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中央教育審議会

 1999/8 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第17回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第17回)

議事録


平成11年8月24日(火)  13:00〜15:00
グランドヒル市ヶ谷  2階    「白樺」


1.開会
2.議題
「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉会


出席者

委 員
根本会長、木村座長、川口委員、河野委員、坂元委員、田村委員、長尾委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、磯部専門委員、小川専門委員、工藤専門委員、小嶋専門委員、小谷津専門委員、鳥専門委員、永井(順)専門委員、橋口専門委員、山極専門委員、山口専門委員

事務局
佐藤事務次官、今村審議官(生涯学習局担当)、御手洗初等中等教育局長、左々木高等教育局長、合田大学課長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  それでは、時間になりましたので、ただ今から中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」第17回会議、第17期としては今回が10回目になりますが、開催させていただきます。
  本日は、大変お忙しい中、本会に御出席を賜りましてありがとうございました。
  本日は、前回に引き続きまして、自由討議をお願いすることにしておりますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長  ありがとうございました。これまでの審議での主要な論点をまとめますとだいたい6点になるかと思います、即ち、一番初めが「高校までの12年間の教育の役割」、2番目が「そのうち義務教育の役割は何か」ということ、3番目が「高校入学についての『適格者主義』」の問題、4番目が「高校卒業時の到達度評価について」、5番目が「大学入学についての『適格者主義』について」、6番目が「大学入学者受入方針の明確化について」です。
  「1番目」から「4番目」までと、「5番目」から「6番目」までは別の内容になっておりますが、きょうは特に区別をいたしませんで、全般的に御意見をいただければと思います。特に、「義務教育の役割は何か」。この辺について重点的に御意見をいただければと存じます。
  それでは、よろしくお願いいたします。どなたからでも結構ですが、ございますでしょうか。

○  まず、「高校までの12年間の教育の役割」に関連して申し上げれば、これは皆様御承知のとおりですが、つい最近配られてきましたが、文部省が出しました「新しい学習指導要領で学校は変わります」というパンフレットです。これは非常によくできていると思います。今、この中央教育審議会でいろいろ検討され、意見が交わされている、いわゆる学力低下論に対して、教育課程審議会にもかかわったものとして、それに対する積極的な主張の根拠は、今申し上げましたパンフレットにはっきりと出ていると思います。「生きる力」との関連。したがって、中央教育審議会の第一次答申との関連もよくあらわされているし、完全学校週5日制の下でというところもよく出ております。こうした学力論について、これまでのいろんな先生方の論議をもう一度振り返って整理していけばいいのではないかと思います。非常に有能な人がそろっていらっしゃいますから、今申し上げました配られたパンフレットと今までの審議で出された意見をうまく統合して、非常に立派なものになるのではないかと思います。
  ただし、その際、これはこれまでもいろんな方の論議の中で強調されてきた点ですが、やっぱり職業とか、勤労とか、そういったことについての側面を、高校12年間での教育あるいは義務教育ということの中でどう位置づけるか。これはもう少し考えていいのではないかと思います。例えば、「高校までの12年間の教育の役割」として、以前、意見がありましたが、「職業生活に必要な専門的知識・技能、生涯にわたって学習する意欲と態度」ということがございます。ここのところなどは、整理していただく中で、もう少し大きな意味を持たせて主張してもいいところかなと思います。
  同じことは、以前大学審議会で、「生徒が自らの進路と主体的に考えることが必要であり、高等教育においては、このような進路選択の力を身に付けさせることが必要」との意見が出されたようですが、これは共通すると思います。申し上げるまでもないことですが、これは随分前から言われていることで、日本の生涯学習のことを考えたときにも問題になったことですが、アメリカあたりで、小学校から中学校、高等学校を通した生涯学習という点からの全体を考えるときに、前からキャリア・エデュケーション―これは何と訳したらいいのかわからないんですが、下手に「キャリア」を強調しますと、何かエリート制みたいなことになってしまうわけですが、これは職業技術教育ということを非常に強調している。これを小学校のところから強調しているわけです。
  したがって、一番初めの「高校までの12年間の教育」のところにもありましたし、また大学審議会で出た意見もありますが、将来の「進路についてかかわりなく」という言い方は誤解を受けるのではないかというふうにも思います。そういうことも含めて、アメリカ等て主張され、これは日本の教育界でも前から主張されている点ですが、いわゆるキャリア・エデュケーションを小学校段階から高等学校段階まで通じて行うということは、一番初めのところを書き直してもらうときにもっと強調していい点ではないかと思いますので、そのことだけ申し上げておきます。
  それから、この前から申し上げていることですが、全体を通じてこの接続の問題を考えるときに大事なことで、この前出たいろんな論議に関連して、「多様化」という言葉について、ほかにかわるいい言葉は何かないかという御意見も出ておりましたし、私もそう申し上げましたが、いろいろ考えてみても、結局は「多様化」ということしかないのではないか。これは臨時教育審議会、そして、その後の中央教育審議会等の中でも、個性を生かす多様化された学校体系なりを考えるということでは、これは一貫されていることですから、「多様化」という言葉を使いたい。
  そうしますと、この前も申し上げたが、初等中等教育が多様化の考え方で成り立っている。特に高校の普通課程、それから専門高校、さらに総合学科、定時制高校、さらには最近でしょうか、東京都あたりがこれからの高校として考えていこうとしているチャレンジスクールというもの、それから神奈川県が考え始めようとしているフレキシブル高校のような考え方で、「学習ルート」という言葉を使えば、初等中等教育のところは例えば「学習ルート」という点から見て、非常に多様化され、個性化されている。そして、この前申し上げましたように、多様化され、個性化されているけれども、それは特に大学、高等教育とのつながりで言えば、お互いに対等である。したがって、袋小路になるというようなことは絶対に避けなければならないということを申し上げたわけです。
  そこで、私なりに今回のこの接続の問題について言えば、弾力的に多様化された初等中等教育の「学習システム」という言葉を使うのか、「学習ルート」という言葉はまだ使えないと思いますが、何かそれに当たるような言葉を使い、それと高等教育が同じように多様化されているわけです。けさの新聞等でありましたような、専門大学院というところまできますと、高等教育のところの多様化というのははっきりと進んでいるわけです。したがって、こうした多様化された初等中等教育の学習ルートと、それから多様化されている高等教育の学習ルートとの間の「開かれた接続」。これはこの前申し上げた言葉では、袋小路にならないという意味です。そういうことを基本的な考え方としてとらえていきますと、「高校までの12年間の教育」の問題については、先ほどから申し上げたようなことになってくるのでないかと思います。

