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中央教育審議会

 1999/9 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第19回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第19回)

議  事  録


平成11年9月14日(火)  13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階    シルバースタールーム


1.開    会
2.議    題
  「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉    会


出    席    者

委  員
根本会長、鳥居副会長、木村座長、川口委員、河野委員、坂元委員、田村委員、土田委員、松井委員

専門委員
荒井専門委員、安齋専門委員、岡本専門委員、工藤専門委員、小谷津専門委員、杉田専門委員、鳥専門委員、永井(順)専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山極専門委員、山口専門委員、四ツ柳専門委員

事務局
佐藤事務次官、今村審議官(生涯学習局担当)、御手洗初等中等教育局長、田中審議官(教育助成局担当)、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  それでは、時間になりましたので、ただ今から中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、早いもので今回で19回になりますが、開催をさせていただきます。
  本日は、お忙しい中、また大変な猛暑の中、御出席をいただきまして、誠にありがとうございました。
  本日は、前回に引き続きまして、自由討議をお願いしたいと考えております。よろしくお願いいたします。
  それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長  それでは、早速でございますが、審議に入らせていただきます。

○  一番初めは、「初等中等教育の役割」、「国語を尊重する態度を育て、国語により適切に表現する能力と的確に理解する能力を養うこと。また、国際社会に生きる日本人として外国語によるコミュニケーション能力を育てること」でございますが、これは全く私は賛成ですが、一つ欲張れば、日本人はいろんなことを考え、将来、外国語を身に付けてから物を考えるにしても、考えること自体は日本語で行っていると思います。そんなわけですので、「国語により適切に表現する能力」という、「表現する」中身について当然考えた結果を表現するわけですので、このあたりに「考えること」がうまく盛り込まれればありがたいと思います。例えばでございますが、「国語により思考しそれを適切に表現する」とか。後のほうでも、「考える力」、その他たくさん書いてありますから、若干蛇足とは思いますが、あえて国語の中の大事な機能として、日本人は日本語で発想し物を考えているということをもし表現できればと思います。
  また、多様な表現があるんですが、キーワードとして非常に盛り込みにくくて、たぶん御苦心されたあげく省かれたのだと思うのですが、「尊敬する心」とか、「敬う心」というようなものが、子どもたちを育てる上での社会性、それからグループの中でのいろいろな行動を支配したり、将来にわたって何かにあこがれたりということにかかわって、「尊敬」というキーがもし表現できるならば、どこかに表現できるとありがたい。これが前段のほうのコメントでございます。
  さらに、私ども大学側の立場から見たときに、接続のところを通り過ぎて、さらに博士課程まで内容が言及されておりますことは、これまた私としては大変ありがたいことだと思っておりますが、1点、後期高等教育の中の大学院教育、博士課程の扱い方ですが、修士課程までは「研究者養成」の第1段階、それから「高度職業人の養成」というキーが入っております。私ども、今、博士課程を実際に扱っておって、教授の数が200名ぐらいの中で、毎年200名ぐらいのドクターの学生を出しておるという現状を考えるときに、各教官1人ずつドクターを出しているという。特に昔からある大きな大学のケースでいいますと、これが全部研究者になって本当に大丈夫か、それから社会のニーズとのバランスが取れるかという大問題があります。
  ほかの先進国の事例を見ましても、ドクターを取った人たちが多くベンチャー企業のリーダーになって活躍しております。そういうことを考えますと、博士課程でさえ私は「高度職業人」というキーはやはり残すべきかなと思っております。これも簡単に盛り込んでしまいますと、修士課程と区別がつかなくなってしまうおそれもありますので、「研究者」だけではなくて、「高度実務者」もドクターの中には当然生まれなければいけない。
  具体的に申しますと、先ほど200名ぐらいの教授が200名ぐらいのドクターコースを出すということは、教授の任期が10数年から20年としますと、90%から95%は教授職に就かないことを前提とした教育になっているんです。そうすると、9割が後継者でないとすれば、そういう人たちの育て方は当然違ってこなければいけない。これが今、日本のドクターコースの在り方で抱えている問題だと思います。
  最近、いろんな意味で日本にキャッチアップしようとしている韓国のソウル大学と交流して、向こうの実態を尋ねてみますと、ドクターコースの95%までを民間企業に出している。これが今の実態でございます。そんなわけで、ここの表現についてひとつ工夫をいただければというのがお願いでございます。
  そういうわけで、私どもは博士課程まで高度職業教育の意味合いが今からは入ってくると思っておりますものですから、企業との接続に当たって、博士課程の場合に非常に重要な役割を担っているのが、いわゆるポスト・ドクトラルフェロー(以下「ポスドク」という。)です。大学院の外にさらにもう一つ教育機関があるということが、この流れの中からは見えないわけです。実際に今、学術振興会等もポスドク1万人計画が進行中で、ほぼそれを達成されようとしておりますが、1万人という数のポスドクを置こうとしているときに、それの位置づけがこの中に明確にされていないのがちょっと気がかりでございます。ポスドクの人たちに対して、特に博士課程で、ここでよくインターンシップというのは、学部とか、その辺の話として出てくるんですが、私はポスドクというのは一種のインターンシップだと思います。現実に自分の修得したものを武者修行してから、世の中へ出てそれを活用していくという視点があるかと思うものですから、ぜひポスドクの件について1項起こしていただきたいと思います。
  それから、企業との接続の点で、企業側から見てこのポスドクが極めて見にくい姿になっております。というのは、いわばオーバードクターで、行きどころがないのがポスドクをやっているような印象をいまだに日本の企業は強く持っておりますが、欧米ではポスドクを経て初めて一人前のドクターであるというのが定着しているわけでございます。この辺、まだ我が国では若干後進国性の残滓を引っ張っているように考えております。ぜひ今回のこの中で、その辺のスタンスが明確化できると大変ありがたいと思っております。

