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大学審議会

 1999/8 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第16回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第16回)

議事録


平成11年8月6日(金)  13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階  ゴールドスタールーム


1.開会
2.議題
「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉会


出席者

委  員
根本会長、木村座長、川口委員、河野委員、坂元委員、田村委員、土田委員、永井(多)委員、長尾委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、安齋専門委員、磯部専門委員、小嶋専門委員、小谷津専門委員、杉田専門委員、鳥専門委員、永井(順)専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山口専門委員、四ツ柳専門委員

事務局
佐藤事務次官、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  それでは、時間になりましたので、ただ今から中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」第16回、第17期としては第9回になりますが、開催させていただきます。
  本日は、専門委員、委員の皆様方におかれましては、お忙しい中、また大変お暑い中、御出席賜りましてありがとうございました。
  本日は、前回、第15回会議に引き続きまして、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」に基づき、御議論をいただきたいと考えております。よろしくお願いいたします。
  それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長  よろしゅうございますか。それでは、御議論をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

○  今までの審議を聞いていて、ちょっと感じたことですけれども、それぞれの専門家の先生方が述べていることで正しいことだと思うんですが、「親が、『自分の子の能力・適性に合った大学に入れるか』というよりも、『特定の大学に入れるか』ということに固執していることが問題なのであり選抜方法を変えても改善は難しい」ということが意見として出ておりましたが、果たしてそうかなという感じを持つわけでございます。どうしてかというと、大学を選択するのはあくまでも子どもであって、親ではないという中において、果たしてこういうことが言えるのかどうか。
  もう一つ、一部ではそういう人もいるかもしれないけれども、今は案外とそういうところではなくて、いろんなところで諸先生が述べたように、大学がすべてでないという認識の中で、親の意識も変わってきているということであれば、ここでそういうふうなことを言っていいかどうかという感じがちょっとしました。また、「選抜方法を変えても改善は難しい。」と言い切っていいのかどうか。
  また、「受験競争が全体としては緩和したとしても特定の大学をめぐる競争までは無くせないことを明確に示すことが必要」といった意見もありましたが、これはあえて明確にしなくてもいいのではないか。なくせるかもしれないし、結果的にはそうなることもあると思いますので、そこら辺がちょっとどうなのかなという感じがいたしました。

○  今までの審議において「高校の多様化と大学の多様化の個々のマッチングを議論することが必要」と、「接続に関しては、生徒の側の問題として捉えるべきである」ということが指摘されたわけですけれども、前回でしたか、他の委員の方のほうから、制度としての接続の問題と、個人の生徒の内における接続の問題と二つに分けて考えるべきだという御発言があったと思います。これに関連してはいろいろな御議論があったわけですけれども、個人の生徒の中における接続という問題と、それから高校、大学といういわば学校機関としての接続、その間をどのようにつなげるのかということの仕組みについて、もう少し踏み込んだ審議ができるような場面が必要ではないかと思っております。
  もう一点、具体的な連携方策のところで、アドバンスト・プレイスメントのお話が出ているのですが、これはとても大事な指摘だと思いますが、往々にしてアドバンスト・プレイスメント・テストが、例えばイギリスにおけるGCEのアドバンスト・レベルのテストのように受け取られているところがあります。実はアメリカにおいても、高校と大学の連携方策の一つという側面よりも、例えばここでいえば、「第4」の項目の「大学入学者選抜の改善」というところに入ってくる事項として受け取られているふしがある。というのは、アドバンスト・プレイスメント・テストの「アドバンスト」というのは「事前単位登録」という訳がここでは正しい意味だろうと思いますけれども、それが上級テストというふうな内容に誤解されている傾向がありまして、この10年ほどの間に、アメリカの大学の中でも、これを入学者選抜の資料に使うというケースが非常に増えてきているわけです。そこのところを慎重に解説しておかないと、アドバンスト・プレイスメント・テストは上級者のためのテストであって、それは実は入学者選抜にも利用できるんだという誤解を与えることがあるかもしれません。今の時点で申し上げるべきことかどうかわかりませんけれども、ちょっと気になったものですから、それだけ申し上げておきます。

○  私は実は高校と大学とのマッチングというよりも、むしろ生徒個人と大学教育とのマッチングをどう図るかということが重要なんだろうと思います。ただ、この点については、例えば80年代のアメリカで、様々な標準化されたテストが、高校生と大学教育との間のマッチングを取り持つということで期待をされました。が、マッチングの調整があまりにも個人レベルになりますと、全体のシステムがアモルファスになってしまいまして、そのために、もう一度高校あるいは大学という機関接続のところに議論が戻ってきたというような風向きがあります。
  そういう意味合いも含めまして、生徒個人の中においてどのように教育内容の接続を考えていくかということと、機関間の接続をどう考えていくのかというのは、なかなか簡単にいかない部分があります。
  少し横道にそれるかもしれませんけれども、これを考える際にもやはりよい試験をつくる―それは学力だけに限らないと思いますが。よい評価システムをつくることが非常に大事なんだろうと思います。
  後のところで、チャンスがあれば申し上げたいと思いますが、従来、日本の試験や、評価というのは、選抜のためにという目的に終始してきたところがあります。よい教育をするためにどういう評価が必要なのか、よりよい教育をしていくためにはどういう試験が必要なのか。そのために、試験そのものの技術的な完成度をどのように高めていくのかということが、これからどんどん必要になってくるだろうと思います。そういうことのいわば装置としての、あるいは技術的なテクニックとしての必要度と、これらのマッチングの具体化というのは深く結びついているのではないかと思っております。