○  私も基本的には今の委員の方がおっしゃったような意味合いも含めて、「高校までの12年間の教育」については非常によく整理されていると受けとめておりますが、若干細かい点で意見を申し上げたいと思います。
最近の大学生のいろんな不祥事といいますか、銘柄大学と言われるような、将来、医師になろうという学生のことなんかが報道される中で、全体として日本人のモラルが低下しているということについて、今後のことを考えると、背筋が寒くなる思いが走るんです。そういった意味合いで、ここに「知的、倫理的、身体的」という、知・徳・体と昔からよく言われているそのバランスのとれたものにするということです。
  それとあわせて、どうも最近の子どもたち、若者は、社会性といいますか、他者と共に学び、共に生きるといいますか、人間関係をつくっていくのが非常に苦手だということを、よく教育評論家の方は言われています。ここの「知的、倫理的、身体的」というところは、知・徳・体という並べ方からするとこれしかないと思いますが、社会の中で他者と協力して生きていくという社会性を、高校までの12年間の教育の中で身に付けるというようなことをどこかで―「より具体的に」というところを見たけれども、そんなふうに受けとめられる箇所がないので、そういうことをもし入れられれば強調してほしいというのが一つ。
  それから、「職業生活に必要な専門的知識」云々のところを、もう少し具体的に膨らましたほうがいいのではないか。特に勤労を重んじるといいますか、働くことの尊さといいますか、そういうことを高校までの12年間の中で、それぞれの発達段階に応じて身に付くような、家庭においても子どもに応じた一定家事労働をさせるということも含めて、最近、勤労とか、働くことの意味がだんだん希薄になっているのでないか。それがある意味でフリーター等が非常に増えていることの要因の一つではないかという感じもするんです。
  それとこれからの産業構造の再編や労働力の流動化を考えますと、自己啓発型のキャリア形成がある意味で重要になっていくと思います。これはもちろん高等教育を含めてそうですけれども。したがって、「職業生活に必要な専門知識」云々のところは、ほかとのバランスもあるんでしょうけれども、ここのところをもう少しイメージが豊富になるような表現をしたほうがいいのではないかというのを感じました。
  それから、「義務教育の役割」については、端的に言えばこういうことになるんだと思いますが、義務教育、義務教育というものが、ちょっと私もひっかかるんです。確かに今の憲法、教育基本法、学校教育法を見ると、義務教育は義務教育なんですが、「教える」から「学ぶ」ということへの大きな転換をしようというのが一つの大きな流れになっている中で、一方的に上から教えるのだ、それが義務だというのではなくて、子どもたち自身が学ぶ一つの主体として、権利的な学習権というふうに振りかざして言いませんけれども、そういう面を少し強調しないと、何か受け身で、「義務教育」という言葉がこの短い文章の中で二、三回出てくるので、そこのところを最終的に文章化するときには表現の仕方等を工夫していただければと思います。
  3番目の、「高校入学の『適格者主義』」については、私は第16期のときから、高等学校の適格者主義を、97%近く高校進学している中では―確かに重度の障害者の問題については、いろいろと難しい問題があることはわかりますが、基本的には適格者主義は一応取り払って、特にこれから高校以下の教育については、地方分権ということもありまして、都道府県の教育委員会に、適格者主義をとらない上での細かいことについては、ある程度任せるというような……。あまり高校以下の教育についてのあれこれあれこれを中央で言うというよりは、そういうふうなスタンスに変えたほうが結果的にもうまくいくのではないかと思っています。
  高校について言えば、12年間の「より具体的に」というところのいくつかのイメージからしても、今の普通科中心の高校から、総合制高校といいますか、総合学科からさらに総合制の学校を都道府県段階でむしろ進めるほうがいいのではないかと考えております。
  なお、全般的な問題とかかわるんですけれども、接続の問題を考えるときに、生涯学習社会という中において、学びたいというときに、仮に18歳―大学審議会でもいろいろ議論があるようですけれども、18歳がどうしても中心になるということは、現実的にはそれはそれとして了としつつも、一旦高校を出て、社会に出て職業生活をやった上で、再度高等教育にチャレンジしたいというのを積極的に受け入れるような。社会的にも、結婚し家庭を持って、それから大学に行くというのは、経済的な面とか、いろいろ難しい問題があると思いますが、特に最近の労働力流動化ということを考えると、それをシステム的にもう少し奨励するような方策と、特に奨学金制度をそういう事態をにらんで柔軟化していくという考え方を強調できないのかなと考えております。

○  2点ほど、表現をうまくして強調ができないかなということを申し上げたいと思います。
  第一点は、これは昨年、『ニューズ・ウイーク』で紹介されて、たしか電通総研の調査だったと思いますが、いわゆる英、米、仏、独、スウェーデン、日本、先進国と言われる6ヵ国の18歳から69歳までの3,000人の男女を対象としたアンケート調査の結果が、ちょっと話題になったんです。日本が特徴的にそういった国と違うところの一番のケースは、「将来、自分の国から国際社会をリードするような人間が出るか、あるいは自分の国が国際社会をリードするような国になれるか」という質問に対して、これはちょっと高過ぎると思いますがアメリカ人は80.8%、イギリス人は79.6%、ほかの先進国も5割から6割、あるいはもっと高いパーセンテージで、「出る」と答えているんです。何と日本人だけが特別で、23.7%が「イエス」と答えている。つまり、ほとんどの人が、日本人はそういう立場になれないと思っているということが報道されておりました。
  これはいろんな考え方があると思いますけれども、自我、つまり自分が人間として生きていることを社会の中に位置づけて、社会で自分が役立つということが生きがいになる。これはエリクソンの言ういわゆる「自我同一性」という考え方です。この考え方をちょっと広げて、民族という立場で考えると、日本民族がどれぐらい国際社会あるいは地球社会で役に立つ民族として生きていくことができるのか、あるいは地球社会、人類の中で、日本民族がいてよかった、いなくては困る民族だと思われるような考え方というのは、次の世代を担う人たちにはしっかりと強調しておく必要があるのではないだろうか。民族としての誇りということを言うと、「大義」なんていう言葉があるんですけれども、そうするとえらい怒られるんですが、表現的にはなかなか難しいところがあると思います。しかし、そろそろそういうことをちゃんと考えて、次の世代にはそういうものを伝えておくことが重要なポイントではないかという気がするわけであります。
  したがって、「より具体的に」という文章の上のところ、つまり初めのところて、そういったようなことを表現としてつけ加えることができないだろうかということです。書き方が非常に難しいとは思いますけれども。よく読めば、そういうことは全部書いてあるんですけれども、そこのところは少し強調されたほうがいいのではないかという気がするわけです。それが1点でございます。
  それから、「高校までの12年間の教育の役割」と「義務教育の役割」を中心にということでしたから、その部分でもう一つ申し上げたいことは、従来、日本の教育の仕組みというのは、うまく考えて仕組みをつくって、それに乗ってやってもらうという形で進行してまいりました。それが非常にうまく機能していたために、かなりいいかげんに決めて、現場で適当に考えてやりなさいという英米スタイルのやり方でない形でしたので、やったことを評価する、つまり、最近は「透明性」とか、いろんな言い方がありますが、評価の方法については、昭和50年代には文部省で行っていましたが、結局、定着しないままに、現場にはほとんどそれが広がっていない。つまり、やったことを評価して、公表するという部分を、そろそろ導入しないと、現場に任せるということは危険な状況が起きるという心配をどうしてもぬぐえないわけであります。したがって、その部分を強調しておく必要があると思うわけです。役割を書いた上で、それができたかどうかを何らかの形でチェックするということを仕組みの中に入れておかないといけないと思います。
  今までは、事細かく決めて、そのとおりやらせていましたという点が、きちっとできていました。しかし、今後は現場に任せるということでないと、よりよいものができないわけですから、基本的に分権の思想という形で進めていくわけでありますから、それが進んだ社会、あるいはこれからの21世紀の日本の進路ははっきりしているわけです。何とかこの評価、あるいはそれを公開するというようなものを、この文章の中に入れるわけにいかないだろうか。大変難しいと思いますが、2点、ちょっと気になったことがありましたので、申し上げさせていただきました。ありがとうございました。

