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中央教育審議会

1997/11
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第7回)議事録 

  

    幼児期からの心の教育に関する小委員会(第7回)

    議    事    録

    平成9年11月25日(火)  10:00〜12:30
    霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について(ヒアリング及び討議)
    3.閉    会


      出  席  者

委員 専門委員 事務局
江崎委員 青木専門委員 坂本審議官(生涯学習局担当)
河合委員 明石専門委員 辻村初等中等教育局長
川口委員 油井専門委員 御手洗教育助成局長
河野委員 安藤専門委員 徳重小学校課長
高木委員 猪股専門委員 富岡総務審議官
佐々木(光)専門委員 杉浦政策課長
里中専門委員 その他関係官
佐野専門委員
佐保田専門委員
シェパード専門委員
末吉専門委員
那須原専門委員
服部専門委員
平山専門委員
牟田専門委員
渡邊専門委員
和田専門委員


    意見発表者
      1  橋  元  良  明  氏(東京大学社会情報研究所助教授)
      2  今  西  紘  史  氏(任天堂株式会社取締役・広報室長)
      3  田  淵  義  朗  氏(ゲーム・プロデューサー、(株)GIN代表取締役)
      4  馬  居  政  幸  氏(静岡大学教授)


○  それでは、時間になりましたので、始めさせていただきます。
  それでは、ただいまから、中央教育審議会の幼児期からの心の教育に関する小委員会、第7回会議を開催します。
  本日は、4名の方からヒアリング等を行います関係上、通常の会議時間を30分延長し、12時半までとさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、ヒアリングに入りたいと思いますが、その前に、事務局から、先日発表されました教育課程審議会の「中間まとめ」について、本小委員会の審議ともかかわりが深い内容ですので、あらましを御紹介いただきたいと思います。よろしくお願いします。
(事務局から説明)

○  どうもありがとうございました。
  それでは、ヒアリングに入らせていただきます。
  初めに、橋元良明さんを御紹介いたします。橋元さんは、東京大学社会情報研究所の助教授であり、コミュニケーション論を専門に研究されていらっしゃいます。本日は、「現代の情報環境と子どもの心の成長」について御意見を伺い、その後質疑応答を行いたいと思います。よろしくお願いいたします。

◎橋元意見発表者    今御紹介にあずかりました橋元です。東京大学社会情報研究所で、情報化に伴うコミュニケーション構造の変化について、いろいろ分析しております。
  本日は、「現代の情報環境と子どもの心の成長」ということで、主に調査結果を中心に、今までわかっている知見を御報告申し上げたいと思います。
  簡単に言いますと、パソコンとか、テレビゲームとか、あるいは携帯電話とか、情報化に伴う新しい情報機器の普及が、青少年の精神面にどのような影響があるかということに関する調査の報告でございます。このような問題につきましては、既にいろんな方から御意見が出ております。しかし、例えば自分の経験でありますとか、ごく少数の周囲の観察記録から印象論的に述べても、なかなか一般化できるような知見を引き出すことは難しいかと思います。どうしても大規模な調査、あるいは実験という実証的手段によった研究の成果でサポートすることが必要かと考えます。
  それで本日は、1996年、昨年になりますが、6月から7月にかけて実施されました総務庁の「青少年と情報化に関する調査」の報告の概要を中心に話を進めていきたいと思います。この調査につきましては、私もメンバーの一員として、最初から分析、企画に携わってまいりましたし、それからテレビゲーム、その他については、分析及び報告書の執筆を担当させていただきました。
  お配りした資料で、特に後半部の分析については、報告書にも載せていない、私独自の再分析の結果でございます。それでは、早速、内容に入らせていただきます。
  まず最初に、ごく簡単な概略的なことですが、今、どの程度情報機器が普及しているかということでございます。配付資料の4ページを御覧になっていただければと思うんですが、情報機器の普及というのは、本当に日進月歩の観がありますので、1年の間にもだいぶ変化しますが、昨年、96年の数字としまして、この調査は12歳から29歳の青少年が対象でございますが、家庭への普及率ということでいいますと、パソコンが24%弱ということになっております。前回の総務庁の5年前の91年調査が15.5%でしたので、かなり伸びているということです。ワープロも同じように伸びております。
  「表1」を御覧いただければと思います。テレビゲームに関しても、最近は昔の「ドラクエ」のような爆発的ヒットが出ないと言われているにもかかわらず、所有率からいけば伸びておりまして、67%の世帯に普及しております。それから、携帯電話の伸びが著しく、5年前に2.6%でしたが、昨年は28%。この1年の伸びもさらに目覚ましいものがありますので、現時点で調査をすればもっと数字は高くなるかと思います。
  12歳から29歳の青少年がパソコンないしワープロをどの程度使っているかということですが、これは「表2」にざいますが、「現在使っている」が44%、「今は使っていないが、昔使ったことがある」が37%で、結局、80%程度の人が利用経験があるということでございます。
  次の5ページを御覧になっていただきたいんですが、パソコン利用について男子と女子を中学年齢層、高校年齢層に分けてみますと、中学生はやはり家で両親に影響されて使い始める人が多い。これは男女ともそうでございます。高校になりますと、学校の先生に影響されて使い始める人が多い。使用場所も、中学生年齢層の場合は自宅が多いんですが、高校生になりますと学校が多くなります。
  パソコンに関しまして言いますと、「図2」にございますが、今のところ、中・高では男女差が使用頻度に関しましてはあまりない。当然、高校のほうが使用頻度は高くなっております。
  どのように使っているかということでございますが、これは「表5」にございます。これはマルチアンサーで、幾つでも「○」をつけてもいいというものですが、6割以上の人がワープロに使っているということです。
  ちなみに、パソコン通信やインターネット、オンラインとして使用している人がどのぐらいいるかということでございますが、これは「表6」にございます。年層別と全体に分けて書いてありますが、現在のところ、青少年でインターネットやパソコン通信などオンラインでパソコンを使用しているのは、調査対象全体の3.5%程度にすぎません。
  次にまいりますと、6ページです。今度はテレビゲームですが、テレビゲームの使用頻度に関して数値を挙げたものが「表7」でございます。これを見ますと、ほぼ毎日が約8%、週に3、4回が11%、週に1、2回が15%、青少年でともかくテレビゲームで遊んでいるという人が53%おります。それから、34%の人が週1回以上の頻度で遊んでいるということです。
  これを5年前の数値と比べますと、5年前よりはるかに全体的に使用頻度が高いほうにシフトしている。テレビゲームブームといいますか、テレビゲーム熱はまだまだ衰えたとは言えないということです。
  次の真ん中の「図3」を見ていただきたいんですが、テレビゲームの利用には大きな男女差がございます。年齢差もございます。「図3」を見ていただいて明らかなように、高校生年齢層よりも中学生のほうがずっと多く遊んでいる。それから、女子と男子を比べますと、これは一目瞭然でございますが、男子のほうが圧倒的に高頻度で遊んでいるということでございます。
  テレビゲームの利用頻度とほかのメディアについての関連を見ますと、幾つかおもしろい傾向があります。
  その一つは、テレビゲームで遊んでいる子ほど、さらにテレビをよく見ているということです。6ページの「図4」を見ていただきたいんですが、縦列は1日のテレビの視聴時間です。日本人平均が3時間ぐらいでございますが、横の帯になっておりますのが、1週間のテレビゲームの遊技頻度でございます。これを見ていただければ、リニアーな関係になっているのがよくわかると思います。テレビゲームでよく遊んでいる子ほど、たくさんテレビを見ているという関係になっております。
  ちなみに、パソコンとテレビ視聴の関係を見ますと、こういう有意な関連は見られません。テレビゲームだけの特異な関係でございます。
  7ページ目に入りますが、一方、テレビゲームで高頻度に遊ぶ子というのは、どちらかというとコミュニケーションの範囲が狭いということがあります。例えば、一般の卓上電話でございますが、電話頻度との関連を見てみますと、「図5」にありますように、1日に1回以上とか、高頻度で電話している子は、概してテレビゲームで遊ぶ頻度が低いということでございます。テレビゲームで遊ぶ頻度が高い子ほど、テレビとは逆に電話をあまりしないという結果が出ております。これもパソコンでは、こういう結果が出ておりません。
  ちなみに、テレビゲームとパソコン、あるいはワープロとの関係でございますが、「表8」にございますとおり、パソコンの利用経験だけで見ますと、テレビゲームで遊んでいる子のほうが経験率は高いんです。テレビゲームで遊んでいるという人で、現在、パソコン、ワープロを使っているが48%ぐらい、今は使っていないが、昔使ったことがあるが36%ぐらい。一方、テレビゲームで遊んでいない子の場合は、比率が現在使っているという人に関してはやや低くなっております。
  しかし、これをパソコンの利用頻度で見ますと、関係が逆転します。すなわち、「図6」にありますとおり、テレビゲームで遊んでいる子は経験率が高いんだけれども、パソコンの利用頻度落ちます。その関係が「図6」にございます。ここにありますように、テレビゲームで遊ばないほうが、右のほうがパソコンの利用頻度が高いことを示しますが、全体的に利用頻度が高いという関係が見られます。
  それから、パソコンの利用目的との関係で見ますと、ワープロを利用しているという人ほど  ―これは図がございませんが、ワープロをたくさん利用している人ほど、テレビゲームの利用頻度は低いということです。ゲームで遊ぶ人が少ないということがあります。
  一方、これも文章にございますが、パソコンを持って、それでゲームソフトを利用している人は、パソコンを利用しながら、ゲームソフトを利用しない人よりもパソコン全般の利用頻度が小さいということです。つまり、パソコンを持っていても、その中でゲームで遊んでいる子は、パソコン全体の利用頻度でいいますと頻度が低くなる。端的に言いますと、パソコンを持っていても、ゲームをよくする子は、ほかのことにはあまり利用していないという関係が出ております。8ページの「図7」に、その辺が関係が簡単に図示されております。
  次に、こういう利用状況ではなくて、友人関係とか、あるいは精神的な傾向との関係で言いますと、幾つかおもしろい関係がございます。
  8ページの「表9」というのがございます。「『友人関係の深さスケール』の平均値の比較」と書いてあるところです。これはちょっと面倒くさい書き方をしているんですが、調査では、「友人とどのようなつき合い方をしているか」についても聞いております。それが小さな字で、8ページの真ん中より下のほうに出ていますが、例えば「同性の一番の親友とはお互いの裏の裏まで知り合っている」とか、「悩みごとの相談ができる」とか、その種のことも幾つか聞いております。
  それで個々に分析した結果もあるんですが、ここでは話を簡略にするために、友人の関係の深さに関するスケール化を図りました。つまり、何を言わないでもわかり合えるとか、裏の裏まで知っているとか、そういう深いつき合いに関係する項目に「○」をつけた場合に、「+1」を与えて、そうではなくて、あまり深刻な相談をしないとか、親友であっても自分のすべてをさらけ出さないとか、そういう浅いつき合いをしていると考えられる項目に「○」をつけた場合に、「−1」をつけます。それから、「親友と言える人がいない」の場合は「−3」をつけて、これを足し合わせます。これで平均点を求めまして、テレビゲームで遊んでいる人、遊んでいない人、これの平均点の比較をしたのが「表9」でございます。これは平均値の分散分析の比較で、統計的検定をしてあります。
  そうしますと、これは数値が高いほど深い関係のつき合いを好むことを示しますが、テレビゲームで遊ばない子ほど、0.91と高い数値になっております。一方、遊ぶ子は0.64と、これは非常にと言っていいぐらい低い数値です。テレビゲームで遊ぶ子は、端的に友人と深いつき合いを好まない、浅いつき合いを好むという結果が出ています。
  ここには出ておりませんが、それではパソコンはどうかといいますと、パソコンはテレビゲームと逆でございます。まとめのほうの2ページの下のほうに文章化しておりますが、パソコンの場合はテレビゲームと逆で、よく利用する人ほど逆に深いつき合いを好む、そのような関係が出ております。
  それから、別の情報化に関係する新しい機器で、通信ツールに関して見ますと、12歳から29歳までの青少年で、現在、普及過程にありますが、それを好んで先進的に使う子は割と友人関係が広くて、深いつき合いを好む青少年であると言えるかと思います。数値的にもはっきり出ておりまして、「表9」でございますが、携帯電話をふだん利用するという子は、数値の平均が1.3になっております。利用しない子は0.7。ポケベルも同様の傾向がございまして、ふだん利用する子が1.2、利用しない子は0.7という結果が出ております。
  ちなみに、別の調査ですが、性格一般ともクロス集計した数値がございますが、おもしろいことに、携帯電話、ポケベルをよく利用する子ほど、外交的・社交的だという結果が出ております。
  また、逆に、テレビゲームでよく遊ぶ子ほど、内向的・非社交的という、一貫した傾向が出ております。
  先ほど、パソコンの場合はテレビゲームと逆の結果だと言いましたが、「パソコンのゲームで遊ぶ」と答えた人だけを取り上げて分析しますと、これはテレビゲームと全く同じ傾向が出ております。つまり、パソコンでも、ゲームで遊ぶ子は深いつき合いを好まない。遊ばない子のほうがむしろ深いつき合いを好むという結果が出ております。
  つまり、モニターを前にしてあの種の電子機器を操作するということが問題ではなくて、テレビゲームで遊ぶということ自体が、友人関係の深さに関係しているということが言えるかと思います。
  ただ、これは真ん中辺に文章で出ておりますが、テレビゲームというのは、使う層に偏りがございます。男性のほうがよく使う。それから、年齢の若いほうがよく使う。一方、友人関係も、別側面で分析してみますと、男性よりも女性のほうが深いつき合いを好むんです。それから、中学年齢層と高校年齢層を比べますと、中学年齢層のほうが浅いつき合いを好んで、年とともに深いつき合いを好むようになるということがございますので、いろんな要素を調整して考えなければいけない。そうやって、多変量解析、この場合は重回帰分析ですが、それを用いて分析しますと、テレビゲームの直接的な影響が消えるということでございます。この消えるというのは、関係がないということではなくて、統計的水準5%に達しないということでございまして、傾向的には先ほど述べたことは変わりません。
  次に、社会心理的な諸スケールとの関係についてお話を進めていきたいと思います。調査では、8ページの「表10」にありますように、「共感性」「コミュニケーション耐性」「直接対面忌避傾向」「批判受容耐性」「現実体験の軽視」「感覚志向」、このようなことに関係する質問を設けております。具体的な項目は9ページの「注」に載せているんですが、調査の制約上、本当ならこういうことは複数の質問項目からスケール化することが望ましいんですが、分量があまり多くなりますと、調査として不適合になりますので、この場合、1問で代表させております。したがって、若干問題があるといえばあるんですが、それでも傾向ははっきりつかめるかと思います。
  例えば、「共感性」に関しては、代表的な質問が幾つかあるんですが、その中から「友人が悩みごとを話し始めると話をそらしたくなる」、そういう質問で代表しております。
  「コミュニケーション耐性」というのは、要するに、相手とどのように協調できるかということですが、「相手の答えが遅いといらいらする」という質問で代表させております。
  「批判受容耐性」というのは、最近よく、傷つきたくない症候群、やさしさ症候群などと言われていますが、青少年が批判に非常にもろいのではないかということ。それを質問で聞いたわけです。「傷つきたくないから本気で議論するのは避ける」という質問で代表させております。
  「直接対面忌避傾向」、言葉をかえると「機械親和性」になりますが、「面と向かって話すより電話の方が話しやすい」ということで代表させております。
  「現実体験の軽視」というのは、「体験がなくても情報として知っていれば十分だ」という質問で代表させております。
  「感覚志向」は、「言葉よりも絵や音楽の方が自分の気持ちをうまく表現できる」という質問で代表させております。
  これとさまざまな情報機器との利用とをかけ合わせますと、きれいな一貫した傾向が出ております。それはテレビゲームが、これは本当に社会的不適合かどうかは別にしましても、ちょっと常識的に考えた場合、不適合の方向にあるのではないかという一貫した傾向が見えるということです。例えば、テレビゲームで遊ぶ子ほど共感性が低い。これは統計的に非常に強い関連が出ております。それから、コミュニケーション耐性が低い。それから、直接的に人と話し合うのを避ける。他人からの批判にもろい。現実体験を軽視する。感覚志向が強い。このような傾向が出ているわけです。
  パソコンが一番右にありますが、パソコンはそんな傾向が出ておりません。統計的に有意な関連が出たのを見ますと、批判受容耐性はむしろ高い。批判に強い。それから、直感的に考えますと、パソコンが好きな子は現実体験を軽視しそうですが、そうではなくて、尊重するという傾向が出ております。
  携帯電話、ポケベルの通信ツールに関しましても、総じて言えば、テレビゲームと逆の傾向が出ておりまして、共感性が高いとか、現実体験を尊重するとか、批判受容耐性にもろくないとか、テレビゲームと逆の傾向が出ております。
  9ページの「表11」にまいりますが、これも性とか、年齢とか、いろんな要因を絡めますと、効果が消えるのではないかという懸念があるので、同じように多変量解析をしましたが、この場合、テレビゲームは効果が全く消えません。非常に強い効果が残っております。例えば、いろんな要素でどれが一番説明力が強いかということを示しているんですが、例えば「共感性」があるということに関しては、男性より女性のほうが一般的にある。年齢が高くなるほど共感性が強くなるんですが、この同列に情報機器の利用ということを入れますと、テレビゲームをしないほど  ―この「マイナス(−)」というのは、「しない」ということをあらわしているんですが、しないほど共感性が強いということを示しています。
  同様に、「コミュニケーション耐性」も、テレビゲームをしないほど、コミュニケーション耐性がある。
  「批判受容耐性」についても、テレビゲームをしないほど、批判受容耐性がある。批判に強いということですね。こういうきれいな一貫した結果が出ております。
  最初の概要のほうの3ページの文章化したところですが、こういうはっきりした傾向が出ているんですが、これはゲームをするからこういう傾向になるか、あるいはそういう傾向を持った子が好んでゲームをするのか、いろんな議論がございますが、私自身としては、ゲームで遊んでこういう心理傾向を持つという方向よりも、むしろ日本という風土の中で、ある性格傾向を持った子が好んでテレビゲームをするという方向だと考えております。
  といいますのは、別の調査で日韓比較調査というのをやったんですが、もしゲームをすることがある一定の心理傾向につながる、そちらの方向であれば、日韓とも同じ傾向が出ていいはずですが、テレビゲームをよくする子の心理傾向は日韓で異なりました。ということは、やはり日本のある状況で、ある性格を持った子がテレビゲームに夢中になりやすい、そう考えたほうが妥当かと考えます。だからといって、テレビゲームをすることで、社会心理的傾向の方向にははね返りがないのかといいますと、私自身はそうでもないと考えております。それは資料の9ページに簡単にまとめております。
  例えば、テレビゲームは、高次の疑似インタラクティビティ、相互行為性を持っていますが、あまりにもよく似ているからこそ、現実との錯誤が一部で起こるかもしれない。
  それから、テレビゲームではすべてをコントロールできるという感覚がありますが、現実にはそんなことはありません。協調しなければいけないので、どうしてもひとりよがりになってしまう。
  それから、テレビゲームにあまりのめり込むと、現実社会のあいまい性に対する寛容度が下がるという可能性がある。
  それから、テレビゲームは、自分の力量に合った難易度、速度が設定できますが、現実ではどういうゲームであれ、生活であれ、相手との協調の前提で事が進んでいく。そういう相対的関係をうまく図れなくなる可能性がある。圧倒的な麻薬性。それから、瞬間的・感覚的な判断が求められ、熟慮を許さないとか、格闘技ゲームでありますと、相手を痛めつけても、自分は決して身体的な痛みを感じないとか、いろんな傾向がございます。
  こういうことを考えますと、過度にのめり込めば、性格面にもはね返りが出てくるのではないかと思います。
  それから、時間がなくなりましたので、最後にタイポロジーということに移りたいと思います。10ページ目以降ですが、つまり、ある子が、パソコンもあり、携帯電話も使い、テレビゲームもする、そういう子がいるというのはあり得ます。そういう子は一体どうなのかということなので、青少年全体を情報行動の類型によってパターン化する必要が生じてきます。
  結論だけから申しますと、いろんな情報機器の利用に関しまして、クラスター分析でパターン化しますと、10ページの「1」から「6」までのような情報行動パターンに分類できます。
  「マジョリティ」というのは大多数を占めるんですが、ほどほどにメディア利用をするんだけれども、どれにのめり込むということもない。テレビ、新聞もほどほどという人です。半分以上がこれに属します。
  「映像派」というのは、ビデオとか、映像に非常に関心を持っているグループ。
  「マルチ派」というのは、非常に情報機器に関心を持っているごく少数です。
  「ゲーマー」というのは、本当にゲームだけが大好きでしょうがないという人です。3.6%で少数派ですが、特異な心理傾向を持っております。
  「キーボード」タイプ。これは若年層の20代前半のいわゆるOLとかに多いんですが、たぶん会社でしょうか、よくパソコンをいじるタイプですね。
  「ケータイ派」というのは、20代前半の男性に多いわけですが、携帯電話をよく使用するタイプでございます。
  最後の11ページに移りますが、これで今まで述べたことの関連でちょっと述べてみますと、先ほどはとにかくいろんなことをする人も含めて、ゲームをするかしないかで分けているわけですが、パターンとして本当にゲームが好きで好きでしょうがないという、ごく少数のゲーマーですね、この人たちを見ますと、やはり特異な傾向を示している。つまり、友人関係の深さからいいますと、極めて浅いつき合いしか好まないということです。0.52という非常に低い数値が出ております。
  最後に、性格に関してのチャート図を示しておりますが、ちょっと見にくくて恐縮ですが、真ん中の太線のマジョリティを「1」としてプロットしたものですが、その内部で閉じている線がございます。これがゲーマーですが、ゲーマーは六つの社会心理学的尺度に関して、いずれも非常にと言っていいほど、一般に言われている社会的適合性がない方向にある。つまり、共感性が低く、コミュニケーション耐性が低く、人と直接対面を嫌い、批判にも弱く、現実体験を軽視し、感覚志向ということですね。狭い領域で閉じていることがわかるかと思いますが、調査ではこのように特異な傾向を示しているということでございます。

