審議会情報へ

中央教育審議会

 1999/10 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第20回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第20回)

議  事  録


平成11年10月7日(木)  13:00〜15:00
グランドヒル市ヶ谷  1階    「白樺」


1.開  会
2.議  題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉  会


出  席  者

委  員
根本会長、鳥居副会長、木村座長、川口委員、國分委員、坂元委員、田村委員、土田委員、永井(多)委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、安齋専門委員、岡本専門委員、小川専門委員、工藤専門委員、小谷津専門委員、鳥専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山口専門委員

事務局
本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  本日は、お忙しい中、本会に御出席賜りましてありがとうございました。
  それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局より説明>

○木村座長  それでは、早速でございますが、審議に入らせていただきます。

○  次の世紀、21世紀の教育について何か新しい視点といいましょうか、方向性みたいなことを示す役割があるんだろうと思うわけです。その意味でいうと、「自ら学び自ら考える力を養う」という初等中等教育の目標、それから高等教育の「課題探求能力の育成」の教育は、現実に問題になっていますし、早急にこたえなければならないテーマだということは事実ですし、それは世の中でもかなり意識されているということは実態としてあるわけです。そこから先にどういうことが求められているかということについてのヒントになるような、つまり21世紀に、「あ、この提言が今このように生きてきたんだな」というものが何か出ないかということを考えた上での申し上げようなんですが。例えば、臨時教育審議会は「生涯学習」ということを言って、それが今ごろ効いてきているわけですけれども、そういうようなことが言えないものだろうか。そういう目でこの文章を読まさせていただいて、ちょっと考えたことを申し上げさせていただこうと思います。
  日本の教育というのは、どちらかといえば入口管理といいましょうか、入るところをチェックして、出るところはあまりうるさく言わないという流れが基本的にあったのではないか。それがよく機能する場合と悪く機能する場合があるのでしょうけれども、悪く機能する場合は、いわゆる学(校)歴偏重という結果が生まれるのであろうと思うのです。そうなると、その点について、21世紀にもそのままでいいとはだれも考えないわけです。そうすると、出口管理といいましょうか、教育の切り口で考えれば、到達度評価。そのような視点がどこかに明示できないものだろうか。それが将来、日本の教育を入口ではなくて、出口管理に切りかえていく。これは小学校、中学校、高校、大学、あるいは大学院、あるゆる分野で出口での到達度が問われる。これは透明性が基本にあって、説明責任を果たすという意味でもあるわけです。どの程度の付加価値がつけられたかということを評価するというようなことも重要だと考えたことでございます。
  その点で言いますと、高等学校卒業時点で到達度を評価する試験というのは、ただ単に学生の学力低下に対する懸念から議論がされているわけではなくて、高等学校がどれぐらい付加価値がつけられたかということを示すという意味であったと思います。

