたのですが、下線部分を御覧いただきたいのです。
  「いろいろやっているうちに、本当に必要なのは知的教育より、まず、『人間づくり』『心の教育』だと気付いた。学校では落ちこぼれ、暴力、いじめが頻発している。心を育てるには、学校教育だけではなく、母親の役割が何よりも大切であり、子どもの方も幼稚園どころか0歳児、いや胎児期から育てなければならないという考えに代わってきた。」「赤ちゃんの温かい心づくりと、生まれた時からの体づくりが、何よりも重要で、知的教育はことばがわかるようになってから、ゆっくりでよい、という結論になった。」。
  これはその前の本とかなりトーンが変わっていまして、最初は厳しいママになりなさいと言っていたのですが、最初はむしろ逆にやさしい母親になりなさい、それが大事だということがわかって、知的教育はゆっくりでよいということがわかったと。こういうふうに井深さんがおっしゃっているのは、実はあまりに早くやると、非常にまずいケースがかなりあったということがあるんだと思うんです。そのことははっきりお書きになっておりませんが。
  そういう意味で、井深さんは正直にお書きになっていただいてよかったと思うんですが、私は、やっぱり小さいころに子どもが本当にやりたがっていないことを無理にさせることの影響が非常に心配です。
  次に、8ページをもう一度御覧いただきたいのですが、このグラフを御説明いたします。これは私の知り合いで、こういうことを調べている方が、家庭教育研究所というところで、そこに来ている3歳の子どもたちの親にアンケートを取ったのですが、100人ぐらいの子どものうち、既に4歳になっている子もいますが、3歳児段階で「あいうえお」が大体読めるという子どもが10数名いつもいるのです。その子どもたちを毎年集めましてデータを取りまして、3歳段階で既に文字が読める子どもの中で、その習得のプロセスが大きく二つのタイプに分かれることがわかったわけです。
  一つは、母親が絵本を読んでやっているうちに、いつの間にか「これ何?」「あれ何?」と言って覚えてしまった子どもです。もう一つは、母親がカードを買ってきたりして、意識的にフラッシュカードのような形で覚えさせたという子ども、このようにはっきり分かれることがわかったんです。
  ここで書いてある「T」は「体験認知型」といって、自分でいつの間にか体験的に覚えてしまった。「P」は「パターン認知型」といって、パッパッと示して覚えさせたというものです。その子たちに分けて、3歳6ヵ月の段階で、「情緒性」「自発性」「運動性」「認知性」「言語性」「社会性」の育ちについての一つのオーソライズされた調査がございますので、それを親に書いてもらったわけです。そういたしますと、どの項目でも、子どもの育ちに差が出てきている。
  例えば、3歳段階の「情緒性」を見てみますと、「気分の安定」というところでは、「T」型の子は大体90数%ですが、「P」型の子は70数%という形で、基本的にほとんどの項目で例外なしに体験認知型の子どもの「情緒性」「自発性」「運動性」「認知性」「社会性」の育ちが総じていいというデータが出ております。
  実はこの子どもたちのその後の追跡調査がございまして、幼稚園に入る段階でもう一度調べてみたら、この差はうんと縮まっておりました。ところが、幼稚園の先生に記述をしていただきますと、「P」型の子どもは大体似たパターンで、非常にいい子であると言うんです。幼稚園では、先生の言うことを忠実に実践するようないい子が多いというような記述が圧倒的に多かったというデータがございます。こういうデータしか現在は残念ながらまだないのであります。
  そういう意味では、影響について少しこういうことが懸念されるというぐらいのことしかまだ言えませんで、もし正確なことをもう少し言おうとしたら、こういう経験のある子とない子を大量に集めて、同じ調査をしないと、その後のさまざまな影響もありますので、ある学問的なことについてはまだ言えない段階です。ただ、こういうデータが既に出ている。そういう意味では、幼いころに自分が必ずしもやりたくないことをさせられることによって、自我の中で自分の本音を出すのではなくて、親に気に入られたいという部分だけが先に肥大化することによって、感情を自由に出すような力の発達が少し阻害されたりするという、そのことが後々に実はマイナスに出てくるという可能性はある程度示唆されているように私は思っております。

○  今、知的なことを中心に早期教育のことをおっしゃられましたけれども、もう少し広く、どうも私は挨拶ということにこだわるようですけれども、挨拶とか、極端に言えばはしの持ち方とか、そういうふうなことに関して家庭の中で早く教えようとする、あるいは放っておくということで、違いが出てくるのではないかと思いますけれども、その辺はどうでしょうか。

◎汐見意見発表者    基本的なしつけのようなことについて、早くから丁寧にしつけした子と必ずしもそうでない子との違いが何かあるかということについての調査は、私が調べた限りほとんどございません。家庭の中でのことは、一律の、例えば「こういうしつけをしていますか」という言葉を書いても、その受け取り方が全然違うものですから、大変難しいのです。ですから、それは大変大事なテーマだと思いますが、現在のところはデータとしてはないと申し上げるよりほかありません。

○  今の御質問の中でちょっとわかりにくかったことは、しつけをきちんとやるということと、何との関係を知りたいかということです。先生のお答えになったのは、ここに書いてある情緒の安定との関係か、そういうことなんでしょうか。あるいは知的能力としつけなどとの関連とか。

○  知りたかったことは、一つは、特に母親だと思うけれども、アルファベットを教えるとか、片仮名を教えるということに対しては、非常に熱心に早くからやるという方向だと思うんですけれども、はしの上げおろしとか、日常の挨拶についても、まず一つは、同じくらいに早期から教えるものでしょうか。それとも、しつけみたいなことは後回しにしちゃって、読み書きそろばんを先に教えるのか、その辺のデータはあるものでしょうか。

◎汐見意見発表者    それは残念ながらないということです。私がきょう申し上げたかったことは、我々がここで議論している中で、例えばおはしを早く正確に使えるようになることを子どもに教育するということ自体の持っている効果と、それをどういう親子関係の中で行うか。かなり厳しくやるのか、あるいはモデルを示して、いつの間にか学ばせるのか。そういうことの影響力のほうが実は子どもにはかなり大きく出てくるという可能性がある。同じことをやるにも厳しくやることによって、学んだことは学んだんだけれども、子どもの心の発達でかなり心配されることが現実には多いような気がいたします。

○  私は、幼児についてどうも不自然な状況が起こってきているなという思いがあるんです。例えば、御三家のやっていることの中に、人間として基本的なことをどういうふうに伝えるかというものは入っているんでしょうか。

◎汐見意見発表者    大変いい御質問で、実はきょう書き忘れたと思ったのですが、こういう教室がなぜはやるのかということの中に、こういう教室は、お母さん方のしつけの仕方などに対して上手にアドバイスなんかもやっているわけです。その教室へ連れていきましたときに、〈子どもがかわいそうだな〉という雰囲気でやると、たぶんはやらないわけです。マスコミなどが取材に行きますと、「先生、意外と楽しくやっていますよ」というのが大部分の印象です。これはこの間の経験の中で、お母さん方のひざに子どもを座らせて、指導者のほうは「したくないときは無理にさせる必要はありませんよ」とか、そういうことを言って、むしろお母さんを規制する。「私たちがやりますから、家で無理にさせないでくださいね」ということをかなり言っておられるわけです。
  ところが、同じに連れていっても、我が子は全然やらない。隣の子はどんどんやるということに1回でも出くわしますと、お母さんは心が穏やかならず、家へ帰ってそれを復習しようとしたりなんかして、実は子どもに対してプレッシャーをかけていくということが始まるんです。これを私どもは「早期教育的雰囲気」と呼んでいるんです。つまり、はまってしまうわけです。それはだから、教室ではむしろそれがマイナス効果だということは、皆さん勉強されていますからわかっているんですが、実際には教室よりも家庭での問題が大きいように私は思っております。

○  先ほど先生が引用されました井深さんの最初の文章のところで、アメリカの例がありますね。ひっぱたいた、あとは知らぬ顔をして子どもに泣かせておくと。周囲もそれは当然だと思うという。日本の場合だと、そんなことで放っておけば、周囲が許さない。この問題というのはその後、何か発展したんでしょうか。
  つまり、アメリカの例みたいなしつけの仕方の方がいいと言っているわけですね。ここの例というのはちょっと単純過ぎるのではないかと私は思うんですが、これを先生はどのように受け取られたのでしょうか。その後で、井深さんがまた、先生が引用なさっている朝日新聞の論文の中で、どっちかというと心が重要だとおっしゃっているわけですね。それは先ほどの御説明では、前の引用文からはだいぶ違った結論になってきたと。この間の動きというのはどういうふうに解釈したらいいのか。
  私は最初のアメリカの例というのは、アメリカの社会の問題もあるし、日本の場合は世間とかを非常に気にしますし、日本社会の問題でもあるわけですので、これは例としては少し表面的と思いまして、何となく納得させられるようですが、実際はよくわからない。
  そこで、次の結論というのは、また突飛な感じがするんです。この間の動きというか、こういう例を出しておいて、次に朝日新聞でこう書かれたという間に、どういう経緯があったと解釈されるか。先生が引用されて、私は非常に参考になったんですけれども、この間の井深さんの変化のプロセスに興味があって先生の御意見をお伺いしたいということです。