○  高等学校で新しいカリキュラムの中に「総合的な学習の時間」というのが取り入れられることが決まっていて、来年の4月から移行措置的に実行されるわけです。さらにそれは、小学校、中学校、高等学校と一貫して、教科・科目ではないわけですが、取り入れられるわけです。それを大学入学者選抜とどのようにつないでいったらいいのかということが、この中央教育審議会の中で問題になっていたと思います。「総合的な学習の時間」で育てるような学力を入試というところでどのように取り上げるのかというのはそう簡単ではないと思います。いろいろ難しい問題があると思います。「大学入学者選抜の具体的な改善の方策について」などは、要するに高校と大学との接続が主として教科・科目の在り方に限定して言われておりますが、そういう観点から一言あってもいいのではないか。つまり、いわゆる教科・科目の学力ということだけではない、総合的な学力みたいなものをどのように取り入れていくのかという視点からの入試の在り方ということであります。
  それから、アドミッション・オフィスあるいはアドミッション・センターと呼ばれているような入試が大学に導入されて、だいぶ広がってきているわけですが、多様な入試方法を開発して、実際に展開していくことの重要性というのもどこか一言あってもいいのではないかと思います。
  それから、例えば理工系の学生でありながら、実際には物理学を全然履修もしてこないし、受験科目にないからということで、それを学習してこないわけです。それを前提にして、今度は大学でまた物理学の初歩から理工系の学生に教えなければならんという状況があるわけです。大学で学習することの内容とそれを正しく反映した大学の入試教科・科目の在り方とのミスマッチの問題ですね。それをもう少しはっきり書いたほうがいいのではないかと思います。
  大学の教育の方針、目的に応じて教科・科目を指定するということが明確に書かれております。そういう考え方で運営されているにもかかわらず、そういうミスマッチがどうして起こってくるのか。そこのところは大切なところで、従来から教科・科目数をできるだけ減らしていく、あるいはまた大学の経営的な視点から受験生を多く集める必要があるというところから、そういうことが行われてきたということだと思いますが、そういうところをどのように変えていったらいいのか。端的に言えば、中学校の学力のままで大学の専門教育を始めなければならんという、高校教育の選択制とかかわっている問題と、それから入学試験の教科・科目の問題という二重のミスマッチから、今のような問題が起こっているのではないかと思います。その辺をどのように変えていったらいいのかということも取り上げるべきではないかと思います。

○  学部・学科に応じては受験教科・科目数の増加といいますか、これは私も非常に賛成で、例えば物理や医学部の生物も、こういったことによって各大学できちっとできるかと思います。その場合、受験教科・科目数が場合によっては増加していくということとあわせて、出題教科・科目の質の問題も問うていく必要があるかと思うのです。もちろん、初等中等教育で育成すべき資質・能力を十分踏まえた上で、高等教育に必要な能力を選抜できちっと評価していく。例えば、ここでもよく出ていた高度の論理的思考とか、表現とか、そういったものをきちっと評価していく。そのためには、丁寧で時間をかけた選抜がどうしても必要だろう。ややもすると、例えば私立大学等においては、採点しやすい問題をつくる。それが受験科目数がただ増えるだけであったら、かえってマイナスになるであろうという面で、大学で必要な能力をきちっと評価していくというところの質の向上もあわせて書いていただければと思っています。

○  高等学校の状況を説明するときに、「多様性」とか、「多様化」という言葉がたくさん使われる。今回の報告書でもおそらく「多様」という言葉がキーワードになる。高等学校の部分では特にですね。そのように考えているわけですけれども、高等学校が今のように拡大してくる。これは国民の要望に基づいて、国民みんなの願いによって97%まで広がってきたという状況があるわけです。当然、いろんな生徒が高等学校に来ているということがある。それがあるから、やむを得ずとか、心ならずもこうなるのではないんだと。それを我々は積極的にこの国の活力を生み出す何かとして、正面から向かっていこうということで考えているんだと。「多様」という言葉を使うときには、いつもそのような姿勢でいていただきたいと考えるものですから、あちこちに出てくる「多様」というのが非常に気になって見ているんです。読みようによっては「大したことないじゃないか」ということにもなりますが、このような「多様な教育が求められるため、教育の一環である評価も多様にならざるをえず」という言い方ですね、こういうところもやはり気になるんですということをこの間申し上げたかったのです。

