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中央教育審議会

 1999/10 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第21回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第21回)

議  事  録


平成11年10月13日(水)  13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階      ゴールドスタールーム


1.開  会
2.議  題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉  会


出  席  者

委  員
鳥居副会長、木村座長、國分委員、田村委員、土田委員、永井(多)委員、長尾委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、岡本専門委員、小谷津専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山極専門委員

事務局
佐藤事務次官、富岡生涯学習局長、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  本日は、お忙しい中、本会に御出席を賜りましてありがとうございました。
  本日は、前回に引き続きまして、自由討議を行いたいと考えております。
  それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長  それでは、早速でございますが、審議に入らせていただきます。

○  特に「入学者選抜の現状と改善の方策について」のところで、若干の質問も含めて私の考え方を申し上げたいと思います。
  「入学者選抜をめぐる状況」について、基本的に少子化の影響で18歳人口が減少し、大学の臨時定員枠等が半分ぐらいに減ると仮定したとしても、基本的には2009年ぐらいに、大学を志願する人のいわば全入に近いような形になるということで、入試が総体として競争が緩和される状況にあるという認識自体については、確かに数理統計的に見てそうだろと思うのです。ここにも書かれていますけれども、実際には18歳において全員が一斉に、自分の能力・適性ということよりは、やはり権威の高いといいますか、社会的に見て一流とか銘柄大学と言われるようなところを目指す。いい大学に入って、いい職業に就くといいますか、そういう意識がまだまだ潜在的には日本の社会にかなり強く残っていますので、そのことが大きな心理的な圧迫になると同時に、また、高校以下の教育も、18歳から19歳のときにいかにいい大学に入るかということでの受験にシフトした学習という形が、改善はされてきているとは言うものの、まだまだ高校以下の教育にひずみといいますか、量的拡大の影の部分としてそういう問題が出てきている。
  したがって、高校以下の子どもたち、あるいは教職員、保護者から見ても、大学入試選抜の在り方について抜本的な改善をしてほしいという要望はかなり強いものが依然としてあると思っているんです。
  いくつかの場所で、相当数は実質的に競争なしでも入学できるとか、あまり勉強しないでも大学に入れるようになっているというような表現が ―依然として特定の大学を中心にして競争は基本的にかなり厳しい状況があるという側面を強調している部分もあれば、非常に緩和されているし、ほとんど勉強しなくてもどこかに入れるんだということも、また一面でそういう見方もあるということで、両論併記みたいな形が、私が見る限りでは、ペーパーを持って帰ってずっと精査しているわけではありませんので、私の読み取り方が不十分なのかもしれませんが、現状の認識、問題意識が、こういう意見もある、こういう見方もあるということで、大学入学者選抜を中心に、今の日本の選抜制度を大幅に改善をしていくという基本的なスタンスがやや弱いのではないかというのが、感じているところです。
  特に「入りやすく出にくい」という考え方について、大学定員の問題等を含めて問題だということで、そういう議論を一応否定をしています。そのことについては、確かにここに書かれている限りにおいて ―おそらくここの文章は、社会経済生産性本部の報告をかなり意識されて、こういう記述がなされているのかなという感じを通読する限りでは持ったんです。確かに一気にこのようにしていくのは問題だし、ああいうキックアウト制という形で、入れるだけどんどん入れて、卒業を認定しないということでは社会問題になる。特に日本の場合、授業料とか、入学金とか、そういうものが欧米に比べて比較的高いという状況の中では、親の立場からすれば、そういうことを一気に取り入れることについては問題だということの指摘はある意味で必要なのかもしれませんけれども、やや特定の団体等をどうも意識して書かれているようなあれがあるので、その辺のところは言及するについても、あまり断定的に、こういう議論は間違いだというような形で書くのはいかがなものかという感じを持っています。
  なお、真ん中あたりからまた資格試験についても、フランスのバカロレアとか、ドイツのアビトゥアについて一定の批判的な、いろいろな問題が出てきているという記述があります。確かに問題が出てきているというのは、高等教育が大衆化し、進学率が高まってくると、いろんな制度をとっても矛盾を内包してくるというのは、どういう制度であっても100%完璧なものはないわけです。したがって、いろんな模索をしながら改善の努力を、それぞれの国が歴史的な背景、文化的な違いも含めて検討されている状況だと思います。今、日本の場合に直ちに資格試験制度をとるということについては、たしか16期の第二次答申でも否定的な考え方を述べていますから、あえてよその国の制度について、日本の中央教育審議会が断定的に問題だということをそんなに強調する必要性はないのではないか。日本の場合に、資格試験そのものを取り入れないにしても、第二次答申の中でも、資格試験的な取り扱いといいますか、例えばあのときは私の記憶では、芸術的な分野等について、大学入試センター試験の結果を当該年度だけでなくて、複数年度にまたがってそれを活用するというようなことがあってもいいという意味で、資格試験そのものではないけれども、いわば資格試験的手法といいますか、取り扱いといいますか、運用の仕方をするということを、たしか一昨年の第二次答申の中でも言及しています。
  また、以前、大学審議会の審議においても、大学入試センター試験については、たしか資格試験化するとか、資格試験的に扱うことも検討してしかるべきだということが、たしか三人の委員の意見として出されていたように記憶しています。
  そういう意味で、後段の部分で、具体的に大学入試センター試験の改善のところにも出てきますので、そういうことを総合的に考えて、「入学者選抜の現状と方向」についての記述については、やや断定的な書き方をできるだけ避けたほうがいいのではないかというのが私の意見です。

○  今度の答申のそろそろ終点を迎えるわけでしょうけれども、全体の答申のトーンとしては、「適性・個性への対応」、それから「マッチング」、「進路指導」、このあたりがキーワードになるのかなという感じがいたします。
  今までの答申の中でも、進路指導の重要性は言ってきたわけですけれども、今度は相当色濃く進路指導の問題を、10代ぐらいから始めるということで言っていると思うのです。その具体的なやり方が「高等学校における生徒の能力・適性・意欲・関心等に応じた進路指導や学習指導の充実」に書いてあるんですが、「大学の教員や企業との協力」と書いてあるんですが、労働省の外郭団体などで適性についての研究などをしている機関があるので、この辺は具体的に、例えば地方であれば商工会議所とか、経済団体などとの協力とか、労働省、他省庁との協力などで、文部省系列の教育の中だけで見るというのではなくて、もう少し複眼的に適性を判断するような機関というのでしょうか、それはかなり重きを置いてつくっていかないととんでもないことになるのではないかという気がしております。今までの教員の体制の中だけでできるのかなという不安を持っての発言でございます。
  それから、例えばフランスやドイツの今の矛盾のことを書いているわけですけれども、フランスやドイツというのは先進的で、教育についてもかなりの哲学を持って一つの制度をつくっていると思うので、これはもっと時間をかけて研究してから言うべきなのではないかと思うのです。ここだけ妙に日本の制度が温かいような書き方なんですね、全体的に。つまり、入れば必ず面倒を見る、教育機関の責任はどうなのかということなんですけれども、しかし全体は競争社会になっているわけです。入ってから、自分はだめだと思ったから、別なところに行くということは、既に高等教育の段階からあってもしかるべきだと私は思うのです。そういう意味では、ここは全体のトーンからすると矛盾しているという感じが強くしました。