○  私は、幼児にとってパソコンがどうなのかということでお伺いしたい。特に幼稚園の子どもたちは、今、パソコンに触れる機会が多いわけです。幼稚園の子というのは、白紙の状態ですから、どんどん吸収するわけです。何歳ぐらいから導入というか、幼稚園の子どもに触れさせたら問題はないと思われますか。というのは、非常に問題があるんじゃないかなという心配をしているものですから。

◎橋元意見発表者    パソコンに関しましては、実は別途調査しておりまして、我々の当初の仮説では、オタクっぽい子が多いのではないかと。こういう心理特性に関しても、テレビゲームで見られたような特性を、パソコンにのめり込んでいる子は示すのではないかという仮説で出発したんですが、ここにもちらっと出ていますが、それだけに特化した調査でも、逆の傾向で、割と社交的で、社会的関心が強いんですね。なぜかと思っていろいろ分析しましたら、実はパソコンを小さいときからよくしている子というのは、親が年収が高かったりして、いわゆるエリートといいますか、社会環境的にいい子が多くて、そういうことも多くて、社会心理的な傾向としては割と社会適合的な性格が出ているかと思うんです。
  今、何歳ぐらいかというお話が出ましたが、現状では、特にパソコンをするとマイナス面が出るというデータはないんです。ただ、別の調査で、乳児、幼児期に、あまり映像データに過度に触れると、言語神経網の発達がちょっとおくれるという話もございまして、例えば、三、四歳まではあまりテレビモニターに近づけないほうがいいという結果が出ているわけです。これは紹介すると長くなるので省きますが。ですから、パソコンをやること自体はいいことが非常に多いんですが、三、四歳以前で画像モニターに過剰に接触さすということは、脳の発達から見てあまり好ましい影響は出ないのではないかと私自身は考えております。

○  国際的に見ますと、日本は、子どもがゲームをする率が多いんでございますか。日本はゲームソフトが、世界で一番発達しておりますが、それと関連はございますか。

◎橋元意見発表者    アメリカも結構盛んですが、日本ほどではございません。ドイツはあまりしません。ただ、韓国は最近、すごくしまして、テレビゲームの所有率も遊技頻度も日本と同様、あるいはそれ以上に多いわけです。

○  例えば、ここで67%と書いてございますが、アメリカではこの半分とか、そんなことなんですか。

◎橋元意見発表者    アメリカは、信頼できるといいますか、これが全米の数字だというのが、私が見る限りないんです。ある数値では40%とか出ていまして、それもちょっと調査方法にも問題があって、偏りがあるんですが、いずれにしても日本ほどは高くないということです。

○  一つ、これは学校の成績なんかとの関連というのは何か出ておりますか。

◎橋元意見発表者    それに関して、総務庁と別に我々が別個にやった調査では、学校の成績そのものとクロスはできないんです。教えてくれませんから。ただ、自己申告でやりますと、パソコンをよく使うという子は、やっぱり成績がいいんですね。テレビゲームの子は、悪いということもなく、中庸ということですね。

○  それでは、続きまして、今西紘史さんと田淵義朗さんを御紹介いたします。今西さんは、現在、テレビゲーム業界の最大手企業の一つであります任天堂株式会社の取締役・広報室長でいらっしゃいます。田淵さんは、御自身がゲームプロデューサーとして、ゲームソフトの開発に直接携わるとともに、ゲームソフトメーカーである(株)GINの代表取締役としてその経営に当たっていらっしゃいます。
  本日は、お二人から、それぞれの立場や経験を踏まえて、「テレビゲームと現代の子どもの心」についてお話しいただきたいと思います。それでは、今西さん、田淵さんの順番で、御意見を伺いまして、その後質疑を行いたいと思います。では、よろしくお願いいたします。