◎汐見意見発表者    実はこの間に、井深さんだけではなくて、世界じゅうの家庭教育の在り方の揺れが深刻にあったと思います。特に70年代から80年代だと思います。そして、アメリカは御存じのように、今、家庭の中のチャイルドアビューズとか、マルトリートメントが相当深刻でありまして、私が調べただけでも、1日に10何人は殺されているという社会になってきているわけです。それは子どもが小さい時分に、本当にしつけで厳しくしているというのでなくて、育て方がわからなくて、ぶっているというケースが増えてくる。したがって、ここで書いたことについて、井深さんがそれを賛美するというのはあまりよろしくないという認識の変化があったということは間違いないと思います。
  逆に、幼いころに自分の感情を出せなくなると、親になったときにいろんな形でマイナスの影響として出てしまうというケースもいろいろ研究されておりまして、むしろ小さい時分には温かく受容されていくということが、実はその後の心の育ちのベースとして、すごく大事だということもはっきりわかってきています。そういうことが反映しているということしか私はわからなくて、井深さん自身の中にどういう研究があったのか、ここではちょっとわからないです。

○  これは質問ではないんですが、非常にわかりやすい研究ですので、こういうのをどんどん新聞なんかに発表してもらって、みんなに知っていただくようにしてほしいと思います。

○  それでは、先生、どうもありがとうございました。
  それでは、引き続きまして、森先生を御紹介申し上げます。森先生は、4代前の東京大学の総長でいらっしゃいます。現在、森先生は社団法人「小さな親切」運動本部の代表の職にあられまして、この運動の推進に大変な御尽力をされていらっしゃいます。本日は、特に本審議会の会長であります有馬先生からの御提案もございまして、「『小さな親切』運動の取り組みの現状と課題」についてお話しいただくため、お越しを願ったわけでございます。御意見を伺いまして、その後質疑応答をさせていただきたいと存じます。

◎森意見発表者    森でございます。こういう機会をお与えいただきましてどうもありがとうございました。
  それでは、早速、本題に入らせていただきます。本日、資料といたしまして、9ページから10ページ、11ページと3ページにわたってワープロ書き、それから、最近講演いたしましたものの別刷りができてまいりましたので、それを二つほど加えさせていただきました。もし時間がおありのときには斜めにでもお読みいただければと存じます。
  私は、直接、患者さんを拝見するような立場ではございませんが、基本としては医者になるための教育を受けてまいりまして、今でも医学あるいは医療といった問題で、時々御相談を受けたりしております。現在、医学あるいは医療の世界では、「心の医療」ということをしばしば言われ、耳にすることがございます。一方、教育の現場でも「心の教育」といったようなことが大変問題になっておりますようで、ここでお取り上げになっておられるのも、広い意味の「心の教育」ということであろうかと存じます。私なりにその両方を比べますと、何か似ているところがあるように思われ、やや独断と偏見でございますが、少し整理をしてみました。それが資料の9ページの中ほどの表でございます。
  「心の医療」と申しました場合には、幾つかの切り口、問題点がございますが、私がすぐに思いつくことが三つぐらいございまして、一つが特に心と体の結びつき、二つ目がいわゆる医の倫理、三つ目が一般的に心のこもった医療ということでございます。
  まず、心と体の結びつきということは、心の大きな傷が直接病気になってあらわれてくるといった、例えば拒食症でありますとか、過敏性大腸と呼ばれております疾患がございます。これは私どものほうで申しますと、専門としては心療内科というところで取り扱っております。実際にこれほど強く心と体の結びつきがあらわれてくる病気は数少ない。といって、一方、一般的に心と体というものは関係を持っている。従って、こういう病気として挙げられるものはごく一部であるけれども、かといって、そんなのは特別の場合だと言って別格視することも危険でございます。
  医の倫理。これは御承知のように、生殖医学、あるいは臓器移植などでいろいろと言われております。これは大学の医学概論とか、医の倫理で講義いたしますが、多くは特殊な領域であり、時に学問の発達とともに変わってまいりますし、時に社会の圧力に負けることもございます。
  三つ目の、一般的に心のこもった医療。これはあらゆる病気について、あらゆる場合に、そして今よく言われておりますような、患者さんによく説明して納得していただくというインフォームド・コンセントとか、あるいは癌の告知などの場合もそうでございます。これらは実は先輩の医師の背中を見て学ぶことが多いわけでございまして、例えば悪い例として、1週間に一度ぐらい「きちっとしなさい」と言いましても、1週間のうち5日は、先輩の医師からすれば、だらしない自分の背中を見られて、そして学ばれてしまっているという要素が非常に強いものでございます。時代、信条を超えたものであり、またこれは決して知識ではなく、むしろ意識の問題でありまして、幾ら教育してもなかなか難しい。むしろそういう気持ちになってもらうということのほうがはるかに大事でございます。
  「心の教育」というものを仮にこれに当てはめてみますと、特に心がすさむことによって起こる社会不安。これが私どもの医学のほうでは、心療内科で扱われるような大きな事柄に相当するものであるかであろうかと存じます。次の第2群、いわゆる道徳、倫理、博愛でありますとか、現在ほとんど死語になっておりますが、忠孝とか、そういった昔の修身、現在の道徳などで教えられることは、時に特殊な例を引用しております。また、時に時代とともに変わってまいります。
  3番目に、一般的に心のこもった人間になってほしい。これはあらゆる日常生活で、あらゆる場合に、そして思いやりとか、親切とか、どちらかというと主として両親、あるいは周りの人の背中を見て身につくものであって、これは人間としての生き方を問うものでございます。習うということではなしに、むしろ身につけることであり、私個人の気持ちとしては教育ということよりも、むしろ国民運動、社会運動に近いものこそ、これにふさわしい方策であろうかと存じます。
  こういうことの総合といたしまして、私の考えは、大学教育も含めてでございますが、学校教育も必要であろうけれども、それだけでは決して解決するものではない。むしろ教育問題としてとらえるよりも、国民運動あるいは社会運動として、年とっている人も若い人も、親も子も、学校でも家庭でも、日常の問題として、そして地味に継続的に、取り組んでいくことが最も必要であると考えておりまして、その一つの例として「小さな親切」を御紹介したいと存じます。
  したがって、私どもがやっておりますことは、決して理屈とか、理論ではございません。また、データがなければ論じられないといったような、ある意味で高尚なことではございません。至って平凡な、ごくごくあたりまえの、当然の事柄でございます。
  10ページには、その幾つかの要約が掲げられております。まず、その発端となりましたのは、1963年、時の東京大学総長であられた茅先生が卒業式のときに、「諸君は『小さな親切』を勇気をもって実行し、やがて日本の社会のすみずみまで埋め尽くすであろう親切という雪崩をおこしてほしい」ということを言われました。即座に世の中の一部の方々の共感を得て、あるいは茅先生の御努力によって、6月31日にはその運動の発足を見ることができました。スローガンとしては「できる親切は皆でしよう、それが社会の習慣となるように」ということでございます。
  そのときに、茅先生の御挨拶として、「『小さな親切』という社会運動には、機械文明の世の中になって人間性が薄らいできた今日、人々が親切にしあい、礼儀や習慣も含めた愛情のある社会規律を広めて行く、その願いが込められています」という言葉を口にしておられます。
  その後、文部省からも物心両面の厚い御援助をちょうだいし、またほかの省庁、あるいは実業界からもいろいろな御援助をちょうだいしておりますが、基本となりますのは、会員の会費によって賄われております。現在、会員数が42万名、そのほかに約3,000団体。現在までの延べということで申しますれば、260万人、あるいは1万3,000団体が延べでは参加しております。全国組織といたしまして、都道府県本部あるいは市町村支部といったものを持っており、また、私どもは親切をした人に実行章という小さなメダルなどを差し上げておりますが、現在までに350万人近い方々に差し上げております。
  そして現在、「親切」という言葉によって象徴される「心」を大切にする運動として、日本じゅうに広く展開しているところでございます。私どもは、決してこれはお祭りではないのだ、あくまで地味に、あくまで不偏不党でありたい、いかなる意味でも偏りを持ちたくないという気持ちで、できるだけ多くの仲間と支持を得たいと考えております。しかし、こういうある意味での地味さを強調することと、多くの方々に魅力を持っていただくこととの間には、若干の不一致がございまして、悩みの種の一つと感じております。
  11ページには、現在行っております事業を幾つか掲げておりますが、こういう各種各様の内容がございます。子どもさんたちから作文を集めてコンクールを開きましたり、あるいは葉書でいろいろと親切な行いのあったことをお知らせいただいたり、そのようなことで現在まで35年ほど過ごしてまいりました。
  一昨年でございましたか、こういう運動をしているのは決して日本だけではないということに気がつきまして、それでは、一体外国でどんな人が、どんな顔をして、こういう運動をしているんだろうという、単純な好奇心と申しますか、できればそういう方々とお目にかかって話でもしたいものだという気持ちから、世界交流会議というのを呼びかけて、アメリカ、イギリス、カナダ、韓国、シンガポールなどに御参加をいただきました。昨年も同じような会議をいたしまして、参加してくださる国の数がやや増えてまいりました。決して日本がみんなに押しつけたわけではございませんが、皆さん方の自発的な意見として、やはりこれを世界的な運動にしようではないかということで、「世界親切運動」といったものを一応設けて、日本の「小さな親切」運動の本部が現在では事務局になっております。ことし、初めて正式の第1回大会を日本で開くということになっております。
  最後にややお祭りめいたことを御紹介いたしましたが、繰り返しになりますが、私どもの気持ちといたしましては、この運動は極めて地味な、極めてあたりまえのことをするだけのことでございます。お祭りのときだけ騒ぐというようなことは、つくづく戒めまして、地味な運動を継続的に続けていきたい。ただ、あたりまえのことをあたりまえにやっていくということが、世の中では意外に難しいようでございます。それから、先ほども申し上げましたように、魅力も少ない。したがって、例えばいろいろなところで経済的な協力を仰ぐにいたしましても、目立つような新しい仕事、こういう先端的な仕事をしたいから、こういうことでという場合には、説明もし易うございますし、またお聞きいただくほうでも簡単に御納得いただけるわけであります。しかし、こういう極めて地味なあたりまえのことをあたりまえにやっていくということは、なかなか説明も困難でございますが、お国のほうからも相応の御援助をちょうだいしておりますし、これからもどうぞ皆様方にお助けいただきたいと、ちょっと我が田に水を引くような発言で恐縮でございますが、これが私どもの運動のあらましでございます。