○  まず、「1」の「高校までの12年間の教育の役割」というところの「高校卒業の時点で自立した社会人として出発するに当たり」ですが、これの意味なんですが、それと義務教育の関係ということもあるんですけれども、高校を卒業しなければ自立した社会人ということにならないのかどうか。という言葉が言い過ぎだとしたら、高校を卒業して初めて自立した社会人ということになるのかどうか。そういう印象も持たれてしまう言葉です。
  それと「2」の義務教育のかかわりは何かということですが、義務教育のところを読むと、「社会生活を営むため必要最低限の」とありまして、「高校までの12年間の教育の役割」の詳しさに比べて、その「必要最低限の」というのは、一体、中身が何なのかよくわからない。おそらく「社会生活を営むための必要最低限」ということ、すなわち、まさに中学校を卒業して自立した社会人として出発した人間が、今の時点では大勢いるわけですし、今後だっているわけですから、その人たちが自立した社会人として出発することができないような印象の言葉になっては問題であろうということです。基本的なところとして、高校までの12年間の教育と義務教育との関係をどう整理するのかというのがちょっとわかりにくいというか、非常にわかりにくいと私は思うんです。ということが、第1点です。
  第2点目は、次の「適格者主義」という言葉ですが、これはおそらく教育界の方々におかれては「適格者主義」というふうに言えば、一言にして意味が明確だということでお使いになっていらっしゃると思うんですが、一通りの教育を受けて、必ずしも教育に無関心でない人間である私、と思っていますけれども、「適格者主義」というのが、この文面を読ませていただくと、テストに合格をするという意味で能力があるという意味だというふうに書かれていまして、初めて「あ、そういう意味なのか」と思ったということです。社会一般にそういう意味で「適格者主義」というのが受け入れられているかどうか疑問だと思います。
  その次に、様々な高等学校がありますから、「その教育を受けるに足る能力・適性等を判断すること」ということ自体が、ある意味でいえば、まさに学校が適格であると判断をしたということですから、狭く学力ということで解釈をする言葉が「適格者」というのは、一般的な日本語ということから言うと、そういう理解の言葉かなという疑問があります。それが2点目です。
  3点目ですけれども、「高校卒業時の到達度評価について」というところで、「現時点では各高校における適切な評価の充実を基本とすべきと考えるがどうか。」とありまして、これはそういうことだろうなと思うんです。各高等学校がその高等学校の判断と責任において評価をするという考え方に立ちながら、一番最後のところで「客観的な評価基準の開発の検討を行う」と言ったときの、この「客観的な」という言葉はどういう意味を持つのか。全国一律で何かを考えるというふうにとられかねない言葉ですし、それであれば、その直前に言っている「各高校における」云々ということと矛盾するのではないだろうかということです。
  その次に、「大学入学者受入方針の明確化について」というところで、「受入方針(admissionpolicy)」と書いてございます。アドミッション・ポリシーについては、もちろんそれはそれで結構だと思いますが、この考え方は私なりに理解すれば、高等学校はそれぞれ高等学校の判断で必要なタイプの子どもたちを集めて教育をし、教育の成果が上がったかということについて、そういうことも含めて評価をする。他方で、大学は「適格者主義」ということでテストをするということで、そのつなぎは自由にやってくださいということになるわけで、それはそれでいいと思うんです。その場合に明確にすべきは、アドミッション・ポリシーのみではなくて、その大学の、より広い教育方針であるべきではないだろうか。接続のことをやっているわけですけれども、それは単に入学の問題だけではなくて、その大学に入学を許可された人が、それ以降、どういう能力を持っていなければ教育を受けていくことができない、あるいはそこの大学に入ればどういう教育を受けることができる、というところまできちんと方針を公表すべき話だと思います。
  以上、いくつか申し上げましたけれども、そういうことを考えると、いくつか整理ができないと思う点がありますので、御教授をいただければ幸いです。

○  今の最初の点については、「高校卒業の時点で自立した社会人として出発する」ということは、高校については書いてあるけれども、中学校については「社会生活を営むため必要最低限の内容・程度」ということになっているけれども、どういうふうに違うのか。苦しいところです。

○木村座長  我々としては非常に苦労しているところでありまして、学校教育法によりますと、中学校については、「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。」と書いてあります。
高校になりますと、「国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。」と微妙に区別してあります。
  そういうことで、高校のほうは自立したということを前提にして、必要最低限の内容・程度と表現したのは、「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」ということを重視したからです。この点について、今、非常に苦労しているところでございまして、冒頭、私が「高校までの12年間の教育の役割」と「義務教育の役割」について特に御意見をいただきたいと申し上げたのはそういう意味でございます。この点にもほかの委員の方からも御意見をいただければと思います。