○  今のこととちょっと違うんですが、例の適性・能力に関して発言したいと思います。
  以前に「『適性』・『能力』を評価すべきという意見があるが、素質論に陥ってしまう危険があり、慎重に扱うべき。」と私が申したことでございますが、それは他の委員の方の意見で、「能研テストや進学適性検査は定着しなかったことを見ると、国民のコンセンサスを得るのは困難かもしれないが、能力・適性に基づいて自己の意思で選択する入学者選抜への転換が必要」などと矛盾するようにも見えるし、また、他の委員の方がしばしば適性というのを取り入れろとおっしゃるのと対立しているように見えますけれども、私の申した意味を少し申し述べさせていただきたいと思います。
  個人、例えば生徒が、自分は一体何に向いているのだろうかということの情報を得ることは非常に大事であると思います。ですから、自分が何に向いているかということ、あるいは何が好きかということの自己理解を深める。そして、その情報をもとにして進路を決めていく、あるいは周囲の者が進路に対してガイダンスやカウンセリングをする。これは大事なことだと思います。ですから、そういうふうなものの手段あるいはシステムを、これは公的機関であろうが、民間機関であろうが、あるいは高校や大学が開発されて使われるというのは、非常に結構だと思っているわけです。
  私が懸念しておりますのは、統一的な選抜試験にそういう適性検査を持ち込んで、それで例えば選抜あるいは配置をするのはよほど慎重にしていただきたいということでございます。
  その大きな理由は、結局、予測的妥当性があるかというのに自信がないわけです。この検査で何々に関する高い適性があるといわれた人が、本当に、成功するのか。ダメだと言われたのは、本当にやってもダメなのか。よほど高い予測的妥当性が確保されていない限り、個人の一生に関する大事な決定に関してそういうことをやるのは、なかなか難しいのではないかと思います。
  従来、一般職業適性検査というのがあって、今でもやっていないことはないんですけれども、一般的な知的能力やスキルを見たり、あるいは興味を見ていたんです。あれも本当に適性を測っているのかというと、アチーブメントみたいなものも結局入っている。私がかつて大学生の初めに受けたときに、「おまえは速記者として適性がある」というのが出たことがございます。いくつかの適職の中にそれがあったんですけれども、実は私は高校生時代に速記をやっていたんです。だから、アチーブメントが結局、測られたアプティテュードに反映するということがあって、本当の潜在的可能性を見つけるのはなかなか難しいわけです。そういうもので何か心理的な袋小路をつくって、あなたはこういうことは無理ですよ、こういう方面はダメですよということが、本当にいいことか。これはなかなか難しいのではないかということです。
  従来、このことと関係して、しばしば話題になりましたのは、アメリカのSATIと日本型のSATとされているICUのテストでございますが、あの中心は知能検査そのものでないけれども、かなり知能検査の性格を持っておる。推理能力というのは確かに大事なことですけれども、知能検査をちょっと変えた姿でそれが入っているわけです。あれが測っているのは、結局、一般的な「学習する能力」を大体反映していると思います。特定の何々ということは非常に難しくて、従来型の学校教育を受ける。そうすると、そこで利益を受けやすい人、そういうふうな可能性の高い人かどうかというのが反映されると思います。そういうものを導入するということを時々提案されるわけですけれども、本当にそれがいいのかどうか。先ほどの予測的妥当性も考え、つまり大学が特定のプログラムを立てて、そこでの適性というところまで言えるのかということを少し慎重に考えていきたいという気がします。
  そのようなSAT型を、例えば日本の生徒が受けるとどのように感じるかというと、あの形式が多肢選択ということもあるんですけれども、どうもクイズみたいなものだと考えている向きがかなりあるみたいです。もちろん知的に考えて、これは正しいとか、これはダメだと判断して選んでいくのだけれども、どうもそれだけではいかんところは、極端に言うと鉛筆を転がしてでも選んで、うまくいったら運がよかったという面が全然ないではない。つまり、生徒が自分がある経験を積んで、ある力をつけた。それがそこに反映されているという実感を持ちにくいようなものではないか。

○  以前の審議の際に「大学入学者選抜自体はかなり変わっているが、18歳という一時期への一点集中があり、そのために閉塞感が存在することは変わっておらず、このことが入学者選抜改善が必ずしも進んでいないという見方につながっている。」といった意見がありましたが、先ほどもちょっと出ましたけれども、18歳、高校から大学への進学の時期に、自分の進路を確実に決めてしまうことは非常に難しい。これは社会的な経験のない18歳から見ても当然だろうと思うわけでございます。そういった場合に、大学をどこを選ぶかということも大事ですけれども、入学後の学部や大学間の移動の仕組みを拡大する、そのとおりだと思います。
  もう一つ加えますことは、高等教育機関の相互の関係といいますか、専門学校を巻き込んで、専門学校へ入学した者はかなり中退者が出てきているというような問題を考えてみますと、高等教育のやり方いかんによっては、なかなかマッチングが十分取れなかったという場合もありますので、大学間の連携だけでなくて、高等教育機関相互の間にもう少し柔軟な結びつきとか、関連性があることも必要ではないか、そんなような気がいたしました。

○  二点ありまして、今、他の委員の方のおっしゃったことは私は大賛成で、おっしゃるように高等機関相互の間の移動の仕組みの拡大も含めて考えるべきだと思います。
  二点目は、先ほど他の委員の方がおっしゃられたことに関係して、特定の大学をめぐる競争をなくせないということですけれども、私は前にこの点について意見を申し上げたときに、なくせないということは明確にすべきであるし、さらに望ましいというふうに書くべきだということを申し上げたんですが、言葉の説明が必要なのかなと思います。
  もう1回繰り返しになりますが、現在あるような形での特定の大学をめぐる競争、いわゆるお受験から始まって、そこへつながるようなということは望ましくないかもしれませんけれども、将来的に大学は自分の特色をあらわす個性化をして、あるいは差別化をしていく過程で、その質をめぐって、やはりいい学生を自分に引きつけようという競争は当然あるべきであって、その競争は望ましいことであるという意味において、特定の―現在の特定の大学ということではなくて、特定の大学をめぐる競争は必要なことであり、望ましいというふうに申し上げましたんですが、それはそういうことではないかと依然として思っております。

○  二点ほど申し上げたいと思います。高等学校から大学への接続の問題で、大学を選ぶという問題と同時に、理系なら理系の中だけでも学問領域は相当広いわけですから、18歳時点で、自分の適性はどの領域か、もしくは本当にやりたいものがどれであるかということに対して十分な情報に出会っているかという問題があると思います。
  これは現在、そういう大学がだんだん減っていく方向にあるんですが、例えば、東京大学は依然としてそのスタイルをとっておりますが、かつては理類に入って、大学の中で勉強しながらコースを見つけていくという形が存在したわけです。ここから先、いくつかの議論の中にもありますように、大学の学部の性格と、それからその上の大学院の性格が次第に変わってきつつあると思います。学部はむしろより広い学問領域の基盤をつくるところで、高度の専門は大学院へ行ってからとこうなりますと、接続のときにおいて、かつてあったような形式の見直しも視野に入れた接続問題があっていいのかなというのが一つあります。
  それから、今、御発言がありました大学間競争の問題でございますが、まさに他の委員の方がおっしゃったように、おそらく熾烈な大学間競争は、大学院に進学するレベルでの人材の取り合いになるというふうに、一つの予測でございますが、私は見ております。ましてその先、さらに今度は大学院を出てから、ポスドクをどこでやるか。今ですと、自分の大学でやってしまうケースが多いんですが、ほかの国は100%近くほかの大学へ出かけていきますから、そういうところが人材をどれだけ採れるかというのが、大学のアクティビティーの重要な指標になっていくのではないかと思います。
  そういうことの全体を見通した中で、高校からの接続の在り方の中に、学部教育の在り方がかなり大きな影響を持ってくる時代に入ると見ております。当然、そこに高等学校との接続のアドバンスト・プレイスメントの問題が影を落としてくるのではないかと思います。
  もう一つ、今回出ております話題の中に、偏差値輪切りの話題がいくつか出ておりますが、この先、大学の第三者評価機関が来年立ち上がりまして、ある意味での大学の客観的な評価―客観的と言ってもどれぐらいかの問題がありますが、第三者による大学の評価が進みます。当然、そのデータは世の中に公開されまして、例えばこういう大学評価が大々的に行われているものとしてイギリスのサッチャー・システムがありますが、去年の5月ごろでしたか、「タイムズ」が高校生向けに、「What'sgoodsforcustomers」という記事を掲載していました。カスタマーというのは大学生になりたい高校生でありますけれども、そういう人たちに対して、70の優れた大学の紹介が外部評価データをもとにしてなされていたということがあります。
  そうしますと、大学が今、普通に言われている偏差値とは全然違う、大学が持っております研究教育能力―これは研究と教育と二面的な評価がなされておりますが、そういうものを通して、大学間競争がもう一つ顔を出すという状況が生じてくると思います。まだ来年以降でございますから、現実には少し先でございますが、大学間競争の在り方も含めた高校生等の対応の仕方として、もう一つ切り口が出るのではないかと見てております。
  