○  「こころの医療」と「こころの教育」というのを対応して書いて御説明いただいたのですが、この小委員会では専ら幼児教育を中心に議論を進めているのですけれども、先生のお医者さんとしての御経験と、それから今、「小さな親切」運動をずっとやっていらっしゃる御経験とで、子どもたちに対してどういうふうな教え方というか、心を育てていったらいいか、その辺についてもしお教えいただくことがあったらお聞かせいただけませんでしょうか。

◎森意見発表者    私自身は、先ほども申し上げましたように、自分自身で患者さんを拝見する立場にはないわけでありますが、友達の意見をいろいろ聞いておりますと、どうも子どもというものは、大人が考えているよりはるかにいろんなことを理解していると申しますか、わかっている。あるいは、そういうものを理解する、感じる場合によっては批判さえする能力もあるようでございます。
  先ほど、医者の例として、週に1時間ぐらい「君たち、しっかりしなさいよ」と先輩が言っても、実はその他の時間何日間も、先輩の背中は若者によって見られているんだということを申しましたが、子どもの場合ももしかしたら、非常に小さい子どもであっても、親が考える以上に見られている。あるいは、親が教える、周囲の者が教える以上に、子どもたちは自ら学んだり感じたりしているのではないかという、これは何のデータもないことでございますけれども、こういう印象を持っている友人は非常に多いようでございます。私自身も実は家族などを見ておりまして、これに近い印象を持っております。やはり大人は子どもたちからいつも見られているんだという意識を相当強く持つ必要があるのではないか。小さな子どもだからといってばかにすることは一番いけないことのように個人的には感じております。

○  今の医療と心の問題でちょっと思い出したんですけれども、時々、難病と言われる子どもたちがおりますが、ああいう子どもたちを見ておりますと、どうしてここまで精神的な高みに到達したのかと思えるような子どもたちがいるように見受けるんです。それは自分自身の肉体の運命を知ったときに、精神的に何か非常に大きい体験をして、それが糧になっているのか。あるいは子どもというのは、先生がおっしゃったように、本来そういう心の能力があるんだけれども、自分自身でもそれを発見できるチャンスがないまま大人にってしまうと、ああいう精神的高みに到達する前に俗世間にまみれてしまう。
  見方を変えまして非常にレベルの低い見方をしますと、感想としては、こういうすばらしい子どもたちがどうしてこんな難病にかからなければいけないのだろうと思いたくなるぐらいの子たちがたくさんいるわけです。先生の御体験あるいは周りの方のお話から  ―今のお話から少しうかがえたんですけれども、私が常日ごろ医療と子どもの心に関して思っていることは、そういうつらい体験が子どもたちを成長させる  ―成長という言葉が適当かどうかわかりませんけれども、そういう実感を持っているんです。そのことについて、これは心はずむ話ではないんですけれども、何か御事例とか、あるいは現場での実感として本当にそう思うと思われたら、それをお伺いしたいと思います。
  もう1点、「小さな親切」運動というのが、これは大変歴史が長いがゆえに、昨今の風潮としましては、子どもたちの中で、いわゆる「いいことをする」ということを、カッコ悪いかのようにとらえる一種の流行がありまして、人から褒められるようなことをするのはダサいというんですか、個人的にはちょっと苦い思いがする風潮があります。
  「小さな親切」実行章贈呈者の総数はかなりいるんですけれども、このうち、いわゆる児童と言われる人が「小さな親切」運動の実行者となって章を受けられた割合など、大まかな数字で結構ですけれども、もしわかりましたら教えていただきたいと思います。

◎森意見発表者    今、事務局の者から確かめましたが、今の御質問に対するお答えを後のほうから申し上げると、そういう実行章を受けた者の4割程度が大体小学生と申してよろしいか、小さな子どもだそうです。これは他人がいいことをしているのを見た場合、あるいは自分に対していいことをしてくれた場合に、葉書に書いてそれを推薦すればいいわけでございまして、当然、友達同士の推薦もあろうかと存じます。
  今おっしゃった、いいことをするのは格好悪い、あるいは難しいというお言葉でありますが、それは私の気持ちといたしましては必ずしも最近のことではございませんで、茅先生のお言葉でも「勇気をもって『小さな親切』をしよう」ということをたびたび言っておられます。やっぱり親切をするというのは昔から何となく恥ずかしいというか、格好悪いほどでなくても、ちょっと勇気がなければできない場合があったと思いますが、最近、そういう風潮がやや助長されているのかもしれませんね。いずれにいたしましても、私どもはこの運動を進めておりますときに、「勇気をもって親切をしよう」という、「勇気をもって」という言葉をしばしばつけ加えております。
  それから、前のほうの御質問で、難病の子どもでございますが、確かにおっしゃるとおり、こんなに立派な子どもがどうやって難病を克服して、ここまで到達したんだろうかといったような印象を持つことがございます。恐らく子どもたちにはいろんな能力を秘めているかと考えますけれども、そういう大きな体験によって、一部の子どもは周りから何にも手を差し伸べてあげなくても、自分だけの力で、それが病気であろうが、貧困であろうが、親の仕打ちであろうが、それを乗り越えて、場合によってはそれを肥やしにして、さらに大きくなることができると思います。
  ただ、一部の子どもはそういう場合に、それに圧迫されて、むしろつぶれてしまう子どももいると思います。ただ、中間的なところにある子ども、あるいはつぶれてしまうような子どもの一部には、周りからどのぐらいの手を差し伸べてあげるか、あるいはどのような環境にその子どもを置くかということが、将来にとって非常に大きな決め手になる。ですから、両極端はしょうがないとして、中間的な子どもたちに対しては周りからいろいろな手を差し伸べるということが、非常に大きな力になっているのではないかと個人的には思っております。
  最初に、子どもはいろいろな能力をいろんな程度に持っているのではないかと申しましたけれども、恐らく子どもというのは、たまたまある家に生まれてはいるけれども、社会全体のもののようなところがございます。例えば、ダウン症などは、私が理解しております範囲では、1,000人に1人はどうしても生まれてしまう。本当になくそうと思えば、人間は生殖活動をやめなくてはいけない。人間が人類を保存しようとするためには、どうしても一部にはダウン症も生まれ、いわば1人の犠牲において999人が安泰な生活を送っているわけでございます。子どもは、一応各家庭で育っておりますし、各家庭で一義的な責任を持つものでございましょうが、基本的には社会全体のものであろうと考えております。たまたま社会の中のこの子どもを自分のうちで預かったんだということで、その子ども相応のことをしてあげるのが親としての一番の務めであろうかと、そんなことをふだん考えております。