○  意見が2点ほどあるんですが、1点は、そろそろまとめに入ってくるところで、全体の接続についての中間報告の目玉になるようなものといいますか、これはぜひ強調しておきたいと、そんなようなことを意識する必要があるんだろうという意味で申し上げるわけです。私の意見としては、どちらかというと接続の問題というのは、従来は入口が重視されているといいましょうか、スタートのところを非常に気にして細かくチェックするわけですが、卒業の時点でどれぐらい到達したかという評価を、大学でいえばアカデミックな大学の学長の証明書みたいなことで、しかし客観的にそれを示すものがないという状況をそのままにしておくのはどうなのかという気がしているわけです。
  学(校)歴というのが非常に問題になっているわけですけれども、学(校)歴ということを訂正する意味でも、社会の意識を変えてもらう意味でも、どのぐらい到達したかということの評価がされているのか。一番いいのは、学校の成績が東京大学の「優」が、ほかのどの大学の「優」とも同じぐらいの価値だというなら問題ないわけですよね。ところが、学校によって「優」「良」「可」という成績が、今、「A」「B」「C」になっているんでしょうか、よくわかりませんが、それが学校によって価値が違うような扱いがされてしまう。したがって、学(校)歴というのが意識の中からなかなかなくなっていかないという究極の問題もあるわけです。その辺のところを意識として、到達度評価というものを関係者全体が考える必要があるのではないかということを主張しておくことが、接続についての中間報告の今までにない考え方の大きな変更ではないかと思いますので、ぜひ強調していただけないだろうかということが1点であります。
  2点目は、ちょっと細かな話になるのかもしれないですが、高校卒業の状態、最近は大学卒業もそうらしいですが、進路指導の中で、高校だけですけれども、フリーターの問題が触れられております。実はこのフリーターというのが、今、1年に13万人ぐらい出るそうですが、高等学校の中途退学者と同じぐらいの数ですが、これがだんだんに広がってきている。つまり、自分の適性についての意識が、高校、大学ともに十分に行われていない。これはいろんな問題がその背景にあるんだろうと思うのですけれども、関係者がいろいろ努力している割にはこの傾向がなくなっていかないということの一つには、もちろん社会的な傾向があるんだろうと思いますが、いわゆる職業にかかわる適性テストみたいなものが現実にあります。この内容を見ますと、欠点のチェックをするというのが中心のテストです。適性があるかどうかを測るテスト、いわゆるキャリア・カウンセリングに使うようなテストが十分に普及していない。その辺のところを指摘して普及させる必要があることを触れておく必要があるのではないかという気がします。つまり、病的な資質のチェックに重点が置かれていて、どういう向きにその人の資質があるかということのテストというよりは、むしろそちらのほうに重点が置かれているテストが一般的に使われているわけです。ですから、マイナスというよりは、むしろプラスが判定できるようなテストをもうちょっと現場でも使っていく必要があるだろうし、十分なものがなければ開発をして、それを使っていかないといけないのではないかという気がしているわけです。この問題についてはかなり重要なことだと思いますので、中央教育審議会でも触れておく必要があるのではないかと思っています。

○  到達度評価を具体的に取り上げていただいて、推進をしようという意気込みに燃えた作文になっておりますので、私はそれを非常に重要に評価したいという気持ちでおるわけでございます。
  ただ、問題は、その到達度評価をどのように利用するのかというところにも一つ問題が残るわけですが、先ほどからお話をいただいておりますように、例えば大学の選抜のような話題と結びつけた場合に、本人が初等段階からの教育課程を一つずつ経てくる間に、自分の将来の理想とか、あるいは仕事といいますか、あるいは職業といいますか、そういうものの焦点がだんだんはっきりしてくる。こういうような教育を徹底すべきだと私は常日ごろ考えておるわけでございます。今の学校制度の中では、うんと小さいときには、飛行機のパイロットになってみたいとか、あるいは自分は外交官になって平和の使節をやるんだというお話は聞くことがあります。そういうお話から始まって、具体的に高校を修了した後、一体、何を自分がやろうとしているのかということに立っての選択というのが、従来は少しないがしろにされておった。
  したがって、職業教育というと、どういう形で、何をやるんだという話にもなってくるわけですが、自分の理想像を追って自分の好きなことをやる、あるいは楽しそうだ、これならば自分でひとつやってみたいと。そこに一つの努力目標もはっきりいたしますし、変な形での大学とか高校の選択も、もう少し違った形になってくる。バラエティーに富んだ、キャラクターがはっきりした大学あるいは高等学校というものが出てくれば、そういう選択がはっきりしてまいりますし、片一方で教育のほうでの工夫と、本人の自発的な意欲と相まって、割にうまくいくようになるのではないか、あるいはうまくいくようにしていかないといけないのではないか。
  そのためには、先ほどの話へ戻りますが、到達度評価というものは明確にしていかなければいけないし、比較をしていかなければいけないし、それから得手とする志望、あるいは将来の適性というようなものが、具体的に自信が持てる形で評価をちょうだいできる。そういうふうになると随分違ってくると思うんでございます。むしろそういう面での書き添えを少ししていただけたらと思います。

○  「入学者選抜の改善で目指すべき方向」についてで、「入学者選抜方法を変更することによっても、『誰もが希望する大学に進学できる』ことにはならない。」、このことは確かにそうだと思うのですが、「入学者選抜方法の改善で目指すのは、誰もが志望する大学に入れるようにすることではなく、学生の大学教育への円滑な移行を実現することにある。」ということで、「誰もが志望する大学に入れるようにすることではなく」というのがちょっとひっかかるんです。というのは、志望の多様化はいろいろあるわけでございますけれども、志望した人たちが多様化の中で志望したところに全員が入れれば、それが一番好ましいわけですね。自分の志望したところでございますから。そういうことを考えていくと、ここで「誰もが志望する大学に入れるようにすることではなく」と限定してしまっていいのかどうか。その後、「学生の大学教育への円滑な移行を実現することにある。」というのは、何かそこに当てはめてしまうような表現に受け取られないか。そこら辺がちょっと気になったところでございます。

○  「大学と学生とのよりよい相互選択を目指して」の表現のところに、「高等学校側では、『入試が変わらなければ高校教育は変われない』」という文言があります。確かにそのように私も発言しました。しかし、すべての高校がそのような状況ではありません。この文言ですとすべての高校が言っているような表現になりますので、書き方を変えていただきたいと思います。
  御存じのように、現在、中学の卒業生の97%に近い高校への進学率の中で、高等学校は非常に幅広い能力を持った生徒が入学しており、それぞれの学校がみんな違う状況にあります。多くの生徒が、大学進学を目指している学校では、確かに大学入試がその学校のカリキュラムをつくる上において非常に大きな影響力を与えていますが、大学進学と全然関係なく、社会生活を営む上での基礎的な力 ―基礎・基本とも言っていますけれども、この内容をどのように身に付けさせたらよいかということに全力を挙げている高校も現実にはあります。本来は小学校で学ばなければならないもの、あるいは中学校で学ばなければならないものが身に付いていないために、まさに単純な計算ができるようにとドリル的に繰り返し訓練したり、また最低限の知識を身に付けさせるためにと、夜中まで補修を実践をしている学校もあります。私の知っている先生で、50点以上取るまで20回ぐらいのテストをやったという先生もおりました。必ずしも高校全体が入試制度に影響されているということではないと私は認識しております。
  それから、今、初等中等教育と高等教育との接続のことを話し合われておりますので、このことについてもう少し触れさせていただきます。各大学には建学の精神がありますので、各大学は、それぞれこのような大学教育をしています、だから是非こういう生徒に入学してほしいというような大学からの発信を、もっともっと高校側にしてほしいということをお願いしてきました。最近は、大学のほうからいろいろ具体的な内容について、高校側へ資料が送られてくるようになりました。また、大学に入学してほしい生徒を選抜する入試選抜の改善も一部の大学で実施されるようになり、大変よい方向に進んでいると思っております。今回の中間報告にまとめられた内容も、そういう方向で、私たちがお願いしてきたことが書かれているということでは大変感謝しております。
  しかし、大学のほうから高等学校に、こんな勉強をさせてきてほしい、あるいはこういう科目を履修してきてほしいという具体的な申し入れがあれば、生徒のほうも緊張するし、高等学校のほうでも具体的なカリキュラム編成において、それぞれの学校のレベルにおいていろいろ工夫すると思います。現在大学の先生が高校に来て授業をする、あるいは高校生が大学の授業を受講するなどの交流もありますが、高校のカリキュラムの編成についてとか、あるいは大学で学ぶ内容など、高校と大学がお互いに、教員同士が交流しまた、検討委員会のようなものを持って、お互いのカリキュラムを作成していくということが今後あってもよいと思っております。現在、教育職員養成審議会でも、すばらしい学校の先生を育成するために、お互い双方に乗り入れて、教員養成の研究を行ったらどうかという方向がまとめられつつあります。それは教員養成ばかりではなくて、大学人をどう育てるか、あるいは高校教育をどう完成させるかということにおいても、もう少し大学と高校でお互いに研究し合う方向が出されればよいという感想を持っています。

