1998/2 議事録 |
今後の地方教育行政に関する小委員会 (第10回)議事録 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
地方教育行政に関する小委員会(第10回) 議 事 録 平成10年2月9日(月) 13:00〜15:00 霞が関東京會舘 35階 ゴールドスタールーム 1.開 会 2.議 題 今後の地方教育行政の在り方について 3.閉 会 出 席 者
○ それでは、地方教育行政に関する小委員会、第10回を開催いたします。 さて、本日は、教育委員会制度の在り方について御討議をいただくとともに、あわせて学校の自主性・自律性の確立、そして地域コミュニティの育成と地域振興に教育委員会の果たすべき役割、そして学校以外の教育機関の運営の在り方について、御論議をいただきたいと思います。 ○ 教育委員会制度の在り方や学校の自律性の相互にかかわることで、これまでちょっと触れられてこなかった問題について、意見を言わさせていただきたいと思います。 小規模町村教育委員会の事務処理体制の問題と、一定規模市町村以上の教育委員会への権限委譲の問題、あと学校の裁量権限の拡大にかかわるようなことをお話しさせていただきたいと思います。 地方分権推進委員会は、従来の「受け皿」論棚上げというのやめて、地方分権改革を進めていく上では自治体側の「受け皿」が必要だということで、第二次勧告でその辺をかなり明確に打ち出しました。また自治省の動きを見ても、町村合併を含めた行政の広域化は、今後、一定程度進むのかなという感じがしています。ただ、これまで以上にそうした町村の合併、行政の広域化が進むだろうと見ていますけれども、それによって3万以下の町村がすべて解消されることはほとんどあり得ないことなので、教育委員会の領域、教育行政の領域で共同処理の問題を少し真剣に考えていかなければならない。それを進めていく工夫とか、方策はもう少し詰めて考える必要があるのかなということを、最近ちょっと考えています。 ただ、その問題を考えていく際に、これまで幾度も小規模町村教育委員会の共同処理の問題については強調されてきたにもかかわらず、思った以上の成果がなかなか上がってこなかった一番大きな問題は、今の制度の中に、そうした共同処理を切実なものとして進めていく上でのインセンティブがないのではないか。当事者に共同処理の必要性を切実に感じさせるような仕組みをもう少し装置できないかと考えています。 例えば、戦後の共同処理の流れを見てみますと、戦後初期に町村合併が一気に進んだ時期というのは、その背景の一つとして、中学校を設置するための行政規模を確保する必要があって合併が一気に進んだと思うんです。その後に、教育委員会の共同設置とか、一部事務組合による共同処理がかなり進んだ時期もあるんですけれども、ないしはそうした機運が高まった時期もあるんですけれども、その背後に何があるのかなと見ると、教職員の広域人事の要求が関係者からかなり強く出ていまして、それプラス研修ですよね、そうしたことの必要性があって共同設置や共同処理が進んできたと思うんです。 そうしたこれまでの経緯を踏まえて、今の小規模町村の教育委員会の動向を見ますと、当事者に本当に共同設置ないしは共同処理に対する切実な要求というものが、少なくとも学校教育領域においてはあんまり見られないような気がするんです。例えば研修一つとっても、別に今の仕組みは市町村が主体となってやるようにはなっていません。基本的には県教委とか、事務所が中心になってやっています。学校に必要な教職員を確保したいという人事に絡まるような配置とか、加配についても、市町村が裁量権限を持っていないで、県とか事務所に、言葉はよくないんですけれども依存していても、何とか学校教育の領域についてはやれるかなと。あえていろんな問題を抱えているような共同処理とか共同設置なんていうのはしなくても、何とかやれてるからいいやという状況があるように、思われます。 今後、町村教育委員会の共同処理化を進めようとした場合、これからの学校の在り方を考えていくと、例えば以下のような点について、一定規模の市町村教育委員会に権限を委譲できないのか。人事すべてというのは無理なので、例えば各学校にどの程度教職員を配置して、そして加配をどの程度するかということについての裁量権限は、一定規模以上の市町村 ―一定規模というのは3万ぐらいがいいのか、どのくらいがいいのか私はわかりませんけれども、そうした一定規模を持っている地方教育委員会には権限を与えてもいいのではないか。自分たちの学校にどのような教師が必要か、ないしはいろんな実践活動をするために加配の先生が非常に貴重になりますので、そうした加配の先生について、一定規模の教育委員会であれば自由に配置できる、ないしは回すことができるという裁量権限があれば、これからの学校教育の在り方を考えると、その辺は地方教育委員会にとってはかなり「うまみ」=インセンティブになるような感じがします。 特に、今回の改革では学級編制の基準設定が市町村の自治事務になるというわけですから、学級編制の弾力化に対応するような教職員の配置、加配について、一定規模以上の地方教育委員会には権限を与えていただけないだろうか。これは共同処理化、行政の広域化についての非常に有力なインセンティブになるのかなと考えています。 さらにもう一つ、学級の在り方というのは、これから例えば総合学習が入ってくるとか、いろんなことを考えると、固定した学級概念ではなくて、学校のいろんな実践とか運営にかかわって、学級自体を必要に応じて適宜組みかえながら、臨機応変に実践活動によって動いていくという弾力化した学級運営が出てくると思うんです。ですから、できれば教職員の定数の方法についても、今は学級を単位として教職員の算定をしていますけれども、それだけではなくて、そうした弾力化する学級に対応できる教職員定数の算定の方法とか等を考慮して、何か工夫していただけるとおもしろいのかなと考えます。 ○ 教育長の任命承認制度の廃止に関して、教育長の任命に際して一定の資格要件を付することの検討が必要であるという議論が、前回までの小委員会でなされたようですが、私も一般論としてはそう思うんですが、具体的にどんな議論があったのか。実際問題とすると、これは何かいい案があればいいんですけれども、大変難しいことで、何か具体的な御議論があったのか、承りたいと思った次第でございます。 ◇事務局 このことにつきましては、現在の国と地方の関係を考える上で、できる限りこれからは地方にどのような職員を置くのか、あるいはその名前をどうするか、その資格についてはどうするかということについて、国のほうが一律に定め、あるいは関与をしていくことが大変難しくなっている状況にございます。しかしながら、一方では、教育長についての一定の資格を担保する必要があるのではないかといったような御意見もございます。その中では、どこまでそういう形で踏み込んで、資格を公定する、あるいは国のほうで決めていくのかという方法、あるいは形態についていろいろ議論がございました。仮に精神論のようなものであっても、あるいは何らかの形で教育長にはこういった人が必要であるということを求められないかという委員の御意見もございました。そんな観点で、抽象的な形でこれを定めるということも考えられましょうし、あるいはまた別途、関係団体においてそういったことについて一定の理解を得ていくようなことを探るという方法もあると思っております。 ○ 幾つかあるのですけれども、教育活動の自己評価の問題についてですが、私の考えでは、教育目標とか、その達成状況はもとより、自己評価も含めて地域住民に明らかにすべきだと思います。もちろん教育委員会には報告する必要があると思いますが、その点についてご留意いただきたいと思います。 また、学校の管理運営組織の在り方について、今後、具体的にどうしていくのかということについては、かなり難しい話を伴うのではないかと思います。もとより、学校運営が校長の責任の下に円滑かつ機動的に行われるよう学校運営組織を整備することが必要だと思いますが、審議をまとめる段階では避けて通れないのがやはり主任制の問題だと思います。現在、主任制が行われてから約20年たつわけですけれども、これについての評価もいろいろあろうかと思いますが、趣旨どおり運営されているところもあれば、全く動いていないところもあるというような状況の中で、現在の主任制をもっと当初ねらったような形のものにするのか。それとも、これについてはいろいろな反対あるいは議論の過程があるわけで、関係者はいわば過去に縛られているといいますか、とらわれているといいますか、なかなか引くに引けないところもあるわけで、これはもう御破算にして、新しい ―それが何かというのはちょっとわからないんですが、新しいこれにかわる校内組織をつくる必要があるのではないだろうかということが1点でございます。 もう1点は、職員会議の問題でございます。職員会議については、これまたいろんな意見があります。私もこの席で何度か発言しましたけれども、いわば学校の意思決定機関であるかのごとくとられて、現実に校長がそれに縛られてしまうといいますか、場合によっては校長が責任転嫁に使っているという状況があるわけで、今議論になっているように、学校に裁量・自主性を持たせ、また校長が責任を果たすという観点からは、そういうことではいけないので、校長がすべての学校の意思決定に責任を負うという体制からも、職員会議の位置づけを ―たしか今、法令で何ら根拠がないように思いますので、むしろ制度上の位置づけをはっきりして、そのことによって、例えば学校内だけでなくて、地域住民にどういう仕組みの中で学校の意思決定が行われたかということが明らかになるという意味もあると思いますので、その点について、中教審としてどこまで踏み込むかという問題はありますけれども、避けて通れないのではないかという気がいたします。 ○ 学校の管理運営組織の在り方についてですが、私ども保護者から見たら、校長先生という立場の方は、学校の職員をまず守ることができる人だと私は思っておるわけなんですけれども、それがなかなかできない状況にある。人事権とか、予算案の権限もないところに置かれている立場であって、不安定な立場にありながら、最高責任を負いながらまとめていかなければならないというところ。それから、先ほどありましたけれども、職員会議ということで、あたかも学校の方針のように固められていく。そういうものに対して、学校運営組織というものの中で、改めて別の地域の力などもかりながらまとめていくというような方向をとっていくのが、これからの形としてはベターなのではないかという思いがあります。 それにしても、あまりにも校長先生の任期が非常に短い。単年度の中で物事を機能させていくということには非常に無理があるのではないか。そういうものを生かすためにも、校長先生の任期、一つの学校での在任期間に対しても責任を持った期間を与えられるようなことでないと、ただ物事が大過なく過ぎていけばいいというようなことであれば、今のままでよろしいのかもしれませんけれども、さらに進んで物事を進めていくということになったら、在任期間の問題ももう一度見直してもらわなければならないのではないかと思っております。 ○ 今のお二人の発言に関連することでありまして、これから各学校がゆとりを持って主体的に特色のある教育課程を編成、実施していって、新しい教育課題に取り組んでいく条件整備をすることが重要だと思います。 それに関連して、学校管理規則等の見直し、あるいは承認・届出・報告の整理縮小などの法令あるいは規則面での見直しもあるわけであります。しかし、いわば慣行として学校と教育委員会との間でさまざまな事項について報告が求められている、あるいは承認を必要とする事項があります。そのような実態面から、事務のスリム化の点からも見直しが必要ではないかと1点思うわけであります。 もう1点は、学校が主体的な教育活動を展開するためには、よく我々は耳にするわけでありますけれども、校長先生も先生方も、最近、多忙感ということを口にされることが多い。また、実際に非常に多忙になっている面があります。その点の条件整備を今後する必要がありまして、その面では、規則面での見直しもありますし、あるいは教育委員会あるいは関係機関との関係の見直しもございます。 もう一つ、あまり表に取り上げられない問題として、例えば校長会であるとか、教育研究団体などの活動に伴って、さまざまな会合があって、そのことがまた一つ多忙感に結びついている点もあるのではないかと思うわけであります。当然のことですけれども、校長会とか、あるいは教育研究団体等の活動は極めて重要であり、そこでの会合等も十分必要なわけでありますけれども、そのことがもし校長先生や先生方が子どもたちと触れ合ったり、あるいはゆとりのある教育活動を展開することにかかわっているとするならば、その面でも、例えばそうした会合の開催の頻度であるとか、あるいは活動の内容等について精選する。そして、趣旨としては、今申し上げましたように、学校がゆとりを持って教育活動が展開できるという方策についても検討していただきたいと思います。 ○ 学校の自主性・自律性の確立に関してですが、私はこれからの学校経営といいましょうか、教育活動は、学校外とのかかわりが今以上に重要視されてくるというとらえ方をしています。その中で、学校の自主性ということで、私は基本的に二つの見方をとっております。一つは、教育活動はまさに校長の責任である。それから、環境条件の整備として財政とか、あるいは住民との関係は地教委の仕事かなととらえております。 そこで、学校の自主性・自律性というのはどこまでかというあたりですね。例えば、先ほど御指摘がありましたけれども、教育活動を進めていくとなりますと、人とカリキュラムの問題が当然大きな課題になってくると思います。小規模の事例が先ほどから出ておりますけれども、小規模化していくと、現行の体制では、中学校の場合などは学校の規模によりますと全教科をそろえられない状況も出てきます。そんなときに、子どもたちに多様なメニューを用意したいと思ってもできない。しかし、校長あるいは地域の保護者の方々の期待でもって、こういうメニュー、こういうカリキュラムにしてほしいといったときには、それなりに人の保障も必要でしょうし、あるいはその他施設等の条件整備も大事になってくるのではないか。ですから、学校の自主性・自律性といっても、どこまでを想定してこの委員会でまとめるのかということが出てくるのではないかと思います。まさに学校あるいは地域の要望にこたえる形ですべて準備するとなりますと、カリキュラムと人の問題でもっていろんな問題が出てくるのではないかと思います。 もう一つは、学校外との関係ですが、中教審の第一次答申でも出ておりました地域教育連絡協議会、あるいは地域教育活性化センターですが、私が恐れておりますのは、特定の団体の声が入り込んできた場合、学校経営との兼ね合いでどうバランスを取ったらいいか、あるいはそのバランスを取るのはだれなのかということです。 ○ 学校運営組織のことについて、今までと違う学校運営組織がどうなるのか、これが私は一番関心のあるところであります。御指摘のあったような職員会議に関しても重要なことだと感じております。 ○ 幅広く校長や教頭の適材を確保するための道を開くということで、これはただ教員から教頭、教頭から校長になるということではなく、今後それぞれの学校が地域住民の意向を受けて経営をしていくんだということで、心を引き締めていかなければいけないという感じで、それだけにやりがいも出てくるのではないかと感じております。 学校が教育目標を明確に設定することについては、一つは学校の教育目標というのは、大まかなものがございます。大体5年あるいはそのぐらいのスパンの中で、こういう子どもに育てたいという。それで毎年毎年、達成すべき細かい方針を立てますから、それらのことが達成状況として、保護者あるいは教育委員会への報告になっていくのかなと思っておりまして、この「教育目標」という言葉、あるいはそれにかわるべき何か達成目標といいますか、そのようなものを考えていく必要があるかなと思っております。 教員以外の専門性を有するスタッフの活用については、今後、さまざまな人が学校の中に入ってくることによって、我々の意識も変わってくるでしょうし、また今後学校が進んでいく道もできていくかなと思います。これからさらにさまざまな人材が用意されていく中で、本当に子どもたちに合ったといいますか、それこそ40人いれば40通りのカリキュラムをつくって、その中で共通の基盤をつくっていかなければならないかなと思います。最近読んだ資料の中で、クリントンさんが、今年度のアメリカの教育目標で、1学級を18人にまで下げて、その中で基礎学力をということで、教員を10万人採用するというような、これは各州ごとにお願いということのようですけれども、そういう明確な目標が出てくる国柄なんだなと思いましたが、我々もそういう学校の達成目標をそれぞれに考えていかなければいけないと考えております。 ○ 最近、栃木県の黒磯で起きた女教師刺殺事件のもとで、学校なり教職員が自信を喪失しているというか、やや戸惑いぎみで、これからどうするかということについて、今、必ずしも確信を持てているという状況にはないと思います。それなりにみんな努力をしているんですけれども。そういう意味で、学校の主体性・自律性を強めて教職員が協力して取り組んでいくという方向性については、私は基本的にこういう方向でいいだろうと思います。 一つは、学校が調和のとれた、しかも活力のあるといいますか、子どもも教職員も生き生きとして学校へ来れるような状況にいかにしてするかということが、今、国民から一番問われていることだと思います。その場合に、校長の責任のもと、すべての教職員が校務を分担している。しかし、現在の欠陥の一つは、必ずしも全体がその学校の教育課題についての情報を共有しきれていない。学級王国的に自分のクラスのことは自分で責任を持つんだということで、いろんなトラブルが起きても、全体の職員会議に必ずしも出されないというのが一つあるんです。これはだれの責任というより、教職員自身が自己防衛的に走りがちになって、その辺のところは教職員自身が意識を変えて、全体の学校の問題として相談をして、善後策を協議するという雰囲気に変えていかなければならないと思います。 そういう意味では、学校を経営管理的な側面と授業を中心とした教育活動の教員を中心にした組織と、そしてスクールカウンセラーとか、学校栄養士とかを含めた専門スタッフの三つの領域に分けて、しかし分けながらも相互にそれが連携をしていくような校内組織をつくることについては、基本的には私はそれでいいのではないかと思っています。 そのときに、職員会議というものは明治以来、大学を除けば、大学には教授会というのがありますけれども、それ以外の高校以下については、教員組織のそういうものについては一切の定めが、規則等も含めて ―二、三の県で、県の管理規則の中にあるようですけれども、全国的にはないわけです。したがって、この機会に、いわゆる最高の意思決定機関であるとか、いや諮問機関であるとか、いや補助機関であるとか、そういう法律的な論争ではなしに、実質的にこれだけ課題が山積している学校現場ですから、本当に校長さんを中心にして、全体の教職員が教育問題についての認識を共有できるように話し合いをするといいますか、協議をする場ということで、きちんとそれなりの、学校教育法の施行令でいくのか、施行規則でいくのか、その辺の専門的なことは譲るとしても、何らかの位置づけをしたほうがいいのではないか。全体として学校外の有識者の意見等も参考にするようなシステムをつくるとすれば、学校の中の校長を中心とした組織体としての意思をどのように決定していくかということを明確にしておかないと、学校外から「それはどこでどういうふうにして決まったのか」と言うと、「いや、職員会議です」「職員会議というのは何かきちんとした根拠があるんですか」と言われれば、必ずしも根拠がないということです。その辺のところは、表現をどういうふうにするかというのは相当慎重な議論が必要ですけれども、私も職員会議をこの段階で、戦後50年もたっていますし、きちっとした位置づけをしたほうがむしろいいのではないかと思います。 それから、主任制については、過去の20数年の制度は御破算にする。そして、もともとは人材確保法案の財源の問題とも絡んできた話なので、やっぱり主任制は一旦、今の省令主任というものを廃止するぐらいの覚悟で、そして新たに、どうやれば本当に教員がそれぞれ自分の仕事に応じて生き生きとして、しかも調和がとれるか。今、全体的に教員の処遇改善もこういう財政状況でままならぬ状況ですけれども、処遇改善の面もあわせて抜本的な見直しをするということの、何らかの芽を中間報告という中で出せれば出す。しかし、あまり無理して全体の合意がない中で出しても意味がありませんから、ですから、その辺のところは慎重でいいと思うんですが、そういう意見を持っていることをこの機会に申し上げておきたいと思います。 それから、校長の任用資格等の問題で、「一日中教審」のときにも、民間からの登用ということについて、大阪の高校の先生からそういう意見が出ました。そのときに、私も若干の意見を申し上げたんですけれども、発想自体は、外からの空気を学校に入れるという意味ではいいんですが、そうかといって、何らの条件なしにやみくもに民間から入れるということが、実態としてなじむのかどうかという点について、私もやや危惧をします。これは相当慎重にやらなければならないし、実際問題として民間の方が、私立学校等の場合はそういうケースが非常に多いんだと思いますけれども、公立学校の場合に民間からの登用については、一定の教育経験か何か持っていなければ、民間会社の経営と学校の経営は必ずしもイコールで結びつかないので、そこのところは慎重にすべきだということを意見として申し上げておきたいと思います。 それから、教科書採択の問題です。今、採択はかなり広域化しているんですけれども、学校が本当に主体的にカリキュラムをつくって特色のあるものとするとすれば、カリキュラムと教科書は密接なつながりがあるので、教科書採択は、特に分権推進委員会の勧告に基づき、全県的な統一処理がなくなるということであれば、今、かなり拡大していますので、私は理想論としては学校採択、小・中・高等学校採択という主張を持っていますけれども、一気にはなかなかいかないので、原則として市町村単位に採択をするというふうにして、そして見本本の規制とかそういうもので、採択に一般の教職員が十分関与できるように、この機会にシステムを見直すことが必要ではないかということを申し上げておきたいと思います。 ○ 学校の問題について、それぞれの委員から既に出ているので、重複を避ける意味で、実情がどうなっているのかということを申し上げたいと思います。きょうは、3点についてそういうことを発言させていただきたいと思って参りました。一つは、校長が不在であるということ。それから職員会議の話と、主任の話の3点です。 まず、校長が非常に多忙だという話で、実は私も中堅クラスの校長がどんなふうに忙しいのか、個人的にいろいろと調べてみますと、今、学校は正確に220日、スクールデーズがあるわけですが、220日のうちに何回ぐらいいろんな会議で外へ出ているかという調査を小・中・高でやってみたところ、年間150回ぐらい出ているんです。もちろん一、二時間で終わる場合もあれば、半日、一日、特に研修の場合は泊まりがけで2日という部分もあるんですが、非常に目につくのは、子どもたちが学校にいる間に会議が始まって、そのまま学校に戻らないという状況があるわけです。その一端として、教育委員会がそういう会議を招集するような場合は、十分反省しなければいけないんだろうなということで、私どもでは先生方にお集まりいただくのは、午後3時以降にという原則を持ってやっているんです。 ちなみに、それはどのくらいかといいますと、教育委員会が招集するのは、先ほど150回ぐらいと言ったんですが、60ないし70回ぐらい、その半分ぐらいを教育委員会がいろいろなことで招集している。中にはどうしても校長に聞いていただかなければならないような人事異動の説明であるとか、予算の説明ということもあるんですが、そのほかにもいろいろとある。問題は、校長会の事業ですとか、任意団体の研究会等が、それと同じくらいあるわけでして、こういうのは子どもたちが学校から帰った後に会議をするようにしたらいいのではないかということを具体的に思っております。 ちなみに、PTAとか、地域の関係では、これは正確ではないんですけれども、3分の2ぐらいは子どもたちが帰った後、あるいは土曜日にやるということを聞いておりますので、少しそういうことをしないといけないのではないかと思うわけでございます。 それから、職員会議です。先ほど、これを考え直したらどうだというか、実質的な協議のできる場に、あるいは法律できちっと書いたらどうかということがありました。私、最近、新聞でも出た事件なんかを見ておりますと、職員会議でこう決まったからという責任転嫁の部分と、今そういう言葉は適さないのかもしれませんけれども、職員会議こそが学校の意思を決定するんだということが言われておったり、ある場合では校長がそういうことを言ったりするということで、大変問題があるのではないかという気がしております。 問題があるのではないかと言うのは、保護者の方も職員会議というのは学校の意思を決める機関であるという御理解がかなりあるわけでして、校長が必要で判断しても、それは校長が横暴だという話が耳に入ってくるわけでして、そういうところをきちっとすることが必要ではないかと思います。 それから、主任の話が出たわけですが、全部が実態どおりかどうかは別にしまして、例えば月番制であるとか、主任というのはだれそれと報告があるわけですが、例えば教務主任なら教務主任が1年ということではなくて、本当の教務主任と言うと語弊があるんですけれども、そういう主任がいて、あとは月番か、日がわりということはないんでしょうけれども、そういうような実態があるわけです。先ほど、主任というのはきちっと決める必要があるのではないかという話もありましたが、私はそれは大いに賛成でして、学校は管理職というと教頭、校長という形になっているんですが、せめて教務主任ぐらいはきちっと位置づける必要があるのではないか。みんなの互選で、あの人はおとなしそうだから、みんなの言うこと聞くだろうなんていって、主任をもし定めているようなところがあるとすれば、それはやはりこの際御破算に戻して、新たにという必要があるのではないかということを考えておりました。 ○ 先ほども議論になっておりましたが、教育長の任命の際の一定の資格要件についてでございます。教育委員会が中立性を確保するための行政委員会であるという観点から、その意味のきちんとした担保を取っておくべきではないかと思います。同時に、専門性ということで、例えば教職員の免許を持っているかどうかということは、これからの教育行政においての立場から言えば、それにこだわる必要はなく、もっと教員と違う視点が必要であります。したがって、教職員免許の資格は必要ではないと思っております。 今、主任制の問題が出ましたが、学校の自律性とか、自主性はこれからとても重要ですが、それが成立していくためには、学校が組織としてきちんと機能し、確立していることが前提条件として必要でございます。長い間の主任制闘争は、管理職を認めないという闘争ですので、そういう中で育ってきた管理職のこれからの在り方はかなり厳しいものがあるのではないかと思っております。今、月番とおっしゃいましたけれども、輪番制のような形で、主任制を機能化させないという運動もなお依然と続いているところもあります。そういう意味では、学校が自主性・自律性を確立して、これから21世紀の教育を担っていくときに、戦後50年の今までのことをきちんと総括し、学校が地域に信頼される組織として機能していくことが必要だと思っております。 私どものところでは、この問題について、部活動や年度当初の学校運営にPTAが大変憂慮しまして、クレームをつけました。民間の企業ではあり得ないということで、教職員組合とPTA役員との話し合いもあり、教委との共通の時代認識のもと主任制闘争はおろすということに数年前になったわけです。しかし、県レベルでは依然として厳しい状況になっていることも事実でございます。 そういう意味で、幅広い校長や教頭の人材確保でございますけれども、一つの例として、今、都道府県や市町村で、職務経験者を中途採用しております。私どものところも昨年からしましたが、Uターン組を含めて、よりいい人材が確保できる地方レベルの具体的な方法でもあると評価されております。教職員人事にかかわっても、このようなことがもう少し幅広くできないかと考えております。 なお、校長がこれから大きな権限と責任を有する中で、学校においては単に教職員だけでなくて、事務職、校務士、養護教諭、栄養士というそれぞれ多様な職種を人事管理していくという視点が、校長に強く求められていく資質だろうと思います。また、財政面では、事務職の方がほとんど仕切っているのが実態でございまして、校長はお任せというのが現実であります。そういう中で、校長が財政面についても責任を持つというときに、校長の任用、それから研修、育て方について、きちんとした考え方とそういうシステムをつくっておかないと、事務職はせいぜい一人と、市で採用した事務補助員であり、ほとんど一人が実質的にはお金を任せられているという学校で、予算執行等面についてきちんとしたシステムを持つこと。そして、校長がそのことに具体的な指導監督ができるかどうかということがポイントになると思います。今でももちろん校長の指導監督下にありますが、現実には校長に聞いてもわからないというのが大半の場合でございまして、その点をしっかりしておく必要があるのではないかと思っております。 