○  「義務教育と後期中等教育の接続について」のところですが、適格者主義の方針が打ち出されたのが昭和38年です。それ以後、高校への進学率が上昇する中で、それぞれの学校は学科等の特色に配慮しつつ入学する生徒の判定を行い、その判定は、あくまでも設置者及び学校の責任と判断で行うものであるということで、これまで実施されてきたと思います。このことは各県でも徹底されてきました。県によっては不合格者なしに全員合格させているところもありますが、校長の判断によって、全員合格をさせていない学校もあり様々な状況があります。
  「大学入学者選抜の具体的な改善方策について」の項目で例えば第二次答申で述べられた、受験科目をできるだけ少なくするということについては、「一律に求めているものではないことを改めて確認することが必要」と丁寧に述べていますように、「義務教育と後期中等教育の接続について」も、全入を意味するような記述をすると、現在実施されている方針に対して誤解を与えることになりますので慎重に記述していただきたいと思います。
  通信制高校でも、これまでは受験した場合に全員合格させてきたところが多かったわけですが、入学してくる生徒の質がいろいろと変化してきて、公立高校の通信制において、最近は選抜をする、学校も出てきています。またある県では、県の指導によって全員合格をさせたところ、学校が荒れてどうしようもなくなり、選抜により不合格者を出すことを行った事例も報告されています。一律に、すべての都道府県で全員合格させなければならない、全入をさせなければいけないという画一的な指導にならないようにしていただきたいと思います。これまでと同じように、学校の設置者である責任者が判断するということは、あくまでも守られているということを残していただきたいと思っております。
  それから、前回、委員の方から、盲・聾・養護学校の生徒も含めて受け入れる条件を整備する必要があるということについての若干の意見が出されましたけれども、現状においては様々な問題が起きていますので、私も、ぜひ条件整備を早急に進めるということをしていただきたいと思っております。
  それから、「高校と高等教育機関の連携方策の強化について」の項についてですが、この中で「高等教育機関の教員が高校以下の学校で学問の面白さを語りかけるような特別授業を実施すること。」と述べています。この方策は大変よい方策であると思っています。是非進めていただきたいと思っております。ことしの夏、近畿で行われた大会で、ある県の高校と地元の大学との連携の報告がありましたが、大学の先生が来て高校生に授業をしたところ、生徒の意識が変わり、大変よい影響を与えているという話がありました。この方策はすべての地域において、すべての高校と大学とがこのような連携をおこなっていったら、大変すばらしいと思っておりますので、ぜひ推進していただきたいと思います。

○  先ほど、委員の方々からお話しのとおり、以前ここでも御報告がございましたけれども、「良質な問題を出題するという観点」という言葉が入っておりますので、この部分をメインにしていただいて、過去の問題に類似した問題の出題を許容するというところをあまり大きく扱う必要はないのではないかと思います。入試問題の質の向上、初等中等教育の改革を受けたものということをメインにしていただくことが大切だと思います。

○  1点目は、「各学校段階修了時の到達度評価」というところですが、「児童生徒が当該学校段階の教育目標を達成しているかどうか評価することは」というところです。これはどういう意味でそれをするかということを明示していただきたいという気がします。つまり、後期中等教育、高等学校であれば、大学への接続あるいは社会人になるための接続という意味で、一定の到達度評価を明示すべきであろうし、小学校、中学校であっても、連携の課題というのを提示しているわけですから、何のためにこういった到達度評価をするのかということを書き込んでいただく必要があるのではないかと思います。大学入試の学力を維持するような役割も、多少はここで役割を果たしてもらえるのではないかという気がしますので、その部分を書き込めないだろうかということが1点でございます。
  2点目は、「大学入学者選抜の具体的な改善方策」のところですが、「『ゆとり』の確保のためには、学力試験における受験教科・科目数をできるだけ少なくしていくべきである」と書いてあるのですが、ある意味では、そんなに時間がたっていないのに、中央教育審議会の第二次答申とまたすぐ違うことを言う、というような批判を受けると心配なものですから。要は、多くしてもいいし、少なくしてもいいんだというような観点だったと覚えているんですけれども。今回だってその意味では全く同じでありまして、大学によっては減らしてもいいし、増やしてもいいということであって、増やすことをマイナスに考える必要はないんだということを強調すればいいのではないかという気がします。
  最後に、これは他の委員の方がおっしゃられた博士課程ですが、これは実際に私ども身近で見ていても、既に研究者の養成という部分よりは、数量的には明らかに高度専門職業人というんでしょうか、外国の会社の人なんかに会うと、ドクターという名刺を持っている人がとにかくいっぱいいるわけです。あれは必ず日本もそうなると思いますので、その辺はむしろ積極的にはっきりと書いておいたほうがいいのではないかという気がしまして。