○  何人かの先生方からキーワードに当たる言葉が出されたかと思いますけれども、私も同じような意見でございます。もし今回の中央教育審議会の答申に、あるキーワードが付されるとすれば、「選抜から選択へ」とか、あるいは「選抜から教育中心へ」という意味のことがそこに込められるのだろうと思っております。
  これまで教育段階というものを接続する、積み上げるというときに、入試あるいは選抜を抜きにしては議論できなかったということは、これまで繰り返し論じられてきたことだと思います。この中央教育審議会においても徹底した議論が行われたと思います。ただ、現状は、既にまとめの中にも述べられているように、入試に裏打ちされた接続、あるいはそういう選抜メカニズムに支えられた教育段階の積み上げが、従来のような形では考えられなくなったということが、今回の諮問の認識でもあったと思います。
  そういう意味合いにおきまして、入試というものから、むしろ到達度評価にできるだけウエートを移していくという方向で審議も進んできたと思います。到達度評価につきましては、だいぶ書き込みがされておりますけれども、でき得ればいま少し、そういう新たな状況に対してどういう到達度評価を行っていくのか、その具体的なシステムの提示ができないかと思います。
  いま一つ、今回の答申の中で、マッチングであるとか、進路指導であるとか、自分たちがどういう方向に進んでいくのかということをできるだけ意識化させることが非常に重要な課題なのだということが述べられています。この場合に、私も何かの機会に申し上げたことがあったかと思いますが、アメリカにACTという共通テストがあって、その中で興味検査というものが行われている。その結果を職業選択であるとか、大学選択と結びつけて、受験生に提供するということをやっているわけです。生徒たちがどういうものに関心を持っているのかとか、あるいは、自分の関心の持ち方とか、どういう職業に自分は合っているのかということについて、広い視野の中で自分の位置を知るといいますか、進路指導のための情報システムについて、もう少し公共的なものが推進される必要があるのではないか。これはあるいは大学入試センターでやるべき事業の一つかもしれないのです。ともすると進路指導に関する情報提供であるとか、あるいは周辺的な業務は、国や地方がやるよりも民間の受験産業のほうがずっと進んでいるではないかという御意見もあるわけですが、そういうもののデータベース、あるいはそれをマクロな形で、個人の興味・関心とつなげるというシステムはどうしても公的な関与が必要ですし、その姿勢も価値中立でバランスのとれたものが必要です。土壇場のお願いで恐縮ですが、具体的なシステムをどのようにつくっていくかというあたりのことを何か盛り込めないかという気持ちでおります。

○  大学入学者選抜の際に、大学と学生とのマッチングの問題が、先ほど来、いろいろ話題になっておるんでございますけれども、自分に合った大学、やりたいことのできる大学を選択できるようにということは、まさしくそうだと思うんでございます。そのときに、生徒の心の中で本当にやりたいことは何であるか、それまでに自分が持った体験も含めて、そういうものがしっかり根づいていることが前提になるのではないか。いろいろな適性評価、判断のためのテストを考えることも重要だと思いますけれども、それに先立って、やりたいことが生徒の心の中でしっかり定まっているような事前教育が重要であると思います。
  それに関連して、前回発言できなかったので、一つ前回のところに戻って恐縮ですけれども、それは中高等教育におけるコア・コンセプトの一つとして、「自ら学び、自ら考え」という標語がございます。私はぜひこの標語の前に「自ら問題を発見し」というのを入れていただきたいという気持ちがございます。
  と申しますのも、生徒がいろいろな事柄によって好奇心を誘発され、解決すべき問題、その発見があってこそ、自主的に学び、その結果、自らのオリジナルなアウトプットを産出していくことができるんだと思います。それは一言で言えば、創造性教育ということになるかと思いますが、その点が強調されるように、先ほどのような言葉を入れていただければありがたいと思っております。
  それから、そういうことが積極的に行われるためにも、中等教育と高等教育の連携が重要ですが、そこのところで主として言われているのは、大学側から高等学校の側へのアクションが中心になっているように思います。大学の教員が高校へ出かけていって授業を持つということもいいだろう。進路指導に関する話をするのもいいだろう。そういうことを含めて、大学側からのワンウェイのアクションが述べられていると思いますけれども、やはり高校側から大学へのアクションももう少し強調されていいのではないか。特にこれはカリキュラムの内容の相談ということも結構でございますが、それに加えて、中等教育に携わる教員のうち、力のある者は大学で教えるチャンスを持つことが重要だと考えております。それは単に教育面だけではなくて、それによって中等教育の教員が、その時代、時代の大学の状況をしっかり把握することができる。過去には自分も大学にいたわけですけれども、時がたっていますから、その時々の大学生の状況をしっかり把握する。大学の教員が教えている様子をしっかり把握する。それがまず重要ではないかと思います。
  そういうことになりますと、大学で教える教員資格が問題になるかと思いますが、その辺に関して今どういうことを考えられているのかということは、むしろお聞きしたいことの一つであります。
  3点目でございますけれども、大学がユニバーサル期化する時代を迎えて、どこの大学でも入れるというから、学力水準が低下するのではないかというのが随分問題になっております。しかし、この中でちょっと抜け落ちているかなと思いますのは、「リメディアル教育の充実」で、それをぜひ入れていただきたい。というのは、こういう場所ですと、どうしてもいい大学とか、知名度の高い、教育水準の高い、研究水準の高い大学をイメージして私どもは話しますけれども、実際は中程度あるいは後発大学というようなところでは、学生確保のために学力レベルの低下とか、レベルの低い者は入れないなんてそんなのんきなことは言ってられないというのが現状だと思います。そういう意味では、できる者で、粒のそろっている生徒を教育するのは楽でございますが、むしろこの際、水準の低い者を高めていく、そういう教育の本来の思想が打ち出されていいのではないかと思います。
  それから、中等教育と高等教育の連携の中で、高校から大学へのということを言いました。バイウェイで両方ですけれども、口でこれを言うのは簡単なんですけれども、一貫教育校でもこれはかなり難しい。大学の側と高校の側との先生が快くマージできている学校がたくさんあるかといったら、結構答えるのが難しい。中高等の連携に関しては少し現場のレベルに目をやった御意見の記載が必要なのではないかと思いました。