また、教諭、教頭、校長という昇任制度、いわゆる身内人事を繰り返す中で、前述したような管理職を登用することは難しく、そういう意味でも、先ほど申し上げましたような、もう少し人材を、今までのルートを踏まえながらも、職務経験者とか、中途採用とか、幅広い人を採用し、そういう人を育てていくことができるような柔軟なシステムも必要ではないかと思っております。 また、学校に地域の方たちがボランティア等で入るということについてですが、私は賛成でございます。私どもでは小学校で、ゆとりの時間を使いまして英語活動をしておりますが、90人近いボランティア・スタッフがそれにかかわっております。何が一番変わったかと申しますと、学校の先生です。具体的に自分の活動の中に入っていただくことによって、謙虚に、そしていろんなことを学ぶことができたという評価がありました。いろいろな方が学校に入り教育活動を担っていくことは大変重要ですが、それを統括する校長の責任も大変大きくなってくるかと思っております。そういう意味では、校長に権限を与える中で校長がボランティアスタッフや非常勤等をある程度を任用できるようにと思っております。 なお、学校の経営責任の明確化と自主性・自律性の確立は、今回の一つの大きなポイントではないかと思います。説明責任と結果責任をきちんと学校が地域に対して担っていくことを明言化されるほうが、よりわかりやすいのではないかと思っております。 ○ 市町村の広域連合についてお話しさせていただきたいと思います。 私どもの町のある郡は8市町村あるわけですが、そこの教育長会議が先般ありまして、広域連合とか、一部事務組合といった観点で御意見を伺わせていただけないかというお話をいたしまして、実は12日にその御意見を伺うことにいたしました。社会教育と生涯学習という形では、前から申し上げておりましたように、教育委員会の職員の人事交流及び生涯学習の事業なんかは連携してやれるわけでありますが、教職員の配置とか、加配といったものを、郡の広域連合のほうに任せていただけると、その郡の個性に合わせた教育が可能になるのではないかと考えたりもいたしております。そのことが第1点であります。 それから、学校に対してボランティアバンクというお話が出ておりましたが、私どもは生涯学習というのは学校教育も含めてと思っているんですが、それは教育委員会の考え方で、意外と学校は生涯学習は教育委員会でやればいいのであって、学校教育は生涯学習と関係ないということで、私ども一生懸命片思いをしているところがあるなという感じがいたしております。そういった意味からも、学校でボランティア活動をいろいろやっていただくことも、必要だと思います。学校の先生方が実際福祉体験とか、農業体験といったものを、自分たちがやらないで子どもたちに指導するというのではなくて、先生方も実際に特養に行ったりして福祉の体験をするとか、子どもたちと一緒にはだしになって田植えもするといった体験も必要なのではないかという感じがいたしております。 ○ これから校長の権限を拡大して、それとあわせて責任を拡大していくということ、またそれによって教育活動等が評価される、これは非常に大事なことかと思います。 ただ、その場合に、校長による自己評価を教育委員会へ報告することはもちろん大事ですけれども、今までのいろんな御意見等にありましたように、学校外の有識者等の参加を得て、学校経営に対していろんな意見を聞くための恒常的な組織といいますか、これが各学校にきちんと設けられていくことは大事なことです。第一義的にはそういったところへ説明責任を持つことが大事ではないかと思っております。それは教育目標や学校の教育の成果、あるいは評価等々を説明していく責任を持っている。また、そういった組織が学校に対していろんな面で支援していく。場合によっては、いろいろと注文もつける外部評価する組織が恒常的に設けられていく必要があります。 それから、今、いじめ等々の調査が国とか、教育委員会から学校へ出されてくるわけですけれども、その場合も、単に国、教育委員会、学校、そしてそこで学校がいろいろと調べて、それをまた報告するというだけではなくて、そういった恒常的な組織というところにも通して、学校、そしてそういった組織を含めて、責任ある回答を国や教育委員会にきちんとフィードバックしていくことが第一義的に大事かと思います。 それから、先ほどの研修等でありますけれども、例えば教育委員会に現職教員のための総合教育センター等がありまして、そこで教科やいろいろな研修等が行われておりますが、研修そのものは非常に大事ですけれども、最近は夏季休業とか、そういったところをよく使っていますが、ほとんどの総合教育センターは土曜日は皆休みになっているわけです。しかし、これから完全学校週5日制になったときに、教科の研修といって2時から5時まで、センターとか、いろいろなところに出ていくことがそう頻繁にはできにくいときに、これから土曜日の ―社会教育施設はみんな土曜日にやるわけですから、そこでの業務は当然考えなければいけませんね。そういったところをやはり開いていく。そして、そういったところで研修をどんどんやってもらうということもあわせて考えていただきたいと思っています。 ○ 一つは、教育委員の選任の問題です。これは繰り返しになって大変恐縮ですし、この場で少数意見であることは十分わかっているんですけれども、たぶん教育関係者ではジャーナリズム等々が、中教審の現在の動向をどこに焦点を持ってとらえているかというと、一番大きいのは教育委員の選任方式が変わるか変わらないか、たぶんここに一つ大きな焦点があるような気がしているわけです。 前にも申し上げましたように、ヒアリング等も含めて、現在の首長の任命制は大きな枠として残すべきであるという意見が大変強いのは十分わかっているんですが、さらにその中にもう一歩踏み込むことはできないか。例えば、ここではちょっとあいまいな表現になっておりますけれども、私個人の意見ですけれども、少なくとも市町村段階においては多様な実態があるということを踏まえたときに、最終的な責任は首長に残すとしても、各自治体の中で多様な選択肢ができるような法の規定の仕方ができないものだろうか、こういう意見を持っています。繰り返しになりますけれども、強調をさせていただきます。 もう1点は、教育長のかかわりの問題で、これは私は前に御意見を申し上げたつもりがあったんですが、もちろん教育長の任命承認を外すに際しまして、ここに出ていますように何らかの資格要件といったときに、かつてのような免許制度はたぶんなじまないだろう、私もそう思うんです。 単なるこれはアイデアですけれども、かつて申し上げましたことは、国立の養成系の大学院を使えないか。御存じのように、すべての府県に整備されていますし、私も含めてですけれども、教育行政、学校経営を担当しているのは最低1名いるわけです。今のこういう状況の中で、例えば最低4単位とか、6単位を研修的な形で、これは同時並行でもいいと思うんですけれども、そういう何らかの形で、外に向けての職務上のいろんなものをチェックするような接点を制度化できないかという御意見を申し上げました。 それとあわせまして、専任化の問題で、これは協力者会議のところでいろいろ意見があったと思いますが、小さな町になりますと、教育委員の手当というのは月額で1万円とか2万円である。1回来て8,000円という話もあったと思います。結局、重複して外せるのは8,000円とか1万円という金額になるわけで、あまり現実的な話ではないだろう。理念的にすっきり専任化させるという場合に、私は小さい町村ほど専任化すべきではなかろうかという意見を持っています。