○  第1点目は、「初等中等教育と高等教育との接続」というテーマであるわけですが、その中身を読むと、高等教育は大学のことだけに偏っているのではないかという印象があります。結果として、一番言いたいことはそれでもいいんだろうと思うのですけれども、何らかの形でそこをきれいにしておかないと、何となく座りが悪いというか、そういう感じがあるというのが第1点です。
  第2点目は、国民の意識改革が大事だということが書いてあって、これは本当におっしゃるとおりだと思います。しかし、後ろのほうを読んでいくと、それを何で受けているのかという受け皿がないという気がします。たぶん情報公開とか、いくつかその答えになっている部分はあるのですが、それだけで十分だろうか。国民の意識改革が必要だ、それが一番大事なことだと思います。
  それとの関係で、「初等中等教育と高等教育との接続を重視した入学者選抜の改善」で公平について触れていますが、国民の意識の改革との関係で言うと、むしろ今までの入学試験、紙に書く入学試験というのは公平性の一形態でしかないということを明確に書くべきであって、公平性の拡大ではなくて、そういう意味では多元的な公平性の判断というか、そういうことをはっきり書いておく必要があると思います。
  この前、新聞を読んでいたら、投書で出ていましたけれども、やはりマークシート方式でなく記述式試験が一番公平だと思っている人が多いので、その観念が間違いなんだということを言っておかないと、アドミッション・オフィス方式とか、そういうのがいいということが出てきませんし、意識が変わらないと思います。
  それから、大学の定員に関してのところですが、これは私にはさっぱり意味がわからない。ほとんど全部の文章についてよくわからないんですが、「定員に満たない場合が生じ得る」というのは、それはいいと思うのです。その次の文章、「各大学においてまず適正な学生定員を設定するよう、見直しを図ることが必要である」ということの意味がわからなくて、これは考えようによりますと、自分の大学のレベルを高いレベルにしておくために、定員を減らさなければいけないことになる。要するに、日本全体から考えたら、質を維持しようとしているいい大学には学生数が減る結果に日本全体としてなるというようなことも、読みようによっては読めるので、そういうことを意図していらっしゃるのか、していらっしゃらないのかよくわかりませんけれども、定員をこれとの関係でどう考えるかというのはもうちょっと議論が必要です。私、以前に1回申し上げましたけれども、これはこの中央教育審議会では暴論に聞こえるかもしれませんが、定員をもっと大幅に自由化するという発想もあってもいいのではないだろうかと思います。
  先ほど他の委員の方から御質問のあった「設置認可についての適切な配慮」とか、「私学助成について弾力的な取り扱い」とか、それもよくわかりませんで、基本的に定員とそういうことを結びつけていることがいいかどうかというところに戻って議論をすべきだし、考えるべきではないだろうかと思います。

○木村座長  定員のところについては事務局から説明いただきたいと思います。

○事務局  定員の件でございますが、いろいろ御指摘をいただいておりますけれども、もともと大学に定員割れがあるというようなことをほとんど想定していなかった、今までずっと。特に国立大学においてはそういうことはあり得ないという考え方で進めておったのが、そういうことも当然あり得るんだというふうに切りかえていく発想の大転換が前提にあるわけでございます。そのために、まだ私どものほうもそのことをうまく表現するのに練れてないところがございますので、整理をさせていただきたいと思います。
  ここで言わんとするのは、安易に定員割れをつくるなということがまず前提になっている。それは学力がないと言うと、本当にそれを厳密に運用していくと、先ほど委員の方からございましたように、せっかくこれだけの教育設備を用意しているのに、入ってくる人が少しなんていうことになるから、そこのところは努力すべきだけれども、しかし限度があるので、定員に満たない場合が出てくる。それが何年も続くようなことになると、定員そのものも見直す必要があるのではないか。しかし、これは裏を返せば、1回定員を減らしても、また今度優秀な学生がどんどん集まるということになれば増やすことにもなるという意味では、定員というのを変えることが非常に難しいというか、厳格な運用を変えていくという方向にはつながってまいると思うわけでございます。いずれにしても、この表現は、先ほど来御指摘がございますように、座長と御相談して、私ども事務局が文章の整理をさせていただいたわけでございますが、もうちょっと整理の必要があろうと思いますので、検討させていただきたいと存じます。

○  我々の答申は文部大臣に答申するわけです。それをもう少し別の言い方をすると、これは中央教育審議会ですから、これを受け取った文部大臣は、ものによってはそれを大学審議会に投げる、どこどこの審議会に投げると、こうなります。文章全体を読んでみますと、大学審議会で審議しなさいということがはっきり書いてある場所があります。ですから、大学審議会として受けとめやすい部分ははっきりしているのですが、それ以外の部分で実は非常に重要なことが、どう投げたらいいのかが読んでいても、さてどこへ投げるのかなと思うものがあります。
  そこは何かというと、冒頭のところで、歴史を振り返ってみて、なぜ6・3・3・4制ができたか、そしてなぜ複線化されていた日本の後期中等教育と高等教育がほぼ単線化されてしまって、ごく一部、後になって短期大学と高等専門学校ができたという歴史があるのはなぜかというのは解説してありますが、我々は果たして中央教育審議会で、どこかにもしかしたら球を投げてほしいという意味で、6・3・3・4制は本当にこれでずっと続けていいのだろうか。単線化のままでずっと走っていいのだろうかという言葉を入れておいて、文部省がどこかの審議会に投げるか、あるいは平成13年からの新中央教育審議会に、もう一度投げ返してくるか、やりやすいようにしておいたほうがいいのではないかという感じがします。