○  先ほどから到達度評価のことが話題になっておりますが、高等学校の関係の者から少し発言させてもらいたいと思います。この問題を考えるとき、どのように到達度評価をするかということは、非常に難しいことではないかと思います。そう簡単に到達度評価の制度が確立できて、それが実施できるか疑問に思っております。「各学校段階ごとの到達度評価」というふうに書かれておりますけれども、私は、今回の答申では各校で評価をきちんと行う、と同時に客観的な評価基準や評価方法を今後研究するということからスタートさせてよいと思っております。現在、高校では教育内容が多様化しております。先ほども述べましたけれども、大学に進学する者から、基礎・基本が身に付いていない生徒まで入学してきており、学校種も様々あります。評価基準や評価方法が十分確立していない現在、一人一人の生徒の到達度評価を一気に実施してよいというふうにはならないと思います。いわんやその結果を卒業資格にするということになったら、大変なことになるのではないかと思っております。
  到達度評価の内容を考える時に、その内容はいわゆる知識の量を測ることもあるだろうし、現在言われている興味・関心、意欲とか、あるいは論理的な思考力とか、そういう情意的なものを含んだ学力というような規定もありますので到達度評価を今すぐ実施すべきであるという書き込みは、早急ではないかと思っております。評価制度を研究して今後その提示を行い、各学校で個々の生徒の評価、あるいは学校の評価に、それぞれの学校が活用していくということは将来的にはあるというふうには思っておりますが、全国的に共通試験を実施するとか、卒業の認定に活用するということは、今は考えるべきではないと思っております。

○  全体的な印象では、淡々と書かれておりますし、特に入学選抜なんかはあまり大上段に書くよりは、こういうスタンスでたんたんと本質を書いたほうがいいのではないかと思っております。要するに、大学側が期待している能力、例えばここにも出ている論理的思考とか、表現力とか、応用力等々、こういった能力は、実は現在、我が国の小学校・中学校・高等学校でまさに重視している能力そのものであるわけです。「新しい学力観」とか、「生きる力」とか、それぞれ言葉は違っていますが、まさに「自ら学ぶ力」とか、「自ら問題を見出す」ということもまさにそうだと思うのです。
  ただ、残念ながらそういった大事な能力等を評価する技術がまだ十分でないために、選抜のところでそれがうまくひっかからない。その辺が忸怩たる思いがある。例えば外国語でもって、今、非常に大事な能力としてコミュニケーション能力等々を非常に大事にしているんですが、そういったものは必ずしも選抜にかかってこない。せいぜいリスニングテスト。じゃ英語でもってエクスプレッションするなんていうことは、ほとんど選抜にはない。その辺が学校の外国語教育を若干ゆがめている。もっとも何も選抜にかからなかったら勉強が成り立たないということでは決してないんですが。
  そうすると、どうしても時間をかけた丁寧な選抜を行っていかなければならない。しかし、現実には、例えば国立はともかくとして、高等学校の生徒に重要な位置を占めている私立大学の入試等を見ると、中には採点のしやすい問題で、短期間で選抜をしようという問題が出る。そこにはおよそ丁寧な時間をかけた問題でないために、これまた高校の教育にかなり大きな影響を及ぼしているという面があると思うのです。そういう面で、丁寧な入試ということはここでも書かれていますけれども、ややもするとアドミッション・オフィス試験にやや期待をかけ過ぎているような感じを受けますが、これは別にアドミッション・オフィス試験だけではなくて、本来、丁寧な時間をかけた選抜が行われることによって、学生を大学は受け入れる。受け入れた以上は、責任を持って大学が教育するというスタンスが大事かなと思っております。
  それから、到達度評価について、さっき選抜と絡めた発言があったんですが、到達度評価というのは何のためにするかというと、これはその教科の目標、内容に到達しているかどうかというものを調べて、それをカリキュラムの改善とか、指導方法の工夫・改善にフィードバックしていくための到達度評価であって、到達度評価といったようなものが選抜とかかわるというのが私はよく意味がわからない。
  到達度という場合には、単なる知的なものではなくて、態度的な、関心的な非常に幅の広い視点から見ていくので、今の我が国の評価も到達度評価だけではなくて、小学校・中学校・高等学校はそのほかに相対的な、いわゆる集団の中でどのぐらいの位置づけになっているかという評価と、それから到達度というのは目標にどれだけ到達しているかという評価と、あと個人としてどれだけ進歩したかという評価を組み合わせて、小学校・中学校・高等学校の評価を総合的に行っているわけであって、到達度評価を選抜とどう絡めるかということはあまり強調し過ぎないほうがいいのではないかと個人的には思っております。

○  到達度評価の話が出ましたので、一言考え方を申し上げたいと思うのですが、確かに御指摘のように選抜に使うためのものではないだろうという気がします。ただ、現状、到達度評価に当たるようなものがあるのかというと、調査書がそれなんですね。でも、調査書でないものを到達度評価に求めたいということで、わざわざこのことが取り上げられているわけです。ですから、調査書でないものというと、客観的な指標が少し入ってこなければいけないということがあるだろうと思うのです。
  もう一つ、到達度評価の問題点というのは、カッコよく言うと説明責任というんでしょうか、透明性というんでしょうか、税金を使って、これだけ人材とお金を使って教育したんだから、これぐらいまでは到達していると。これは学校種別で当然違いがあっていいだろうし、それぞれに特徴があるんだろうと思うのです。例えば知的な能力については、普通科と言われるような学校のほうが高いかもしれませんけれども、それ以外の実務的な教育を受けている学校であれば、そちらのほうの到達度評価は非常に高く出るわけですから、そういうことを工夫することによって、今の学校は、高校であれば御自分の高校の校長先生の証明書しかないんです。それが調査書と言われるものです。それだけでは世の中が納得しなくなるのではないかというのが、到達度評価を強く主張している理由でございます。その評価は利用しようと思えば、入学試験に使えますよという話であります。書き方のほうは難しいので、これはよくわかりませんので、お任せしたいと思うのですけれども、趣旨はそういう意味だということでございます。