○  森先生、お忙しいところをどうもありがとうございました。
  それでは、引き続きまして討議に移りたいと存じます。

○  児童思春期精神科臨床に30年余り身を置いてまいりました立場から、あるいは私個人がたまたま3回外国生活をいたしまして、通算8年間、ほぼ3年置きにアメリカと日本と旧ソ連を行き来いたしまして、二人の子どもたちが零歳から15歳までの間三つの国の社会をほとんどモザイク模様のようにくぐり抜けて生きてまいりました。大変興味深い個人的体験を含めまして、30年見てまいりました上での「今」ということと、国際比較を含めたという点から、現代日本の子どもと若者についてお話しいたします。
  最初に、いじめ、不登校に見られる子ども・若者の特性について。これは一口で言うのは大変難しゅうございます。今、私の目の前に来る子ども・若者は、特にいじめ、不登校というテーマですと、大半が10代でございます。その子たちを見ていて感ずること、特にかつてとは違うなという感じも含めまして、五つほど特徴があるような気がいたしております。
  まず疲労感とうつ感情が強い。非常に疲れた表情をしています。「疲れた」と言います。「しんどいです。もうこれ以上歩けません」と言う子が増えております。それから、うつ感情というのは、自分には価値がない。何のために生きているのかわからない。自分にはどこもいいところがない。したいものも好きなことも何もない、というような、非常に暗い、生きることに力のない子どもたちが増えているという印象がございます。
  また、「良い子」「優しい子」が多い。これはいじめをする側だとか、家庭内暴力のような、ひどい暴力を家庭で母親に向ける子たちにむしろ多いんですが、小さいときから「良い子」でした、「優しい子」でしたという表現が多くて、先ほど汐見先生がおっしゃいました、幼稚園の先生から見て良い子が多いとか、親の気に入られたいというような気持ちのある子と同じような感覚かなと思ったわけでございます。本来、良い子、優しい子は、人間としての属性としては一番いい性格と思われるわけですが、その子たちがむしろ問題を持ってくるとしますと、これは人工的な良い子、優しい子である。つまり、本来の自然体で獲得した属性ではないと思われます。むしろ良い子だから、優しい子だから、起こってしまうのでないかという印象さえございます。
  それから、能動性、受動性という言葉がいいか悪いかわからないんですが、子どもたちの言葉、若者たちの言葉が、だれかに何かをされたからうれしかったとか、あるいはだれだれ先生、親が自分にこうしたからつらかったという、自分に何かをされたということが、会話の非常に多い部分を占めます。自分がこれをして、身が震えるほどうれしかったとか、これを自分がやったことから、自分はこう感じたというような、自分発の表現が少ないなという印象が強くあります。
  次に自己意識と対人感情ということに関しては、結局、自と他が触れ合うことがない、少ないからと思われますが、自分というものを鮮やかに感じ取ることが乏しく、自己というものが非常に薄ぼんやりしてきている。それと同じ関係であるわけですが、他者と触れ合うことが少ないために、他者を一体好きなのか嫌いなのか、あるいはその人と心の距離が自分の中にどのくらいあるのかという認識が子どもの中に非常に薄くて、むしろ心の距離のはかり方ではなくて、非常に効率のよい近づき方や遠ざかり方をはかるという方法をとっており、自己とか他者という感覚や認識が弱い気がいたします。
  生の欲動ということについては、生の欲動、死の欲動という人間の二大欲動というようなフロイト流の説明が多少思い浮かばれるんですが、生の欲動というのは愛すること、そして他者と結合するという、精神的な機能です。また、死の欲動も人間には必ずあって、破壊するとか、攻撃するとか、結合したものを切り離すというような精神的機能で、人間はこの二つの欲動を持っているというのがフロイト流の考え方です。それを持ってまいりますと、生の欲動、生き生きとして自あるいは他を愛していくという欲動が弱い。その生きる火種のようなものが本当に最初からあったんだろうか。あるいは、あったものがわずか生まれて10年ほどの間にこんなに弱くなったのかという印象を持ちます。
  というようなことで、思春期臨床に携わっておりますと、若者たちの姿が、現代、こんなふうになってきたなという気がいたしますが、そういうものの背景について、私の住みました三つの国を眺めてみますと。まず、旧ソ連では非常に厳しい自然の中で、人間が自然とともに生きている。自然と闘うけれども、自然とともに生きざるを得ないという世界です。そこから帰ってきますと、日本の子ども達の自然との触れ合いが何と少ないかという印象があります。
  それから、学校も三つの国の学校に子どもたちが通いましたが、日本は最も知育偏重で、画一性が強いなという思いがあります。
  それから、家庭については、日本では親が非常に過干渉と昔から言われて、「勉強しなさい」とか、いろんなことに過剰につながりを持つ反面、勉強にせよ、しつけにせよ、あるいはさまざまな人間体験にせよ、外に任せて、自分自身は放任をしてしまう。アンビバレンツで、反対の極を持ち合わせているという印象がございます。
  それから、日本の社会そのものが、伝統とか、文化とか、特にモラル、価値観、倫理観というものを、非常に薄ぼんやりさせてきたなという印象を持ちます。
  また、経験欠乏症候群と言って、日本に帰りまして私が本の中で書かせていただいたものですが、結局、何が欠乏しているかというと、まず第一に遊びの欠乏。仲間という存在とのつながりを欠落させることで、社会的に成熟することができない。
  第二に学びの欠乏。学びについては、これだけ机に向かっているのに、まだ欠乏かと言われるかもしれませんが、真の学びであれば有能感を必ず培う。きのうよりきょう、文字が1字でも多く書ける。何かが少しでもできるということは、自分に対する強い自信とか、あるいはそれによる意欲、あるいは有能感ができて、それこそが知的に伸び上がっていこうとする、何かを知りたいという成熟性だろうと思いますが、その学びが欠乏している。
  それから、第三に情動体験の欠乏です。喜怒哀楽を初めとして、肯定的側面だけでなく、否定的な側面も含めまして、ありとあらゆる光とかげりのある情動体験、人間が生きていく上に感じ取る情動の体験も欠落しているということで、深みのある情操とか、情緒的成熟が阻害されているという気がいたします。
  大阪府の私立幼稚園の900人の親御さんに伺ったアンケート調査で大変おもしろいと思いますのは、先ほど「アンビバレンツ」と申しましたが、「子どもを眼の中にいれてもいたくないほど可愛いがったり、一番大切なものと思いますか」という質問。単にかわいいでは、だれでも「○」をされると思いまして、「眼の中にいれてもいたくないほど」という形容詞をつけまして伺った質問項目に対して、「はい」が56%、「ときどき」を入れますと80何%です。「いいえ」、かわいくないと答えたのは、わずか10数%です。
  ところが、同じ親御さんが、「子どもの欠点や失敗を可哀相に思い、知らず、知らずにかばっていますか」。子どもが失敗をしたり、何かつらい場面にあったときに、知らず知らずにかばうかどうかという質問に、「はい」と明らかに答えたのは9.2%だけです。目の中に入れても痛くないほどかわいいというお母さんが、子どもの欠点をかばうということが非常に少なくて、「いいえ」とはっきり答えている方が半分もいます。ですから、子どもが失敗をしたり、欠点を示したときに、親がかばわない傾向が強いのです。
  また、同じ親ですが、「子どもがけがや病気をしないように、非常に心配したり、気をつかいますか」ということにつきましては、過干渉にもつながるわけですが、これは「はい」「ときどき」を加えますと大変多い。
  つまり、子どもをかわいいと非常にたくさんの人が思っている。そして、心配でたまらない。だから、気を使ったり心配をして細々と手を加えるのだけれども、本当に子どもがつらくて失敗をしたり欠点を示したときにはかばわない。これはもしかしますと、先ほどの汐見先生のお話も伺いながら思ったのですが、親の中に揺れ動くものがあって、放っておいたらだめにするのではないかという、しつけや教育に対する一つの不安感があるのかもわかりません。これは子ども側から見ますと、かわいがられていながら、かばってもらえない親が多いのかと思います。
  生きる力の火種という口はばったい言葉を使いますが、私は火種を培うことが大切という、ささやかな提言といいますか、考えを述べますが、結局、教えるということではなくて、育てること、育つこと、自らが自らを育てていく子どもたちを見て、それを支援することかなという気がいたします。
  それから、知ることより感じること。これは特に幼少期に、知ることよりも感じることが大事だと思います。レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」という大変いい言葉を使っていらっしゃるし、私もとてもそう感ずるんですが、二、三歳から四、五歳というのは、やがて大人になると消えてしまう、あの時期にしかない世界を感じ取る力がある。不思議な、神秘な思いを持って感じ取ることができる。「生と死」とか、「善と悪」というような、宗教的なものも含めて、非常に強く直感的に感ずることができる。もしかすると、大人になるとその感性は弱まるのではないかと思われますがそうした幼い時期に、知ることではなくて、まず感じることが、人間の土壌として大事ではないかと思います。
  そして、自というものをしっかり持つ。その自の内容は、自分が好きだ、自分を愛する、自尊、自分には価値がある、自分を信ずることができるとか、自分には自分なりの力があるというような、肯定的な自己像。それから、他者と触れ合う中で、他者から逃げ出さない。他者の存在を認めて、他者とともに生きるところから逃げ出さない。他者とともに生きていくんだという味わいを、これはプラスもマイナスも含めて、生きることの大切さの中に組み込むことができるだけの対人感情が、火種の最初かなという気がいたします。
  体験が大事であり、そしてモラル、真善美とか、あるいは感謝とか、畏敬の念を、子どもたちが体験をする。教えるのではなくて、感じたり育てていくこと、それは我々自身、親、社会全体の生き方とか、価値観が非常に問われることだろうと思っております。
  核家族、少子家庭、高学歴、完全欲、情報過多、育児熱心ということは一般に言われていることでございますが、現代の母親に育児不安が非常に強いという印象が、「大阪レポート」と名づけている調査研究で見られました。これは大阪府の衛生部が実施いたしました、ある年、ある市で生まれた2,000人の子どもについて、同じ子どもを6年追跡調査した悉皆調査です。その中で「育児不安」の高い親は「体罰」が多い。「体罰」の多い親がやはり「児童虐待」にいくのではないかという、このつながりがデータ的にも「大阪レポート」の中で言えるかと思うんです。
  「育児不安」が今のお母さんたちに強い。何かが心配とはっきりわかっているのではなくて、何となく心配、何となくこの子は大丈夫だろうかという不安を持って育児を楽しめない、気疲れである、あるいは重荷に感ずるという答えが多いわけです。そういう不安の高いお母さんに「体罰」が多い。
  「体罰」は、「大阪レポート」によりますれば、打つ、たたく、つねる、しばるという言葉を具体的に書きまして答えてもらいましたところ、10ヵ月の子どもで、「しょっちゅう」と「時々」を合わせますと、34%の母親が「体罰」を加えている。これは少し多い気がいたします。かつて日本は子どもに対しては神のような国だと、明治時代に日本にきた宣教師たちが書いている文章を読んだことがございますが、この数値はやはり多いなと思います。10ヵ月というのは、しつけにまだ早い。その時期に、打つ、つねる、しばるというようなことは、多少多いと思います。それが1歳半になりますと、これが63%になります。3分の2が体罰をしています。やっぱりこれは多いなという気がいたします。
  そこから「児童虐待」というようなことも見えてくる。つまり、人間的な病理性の高さではなくて、育児不安があって、うつうつとして育児が楽しめないために、体罰をする。その続きで母親はますますイライラしてきて、児童虐待にいく。別に親の病理性が高くなくても、育児不安をルーツにして起こり得るのではないかということがある。
  ということから、育児不安をもたらす要因を探してみましたら、五つほど「大阪レポート」で言えました。「子どもの欲求がわからない」とか、「心配ごとが多くて解決されない」とか、「子どもを産む前の育児体験が少ない」とか、「近所に母親の話相手が少ない」とか、「父親の参加がない」という五つの要因です。これはいずれも必ずしも悲観的な項目ではなくて、それぞれ何かやることができる。何らかの手を打つことができるということです。例えば子育てのネットワークをつくろうとか、あるいは夫の参加をとかで、なるべく母親の不安を少なくし、そして体罰や、児童虐待を少なくしていこうということを考えればよいと提言しているわけです。