○  特に「第1章」をこういう形で、戦後50年の教育を歴史的に総括するというか、評価する形で、その中でなぜ今接続の問題が重要なのかという位置づけで、この「第1章」を設けられたということは、非常に意味のあることだろう。ただ、その中身については、私も十分まだ読み切っていません。戦後の学校制度が戦前の複線型から単線型の学校制度、6・3・3・4制という教育体系になったことと、量的な歴史的に見た進学率の上昇といいますか、高等学校と大学を中心にして書かれている。数字が、昭和15年がどう何年にどうということで、かなり詳しい数字が出てくるのは、確かに大臣に出す問題ではありますけれども、広く国民が目を通してもらわなければならない文章ですから、学校制度の問題と進学率の上昇のところをもう少し読みやすいようにうまく工夫をする必要があるのではないかという印象があります。
  私の問題意識も、今おっしゃったように初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会であるとき、6・3・3・4制という学校制度、とりわけ発達が早期化しているという問題、あるいは自立のおくれということからして、就学前教育と小学校との関係を含めて、今の6・3・3・4制で果たしていいのかどうかということについて、検討する時期にきているのではないかということで、たしかそのときは4人ぐらいの委員の方から同趣旨の発言がありました。その後、全然取り上げられていないんですけれども、これはかなり大きな問題になる。それを中央教育審議会が取り上げるのか、どこがボールを投げるのかということで先ほど他の委員の方からありましたけれども、国民から見ても、戦後教育50年の間に、制度そのものが、最近のはやり言葉で言えば制度疲労的なものを起こしているのではないか。
  それに対して、やれ学級崩壊をどうするか、いじめをどうするか、不登校をどう克服するかという対症療法的なことは、中央教育審議会も各種の審議会もやってきたけれどもやってきたけれども、トータルとして21世紀の社会の中で、特に経済界は日本の将来に対して大変な危機感を持っておられるようで、いろんな提言がありまして、社会経済生産性本部や経済同友会、日本経営者団体連盟、各団体のものを私は読まさせてもらいました。2月の経済戦略会議の答申の中にも、日本の経済の再生は究極的には教育によるというような表現もありまして、国民の関心が教育問題に高まってきているという時期です。それと中央教育審議会に対する批判も名指しでされているようなこところもあるんですが、それが全部当たっているとは私は思っていないんですが、やや事柄を対症療法的にとらえて、これから21世紀を展望した我が国の教育をどのように持っていくかという哲学が全体的に欠けているのではないかという指摘は、謙虚に受けとめるべきではないかと思っているんです。
  この「第1章」の締めくくり的なものに、そういう感じの文章をやはり入れる必要があるのではないか。確かに接続ということで有馬文部大臣から諮問は受けたけれども、これほど学校制度そのものを含めて、あるいは学校になぜ行くのか、あるいは学校選択の自由みたいなものが、いろんなところで出てきていまして、今、教育問題についての国民的な関心、期待の高まりを受けるとすれば、この時期に出す一つの答申ですから、その辺のところについてやや明確な方向性を示す必要があるのではないかというのが、今日の提案を受けて私が感じている一つの問題点です。
  それから、国民の意識の問題というのは、確かに重要ですけれども、その意識変革をするためには、制度とか、システムをある意味で変えていくことが伴わないと、お説教的に国民の意識はおくれているとか、やれどうとかと言ってみても、なかなか変わるものではないので、意識変革に強く作用するような一つのシステムの改革とか、例えば学(校)歴偏重社会の問題についても、とりわけ企業の採用とか、だいぶ改善されてきていると思うのですけれども、まだ潜在的にはそういう意識がかなり残っている。意識の改革を国民に求めると同時に、政府なり政策官庁としてこうすべきだということについてあわせて言わないと、なかなか実効力が伴わないという形になるのではないかと感じております。
  一つだけ具体的なことで申し上げたいんですけれども、「高等学校入学における能力・適性等の判定」です。これはいろいろずっと議論になってきたところですが、以前の審議の中で、高等学校の適性・能力を判定して入学者を決定するのに、いわゆる適格者主義をとらないという表現をめぐって、相当議論になって今日まできて、そのときの文言表現から見ると私は多少トーンダウンしたと思っているのですが、新聞に報道されたことも含めて様々な反響を呼んでいます。
  問題は、前のところにもずっと書かれておりますように、高等学校が97%、ほぼ全員が高等学校に行くという、高等学校がまさに国民的な教育機関になってきている。97%という数字は、義務化に近い、準義務化と言ってもいいぐらい、同じ年代の子どもの大多数が進学しているわけです。どうしても進学できないという子どもたちが3%。私の記憶に間違いがなければ、たしか中学生の就職率は1.3ぐらいではなかったかと思います。あと1.7ぐらいは無業者になるとか、いろんなことになっている。事実上、国民的な教育機関になってきているという状況、また職業に就くといっても、いろんな基礎資格で従来中学校卒業であった資格が、高等学校卒業というふうに理容・美容師等も含めてほとんど法律改正がされていますから、中学校を出卒業してきちっとした職業に就けるという職種は非常に限られてきているわけです。したがって、親からも、本人からも、せめて高校までは行きたいというのは、ある意味では私は健康的な動機だと思うのです。
  したがって、ここに書かれてある事実は事実として受けとめて、なお後期中等教育に進学希望を強く持っている子どもたちが、トータルとしては、希望したら高等学校にはどこか県内であれば入れる。したがって、定員内不合格を出さないような努力や条件整備を、今後やっていく必要がある。ここでも適正な受験機会の提供とか、そのための条件整備をうたってありますので、そういう趣旨も含めれば、ぜひそんな趣旨で、締めくくりの終わりの3行のところに少しそういう趣旨を入れて補強していただけないかというのが具体的な意見であります。