○  前回お話ししたことの繰り返しになるんですけれども、中央教育審議会に文部大臣が答申をなさったときに、2通りのケースがあると思うのです。答申に我々がお答えをすると、それがストレートに政策になって実現されるというケースが一つあると思うのです。どうも最近の新聞なんか見ていますと、この中央教育審議会をともするとそっちで見ている傾向があって、ちょっとどっかで聞いてきたような話がポッポッと新聞に出る。こうやるらしいというふうな記事まで最近見られるわけです。
  しかし、今回の文部大臣からの諮問を振り返って見ますと、一つは少子化問題、もう一つは初等中等教育と高等教育との接続の問題です。少子化問題のほうはどういうふうになるか、何とも言いようがないので、今日は控えますけれども、初等中等教育と高等教育の接続というからには、文部大臣はこの答申を受け取られたらば、たぶんこれを今度は高等教育に関する審議会である例えば大学審議会にもう一度おろされるんだろうと思うのです。そういう意味で、我々としてはもう少し幅広に考えたほうがいい。つまり、長期的にはこういうことを考えなければ、日本としてはいけないのではないでしょうかという答申をしたほうが、文部省としては本当はやりやすいのではないかと思うのです。
  ところが、我々は今こうして議論を自由にさせていただいてわかるとおり、大学といったっていろんな大学がある。そして、その大学を何か上等な大学と下等な大学というふうに今まで分けてきたこと自体に実は問題があって、決して上等な大学と下等な大学なんじゃなくて、社会的な役割が違う大学が存在するのを、無理して一つの大学という名前の存在だと一くくりにしたがゆえに、ただただ同じ種類の学科目入試をやると、点数の高い人と低い人、偏差値の高い人と低い人に分かれて、低いほうの人は下等な人だというような割り切り方しか世の中に存在しなかったために、いろんな不幸なことが日本に今起きている。不幸なだけではなくて、日本の将来の社会の仕組みを背負っていく人たちの教育、それから日本の将来の産業の仕組みがどんどん変わっていくのを背負っていく人たちを引き受けるには無理があるんだということを示しているのではないかと思うのです。
  先週申し上げたことに戻りますけれども、先ほどもどなたからか「選抜から選択へ」というお言葉がありましたし、「リメディアル教育」とか、「問題発見教育」とか、いろんなお話があったわけです。それらを改めて私の言葉で言うと、「教育の複線化」ということを、将来、日本はできるだけ近いうちに考えなければいけないのではないか。例えば今、高等専門学校があるわけですが、あれは私流に言えば、中学校を卒業した段階で一貫教育の大学に入るのと同じ意味を持っていると思うのです。既に我が国にはそういう複線部分が存在している。そういう複線部分をもっといろいろつくっていくというようなことを、将来、検討してはどうですかという言葉が、この答申にどこか1ヵ所でも入っていると、前回の繰り返しになりますが、文部大臣としてはそれを受けとめてくださりやすいのではないか。
  違う話を一つだけつけ加えますけれども、この後で、入試の仕組みのことをずっとやっていくんだと思います。そうすると、選抜の仕組みのところで、アドミッション・オフィス入試というのが、他の委員の方からもお話があったように、中心的なウエートを持っちゃうという心配があるんです。実はアドミッション・オフィス入試というのを最初に始めた大学について、私はこう考えているんです。この学校に入りたいと思う人たちが相談に来る窓口、それがアドミッション・オフィス。そのアドミッション・オフィスのほうは、逆に来た人ちたに、どういう選抜方法を使わせてあげるかを考えたり、あるいは場合によったら、これはまだどこの大学もやっていないと思いますけれども、スカウトしたり、いろんな方法で人を入れてあげる、そのお世話をするオフィスのことをアドミッション・オフィスというのであって、そこが行う選抜の手段は、いわゆる従来の科目入試もあれば面接だけで入れるのもあれば、あるいはしっかりした推薦状をぜひとも必要とするというのもあるのではないかと思うのです。そういう考え方で考えていく必要があると思います。
  同じことで、「アドミッション・ポリシー」というのは、実は我々はあまりまだよく議論していない言葉なので、もうちょっと議論したほうがいいかなと思います。

○  一つ質問というか、もうちょっと詳しく書いてほしいというところがございまして、高等学校に進学しない3%に対応する教育内容というのはどういうものか。これを将来の問題として研究するということをもう少し詳しく書いたほうがよろしいかなと思います。
  あくまでもこれは希望者だけだと思うのです。いろいろ生涯教育機関がありますので、最近出るいろんな文学界の中の天才には、中学校で退学してしまって、独自にいろいろな本を読んで、ノーベル賞を取るようなところにいく人もいますので、希望者 ―もちろんそういうふうに書いてありますが、これに対応する教育内容というのはどういうものなのか。あるいは、コンサルティングの機関でもいいかなと思うのですが、そういう機関についてもうちょっとイメージができるように、少し積極的に書いていただくといいのではないかと思います。
  もう一つあえて申し上げるんですが、「外国語教育の充実や海外留学の推進等を進めると同時に、我が国の歴史や文化への理解、国際社会の当面する課題への認識を深めたり、自らの主張を明確に表現する能力を育成するなど、国際舞台で活躍できる人材の養成を図る。」とあるわけです。ここで「歴史や文化への理解」ということは、単純に読むと、外国語ができる人という感じですけれども、同時にこれは芸術、文化を表現する能力の人材も求めているように感じます。文部省というのは文化庁の親機関でございます。文化庁はなかなかこういう政策的なことを発言するような機関がない。
  ここでちょっと申し上げさせていただくとすると、大学でなくてもいいと思うのですけれども、高等専門学校みたいなもので、芸術表現教育の機関をぜひつくっていただきたいと思うのです。例えば、今、国際交流が非常に盛んでございまして、アジアなどにはどんどん大学として芸術教育 ―特に演劇と舞踊というのが国公立では全然ないんです。この中でも非常に劣ってきて、人材の厚みがないんです。新国立劇場というようなものができまして、ここでも人材がいないものですから、ある意味で民間から吸い上げるだけだと私はいつも批評しているんです。演劇なんかの場合は、これから小学校で表現などをやるときにも、本当にきちんとした教員養成機関の中で演劇のプログラムを経験した人とそうでない人の落差は相当あって、例えば、ロイヤル・ナショナル・シアターのイギリスの人たちを迎えてワークショップなどを行って、それを学校の出前プログラムにして、表現教育を高めようということで、ことしから何とかしようと思っているわけです。そういう意味で、いつまでたっても外国から迎えないと信頼できないようなことではと思うので、ごたごた言いましたが、何か芸術表現教育機関のきちっとしたものをおつくりいただけないかということを書いていただけると、私はここに参加した者として務めが果たせるということでございます。

○  今の委員の方の御意見は、私も全く同意見でございまして、前に中高一貫教育が議論されたときも、特に芸術、芸能の分野では一貫教育みたいなものが欲しいということで、いくつかの例を示した中にも入れていただいた記憶がございます。その後、そういうものが各県でどの程度といったら、全くその兆しは皆無と言っていいくらいでございまして、現実にはなかなか制約があるし、難しいことなんだろうと思います。例えばバレエであるとか、オペラというようなものは、我が国においては、音楽一つとっても洋楽中心でやっているわけで、小学校段階からかなりなじみがあるんですが、逆に我が国本来の歌舞伎であるとか、邦楽であるとかというものについては、学校でほとんどやっていない。ゼロに近いと言っていい状況にあるものですから、そういう意味で非常に心配しておりますが、今度、学習指導要領の改訂で、小学校段階から邦楽も積極的に取り入れるという方向が出てきたので、時間がかかるとは思いますが、それに期待をかけているという状況でございます。
  演劇なども、例えば新国立劇場で演劇関係の研修をやろう、あるいは養成をやろうといって議論をしておりますが、正直言ってなかなかまとまりません。それはこれだという共通のあれがないわけで、みんな違う。何とか塾、何とか塾といってそれぞれのやり方でやっていて、一つのルールというか、やり方が確立されにくいというような要素が演劇にはあるわけです。しかし、それを乗り越えて、何かスタンダードなものができればと思っておりますけれども、現実はそういう状況のようでございます。むしろそういうものができないならば発声法などは歌舞伎に学べというような議論もあるくらいでございます。しかし、そうも言ってられませんので、今後に私は期待したいと思っております。
  それから、発言しましたので、ついでに本題に戻りたいと思いますが、まず全体を通じての印象ですが、私は幼稚園教育から初等中等教育、あるいは高等教育というものの役割を、全体として、多少の経過の分析も踏まえながらやって、接続の問題を考えるというスタイルは、個別には高等教育あるいは中等教育、あるいは初等教育自体を論議してまとめたというのはあるかと思いますが、こういう全体としてまとめたものはたしか今までなかったのではないか。そういう意味では、非常に意味がある。ただ、残念ながら、味もそっけもないような分析になるのは、これはいろんな立場がありますからやむを得ないと思いますけれども、それにしてもそれは意味があることであったと思います。
  それから、先ほど他の委員から挑戦的ではないかというお話もございましたが、やはり私は本音の部分がかなり出ていて、逆にいいのではないかと思っております。例えば、絶対的な入試制度があるように、錯覚はしていないでも、本当はそう思ってなくても、公の席だと何か改善を目指さなきゃならんということで、抜本策を出さなきゃということが出るんですが、非公式な場では本音で「そんなもの、ないよな」ということになるんで、特効薬というのはないんだろうと思います。しかし、個別に改善していくところはあるんだろうと思います。したがって、今の表現がそのままでいいかどうかは別として、やはり個別にはいろいろ改善していかなきゃならんものがあるというような、何かそういうニュアンスのものを盛り込めば、あまり挑戦的でなくなるのではないかという気がいたします。
  それから、先ほど他の委員の方からお話がございましたアドミッション・ポリシーというのは、ある意味では当然のことなんですが、今これを言わなきゃならないということは、そういう現状にあるんだろうと思います。もしこれが徹底するならば、まさに大学がアドミッション・ポリシーを出して、自分のところの学部・学科が目指しているもの、そしてそれにこたえる適性がある者を入学させるという形ができると思うのです。しかし、それは言うは易く容易なことではないだろうと思います。特に私学の場合に経営の問題があるわけで、そんなきれいごとを言って、学生が来なかったらそれは何にもならないという現実が、特に受験生がこれから減っていくわけですので、生き残りをかけるということを考えると、そこのところは全部が全部ではなくとも、おおよそそういう方向になるというのは大変難しいことで、そのための手だてを中央教育審議会で議論するのはなかなか容易でないと思いますが、大学審議会、あるいはその他の専門のところで、これを具体的に支える手だてを一方で考えていかないと、言いっ放し、絵に描いた餅になるおそれがないだろうかという気がするわけです。
  具体的なことになりますが、例えばその一つに私学助成という問題もあると思うのですが、私の理解するところでは、今の仕組みですと、欠員が特に大幅に生じたような場合には、新しい学部・学科の設置認可はちょっと御遠慮願うというような空気があるのを、いや、そうでなくしますよということであり、私学助成についても、あまり欠員が多いと、それは減額の対象にしますよということを、そうでなくするということであろうと思うのですけれども、これはそういうふうに理解するには、よほど知った人でないとこれはわからないことなので、多少解説的になるかもしれませんが、そこのところを書いていく必要があると思います。
  私学助成についても、今、財政事情を反映して、非常に伸びがない。むしろ実質的に減っているわけです。そういう中で、欠員を生じた場合に、100%と言わないでも何か助けてやらなければ、そんなことを言ったってうちの大学は倒れちゃうよという現実の前には、いくらきれいごとを言ってもそれはきれいごとにすぎないことになってしまうのではないか。