○  今まで気がつきませんで、今日になってちょっと違和感を感じたものですから、「義務教育の役割」というフレーズがございますけれども、特にこの「義務教育の役割」というのが、タイトルの中としては、発達段階に応じた教育目標の中の一つとして出てくるわけであります。しかも、現状等を見詰めていきますと、小学校、中学校、高等学校までほぼ義務的な段階に入ってきたというような雰囲気の中で、だからこそまた義務教育の役割というのは、こういうものだというふうにここで明示しているのかなとは思いますが、ここの中の三つのフレーズは、前段が義務教育制度のこと、そして二つ目にはその年限が9年であるということ、三つ目には高等学校段階までの教育のうち小学校段階と中学校段階が義務だよと、こういう言い方なんですが、やや解説的なことでありまして、資料の中にあってもいい言葉ではないかとちょっと思ったものですから申し上げました。

○  「大学教育の在り方」ですが、能力ということに相当ウエートがいっているように思います。例えば「総合的な判断を下すことのできる力」、要するに自ら考え、自ら判断し云々というのはよく言われていることですが、やはり考えることと実行することは必ずしも伴わないと思います。ここに入れるかどうかはお考えいただきたいと思いますけれども、例えば総合的な判断を下すことのできる力を育成し、よりよい社会、よりよいコミュニティーをつくろうとする積極的な意思を持って、率先躬行する力を育成したいというような、少し行動面もどこかに入れてくだされば幸いと思いました。

○  冒頭の「初等中等教育の役割」として、「初等中等教育では、人間として、また、家族の一員・社会の一員として、さらには国民として共通に身に付けるべき基礎基本を習得した上で、生徒が各自の興味・関心、能力・適性、進路等に応じて選択した分野の基礎的能力を習得し、その後の学習や職業・社会生活の基盤を形成することを役割としている。」とありますが、今の他の委員の方のお話と同じですが、いきなり学習能力といったたぐいの問題にスーッと入ってしまって、子どものときにたくましい体を鍛え、強い精神を養うというようなたぐいのことが全く触れられていないのですが、本当はそれが初等教育では一番大切なのではないかと思います。
  それから、もう一つは、先ほど他の委員の方が言っておられたことと重なりますが、やはり「尊敬する心」とか、そういったたぐいの言葉をはっきり出さないと、「尊敬する心」という言葉そのものが社会から消滅し始めている時点で、我々はこの答申を出しますので、やはり必要なのではないかと思います。
  それから、「初等中等教育で育成すべき資質・能力」について、いくつかの欠落があるということをこの前指摘したわけですが、例えば今日は一例だけ申し上げますが、歴史教育ということが抜けているわけです。国語、国際親善、それから家庭・社会生活云々、芸術ときまして、何か一番大事なものが抜けているような気がいたします。

○  まず第1点は、冒頭、他の委員の方がおっしゃったことです。これは前回、私も似たようなことを申し上げたんですが、全く大賛成です。日本語で物を考える、日本語の中で論理的思考が形成されるということではないかと、思っております。
  次に、文言の使い方です。「通して」というのと、「通じて」というのがございます。教育白書では、「通して」と「通じて」の意味を書き分けているように思います。辞書を引くと、「通して」は「始めから終わりまで」ということですし、「通じて」は「全部一緒くたにして」という意味です。例えば、「中学校段階」の「その後の教育や職業生活を通じて」というのは、「全体を通じて」という意味で、たぶん「通じて」と書かれたのだろうと思います。これでいいのではないかと思います。
  また、「初等中等教育段階全体を通して」とここではなっているわけですが、この辺の「通して」と「通じて」はかなり神経をつかって書き分けたほうがいいのではないか、こんなふうに感じております。

○  全体を通じまして、文章的にも、中身的にも随分と充実したような印象を持っております。とりわけ「初等中等教育の役割」についての交通整理の仕方が、12年一貫という形で整理されていることは大変によろしいと感じますし、これは欧米の例えば7学年とか、11学年といったような発想にも通じるような要素を持っているとも思いますし、むしろそういったような発想に切りかえていって、そういう表現を使っても構わないのではないかと個人的には考えております。
  ただ、1点だけ申し上げたいんですけれども、「大学入学者選抜の具体的な改善方策について」、この文言だけを追いかけていますと、現在の大学入試センター試験には改善の余地はないのかという印象を持って受けとめられる可能性があるのではないかと私は感じます。現在の新しい学力観、さらには高校レベルにおいては2003年度からですが、学習指導要領に対応してどのような大学入試センター試験を模索すべきであるのか、あるいは現状の31科目のようなスタイルのままでよろしいのか、簡素化をする必要があるのではないかといったような観点から、少し踏み込んでいただかないと、このままですと大学入試センター試験は改善の必要なしというふうな見方になり得るのではないかというところが大変気になります。