○  「高校までの12年間の教育の役割」の問題につきまして、先ほど来お話がございましたように、私も立派にまとめてくださっていると思っております。ここで何か加えたらと思う点を申し上げさせていただきます。
その一つは、時間軸が一本通ったような表現ができないだろうかということです。時間軸と言えば、歴史ということになりますが、私は単に歴史的な事実だけでなくて、やはり「歴史観」といったようなものですね。歴史的な事実に関する知的な学習の問題に加えて歴史観の基本になるものを習得していく、あるいは考え合っていくことが重要ではないかと思います。
  歴史教育について一言申しますと、高校までの社会の勉強の中で、現代史に近いところほど勉強が十分にいっていない。歴史を太古の昔から順番にやってきますと、時間が足りなくなる。逆に現代史からさかのぼっていくような歴史の授業を含めて、歴史観の教育が重要ではないか。教え込む教育だけではなくて、考え合っていく教育が必要ではないかと思います。それが時間軸を一本通すということです。
  次に、やはり空間軸を一本通してみますと、「世界観」といったようなことになるかと思います。世界観といいましても、大きく分ければ2種類考えるべきで、一つは自然界です。昔は「physis」と書いて、哲学ではよくそんなことを論じたものだと思いますが、自然的世界に対する世界観です。それともう一つは、人間社会に対する世界観。この中には、民族とか、国際社会とか、文化とかも含まれます。
  もう一つ、第3本目の軸は、「人間観」でございます。この中には、先ほど来、倫理のお話もありますが、田村先生からお話がありましたように、中等教育では特に自己を見詰める自己、そういうものの成長、発達を重要視することが、アイデンティティを確立するためにも重要です。自己を含め、人間をどう見るかという問題です。
  自己を見つめることと他者を見つめること。そのときに必要なやさしさとか、寛容とかいった表現が入ってくれたらありがたいと思っております。以上、「歴史観」、「世界観」、「人間観」の三つを申し上げたかったわけでございます。
  2番目に、「適格者主義」という問題でございますが、卒業時の適格性が何とか描けないでしょうか。これがあると、入学後の個人個人の方向が定まりやすいのではないかと思います。入口管理より出口管理という表現が前にあったかと思いますけれども、各教育制度の上の節目、節目で、適格性というのが定められたら、本人のためにもいいのではないかと感じます。

○  たびたびの発言で申しわけありません。「高校までの12年間の教育」と「義務教育」の関係というのは、私ども現場にいる人間だとスッと入ってくるわけです。それは例えば中高一貫教育で、算数とか、数学という教科を、文部省の学習指導要領に従ってチェックしていきますと、構成がラスパイラス、要するにらせん型になっているんです。同じことを、年度が進むと少し高度に教えていくということで、中学校、高校の数学の学習内容ができているんです。ですから、言ってみれば同じことをやっているんですけれども、少し高度になっているというのが今の仕組みなものですから、表現をうまくやらないと、確かに誤解されるとは思うんですけれども、言ってみれば高校までと中学までというのは、程度が高くなるけれども、内容は同じだというふうに思っていたものですから、あんまり矛盾を感じていなかった。

○  「高校卒業時の到達度評価について」でございますが、高校教育の到達度が多様にならざるを得ない現状を踏まえることはいいんですけれども、だからといって「全国一律の到達度試験」を実施しなければ到達度評価ができないと考えるのは、硬直的すぎるのではないか。もう少し柔軟なシステムを考慮する必要があるのではないかと思います。
  全国一律の到達度試験が無理だから、「現時点では各高校における適切な評価」という、現状の中でとどまるのは、ある種の短絡というふうに考えざるを得ないという思いがいたします。
  それから、「各高校の責任において適切な評価を行うために、国立教育研究所において大学入試センターと協力しながら高校までの12年間の教育の達成度(学習の到達度)の客観的な評価基準の開発の検討」については、おそらく最近言われております「アセスメント・スタンダード」であるとか、「アセスメント・ベンチマーク」を開発したらどうかということだと思いますが、当然、短い文章で表現できるようなことではありませんので仕方がないのですが、一体、どういうシステムを考えているのかということが、ここからではちょっと想像することもできません。卒業時の適格者判定といいますか、卒業できるとかできないという制度的な資格ではなく、目標としての適格者基準と、生徒たちがどこまでそれぞれの教科なり科目、あるいはそれ以外のいろんな資質・能力に関して学習達成できたのかということを確認するような作業、それはあえて言えば、高校卒業時でなくても構わないんだろうと思います。高校段階で、そういう形での一つの一つの評価がされるシステムができていくことが、高校教育が今以上に地方分権的になっていった場合にも、そこでどういう教育が行われているのかということの透明性を高めていくことにも貢献するのではないかと思います。このあたりについて、少し言葉が足りないということと、それから考え方自体が少し硬過ぎるのではないかと感じております。

○  ちょっと気のついたことを二、三申し上げたいと思います。
  まず、「高校までの12年間の教育の役割」と「義務教育の役割」のことですけれども、この書き方ですと、高校までの12年間の教育をまず前提にして、その中で9年間がどうという形で書かれておりまして、これをこのまま見ていますと、中学までの9年間というのは全体的に何だか非常に暗いような感じがするので、報告書としてはちょっとまずいのではないかという気がします。
  そうじゃなくて、最低9年間は絶対的に必要であって、そこから現代の社会のような複雑な社会で生きていくためには、あと3年間頑張っていろんなことをやらなければいけないんだというふうな積み上げ的な書き方にしたほうが、このままで見ると義務教育の何だか暗いような感じがするのが救われるのかなという気はいたしました。全体的に書かれている内容は非常にすばらしく表現されていてよろしいかと思いますが、そんな感じがいたしました。
  それから、細かいことですけれども、「高校までの12年間の教育の役割」、「外国語によるコミュニケーション能力」などありますけれども、高校の教育において、コミュニケーションの能力だけではなくて、外国語で理解し、外国語で表現するという能力をやはり持たさないと、コミュニケーションはできないのではないか。単にしゃべるというだけではなくて、「外国語による理解能力」とか、「表現能力」まで要るかどうかはわかりませんけれども、コミュニケーションということだけを強調して書くのはどうかなという気がいたしました。
  それから、大学の入学等についてでありますけれども、じゃ大学の社会における存在理由は何か、あるいは大学の教育の目的は何かということについては、「大学については、高度な課題探求能力」などありますが、もう少し内容の豊富なことを今後書いていただいて、大学の社会における存在価値、存在理由を明確化して、そういう目的を達するための人材を養成するんだという立場を明確にする必要があるのではないかという感じがいたしました。
  それから、「国際的通用性のある教育を行う」という、これですけれども、これはカリキュラムが国際的に通用性があるというふうに読めちゃうんですけれども、そういう意図があるのかもしれませんが、それ以外に、国際的に太刀打ちできる能力を持たせる教育といいますかね。表現をもう少し考えなければいけないと思いますけれども、そういう意味の内容のことを書いておく必要があるのではないか。これをぼんやり読んでいますと、国際的通用性のあるカリキュラムみたいなものを導入するというように、うっかりすると読めるんです。そういう意図なのかもしれませんけれども、書かれた方が。それであれば、それはそれでいいんですけれども、それ以外に国際的に十分やっていける人材を養成するんだということを書いていただいたらどうかと思います。
  それから、大学の入学者受入方針の明確化についてで、大学の中には入試科目の増加など、受験生の負担の増加となるところも出てくると考えられるが、こうしたことも各大学(学部・学科)の責任において入学者選抜を行う以上許容されると考えられることは大賛成ですが、入試科目を増やしていくことは大事なことだと考えます。大事だということは、つまり総合的な勉強を中等教育及び高等教育において、できるだけ充実してやるということにつながるわけですから、そういう意味で、入試科目の増加ということを広く強力に勧告するといいますか、ぜひそういう方向ですべての大学が努力してもらいというような感じの書き方をしていただけると非常にいいのではないかという感じがいたしました。