○  2点ばかり希望というか、感想ですけれども、生涯学習社会の展開における初等中等教育と高等教育の連携に関する視点について、日本の高校・大学の大衆化という中で、制度の発展が日本の社会経済に大きく貢献したというプラス面の評価を前提にして、いろいろなことが書かれているんですがもう一つ、これからの制度の在り方を考えていく際に、そうしたプラス面のみではなくて、急激な高校・大学の大衆化の中で生まれてきた制度の負の側面をもう少し見据えて、それを視野に入れてこれからの改善方策を文案に書き込めないかという点です。
  というのは、一つのマイナス面ということで、高等教育段階における学力低下の問題が指摘されていますが、この間、それと関係して、大衆化という中で、高校とか大学進学の階層間の格差が、この間かなり進んできたということが言われています。実際、学力の低下については、確かにいろんなデータが不足していますけれども、子どもの平均的な、全体的な低下ということではなくて、むしろある一定の階層における学力の低下ではないのかという指摘もされているように、進学とか、学力をめぐっての階層間の格差という問題が、制度のありようを問う形で、今、出始めているということを、これからの制度改革の論議を進めていく際、もう少し意識して考えられないのかということです。
  例えば、高校進学率は今97%ですけれども、これはデータ的に古いんですが、例えば生活保護世帯の子どもたちの高校進学率はいまだに70%とか、75%程度です。さらに中途退学者というのは、数パーセントですけれども、ある地域の中途退学者のデータを見たことがあるんですが、生活保護世帯の子どもたちの高校中途退学率は30%前後ということで、異常に高い。そうした大衆化に伴う制度のもう一つのマイナス面を視野に入れながら、中高の連携とか、大衆化教育社会における高校教育の在り方や役割とか、大学入学の問題等々について、何か少し検討できないかということを感じました。
  各学校段階における到達度評価のところについては、中央教育審議会の議論がこのような形でまとめられていいのかなという思いもあります。今後、大学レベルで、アドミッション・オフィスの入試が推奨されていくことになりますが、アドミッション・オフィスの推奨の前提には、高校段階における学業パフォーマンスの問題とか、教育活動の内容のきちっとした点検があって、はじめてアドミッション・オフィス入試の成功があるわけですよね。実際、アメリカ等々でのアドミッション・オフィスの入試は、長い歴史をもってやられてきている訳ですけれども、そうしたアドミッション・オフィス入試が、高校間の格差がいろいろあってうまく機能しないということで、ヒアリングでもお聞きしましたが、オレゴン州とか、オーストラリアのプロフィシェンシーテストが導入されてきているという状況が一方では生じてきている。それは、高校の教育活動とか、学業パフォーマンスをベースにした大学入試をやろうにも、高校段階のチェックがうまくいかないという背景の中で生まれてきた制度改革の流れだと思います。日本でも将来的なことを見据えた場合には、高校レベル等の出口でのチェックをどうすべきかということは、もう少し踏み込んで書いてもいいような感じがします。