○  私は、『心の教育』を考えるための前提といったことについて、日ごろ考えておりますことの一端を申し上げたいと思います。
  まず一つ目が三種還元による人間観ということで、ここに重大な問題があるのではないかということであります。昨年、例の神戸の少年殺人事件が起こりましたが、ほぼ1週間たちまして容疑者が検挙されました。その翌日の日本を代表する新聞のほとんどの社説が異口同音に主張していたことがございます。
  その第1は、この少年の行動、つまり異常行動について、その心理学的な動機を明らかにすべきであるということであります。
  第2番目が、同時に、その社会学的な背景を明らかにすることが必要である、と主張していました。
  この2点の主張において、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、すべて同じ論調でございました。この主張の画一性に私は非常に驚かされました。
  やがて容疑者が検挙されまして、いろんな取り調べが行われまして、新聞に少年の自白、告白の内容が紹介され始めました。それが論理的に矛盾し、簡単な心理学的な因果関係に乗せることができない等々の問題が出てまいります。「酒鬼薔薇聖斗」といったような問題もそこで出てまいります。
  そういう状況を経て、さらに数日たった後のまた同じ新聞の社説を見ますと、次のような議論がこれまた異口同音に主張されておりました。この少年の異常行動について、精神病理学的な診断をする必要がある。そうすることによって、再びこのような事件が起こらないようにする必要があるのではないか。全紙の論説が同じ主張を提出しておりました。
  恐らくこれは日本の世間が、あるいは日本の社会が、したがって世論が支持している考え方ではないかと私は思いました。
  やがて数ヵ月たちまして、精神医学的な鑑定が行われることになり、御承知のようにあの少年は少年治療院に送られました。そのときの精神鑑定が当時の新聞に大々的に掲載されました。社説でも、新聞の論調でも、専門家、すべてにわたりまして、その処置が適当であるという状況が報ぜられました。「心」の鑑定がいわば社会的に認知されたわけです。
  その報道を私は見ながら思い出したことがあるのであります。だいぶ前でありますけれども、ある陶芸家が偽の永仁の壷をつくりまして、地中に埋めていた。それが発掘されまして、重要文化財に指定されました。当時の陶芸に関する専門家のすべてが、これは本物であると鑑定したわけです。物の鑑定においてもその程度のことであります。ましていわんや心の鑑定が果たして可能なのか。そういう疑問を非常に強く私は持ったのでございます。
  戦後の日本の教育は、恐らく三種還元すなわち心理学的な還元、社会学的な還元、精神病理学的な還元によって、人間の行動ないしは異常行動を理解することができるという前提で研究が行われ、教育の基本がそれによって方向づけられてきたような感じがいたします。私は多少誇張した物の言い方をしているかもしれません。私は心理学の成果、社会学の成果、精神医学の成果、実に多くのものを学んでまいりました。それは今日なお極めて有効であろうと思っております。心理学者、社会学者、精神医学者の方々で、尊敬しております方々も非常に多くおります。
  しかし、全体としての日本の戦後教育の流れというものを見てまいりますと、その基本となるべき人間観のベースに、このような三種還元の認識、考え方が底流していたのではないかという気がいたします。
  そこで、その三種還元に基づく人間観の特色でありますが、これも細部を捨象いたしまして、必ずしも私なりの論証を抜きに、独断、偏見に色どられたテーゼになっておりますけれども、このように考えております。あるいは間違っているかもしれませんけれども、それはまた御批判をいただきたいと思うんであります。
  一つは、人間の行動は、正常・異常を含めて了解可能、分析可能と考える、こういう傾向であります。
  2番目に、人間の行動は、科学的・客観的にとらえることが可能であると考える。
  3番目に、ときに「心」の診断・鑑定も可能であると考える。
  その結果、これは私の価値判断でありますけれども、人間の存在に対する怖れの感覚が極めて希薄化してしまっている。その結果として、人間に対する謙虚な態度が喪失することになったのではないかということであります。
  全体として申しますと、人間この未知なるものという命題への無自覚と言ってもいいかもしれない。そういう傾向が助長されてきたのではないかということであります。
  実を申しますと、この人間この未知なるものという命題は、極めて古くて新しい命題であります。人類史とともに始まった命題ではないかとさえ私は思います。哲学とか、宗教というものが、人類史とともに始まったであろうこの困難なる問題に直面し、それを何とか解決しようとして、それこそ悪戦苦闘してきたのが人類の精神史ではないかとさえ私は思っているわけであります。そういう重い問題にどれほど戦後における日本の近代社会が思いをいたしてきたか。私自身への反省を込めて、そう考えたわけであります。
  そこで、今日の問題について最後に申し上げますけれども、以上の三種還元による近代的な人間観  ―私はそう考えますが、そういう近代的な人間観にとって、人間この未知なるものといういわば哲学的な人間観との間に大きなギャップがあるはずでありますけれども、そのギャップをどう考え、どう乗り越えていくか。恐らくその問題を今後の日本の教育にどう生かすかということが、私にとっては緊急の課題であると思えるわけであります。
  2番目は、この課題を解かない限り、現在、日本の社会が突きつけられている非常に重い問いがございますが、その問いに答えることはできないのではないか。その問いを二つ挙げますと、一つは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いであります。子どもたちが、いろいろなところでこういう問いを大人たちに差し向け始めております。
  二つ目の問いは、さて、それでは、我々はこれからの世代、子どもたちに人は信ずべき存在と教えるべきか、疑うべき存在と教えるのか。そういう問いも同時に発生してきていると私は考えますので、さきに申し上げました問題を解かない限り、こういう問いに対しても十分答えられないのではないかと思います。