○木村座長  ありがとうございました。実は今の御指摘はそのとおりでありまして、この中には大学入試センター試験のことについては書き込んでおりません。そういうことで、ぜひこの場で、どういうふうに考えるか少し御議論をいただければと思います。
  大学入試センター試験の参加者も年々増えておりますので、考え方としてはなかなか難しいところがあります。要はそれぞれの大学がそれぞれの理念、方針に基づいて、自分のところにふさわしい学生を見つけていくことだと思うのですが、その中で、入試大学入試センター試験をどうするのか、その辺のところについて考えていく必要があろうかと思います。この点について、御意見ございませんでしょうか。

○  大学入試センター試験の制度については、マクロ的なシステムが審議の対象であって、個別のテクニカルなことはあまり論点として出すべきではないと、個人的には考えてきましたが、この段に至っていくつかのことを申し上げたいと思います。
  一つは、大学入試センター試験の問題のことですが、「過去に出題された問題や類似した問題を出題することは」という箇所がございますが、これは非常に注意を要するところでございまして、各大学でもって問題作成するというときに、このことがあまり強調されますと、場合によっては問題作成が安易に流れる心配があります。勿論、各大学の問題作成の体制を信頼していないということではありませんが、そういうこともあり得るということです。大学入試センター試験につきましては、まさに問題作成のための機関ですから、そういう懸念は要らないと思いますが、周到な配慮のうえで過去の問題の利用を進めるという考えを示しても良いのではないかと思います。
  それから、これも技術的なことでございますが、マクロなレベルで資格試験的利用であるとか、あるいは1点刻みでない段階的な利用がなかなか難しいということであるとすれば、各大学がミニマムスコアと申しますか、このレベルまで大学入試センター試験で得点が取れれば、あとは大学入試センター試験にかかわらず、個別学力検査のほうで評価を行う。あるいは、個別学力検査以外の様々な評価方法で判定する。そのような利用を各大学で工夫するというようなことも、奨励するという方向で、ぜひ盛り込んでいただきたいという内容でございます。

○  大学入試センター試験そのものは、大変いい成果を上げてきたし、上げつつあるし、これからも上げるだろうと思っております。大変いい問題を日本の英知を集めてつくっているということで。しかも、高等学校のカリキュラムを十分に尊重した上で、大学との接続を考えている。しかし、カリキュラムそのものは高等学校のカリキュラムが変わってまいりますから、当然それを受けて、今御議論されていると思いますが、大学入試センター試験の内容等々の変革は起こるべきだと思います。
  その際に、現行のカリキュラムでいいますと、「  I  」とか、「  I  A」という内容についての試験と、それから「  II  」系統の試験とはいささか性格が違うのではないか。「  I  」とか、「A」とか、「  I  A」というところの関係のものは、高等学校卒業の必要最低限ぐらいに考えてしまう。「  II  」系統のほうは大学の入学の基礎能力として用意をしていく。それは現行の形で続くんですが、その際にも簡素化ということを考えて、今のように縦割りの高等学校で教えている教科別にやりますと、どうしても知識量を測るような知識偏重になりかねない。そうではない問題を十分つくっているんですけれども、もう一歩進んで、現在進んでおります「PISA」  ―「生きる力を測る学力検査」というのが考えられておりまして、そういう形の問題を検討していくべきではないだろうかと思います。
  それから、大学入試センターそのものの存在は、大学入試センター試験をおつくりになる。「  I  A」系統の問題をつくるし、「  II  」の問題もつくるし、場合によっては個別大学が、特に単科大学なんかで幅広い学力問題を必要とされるときに、おつくりになる力がなかなか内部的にはそろわないといったような場合もありますでしょうから、そうした個別の大学に対する対応なども、独立行政法人になられるというようなことも踏まえて、積極的に進めていかれればいいのではないか。大学入試センター試験と大学入試センターの在り方をちょっと区別して考えたほうがいいかと思います。

○  義務教育について、「今後の検討課題」に私はぜひ年齢についてどう考えるかということを入れていただいたらいいのではないかと思います。
  という意味は、今、義務教育は9年ということになっているわけですが、ほかのところで、多様であって、様々な種類の能力があって、各大学あるいは高等学校で、そこに入れるかどうかというのはその学校の長が考える話であるとか、卒業するかどうかというのはその判断であるとありながら、小学校6年、中学校3年、合計9年はいないと、高等学校に入れない。それから、例外はありますが、高等学校に3年いないと入れない。飛び入学をして大学に入った人は、高等学校を卒業したことにならないというのが現実にあるわけです。能力のタイプ、その他を判定してということをさらに突き詰めていけば、それは12年間たたないと大学に入れないとか、9年間たたないと高等学校に入れないとか、広い意味での能力に加えて年齢をつけ加える必要性が一体あるんだろうかということが、私はずっと疑問でございます。したがって、私は本当はそういうことはできるだけ早く踏み切ったほうがいいのではないかと思いますけれども、「今後の検討課題」とお書きでいらっしゃいますから、少なくともその部分も含めて「検討課題」というふうにしていただけたらと思います。