○  大学など高等教育機関の選抜に関してなんですが、いろいろ御意見が出ているんですけれども、大多数の多様な若者にとって適切かどうかの観点で、我々は想像力を働かせながら幹線道路としての接続の仕方を考えていかなければいけないと思います。そして、幹線道路の支線はいろいろフレキシブルに、例えばマッチングの問題とか、レアケースとか、いろいろな問題を考えていけばいいと思いますが、幹線道路としては、御支持いただけるかどうかわかりませんが、個人と個人をつなぐための制度というか、システムを改革していかなければならないと考えております。
  まず大学入試センター試験ですけれども、これは資格化をしていかなければならないのではないかと思います。高等教育、つまりある種の高等専門学校も含めた高等教育全般の第1次の受験するに足る資格というふうに考え、1回ではなくて、2回か―対応する能力にもよるわけですけれども、1回に限らず対応して、高等教育を受験するに足る相当程度の学力があるということのお墨付きを与える。その共通化した資格として考えてはどうかと思います。
  その後、各大学などはそれぞれの個性に応じて御自身の採りたい学生をはっきりさせ、2次試験として思考力とか、必要なキャラクター、能力、適性に見合った考査を行うということにしておいていただければいいかなと思います。
  もちろん、生涯教育の立場として、この資格を何年間―学力というのは記憶に関することですと抜けてしまうので、何年かということは私も専門的にわかりませんけれども、自己発見というのが必ずしも18歳とか17歳でしっかりできているとは、大多数ということを考えると、それはできている人もいるでしょうけれども、できない子どもも多いのではないかと思われます。しかも、高齢化社会で20%も65歳以上がいるということですと、18歳段階で一度就業する。就業しながら、やはりということで、リカレントするという立場から、この資格を何年かの間、有効とする。そして、再び「これだ」ということを発見したら、しかるべき大学なり高等専門学校の2次試験を受けるというような形にする。
  これは御賛同いただけるかどうか、理想論を言っているのかもしれませんけれども、こんなようなことを見定めると、こんな特色が少ない大学、果たして自分の能力が伸びるのかどうかわからない特定の大学のために、何年も苦労するというような浪人生活は、私から見るとストレスの多い、むだな時間という感じがするんですが、そういうこともないのではないか。何とかこの社会を変えたい、未来の若者たちのためにと思いまして。幹線道路としては大学入試センター試験が第1次の資格を与えるような機関になっていただけたらと思っております。

○  先ほどのお話の制度としてということと、個人の接続の観点で言うと、制度としての機関の接続と、個人個人の接続という二つの観点の問題が他の委員の方から指摘され、また、別の委員の方からも御指摘があったわけです。私の個人的な考えでは、これからは個人個人の問題としての接続が浮かび上がってくる時代だろうと思うわけであります。つまり、啓蒙主義が終わって、ロマン主義に入っていったという時代の、大学の役割、教育制度の役割を反映してそうなるんだろうと思います。
  その際、同じことをおっしゃっているのかと思うんですが、他の委員の方の御指摘の中で、適性の問題は慎重に取り上げたほうがいいというふうにおっしゃられて、趣旨はおっしゃられるとおりだとは思うのですが、率直に言って、今、大学生を見ていますと、いろんな不祥事が出たりしている状況が、現場にいるとよくわかるんですね。つまり、医学部に何のために行くのかということを、きちっと自ら問うて受験するという仕組みになっていないわけです。どこかでやらなければいけないとすれば、どこかに制度を入れて、そのことを問う。つまり、適性というのは、意欲も適性の中に大きくあるわけでございますし、いろいろな切り口があると思いますので、単なる職業適性テスト程度のことを考えているわけではないわけであります。そういったものを18歳で1回考えさせるようなバリアを置いておく必要があるのではないかということで、私は、適性の問題を大学の場合には考える必要があるのではないか。
  つまり、役割分担という点で考えても、高等学校教育の役割と大学教育の役割を考えた場合でも、その部分がないと、役割分担を十分に果たせなくなる面が出てくるのではないかという気がするわけであります。

○  きょうの審議全体を伺いまして、どういうふうにこれから進むのかなと思いながら、箇条書きしてみたんですけれども、まず理念的な面で五つばかり。私にピンとくるようなまとめ方でございますので、大変失礼ですが。
  一つ目は、高等学校が多様化している。大学のほうも個性をあらわすように多様化している。それとそれとの間のつなぎを考えるというのが、一つの論点として明確に出ていると思います。
  二つ目は、トータルなという意味で、総体的な接続を考えていく。これはカリキュラムとか、授業の方法とか、いろいろ込みで。入学者選抜というのは、その中に位置付けられる一側面であって、それだけが接続ではない。これが二つ目の理念かなと思います。
  三つ目の理念としては、必ずしも18歳時というものに固執しない。つまり、飛び入学があるし、社会人の入学を考えた接続が一つのコンセプトで出ていると思います。
  4番目としましては、子ども中心といいますか、子どもの個性とか、特性というものを中心にして、それで幼稚園・小学校・中学校・高校・大学、社会、大学院とか、ずうっとたどっていくというものの見方がある。
  5番目としては、大学そのものが個性を訴える。子どもが個性を持ってずうっと続いていくのに対応して、大学のほうが個性を訴える。理念的にそういうものがかなり大きく出てきて、いくつかあるようですけれども、私はそんな感じのところがピンとくるなと思いました。
  少し具体的な接続といいますか、入学者選抜というところへいきますと、一つ、過度の競争というものは相対的にはなくなっている。ただし、いくつかのいわゆる有力大学では、学力検査的な競争は残るだろう。これが一つでございます。
  二つ目は、客観とか、公平というものを見直す必要があるのではないか。もっと大学が自分の個性を訴えて、主観的な評価をして入れるという自信を持っていっていいのではないかという意味での客観性、公平性の見直し。
  三つ目は、今までの学力以外の評価を考える。学力というのは到達度ということでもあるんですが、適性というお話が出ていました。動機とか、意欲とか、人間性とか、レディネスといったような面での評価で、大学入学を考えていく。
  4点目は、高等学校の先生方から随分出て、私も大賛成だったのですが、大学入試の受験科目はやはり増やしていく。資格試験というお話も出ておりますが、できれば音楽、芸術まで含めて、すべての高校の卒業生が受けて、それで高校卒業の資格であると。つまり、高校卒業というものが大学進学希望者の受験資格に今なっておりますから、高校卒業というものの試験、例えば高校在学生でも大学入学資格検定をやるぐらいのことが、将来あり得るのではないかと思います。全部の科目に広げた高等学校での学力の担保を取っていく必要があるのではないか。
  大学入学センター試験に関しましてもいろいろあるんですけれども、今、資格試験というお話も出ておりましたが、これは現在でも資格試験的に大学が使おうと思えば使えるわけです。現在の大学入試センター試験は精緻な良問を出しておりますから、うちの大学は30点以上、うちの大学は60点以上を資格にするということができますし、ある大学グループだったら30点以上をすべて採るとか、あるいは下から3割取れていればいいよとか、勝手にといいますか、大学が自分の見識でもって、現在、いろんなことが決められる状況になっております。例えば、大学入試センター試験と個別試験とのウエート、大学入試センター試験の中でも得点の二乗にしますといえば、個性を生かすことになりますし、自分の大学の学部に合わせた点を3倍しますよというウエートをかけたっていいわけですし、それは全部、大学が自由にできるわけです。大学がいろいろ自由にできるのを現在おやりになっていないというところが問題なので、いろんなことがおできになりますよというPRを、中央教育審議会もそうですし、いろいろなところでやっていただくという余地がだいぶ残っているような気がいたします。つかぬことを申し上げましたが、以上でございます。