◎今西意見発表者    今西でございます。今、橋元先生のほうから、我々にとって非常に厳しいような報告がございましたが、実は私はこの20日から昨日24日まで幕張にいたわけです。実は当社の単独の展示会を幕張メッセでやりまして、およそ25万人ほどの人が詰めかけてくれました。私は運営本部長としてその任に当たっていたわけですが、改めて子どものパワーというか、そして後ほどお話しいたしますが、子どもは変わってないなということを認識した次第です。
  皆さんもそうですが、先ほどの御報告にもありましたが、ああいう報告はこれまでもいろいろ調査結果としてなされました。それも一つの真実だと思いますが、かつてテレビゲームといいますと、昔のゲームセンターにまつわる非行少年のたまり場とか、いろいろ言われまして、そういうイメージも引きずっております。また、家庭用テレビゲームの時代になってからも、割合急速に普及しましたので、一般マスコミを中心に、問題児を抽出した報道がたびたびなされまして、何か事があれば、テレビゲームのせいだというような、スケープゴートといいますか、そういう目にたびたび遭ってきたわけです。
  これは学校の先生なんかに聞きますと、問題児は何をやっても問題児だと  ―これは極端な表現ですが  ―言われます。マスコミが取り上げるのは、本当にゲームから抜けられない子ども  ―いわゆるゲームに、なかなか入らない、最初はオールマイティーの子どもがまずテレビゲームを評価して入りますが、横から見ていて、仲間になかなか入れませんが、この子たちは入ったら抜けられない。―そういう子どもを中心にいろいろ報道がなされますので、皆さんの大半の方もそうかとは思いますが、そうでないかもわかりませんが、非常に観念的な評価がなされていると思っております。
  ただ、私たちにしましては当然ですが、テレビゲームはあくまで道具ですから、その時代にマッチした道具として、使い手によってどのような手段にも利用されるわけですが、我々は遊びの原点ということからしまして、時代に合ったいわゆるストレス解消の手段であった。何でも場が必要ですけども、癒しの場を子どもたちに与えたのではないかと私たちは思っております。
  子どもたちも、これほど普及して、ファミリーコンピュータというのは世に出てから14年たちますが、いまだに評価してくているのは、そこを素直に評価して、忙しいスケジュールを子どもたちはこなしていますけども、ましてやこのごろは外で遊ぶといいましても、物理的に空間が制約されておりますし、それから子どもたちの空き時間のスケジュールが一致しない。共通の時間がないわけですね。その中で、ストレスを解消する手段としては、時代に一番マッチしたんだ、だからこれだけ評価されてきたんだと思っております。
  任天堂は、ゲームのハード、ソフトの開発、あるいは製造者ですけれども、私たちが子どもに抱いている認識といいますのは、彼らを信頼しております。そして、畏れを持っている。畏れといいますのは、尊敬もしているということです。子どもたちは、いいもの、悪いもの、おもしろいものとか、そういうものを素直に評価しまして、そこではセールストークは通用しないと思っています。ですから、おもしろくないゲームをいかにもすばらしいゲームのように情報操作して宣伝したとしても、操作を誤ると大変なしっぺ返しがくるということを、我々の経験から認識しております。
  子どもは絶えず背伸びをする存在ですから、お父さんに追いつき、あるいはお父さんを越えようとしますから、物をつくる場合、開発する場合でも、おもちゃのように子ども用とか、女の子用、男の子用とか、何歳用とか、そういう考えは一切持ちません。彼らを一つの立派な人格として扱わないと、彼らは口では言いませんが、行動で我々をさげすんでしまうと思うんです。
  ですから、ゲームをつくるときも、我々の会社の開発者たちに話をたびたび聞きますが、子どもへの信頼と畏れというか、尊敬から、唯一子どもを意識するとすれば、レベル設定といいますか、ゲームの難易度を設定するときに、大人の目にも耐えられるような内容にしたいというところから、十五、六歳のあたりのレベルに設定しようという意識を働かす。その他は細かいことですが、漢字なんかはあまり多用しないとか、振り仮名をつけなければいけないかなとか、あるいは「敵」という言葉をあまり使わないようにしなきゃならないなとか、その程度の意識をするんであって、あとはまさしく自分がおもしろいと思うものを懸命につくるというにすぎません。
  先ほど、展示会の話をしましたが、一口に25万人と言っても、私は事故が起こらないかと。一時滞留キャパが二万二、三千人のスペースしかないところでやりましたので、非常に心配をしておったんですが、それはなくて終わりました。この展示会のテーマはたくさんありましたが、一つの目玉は、「ポケットモンスター」という、今、携帯用のゲーム機ではやっているゲームがあるんです。これは原案・企画者の田尻君が、子ども時代の虫捕りの世界をデジタルの世界で再現して、子どもたちに遊んでもらいたいというところから出発しています。このゲームは、いわゆる150匹のポケットモンスター、かわいいのやら、いろんなモンスターがおりますが、それを集めて図鑑をつくるというゲームなんです。これはジャンルでいうとロールプレーイングゲームといいますが、そこには収集する、それから育成、交換・追加、競争するという要素が含まれております。これは心のやさしいゲームでして、戦いがありますが、これは決して相手を殺すとかするためにやるのではないので、相手を弱らして、自分を成長さすために戦う。そして、そのゲームでは、自分が持っているゲームソフトでは図鑑が完成できない。これは必ず友達の他のゲームソフトと交信というか、交換をしないと完成しないというコンセプトを持っております。
  しかも、モンスターの中には絶対的なヒーローはいないんです。だから、どの子でも自慢できるチャンスがある。自分の好みのモンスターを育てて強くして、図鑑を完成していくという要素があります。その意味では、心にやさしいゲームとなっております。ですから、これは交換ということが非常に大きな要素で、まさにゲームの一つの大きな要素でありますコミュニケーションツールとしての機能を存分に発揮している。共通の話題をたくさん提供しておりますから、ある意味では文化じゃないかと我々は思っております。
  151匹目の幻のポケモン「ミュー」というのが存在しまして、これが現在市販されているソフトの中には存在しないので、これは我々が子どもたちにデータを提供しないとソフトの中には出てこないモンスターなんです。幕張では、そのモンスターを10万人プレゼントということで企画しまして、応募者が16万人ほどありました。全国からあったんですが、これはキャパの問題、あるいは設備の問題がありますから、日にちも1日延長しまして、13万人ぐらいの人が当選するという態勢をとりまして、3日間で対応したわけです。そのすごさは本当にびっくりいたしまして、我々は心から子どもたちを尊敬いたしたわけでございます。
  今、いろんな調査の御報告もありましたが、価値観というのは時代によって変わるし、いろいろ変化しておるし、多様化しておりますが、変化しない価値観というのは当然あるんでありまして、それはやはり生命の尊重とか、思いやりとか、正義とか、いろいろありますが、ゲームの中にもそういう要素は十分ありまして、この間の展示会での子どもの行動を見ましても、やはり子どもは変わっていない。信頼できる存在だということを改めて認識しました。
  いろいろ子どもの心の問題があるとすれば、私はむしろ大人のほうに問題があるんであって、大人がそういう変わらない価値観に対して自信を失ってしまっている。だから、親も、地域も、学校も、恐らく子どもから逃げているというふうに、私はおこがましいですが思っております。親がちゃんとした価値観を言い続けて、示し続けるなら、この間からの展示会での行動を見ましても、やっぱり親にちゃんとついていきます。そういうためにも、大人自体が、祭り(イベント)へ参加すること、これは政治も含まれますが、そういう祭りへの参加意識を持ってどんどん参加して、そういう場を通じて子どもにしつけをしていくということが私自身は大事だと、このように思っております。

◎田淵意見発表者    ジンコーポレーションの田淵でございます。
  私は、ゲームを実際に制作しておる立場の人間でございます。任天堂さんはメーカーさんなんでございますが、私は今、パソコンのほうのゲームをやっております。テレビゲームも以前やっておりましたんですけれども、今はパーソナルコンピュータのほうのゲームです。
  こういう場に呼ばれたというのは、たぶん、何か問題が起きると、ゲームがよくないというふうなマスコミの論調がありますが、私はそういうふうなことではないゲームをつくっている人間として、きょう、こちらのほうに出てまいりました。
  私はまずものをつくるときに、人間の頭には三つの脳があると思っておりまして、一つは爬虫類の脳、二つ目は哺乳類の脳、三つ目が人間の脳、この三つの脳を本来人間が持っておる脳だろうと思っております。
  爬虫類の脳というのは、攻撃的、破壊的、それから個体として生存していくのみで、冷血性も持っています。
  哺乳類の脳というのは、たぶん家族愛とか、子孫を残し、温血動物ですね。
  人間の脳というのは、たぶん記号とか、情報、つまり言葉とか、文字、そういったものを通しまして、後天的にすり込まれていくもの、例えば友情とか、困難を乗り越えていかなきゃならないとか、友達を大事にしようとか、こういった知力というか、後天的に教えられてすり込まれていくものだと思います。この三つの脳を人間は持っておるということを前提にして、ゲームというものを考えております。
  そもそも「ゲーム」というのは、『広辞苑』を引きましても、戦うこと、それから対人的な競技をしていくということですから、例えば野球とか、サッカーというのはゲームなんですね。ただ、登山というのは自然相手ですから、これはゲームではありません。つまり、いろいろ厳しい状況の中で、一つのルールに基づいて、他者の中でいかに勝ち抜いていくか、これがゲームでございます。ですから、社会システムはすべて  ―何もコンピュータゲームということだけではなくて、世の中のありとあらゆるものはゲームでございます。ですから、一つのルールに反した者は、そのゲームのプレイヤーの中から去っていかなければならない。これは世の中の厳然たる現実でございます。
  そういうゲームというものを通して、任天堂さんのほうは子ども向けにつくっていらっしゃるんですが、私が今つくろうとしていますのは、ゲームを通して何をかを学んでいく。「ポケットモンスター」は私も大好きなゲームなんですけれども、例えばゲームを通して本を読んでいく。以前、私、光栄というところで、「信長の野望」とか、「三国志」とか、そういったゲームをつくっておりましたが、1日に500通から1,000通ぐらいのユーザー葉書が返ってきます。そのゲームをやっている子どもたちというのは、例えば吉川英治の『三国志』の本も相当読んでおりますし、例えば「何で上杉謙信がこんなに知力が低いんだ」とか、「何でこんなに攻めないんだ」とか、戦闘力とか、パラメーターを規定しておるんですけれども、一つ一つのキャラクターに対して相当な知識を持っています。ですから、ゲームをつくるほうも、史実に出てくるおのおのの武将の持っているキャラクターを十分調べてゲームをつくらないといけない、こんな形になっております。
  ただ、世の中のゲームというのは、私はちょっと絶望しておりますが、爬虫類の脳の攻撃的で破壊的なものを刺激していく、こういったゲームが非常に多い。これはテレビゲームに多く見られる傾向ですけれども、そういったものが非常に多い。私はパーソナルコンピュータを使って、例えばインターネットを使ってネットワーク的な、会話を重視したようなゲームを考えていきたいと思っております。
  ですから、こういう場で皆さんにぜひ御検討いただきたいのは、ゲームというのが悪いわけではなくて、人間が本来持っているものは、今申し上げたような脳で構成されておるというのが、私のゲームをつくる場合の考え方なんです。例えば、地域社会が崩壊していく、受験戦争で塾に行く、相手がいなくてもゲームができる。これはコンピュータゲームというものができて、初めて相手がいないでゲームができるようになったんですね。マージャンというのは、4人そろわないとできません。サッカーもそうです。ところが、インタラクティブなコンピュータを相手にしてできるようになった。これはコンピュータが世の中に出現したことが善か悪かという話ではないと思います。それを通して、インタラクティブに一人で遊べるようになったということもあるわけです。その背景には、友達が塾に行っていないとか、それからみんなで遊ぼうと思ってもそういう気にならないとか、そういったことがあるのではないかと思います。
  ちょっと取りとめないお話になったんですけれども、ゲームそのものが悪いわけではなくて、ゲームを通して人間の頭というのは非常に活性化していく。ゲームを戦う、「ゲーミング」と言っているんですけれども、ことしの4月から日本学術会議の正式な登録団体として、「日本シミュレーション&ゲーミング学会」というのができまして、私もそちらの理事になりましたんですけれども、先生方が今、研究されています。ゲームを通して大学で物を教えていく。それから、小学校、中学校のレベルでも、先生が黒板に物を書いて教えるのではなくて、例えばゲームのルールをつくって、そういう中で何かモデルケースをつくって、そこの中で教えていく。そういった教育があってもいいのではないか。
  ちなみに、アメリカですと、大学の80数%がビジネスゲームをやって、経営的なものを学ばせます。日本の大学は3%から4%です。そういうゲームを使った教育はほとんど行われておりません。

○  今西さんにちょっとお尋ねしたいんですが、私、孫がおりまして、五つなんですけれども、ゲームに興味を持っています。いろいろ言われていますので、控え目に、取り上げたり取り上げなかったりという微妙なところなんですが、今西さんだったら、かわいい孫がゲームで遊びたいといった場合、どんどん際限なく、任天堂のゲームを全部与えるぐらいの気持ちになりますか。

◎今西意見発表者    そこも誤解があると思うんですが、やらしてあげたらどうでしょうかね。子どもたちはちゃんと使い分けてますよ。それを取り上げたりそういうことをするのはいけないんであって、これは時間制限したり、約束をつくってやることが大変大事なことだと思います。のめり込んでいって自分を見失うとか、現実とデジタルの世界を混同するとか、私はそんなことは絶対ないと見ています。子どもたちはちゃんと感性を持っておりますから。そういう特異な例も掘り下げていけばあるかもわかりませんけれども、これはいつの時代の何事もそうでしょうし、トータル的に見ればそういうことは決してないと思っております。どうぞやらしてあげてもらったらいいと思います。