○  「心の教育」を考える全体にとっても非常に大切なことを言ってくださったと思います。大筋において、私はむしろ賛成なんですが、ちょっと弁解的に言っておきますと、私はこんなふうに還元できると思っておりませんので、そう思っていない心理学者もおりますので、そこはお忘れなきようにしていただきたいと思います。つまり、人間この未知なるものとか、近代的な人間観と異なる考え方で人間の心を考えようとしているのが私の立場です。
  これはよく間違われるんですが、カウンセリングとか、心理療法と言うと、カウンセラーがわかっていて教えるように思われるのは大間違いでして、我々はむしろ提起されているようなことを、その人と一緒に考えるのがカウンセリングであるし、一緒に悩むのが心理療法であると考えていますので、すべての心理学者が還元的に考えているわけではありません。
  むしろ私は大筋は賛成でありまして、こういう問題を、我々が「心の教育」で何をしなければならないかということに結びつけて考えるべきと思います。我々が、何もかもわかっていて、皆さんこうすべきであるとか、これからの子どもの道徳教育はこうだということを言うのではなくて、こういう点をもっと一緒に考えていきましょうとか、こういう点が問題点なんだから、みんなで考えるべきではないかという、むしろそちらにポイントを置いたような仕事をしなくてはならないのではないかということを言っておられると私は考えております。
  だから、これが理想の人間であるとか、こういうことをしなかったら人間はこういうふうになるんだと心理学的にわかっておりますということを我々は言うのではなくて、日本人として共にこれから考えねばならないことを、アピールできるようなことを見いだしていくべきだと思います。

○  小中学校で行う心の教育は、「道徳教育」であると言っていいと思います。なかなかうまくいかない点があるわけですが、私たちは人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を道徳教育の根底に置いて、子どもの生き方に対する自覚を高めるように、日々様々な活動を通して努力しているわけです。小中学校ではこんなことを、ということをもう少しわかりやすくお話しいただけたらありがたいと思います。

○  個々具体的にどういうことをどのように教えたらいいのかということについては、たくさんあるわけでありますが、その前提として、私がきょう申し上げた三種還元的な人間観が、まだまだ一般の教育界に浸透していると思います。私の立場から言いますと、そこの根本のところを改めない限り、個々の技術的な教育の仕方とか、教科内容をいろいろ考えても、やっぱり限界があるだろうなという感じがいたします。
  最近は、私が言わなくても、例えば自然との触れ合いとか、生命を大事にしろとか、生きる力をとか、いろいろなメッセージがあるわけであります。そのすべてが私は必要だと思います。今まで文部省の側から、あるいは中教審が出してきたいろんな御意見がございます。その一つ一つを実際に現実化できれば一番いいわけでありましょうけれども、それができない。なぜできないのか。そういう点から私は申し上げたわけであります。

○  親が育児不安をいだく。子どもの欲求がわからない。何をしてよいかわからないところから、飛躍して、体罰とか、児童虐待に発展していくという事実があるということも分かる気がします。ただ、良い子とか、優しい子の内容がはっきりとわかりません。
  はしの持ち方とか、テーブルマナーとか、いわば礼節に関するような家庭でのしつけですね。こうしたしつけを、一体どこまでどういうふうにしてよいのか。テーブルマナーはほとんど乱れていて、いま日本社会では何が標準かよくわかりません。洋食も中華料理も食べますしね。各々違いますからね。雑種文化の難しいところでしょうか。ただ人にいやな思いをさせないマナーの必要さだと思います。
  もう一つの点は、しつけをする場合に、例えばはしをちゃんと持てないというので、子どもをガツンとやったら、それが体罰になったと。学校でもそういうことを無理に強要しますと、親が飛んできて、いじめたということになる可能性もあるんですね。
  私は地下鉄でいつもここまで通っておりますが、車内で、若い人だけではありませんけれども、狭い座席なのに足をバーッと開いて座っている。今や小さな親切をすれば、逆に大きな報復がくるという時代ですから、私も注意したりといったそんな怖いことはあまりできないのですが、それで自分で足を縮めてお手本を示しているつもりでも、向こうは全然そんなことは気にしないわけです。そういう状況があって、必ずしも体罰が悪いとか、そういう話で決めつけられないところがあいまいに残っていると思います。
  もう一つ申し上げますと、心とか、精神の問題を扱うのは、もちろん先生や専門家がこのようにいろんな角度からデータを集めて話し合うことは重要です。しかし、今一つ、心の専門家というのは、大体古代からいるんですよ。信仰とか、宗教という領域がありますから。人間の欲望をどうコントロールするか、あるいは心の救いとは何かとか、そういうことを言って、キリストとか、仏陀とか、いろいろな悟達者が言ったことを、ずうっと繰り返し考えている人たちがいるんで、そういう心の専門家というのは、科学だけでなくて、宗教と言うと、今の宗教はいろんな宗教がありますから気軽にいうわけにいかないところもありますが、それは科学や技術も同じですが、そういう側面の話はもっときちんと取り入れなくてはいけないのではないでしょうか。現代社会では、宗教はかつての伝統社会において果たしたような力はないにしても、宗教離れがあるかというと、逆に宗教は全世界的に大変なリバイバル現象も起こっているわけですから。
  こういう心の問題を扱う場合には、科学的とか、客観的にやっていくのはどうしても限度があって、心の問題の専門家という人たちの起用というか、あるいはもっとそういう御意見をお聞きしたいなと。オウム事件が起こったときに、日本の宗教家は結局何もやっていないということでおしかりの言葉もあったけれども、そういう状況は一方でありますが、同時に心のことばかり考えている人たちもいるわけで、そういう側面がちょっと足らないという感じがいたしました。

○  いじめ、不登校に見られる幾つかの特性については、大変勉強にりました。先生のところへ外来で来られる子どもたちの姿だと思うんですけれども、これに対して先生のほうではどのような問題解決というか、立ち直りのサジェスチョンなり、援助あるいは、支えというのは、どういったところをポイントにしてやっておられるのか。また、子どもたちはどんなところから回復の経過が見られるのか、参考までにお聞きしたいと思います。

○  一番難しい御質問で、ケース・バイ・ケースですが、私は、自分に対する自己意識、自分をどう思うかという、自分が生きて在ることを喜びと思い、いとしく思っていくという、その火種のようなものを、子どもたち、若者たちは小さくしているとは思うんですが、そこを掘り起こしていきたいといつも思っています。
  よく何をしているときが一番楽しいかとか、あるいは自分のどんなところが一番好きかとか、私は大抵そういうようなことを聞くことから始めます。そして、小さくてもいいから、自分自身が10数年生きて、今在るということへの何か重しになるような、基盤になるようなものを探るのを手伝う。初めは「何もいいとこがないんです」とか、「僕は何一つ力として人に誇れるようなものはないんです」という言葉を吐く子が多いんですが、少しずつそういうものが見えてくると解決に向かいます。私は火種を与えるわけにいきませんが、彼らが持っているものを大きくしていきたいと思っています。
  思春期というのは非常に危ない時期と昔から言われています。「性」という非常に重要な、健康な、伸び上がるものを中核に置いて、自分という存在は、親から離れてたった一人で生きているんだという、本質的に孤独で、自分を見詰め始める作業をする時ですから、多くの子どもたちが健康でも自分がまだわからないため不安な事態にあるわけです。そういう意味で、思春期の戸惑いとか、悩みということを、決して私は不健康と思ったことはありません。これは何年というオーダー、何日とか、何週間とか、何ヵ月というオーダーではなくて、ほとんど数年かけて、例えば10代全部を使ってでも自分に向き合う、そうすると自分というものがだんだん見えてくるよというようなことを言います。
  親や何より本人が、今すぐ目の前の問題を解決したいと思ってきます。それに対し医者というのは何もできるわけではない。本当に心の医者なんているんだろうかと思います。どこを直すわけでも何でもありませんで、本人が生きて在ることに自らが目を向けるその勇気をともに分かち合ってあげる。自分に目を向け始めるというのは大変すばらしい方向性ですから、自己発見に目を向ける。その力をむしろエンカレッジしていきたい。それは長い歳月をかけながら見つけていくということです。子どもの焦りに対して、医者自身が焦っていくと問題が余計危なくなりますので、私はいつも時間ということをとても重要視いたします。漠然とした答えしかできませんでしたが、そんなことを考えております。