○  二点、意見を申し上げさせていただきます。
  「高校までの12年間の教育の役割」でございますけれども、1番目に、「社会に貢献できる人間となるための当然の前提として、高校卒業の時点で自立した社会人として出発するに当たり、その後の進路にかかわりなく、必要とされる知的、倫理的、身体的な資質を養成していくこと」、2番目に、「これからの変化の激しい社会を生き抜く基盤となる資質、能力を備えていること。自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、判断し、行動し、問題を解決する能力や倫理観・社会性・感動する心などの豊かな人間性を備え、身体が健全で基礎的な体力を有すること」の二つが示されています。
  小学校・中学校・高等学校とも今回の教育課程の基準の改善のねらいの3番目に、「基礎・基本の確実な定着」という言葉が挙がっているわけでございます。これは2番目に含まれるといえば含まれるわけでございますが、高等学校の必修単位数31単位は、すべての子どもたちが勉強するわけでございます。おそらく社会人になって、その部分がいわば教養の部分になっていくだろう。共通に私たちが勉強して、大人になっても、その部分は共有してコミュニケーションができる。教養のベーシックなところは、内容的には高等学校の31単位の必修の部分までであるということを考えます。
  このような理由から、この部分に基礎・基本に当たるような、「自立した社会人として必要な基礎・基本的な内容」とか、そのような文言が要るのではないでしょうか。
  もう一つの理由は、今回の改訂で、小学校では基礎・基本の確実な定着を図るために、例えば大事なことは繰り返して教えるようにとか、中学校は習熟度に応じた学習を展開するとか、それから補充的な学習が選択教科でもできるとか、そのような対応をしておりますから、基礎的・基本的な内容の定着は、小学校・中学校・高等学校を通じて重要なことと思います。
  この二つの理由から、基礎的・基本的な内容について、「教養」という言葉がいいかどうかわかりませんが、そのような言葉を3番目に入れることも考えられるのではないでしょうか。
  では、基礎的・基本的な内容は具体的にどういう範囲かということになりますと、「より具体的に」の後の部分になってくるのではないでしょうか。国語、文化・伝統、この辺になってくるのではないかと考えました。
  2点目は、「家庭生活」のところの細かい表現ですけれども、「社会生活の意義を理解し、その形成者として」となっておりますが、「国家」という言葉が要るのかどうか。「国家」「社会」という言葉、「国家や社会の形成者」ということをここに入れるのがふさわしいかどうかわかりませんけれども、そのような言葉や「責任ある行動がとれる」というような表現も要るのではないか。それにかかわる言葉も下のほうに、「正義感」とか、関係した言葉がございますが、「主体的・創造的」ということだけでよろしいのかということを感じました。

○  「高校までの12年間の教育の役割」について述べさせていただきます。結局、教育の役割を規定するために、到達目標をお出しになったわけです。こういう点、こういう点、こういう点と。その書き方は非常によくわかりますけれども、ゴールを提示されたときに、では、どうしてするのかということになります。
  知的な能力や技能に関しては、一朝一夕にいくわけではありませんし、あるいは従来のたくさんの経験がありますから、このような学習プログラムがあるだろうということはある程度予想できます。身体的側面に関しても、そういうことはできないではないと思います。
  しかし、例えば社会性や人間性、倫理面ということになりますと、ゴールだけを出しただけではなかなかうまくいかない。つまり、どうしてそれを実現するかということを見通しながら、ゴールを的確に述べていくというふうな工夫があっていいのではないかと思います。そうでないと、ただそういうことはいいことだ、でなければいけないということで、徳目として何か注入を図るといいますか、あるいは望ましいことに対する同調をひたすら求めるということになるのではないか。それではあまり説得力がないような気がします。
  その点に関しまして、これは私見でございますけれども、全体として「子どもの参加を求める。子どもに役割を果たしてもらう」という視点がややおろそかになっているのではないか。結局、今の家庭生活を見ても、それから学校や地域社会の生活を考えましても、子どもが役に立っているということがほとんどない。子どもが直接何かしなくても、家は動いていきますし、学校の運営もできますし、地域社会も困らない。だから、子どもは直接必要とされていないから、自分が何かすると、家にこのように役に立つ、学校がこのように変わるというふうなセンスが持てない。その意味で、何かの参加を求める。参加を通して、先ほどのような社会性あるいは人間性を形成していくというふうなことが出てきたらいいような気がします。
  その場合の参加というのは、ただ子どもたちに「入れ」というだけではなくて、やはり自分にかかわることですから、それに関して意志を表明するということもありますし、政策決定に何かの参与をするということもある。それはいろんな水準で考えられますので、子どもの参加を可能にするようなシステムを考えながら、社会性、人間性の育成を考えたい。
  この中に具体的には、今、他の委員の方もおっしゃったような、「家庭生活や社会生活の……形成者として」の主体性・創造性ということが書いてありますし、「ボランティア精神」ということも確かに書いてある。ただ、それを本当に実現していくために、パーティシペーションを考えられないかということがポイントでございます。