○  私は、今西さんがおっしゃったことは全部当たっていると思うんですが、テレビゲームに対する批判的な問題というのは、先ほど橋元さんの御報告にもありましたけれども、内に閉じこもるということで、液晶体の世界にのめり込んで部屋の中から出ないとか、そういう部分の問題であって、ここでおっしゃっていること自体は、いつの世にもあるゲームを楽しむ、あるいはエンターテインメントを楽しむ心だと思うんです。ですから、今、問題になっているのは、そういう閉じこもる特性みたいなものができてしまって、開かれたコミュニケーションを行わない。部屋から出てこないとか、ほかの人と話をしないということが、情報機器の発達によるテレビゲームの与える一つの影響ではないかという部分が問題なんだろうと私は思います。
  まさにこれだけのポピュラリティーを獲得するというのは、時代の心をとらえているという事実は否定できませんし、それ自体非常に重要なことだと思うんです。本を読むのとどう違うかというと、本を読んでいると目をそらすし、窓の外を見るとか、あるいはながら族みたいにできるということがありますが、テレビゲームに関する限りは、私の子どもなんかを見てもほとんど目をそらさないです。それに大量の時間をとられるということが問題なんだろうと思います。
  もう一つ、田淵さんがおっしゃったゲーム性というのは、それ自体の本質論は私自身も賛成です。ただ、その場合も、今の今西さんに申し上げたことと、先ほど後半におっしゃった、日本人はゲームというものをゲームとして楽しまないといいますか、それが例えば国際関係なんかでも非常に大きな欠点になっていることは事実です。戦略とか、ゲームということを実社会で応用するといいますか、あるいは物事を考えるのにゲーム性で考えていくようなことをあまりしない社会だということはあると思います。実際問題、中国とか、韓国を見ても、あるいはもちろん欧・米社会を見ても、ゲームということを中心にして物を考えていく。非常にシリアスなこともゲーム性で考えていくという側面は、ある程度指摘できると思います。
  ただ、問題は、こういうネットワーキングのゲーム、情報的なゲームで、そういうゲーム性をどこまで養えるかという問題は、一つの課題だろうと私は思います。ただ、御指摘は当たっていると思います。
  もう一つだけ言いますと、私はゲームというか、遊びと儀礼というのを、昔、いろいろと考えて、それについて本を書いたこともあるんですけれども、儀礼というのは、例えば通過儀礼みたいなものですと、社会的にはさまざまに豊かな状態にある人たちがある年齢なら年齢層で皆一緒になって儀礼を受ける。儀礼を受けることによって同一性を認め、儀礼のプロセスを経て同じ一つのステータスに達する。つまり成人するといった具合に。それに対して、ゲームというのは、最初はみんな資格としては同じプレイヤーとして並ぶんですが、勝敗、つまり劣者と勝者をはっきりさせるという特性があるんですね。それをどう評価するかというのも、特に幼児とか、子どもの場合には問題になるかと思います。

◎今西意見発表者    私は、先生がおっしゃるとおりだと思いますが、のめり込むというか、集中してやる。我々は、ゲーム、娯楽、遊びは、夢中にならないと遊びじゃないと思うんです。ストレス解消しないんです、我々が遊ぶものでも。子どもたちが夢中にならないようなゲームソフトは、だめと評価するんです。ただ、それをどこで区切っていくか、生活時間の中へうまく組み入れていくか、これは親のアドバイスも必要だと思うんです。
  もう一つ、我々は子どもに対してゲームをつくっているんじゃないんです。自分のおもしろいと思うものをつくっていますから、コアになる、最初の評価をしてくれるのは子どもだと思っています。小学生後半から中学生ぐらいですね。それから、どんどん上下左右に広がっていくと思っています。
  それから、閉じこもるということですが、ゲームもどんどん変わっていく様相を呈しまして、既にポケモンもそうなんですが、ゲームボーイ、例えば携帯用のゲーム機とNINTENDO64という部屋型のゲーム機が連関してネットワーク化、あるいは有機的に結合して、どんどん外へ広がっていく。その中に、プレイヤー自体がつくる要素、クリエーティブな要素までも取り入れていく。今後、そういうふうにゲームは変わっていくだろうと我々は思っておりまして、今、その方向で開発を進めております。

○  実は私は自分自身でパソコンゲームが大好き人間でございまして、やるのは単純なことしかやらないんですけれども、やりだすとやめられなくなっちゃうんですね。仕事というか、私は日誌をパソコンでつけたりしますので、必ず夜パソコンをあけるわけですけれども、時間的に制約があって寝なきゃいけないとわかっていても、ついでにゲームを始めちゃうとやめられなくなる。私自身はついにパソコンを夜あけるのをやめて、朝やって、そうすると、出勤しなきゃいけませんから、それで自分を抑えることにはしたんですけれども。
  それから考えると、ほかのものというのは、何らかの他律的な要因がありまして、やめることができるわけですね。友達が「野球をやめよう」と言えばやめますし、テレビも番組も終われば終わっちゃうわけです。私は自分で考えるに、ゲームをやめられないというのは、ある種の依存ではないかと思うんです。先ほどパチンコの話も出ましたし、そういうことがいろいろあるわけです。ゲーム一般についてはおっしゃったようなことだと思うんですが、ゲーム一般についての心配ということよりは、ある種の依存というのが、テレビゲームなりパソコンゲームの場合には、自分しか〈やめよう〉という要因がありませんから、子どもの場合は親というのがありますけれども、基本的には子どもは自分自身の問題です。多くの場合は恐らく問題がないんだろうと思うんですが、特にそういう依存的な症状というような状況になったときの心配は、別途しておかないといけないのではないだろうかという気がするんです。
  私は、子どもがたまたまソフトをいじれたりするものですから、立ち上げた後、30分たたなきゃゲームができないようなことをやってくれたり、いろいろしたんですけれども、例えば時間がたつと終わっちゃうとかということもできるのかもしれません。本来そういうのは他律的なことでよくないのかもしれませんが、何か依存ということを心配する必要があるのではないかという気がするんです。

◎今西意見発表者    おっしゃるとおりだと思いますけどね。依存ということは、これは先ほど申したように、とにかくゲームですから。先生の場合は、恐らくのめり込んでしまわれる性格が強いか、あるいはストレスがものすごくあり過ぎるのか、そういうこともあると思うんです。もちろん依存性も出てきますし、そういうところを我々が考えて、例えば時間制限してどうのこうの、途中で切れるようにするとか、ゲームの途中で「もうそろそろやめなさい」という表示を出すとか、これは全くナンセンスなんですね。子どもは「ばかにするな」「僕らを本当に信頼しないのか」という、逆の効果を持つと思います。だから、テレビゲーム用のタイマーとか、いろんなものが出されまして、現実に売られたこともありますが、そういうのはナンセンスだと思いますね。そこは親から言われたり、自分でやり過ぎて疲れたり、時間におくれて何かの約束事に失敗したり、そういう経験の中から自立していくという効果が出てくると思います。私は、これは自分で学ばないと仕方がないのではないかと思っております。

○  大変指摘をいただいて、私も認識を新たにしたところでありますけれども、教育にゲームを取り入れようという田淵さんの御提言も大変参考になります。現在、高等専門学校あるいは大学でもってロボットコンテストをやっていますね。ああいうものも一つの具体的な形で展開されているものかなと思うんですが、参考になる言葉でございました。
  ただ、残念ながら、爬虫類の脳を対象にしたゲームほどよく売れる。ゲーム会社にとってよいゲームは売れるゲームと。ここの言葉が、今、私ども教育者としてはひっかかっているところでありまして、できるだけ人間の脳を育てるようなところで、今後、またいいゲームを開発していただきたいと思いますし、その辺のところは経営からすると難しい面もあるとは思うんですけれども、子どもたちの心を  ―悪いこともしながらというのもありますけれども、やはりよいものをできるだけつくっていただきたいなというお願いでございます。

○  現実にはありとあらゆるものが、これから人類が進歩だか後退だか知りませんけど、その中でいろんなものが出てくると思うんです。出てくるたんびに、新しいものというのは何らかの不安感を世の中に与えるものですから、いろいろ言われる。これは宿命だと思って、とりあえずあきらめて乗り越えていただきたいと思うんです。確かにおっしゃることはいろいろ参考になりましたし、世の中の大人たちが感じている不安というのもまた同時にわかるつもりなんです。
  どんな道具でも、どんな考え方でも、どんな哲学であっても、結局それは最後、個に戻るものですから、最終的に自分がそれとどう取り組むか、どう考えるかで、人はそれぞれそれなりに自分をつくっていくんだと私は思っています。ですから、いわゆる少数の子どもたちの中に一部ですが、完全に閉じこもってしまったり、あるいは他者と全くうまく意思の疎通が図れなかったりという子が生じるとは思うんですけれども、もともとそういう傾向を持っている子が、ゲームなりパソコンなりによって触発されて入り込んでいったというふうにとらえたほうがいいのではないかと私は個人的に思っています。
  私自身は小さいころ、暇さえあれば本を読んでいまして、親から「本ばっかり読んでて、閉じこもって、非常に暗い子で、よくない」と言われましたので、子どもが何を好んで、何に集中するかは、大人も含めてですけれども、個々の問題だと思っております。
  ただ、ちょっと私が抱いた感想ですけれども、こういうことは子どもにとってよくないんじゃないかと責めているとか、そういうことではないと受けとめていただきたいと思うんです。どの大人もみんな立場こそ違え、子どもたちによりよい未来を与えるにはどうしたらいいかということを模索しておりますので、子どもたちに大きな影響を持っているゲームあるいはパソコンの世界を抜きにして、未来の子どもは語れないので、来ていただいてお話を伺ったということだと私は思っています。
  どうでしょう、最後にちょっと質問させていただきたいんですけれども、何か世の中に対して、常に自分たちが悪者扱いされているというふうな一種の被害意識と言うと失礼なんですけれども、そういうのは今お感じになっていらっしゃいますでしょうか。

◎田淵意見発表者    私自身は制作もしておる者なんですけども、売れるゲームというのは、往々にして攻撃的で、相手を倒していくとか、そういったゲームも結構人気があるんです。私は制作者としてそういうゲームが好きじゃない。教育的に使っていけるゲームをつくりたいというのが私のポジションなんです。ただ、それが実際にゲームとして売れるかどうかというのはまた別問題で、例えばゲームメーカーが物を出していくときに、そういうゲームというのはなかなか売れないんです。それが現実です。
  例えばマンガも昔いろいろ言われて、今、ちゃんとしたメディアに育っています。ゲームについて、いろいろ言われても、私はすばらしいと思ってこの世界で仕事をやっておりますので、そういうことはありません。
  ただし、私は今40歳なんですけれども、実際にゲームの制作の現場でやっている人たちの年齢というのは20代なんです。ゲームというものはどういうものなのかということを深く考えて、何を与えていくのかということもちゃんと考えたゲームづくりということで、自分が好きだからそういうものをつくっちゃえみたいなことで、売れないゲームがたくさん出ている。逆に言えば、本当に子どもの心をとらえるゲームというのは、先ほどのポケットモンスターの話ではないですけれども、図鑑、例えば虫捕りをしたいとか、昔の疑似体験とか、そういったものがゲームになっていると思います。
  ですから、私自身は別にゲームについて悪いものだと思っていませんし、ゲームはこれから教育というところのコミュニケーションとして、いろんな現場で生かしていけるようなツールだと思っています。ただ、そういうものが日本ではまだまだ開発されていないという現実があって、今のゲームメーカーにそれを求めても、そういったものはつくりませんので、その辺のところが一つのネックになっているのかなということだと思います。

○  どうもありがとうございました。
  それでは、続いて馬居政幸さんを御紹介いたします。馬居さんは静岡大学教授で、教育社会学を専門に研究されております。『なぜ子どもは「少年ジャンプ」が好きなのか』という著作をお持ちです。本日は、「マンガと現代の子どもの心」について御意見をお伺いしまして、また質疑応答を行いたいと思います。
  では、馬居さん、よろしくお願いいたします。