○  きのう、先生を刺し殺しちゃった中学生のことが報道されて、けさのテレビあたりで、専門家ないしは評論家と言われる方の解説で、近ごろの思春期の子どもの特徴として、「キレやすい」のが特徴という趣旨の御発言を伺ったんですが、この「キレやすい」というのは、昔から言う言葉で「ついカッとして」というのとは何か違ったものなんでしょうか。今の子どもたちの特徴としてちょっと教えていただけるとありがたいと思います。

○  この事件がどういうものかは、一人一人の子どもの背景は全くその子特有のものがありますので、一般化することができるとは思っておりません。
  ただ、私の前に来る子で、例えば近所の犬を殺した子がいました。学校へ行かれなくなって、1年ほど自宅に引きこもっていた。しかし、先生も親御さんも理解があるものですから、家庭内暴力みたいにもならなくて、一日好きなように過ごして、学校に行かないことを除けば本当にいい子で、家の中を掃除したり、御飯の準備をしたりもできるという子が、たまたま御近所の犬がじゃれてきたときに、自分の手がかまれたことから、「カッとなって」と本人は言ったんですが、カッとなって犬を殺した。本来は犬が好きな子なんですが、その時犬をなぐりだしたらとまらなくなったというふうに表現をしておりました。「キレる」という言葉はよくわからないんですが、たまたま対象が犬だったけれども、これが人であっても同じかなと、この子を見ていて感じました。
  もう一つの事例も、1年間家にいて、学校へ行かれない子が、大変落ちついてきて、夕方には友達が来て、ファミコン遊びもできるんですが、たまたまお父さんのお使いでたばこ屋さんに行って、たばこ屋さんのあるじに「あ、こんな時間に学校へ行かなくていいの」と言われた一言で、そのたばこ屋さんのお店の窓ガラスを全部割ってしまいました。
  その子たちに聞いていますと、別にたばこ屋さんが嫌いだったわけでも、犬が憎かったわけでもない。何かきっかけがあったときに、そこが一種の爆発していく出口になってしまう。そしてその出来事が済んだ後、自分でも茫然としてしまうという現象が、私の持っている事例で2例ほどありました。
  きのうの少年は先生との関係について、これは全く類推ですけれども、別に先生が憎かったとか、〈この人を〉と思って、何日もナイフを持ってその相手をねらっていたというほどはっきりしていれば、逆にわかりやすいんですが、そうではなくて、たまたまいっぱい詰まったもののどこかがキュッと突かれた。そこからバッと出てくるという印象を重ね合わせて見ております。
  ですから、生きてずうっと何年か在る、わずかと言えばわずか10年ですが、その10年間の朝昼晩の日々が生き生きと、自分が自分として、手足を伸び伸びと伸ばして生きられなかった人間が、ずうっとため込んできたものが出てくる。それをストレスというのかどうか分かりませんが。ストレスというのは、不快な刺激を長時間受ける、有害な刺激を受けることだろうと思うんですが、そういうはっきりとした有害な刺激とも本人は気づいていないかもしれませんが、いつの間にか何か蓄積をしていくという現象。疲れというのとも似ていますし、「うつ」というのにもつながるんですが、楽しんでいない。それから、自分が生きて在ることの誇らしさとか、美しさとか、どんなに人に言われても、最後の最後には一寸の虫にも五分の魂、どんなに小さくても自分には意地があるというような、人間としての中核コアになるようなものが非常に弱いというのが原因かなと思います。
  きのうの事件そのもののコメントはよういたしませんが、私が今みている子どもたちを見ていてそんなふうに感じます。

○  本質的な方面で、これからの教育ということの前にあるものは何だといったお話をいただけたし、それから今現在病んでいる子どもたちにどう対応するか。この審議の初めに、その二つの方向から攻めていくというか、詰めていくという作業みたいなことがあったような気がいたします。「幼児期からの心の教育」というタイトルではありますけれども、現在病んでいる子どもたちにどう対応するか、それからこれから病む子どもたちをいかに少なくする方向での教育ができるか、この二つの方向がはっきりしたほうがいいのではないかという気がまずいたしました。
  本質的な話になりますと、「世間様というのがなくなった」ということをある方がテレビで言っていましたけれども、「世間様」というのは今やマスコミである。このマスコミというのは、あるときは実に大甘になり、あるときは実に厳しく袋だたきにしたりするといったように、そのときそのときでその価値観みたいなものが揺れ動いているわけです。この辺は我々が反省しなければならない点ではないかと思います。とにかくそういう意味での倫理観がマスコミの記者とか、そういう方々に本当にあるのか心配です。
  学問というのは真理の探究であるということがずっと言われてきまして、これは私は正解だと思っております。真理の探究などという方向で物事が考えられていないという気がとてもするわけです。これもマスコミの影響でしょうか、大学生になったら「人生いかに生きるべきか」とか、「今の社会はこれでいいんだろうか」とか、そういう問題意識を持つのが今までの流れでありましたけれども、それがこの20年前ぐらいからだんだん薄れてきてしまって、大学生のレポートを読むと、〈問題意識を持っているな〉という子が実に少ないです。これはマスコミを初め、「世間様」の影響ではないかという気が私はするわけです。そういう本質的なことを倫理観というんでしょうか、これが養われる方向を作らなければと考えます。
  それから、今現在病んでいる子の問題を考えるときに、やっぱり人間が自立していくという過程で、例えば、平等ということがどうもはき違えられる伝え方を我々はしてきているような気がしてならないんです。人間は一人一人違う。違いがあるということが人間なんだということですよね。ですから、この違いを認め合う状態をどうやったらつくれるのか、このあたりにポイントがあるのではないか。それが本当の平等ということにつながっていく。ノーマライズされていくというか、正常であるということなのではないかと思うんです。平等ということは他人と同じになるみたいな伝え方をしてきたために、子ども達は違いを埋めることを考え、プレッシャーを憶えている。そんな気がします。
  今現在病んでいる子どもをどうやって癒していけるのか、ついつい焦ってしまうんですけれども、とにかくこの危機感「今、子どもたちが危ないんですよ」ということを日本全体で意識してもらいたいのです。
  今の心境から言うとそういうことで、とりあえず子どもの24時間の電話相談を何とか実験しようというところに行っておりまして、2月はまさに研修して、3月に2週間にわたって実験しようと思っておりますが、電話が子どもたちの窓口になるべきではないか。窓口として、そこでこうしなくちゃいけないとか、ああしなくちゃいけないと指示することではなく、病んでいる子ども達をいかに受けとめ悩みを聞き出すかということを主体にして、電話相談をやってみようと思っております。毎日毎日、どうしたらいいんだろうかということで、悩んでいるのが現状でございます。
  きょうの汐見先生の発表の中で、「パターン型人間」という表現があって、それは家庭のしつけというか、育て方に何か特徴があるというお話がありました。それと、良い子、優しい子が多いというのは、汐見先生の考え方と関連性があると先生はお考えなのかどうか、もう一度お伺いできればと思います。
  また、これはお願いのような形になるのかもしれませんが、三種還元の人間観は間違いだという御指摘で、最後に、「なぜ人を殺してはいけないのか」、あるいは「人は信ずべき存在か疑うべき存在かという問いをお出しになって、そこでおやめになったわけですけれども、人間観を改めていくべきだと先生はお考えだと思うんです。私は、その場合にどうやって人間観を改めたらいいのか、先生のお考えはたぶんおありになったけれども、きょうはお出しにならなかったのではないかと思ったんです。この場で、そういうような方向性、先生のお考えの一部でも聞かせていただければありがたいし、きょうそれがかなわなければ、今後の話の中で先生からぜひそういうことについてお伺いしたいと思っております。以上です。

○  パターン型という汐見先生のお話と、私もほぼ共通した考え方です。つまり、親や教師が最初に「良い子」像を持っていて、そのパターンに子どもが当てはまると、「良い子」だと評価する中で、子ども自身が学習をしていきます。賞罰を見て子どもは学習していきますから。そういう意味で、親が、こういう行動、こういう態度を良しとする。あるいは先生がこういうことをと言う。ちょうどパッと見てパターンで学習するという精神的なトレーニングが日常性にも当てはめられて、「良い子」のパターンにはめ込まれていくというのが一つあると思います。
  子どもは、やはり愛されたいという思いが非常に強いので、親や先生の顔色を見ています。現実を見る目も強いですから、そういう意味で、思春期になるまで、親や先生によりよい評価を受ける形になっていく。だから、「優しい子」というのは、例えば友達と手をつなぐことができたり仲良くできる子です。本当は心の中ではちっとも手をつないだり仲良くしたくなくても、そうしたパターンに自分をはめ込んでいく、そしていつの間にか自分の本質を育てないで、外から洋服を着るようにどんどん「良い子」「優しい子」を着込んでいってしまい、あるとき自分の内面が自然体の中で感じたり欲動したりする自分と、外面の「良い子」としてつくってきた自分との非常に大きな落差に耐えられなくなり、それこそ地震のようにそこにズレが出てくる。そのようなことを思春期の若者の中に非常に感じます。
  一方自然体でおけばいっぱい悪いことをしますし、間違いもいっぱいしますし、しかられることも山のようにあります、そういう子どもは自分の内面と外から見知られる自分との間のギャップが少ないので、必ずしも「良い子」と言われないで健康に思春期にたどり着くんです。「良い子」と言われるのは外側の外皮のようなものが非常に整えられてきた状態でかえって危ない。やはりこれは親や教師の賞罰という形の評価が要因になってきているだろうなという気がいたします。ですから、汐見先生とほぼ同じ考え方です。