といいますのは、小さい町村で、教育委員と教育長が兼務をした場合に、圧倒的な力量の差で教育長の言い分が会議を支配してしまうということがあると思うんです。ですから、小さい市町村ほど専任化を進めていただきたいという気がします。とりわけ、財政上、今言ったように実態にそぐわないではないかという見方をしているわけです。 3点目は、小規模教育委員会及び指導主事の問題のかかわりですけれども、これもヒアリングのところで小さな町村の代表の方がおっしゃっていましたけれども、やはり最低1名の指導主事が欲しいんだという言い方をされています。3,300市町村ありまして、これを例えば国庫負担でその費用を見たら大体200億円ぐらいかかってしまうという話になりますけれども、それはともかくも実際に今指導主事と言われているものは、学校の先生方に対する教育課程とか、教科内容の指導ではなくて、むしろ行政と学校のパイプ役という、いわゆる雑務と言われているものだと思うんです。小さな町村になったら、これに大変大きなウエートがあるだろう。それを何とかすべきだろうと私も思います。それと区別をして、より専門性の高い今言ったような指導部面については、地方の教育事務所の権能として明確にできないか。これをすべて市町村に充実させるというのは、今言った財政の問題から考えましても大変無理だろう。現にほとんどの府県において、小さな町村における指導行政は、地方教育事務所が代替的な機能を果たしているというのが現実論だと思いますから、この辺を整理することが具体的な考え方になるのではないかと思います。 4点目は、学校の自主性をどうしたらいいかというときに、大変抽象的なレベルにとどまっているわけです。そうすると、多くの方がおっしゃったように、お説ごもっともで、自主性を尊重しますということで終わるんですけれども、具体的にどういう法制度的な措置でこの自主性を高めることができるのか、それを一つのターゲットにしていただけないか。 俗に言うところの、いわゆる学校経営のスリーMとか、フォーMという要素をとらえる見方があります。「ヒト」「モノ」「カネ」あるいは「運営方式」ということになりますけれども、そういったものについて、現在、法制度的に日本の公立学校はほとんど自主決定権を持っていない。この問題だと思います。ですから、理念論ではなくて、例えば具体的に人事の問題で、校長の具申権をどこまで内申権との絡みで明定化できるのか。あるいは、前に少し提案させていただいたと思いますけれども、学級編制等で一定の定数措置の上で、学校で極端な場合には20人学級もあれば30人学級、50人学級もあるというぐらいの学校裁量を認めることができないかというような、いわゆるスリーMとか、フォーMに関する具体的な学校 ―これは学校長と言っていいと思いますが ―の自主決定権を法的な形で措置できないという意見を持っております。 同じように、学校管理規則の問題がたびたび出るんですけれども、これも今の地教行法の第33条をどうするのか、あそこで言っているような教育課程云々というところをもっと大まかにする形で自主性を高めていくのか、それとも逆にもっと細かくして教育委員会と学校の関係を明定していくのかというところの論議が必要だろうと思っております。 5点目は、いわゆる父母、地域住民の学校へのかかわりの問題ですが、これもたぶん少数意見だと承知しているんですが、何らかの形で法制的な参加の措置ができないものだろうか。繰り返しになりますけれども、先進国の中で我が国が唯一、この法制度を欠いている実態をどう認識すべきかということは大変重要なことだと思います。いろんな形で先回り的に、こういうことになったらこういった問題が起こるという論議があると思うんですけれども、今の状況の中で親に責任を持たせる ―幼児期からの心の教育に関する小委員会で議論している問題も、私はたぶんそれに焦点があると理解しているんですけれども、今のいろんな問題状況の中で一番欠けているのは、親、家庭の責任の所在が依然として理念論、べき論で終わっているところがあると思います。ですから、参加の問題というのは必ず両面があるわけでして、親や地域住民に参加を求めるということは、それだけの責任を学校教育に対して持ってもらうという、これが法的なやり方になる道筋だろうと思います。そういったことで、一歩踏み込んだ方向づけをこの中教審で出していただきたいと、大変強く期待しております。 最後になりますけれども、主任制、職員会議等々という話が今まで出たんですけれども、そろそろ日本の学校教育の中で、教職員の職務職階制の検討に入る段階かなという意を大変強くしました。これについて、私はまとまった意見を持ちにくいといいましょうか、両方にぶれているんですけれども、例えば免許法が変わりまして、学歴別の免許制度が導入されたということも一つ大きなステップだろうと思いますし、今、多くの委員がおっしゃいましたように、職員会議の持ち方も、これもたまたま文部省の助成をいただきまして、学会を単位としての共同研究をしているんですけれども、明らかになりましたことは、今の職員会議というのは形骸化しているということです。月1回、大抵1時間か1時間半。いろんな学校に対しまして「勤務時間の変形等を使って職員会議をやっていますか」という質問をしたんですが、どこもやっていない。要するに「やらなくて済みますよ」という話なんです。ほとんど予定したとおりピッタリ終わってしまう。逆に言いますと、ほとんど論議がなされていないことではなかろうかと思います。 職務職階制を導入するということは、その意味では、職員会議があることがおかしくなります。いわゆるポジションごとのいろんなミーティングはあったとしましても、全校の教員が対等に集まって何かを決めるなんていうことは職務職階制になじみません。そういった意味で、私は意見がまとまっていないんですけれども、いろんな意味で職務職階制を検討する段階にきたのではないかという気を大変強くしました。主任制は言うまでもなく、職務職階制の中にどう組み込んでいくかという新しい観点の問題だろうと思っています。 ○ 住民と学校との関係ですが、学校の自主性にも関係するのかなと思うんですが、具体的な例を挙げますと、国とか、県、市町村の指定の無形文化財がございます。文化財の保護という中で、後継者の育成が大きな課題になっております。よく祭礼というのは日にちが決まっていて行われる。最近は土曜日とか日曜日にやるようなところもあるんですが、平日ですと、子どもたちが獅子舞なんかを舞うのにも、練習はいつもやっているんだけれども、舞えないということもあります。ですから、そういったときには校長先生の権限で、授業をやめようとか、休んでもいいとか、あるいは学校でみんなでそこへ行って見学するとか、そういうふうにしてもらえればと思うんです。前回申し上げました午後の授業については、個性を伸ばすということから考えると、そういったことができたほうがいいのではないか。また、文化財保護に金は出さなくても、時間を与えれば、文化財の保護、すなわち後継者の育成につながっていくのではないかと思います。 この前、都内のある公園へ行きましたら、草が生えていました。うちのほうだったら、草刈り条例ですぐ刈れと言うんですが、そばへ行ったら、「雑草コーナー」と書いてありました。私は、遊び心の中にも真剣な緑化行政があるのではないかと思ったんです。今、子どもたちが外で遊ばなくなったということからも、学校で遊びの時間を設けてもいいのではないかと思います。 それから、教務主任の話が出ましたが、私はその件についてはわかりません。