◎馬居意見発表者    最初に、意見を発表させていただくにあたり、私の立場と論点についてのべさせていただきます。先に発表され皆さんと比較しますと、最初の橋元さんは統計的な手法を駆使して研究者としての視点を提起され、今西さんと田淵さんは実際に制作する立場から御意見を述べられました。私の場合は、一応は教育社会学の研究者という立場ではありますが、むしろマンガの読者として感じたり考えたりしたことをもとに話しをさせていただきます。
さきほど紹介いただいた私の少年ジャンプに関する本がその結果の一つなのですが、これまで私は研究者としてではなく読者としてマンガにのめり込んできました。しかし、子どものころ、そして大学生になっても、そのことについていつも周りから非難されてきました。はじめは気にしていたのですがだんだんと開き直って、好きなものは仕方がないと思うと同時に、マンガから得たものはたぶん自分の中にたくさんあるんだろう、と考えるようになりました。これだけたくさん読んでいるのに、それが何もないというのはあまりにもむなしいという、自分勝手な理由をつけてではありまが。
同時に、ゲームもそうですけれども、マンガは、子どもが自分で買って読む本です。買うということはそれなりに選択しているわけです。少ない小遣いを割いて、それも親の目を盗んでです。今はかなりオープンになっていますが、私の子どものころは非難の象徴でした。でも、子どもたちが選んだものの中には、それなりの意味があるはずです。そのため、私なりのマンガに対する興味や好きになった背景、さらに四人の子どもの親になって、みんな私ににてかマンガが大好きなもので、子どもたちの成長と関連させながら、そしてそれらに研究者としての目を重ねながら、マンガについて考えてきたことの一端をお話しさせていただきたいと思います。ただ、時間が極めて限られておりますので、大きく問題を三つに絞ります。
一つ目は、マンガというのが、今、子どもたちの中でどういう位置を占めているのかについての簡単な素描です。
二つ目には、マンガが子どもの世界の中で、大きな位置を占めているということになるんですけれども、その理由として、マンガという表現形式の特性はどういうものなのかということです。
三つ目には、作品の中身はどういう特性があるのかというところを、私なりに読み込みながら、現在の子どもたちの心が何を要求しているかということを、マンガというレンズを通して推測するという視点から話をさせていただきたいと思います。
ところで、先ほどのお話の中でもたくさん出てきましたけれども、非難あるいは肯定にせよ、マンガ、ゲームについて、それぞれ「マンガは」「ゲームは」という主語で話される場合がよくあります。しかし、実際にはゲームの中にもいいものもあれば悪いものもあります。マンガの中にもいいものもあれば悪いものもあります。これまでメディア自体の特性というよりも、メディアの内容についての非難が特性に置きかえれらて論じられる傾向があったと思います。そのためここでは、内容の善し悪しではなく、マンガというメディアの特性に焦点をあてることから話しをさせていただきます。
さて、一つ目のマンガメディアがどれほど子どもたちの世界に入り込んでいるかということについてですが、直接的にそれを示すデータではありませんが、推測するてがかりとして、どれほど売れているかという側面からまとめてみました。それがレジュメの1枚目の「2」の「1)巨大な発行部数」の「・少年週刊マンガ雑誌の文化の誕生と成立」「・ジャンプ黄金時代」「・マガジンワールドの復活」の部分です。
簡単に説明します。マンガは、この中にも私と同世代の方、あるいは実際に創っておられる方がいらっしゃいますので、あえて言うこともないのですが、私の世代、すなわち団塊の世代とともに成長してきました。特に、私の学生時代、すなわち1970年前後、あの「巨人の星」と「明日のジョー」という2大作品を抱えた『少年マガジン』が100万部を超えます。これが時代の雰囲気をつくります。マンガというサブカルチャーがメインカルチャーに躍り出た瞬間だったと思います。
その後、『マガジン』は衰退します。私たち団塊の世代が大人になっていったことが原因ですが、団塊の世代自身はマンガを卒業したのではありません。少年週刊マンガの世界から成人向けのマンガに移っていく、作家の方も子ども向けから成人向けに変わっていくようになりました。その結果、マンガの作品の質はどんどん高まっていくんですが、既存の作家による子どもの世界を描く質の高いマンガが生まれなくなります。それを逆手にとって、新人作家を起用することにより、子どものニーズを受け止めていったのが『ジャンプ』の世界です。
『ジャンプ』は一貫して子どもの世界を扱ってきたといわれます。その意味で、『ジャンプ』創刊の年と大人向けの質の高さを求めたマンガ雑誌の『ビッグコミック』の誕生の年が同じということが象徴的です。団塊の世代が大人になって少年マンガ雑誌を卒業していった後に、次の世代の子どもたちが『ジャンプ』の世界に入っていったわけです。その『ジャンプ』の世界の一番の特色は、「ジャンプ黄金時代」と書きましたが、大量販売を確実にねらってつくるという戦略性です。ただし、先ほどの任天堂の方が話されたように、いくら出版社が意図的にねらっても、それを選択するのは子どもですから、子どもの生きている状況、あるいは子どもの心に響かなければ選択されません。
そういう中で何が選択されたのでしょうか。この点について、私なりに作品を分析したり、自分の経験も含め子どもたちの状況を省みたり、あるいは別に実施した調査結果を重ねたりして、この調査はマンガに関するものではなく、小・中・高・大学生のフェミニズムに対する意識調査ですが、私なりにまとめたのが、レジュメ1枚目の下の罫線で囲った部分です。少し大げさな言葉ですが「ジャプワールド→マンガを越えたマンガ→もう一つの教科書」と書いてみました。
このような変化が顕著になったのは1980年代でした。いわゆる団塊ジュニアが小学校から中学校へと進んでいった時代です。そしてこの時期は偏差値による序列づけが極めて厳しくなり、受験というシステムが厳密に引かれていく過程でもありました。それは学校化社会が成立する過程というふうにもいえると思います。
このような社会過程において、それは子どもから大人へと成長する端境期にあたるわけですが、子どもたちにジャンプワールドがはたした役割を私なりに表現したのが罫線の中の次の部分です。すなわち、まず、ジャンプワールドは「思春期のゆれる心をセンスあふれる夢の舞台で育む→学校化社会のなかの心のオアシス」であり、さらには「都市に住む男の子が、男(と女)に育つための教科書」として、「表」は「学校化社会における『友情』『努力』『勝利』の具現化」、これが『ジャンプ』のコンセプトですが、「裏」は「母親と教師から自律した男(と女)の世界」を、「オシャレ+パートナーシップ」によって創造したもの、というわけです。
単語をつなげただけなので、意味をとりにくいかもしれません。要するに学校の中においては、男と女の関係はオシベとメシベではありませんが、清き心が中心。男と女が性的交渉も含めて自立していくという過程を学校は直接扱うことができません。このような男女の関係の学習を担ってきたのは、伝統的には、地域社会における先輩後輩関係だったと思います。しかし、そのような関係は、先ほどのお話にありましたが、どんどん崩壊してしまいました。子どもたちの世界から異年齢集団がなくなり、友人関係の中に閉ざされていきました。それでも数が多い団塊ジュニアの場合は、同じ年の友人関係はありました。後にふれますが、今の少子時代の子どもたちにはその仲間関係すらできにくくなっています。それはともかく、問題は80年代です。団塊ジュニアが閉ざされた世界の中で、手っ取り早く自分が大人の男(と女)になるためのモデルを求めようとすれば、マンガの中にしかなかった、ということです。
今ならば、ゲーム、あるいはビデオも含めて、別の選択肢があるのかもしれません。80年代の前半はまだそこまではなくて、80年代前半から後半にかけて、実際には70年代後半から入っていくわけですが、子どもたちが大人になるために通らなければならないあがきを解消するためのテキストになったのが『少年ジャンプ』、というのが私の位置づけです。
その一つの証左として、それは二つ目の課題の「マンガの表現形式の特性」とのかかわり入ることになるわけですが、別紙資料の資料1を見てください。これは私が『少年ジャンプ』に注目する原因となった作品である「シティーハンター」の世界から構成したものです。このマンガを読んで卒業した人が今は大人になっているわけですが、80年代の作品ですけれども、パッと見れば、「エッ」という感じをもたれるかもしれません。
マンガの表現形式の特性として、レジュメ二枚目の「2)」の「・マンガの定義1」に罫線で囲って「“絵”と“文字”が“複合”した“コマ”の進行によってのみ可能な表現の世界」と書きました。
再び別紙の資料1「シティーハンターの世界から」をみてください。パッと見る限り、たぶんいろんな意味で批判されやすいマンガだと思います。しかし、形式に注目すれば、別の特性が見えてきます。形式というのはマンガメディアを構成する要素、すなわち「絵」と「文字」とフレームとなる「コマ」の組み合わせのあり方です。
例えば、資料1の左上の「コマ」をみてください。一つの「コマ」の中に「ボン」とあって、その下に「編集部カット」という文字が入ってます。本来見えるはずのないものが突然現れて、それを見て驚く女性(かおる)の絵があります。要するに、1枚の「絵」の中に、この「絵」を書いている作家、それを編集している編者者、それから上の右側のコマのように、本来のストーリーの中にある2枚目キャラクターとそのキャラクターを見ている三枚目のキャラクター、さらには読者もこの中に参加する場合もあります。一つの世界の中に、多元的にさまざまな物の見方が表現できるメディアという意味で、マンガは一番すぐれたメディアと考えます。
さらに、この資料は私の意図に応じて、いろんな部分を張り合わせてつくりましたが、これと同じことを子どもたちはできるわけです。時間がなくて忙しいときには自分の好きなものだけを読み飛ばす。余裕があればじっくり読む。そして、また読みたくなったら再び開く。ほんの5分でも読むこともできれば、電車の中でも読むこともできるのがマンガメディアです。
すなわち、マンガは多元的な現実を表現することにおいて非常に優れたメディアであると同時に、細切れになった子どもたちの生活の中で細切れの時間を有効に使うことのできるメディアです。もちろん、子どもたちの生活が細切れになっていること、それは管理されているということでもあると思いますが、それを肯定するわけではありません。しかし現実にそのような生活を強いられる子どもたちにとってみれば、細切れになった時間を自分なりに生かすうえで、マンガは好都合なメディアといえます。   そして、多元的な表現と子どもの時間に則した、という二つの意味で、マンガは子どもたちの側に寄った、言い換えれば読者の側に寄ったメディアといえます。現在ならゲームにもそういう側面があると思います。とりわけ、ポケモンで有名な小型のゲームボーイはマンガ雑誌と類似した機能を果しているといえるかもしれません。
先ほどお話がありましたけれども、ゲームはそれに参加する人が操作しなければ動かないわけです。それに対して、テレビの場合は流れる映像を一方的に見るだけです。スイッチの入れたり切ったりすることでしか子どもの意思を表現できません。マンガの場合はどうでしょうか。多分、ゲームとテレビの間に位置づけられるでしょう。
マンガに描かれた世界は子どもが開かなければあらわれてきません。それも、さきほど冒頭で私はのめり込むという表現をしましたが、そのような態度でマンガを読むこともできれば、わずかな時間で読みとばすこともできるわけです。自分で書き加えたり色をつけたり、切り取って定期入れの中にいれて持ち歩くこともできるわけです。その意味で、マンガはその世界へのかかわりかたにおいて読者の参加を必要とすると同時に、読む時間や場所の面でも、あるいは加工においても、読者の都合にあわせて決められる自由度の高いメディアです。
もう一つマンガが子どもの側によったメディアであることを示す特性があります。かつての「フクちゃん」に代表される昔のマンガは一人の作家がその才能にしたがって描いたものです。そのようなマンガに対して、現在の『ジャンプ』や『マガジン』などに代表される週刊誌形態のマンガの一番大きな違いは、さまざまな方法を使って、読者の意向に沿って描こうとするシステムの中で生産されるということです。
たとえば、いま手元にある『ジャンプ』には読者へのアンケート調査のための葉書が綴じ込みで入っています。「今週のジャンプの中でどれが一番面白かったか」ということを毎週調査するわけです。さらに、それ以外にもさまざまな調査を通じて、子どもたちが好む、いいかえれば売れる作品を送り続ける仕組みです。逆に売れない、読まれないとなれば、すぐ切っていくというシステムができ上がっていて、マンガというメディアの特性に加えて、マンガの生産システムそのものが子どもの側に寄っていくとことにより、マンガは子どもたちに選ばれてきたのだと思います。
その選ばれた結果が、ちょっと話しが戻りますが、「ジャンプ600万部」と言われる時代をつくってわけです。ピーク時には650万部を数えましたが、ともかく厚さ2センチを越す600万部以上の『ジャンプ』が毎週、全国に届けられたわけです。この巨大な数の移動は、たぶんゲームもかなわないと思います。
もっとも今は、『ジャンプ』の勢いがなくなり、レジュメの2枚目の上のほうに書きましたが、今月の初め、『ジャンプ』が407万部、『マガジン』が415万部になって、70年代後半に『ジャンプ』に奪われた王座を、『マガジン』がようやく取り戻したようです。このことについて、『ジャンプ』407万部と『マガジン』415万部という数字の差にこだわり、逆転したということだけが注目されてがちなのですが、両方合わせれば800万部以上が売れているという事実は変わっていないことを忘れてはならないと思います。この二冊のほかにも、『サンデー』や『チャンピオン』もあれば、中学生でも読んでいるヤングアダルト用のマガジン雑誌も100万部単位で発行されています。あるいはもう少し下の年代には、『ボンボン』とか、『コロコロ』とか、ゲームとタイアップしたような子ども向けのマンガも、あわせれば100万部単位で売れています。1,000万部もしくはそれ以上かもしれませんが、子どもたちのマンガが毎週もしくは定期的に流通していることには変わりないわけです。