○  こういう点も御配慮いただければということで、細かい点を二つと大きい点を二つ申し上げます。
  細かい点の一つは、「より具体的に」の「国語を尊重する態度」という国語のところと、その辺の三つに関係するんですが、国語というのは文字、言葉でございます。言葉以外に、今、人間は絵で考えたり、図で考えたり、写真を見て物事を理解したり、自分の思想を上手に表現するように衣装をデザインしたり、建築をデサインしたり、料理の盛りつけをしたり、そういうものを見て感じたりする。芸術もそうだと思います。そういう新しい時代になってきておりますので、「情報活用能力」というところに入るのかもしれませんが、必ずしもそうではなさそうなので、新しい読み書き能力みたいなものを育てるというふうに、過去の高校までの12年間の教育ということではなくて、これからの12年間の高校の教育を考えた中央教育審議会の提言になろうかと思いますので、そういうニュアンスがどこかに盛り込めないかというのが1点でございます。
  私は昔のように小学校、中学校、高等学校、全国一律の学力検査みたいなものをまた考えてもいいのではないか。これは以前、他の委員の方から御紹介いただいた、イギリスでしたかね、学力検査等をしまして、学校の順列を各地域で発表するとか、そういうことをやっている国があるわけですよね。日本でもそういうことをやりまして、これは発表してもいいと思います。その際に、スポーツとか、芸術とか、善行で表彰を受けたものも全部込みにして、この学校はこんなすばらしい……。今、学校へ行けば、トロフィーだとか、いっぱい飾ってあるわけです。あれを情報公開してしまうわけです。同じように、子どもの学力も情報公開する。
  学力だけではなくて、いろんな面での学校の教育の在り方から、子どもの実態から―いろいろ抵抗はありますよ。ものすごい抵抗がありますし、そこを恐れて、今まで各都道府県間のいろいろなデータの比較すらやってこなかったんですから、大変なんですけれども、もうそろそろ、「考えるかどうか」とありますので、考えてみても……。「すべきと考えるがどうか」のもう一つ前に、「……困難であり」というところも考えるかどうかという意味ととりまして、あえて話題といいますか、検討課題としてお願いできればと思います。
  大きい点は二つですが、一つは、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」という全体のタイトルがあります。これで報告書というのはかたいですよね。何か副題が上手につかないか。「生きる力」とか、そういうキャッチフレーズがないか。先ほど他の委員の方がお話しされたのがいいなと思ったのは、「開かれた柔軟な学校間の接続」とか、あるいは「開かれた柔軟な学びの世界」とか、「開かれた柔軟な学びの仕組みをつくる」とか、何かそんな感じにして、コンセプトとしては「オープン」と「フレキシブル」ですね。例えば、学校教育の中では、「ティーム・ティーチング」とか、「ノン・グレード」とか、「異年齢」とか、「飛び入学」とか、大学の飛び級は既に制度としてやっておりますので、そういうフレキシブルなところ。それから、18歳を超えて社会人が出たり入ったりできるような、高等学校でも社会人がまた学ぶ。その際に情報通信とか、インターネット・スクールということも今考えられてきております。社会にも開かれてきているし、学内異年齢でも開かれている。
  逆な言い方をすると、18歳人口からよい大学に入るのが、すべての人生の道ではないぞということをズバッと言いたいんだけれども、それを言うより、いろいろな場で学習できますよという前向き、積極的な言い方のほうがいいかなという感じがしております。大きな問題点としてそれが一つでございます。
  例えば接続を考えますときに、前にもいろんな話が出ていますが、例えばシステムとしてはカリキュラムを高等学校と大学でどのように接続するかとか、教育の方法をアドバンスト・プレイスメントとか、補習とか、いろんなことを含めて、大学と高校の間でどう接続するか。入試だけが接続ではないわけです。入試はほんの一部です。
  個人として見ると、個人の学力とか、意欲とか、経験とか、どのような学習をしてきたかという、そういう情報を持った個人が、高校から大学へ接続するわけです。個人としての接続。それから、接続方法としての接続としては、入試はほんのその一つなわけです。そのほかに、アドミッション・オフィスとか、いろんな情報がある。
  その基盤になるのは、術語を使えば、子どものポートフォリオと大学のポートフォリオを充実するということです。子どものポートフォリオというのは、子どもが今までどのような勉強をしてきて、どういう経験をしてきて、それの積み合わせの情報群がある。その情報群があって、それは個人、個人でみんな違ってあるわけです。大学は大学で、早稲田大学、慶應大学、東京大学、東京工業大学とか、みんなそれぞれのポートフォリオといいますか、大学の教育の目標があり、内容があり、方法があり、卒業生はどんなのがいて、どこで働いてと、みんな情報があるわけです。そういう個人の情報のポートフォリオと大学の情報のポートフォリオをきちっと整理して、それを上手にすり合わせていく。そのすり合わせの一手段が学力入試にすぎない。それはほんの一部なんだと。
  そういう「初等中等」「高等」「接続」という三つのキーワードの組み合わせから、このテーマはなっておりますので、後ろのバランスとして―これからくるのだったら、私がちょっと先走り過ぎているんですけれども、そういう印象を持ちましたものですから、一言申し上げます。

○  まず、「高校までの12年間の教育の役割」では、「社会の一員としての自覚」とか、「責任」とか、そういう意味での表現が欲しいなという感じがいたします。
  それから、とりわけ国際社会に開かれていくような、そういう社会に生きる青年の教育ですので、やはり「国際社会」という観点からの目標の立て方の言葉があっていいのではないかと思いました。
  それから、先ほどから出ています「客観的な評価基準の開発」ということですが、これが具体的にどんなことをイメージして、それが何に使われるのかというところが問題になると思うんです。それぞれの高等学校がそれぞれの学校の目標を立てて、そして生徒の実態とか、地域社会の状況でありますとか、そういうことを踏まえながら目標を立てていく。その目標に照らして、様々な教育的な努力をしていく。そこに教師の状況分析の力とか、あるいはまた意思決定をしていく力、それを実践していく力というものがあるわけですが、そういうことをしながら、各高等学校が自己努力をしていく。そのことを助けるような、そういう評価の基準のようなものを考えていくことが大切ではないかと思います。
  ですから、12年間の教育の達成度というふうに限定されてしまいますと、まるで高等学校の出口のところでこれを一斉バッとやって、結局、それがどれだけ達成されているのかという観点からしか、各高校の教育的な努力を評価しないというふうにとらえられると、それは必ずしも望ましくないのではないか。やはりそれぞれの各学校の個別的な努力をエンカレッジすることのできるような、援助することのできるような評価の基準を、国研や入試センターで開発していただくような筋道で考えたほうがいいのではないかと思います。
  「適格者主義」ということですが、私の理解では、現在の高等学校の入学試験は基本的に適格者主義で行われていると思います。その考え方をとらずに、しかし、その教育を受けるに足る能力・適性等を判断することが可能であることを明示する。そうすると、適性主義の考え方をやめるということですが、それをやめて、なおかつ能力・適性等を判断することが可能であるということは、やはり能力・適性に応じた入学者選抜を行うということで、それは適格者主義とは言えないのかどうか。ということは、ここで言われるところの「適格者主義」というのは、結局は教科の学力のようなもので入試を行うのではなくて、あくまで子どもの、学科の特性等に応じた多様な選抜の仕方をするという趣旨なのかどうか。
  少しそこが、考え方をとらないで、しかも能力・適性等を判断した入試が行われるということは、適格者主義が続いているのではないかという印象を受けてしまうんですが、その点はいかがなんでしょうか。