○  実は全体的に、一つ気になっておりますのは、かつてお話は出ていたんですが、子どもが幼稚園からずうっと小学校、中学校、高等学校、大学、大学院、職業人となっていく、個人に焦点を合わせた書き方が、どうしても制度とか、目的とか、上からとか、横割りとか、抽象化されてしまうので抜けがちになる。個人個人の自分の個性とか経験に合わせて接続を考えるという視点がどこかに入ればいいなと思いながら見ておりました。大変難しいと思いますが、これは感想の一つです。
  具体的にどうしたらということですが、「初等中等教育と高等教育との接続について」というような章が仮にありまして、そこのところで基本的な考え方を、例えば高等学校以下の教育の理念と大学の教育の理念とか目的を考えた接続であるとか、高等学校以下のカリキュラムと大学のカリキュラムの接続であるとか。教養教育の失敗というのはそこの接続をしなかったことにあるわけですから、そうしたカリキュラムの接続であるとか、教育の方法での接続、高等学校の先生が大学に行くとか、大学の先生が高等学校に行くというようなことは「高校と高等教育機関の連携の方策について」で出てくるんですけれども、例えば放送大学みたいなものを高校生だって聞けるわけだし、別にフェース・ツー・フェースではなくて、オンラインの教育だっていろいろあるわけですから、教育方法上での接続を考える。
  それから、個人の能力・適性を考えた、つまり学ぶほうの立場に立った接続が、入学者選抜というところで書いてあるんだと思いますが、個人の今までの経験とか、能力を生かすような立場からの接続という、何か接続を考えるときの基本的な視点を入れたほうがいいのではないか。

○  他の委員の方から「大学教育の在り方」の中で、「外国語教育」の項が、ほかに比べると少しグレードが違うのではないかという御指摘があったのは、まさに私もそのとおりだと思います。ただ、今、日本の大学教育の現状を見るとき、特に理系の教育を見るときに、外国語教育の視点の強化は大変重要な位置にあるものですから、ややトーンが違うことは重々承知の上で、私としてはこういう扱いもあってもいいのではないかという意見を持っております。

○  先ほどの他の委員の方の御発言で、「高校と高等教育機関の連携方策の強化について」のところの中に、もう少しカリキュラムの接続といいますか、これを取り入れながら、入試がいきなりくる前にそれを入れたほうがいいというのは、全く私もそのように考えます。
  特に、今、大学側が高校生を受け入れるときに一番困っている問題は、今までは大学入試が非常に条件がきつかったために、高校教育をゆがめたり、あるいは高校生が自分の将来を考えるよりも入試に合格するということを考えてきた。それが今度は最近のように、いわゆる全入時代が近づいてまいりますと、底辺の大学から少し様相が変わってまいりまして、勉強しないでも大学に進めるような形になってきた。そうすると、やはり教育の目標といいますか、学習の意欲の動機づけといいますか、それを考えるためにもカリキュラムの接続という問題が非常に大きくなってきた。そんなふうに考えますもので、先ほどの意見に賛成でございます。