ただ、今、生涯学習社会で生涯学習を進める上で、学校も大きな役割を果たしているわけです。実は私ども市役所では、各課各施設に一人ずつ生涯学習主任を置いております。学校でも教務主任を削るとか、そのまま置くとかは別としても、ぜひ置いていただけるような法制度をつくっていただきたいと思います。 ○ 中教審の第一次答申からのつながりで考えてみますと、地域に開かれた学校づくりで、保護者、地域の専門家の方の参加というときに、どうも日本型の社会システムの中でやると、危惧する面が幾つかあるかなという面を考えております。特に私はイギリスの地域に開かれた学校あるいは校長先生の裁量権の割とある学校を視察させてもらったことなどを考えあわせて、委員の意見の中に創造的な励ましとか、支援をするという方向に行くようにするためにはどうしたらいいのかというのがあるんですが、例えば学校に専門家に来ていただときに、どの時間を使うのか、全学にするのか、1クラスにするのかによっても、相当対応の仕方が違うはずではないかと思います。ところが、そういった対応の研究、あるいは大綱化されている学習指導要領に基づいて、自分の地域、学校ではどうするかというあたりの視点が今ほとんどないわけです。 そういったことで考えて、私もNGOのグループといろいろとやっているんですが、学校に行くことを生きがいで、教育の方法論、ねらいがどこかへいってしまったような展開をされて、またその後始末が学校の先生にくるというのでは困りますので、もう少しそういった点が考慮されてもいいかなという感じがします。 それから、総合的な時間というのが新しい教育課題に対応して提言されていたわけですが、先生たちを調査させていただきますと、どうも皆さん教科専門という意識が非常に強いんです。どうも教職専門としての意識がないために、横断的・総合的なカリキュラムの展開になると、〈まあ、人がやるんだろう〉という意識の先生が多いような印象を受けました。校長先生がそこでリーダーシップを発揮することが、いろいろ多忙で、それから先ほど会議の時間のことを伺いましたけれども、本当にそこでできるのかなと思います。ヨーロッパなどでは、例えば学級教育ですと、そこにコーディネーターの方が ―これはEUでも共通して、消費者教育などでもコーディネーター的な方がそういった役割をいろんな学校でアドバイザー的に対応している。私は、地域教育活性化センターの意味がよくわかりませんが、そういったところに登録しておいて、コーディネーター的な方がアドバイスしていくことも、これからの仕組みとして必要になってくるのではないかと思いました。 あと法制度的なことは、私も住民参加が必要だと思いますけれども、それが苦情の窓口になってはいけないという思いが強くしております。そういう意味では、イギリスように市民教育がクロスカリキュラムとして、きちんと市民性が育つという前提があるのではないか。これは狭い私の体験から申し上げているのかもしれませんけれども、もう少し時間をかけて、私たちが主体的に参加することがどういうことなのかを、一地域の市民として考えていく必要もあるのではないかと思っております。 ○ 先ほどから主任制の問題と職員会議等の問題がございますが、これも全く私も同じように申し上げようと思ったことでありますが、学校運営組織の中で、特に校長の権限を確立するという観点から、職員会議の位置づけあたりは、場合によっては法的に整備をしてもいいのではないかと思います。 主任制については、なかなか評価がしづらい部分があって、議論がなかなか表に出てこないという部分が実はあります。ここらでやはり主任制の問題をまとめて、学校の組織がまさに動く集団として、学校が機能する集団になるように、現行の主任制度がいい形で機能するような方策について考える必要があるのではないかと思っています。 きょう、一つ申し上げたいのは、それに絡まっての話でありますが、学校管理規則のところで、校長が持っている権限、あるいは教育委員会が持っている権限、あるいは首長部局が持っている権限といいますか、事務委任あるいは補助執行等、学校の場合で言いますと、教育委員会の持っている権限の部分を事務委任もしくは補助執行で、学校の校長の権限として行っている部分がありますが、これはかなり学校に事務委任をさせる、あるいは補助執行をさせる。その意味で、学校管理規則の見直しはやるべきであろうと思います。 それから、教育というのは委託になじまぬという話が実はあるわけでありますが、学校教育、生涯学習、社会教育、いろいろあろうと思うんですが、特に生涯学習、社会教育にかかわっては、委託という状況がかなり進みつつあります。そういう意味では、規制緩和を含めて、法的な整備を図る必要があるのではないかと思っています。一方で、学校教育で委託という言葉はなじみませんけれども、活用ということで、学校外のヒトやモノを活用するという視点で、ヒトやモノを学校に取り込んでいくことはありますが、一方で学校の持っている機能を、活用という視点ではなくて、委託をすることができる部分があるのかないのか。今、「これが委託できますよ」ということは明確に申し上げることはできませんが、幾らか活用しながら、学校外のヒトやモノもうまく利用させていただくといっては表現が悪いんでしょうか、学校の持っている機能、教育委員会の持っている部分を幾らか委託をしていく。委託というのがなじまなければ、例えば委譲であるとか、あるいは少し委任をさせていただくという部分も研究をしてみる必要があるのではないかと思います。以上です。 ○ 先ほどどなたかおっしゃられましたように、確かに校長のところにだけではなくて、地教委と校長にある程度の権限が委譲されて、個性的な学校運営ができるのは大変いいと思うんですけれども、具体的にその権限というのは何なのか。予算権なのか。例えば、学級編制の基準も変わらないで、ただそれだけ言うと、期待が大きくて、現実はそうはならない。実際にいろいろプランを出して、地教委に予算を持っていったところ、否決された場合に、どう説明するのかとか、その辺、難しい問題があると思います。住民のボードではないんでしょうけれども、そことの関係はどうなるのか、もう少し明確に整理していただけるとありがたいと思います。 それから、教育目標について説明せよということで、これはアカウンタビリティーということでしょうけれども、教育の場合はそう簡単にはできず、いわゆる一般行政でやっている説明責任というのとちょっと違うかなという気もいたします。 ○ 一つだけ、アカウンタビリティーの問題はなかなか難しいんですが、やらなければいけないかなと思うことは、透明性の確保ということはあると思います。ですから、自己評価とか、いろんな基準の結果責任というのは、透明性を確保することで保障する。つまり、世の中に公に出すというのは、非常につらい学校も出てくると思うんですけれども、これをやらないとアカウンタビリティーとか、自己責任と言っても、何の意味もないような気がします。日本の文化で、それができるのかどうか。でもやらないと、これは意味がないことになってしまう危険があるような気がします。以上です。 ○ 今回の議論のスタートは、地方分権推進委員会の勧告にあるんですけれども、そもそも学校行政の在り方をずっと文部省は検討していらしたと思うんですが、教育長の任命承認権を廃止することが中核にあるわけです。ですけれども、今までの御議論にもありましたように、多くが意識の変化というのか、実態をどうするかということでやれたかもしれないようなことが随分出ているということだと思うんです。