○  アドミッション・オフィス入試というのが少し出てきていますので、これについて考えを述べたいと思います。
  早速、来年度の入試からドッと増えるという報道がなされていて、実態がどんなふうなのか非常に心配されるところですけれども、相当早くから仕掛けて、早めに合格者を決めてしまう。10月で合格が決まっちゃうような、そういった情報もあるんです。これはこれまでのいきさつでいえば、11月1日が推薦の解禁、それりよりも前にアドミッション・オフィス入試で決まっちゃうというふうなことが実際に起こるのかどうか、非常に心配される。ということになると、アドミッション・オフィス入試についても早いうちにどこかできちっと歯どめをかけておく必要があるんだろう。これは内容的には、丁寧な入試というのがうたい文句ですから、当然、時間はたくさんかかるよということになる。そうすると、早くから仕掛かけるのは当然だということになる。それが放置されたままだと、とめどなくなっちゃうような予感がいたします。私ども高等学校の人間としては、かなり前からアドミッション・オフィス入試に対する期待があって、いくつかの大学が先導的におやりになっていることについては、高等学校としても「いいよ、いいよ」という話、それから「ぜひ進めてくれ」みたいな意見がたくさん出てきていたんです。だけど、ここにきてこうなっちゃうと、それが裏目に出ることもあるのかなと、大変心配しています。この審議会のこの答申あたりで、何かそこをきちっとくぎ刺しておく言葉があってもいいのではないかと考えています。
  それから、「アドミッション・ポリシー」という言葉が今回初めて出てきたということですが、私はアドミッション・オフィス入試が隆盛になることとあわせて、アドミッション・ポリシーなのかなと理解しているんです。セットになっているんだろう。その辺もこの書き方だとまだよくわからない。もしセットになって浮上している言葉が「アドミッション・ポリシー」ならば、その関連もちゃんと書いてほしいと思います。
  そして、新しい時代の入試として、アドミッション・オフィス入試とその周辺を大事にしていこうというのであれば、私は最終的に大学入試センター試験と必ず一緒にできるような形で将来考えてもらいたい。アドミッション・オフィス入試の選抜の仕方の中に、日程的にいろいろあるんでしょうけれども、何らかの形で大学入試センター試験をかませる。特にアドミッション・オフィス入試の場合には、高等学校からの調査書とか、推薦状とか、そういうのが割と必要でなくなるケースもあるわけです。そうすると、大学入試センター試験の結果を使う方向でアドミッショ・オフィス入試を考えていただくのがいいなと考えているんです。それも今回、具体的に日程までというふうには無理でしょうけれども、そういうことを思わせるような形で、アドミッション・オフィス入試を今後大事にしていこうというふうな、そういう書き方をぜひしていただきたいと思っています。

○  私は教育の専門家ではありませんが、私もずっとこの委員会に来ておりまして、人格の形成を目指した初等教育を含む各段階の役割分担やその明確化については、難しいことはわかりませんが、少なくとも明確化に関しては明確にされる答申なんだろうと思っておりますし、委員の方の意見を聞きながら、なるほどなとうなずいておるんです。
  先ほど他の委員の方がおっしゃったことは、私も同感でございまして、人材育成という面においては、国際化ということにかんがみまして、日本の文化、歴史の大事なものを、高等教育、大学でなくても、中学校、高校からでもいいから、学科というか、学習の中に入れていってほしいなと思うのです。この答申のどこかでも読んだ気はするんですが、国民の横並び意識が強いということがどこかに書かれていたと思うのですが、そういうときに、みんなが大学へ行くから私も行く、僕も行くといった意識に関しても、教育の中で、みんなが違うものを持つんだという意識も進んでいくのではなかろうかと思いました。
  国の経済的繁栄はその国の人材の豊かさである。その人材の豊かさは、その国の教育システムの質に左右されるという話がありまして、私も本当にそう思いますし、今、世界の考えはそうではないかと思うのです。アメリカならず、世界中で教育改革というのはいつの間にか経済政策の一環となっているように思いますので、そういった意味で、21世紀を見据えた答申が文部大臣に提出され、それが大学審議会なり教育職員養成審議会なりにしっかり生かされていくことを望むわけであります。

○  高等学校は現在、様々な校種があり、その中で様々な学習を行い、高い専門的な能力を身に付けている生徒がおります。しかし、その生徒たちが大学との接続においてうまく接続されているかというと、不十分なところがあります。大学のほうもいろいろと門戸を広げて、そういう生徒のために推薦入学の枠をつくって受け入れているところもあり、このことについては非常に感謝しているところですが、この枠はまだ十分ではありません。
  さらに、現在、専門学科の生徒が卒業後、さらに専門的な能力を向上させるために、継続教育の場として専攻科がつくられております。また衛生看護科では、准看護士の資格取得の制度が変わってきましたので、その資格取得の受験ができるように相当多くの履修時間が必要になり、衛生看護科等の設置校では専攻科を設けなければ対応できなくなってきております。また、専攻科は高等専門学校とほぼ同じ内容の学習をしています。高等専門学校は大学への編入の道が、つい最近ですけれども開かれましたが、現在の高等学校の専攻科は同じような学習をしていても、大学への編入の道は開かれていません。ですから、すぐにとは言いませんけれども、学校制度上の袋小路をつくらないためにも、現在の高等学校の専攻科で学んでいる生徒が、その学習が評価されて、専攻科修了者にも大学編入の資格を付与されることをぜひとも検討していただきたいと思います。
  接続においては、どちからというとそういう少数の生徒が見過ごされて、恵まれない状況に置かれる場合があります。普通科と専門学科の生徒を比べますと、大学進学については履修している学習内容からいえば、普通科の生徒のほうが有利な状況にあります。専門学科の生徒、また、ただ今述べました高等学校の専攻科で学んでいる生徒にも、そういう光を当てていただけることも ―ここには推進入学の拡大ということだけしか書いてありあせんので、触れていただければ大変ありがたいと思います。専門学科の生徒は大学に入学しても、学力が低くてだめではないかと、最初のころは言われていましたが、追跡調査をしてみたら、推薦枠で入学した生徒は立派に大学生活を送り、そして大学院まで進学しているという実態が報告されております。ただ単なる学力だけではなくて、意欲とか、目的意識などしっかりしていることが大切であるということがわかってきておりますので、ぜひ制度上の袋小路にならないためにも、大学の編入の道を開いていただければありがたいと思っております。