○  先般、イギリスへ参りまして、高等教育制度検討委員会の委員長をしておられるロード・デアリングという、なかなか率直な方でございますが、その方とだいぶ長い時間にわたりまして、イギリスの教育制度の問題をお話ししました。それからロナルド・ドーアという日本語が大変流暢な方で、『The  Diploma Disease』をお書きになった方ですけれども、その方とも意見交換し、教育雇用省の人たちともお話をしてまいりました。
  本日の議題につきまして私が最近考えておりますこと、あるいは今回のこの訪英を参考にして考えておりますことを申し上げたいと思います。私が民間の企業の経営者として常に考えておりますことは、企業経営をやる場合に、いろいろな手順がございますが、一番重要視しておりますのはまず戦略を決める。ストラテジー。その戦略を実施するための企画といいますか、プランニングをまずやりまして、それに基づきまして、毎日のデイリー・オペレーションに持っていく。デイリー・オペレーションのリザルトを常にチェッキングする。そのパフォーマンスの結果の満足度あるいは不満足度に応じて、そいつをまたストラテジーへ持っていくという、このストラテジー―プランニング―オペレーション―リザルト・チェッキングをエンドレスに行っていくというのが私の経営哲学でございます。
  その目指すものは何かというと、我々が考えておりますコーポレート・バリューをいかにしてマキシマイズするかということでございまして、この手法はこの中央教育審議会が取り上げているテーマについても全くそのまま適用されるのではないかと思っているわけでございます。
  問題は、その核になります我々がエイムするバリューは何なんだということになるわけですが、私どもの場合は、第1に教育基本法があって、その中に歴然として明記してございますのは、子どもたちの人格の完成でございます。これは万古不易のものでございます。そのためには、個性の重視ばかりではなくて、当然のことながら公に対する配慮も必要だということになるわけで、そこに人格の完成ということが明記してあるわけです。これは変えることのできないものでございます。
  臨時教育審議会の答申を拝見いたしますと、結局、自由に対して規律という対抗軸をしっかりさせて、その自由と規律のバランスの上にオペレーションを進めるべきだという発想がございます。その中で、個性の重視、生涯教育、それから今後予期される大きな変化への対応という、これから我々が当面しなければならない課題をはっきりと書いてあるわけです。人格の完成、個性の重視、生涯教育、変化への対応、これはまさに私ども中央教育審議会が実現していくべき価値であると私は思ってきたわけでございます。
  一方、今回の訪英においてロード・デアリング氏とも話したわけでございますが、一つのクライシス・パーセプションとでも申しますか、そういうものを彼らは持っています。その第1は、サッチャー、メージャーの時代の英国病克服の問題、そこにある一つの道筋ができて、これから21世紀に向かって、予想外の大きな変化がやってくる。それに対して迅速に対応できる教育システムはいかにあるべきかという、クライシス・パーセプションを持っているわけです。
  イギリスの人口は5,700万人ぐらいでございますが、そのうち700万人ぐらいの人が、「バッドリー・ラーンド」という表現でロード・デアリングは言っておりましたけれども、この人たちに対して一体どうするのかという問題。それから、パキスタンをはじめとして多数の異教徒が入ってきている。異教徒及び異民族は、日本ではそんなに顕著に今はなっておりませんけれども、キリスト教以外にユダヤ教あり、回教あり、シークあり、ヒンズーあり、仏教ありということでございまして、そういった異なった宗教的価値を持つ人々を何によって束ねていくのか。これを彼らは「シチズンシップ・エデュケーション」というようなことで言っておりましたが、まだその「シチズンシップ」の内容については明確な結論は出ていないようでございました。
  そういうようなことを考えますと、日本のほうがはるかにある意味では恵まれている。学級崩壊とか、いろんなことが言われておりますけれども、問題はやりよう。特に私が今申し上げたリザルト・チェッキングが日本国においてはかなり欠けているのではないか。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカにおいても、1980年代からそれぞれ教育改革が行われてまいりましたが、彼らの問題意識は我々と全く同じでございます。つまり、自国の国際競争力をいかにして高めていくかということが一つです。それから、その社会のクオリティー・ライフをいかに高めていくのかということでございます。これは当然、生涯教育の問題も入ってくる。そして、雇用を確保し、新しい産業に対して人々が適応できるようなエンプロイアビリティーをいかに高めるか。この三つが、私が訪問した国々において共通の普遍的な課題になっているわけでございます。
  特に私が印象を深めておりますのは、国際競争力という問題について、成熟化した社会が、中国あるいはインドといったようなこれから巨大な人口を抱えて追い上げてくる社会に対してサバイブしていくためには、何といってもリベラルアーツ、つまり人格の完成というか、教養主義が猛烈に大事だ。これはモルガン・スタンレーのトップの人と話した際に、彼らが率直に私に言っておりましたけれども、「これからのITを含めた金融資本主義の中において、一番大事なのはリベラルアーツですよ」ということを強く言っておるんです。つまり、リベラルアーツを教え込むことによって、しっかりとした品格を持ち、人格を持つような人が、資本主義のフロントランナーでやらないと、これはえらいことになってしまうということでございます。
  そういった意味で、イギリスの場合は、まず子どもに対するリザルト・チェッキング、つまり全国共通の試験を節目節目で実施する。学校ごとの平均点もナショナルプレスに公表いたしまして、どの学校がいい学校か悪い学校かということが国民の目に歴然となる。親たちはどこの学校でも自由に選べるというようなことになっているわけでございます。ボトムの学校はクローズしろという命令が下りまして、クローズされた学校は、そこからフレッシュスタートせざるを得ないということになっている。
  それから、校長先生に対しては非常に大きな権限を与える。これについては、既に中央教育審議会でも答申をいたしましたけれども、学校理事会というものがあって、地域代表、有識経験者、父兄、教師が入って、その学校の予算あるいは人事についても、今の日本の教育委員会システムとは別に、地方分権化の流れの中でやっている。また、学校の評価、あるいは教師の評価に関連して、我が国においてはほとんど形骸化されましたけれども、かつての視学制度というのが非常にしっかりしたものとして残っておりまして、これが教育雇用省から独立した局でしっかりしたものをやっているということでございます。言うなればアメとムチといいますか、つまり結果に対する評価、リザルト・チェッキングが、子どもたち、教師、校長、学校、全部で行われているということで、私はこれを強く認識したわけでございます。