○  「高校入学についての『適格者主義』」について、高校を義務化はしないけれども、希望者全員入学という方向に踏み出し、そのような意味で、入試の在り方をもう一歩見直していきたいという趣旨で理解していいのかどうか。
  もう一つは、「到達度評価」については、これも皆さん、いろいろ御意見があるので、重複しないように短く発言しますけれども、私自身も全国一律の到達度試験のようなものということについては、資料とか、調査を整理するという点では、やってもいいかなという個人的な意見があります。ただ、技術的な問題を含めて、すぐ実施するというのはかなり難しいと思うんです。ただ、困難であるから、イコール、現時点では各高校で適切な評価の努力をせよということは、これは先ほど他の委員の方からも発言がありましたように、私自身もそれはちょっと短絡的だと思います。地方行政レベルでやるべきことはもっとたくさんあると思います。というのは、昨年の中央教育審議会の答申でも、そうした問題について、学校の説明責任ということで、地方行政の全体的な取組課題だということで話をしています。
  もう一つは、各学校の評価の結果、例えばいろんな問題が生じてきた場合に、つまり、ある一定の到達度の水準に達しない生徒が非常に多いといったような、評価の結果、様々な問題が出てきた場合に、その問題を改善していくのは、ただ単に学校だけの努力ではなくて、学校を所管する地方行政の責任でもってそれを是正していくという問題が当然生じてくるわけです。そうした問題を考えると、各学校で努力せよというレベルで評価をとどめるべきではなくて、これは県の教育委員会なり市町村の教育委員会のそうした視野を含めた地方行政の仕組みとして、考えられるべきと思っています。

○  「高校卒業時の到達度評価について」の議論でちょっと整理が必要かなと思いますのは、個人の到達度の認定を問題にするのか、あるいは教育システムの評価に使うかというのが、一緒になっているような気がいたします。
  一人一人が高等学校を終わったときに、この水準に達しているかどうかということを認定するというのは大事なことですけれども、同時に、先ほどの御議論では、そのような個人のデータをもとに、学校の教育システムがうまく働いているかどうかということを、学校あるいは行政の水準で押さえなければいかんというお話もございました。それをやはり分けまして議論する、あるいは書き分ける必要があるだろうと思います。
  出口だけでやると、やはり問題が起こるというのは、例えば高等学校でも、こういうふうな水準の人が入ってきました。3年たった後で、ここまでいきましたという、その成長といいますか、伸びといいますか、それも考慮に入れないと、出口だけではおそらく一つ一つの学校が困るだろう。一番楽なのは、レベルの高い人を入れておきますと、ほとんど何もせずにちゃんと到達したことにもなる。そうすると、個々の学校の努力が反映されませんので、やはり「入口はこのような水準、出たときにこれ」ということが評価できるようにする。それが目に見えるように、個人の水準でも、あるいは機関の水準でもわかるということがいいのではないか。
  そういう意味で、「各高校の責任において適切な評価を行うために、国立教育研究所において、大学入試センターと協力しながら高校までの12年間の教育の達成度(学習の到達度)の客観的な評価基準の開発の検討を行うべきと考えるがどうか」ということについては、そのような一種のベンチマークといいますか、水準を調べていくような共通の目安みたいなものを開発されるのはよろしいでしょう。ただ、それを一律に適用して、これじゃないといけないということは問題だということが、先ほどからありました。要するに、個人の問題と、集団のシステムの問題を区別しながら、関係づけて書いていただいたらということでございます。

○  3点ほど申し上げたいと思います。
まず、「高校までの12年間の教育の役割」の12年間の教育のことに関しましては、何々する心というようなやや情緒的な表現以前の話として、社会におけるルールとか、秩序とか、公共的な利益と私的な自由の関係の問題とか、あるいは社会的な諸制度―国家を初めとして諸制度に対する基礎的な理解。私は法律家ですけれども、より直接的に言えば、規範意識のようなものが問題になっているのではないかと思います。これは社会内において、「自立」も大事ですが、「自律」も必須のことなのであって。
  現在、ものすごい勢いで少年非行が増大している。これは規範意識が低下したなんていう生易しいものではなくて、規範意識が最初から欠如しているような状態の新しい現象とも専門家は言っているわけです。それが一部の現象だと必ずしも言えないところが怖いところでして、公共的なるもの、あるいはルールとか、秩序を尊重する心のようなものをですね。心というのか、公共精神というか、そういうものをきちんと身に付けるための教育が一本書かれてもいいのではないかというのが、一つ意見でございます。
  それから、先ほど他の委員の方が、言語以外のもろもろのメディア等を用いた表現能力の重要性を指摘されたのは全く異論はないのですけれど、同時にやはり言語を用いた表現能力というのは、思考力そのものと直結しているという意味では別格だと思いますので、特別な位置づけがあってしかるべきだろうと思っております。
  2点目は、「適格者主義」に関していろんな御議論があって、それは一応わかったのですけれど、高校では適格者主義の考え方をとらないこととの関連で、大学については適格者主義だと書かれますと、では大学における適格者主義というのは今までどおりでいいのかという印象になっているのではないか。むしろそうではないのではないかというのが、この委員会を初めとしてだいぶ議論してきたことであると考えますと、この表現はミスリーディングになるのではないか。「高校と同一、同列に論ずることはでき」ない。それはそのとおりだろうと思いますけれども、だからといって、大学入学における適格者主義がこれまでのように、いわば学力中心の適格者主義だけでは済まなくなっているという認識も、同時に示されていくべきだろうと思います。
  さらに言えば、おそらく大学院レベルにいけば、まだ旧来型の適格者主義―もっともこれもいろんな議論が出てきていることは事実ですけれど。だから、これはいろんな方が指摘されたとおりですが、「適格者主義」の意味合いをもう少し丁寧に書く必要があるのかなという印象を持ちました。
  3点目は、「大学入学者受入方針の明確化について」のことですけれども、各大学あるいは学部・学科の単位で入学者受入方針を明確化するんだということは、教員の一人としては大変だなという実感は伴いますが、しかし方向としてはかくあるべしと思いまして、賛成でございます。
  ただし、「その場合」というパラグラフですけれども、「入試科目の増加など、受験生の負担の増加となるところも出てくると考えられるが、こうしたことも各大学(学部・学科)の責任において入学者選抜を行う以上、許容されると考えてよいか。」というんですけれども、各学部・学科が方針をきちんと示す。それに即した入試方法を工夫するということを積極的に評価すべきなんだろう。そういう文脈だろうと思います。それが中身のいかんを問わず、たまたま科目がちょっと増える、イコール、受験生負担増で、それは本来よくないことなんだけれども、例外的に許容されるというような文章表現のように見えるわけなので、ここは語感あるいはニュアンスの問題ですが、「許容される」どころか、もうちょっとポジティブに評価されていいことなのではないか。いや、もちろんやたらに科目を増やすことがいいという意味ではないですけれども、科目増イコール本当はいけないことで、しかし例外的に許容という文脈でもないのではないかという感じがいたしますので、ちょっと申し上げておきたいと思いました。