○  また到達度評価のところに戻って恐縮ですが、1点だけ補足をしておきたいと思います。先ほどの他の委員の方の御発言、今の御発言にも関連するんですが、到達度評価をどのようにするかということが大事だということは大変重要なご指摘でございまして、実は到達度評価を考えるときに、これをどうやって育てていくのかということから考え始めなければいけない。それほどに現状では、現在の高校教育の現場でバランスのとれた、到達度評価を行うことは難しいのだろうと思います。到達度評価を困難にしているいろいろな障害を克服していけることができれば、まさに「選抜から選択へ」という転換を促すための、非常に大きな力になるだろうと考えます。
  到達度評価につきまして、研究者では、優秀な方はたくさんいらっしゃいますけれども、こういう分野の量的な体制は必ずしも充実しているわけではない。本当に到達度評価を正面から議論する、実行するのだとすれば、そういうことを研究する人から育てなければいけないというのが現状だと思います。その場合でも、国の研究所が一つやればいいという話ではもちろんなくて、地方には都道府県に教育研究所もございますし、教育センターもあります。そういうところの協力も得て全国一斉にスタートさせるぐらいの意欲がないと、この到達度評価というのは地に足のついた展開にはならないだろうという気がいたします。
  以前に、教員免許状を取る際の教員養成学部のカリキュラムを調べたことがございます。そのときに教育測定であるとか、教育評価という科目が多くが代替科目で済ませることができるということを知りました。あるいは、国立大学でも教育測定や評価の専門家の先生がいらっしゃるところが少ないということも知りました。言ってみれば、到達度評価であるとか、評価論・測定論をまともに学習することなしにでも、先生になれてしまうという現実があります。実際に学校でもって、どのような評価が可能なのかということ、そしてそれを支援するためにも、全国的な形でそういう拠点をつくっていくことがまず最初なのではないかと思います。

○  これまでの中央教育審議会で、1点刻みの選抜が公平であるような概念を見直すように呼びかけてきたが、今も依然として強く残っていると。その反面、様々な選抜方法によってかなり公平性の拡大もしてきた。そういう背景の中でもって、「大学側でも、自らの大学の教育理念等に合致した入学者選抜の在り方を模索し始めたところであるが、1点差刻みの入試が最も公平であるという社会の意識が変わらなければ、思い切った変革は不可能である」というふうになっているわけです。これを見ると、何か他人事のような気がしてしょうがないんです。積極的に大学自らが変えていくということであれば、これは変わるのではないか。「社会の意識が変わらなければ、思い切った変革は不可能である」というのは、ちょっと弱いのかなという感じがします。
  もしそうであれば、1点刻みの選抜方法のウエートを少なくすれば当然変わってくるわけでございますので、ここのところで「思い切った変革は不可能である」というのは、ほかのところに視点を変えてしまうような感じがしますので、ここら辺は書き方を留意したほうがいいのではないかという感じがいたします。

○  大学入試センターにおける教科・科目横断型の総合問題の内容ですけれども、これは総合的な問題にするというのは大変いいことだと思います。総合問題といたしますと、これは私はリカレントな教育を推進するという立場からいたしますと、大学入試センター試験はフレッシュマン ―例えば高等学校を卒業して一旦労働の場に出て、4、5年してもう1回大学に行こうかといったときに、改めて受けたとして受かるような総合問題を想定していらっしゃるんでしょうか。そうでなければ、「多様な利用方法」とありますが、大学によっては大学入試センター試験の成績が一定の水準に達していれば、その有効期限というんでしょうか、そういうものについてまで柔軟に考えられるような方法になるんでしょうか。その辺のところまで大学は自由に考えていいというつもりで書いていらっしゃるのか。それは聞くようなことではないですけれども、私はそのほうがいいと思うのですが、どうなんでしょうか。総合問題の内容によるのですが。
  若い学生を考えますと、ある程度勉強が到達度に達していて、とりあえず大学入試センターの試験に受かっておこう。いわゆる一次試験みたいな感じで受かっておこう。だけど、その後、どこに進むかというのをもうちょっと考えたいという場合に、四、五年置いてしまって、受からないような問題だと、そういう意味ではリカレントになかなかなりませんよね。大学院に入れば別ですよね。高等学校卒業の資格を問わないんでしたっけ。この辺はどの程度まで考えてこれをお書きになっていらっしゃるのかということですけれども、どのようにお考えになっていらっしゃいましょうか。

○  大学入試センター試験について発言させていただきますと、大学入試センター試験の改良について、リスニングテストの実施とか、総合的な試験とか、良質な問題の再利用とか、いろいろ出ているわけで、それは私はそれで結構だと思うのですが、最も大事なことは、特に私立大学が大学入試センター試験をもっと利用しないことには、例えば真ん中辺で、大学入試センター試験と個別試験とのいろんな組み合わせを考えて、入試選抜を改良できるではないかといういくつかの提言があります。これだけではなくていろんなやり方があると思うのですけれども、確かに大学入試センター試験を利用する大学数は増えていますが、学生数で見れば、まだまだ個別試験だけで選抜している大学が多いんだろうと思うのです。絶対数でも大学入試センター試験をかなり利用するという実態をつくっていく必要があるのではないだろうかと私は思っております。
  個々の大学の入試改善についてはあまり触れていないんです。アドミッション・オフィスを設置しろとか、適切な問題を出せとか、いろんな活動記録を参考にして多様な評価をやれとかと言っている程度なので。確かに今までの答申の中でかなりのことは言っているので、こういうことになるのだろうと思いますが、既に出した答申の中でも基本的な事柄、あるいは引き続き各大学に要請する事柄は、それを引用する形ででも触れないとどうかなという気がするんです。例えば、今日も話題になっておりましたが、よく特定の銘柄の大学は短期間に大量の受験生をさばかなければならないので、先ほどのアドミッション・ポリシーに基づいた出題とは到底思えないやり方をやっているわけですね。その辺の改良も、たしか前の答申で触れたと思うのですが、その辺も再掲みたいな形になるかもしれませんけれども、やはりこの中に取り込んで書いたほうが答申に厚みができるのではないだろうかという気がいたします。
  それにしてもそういう改善は、大学入試センター試験をもっと多く利用するということがある程度前提になると思いますので、これを進めるような文言がどこかに欲しいなという気がいたしました。