  我々民間の会社では、リザルト・チェッキングをしっかりやりまして、それが人事制度あるいは給料のレベルを決めるということで、完全な能率給制度をそれぞれの企業は導入してきているわけです。イギリスの教師の場合は、最低の給与の人とトップの給与の人の間には倍ぐらいの差をつけるとか、あるいはスーパーティーチャーに対してはナイトの称号を授ける。日本でいえば勲章だと思うのですけれども、そういったようなことで、先生たちをエンカレッジする。今回の学級崩壊の要因を見ましても、一番パーセンテージの高いのは、先生の問題にかなり関係してきているということでございまして、この答申にもいつくかの点でそういうことは触れておりますが、もうちょっとリザルト・チェッキング体制について触れることができないかというのが、私のクエスチョンの第1でございます。
  第2番目は、ロード・デアリングが1997年に提出しました、今後20年間にわたってイギリスの高等教育はいかにあるべきかという「デアリング・リポート」というのがございますが、それを一口で言えば、ラーニング・ソサエティーの実現ということなんです。これはまさに臨時教育審議会がやっていた生涯教育という発想と同じでございまして、幼児期から、言うなれば、いつか私は申し上げましたけれども、揺りかごから墓場まで我々は学ぶ。学ぶことによって、その社会がよりクオリティーの高い社会になっていくという発想でございます。ラーニング・ソサエティー。それを実現していくためには、一体何をしたらいいのかということが書いてある。
  今回生涯教育ということがいくつか言葉で入っておりますけれども、えてして生涯教育というのは、大学を出た後の教育のように日本ではとられがちでございますが、これはまさに揺りかごから墓場まで、つまりみんながそうやって学習をしていく社会、それが最もハイクオリティーの社会なんだという考え方だと思うわけでございまして、やや日本の発想と違うのかなと思います。
  そういう意味では、今度、ロード・デアリングがチェアマンをやります「ユニバーシティー・フォー・インダストリー」というものができました。しかし、これは何も大学が設置されるのではなくて、そのユニバーシティーというのはエティモロジカルに言いましても、大学の施設ではなくて、一つのミッション、つまり一つの仕事なんです。そこで言っているインダストリーというのも、我々は産業というふうに翻訳しちゃいますが、もっと広い考え方を持っているものではないか。そういう意味では、日本がやってまいりました放送大学というのは、これはすばらしい大学だと私は思っております。この中には放送大学のことは触れておりませんけれども、日本がやり出している世界に誇るべき放送大学はもっと進めていくべきではないかとまず思いました。
  それから、産業との関係で申し上げますと、いわゆる産学協同ということを申しますが、これは言うなれば一つの産業の開発に関係することについて、産業界と大学がちょうどシリコンバレーのような形で協同していく。これは結構です。ところが、我々は企業内教育というのをやっておるわけです。ロード・デアリングが盛んに言いましたのは、イギリスの企業に比べると、日本の企業は大変立派だ。企業内における研修制度、あるいは教育が非常に進んでおる。そういうものをラーニング・ソサエティーの中の一環として日本から学びたいということを彼は言っておりました。つまり、企業内教育、企業内研修についての文部行政の在り方、それから職業社会の視点について、インターンシップ制をアメリカのようにもっと大々的に導入していくべきではないか。
  そして、最後に、これは大ぶろしきになりますけれども、NPO活動がアメリカでは、御案内のとおり非常に進んでおりまして、アメリカでボランティア活動をしている人たちというのは9,400万人おります。この9,400万人のボランティア活動をしておられる方というのは、1週間に4時間以上、社会のために貢献しているという人たちです。その中で、NPOで働いている人は1,400万人から1,500万人おります。1,500万人の中でお給料をいただいている人は1,000万人いるんです。だけど、この人たちのお給料の水準は正規の契約よりもはるかに低いものです。その1,000万人の人を就業率に換算すると、6.2〜6.3%になるんです。その人たちをカウント・インした結果の失業率が、アメリカで4.2とか何とか言われているわけで、日本のようにそれをカウント・アウトして考えますと、アメリカの失業率はもう10%を超えているわけです。日本はそういう意味では大変よくやっているわけですが、NPOないしNGO活動を促進し、雇用の受け皿とする事も必要です。そしてそのようなNPO活動、あるいはボランティア活動、そういったものに対する文部行政の在り方、あるいは教育の在り方、あるいは企業内研修に対するその地域における大学の貢献とか、そういったような視点がどうしても必要になってくるのではないか。これは21世紀に向かっての接続の問題を考えたときに、ぜひとも考えていただかなければならない問題だと思っております。
  最後に、ブレアにお会いしたときに、彼は教育を最大の課題としておりまして、教育雇用省を最重要の政府機関にしておりますが、彼の持っている哲学は何なんだという私のクエスチョンに対して、ブレアは「アンビション・ウイズ・コンパッション」と言ったんです。コンパッションというのは、社会の各層の人たちに対するコンパッションであり、あるいは世界のそれぞれの国に対するコンパッションでもあるんでしょう。そういった一つの道徳的な考え方を持って、前向きにアンビシャスにやっていかなければならんというのが、今のイギリスのスタイルではないかと思いました。彼は子どもさんがまだ小さいこともあるせいか、特に幼児教育について非常に熱心になっているようでございます。今日、幼児教育というのをはっきり入れていただきましたが、何といってもここがスタートでございますから、大学との接続というのははるかずっとその前からの集積の上にあるわけで、幼児教育についても大いに重要視していただきたい。

○木村座長  本日は以上で終わらせていただきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

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