○  以前、審議の際にアドミッション・オフィス入試のことがでていましたが、12年度入試から国立大学でも三つの大学でアドミッション・オフィス入試が導入され、これからアドミッション・オフィス入試というのがどのような展開を見せるのかということは、大学入試の在り方を具体的に変えていく一つのきっかけになるのではないかと思います。こういうやり方をエンカレッジできるような方向でのことを考えていかなければいけない。
  高等学校側から見れば、こういう新しい入試のシステムが、一体どういう生徒をどういう観点から採っていくのか。結果として、一体どういうふうになっていくのか。あるいは、そういう入試で合格させた学生をどのように指導していこうとしているのか。そういうことを当然見ていると思うんです。ですから、アドミッション・オフィス入試というものが、従来の入試の在り方に少し新しい風を吹き込むような方向で展開するという、そのことを考えておかなくてはならないということが一つであります。
  もう一つは、これは議論の中にも出ていたと思いますが、高等学校側で今、いろいろな改革の努力が行われている。その改革の努力を大学側がうまくすくい取ることのできるような入試の在り方を考えていかなければいけないだろうと思います。例えば、カリキュラムでいえば、「総合的な学習」とか、「課題研究」に取り組まれて、例えば専門高校の中の職業を中心とした高校が随分活性化しているというレポートもあったと思います。あるいは、これから取り組まれる「総合学習」でありますとか、あるいは「産業社会と人間」という科目が、高校教育の中身を変えていっているということが高く評価されております。そういうところを、一体、大学入試ということでどのようにつないだらいいのか。そういうことを具体的に考えてみなくてはいけないのではないかと思います。
  大学の入試問題を出す先生方の側からは、高校が一体どうなっているのか、どういう努力をされているのか、どう変わろうとしているのかということをあまり意識されないまま、従来どおりの教科科目の点数主義の試験が行われているのではないかということであります。

○  ただ今の意見に若干関連いたしますので、申し上げたいと思いました。以前、入学者選抜における『公平』について、「試験には、公平性が担保されるべきだという強い要請がある」といった意見がありましたが、全くそのとおりだろうと思っております。日本の大学、特に国公立大学等におきましては、そのような強い要請の中できちっとした公平性が保たれていると国民は受け取っていると思います。
  その次に、「各大学が、どのような学生を求めているのかをあらかじめ提示する」といった意見もありました。案外こういう努力もやっているかと思いますが、選抜は今、ブラックボックスになっているわけでありますから、いろいろ事情もあると思いますけれども、「可能な限り、うちの大学はこういう選抜をする」というところまで踏み込んでいただけると、受験生にとりましては大変参考になるのではないか。それがまた一つの改革にもつながっていくのではないかと思っているわけであります。
  ちなみに、高校と大学とは違いますけれども、例えば、高校入試につきましても、ちまたの関心が大変高いわけであります。そのために、静岡県では内申書で55%を採ります。教科外活動、いわゆる部活動等で優れていた場合には10%を採ります。あるいは面接等がよろしかった場合でも10%以内で採ります。特別な特技のない方は総合選抜という枠を15%設けてあります。この中のどれかに該当すれば合格させますということを打ち出しています。大学入試の選抜はなかなか難しい面があると思いますが、このように今まで以上に情報公開がなされていけば、また変わっていくのかなという感じを持ちます。

○  一般的に言えるかどうかわかりませんけれども、大学のほうの一つのジレンマがあると思っております。といいますのは、国際社会の中で大学が競争していかなければならなくて、より質の高い学生を卒業させて、社会に送り出していかなければならないという中で、教育のレベルを保っていきたいという気持ちが非常に強いと思うんです。それに対して、初等中等教育ではゆとりのある教育ということで、教える内容の範囲をかなり減らしてきている。ところが、大学のほうは一定のレベルで卒業させるために、限られた4年間という期間と、限られた教官の数でどこまで教えたり訓練することができるかというところで、大変な問題を含んでいるわけでございます。
  そういったことで、試験問題というのは、ついつい今までと変わらないようなレベルを望むとか、そういうことがしばしば出てきて、高等学校でやってきた内容と少しギャップが出てくるとか、そういう問題が顕在化してきているのではないかという感じがしております。
  どこまで個々の学生が達成したかということについては、レベルの違った学生がたくさんいるわけですから、いろいろ違うでしょうけれども、一般的なことで、高等学校の修了時点における学習範囲と内容、それから大学がどういう内容から始めて、どういうところで卒業をさせていくかということについて、もし接続をスムーズにやるということであれば、もう一度きちっと見直しをやるとか、何かそういうことをきちっとやっていけば、入学試験の問題とか、レベルとか、いろんな問題についても、ある程度の無理のないものができていくのではないかと考えられるんです。そういうことが、小学校の入学から大学の修了までの間で、どういう内容をどういうところにあんばいして配置して教育をやっていくかということについて、トータルな視点からきちっと整理をするということができているのかどうか知りませんけれども、それをやって明示する努力も必要ではないかと思います。

○  先ほど他の委員の方々がおっしゃったことにかかわって申し上げたいと思っております。
  先ほどのお話の中に、入学試験の客観性や公平性をいま一度見直す必要があるのではないかというお考えがございました。私はこの考え方に全く賛同するわけでございます。また、「入学選抜における『公平』」ということが、以前の審議でありましたが、この「公平」の中身というものは、おそらく日常用語的な意味での公平ということで、それほど吟味された公平ではない。こういう公平をもう一度見直す必要があるのではないか、こういう御指摘だと思っております。
  今、受験の過熱がよくない。適度に熱があるのはいいんだけれども、過熱はよくないと言うが、なぜ過熱がよくないのかということをもうちょっと考えてみる必要があると思います。もし望ましい競争ならいくら過熱してもいいのではないかという気もするわけで、そこにある競争がどういう競争なのかをもう少し考えてみる必要があります。
  入学試験の客観性や公平性というのは、例えば出題される問題とか、あるいは採点になるべく主観が入らないようにという観点から問題がつくられてくるわけであります。そうすると、そこには自分の考えを文章であらわすといった問題の、採点には主観が入りますので、結局多肢選択にならざるを得ません。そして、結果的に、下級学校の授業がそういった入試問題に規制されていって、そこにシフトされていってしまう。そして、望ましい教育がなかなかできなくなってくる。これが過熱することの実は大きな問題なので、入学試験の在り方の公平性、客観性というのが見直されるならば、下級学校で望ましい教育ができることにもなるのではなかろうか、こんなふうにも思うわけであります。
  例えば、この前も申し上げました数学なども、最終的な結論だけが合っているかどうかということでありまして、そこに至るプロセスというのは、高等学校の入学試験では問題にされることはほとんどない。ですから、中学校の授業もそういった授業になってしまい、マルをつけたりバツをつけたりということになり、子どもたちは「できた」という言葉より「当たった」という言葉をよく使うようになります。その辺の授業を見直すことが、実は全体として教育の質を高めることにつながっていくんだろうし、多様な人材、能力を育てるこにもつながることになるんだろうと思います。先ほど他の委員の方が例として、客観、公平ということで、入試の在り方で一つ、二つ申されましたけれども、そういったことをもうちょっと考えてみる必要があるのではないかと考えております。