○  先ほど他の委員の方の御指摘の点でありますが、私は大学入試センターにおいて教科・科目横断型の総合問題等についての研究を行うことについては、フレッシュマンであるとか、1年浪人したとか、そういう人たちを対象とするものというふうに受け取ってきたんです。私も考えておりますのは、職業経験を持った者については別途の試験をすべきだろう。それを悪用する部分については、それは大学が見抜くしか方法はないんですね。例えば、英国の例になって恐縮ですが、私、2年前のことですが、オックスフォード大学やケンブリッジ大学でも非常に年とった学生の数が増えています。どうやって入れているのかと聞くと、全然別なんです。フルタイムでは必ずしもありませんけれども、パートタイムで入れて、フルタイムとパートタイムの学生の数が何と1対1ぐらいになって、職業経験のある人をものすごく入れているということです。英国でそのシステムが機能するのは、少なくとも表面上、大学へ浪人して入るのがほとんどいないんです。大体五つぐらい志願して、自分の入れる大学に入学してしまう。あまり大学にこだわりませんから、そういうシステムができているから、うまく機能するのではないかと思います。私が意識したのは、あくまでフレッシュマンか1年とかそういうことで、職業経験を持った者については別にやるべきだと解釈しております。

○  「接続を重視した具体的な改善方策」ということで、丁寧な入試選抜の問題とか、アドミッション・オフィス、大学入試センター試験の改善ということで、かなり具体的に提言がなされているんですけれども、中央教育審議会として入学者選抜についての枠組みについて提言をするということで、具体的な問題は、ここでも最後のところに書かれているように、大学審議会等でその具体的な改善方策をさらに検討するという、そういうくくりになっていると思うのです。
  それはそれとして、技術的に考える場合に、選抜する側の大学の意向も十分くみ入れるというのはわかるんですけれども、今問題になっている大学入試、あるいは高校入試等も含めて、ある意味では受験する側の、よく消費者主権という言葉もあるんですけれども、子どもたちや社会人も含めた受験する側の意向を十分考えていかなければならないという側面もありますから、文章の締めくくりについて特にこういうふうに変えろという意見を言う意思もありませんが、そういう物の考え方が今求められているのではないかと思うのです。
  大学入試に限って言えば、一方で学習意欲なり、大学に入る目的を明確に持った子どもたちをより多く、ミスマッチングをしないように、ふさわしい大学に入れていくという考え方が基調になっていることについては、もっともなことですからいいんです。現実には、特に学力低下問題等がありまして、大学、高等教育機関については、学力水準をできるだけ維持していかなければならないという一方の社会的な一つの要請があるし、受ける側の学生からすると、できるだけ入りやすくて、単に18歳時点だけではなくて、入ってからの能力の発揮ということも含めて、丁寧な入試をしなければならないということで、いくつかの提言があります。
  私は基本的には、ここまできていますので、できるだけ原案を生かしながら、資格試験的要素をできるだけ拡大していくということに、もう少し努力してもらえないか。これは最終的には大学審議会等で、実現の可能性も含めて、現在の大学入試センターが独立行政法人化されるという前提に立って、どういう機能を大学入試センターに持たせるのかということについては十分議論があるのかもしれません。
  具体的に言うと、他の委員の方から二次答申の話がありましたけれども、あれは例えば芸術というふうになっていますが、芸術に限らず、特定のそういう分野について、できるだけ複数年にわたって活用できるようにするということと、やはり1点刻みでなくて、できるだけ一定の水準に達している者については、もちろん素点は示すにしても、一定水準以上の人は一応試験でそれなりの力を備えているという、大学教育を受けるにふさわしい基礎的な学力を備えているということで、あまり点数の1点差、2点差というところに重きを置くのではないという形で取り扱えるような工夫をしてもらう。
  先ほど他の委員の方からもありましたように、今年の出願が行われているところですけれども、私立大学が大学数でいえば初めて過半数、52%ぐらいに達したという報道がありますが、受験生からするとまだ4分の1ぐらいではないかと思われるので、何とか大学入試センター試験を活用する私立大学を増やすという政策的誘導が何か具体的にできないのかというもどかしさみたいなものを、外から見ていると感じるわけです。そこらのところについて、なかなか現実に難しい ―私学助成と絡めるとこれはまたいろいろ問題になるでしょうけれども、特に18歳人口が減って、推薦入学等が私立大学で増えていって、半数以上が推薦入学になるというと、基礎的な力をどこで見るかというと、大学入試センター試験で高校教育の到達度をある程度見るという役割があれば、大学入試センター試験の重みが増してくると思うので、できるだけ大学入試センター試験を活用する大学が増えるというようなことを、文部省が示す大学入試選抜要綱等の中で書き込むということも含めて、その辺のところについてもう少し検討してもらえないかということを思っています。
  なお、全体的には、荒井委員からもありましたように、もし副題かなんかをキーワードでつけるとすれば、「選抜から選択への原理転換」というか、そういうことを大きく打ち出したほうがいいのではないか。私なんかも20年ぐらい前に、当時、大学の学部長に座長を頼んで、大学入試問題の研究会をつくったときのまとめが出ているんですけれども、「選抜から選択への原理転換」という副題で出て、ようやくこれが社会的に、中央教育審議会の場でも大きなあれになったという感を強く持っているわけですが、そういう取り扱いにもしなれば非常にいいなという感じを持っています。
  到達度試験について、いろいろ御意見がありましたけれども、私は本来的な到達度評価は、他の委員の方から言われたようなのが教育的に見たらそういう取り扱いをするというのが一番妥当な扱いではないか。確かに日本の場合、特に私はイギリスに行って感じたんですが、評価についての研究の蓄積が非常に足りないので、今は到達度評価をする場合にどういう観点やどういう基準をつくるのか。特に教科についても、いわゆる主要教科という、母国語とか、数学とか、理科とか、歴史というのはある程度あるにしても、芸能関係とか、そういうものは到達度評価といってもなかなか実際問題として難しい問題もあるので、一律に得点にするということだけでいいのかどうかも含めて、相当時間をかけて研究していく必要があります。最終的にはそういうものを参考にして、各学校が日常的な教育の中で絶えず振り返りながら、カリキュラムの改善とか、指導方法の改善につなげるようにして、送り出す学生もきちっと力をつけるという意味で使われるべきなので、今直ちにこのことをもって、選抜の資料にするということについては、まだまだ早いのではないか。そういう研究もまだこれからという段階ですから、取り扱いとしては他の委員の方がおっしゃったような扱いでいいのではないかという意見を持っていることも、あわせて申し添えておきます。

○  大学入試センター試験に関していろいろな御提案が盛り込まれているわけですが、リスニングテストであれ、総合テストであれ、あるいは従前から自由な選択を維持する上で、土曜日、日曜日の2日間だけで大学入試センター試験を実施することが、果たして可能かどうかという疑問があります。例えば医学部等からは、生物、物理を両方とも選択できるようにせよとか、地歴のほうについても類似の希望が出ています。
  一方で、障害を持った方たちの試験のことを考えると、1.5倍の時間を使っておりますので、詰め込みはどうしてもできない。そうしますと、2日間でもって、いろんな選択が可能であるという試験のプログラムを組もうとすると、そこにどうしても無理が生じてきます。しかし、これを3日間にしますと、金曜日に食い込むのか、あるいは月曜日まで延びるのかということになって、試験場に使っております大学はもちろん、一部高校においても支障が生じてまいります。これはテクニカルな問題といえばテクニカルではあるんですけれども、問題としては非常に影響範囲が大きいことです。そこで、もし中央教育審議会で大学入試センター試験の実施に関して、従来の2日間というものを少し柔軟に考えるというような提案が出ますと、いろんな観点から工夫の余地が出てくるのではないかと思います。その点、御配慮をいただければと思います。

○木村座長  ありがとうございました。
  それでは、時間になりましたので、本日の討議はここまでとさせていただきます。
  本日はどうもありがとうございました。また次回よろしくお願いいたします。

(大臣官房政策課)

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