ちなみに、住民基本台帳の今年の分から抜き出した10歳から19歳の人口をレジュメに記入しておきました。それをみると、10歳〜14歳が370万人、15歳から〜19歳が400万人、合わせて770万人です。男の子の場合は『ジャンプ』と『マガジン』を合わせた800万よりも少ないわけです。10歳から19歳までに、『ジャンプ』『マガジン』の読者層というのは大体おさまると思いますので、もしこの二冊が男の子の雑誌だとすると、全員が読んでも発行部数を越えないわけです。それだけのものが毎週出ているという事実は無視できないと思います。さらに、先ほどから何度も言っていますが、それを子どもたちは自分で買っているのです。そして、それと裏腹の関係になりますが、マンガは、『ジャンプ』がそうであるように、ちょっと油断すればすぐ落ちるという緊張関係の中で生産が続いているということです。
もう一つ、マンガが読者である子どもに寄ったメディアあるという特性を指摘したいと思います。レジュメの3枚目をあけてください。「・マンガの定義2」として、「“話し言葉”によるコミュニケーションを“絵”で表現する」と表現しました。
先にマンガというメディアを構成する要素として、「絵」「文字」「コマ」をあげましたが、その「文字」は常に「絵」とともに描かれた「吹き出し」の中をメインにして表現されてます。「吹き出し」というのはいうまでもなく話す内容を記入する枠です。したがって、マンガは常に「話し言葉の世界」として展開されます。
話し言葉の世界というのは、二つの意味で子どたちの世界から離れられません。
一つは、話し言葉そのものが、文語と違って現実のシチュエーションと常にセットになった言語であるということです。その意味で、話し言葉を使うことにより、マンガはその言葉を支える子どもたちの現実の世界を離れては表現できないことになります。話し言葉で表現しなければならない以上、今生きている子たちが何を話しているか、どういうことを考えているかということを、常に取材するところから作品を描いていかなければならないわけです。
もう一つは、話し言葉が中心になるということは、マンガは読者とのコミュニケーションを前提とした世界ということです。
小説は文字という記号をもとに具体的な世界を想像することだと思います。それに対して、マンガは絵があることにより想像力がなくなる、といわれます。私は逆だと思います。絵だけでも文字だけでもなく、その両者が重なることで、一方だけでは表現できない豊かな世界が生まれると考えます。
読み慣れていない人がマンガを読むと時間がかかってしかたがないといいます。これはマンガの読み方をしらないからです。いま読み方といいましたが、マンガとの付き合いの長い人であれば、マンガは読むよりも、話すことに近いことに気づくと思います。その結果、マンガの理解は、そのマンガを描いた作者の側よりも、描かれたキャラクターとコミュニケートする読者の側に都合で創られるといえます。
よく小説でも作品が一人歩きするといわれますが、マンガの場合は最初から一人歩きすることが前提です。マンガは文字だけの世界と異なり、常に人が語ることによってストーリーが進行します。たとえマンガの中で二人のキャラクターが会話をしていたとしても、常にそれを読む、あるいは聞いている読者を前提に語っています。
語るということは、普段の会話でもそうですが、必ずしも話し手が思っているように相手に伝わらない場合があります。しかし、三人よれば文殊の智慧といわれるように、一人でいれば思いもつかなかったことを考えついたりします。マンガも同じです。「絵」があるために文字だけの世界よりも前もって決められている割合が高いように見えますが逆です。読者はそれほど単純ではありません。「絵」のどの部分を読み取り、「言葉」のどの部分を聞き取り、そして両者をどのように組み合わせて意味の世界を構築するかは、全て読者の側に任せられているからです。
さらに最近のマンガはより豊かな記号表現を用いています。先ほどの資料1の「絵」を改めてみてください。もともとマンガは「絵」と「話し言葉」と「コマ」でできていたのですが、この資料1が示すように、だんだん多元的に表現するようになりました。それも意味の多元化のみでなく、本来目に見えないが感じ取っていた世界を絵で表現したり、耳のみで聞き取った世界を記号で表現したりすることにより、光や音や風や空気のような世界を表現する新たな方法をつくり出しています。
少し比喩的な表現になりますが「絵」が「言葉」を発し、「言葉」が「絵」になり、同時に擬態語が典型ですが、「音」が「絵」になり、「絵」が「音」になっていくという意味での多元性です。しかし、このような世界はそれを読み取る読者である今を生きる子どもたちがどんな感覚で言葉を使っているかということから離れては絶対に描けません。たとえ描いても指示されないでしょう。したがって、マンガはそれを描いたのは大人の作家でも、それが描かれる過程で現在の子どもたちの心の世界が入り込んでいるといえます。とりわけ、子どもたちに支持されている作品には。
そこで三つ目の課題です。現在の子どもたちに支持されているマンガ作品の特色を読み取ることから、今を生きる子どもたちの心の世界に迫ってみたいと思います。
別添資料の2枚目、3枚目を見てください。2枚目の資料2は、御存じの方もいらっしゃると思いますが、「SLAMDUNK」の最後のシーンです。最近のミリオンセラーの最後の作品、「ジャンプ黄金時代」の最後の作品ともいえます。
その次の資料2は、『マガジン』の王座奪還に寄与した作品の一つで、「はじめの一歩」です。その下の資料4は「シュート」という、やはり『マガジン』の人気作品です。
このマンガだけでは、初めて見る方には意味がわからないと思います。それを補うために、レジュメの4枚目から5枚目にかけて少し詳しく説明しておきましたので、参考にしてください。
要するにこの三つの作品はいずれも現在の子どもたちに好まれている作品です。「SLAMDUNK」はそれこそミリオンセラーです。「はじめの一歩」、それから「シュート」も、単行本の売れ行きはかなりの発行部数になるはずです。それぞれ、バスケット、ボクシング、サッカーと種目は違いますが、ストーリーの中心がスポーツであるということは共通です。さらにより重要な共通点として、レジュメ四枚目の下の「作品の共通点」として「自分の選んだ道をひたむきに生きる中・高校生の姿を描いたマンガ」と表現してみました。特に「自分で選んだ道」ということが一番重要な特性です。
先ほどゲームの話がありましたが、私はゲームというのは誰もが主人公になれる世界だと思います。いいかえれば、現在の子どもたちはだれもが主役の世界に生きることを当然と思っているといえないでしょうか。ただしその主役はかってのようなスーパーヒーローを意味するのではありません。
同じことがこの三つマンガに共通する特性としていえます。それぞれ主人公はいます。しかし、必ずしもその主人公がいつもストーリーの中心、というわけではありません。出てくるキャラクター全員がいつでも主人公になり得る可能性を持ったストーリー構成になっています。それは逆にみんながわき役や三枚目にもなり得るということです。どんなスーパーヒーローも一皮むけば普通の人たちだということです。
サッカーをしている時はヒーローでも、終わればただの人。ずっこけもすれば、女の子も好きだし、みんなと遊びたいし、そして勉強はきらいだし、ということです。
選択したスポーツに関しては非常に一生懸命なんですが、それ以外のことには基本的に自由。着るもの、遊ぶもの、人とのつき合い、全部自由です。ただし、自分で選んだスポーツに入っていけば、極めてストイックになります。
ではそのスポーツをどのように選ぶか、ここが一番ポイントです。レジュメの5枚目の一番上に書きましたが、「スポーツを選択する基準は“好き”だから」ということです。どんな子どもも、最初はどんなに意欲満々でも、必ず壁にぶつかります。いやことがあってやめたくなることもあるでしょう。そんなときに、それでもがんばろうと思うことができるために何が必要か。「バスケットが好きだから」「サッカーが好きだから」、それから「ボクシングが好きだから」というわけです。
たとえば、「SLAMDUNK」の場合は、〈桜木花道〉という主人公が試合の途中で背骨を痛めて、再起不能になりかけます。そのリハビリをしているところに心の恋人から手紙がきます。そのなかに、元気になってバスケットに戻ってきてほしい、という言葉とともに「大好きな/バスケットが/待っているから」ということばがそえてあります。これがミリオンセラーの第一部終了の最後の「コマ」の言葉です。ということは「SLAMDUNK」全体を総括し、未来につなげるシーンの言葉として使われたわけです。
国のためでも、部のためでも、学校のためでも、みんなのためでもなく、「好きだから」と。これが背骨を傷めても、バスケットを選んだ理由です。
「はじめの一歩」ではどうでしょう。〈一歩〉というのは主人公の名前ですが、彼がいじめられるところから物語は始まります。最初はウジウジしていたのですが、ボクシングの練習をしている人と出会うことにより、弱い自分を克服にするためにボクシングを始めます。そして、プロのライセンスをとるというのがサブストーリーとしてあって、資料2のマンガにつながります。
そこで、<一歩>がプロのライセンスをとったことを知ったかってのいじめた連中が、仕返しのためにボクシングを始めたのかと迫ったときに、<一歩>はレジュメにあるように、次のように反論しました。「仕返しとか/そんな小さな理由で/始めたんじゃ/ないんだ」「ボクは/ボクシングが/好きだから/プロボクサーに/なりたいんです!」。
ここでも「好きだから」がキーワードになっていることがわかるでしょう。
ではその下の資料4の「シュート!」はどうでしょう。「トシ―/サッカー/好きか?」「はい ―」というのは何を意味すると思いますか。
これは話せば長いことながらということになるのですが、ひざを抱えて泣いているのは主人公の〈田仲〉です。彼がサッカーをするうえで非常に影響され憧れの先輩であったキャプテンの〈久保〉が、白血病であることを承知でサッカーをすることを選び、自分がつくったサッカー部を勝利に導く驚異的なゴールをしたあと、力尽きて死んでしまいます。その<久保>のことを回想するシーンです。この部分を含めて、サッカーをなぜするのかということが問題になる場面でいつも出てくるのが、この久保の言葉「サッカー好きか!」です。私はこの<久保>の死を巡って交錯する高校生の心の葛藤のシーンは、90年代のマンガの中で、現在の子どもたちの心の世界を表現するうえで最も優れた作品と評価しています。興味がありましたら読んでみてください。
いずれにせよ、このように三つの作品に共通する“好き”という言葉に込められた現在の子どもたちの選択基準について、私なりにまとめたのがレジュメの5枚目から6枚目です。このなかから特に6枚目の図をみてください。
実は私は、いま述べました“好き”という言葉へのこだわりが、ジャンプワールドからマガジンワールドへ変わったポイントと考えています。80年代から90年代への変化という風にいってもいいと思います。それを具体的にわかりやすく示すためにつくってみたのが「図−1   社会生活の四つの場」です。
これは私達の生活を「私的な世界−公的な世界」、「日常的な世界−非日常的な世界」という二つの軸をクロスさせて「・」から「・」の世界にわけたものです。先に述べました「ジャンプワールド」というのは「・」の「私的」で「非日常的」な「遊びの世界」を中心にした世界ということができます。そこでは、右半分の「公的な世界」は学校の力が圧倒的に強い世界であるため、子どもたちは左半分の、それも「非日常的」な「遊びの世界」の中で、自分たちの夢を実現しようとしたわけです。それがマンガの世界だったということですし、そこに男と女の世界を見出していった、というわけです。
その場合、先にも述べましたか、巨大な発行部数を誇って成長した『ジャンプ』の80年代の読者であった団塊ジュニアの場合は、上下の先輩後輩はいなくても、仲間関係は非常に豊富でした。学校はどんどん厳しくなりますが、時代そのものは非常に豊かな雰囲気をもっていました。情報化、都市化がどんどん進んでいく中で、子どもが成長に応じて自分の世界を見出そうとしたとき、右半分の「公的」な世界が学校化されても、左半分の「私的」な時空において仲間同志の世界をつくることが可能でした。
ところが、現在の子どもたちの場合はどうでしょうか。90年代に入って数がどんどん減っていく中で、仲間づくりを試みるチャンスすらなくなってきています。しかし、思春期になれば、自分がどう生きるかということに必ずぶつかります。時代の一種の閉塞感もかかわって、80年代よりもより厳しく迫ってきているはずです。子どもたちが大人と異なる自分たちの世界を独自にもって、自分たちの固有の論理と倫理をもっていれば「遊び」の世界を中心に自己の世界を広げていけるはずです。しかし、一人一人が自分の世界を中心に動き、互いに共通する規範をうまくつくれないでいるとすれば、「好き」という自分の実感に従うしか確かなものはないということになるのかもしれません。いいかえれば「好き」以外に何らかを選択する基準を持っていない、あるいは持たされていないと言ったほうが、正確かもしれません。
ただし、その「好きだ」ということを契機にして、単に感覚的なものではなくて、実際には非常にハードな練習に入っていきます。それも、自分を犠牲にすることもいとわない。背骨を痛める、あるいは死さえも、という世界との緊張関係を持ちながら、「好き」という自分の実感に誠実に対応し、自分の行動を選択していくわけです。子どもたちは自分たちが置かれた状況のなかで、「遊び」を梃子に自分たちなりの新たな「聖(ひじり)」の世界のあり方を提起し、そこから彼ら彼女らにとっての「公的」「私的」双方の新たな「日常的な世界」を模索していると考えます。
このようにマンガが示す世界を読み取ることから、私なりの視点をまとめたものの一部をレジュメの5枚目の後半に紹介させていただきました。本来なら、さらにこれらを説明すべきですが、私の不注意から既に時間を大幅にオーバーしてしまいました。申し訳ありません。発表はこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。