○  大学入試センター試験について少し発言をさせていただきます。
  先ほどから、大学入試センター試験を資格試験的に使う、あるいは高校教育の学力維持装置といいますか、そういうものとしての機能をそこに付託するということの御意見が出ているわけです。他の委員の方の御指摘のように、現在でもそういうふうに使えないことはないというわけですが、資格試験的あるいはミニマムチェックというような形で大学入試センター試験を使うということであると、現在引きずっている選抜試験という側面と、到達度評価あるいは到達度試験との矛盾は、どうしても引きずっていくわけでございます。
  そうであるならば、思い切って大学入試センター試験を二つに分けるというような発想、あるいは選抜試験―名前をどうするかにもよりますけれども、そのうちの到達度評価の部分を切り離してしまって、高校における卒業試験のようなもので考えていくことも一つ考えられるのではないかと思います。
  これは既に何人かの先生方の御発言の中にも出ているかと思いますが、現在の入学者選抜の問題の非常に大きな問題点は、選抜が一点集中になっているということにあります。大学に入った後に、高等教育機関の間でできるだけ自由に動けるとかということも、選抜圧力の一点集中を緩和させ、高校以下の教育を自由に活性化させるという期待がそこにあるのだろうと思います。であれば、到達度評価というものも、現在の大学入試センター試験の中に無理に入れ込むことではなく、逆にそれを高校教育の方に戻すといいますか、高校教育段階のほうにそれを配置し直すことによって、現在の入学者選抜が抱えている一点集中を少しでも和らげることができるのではないかということを提案したいと思います。
  その場合に、やや具体的なところに立ち入り過ぎるかもしれませんが、現在の大学入試センター試験の内容にいたしましても、高校2年までですべて修了する科目で構成されています。そうしますと、高校2年レベルでミニマムチェックのような試験を受験することもできる。あるいは、以前から中央教育審議会等で出ていますような複数回試験を実施するための余裕とか、あるいは繰り返しの試験問題を使うとか、様々な工夫がその中で可能になってくると思います。  
  先ほど申し上げましたことの繰り返しですけれども、選抜のための試験、あるいはその評価システムをどうするかということだけに考えを収斂するのではなくて、そういう評価をどうやって教育に役立てていくのかということを考えたときに、良いアイデアが出てくるように思います。それを技術的にも可能にしていくということを積極的に考え、あるいは提案していくことが必要ではないかと思います。

○  今の御意見ですが、大変おもしろいお考えなんですが、私はちょっと気になることがございます。それは今、我々が議論しているのは役割分担というか、接続の問題を議論するという重要な会議を持っているわけですが、それを大学入試センター試験という、つまり選抜に議論が還元してしまうことは問題だと御指摘されましたが、そのとおりであります。
  そういう意味で考えると、役割分担として初等中等教育で、いつもよく申し上げるんですが、国立も私立もすべてが税金を使っているわけですが、国民教育をしてきて、どれぐらい成果が上がったかということを国民に示すという意味でのテストをするというのは、私は今のような学習指導要領の弾力化という時代には、やっぱりやらなければいけないことではないかと考えているわけです。つまり、中学校、高校のどこかの段階でテストをする。
  ただ、その場合、大学入試センターのようなところで、日本の国全体を統一してやるということがいいかどうかというのは、議論が分かれるところがあるのではないか。つまり、アカウンタビリティーという観点でいえば、県単位のような形で教育委員会が中心になって学力テストをやって、もちろん大学入試センター試験がそれに協力することは大事なことで、いろいろ教えていただいて、県でやって、それを公表する。いろんな公表の仕方があると思いますけれども、これを公表する。税金をこれだけ使ったけれども、これだけの成果が上がりましたということを世に問う。これはそれぞれにおける役割分担を果たす部分に入るのではないかと思います。それはある意味では大学入試にも活用できるんだろうと思います。
  先ほど他の委員の方がおっしゃられました教育のレベルを保つという観点からの御心配でございますが、実は共通第一次学力試験から大学入学センター試験に変えたときも同じような議論がされました。これは既に歴史的な事実で済んでいることですけれども、そのときのいろんな資料を調べてみますと、全然レベルは下がっていないんです。つまり、特定の大学に関しての受験生の古典的な意味での学力は変化がなかったということを示しているわけです。学習指導要領の弾力化といっても、今のような形での弾力化をした場合は、おそらく同じことが起きるんだろうと私は思っておりますので、あまり心配はないと思います。
  ただ、今、大学の先生が非常に学力低下とおっしゃられているのは、学生の質が確実に変わっているわけです。おもしろいことがいっぱいありますから、よっぽどおもしろい授業をしないと、学生はついてこないわけでありまして、今までと同じことをやったら、学生はそっぽを向いちゃうという。そのことが一番大きな原因になっているのではないか。間違っているかもしれないんですが、長い間現場におりますと、そんな感じが強くしますので、その点は心配ないと私としては思っているわけです。
  しかし、それにしても、他の委員の方がおっしゃられたように、小学校・中学校・高校・大学のトータルを整理して、いろんなところにおける役割分担を明示するような装置をつくっておく必要があるだろう、中学校は中学校で、高校は高校で。大学も必ずそういう時代がくる。大学を卒業したというのであれば、アカデミックな意味での資格というだけではなくて、大学でどれぐらいの力がつけられたんだということを客観的に示すようなものを要求される時代が間もなくくるんだろうと思います。そういうことを明確にすることが、役割分担を議論することではないかと思って、一言申し上げさせていただきました。