○  私は経済人として21世紀を見た場合に、どういう社会であるべきかということをつらつら考えますと、これは常日ごろ言ってきているわけですが、ダイナミズムを失わない、そして徳のある社会、小渕総理は「富国有徳」というようなことを言っておりますけれども、そういう社会を実現するための教育はいかにあるべきかということではないかと私は思っております。
  ダイナミズムを失わない社会というのは、結局、雇用機会が確保される。そのためには、それ相応の成長を果たさなければならない。3%ぐらいの成長は潜在的に日本はあると思います。そういった社会を実現していくためにはどうしたらいいのか。一方において、ハイクオリティーのクオリティー・オブ・ライフをエンジョイできるような社会というような2本立てになるのではないかと思っているわけでございます。
  そういった考え方でいきますと、これまで産業界というのは、産業化の路線の上で教育に求めるものは、知識の習得とか、あるいは技術の向上とか、あくまでもそれは能力主義でございまして、同時に個人主義というものも要求してきた。それを支えるものとして、日本の場合は、一括採用とか、あるいは終身雇用、年功序列、学歴社会というものがあったと思いますが、これもこの提言にも書いてございますが、徐々に崩れつつある。
  そこで、大きな問題は、やはり偏差値教育。この偏差値の問題は、これをつくられた方ですら、これは一つのめどとしてつくったんだと言っておられるわけで、偏差値教育が子どもたちの個性を破壊してしまったのではないかと思うわけでございます。そこに競争、それにかかわる学級崩壊の問題とか、いろんな問題も出てくるわけです。まず現行の制度の中で、偏差値教育に相当厳しく対応すべきではないかというのが、まず第1点でございます。
  先ほどの委員の方のマイナスの流れというものをつらつら考えてみますと、現行のシステムの中における私が申し上げたようなマイナス、それから少子化の問題と都市空間の拡大ということで、子どもたちが兄弟で切磋琢磨するような空間がだんだんなくなってきて、自分の部屋に一人か二人の子どもたちが入って、コンピュータゲームなどをするというような孤独な世界に入っていく。これはどうしようもない一つの文明史的な現象でございます。
  さらに、21世紀を見ますと、国際的な市場主義というのが今後ますますボーダーレスになってくるわけです。そうしますと、ソロスやなんかも警告しておりますように、欲望が正義だというような風潮がますます強まってくる。それから、情報通信革命がどんどん進んできておりますが、これもこの前の全日空の事件ではございませんが、バーチャルリアリティー(疑似体験)を実体験と誤認してしまうような、そういったバーチャルな世界にのめり込んでいる。
  これをずっと総括しますと、この3つのマイナスの流れというのは、人間性を疎外していくという非常に忌わしい流れなんです。そういうものがあって、社会的ないろんな問題が出てくる。これも結局、日本の教育を受けた人がやっていることなんです。ですから、そこの課題探求能力という、これも私は一つの能力主義だと思いますが、今回の答申の案の中には、いろいろとモラルの問題とか、あるいは社会と国家との問題とか、散発的には出てきております。つまり、課題探求能力と同時に、人間教育といいますか、人格の完成ということを昭和20年代の教育基本法はまず第一に掲げたわけでございまして、そこへまた戻っていって、まず人間ありき。ここの教育を一体どうしていくのかという一本の太い柱を、この提言の中に織り込むべきではないかと私は個人的に思っております。