○  マンガの限界というのはどこにあるのかなという質問なんですけれども、今、子どもを中心にお話をなさいましたけれども、子どもどころか、大人がマンガを読んでいる時代ですね。政府の白書ですら文章だけではなくて、マンガでそれを出そうというふうになってきているわけですね。おっしゃったようなマンガでなければ表現できないもの、あるいは想像力をかき立てるものというのは確かにあると思うんですけれども、見ていますと、マンガ文化のほうが普通の文章文化よりも、今、日本社会で優位になってきているのではないかという気がするんです。現に選ばれているものがいいということもありますけれども、選ばれているものが必ずしも望ましいかというと、また別な話があると思うんです。そういう意味で、マンガの限界、マンガ文化が優位であるということの社会に対する意味合いは、一体何なんだろうかということをお教えいただければと思います。

◎馬居意見発表者    たぶんおわかりになっていると思いますけれども、マンガも、文字文化も、あるいは映像もみんな同じで、限界ははっきりしていると思います。いずれも実際のものではないということです。例えば、痛みの表現はできますが、痛みそのものはわからないという意味で、マンガの限界は当然あります。
もう一つは、ご質問の意味が、マンガが文字に対して優位かどうかというのでしたら、わたしにはよくわかりません。理由はマンガは文字とセットになってあらわれる世界ですので、文字がないとマンガは成立しません。例えば、『マガジン』をトップに躍り出させた作品は、ここには挙げなかったんですが、「金田一少年の事件簿」というものです。この中身は文字ばかりです。どちらかといえば、絵は文字による説明を助けるイラストのようにな役割をはたす場合もあります。そういう意味で、文字文化とマンガ文化は対立するものではなくて、たぶん相互補完関係にあるんだと思います。文字を読める人がいないとマンガは成立しません。
ただ、文字のみの表現よりも、文字と絵がセットになったマンガという表現が実際に優位な位置にあるとすれば、それが伝える情報の受けての側の理解度において、たぶん文字だけのメディアよりも優れているということなのだと思います。その意味で、さまざまなメディアが文字中心ではなくて、映像なり絵が入ってくるというのは、これは情報の受けての側の都合を優先すること、いいかえれば理解する側の立場に立った表現を優先する結果といえなくもないと考えます。文字だけよりはそこに絵が入ったほうが、より豊かな情報を伝えられると思いますので。しかし、それはメディアの優劣の問題ではなくて、メディアを受容する側が拡大したこと、その意味で一般化、大衆化が進んだことを示すのであって、基本的にはよいことだと私は考えています。マンガは文字と競合ではなくて、共生関係になるのではないかと思います。
ただし、絵と文字が複合したマンガは、その加工の仕方や表現の仕方によっては、送り手の一方的な情報操作に結びつきやすいことも指摘されています。その危険性は否定できないでしょう。しかし、文字のみの世界にその危険性がないかといえばそうでもないと思います。むしろより現実からの抽象度が高い分だけ、頭の中に描いたフィクションに左右される度合いもまた高くなる危険性もあるということを付け加えておきます。

○  本日は、どうもありがとうございました。
  それでは、ヒアリングに続きまして、討議に入らせていただきます。御意見をどなたからでもお願いします。

○  いろんな方のヒアリングをしながらまいりまして、そろそろ戦後52年間の子どもの変化とか、教育問題というのを考えていきたい。そこで、私は戦後50年間を15年サイクルで区切っていきたいという提案をいたしております。
  例えば、昭和20年から34年を第  I  期、昭和35年から昭和50年ぐらいを第  II  期、昭和51年から平成3年までを第  III  期、今現在は第  IV  期に入っているというふうに押さえたい。
  第  I  期の生活リズムというのは、年中行事。お盆、お正月、夏祭り、秋祭り、節句とか、そういう季節に応じた行事で、子どもたちの生活があったんだろう。したがいまして、小遣いも秋祭りにもらう、お正月の元旦に小遣いをもらう。先ほどのマンガで申しますと、月刊マンガがまだあった。
  昭和34年から『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊されてきまして、第二次産業の方が半数を超えてまいります。昭和33年に「もう戦後は終わった」という経済白書があり、世の中の形が月単位でくる。したがって、子どもたちの小遣いも、第  II  期から月決めの小遣いをもらうようになってまいります。先ほど出ました『少年ジャンプ』は、ちなみに昭和43年が創刊ですから、  II  期の真ん中辺にまいります。また、昭和39年にカラーテレビが普及してまいりますから、昭和40年以降の生まれの子どもたちは「テレビっ子」と呼んでもいいだろうということになってまいります。
  昭和51年ごろから、第三次産業の方が半数を超えてまいります。いわゆる流通とか、情報産業の方が、この  III  期から増えてくる。そうしますと、生活リズムが月単位から週単位と非常にテンポが早くなってまいります。俗に子どもたちが手帳を持ち始める。大人と同じような生活スタイルが、第  III  期で完成するかなということです。この辺をこれからの議論をする場合に念頭に置いてほしい。言うならば、第  I  期、第  II  期の段階においては、時代は違いますけれども、子ども文化というのが成立したんだけれども、第  III  期から大人のコピー版と言ったら大げさになりますけれども、ほぼ同じようなリズムが出てくる。で、いろんな問題が出てくる。
  文部省は、平成4年に生活科という新しい教科を設け、学校週5日制ということを提案しており、今の生活のありようを見直してきたというふうに考えられます。
  学校病理に注目すると、第  I  期というのは、ある意味では学校病理はないんでございます。いわゆる社会病理。非行少年を含めた社会病理はあるんですけれども、学校病理はないんでございます。学校が健全であったというふうに  I  期は考えていいと思います。
  第  II  期にまいりますと、若干ですけれども、「はい回る経験主義」の批判がありまして、学力の低下という問題。昭和33年のソビエトの人工衛星打ち上げで、このままではいけないんだと。アメリカの影響もありまして、系統学習にいかなければいけないというのが若干出てまいりますけれども、比較的まだ第  II  期は、学校は健全であった。
  それか第  III  期にまいりますと、それまでのツケがまいりまして、昭和51年の「落ちこぼれ七・五・三」という言葉が出てまいりますし、昭和57、58年ごろは「校内暴力」が出てきます。例の「金八先生」のドラマが出てまいります。昭和60年にいじめという問題が出てきまして、中野区の「葬式ごっこ」というのが記憶にあると思いますが、これは60年の段階でございます。昭和63年ごろは不登校の問題が出てまいります。平成7、8年に、名古屋と千葉のいじめで自殺が出てくる。
  そこで、2番目にまいりますけれども、よく「いじめはいつもあったんだ」と言われますけれども、私はいじめのありようが時代変化してきているんだととらえております。第  I  期のいじめというのは、地域社会がまだございましたから、集落同士の闘いがあった。隣の村の子どもにいじめられた場合は、自分の先輩に言ってかたきを取ってもらう。そういう集落同士の闘いが  I  期ではあったのかなと思います。地域間同士のいじめがあった。
  第  II  期は、今度は学校社会が出てまいりますが、それでもまだ放課後の校舎でのいじめ。いわゆる部活動で中学3年生が中1の子どもに、グローブの手入れが悪いとかということで、体罰を加える。だけども、第  II  期の場合、部活動でいじめられても、教室に帰れば自分は救われた。教室の居場所があったんでございます。
  問題は、第  III  期でございます。第  III  期のいじめというのは、教室内でのいじめ、同学年のいじめなんです。ですから、ここでいじめられると、先生、親にも言えない。同じ同級生同士ですから、非常に困っちゃって、大変な自殺までもいきかねない状況、逃げ場がなくなってくるのが第  III  期であります。そういう意味では、  III  期も、  IV  期も同じかなと押さえております。
  もう少し御説明いたしますと、子どもたちの生活空間はどう変化したのか。私は、子どもの生活空間を、身内空間と、世間という空間と、あかの他人という空間に分けていきたいんでございます。
  身内というのは、家庭とか、親戚、それに学級が準身内に入るかなと。
  世間というのは、世間体が悪いというように規範意識がまだ残っている。
  あかの他人というのは、旅の恥はかき捨てというように規範意識がなくて、ルールが通じない。子どもたちが傍観者になってくるということです。
  そうしますと、第  I  期の時代は、この三つの空間が均等に分けられていた。身内があり、世間があり、あかの他人があった。
  第  II  期になってまいりますと、身内が非常に狭まってまいります。いわゆる核家族化になってまいりまして、世間とあかの他人が広がってまいります。これが第  II  期の特徴かなと。
  問題は第  III  期でございますが、身内と世間が狭まり、あかの他人が広くなってくる。これが子どもたちの地域空間でもある。
  学校空間においても、いわゆる学級の中が身内でなくて、いじめっ子といじめられっ子があった場合に、傍観者というのはあかの他人でございます。教室自身が本来ならば「世間」であってほしいところが、ルールが通用しなくて、一部だけが熱中した場合には、ほかの方は腕を組んだ傍観的な部分が増えてくる。これが  III  期、  IV  期の特徴かなと押さえております。
  そういたしますと、いろいろ述べてまいりましたけれども、こういう大きな時代のウエーブの中で、中教審の中でどのような形の提案が可能か。私なりにささやかな提案とさせていただきます。
  1点目は、仕切り屋の育成ができないだろうか。子どもたちの中で遊びを仕切る人がいなくなってまいります。例えば誕生会で遊んでもバラバラ遊びが多くて、「おい、サッカーをしよう」と言う者がいない。野球チームとか、サッカーチームの組分けができない状態であります。また、大学生になりますと、体育会のマネジャーのなり手がないという状況も出ています。学生でいうと、コンパの幹事のなり手がいない。もっと極端になりますと、6人ぐらいの飲み会で注文ができない。これは非常におもしろいんですけれども、例えばとりあえずビール3本、ヤッコ6個が注文できない。人が来たら、「おい、相談しよう。何にするか」という、小さな仕切り屋ですよね。集団の中で小さな仕切り屋がいない。言いたいことは、子ども社会でも、青年社会でも、そういう仕切り屋というのがなくなってきている。ある意味では、いじめがあった場合、「そろそろやめとけよ」と一言かける人がいないのではなかろうか。
  それは彼らが過ごしてきた集団が、4名から5名の小集団と35人から40人という学級社会の集団ですね。班の構成と学級組織なんです。一番仕切り屋が育つのは、8名から12名という中間集団の、いわゆる遊び集団から仕切り屋が育ってくると思うんでございますが、今、その一番大事な中間集団がほとんど体験できてなくて大きくなってきた。
  2番目にまいります。家庭内の年中行事を増やしていきたい。先ほど説明しましたように、節分とか、ひな祭りとか、七夕とか、誕生会などの行事を体験する。千葉愛着心の調査では、子どもは自分が住んでいる地域が好きになっており、なぜか学校も好きになってきております。そして、大きくなってから、これは別の調査ですけれども、共通一次世代の結婚している人としていない人を対象に、年中行事の体験を聞きますと、年中行事をたくさん体験した方ほど、結婚して育児が楽しいんだという方が出てきております。結婚したいんだけれども、結婚できない方というのは、年中行事を体験していないとか、例えば家庭内におけるお父さんの権威が乏しいとか、児童期に泥んこ遊びしていない方が結婚していないという結果も出ております。
  その背景には、年中行事は家族単位で活動します。そこにはお父さんの顔が出てまいります。ある意味では家族のイメージがはっきりしてきて、自分たちがつくる家族のモデル学習ができているんだろう。家族ですから、ある意味では行動半径も広くなってくる。そのようなことから、地域社会と学校が好きになってくるということが推測できると思います。
  3番目でございます。シングル・エイジ教育のすすめを提案したいと思います。子どもたちの遊び行動、休み時間を調べてみますと、1年生から3年生の遊び行動と、4年生から6年生とでは大きく変わっております。高学年になりますと、教室でのおしゃべりが増えてまいります。彼らも長い休み時間、30分ないし40分だと外に出かけますけれども、5分ないし10分程度では教室の中か廊下でダベリングをします。ところが、1年生から3年生ぐらいまでは、短い時間でも外に出る。シングルの子どもたちとダブル・エイジの子どもの行動パターンが違ってきます。
  教科の好き嫌いを申しますと、小学校4年生あたりから、算数嫌い、社会科嫌い、理科嫌いが出てまいります。社会、理科というのは非常に領域が広くなってまいりますし、算数も分数が入ってくるということで、難しいとなってきます。そういう事実もございます。
  先ほどのマンガで申しますと、『少年ジャンプ』が読めるのは小学校3年生からであります。1、2年生はなかなか『ジャンプ』を読めない。マンガ読解力という調査をやりますと、1、2年生が読むのは、キャラクターを通して世界に入っていくんです。〈アンパンマン〉とか、〈ドラえもん〉を通して入っていきます。だけども、3年生あたりからストーリーマンガと申しましょうか、キャラクターがなくてもいいんでございます。そうすると、これからの子どもたちの心のありようを考える場合に、キャラクターを大事にしていくような世界と、文字とかストーリーを大事にしていくような世界もありようが変わってくるだろう。その意味では、基本的にシングル・エイジの段階で豊かな心の世界をつくれればなという願いがございます。
  4番目です。ジュニア・ボランティア教育のすすめ。できたら学校の中でもボランティア学習ができないだろうか。教課審でいろいろ検討されておりますけれども、「総合的な学習の時間」でもよろしいんでございますが、今、提案しているのは、1年間に3回程度でいいんだと。アイマスクの勉強をしたとか、いろんなものを体験して、1学期に1回程度の学習ができないかということを提案させていただきました。
  最後、5番目です。教育問題に対する発想の大転換をそろそろやっていかなければいけないだろう。
  一つは、せんだっての道徳に関するヒアリングでもございましたけれども、教育問題を家庭・学校という一つの単位だけでなく、社会のシステムの在り方という視点からとらえ直していきたいと思っております。対症療法的な手法も大事でありますが、それだけでは解決できないところにきている。ですから、いじめとか、不登校の問題を、スクールカウンセラーを導入すればいいというだけでなくて、それも大いに進めてほしいんですが、スクールカウンセラーで申しますと、スクールが見える。個別の治療も大事ですけれども、教師とか、地域社会が見える、学校社会が見えるスクールカウンセラー。学校も地域の中にあるんだという形のスーパーバイザー的な観点の方の養成が要るかなと。そういう意味で、システムとして考えていきたい。これは先日、日経新聞にちょっと書かせていただいたものを読んでいただければいいかと思います。
  それから、教科指導と道徳の時間、特別活動の指導の発想を変えていきたい。教科指導は系統性を重要視し、評価は序列をつけます。これは欧米的な切る論理。序列をつけてまいります。同時に、道徳の時間と特別活動は一過性の貴重な体験を重視し、評価はしますけれども、序列はつけない。これは包む論理。母性的な論理でいく。
  今後の学校社会とか、教師たちの中では、教科指導と学級経営には力を入れないといけないだろう。道徳とか、特別活動は、地域の人材活用をしながら、子どもたちの育成を願っていってはどうか。
  そういうふうに考えた場合、新しい文明論の視点を取り入れたいと思います。ここで言うのは生活のありよう、例えばおやつはこのままでいいんだろうか。間食が多過ぎて、おやつ文化の復活をさせたほうがいい。1日に1回のおやつでいいんじゃなかろうか。ちょこまかちょこまか食べるような食生活でいいだろうか。そういうことを含めて、ぜひこの第16期の中で御検討願えればと思います。