しかし、教育長の任命承認権の廃止に伴って、意識は確実に変わると思うんです。ですから、非常に大きな変化が生じる。そのときの中心になるのは明らかに校長先生の持っている視野とか、管理能力ということであるわけであります。校長先生になるべき人や若い段階でそういう可能性を持っていると見られる人をどのようにして育成していくのかということがすごく重要になるだろうという気がするんです。 若い人の育成のためには研修とか、教員をサポートするための地域教育活性化センターとか、いろんなことがあるんでしょうけれども、もう一つは、各地域ごとに国立大学であれ私立であれ大学があるわけです。ある一定の経験を経た先生が、自分が持ってきた経験をもう1回、毎日の業務に煩わされることなく、自分で自分をリフレッシュする機会がものすごく重要であって、それをシステマティックにやることによって、校長先生になるような人を育てていく可能性があるのではないかと思うんです。そういうことは、地方自治で自治体ごとに考えることかもしれませんけれども、スタートの時点から考えておいてもいいことかなということをかねて考えておりましたので、一つ申し上げたいと思いました。 それとちょっと突飛なことかもしれませんけれども、地方分権推進委員会におきましては、国と地方が紛争を起こした場合の処理の制度手続について勧告しているわけです。法律が基本にあって、文部省がその責任において一定の基準をつくって、その枠の中でできるだけ地方に裁量を大きくするような改革を今度やろうとしているのだろうと思います。そうなってきますと、これは具体的な話ではないんですけれども、紛争が生じる可能性が生じる。規定の仕方で、文部省が一旦公表すればそれは客観的な基準になります。その基準をめぐって、国と地方が争う。そして府県と市町村も意見が食い違うと、そこで調整の手続が前よりは必要になるということだろうと思います。もちろん、そのあたりのことは一般的に処理される仕組みの中でお考えなのだろうとは思いますけれども、今までよりも重要になることであるということで、少し気にしておりましたので、その点を申し上げたいと思います。 それともう一つだけ申し上げたいと思うんですが、基本的に事前の指導は減らして、極小化して、事後的に説明をすることができる。説明できるならば、それが教育行政の責任を果たしたことになるという理解で、大きな原則に考えていると思うんですが、その一環として例えば自己評価があるということではないかと思うんです。そういうときに、評価がどこに結びついていくのかということが出てくるのではないかと思うんです。自己評価をして、それを報告して、それで終わりと。もちろん、自己評価なり、同時に外部評価も言葉にしてもしなくても行われて、それが人事にも結びつくし、学校への評価にも結びつくかもしれないですけれども、そこには評価がどうなるのかという問題があると思うわけです。一般行政とか、この間のヒアリングでお伺いしたのはそう理解しているのかどうか知りませんけれども、イギリスの教育行政の場合のように、市場メカニズム的にその評価が取り入れられていくということが一つ考えられるんでしょうけれども、学校教育は市場では考えにくいと思われます。評価が事後的にどこかに結びついていくか。その辺はどうなるのか。これは自治の問題かもしれません。大まかなことでございますが、以上のようなことを発言させていただきました。 先ほど、紛争処理というようなことを言いましたのは、ルールを細かく書くのか、大まかに書くのかということをおっしゃっておられましたけれども、そういう問題に関連することです。いずれにしても細かくというよりは、明確な基準が求められていくだろうというのが感想でございます。 ○ 私は、皆様が非常によく考えてくださって、改革の新しい方向を打ち出してくださっておることを高く評価いたします。 今こうして議論していることは、戦後50年の長い歴史の中で、かっちりとでき上がった公教育のシステムが前提になっています。その背後でやはり私たちが忘れてはいけないのは、この確立したでき上がったシステムの中で、大きな問題が残されているということです。それは日本の子どもたちにいつどのようにして、広い選択の余地のある教育システムを与えられるか、そこに移行できるかということではないかと思うんです。今の制度のもとでは、子どもたちは学校を自由に選ぶことは、そんなに広い範囲ではできません。ましてテキストや、カリキュラムについての選択の余地は、教育を受ける側にはほとんどないという今の状況は、まだ当分続くのではないかと思います。 遠い将来でしょうけれども、解決の方法の一つとして、既にアメリカでは数年前から取り入れている公教育の分野への民間の活力の導入が参考になります。アメリカでは公教育の学校の運営をすべて民間に委託するということも一部の州で行われて、かなりの成果を上げていると言われています。先ほどどなたかのお話にありましたように、Uターン人事もそれと類似の方法ではないかと思います。 最後に、学校の評価という新しい時代が始まっています。既に大学は自己評価や第三者評価は当り前の時代に入っています。これに加えて第四者といいますか、外の世界、例えばジャーナリズムが勝手にどんどん我々を評価する時代に入っています。アカウンタビリティー(自己説明責任)は、自分でやらなければ相手が説明や評価をするという状況になっています。 初等中等教育の公教育の分野においても、いずれそういう時代がくると思います。大学行っているような自己点検評価や、あるいは既に19の国立大学が実行している第三者評価をいずれ初等中等教育でも行うとなると、これは大変なことです。特にアカウンタビリティーというのは、容易なことではなくて、例えば学長が考えていること、校長が考えていることを開示することだけでも、インターネットの時代とはいえ簡単ではありません。インターネットに乗せるための下働きをする人が必要で、人的費用がものすごくかかります。非常に難しい問題ですが、いずれはやらなければならない。こんな感想を持っております。 ○ この問題は、大学における問題と似ているなと思いました。大学の学長の権限と教授会の権限というのが、実は今、大学審議会でやっているんですが、これがほとんど同じようにあいまいなんです。その辺のことが初中教育でもあるんだなと、つくづくお聞きした次第です。 やはりあいまいなところが随分あるので、これを今回きちっと整理をして決めていただければと思います。すなわち、校長の権限、あるいは職員会議の権限はどこにあるか、そういうものについてきちっと整理をしていただければと思います。 それにしても、主導権を校長が発揮するために、責任と、やはり財政的なこととか、人的なことに対する権限がなければ、幾ら何でも主導権だけ発揮しろといったって無理だと思うので、その辺についてもきちっと御検討賜れれば幸いです。 評価は、教育は長くかかるから、そういう意味でアカウンタビリティーは難しいと思いますけれども、その学校で工夫したときには、そして自己点検、自己評価をされたときには、行政的にそれに対していいことはいいとして、予算等々で援助していくことが必要であろうかと思いました。本当に御審議ありがとうございます。 ○ ありがとうございました。 これで、本日の会議は終了いたします。 次回の小委員会は、2月20日、金曜日、13時から、東海大学校友会館、33階、望星の間で開催しますので、よろしくお願いいたします。 |
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