○  今のお二人の委員の方に私も賛成なんですが、高等学校の1Aとか、Aという、現行の指導要領の教科がございます。それは低学年で学習するし、必修であるということで、高等学校の到達度をそこを中心にして測るという形で、これは各県でやっていただくことも一つだし、それは実施主体の高等学校とか県が御努力されないとできないと思うんです。そういう実施運営上の問題点がクリアされたとしますと、テスト問題そのものについては、大学入試センターがたくさんの問題のアイテムプールをつくられて、その中から各都道府県がいろんなものを選んで、自分のところをつけ足してというような形で問題をおつくりになって、実施は高等学校の場で高等学校がなさる。大学入試センターで問題をおつくりになるときにも、今以上の高等学校の先生の御参画をいただいて問題をつくられて。ただし、これは測れるのに適した教科は全教科やっていただければいいなと思います。
  高等学校によって、「うちの高校は60点以上を卒業資格とするぞ」、「うちの高校は30点以上を卒業資格とするぞ」というように、高等学校が県と御相談して、自分の見識を持って高校卒を認定されていいのではないか。今はそういう認定なしに高校卒業を認定されているわけです。全くそういうものなしで高校を卒業させちゃっているわけですが、それよりは全体に高等学校以下の勉学に対する態度が違ってくるだろう。日本全体の学力というものが上がってくる。全教科といいますのは、道徳をどう測るか難しいんですけれども、主要教科以外のところ、体育だとか、そこまでやっていただければ、人間全体としての幅を、高等学校卒業という観点から評価できるのではないか。
  大学入試は、今の大学入試センター試験で1月におやりになるものは、単元の2とか3以上のものを、それこそ大学入試という観点で、未来の大学での学習レディネスという観点から問題をおつくりになる。最近、「総合的な学習の時間」というものができてきましたので、必ずしも現在の教科科目で教えられている内容にとどまらない、幅広い題材から試験問題をつくれるということも加味してやっていただければと思います。
  高等学校卒業の到達度の試験と大学の入学試験を分ける。分けた場合に、高等学校の卒業に関するものは、できるだけ多くの教科を高等学校を卒業したい人全員にやっていただいて、卒業は高等学校なり県なり市なりで、設置者が自分のところの最低点を自己の見識でお決めになる。大学のほうは大学向きの現在の形のものをして、それを各大学が自分の見識で御採択になるという方向を検討してみてはいかがか。これは実際の実施問題があります。おそらく高等学校の卒業のところでリスニングテストとか、いろんなものも出てくると思いますので、実施のところの詰めを具体的にやらないと、実行できるかどうかわかりませんが、コンセプトとしてそういう御検討を願えるような方向が打ち出せないかと思っております。

○  大学入試センター試験をどういうふうに改善、改革していくかとうことで、議論が集中的に出ているので、若干そのことにかかわって意見を申し上げたいと思います。
  他の委員の方が御指摘のように、今の大学入試センター試験が二つの機能を持っていて、選抜機能と高校卒業程度の、高校までに身に付けた到達度を測ろうという機能と、この二つを一緒にしていること自体に非常に問題があるんだということで、それを切り離したらどうかというように、私は隣で聞いていて受けとめました。
  前に荒井専門委員からヒアリングの際に問題提起を受けたときにも、そういう趣旨の御発言があって、確かに二つの機能が相矛盾するような形で弊害が出ているということについては、そのとおりだと思うんですけれども、現在の学校教育法上は大学受験資格なり入学資格というのは、高校卒業をもって当てるということになっている関係上、高校卒業の認定を現在、各高等学校単位にやっているわけですけれども、これが果たして社会的な責任を十分持ち得るような形で行われているかどうかということについては、確かに高校を出ても分数の掛け算、割り算ができないとか、いろんなことが前から言われているわけです。だからといって、現状において97%の子どもたちが高校に入っている中で、一方で七五三と言われるように、高校では3割しか授業が本当にわかっていない。7割ぐらいはどうも落ちこぼれているのではないかということで、中央教育審議会「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」答申の出たころから、新幹線教育とか、七五三教育とか言われております。
  そういう中で、高校側はいろんな苦労をして、何とか一定の学力を身に付けさせて、高校を出して、社会人として就職できるようにということで、様々な苦労をしている中で、全国共通的な試験をして、高校卒業認定の資格を付与するというようなことが、日本の現状の中において可能かどうかということについては、将来的にそういう方向に向かって検討を進める―日本の場合、到達度評価とか、評価についての研究なりが、実践的なものも含めてあまりなされていないような感じがするので、それは今後、十分時間をかけて、将来的にはそういう方向を目指すのも一つの考え方だと思うんです。
  今回の改革、接続の問題に当たって、そこまで踏み込めるのかどうか。高校関係者の意見を十分お聞きしたいとは思っていますけれども、私はまだ議論が不足しているのではないかとそこのところは思っています。
  ただ、現在の大学入試センター試験を資格試験もしくは資格試験的なものに変えていくことについては、私も前々から、中央教育審議会第二次答申の際からそういう意見を申し上げているので、基本的に他の委員の方の御指摘になっていることに賛成なんです。
  ただ、他の委員の方から何回か前に、大学入試センター試験の機能を二つぐらい、いわゆる高校卒業程度の学力を身に付けているかどうか、幅広い基礎・基本にわたるようなことを測る試験と、やや高度の専門性といいますか、特定の大学と言われるような大学で難しい個別試験をするような関係がある中では、やや高度な試験と、二つぐらいの機能を持たせるような形にして、しかも、これは別の委員の方から出ていますけれども、1月から3月までの1回だけの試験ではなくて、年に2回程度の受験機会を設けて、例えば夏休みとかを含めてやって、それが一点刻みにならないように、各科目によって合格したか不合格か。合格したというだけではあれですから、合格者について、例えばですが「A」「B」「C」ぐらいの段階をつけて、偏差値的な一点刻みの成績は公表しないという形でやっていくほうが、今の一点集中の18歳時点での偏差値のみで自分の進路を決めるようなことで、高校以下の教育をゆがめているファクターが将来的にかなり解消されていくのではないかという意味で、大学入試センター試験をそういう方向に変えていくというようなことについて検討すべきではないかというのが、今、先生方の意見を聞いて感じたことでありますので、申し上げておきたいと思います。

○  いろいろ伺って、考えさせていただいておりますが、ここのところ大学入試センター試験のお話に話題が集中しております。いみじくも先ほどの委員のお話に重要項目がございます。今の教育で一つ抜けておると申しますか、スポイルされている問題は、道徳とか、倫理とか、あるいは人間性の問題とか、最重要でありながら一番さわりたくないところになっている対象ではないか。この問題までを含め、到達度を初中の学校に始まって、高校までどの程度のことが可能になっているのか、段階に応じ適切な指標を出していただけるとすべてが具体的な議論ができるきっかけとなります。そのようなテストの実施はなかなか難しいことだと思います。大学入試センター試験の先生方の能力をもってすれば、かなり明らかにすることができる筈です。これが大学入試センター試験の本務の一つとして定着すれば、大学入試センター無用論は消失し、逆に存在感が著しく増大する筈で、国民の理解と支持が集まるに違いないと思います。評価法あるいは計測法のモデルをいろいろプールしていただいて、それを具体化していくことを実際に考えてはどうでしょうか。そうしないと、問題解決にはならないと思います。そういう意味で、一言だけ申し上げます。