○  先ほど他の委員の方がおっしゃっていただいたので、ほっとしたんでございますけれども、まず高校までの12年間の教育の役割という中で、義務教育というふうに謳っているわけでございますが、私自身の考え方としては、小学校・中学校の役割は何かということの上に、高校の役割があったほうがいいのではないかという感じがするわけです。というのは、教育の積み重ねと、例えば家族や家庭教育のかかわりぐあいというのは、低学年、あるいは小学校・中学校のほうが非常に強いわけでございます。そういう中において、例えば基礎・基本とか、総合的な学習が一方であるわけでございますので、接続という点でいけば、一般論で言えば高校と大学の接続なのかなと考えますが、その基本にあるのは小学校・中学校という段階があるわけでございます。
  まず、小学校・中学校の役割を明確化して、その上に高校の役割があるということにしていかないと、今までの論議の中で役割の明確化を一方で言っていながら、高校までの12年間の役割を全部やって、その中で、この部分とこの部分だけは小学校、中学校ですというのは、一般論として受け入れるほうは非常に受けにくい、また教育しにくいという面があるわけです。そこら辺は、最終的には高校までにどういう教育をやるのかということは必要だと思いますけれども、義務教育での小学校・中学校の役割を、もうちょっと前面に出していただきたいという感じがいたします。

○  まず「高校までの12年間の教育の役割」というところですけれども、私は、12年間でくくったということに一つの意味があろうかと思います。その中身ですけれども、一々目を通しておりますと、しごくもっともであるということばかりでありますが、一部重複しますが、公共性の感覚問題、さらには自己責任について、もっと前面に出したほうがいいのではないかという印象を持っております。
  同時に、これからこの文章を成熟させていく過程の中で、わかりやすい区分けの仕方と表現、例えばこれは個人的なことで申しわけないんですが、中央教育審議会の一次答申の「生きる力」というのを、私自身が勝手に四つに区分けしまして、「組織の外でも生きる力である」、あるいは「国境を越えて生きる力である」「他者と共に生きる力である」とか、あるいは「人間として生きる力である」というふうにくくってみるとわかりやすいと、しばしば書いています。例えばですけれども、そういったようなくくり方、もしくはユネスコの国際教育委員会が3年前でしたでしょうか、学習の4本の柱ということで四つに分けて、わかりやすく説明しています。あのような形で、世間の人々がすぐさま腑に落ちるといったような表現の方法を考えていくべきではなかろうかと思います。
  質問ですけれども、先ほど来、「適格者主義」について、様々な質問等が出ていますが、これは極めて素朴な質問で申しわけないんですが、たしか高校を一括した適格者主義は既に崩れていて、各高校における適格者主義に切りかわっているという理解をしているのですが、この辺のところが形式的もしくは実質的なものとして、どのような交通整理として頭の中に入れておけばよろしいのか、いまいち踏み込んだ御説明をいただければ幸いです。
  もう1点、質問といいましょうか、意見といいましょうか、申し上げたかったことは、役割のことについてはかなり詳細に出ていますけれども、肝心の初等中等教育と高等教育との接続の問題については、あまり触れてはいない。もちろんみんな関連のあることですから、書いていないとは申し上げませんけれども、例えば高校卒業時における到達度評価でも、ややうがった見方をすれば、もう一つのパラグラフが存在し得るのではないかという気がしなくもないんです。
  例えば、確かに現時点においては、少なくとも卒業資格試験的な全国一律のテストのようなことを実施するのは、実情に照らして困難であるというふうには私自身も思います。したがって、現時点では各高校における云々ということも、そのとおりになるのだろうと思いますが、その後段の文章の行間を読み取ると、例えば現在の大学入試センター試験を改良、改善する形で、高校における学習到達度試験的な要素として使うのか使わないのかといったような視点が、どこかに入り込む余地があるのではないかという感想を私は持ちました。

○  大変貴重な御意見をありがとうございました。一、二、皆さんの御意見を伺っている過程で、いろいろ考えましたことを申し上げたいと思います。
  「高校までの12年間の教育の役割」は、言うなればフィロソフィーの問題でございまして、それ以降は、そのフィロソフィーを前提にして、どういう処方箋をそれぞれの局面で考えていくかというようなことだと思います。
  そのフィロソフィーの内容は、これはしばしば、私もいろいろと本席で申し上げてきまして、ほとんどそれが入っておりますので、結構だと思いますが、これをさらにブラッシュアップする過程でひとつ考えていただきたいのは、一つは、「高校までの12年間の教育の役割」となっておりますが、これは考えてみますと、大学を含めた学校教育というものの役割をどう考えるべきかということではないかというふうにも思いまして、果たして高校までの12年間というふうに区切ることがいいのか、あるいはそれを取っ払いまして、もう少し大きな立場で学校教育の役割とか、あるいは目標という観点で、これをブラッシュアップするアプローチもあるのかなと一つ思いました。
  2番目は、継続性といいますか、1947年の教育基本法にまず始まっているわけでございまして、その教育基本法の第1条は、教育の目標というのは人格の完成にある。同時に、真理の探求というようなことを掲げているわけでございます。
  それからおおよそ40年たちまして、1987年に臨時教育審議会の答申が出ました。臨時教育審議会の答申も、密度の濃い討議が行われておりまして、当時の議事録をずうっと読んでまいりましたんですが、その中に、結局、人格の完成をベースにしながら、自由と規律のバランス、その中庸を模索するのが教育の目標だと。そこで、先ほど来、公の問題がいろいろ出ておりましたが、自分と他人との協力とか、いまだに大変参考になるような内容になっておりまして、偏差値の問題の弊害につきましても、かなり指摘しているわけです。
  そして、1987年から12年たちまして、その間、冷戦が終焉し、グローバリズムが世界を覆う、バブルが崩壊するというようなことで、人間性の疎外という問題が一段と濃くなってくるような社会になりつつある。
  こういった立派な臨時教育審議会の答申が出ているにもかかわらず、いろいろな問題を今の教育において抱えておる。一体どうしてそのような答申にもかかわらず、この12年間にこのような光の部分もございますが、影の部分が出てきたのか。その影の部分を振り返ってみることによって、フィロソフィーの問題に至る処方箋について、何かヒントが出てくるのではないかと実は思いまして、勝手な御意見ではございますけれども、これから年末に向かって、いよいよ佳境に入るわけで、文部省の事務局のほうでもできましたら、今、私が申し上げたような視点もお考えになって、またブラッシュアップをしていただきたいと思います。

○木村座長  本日はどうもありがとうございました。



(大臣官房政策課)

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