○  もう少し詳しくお伺いしたい点がございましす。仕切り屋の育成という点が、提案の中の1番目にございました。また、教育問題に対する発想の大転換をするという中で、教師は教科指導と学級経営に力を入れていくべきであると。私ももっともなことだと思います。特に、学級経営の中で、仕切り屋をいかに育成していったらよいのか。現在、恐らくどの学校でも、学級経営において、子どもたちの生活を一番高めやすい単位として、学級の中に班というグループ(4人〜6人程度)をつくり活動しています。学級の目標の実現のために子どもたちは、いろんな仕事を生み出し、各班ごとに役割を持ち、さらに、班の中で具体的に分担して活動しています。このような活動の中で、リーダーシップとフォーローアップ、集団生活の中で自己の生かし方等を学んでいます。学級経営で、仕切り屋をどのように育てていったらいいのか、お話をいただけたらありがたいと思います。

○  仕切り屋の概念規定は難しいんでございますが、簡単に言ったら、8名から12名の人がいたときに、言い出しっぺ。例えば誕生日パーティーがあったときに、「おい、サッカーをしようぜ」とか、「なわ飛びしましょう」という言い出しっぺがいなくて、お父さんが「遊ぼう」と言ったら子どもは遊ぶんでございます。だれかが言ってくれると、ついていけるような能力はございます。例えば、小学校の3年生、4年生で、休み時間にサッカーをやっております。その場合に、よく見てみますと、シュートの練習ばかりやっているんです。キーパーをすぐ決めて、例えば七、八人がボールをけっています。普通ならば、当然、Aチーム、Bチームに分けて、試合をしてもいいんですけれども、Aチーム、Bチームに分けるときに、必ず文句が出ます。あの子が欲しいとか、かの子が欲しいとか。文句が出て、チーム分けするのに5分か6分かかるそうです。そうすると、休み時間が減ってくるものだから、ついチームでゲームをしなくて、個人プレーの練習ばかりするというのが、例えば小学校レベルで見られます。
  例えば、自然教室で飯盒炊飯の班を決めます。4名ぐらいの場合は、班長とか、副班長を決めやすいんだけれども、8名から12名になりますと、体験しておりませんから、班長が決まってこない。ですから、6年生の自然教室に行くときに、班を決めて、班長を決めてこいというと、みんなシーンとしてなかなか決まってこない。そこで、先生が決めてあげると活動できる。自分たち自らがある集団の中で役割を決めていく練習をしていない。
  これが言うならば、学級で申しますと、学級経営でやらなければいけないんですけれども、学級経営の班というのは、生活班、学習班というのは、大体4名から多くて5名でございます。学級代表というのは35人から40名の代表でございます。この班長とか、委員長というのは、教師の都合でつくった班構成であります。そうすると、いい教師がいて、指示されると活動できるんですけれども、教師がいないときの活動、例えば掃除時間というのがございます。掃除の場合、大体8名から12名でやりますけれども、まず掃除ができませんね。教師がきて初めて掃除活動ができる。
  そういう意味では、私が今提案しているのは、学校社会の中で、教室以外のところで8名から12名の集団を体験してほしい。それが例えば掃除の時間であり、自然教室の飯盒炊飯の班かと思っております。こういうことは、きょう申し上げました第  I  期、第  II  期では、少なからず男たちは地域社会で体験している。異年齢の集団で体験している。ですから、  I  期、  II  期の学校は、学校でそういう場面を用意しなくても、読み書き算数をやっておけば、何とかなっていた。言いたいことは、  I  期・  II  期と  III  期・  IV  期は違う。  III  期・  IV  期は、これまでのヒアリングにもございましたけれども、いわゆる少子化とか、地域社会の遊び集団が消えてきたというレベルで、今の小学生、中学生、高校生、大学生が、中間集団規模の遊び集団を体験していない。小集団の二、三人の遊び体験はしております。この辺の混同をしないでほしいと思います。

○  アメリカという国と日本との大きな違いは、アメリカというのは家庭のパーティーをよくやるわけです。これはポジティブな面が多いように思うんです。私、ニューヨークの郊外に住んでおりまして、我々の近くの人は、大体ニューヨーク市に働いている人です。子どもができますと、大体みんな郊外に住むということです。本当にアメリカの家は大きいんですが、あれは何のために大きいかというと、実はパーティーをするため以外の何物でもないわけです。大人のパーティー、それから子どもたちを集めるパーティー、子どもたちのバースデーパーティーですね。アメリカの映画なんかを見ますと、よくバースデーパーティーが出てくる。アメリカでバースデーを盛大に祝うというのはやはり、個人を大事にする国だからだと思うんです。
  もう一つは、昔からアメリカの学校は土曜日は授業をやっておりませんが、土曜日というのは子どもにとって最も大事な日です。というのは、土曜日の午前中はほとんど全員が学校に行きまして、スポーツに興じます。学校が遊び場になるのです。
  日本に帰りまして、確かにパーティーにはしょっちゅう出るんですが、実は家庭のパーティーといっても、日本ではだれも家へ招待してくれませんよね。やはりファミリーのパーティーをもう1回見直す必要があるように思うんです。というのは、子どもたちの同級生を集めますと、親もみんな顔を知っているわけですから、いじめというようなこともしない。
  それから、仕切り屋という話ですが、アメリカ人というのはみんな仕切り屋になりたがる性質があります。日本人はなるだけ仕切り屋になりたがらない性質でありましてね。アメリカという国は個人主義的ですが、かなり仕切り屋の多い国なんです。今、お話を聞いていまして、大変対照的でおもしろいと思いました。私の家でやったパーティーというのは、私の子どもたちが行った学校関係の友人のパーティーと、それから私の同僚、その他のパーティーというのはよくやりました。こういうものは、日本の家もだんだん大きくなってきたようですから、やってもよいのではないかとちょっと考えました。

○  大変興味深い御指摘で参考になると思いますけれども、シングル・エイジ教育のすすめというのは、これは結局、ここにある1年、3年とか、4年、6年というのを分けて、例えば休み時間とか、そういうものをつくるということなのか。つまり、一律に小学校というふうに切るのではなくて。その辺のこと。
  もう一つは、教科指導と道徳の時間というのは、確かにそうなんですけれども、例えば地域の人で道徳をやるというと、それはいつも子どもに監視されて、ふさわしくない行動が監視されるということもあるかもしれないけれども、学校でやる場合、先生と同じように、まじめに子どもたちが話を聞くかどうか。つまり、別の権威づけがちゃんとできるかどうかですね。日本の社会の場合だと、学校の先生だから点数にも関係するし、聞くけれども、地域の人が来て話をすると、あまり熱心にならないというようなことがあるのではないかと思うんです。その辺、これまでの社会システム全体でというのは私は重要だと思いますけれども、社会システム全体の中でどう位置づけるかということですね。それについてどういうお考えがあるかお聞きしたいと思います。

○  シングル・エイジというのは、ゼロ歳から9歳までを視野に入れたい。だから、大体3年生ぐらいまでを一かたまりに考えていきたい。それから、4年生以上の生活のありようといいましょうか。今までは幼稚園と小学校は切ってまいりましたよね。年長さんと1、2年生というのは、同じような行動様式をとります。だから、3年生ぐらいまでを一つの、まさに幼児期といいましょうか、そういうスタンスで考えていきたい。

○  それは6・3・3制というようなこととは違ったシステムを導入するというわけですね。これは制度に適応しなくてはいけないということでしょう。

○  はい。ゆくゆくはそういう子どもたちの発達のありよう、認知行動のありようを考えていきたいというのが1点でございます。もう1点、道徳の時間に地域の人材を活用する場合、権威づけがないということですが、私の狭い経験で申し上げますと、逆なんでございまして、先生方の道徳の授業の在り方というのは、最近はやっておりますけれども、テレビを見るとか、ちょっと資料をやるとか、大体答えが見える授業展開が多いんでございます。優秀な子どもは手を挙げますけれども、白々しい風景がありまして、困っている。
  そこで、先生方が教科指導と道徳の時間の発想を変えてほしいんですけれども、教科指導というのは序列をつけますよね。序列をつける先生が、道徳の時間でまた序列をつけられると、子どもたちはこれはまずいからやめとこう、これは評価されたら困るとかということになりがちです。全部ではありませんけれども。そこで、教科指導のありようと、道徳の授業のありようの発想を変えてほしい。
  前回も申し上げましたけれども、教員は免許を持っておりますから、地域の人材、例えば道徳の時間にはあの方がいいということがありますね。かなりいい方をお呼びしないと、先生がおっしゃるように白けちゃいます。遊びになってしまいます。道徳の時間は、教師はプロデューサーになってほしいんです。教科指導ではディレクターでいいんですが、特別活動とか、道徳の時間では、プロデューサーで全体の責任を持つけれども、具体的な授業展開では地域の方に活躍していただいて、子どもたちに熱中してもらうという構成であります。

○  生活空間の三つを非常におもしろく聞かせていただいたんですけれども、その後の提案とのつながりはどうなっているかということをお聞きしたいんです。
  例えば、第  III  期、あるいは現在もこういう生活空間なんだろうと思いますが、道徳というのは、いわばあかの他人の世界での行動倫理を身につけさせる。身内とか、世間というのは、家庭とか、あるいは地域の生活の中で、それこそごっこ遊びとか、野球ゲームとか、こういうことで今までは言われてきたと思うんです。ところが、今、仕切り屋というお話になりますと、身内あるいは世間という空間の中での行動の仕方も、子どもは学ぶ機会を失っているというお話なのかなと、非常に悲観的にお聞きしたんですけれども、そのあたりを。

○  要するに子どもたちの中に世間がなくなってきた。だから、家庭で、「世間体が悪い」という言葉も消えてきたし、世間というのがわからない。簡単に言ったら、高校生が下校時にたばこを吸っていて、だれかに出会ったときに、たばこをパッと後ろに隠すというのは、世間があるから隠すんですね。下校時にたばこを吸っていて、大人が来てもたばこを吸っているというのは、これはあかの他人の世界だ。それが地域社会でもある。
  私が言いたいのは、教室というのはある意味では身内であり、世間であったのが、学級自身が一部の子どもにとってはあかの他人になってきている。いじめという現象が生じても、「おい、やめとけよ」「もうその辺でいいじゃないか」というのが世間だと思うんです。そのような言葉かけをする人がいない。せめて学級とか、学校は、世間であってほしい。こういうルール規範があるんですよと。そういう意味では、学校社会の世間を開くのとパラレルに、地域社会での世間も広くしてほしい。だから、突然、あかの他人から出発するということです。
  私に言わせれば、欧米はあまり深く知りませんけれども、欧米はあかの他人から出発して、世間をつくっていくんだと思うんです。日本は身内から世間をつくって、あかの他人に出ていくという発想があったと思うんです。アメリカの場合はみんなあかの他人ですから、それでパーティーを開いて仲間をつくっていく。そして、ルールをつくっていく。そのルール学習ができやすかったという感じはしております。

○  どうもありがとうございました。
  ただいまお話がありましたように、日本の行き方に欧米の行き方が入ってきて、その二つの行き方をどういうふうに持っていくかということで、非常に難しいことが起こってきているなと私も感じました。
  今後のスケジュールを申し上げます。資料8でございます。
  1月の日程につきましては、とりあえず2回の会議を予定しております。
  年内の会議につきましては、既に御案内のとおりですが、次回会議あたりで、これまでの意見を事項別に箇条書きのような形で整理したメモ、「論点整理メモ」をお示しすることになると思います。
  また、1月の会議については、専ら「論点整理メモ」について集中して討議を行うことといたします。
  ヒアリングにつきましては、1月以降も適宜、例えば早期教育の現状や、有害情報をめぐる問題などに関して、引き続き実施することになる見通しであります。
  次回は、12月5日、金曜日、13時から、霞が関東京會舘、ゴールドスタールーム、35階です。よろしくお願いいたします。


(大臣官房政策課)
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