○  ちょっと外れるかもしれませんけれども、今、教育をめぐるはやり言葉で、「総合」という言葉と、「学力水準低下論」というのが盛んに出てきているわけです。もう一つ、「崩壊」というのがあるんですけれども、これはさておきまして。「学力低下論」とか、「総合学習」という言葉をいろいろ考えてみますと、どうも伝統的な学力観が変質しつつあるのではないかということをまず感じます。同時に、「総合」という言葉からは、伝統的な知の体系そのものが変わりつつあるのではないかという感じがするわけです。
  したがって、これからは今からとか、あるいは21世紀に必要な学力観であるとか、あるいは必要な知の体系に向けての何かであるということを踏まえつつ、この接続の問題もしくは大学入試センター試験の問題を考えていく必要があるのではないかとを考えます。
  同時に、具体的な方法としては、しかしそうはいっても、なかなかドラスティックな方法はとりにくいし、選抜の問題はパーフェクトな制度はあり得ないわけで、結果的にはよりましなものを求めていかざるを得ないという側面が他方にはある。
  そういう中で、これまで果たしてきた大学入試センターの共通第一次学力試験並びに大学入試センター試験における20年間の実績を大切にして、ということは裏返しますと、高校の現在における基礎的な学力の到達度試験としての性格が年々より強くなってきているわけですので、ここの部分をやはり大事にしていく必要があるのではないかという感じがします。と同時に、高校における到達度試験ですから、既に中央教育審議会が打ち出している作問の段階でも、高校の先生方がよりコミットメントをするという方向を、さらに拡大していく。ここの部分で到達度試験―資格試験という言葉遣いをしますと、どうしてもヨーロッパ型のものと混同されて、かなり誤解を招くことがあり得ると思いますので、資格試験的な要素を持ちつつも到達度試験という形で大事にしていくことが一つの方法としてあるだろう。
  と同時に、大学入試センターというところをプロの作問集団としてさらにブラッシュアップをしていって、もう一つの役割といいましょうか、例えば、今、個別個別の大学で行われている2次試験の作問も引き受けるといったことがあってもよろしいのではないか。つまり、そちらのほうは、大学に受け入れるに当たって、特定の専攻コースに受け入れるには、こういうハイレベルのものが必要であるといったようなことを、こっちのほうは大学人を中心にして作問をする。もう一つの大学人中心の問題については、各大学がそれぞれの希望で利用できる。ということは、裏返していきますと、個別の大学は個別の大学ごとの今のような方式の試験もでき得るし、大学入試センター試験でつくられた新たな問題も利用可能であるといったような方向もとり得るのではないかと私は考えるところであります。
  したがって、今のシステムをより大事にしながら、さらにプラスアルファをつけていく方法を探るアプローチも考えられていいのではないかと考えます。

○  今の入試のことについては、大学側でもそれぞれの大学でいろんな工夫が行われています。しかし例えば数学の問題をあるグループで出すというときに、その数学のグループへ絶対入れないという状況もあるんです。例えば化学なら、ケミストリーもいますし、ケミカルエンジニアもいて、それが一緒に協力しながら問題を出すということをやっている場合もあるんですが、数学でありますとか、物理になりますと門戸を閉ざしてしまい、そこへ入っていけないということがあって、その辺をどうするかということも、個別の大学の問題として大きなものがあるんです。ですからこそ、大学でどういう学生を採りたいかというイメージがなかなか出せないという状況ができているという側面もあるんです。今の御指摘は大変おもしろい御指摘だと思いました。

○  ちょっとドラスティックな話を申し上げるんですけれども、大学入試センター試験の話を以前いたしましたときに、私は初めに大学入試センター試験ありきという議論はやめたほうがいいのではないだろうかということを申し上げたことがあって、今、ずうっと行われている議論は、大学入試センター試験はとにかくあります、それを資格試験として使うのか、あるいは入学試験として使うのかという議論だと思うんです。
  私は、本当に大学入試センター試験というのは必要なんだろうかという疑問を引き続き持っておりまして、それぞれの人が自由に、使いたい人は使うという程度の話であれば、あっても別にいいじゃないかということは言えると思うんですけれども、ちょっと言葉が強くて申しわけありませんが。資格試験というふうに位置付けた場合に、これから大学が多様化していくと同時に、高等学校が多様化していって、それぞれ好きな、自分が向いていると思うものを取っていくようなことはこれから増えていくと思うんです。片方でそういう動きがある中で、一律にあるものを取っていないと、それに受からない、あるいはいい成績で受からないというような試験をきちんと位置付けてしまいますと、オールラウンドだけれども、特色がないという生徒をつくることに資してしまうのではないかという疑問があります。
  それであれば、最大公約数的に非常にやさしい最低限の問題で、それを通れば、高校を卒業したという資格があるというふうに考えればいいではないかという御意見があり得るかもしれませんけれども、そのような試験であればほとんど意味がないだろうと思うんです。という意味で、高校生の多様化、それぞれの能力を生かすような教育の在り方と矛盾するようなオールラウンドな大学入試センター試験で資格を云々することはやめるべきではないかというのが一つです。
  それから、全く同じことは入学試験として使うという場合にも言えまして、それぞれの大学が自分がこういう試験をして、例えばアドミッション・オフィス入試をやりますと。例えば、100%試験をしますということを考える大学もあるかもしれません。ということで、それがまた一つの基準として位置付けられるようなことはやめたほうがいいのではないだろうか。ということで、どっちの考え方にしても、使いたいと思う人があればそれを使うという程度であれば、別にそれはいいでしょうけれども、それ以上の何か意味を持たせて位置付けるというのは、もうちょっと議論をしたほうがいいのではないだろうかと思っております。
  そういう意味で、初めに大学入試センター試験ありきで、これをどうやったらもっとちゃんとしたものにできるかという以前に、本当にそれが必要なんだろうかと。関係者の方が大勢いらっしゃる中で申しわけありませんけれども、一国民としては、その説明が少なくとも必要であろうと思うわけでございます。

○  大学入試センター試験のことに関しましては、とても今のような勇気ある御発言はためらっていたんですけれども、一大学人としては、ああいう仕組みが永続するのかどうか疑問なしとはしないで、こういうのは文部省のこういう会議で申し上げるのはなかなか難しいのですが、今まで以上にああいう全国画一的なまさに大学入試センター試験に依存するような接続体系になってしまっていいのだろうかという点は、若干疑問なしとはしない。ああいう試験もある。その利用の仕方はもっと多様になるという方向のほうが、システムとしてはより健全なのではないかという気がするので、一言それを申し上げたかったのです。
  もう一点ですが、他の委員の方が先ほど若干おまとめいただいて、この議論が今後どういうふうにまとまっていくのか、私としても気になるところですが、要は各大学が接続問題に関して、従来、それほど強い認識を持っていなかったのではないか。それをもっと一般的に、一種の接続責任というんでしょうか、そんな言葉はこれまでなかったとは思いますが、各大学側が高等学校教育から大学教育への接続に関して一定の責任を持つんだということを、まず明らかにすべきだろう。その接続責任を構成する要素として、一つは入試の責任があって、これは大学入試センター任せではやはりいけないのかなという気もします。各大学が2次試験、個別試験で、それぞれの個性ある出題を、科目は大学入試センター試験のほうの科目を増やして、各大学が課す試験のほうは絞って、そのかわり記述式とか、いろんな工夫をしてとか、大体そういう方向にはきていると思うのですけれども、それは一つの接続責任の明確な形なんだろうと思います。
  それだけではなくて、基本的には中へ入ってからの教育責任の問題だろうと思うわけです。その点は、今、ほとんどの大学で例の設置基準大綱化以降、どうしても教養教育を軽んずるという、建前ではそうはなっていないんですけれども、実際上、くさび型教育等といって、専門教育をなるべく1年生から始めるということになると、かなり顕著に、文系の学部の学生は理系の科目をほとんど取らない、教養科目ですね。その逆も真なりで、教養科目の負担が軽くなった分、学生がそれを取らない。そのことがやはり問題であるということを、多くの先生が意識し始めているというのが、多くの大学での実情だろうと思いますので、総合教養教育というんでしょうか、これをきちんとやるというのが、一つの明確な課題だろうと思います。
  もう一つ、入試責任、教育責任と申したんですけれども、説明責任、アカウンタビリティーという言葉も先ほど出ておったのですが、情報公開ということで、今まで出てきた意見だけでは分量的に寂しい感じがあります。内容的には、専ら入試問題の評価の情報等々であって、これも大事なんですけれども、先ほど他の委員の方が御指摘になったとおりでして、大学側がいかなる学生を募集したいのか、それを具体的にどういうふうな入試の仕組みで採るつもりであるのかというような、入試判定原則のようなことまで公開するのは、従来の大学人のカルチャーからするととんでもないことのような気がしますが、そういうのはむしろ当たり前、原則公開なんだというふうに意識が変わっていって、大学としては接続責任をどのように果たすつもりであるのかということをかなり詳細に述べるということが一般化すれば、この接続問題はよほど条件が違ってくるのかなと思います。
  しかし、これも言ったそばからすぐ申し上げるのはいかがかと思うのですけれども、建前的には情報を提供すれば、それが正確に高校生本人なり、御両親なり、学校の先生なりに伝わって、自由な情報の流通の、一種のマーケットで自由に選択をする。自分はこういう大学へ行きたいんだといって、意欲満々のが入ってきてくれる。こういけば理想的なんですけれども、本当にそううまくいくのかどうかという点が非常に疑問でもありますが、しかし大きな方向としては、単に公開請求されたら出すというのが情報公開だとすれば、もっと積極的な情報提供、説明責任を通じて、接続責任を果たすという仕組みが必要なのだろうということを申し上げたいと思いました。