○  御質問にはすぐはお答えできない問題だと思います。ただ、はっきりしていることがございます。それは世界の大宗教と言われている仏教でも、イスラム教でも、キリスト教でも、その第1の原理は「人を殺すな」であります。なぜ「人を殺すな」という第1原理が世界の大宗教の教義のトップに出てくるのか。この問題について、やっぱり人類というのは1,000年、2,000年、考え続けてきたのだろうと思います。もっとも、今日、言葉ではそういうことを言うことができる。しかし、それが人の心に届かない。この現実をどうするか。これはちょっとやそっとのことでは解決できない問題だろうと思うんですね。ただ、それだけやっぱり人間というのは難しい存在なんだという怖れの感覚。今日、この合理的な社会思想、近代的な思考を超える超越的なものが何か必要だという要請がその背後に出てくると思うのでありますが、そういう感覚というか、物の考え方の欠如が実は最大の問題になっています。それだけきょうはお答えさせていただきます。

○  以前、中学生がお母さんを殺してしまったという事件がありました。それまでは大変仲がいいと言われていた。お母さんがお弁当をつくってくれるといって、お母さんを信頼していた。お母さんにとっても、勉強ができる子でいい子だったんです。ところが、進路指導をめぐって、本人は中の高校へ行きたい。お母さんは上の高校へ行かせたいということから、少し気まずくなってきた。それがあるときふとしたはずみで、突発的に大好きなお母さんを殺してしまうという結果になってしまった。これに対してとんでもない中学生だとか、あるいは子どもを無理強いしていい学校に行かせようとした、あまり褒められた親ではないとか、いろんなことを言う人がいたんですが、担任の先生はどう言ったかというと、本当に気の毒なケースだと。母子家庭だったんです。ですから、私はこの子のために、どんなことをしてでも一生できるだけの面倒を見てあげたいというふうなことをおっしゃっている。その関係者が早くも寛大な処分をということで、関係方面に嘆願書を出したと言うことです。
  つくられたいい子が偶発的に突如事件を起こすことがある、それが増えていると。まさにそのとおりなんです。幼稚園でも、今のお母さんたちというのは、先生たちの伝え方がちょっと気に入らないと、それこそキレるというんですか、短気というんですか、「もうこんな幼稚園、来ない」とか、すぐ言う親が中にはいるんです。私どもはどうしているかというと、しょうがないものですから、たった一言で人間は傷ついたり勇気づけられたり怒ったりも悔しくなったりもするんだから、言葉遣いは本当に気をつけようねと先生同士で言っているんです。たった一言で励まされたり勇気づけられたりしてしまう。親に対して口のきき方を気をつけろなんて言うと、いかにも営業ばかり考えているみたいに思われますが、言葉遣いというか、形式的でもいいから言葉遣いとかマナーをまず慎重にやっていかなければならない、そんな時代なんだなと。暗たんたる気持ちを持ちながらやっております。
  それから、三種還元による人間観というお話がございまして、新聞の画一性に驚いたとおっしゃるんですが、まさに新聞の世界というのは大変狭い世界で、こういう事件がありますと、関係の担当記者だけが中心になってグルグル回って取材して歩く。記者会見に臨む。記者会見でのやりとりがあり、記者同士のやりとりがあり、それで同じような内容の記事になっていく。非常に狭いんです。そういうことを担当している優秀な記者というのは、やはり試験の成績がよくて、勉強をよくして、いわゆる科学万能主義的な、あるいはテスト万能主義的な価値観を持っている人が多いんですね。そうすると、考え方はもう分かっちゃうんですよ。新聞に翌日どういうふうな書き方をされるだろうというのは、事件が起きますとすぐ想像できるわけです。ですから、記事の内容や物の見方は、それはそれで当たってなくもないんですけれども、深く考えるとどうもおかしいなと思うわけです。

○  私たちから見ますと、病んでいる子ども以上にまた親も病んでいる。結局、乳児期、幼児期時代を取り返すことは一生できない。この子はいくらやってももうだめじゃないかというあきらめの気持ちを持っている親が非常に多いのです。ぜひ、このような病んでいる子どもたちやその親御さんたちに対する激励のメッセージといったようなものを出すことができたらよいのではないかと思います。
  もう1点は、先ほど昨日の栃木県の少年の件が出されました。これからいろんなことが明らかになってくるわけですが、殺害シーン・暴力シーンなどマスコミの悪影響を受けていないだろうか、ホラービデオの影響はどうだろうか、この報道がどんな形でテレビや新聞で扱われるのだろうか、そのことによって対教師暴力などが逆に増えたりしないだろうか、という危惧を持ちました。
  情報の在り方について、特に有害情報についての取り組みについては、ぜひまた御検討をお願いしたいと思います。

○  先ほど有害情報の問題が出ましたので、ちょっと簡単に触れてみたいと思います。
  非行現場におりますと、いわゆる有害情報がストレートに子どもの非行を招くとも言いがたいところがあるわけです。ある子どもは非常に影響を受けて非行に至ることもあり、他方、ある子どもはその辺も選択していく目を持っています。教育の問題とすれば、そういう情報をしっかり選択していく力、すなわち悪いものと、いいものとを判断していく力を、子どもたちにしっかり身につけさせていくということがあると思います。
  ところが、そうは言っても、無差別に注ぎ込まれるものですから、中にはテレビあるいはポルノの雑誌を見て、直接的に自分も薬物をやってみたい、性的ないたずらをしてみたいというのもいるわけです。そういう意味で、子どもたちに簡単に全部注ぎ込まれていくという情報の在り方について、例えばVチップとか、インターネット上のポルノの画像の規制などの問題を、関係団体の研究に大いに期待をしたいと思います。また、それをつくる側の自主的な規制というんですかね、自分たちの内部の倫理にも取り組んでいただきたいと思っております。
  さらに、地域の住民の中での環境浄化も住民運動として大事ではないかということです。例えばポルノとか、有害情報のビデオとか、そういうものの貸し出しや売っている場所等については、子どもたちに配慮していくような取り組みを関係者に求めていくことも必要ではないかと思います。ただ、これも非常に大きな問題なものですから、慎重にやらなければならないと思われますので、業界の方とか、あるいは教育関係者とか、PTAとか、そういうもので協議の場を常時持っていければいいなと感じております。できれば今後のヒアリングにそういった取り組みをしている方、それからマスコミ関係者とか、つくる側からの発言もお聞きしたいと思います。

○  ありがとうございました。
  今後のスケジュールにつきましては、2月、3月は、スケジュールがかなりタイトになってきておりまして、皆様方に大変御迷惑をかけるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
  2月はそこにございますように、3回の会議を予定しております。現在、私のほうでこれまでいただきましたさまざまな御意見を踏まえまして、取りまとめに向けて、小委員会報告に盛り込むべき主な事項を整理した資料、小委員会報告の「骨子案」を作成中でございます。私といたしましては、次回会議で、第12回、2月3日でございますが、「骨子案」をお示しして、以後それをたたき台として審議を進めていきたいと考えております。
  また、次回及びその次  ―次回が2月3日、その次は2月17日になります  ―の会議では、「骨子案」について集中的に御議論をお願いしたいと考えております。今、御発言がございましたけれども、第14回の会議では、テレビ・ビデオ・書籍といったメディア関係の団体からのヒアリングを行いたいと考えてもおります。
  「幼児期からの心の教育の在り方」については、昨年の8月に諮問を受けまして、諮問後1年以内、すなわち遅くとも今年の夏前までに審議を取りまとめる予定でおりますけれども、この問題は御承知のとおり、社会的な関心が大変高い問題であります。そこで、答申の取りまとめに先立ちまして、早目に小委員会の中間報告を公表したいと考えております。公表した上で、関係団体をはじめ、国民各層からの意見を幅広く聞きたいと思っております。具体的には3月末の総会に小委員会の中間報告を提出し、その上で公表することとしたいと考えております。
  それでは、本日は以上といたします。次回は、2月3日、火曜日、13時から、霞が関東京會舘・ロイヤルルーム、34階で開催いたします。

(大臣官房政策課)
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