○  6・3・3・4とかの学制の問題、あるいは将来を展望した方向性についてということのお話がございましたが、私はその考え方自体を否定するわではありません。私自身も現在の6・3・3・4が絶対的なものだとは思っていませんし、意見を持っておりますし、またいずれ中央教育審議会やその他で議論する場が将来は出てくるであろうと思っておりますが、現在、この小委員会で触れることについては、慎重な配慮が必要ではないだろうかと感じております。

○  高等学校入学における能力・適性等の判定のところで、昭和38年に打ち出されたいわゆる適格者主義そのものが事実上撤廃されている現状であるので、入学を希望した者は必ず入学できるように定員内不合格を出さないことをどこかに書いてほしいという意見もありましたが、「今後、このような趣旨が更に徹底され」という文言が述べられておりますので、この内容でよいと思っております。
 ということは、現実的に、これまで通信制高校においては、ほぼ希望者を全員入学させてきましたが、現在は通信制の高校においても試験を課して、場合によっては不合格にさせるという状況もあると聞いています。また、そのような学校が増えてきている、ということは、学校を経営する立場に立って、どうしても選抜しなければならない現実が地域によってはあるわけです。ですから、受験した者は全員合格させるか、否かについては学校の特色などに配慮しつつ、あくまで設置者及び学校の責任と判断で行うものであるという現在の判定基準でよいと思っております。学校運営において大変な問題を抱えているというような学校もあるということも認識していただきたいと思っています。

○  先ほど他の委員の方から偏差値の弊害等について、もう少しはっきりした姿勢を示すべきではないかという御意見がありましたが、御趣旨に私も全く同意するものですが、どうも偏差値というものが批判の対象になるときには、あわせて客観的な教育評価もひとまとめにされてしまう風潮があります。
 私は日本の学校での教育評価は残念ながら非常に遅れていると考えております。各学校で評価の参考とできるような客観的な評価基準や評価方法を、国立教育研究所等において研究するという趣旨が提案に盛り込まれておりますが、到底この程度では追いつかないほどに日本の教育評価はおくれています。偏差値に関してもたった一つの統計指標にすぎないものがいろいろな思惑で解釈されてしまう。偏差値以外にいろいろな教育評価の指標があり得べきなのですが、現状はそうなっていない。これは決定的に教育評価に関する科学的な研究のおくれ、あるいは不備と申し上げたい。到達度評価も、客観的、あるいは主観的な教育評価の工夫も含めて、そういうことのための努力が非常に必要とされているということを、少し強調して書いていただくことが必要ではないかと思います。

○  今、フリーターというのが急増しているわけです。統計資料によりますと、毎年13万人ずつ出ている。フリーターをある意味で現場の先生は支持しているみたいなところもあるやに聞いております。つまり、自由で、伸び伸びと勝手にできるからいいじゃないかと。これは勘違いしているんです。自由を手にするには、それまでに一所懸命知性を磨き、教養を身に付けなければ本当の自由のところまで到達できないのに、すぐ手に入るものをすぐやることが自由だというふうに勘違いしている。到達度評価とか、客観的な教育評価が重要だというのは、その部分に子どもたちに気づいてもらいたいわけです。それをやはり制度として置いておかないと誤解する危険があるのです。
  フリーターがどんどん増えて、これはすごく大きな問題です。私などはある意味では登校拒否より ―登校拒否は、今、年間13万人出るんですけれども、毎年13万人ずつフリーターが出るということはものすごく大きな問題だと思うのです。夢を追っているというんですけれども、じゃ具体的に何だというと、要するに勝手なことをしているだけなんです。アルバイトをやって。これは何とかしないと本当に日本の社会が根底から崩れていってしまうのではないかという気がするのです。ですから、評価は私は入れないと大変なことになるのではないかという気がして、申し上げさせていただきました。

○木村座長  本日は、どうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

ページの先頭へ