○  接続の問題というのは、私は最終的には、先ほど他の委員の方のおっしゃった言葉をかりれば、生徒個人と大学とのマッチングということにいくだろうと思います。この問題を入学前と入学後とに分けて考えてみたいと思います。
  入学前の大学選択というアスペクトについては、情報提供ということが重要な問題になってくると思います。
  それから、入学選抜というアスペクトについては、相談型アドミッション・オフィス入試により、生徒個人と大学とのすり合わせが円滑になるのではないか。しかし、これには相当なエネルギーが必要です。
  生徒個人の成長、発達のプロセスは、決してそのベクトルがはっきりしているわけではありません。先ほども適性とか、予測の妥当性を見るのは難しいというお話がございました。したがいまして、入学後の教育責任というのは、大変重要なことだと思います。
  教育責任の中で、学生にとって望ましい学習の制度として、学部・大学間の移動も考えなければいけないということですが、これは実は大変難しい。そこで、まず手始めにどういうことから切り開いていかなければいけないか、あるいは切り開いていく可能性のあるものは何かということを考えてみますと、少なくとも学部間、学科間ですね、この間のクロスオーバー履修を現在よりは積極的に行うように各大学が努め、これを生徒によく知らしめることだと思います。まだまだ学部間、学科間の壁は相当に高いと思います。
  クロスオーバー履修というのは、いわば自分の専門とちょっと外れた学部や学科の勉強をするわけでありますから、複眼的な思考とか、広い視点を持つということで、人間形成上、重要な問題だと思っております。ただ、行き過ぎますと、専攻や学科、あるいは学部枠をはみ出てしまうというので、卒業できない生徒が出てくる可能性もあります。したがって、ある程度の限度は必要です。

○  時間がきておりますので、簡単に申し上げたいと思います。
  実は先ほど、私、のどまで出かかっていて申し上げられなかったことを、他の委員の方が的確に主張してくれました。仮に大学入試センター試験の機能を到達度試験と選抜試験との二つに分けるとしても、例えば大学入試センターがこの両方を実施するということは、個人的には全く考えておりません。むしろそうでないことの方が望ましい。都道府県なり、あるいは地方ブロックという単位でそれが可能であれば、むしろそれが望ましいのではないかと思います。
  ただ、問題作成につきましては、大学入試センターが20年培ってきたノウハウは大変なものでございますので、それに立脚した形でそういうシステムが組めればということでございます。
  この二つのことは、実は高校教育と大学教育に関して、評価において二つの求心力を持ったシステムをつくるということではないかと思います。高校の到達度というのは、これまで学習指導要領に準じて学校の中で努力されてきた。当然、多様化の理念を保障する、あるいはそれをサポートする形で、到達度評価は考えられなければいけなかったでしょう。一方で、大学の側は、これは他の委員の方が御指摘になったように、伝統的な学力観が変化してきているというのもたぶん事実なんだろうと思います。そのように考えましたときに、実は大学というのは、多分に保守的で伝統的な学力観といいますか、非常に普遍性の高いところに立脚して、学問あるいは学力というものを考えているのではないかと思います。そういう意味では、大学の側が学生を採るに当たって、教育する側の責任として、作題をすれば、そこでどうしてもある種の伝統的な学力を把握するための問題作成になってしまう。
  高校教育が目指す部分と大学が入学者選抜として要求する部分というのは、どうしても相入れないところがあります。相入れないところは、むしろぶつからせたほうがいいんだろうと思います。ですから、高校教育と大学教育を接続させるというときに、両方が仲良く手を結ぶというのは気味悪いことでありまして、むしろ高校教育が目標とする部分と、大学が入試として求める部分が拮抗するということがあっても良いのではないか。そういう意味では、到達度評価のための新しい評価システムというのは、高校教育あるいは初中等教育をサポートする求心力を持ち、他方で、選抜試験としての大学で行う評価システムというのは、大学教育のいわばわがままな部分も含むかもしれませんけれども、そこにおいての求心力を持つという、二つの拮抗する評価システムを構想することが、接続を考えていくときの基本なのではないかと思います。

○  御熱心な御討議をありがとうございます。おおよそ3点ほど私の考え方を申し上げたいと思います。
  この前もここでちょっと御披露したかもしれませんが、今年の4月に中国に参りましたときに、清華大学を訪問しました。それから、今週の初めにソウルに参りましたときに、ソウル大学を訪問して、それぞれ総長と御意見を交換いたしました。その理由は、我々と類似の文明圏に属するこれらの国において、北東アジアの目線で日本の大学というものを考えた場合に、どのように考えればいいのかという問題意識を私はずっと持っておりましたので、お会いしてお話をしたわけでございます。
  清華大の学長さんは、今後、期待される学生像としては、まず知識ですね、知。それから規律、それから美意識、それから体格、体育ということでございます。その三つを強調しておりまして、特に印象的でしたのは、徳育、美意識に関連して、古典80冊を読むことを学生に課しておるという話です。人間形成について並々ならぬ意欲を持っておるということでございました。
  それから、ソウル大学の李総長とお話をしたときに、同じような質問に対しまして、まず第一にグローバル・シチズンシップを養う。グローバル・シチズンシップというのは、もちろん知識の面もございますが、語学の面で英語もさることながら、アジアのいわば共通語として、中国語について非常な関心を持っておる。韓国の学生に中国語をさらに強化したいと思っておると。それから、人間形成の面については、韓国特有の儒教主義がいまだに連綿として続いているわけでありまして、この主義の上に立った家族と、それから学生の品性を養うことに力を入れたいということでございまして、両大学とも目指す対応というのは、かなり類似のものがございます。
  そこで、私はかねてから、鈴木大拙が「日本人は世界人たれ」というようなことを言いましたけれども、最低の国際人としての教養と、やってよいこととやって悪いこと、これを自らジャッジできる品性と、非常に変化の激しいこの世の中に対応できるダイナミックな筋肉質の世代を我々は目指すべきではないかと思っております。両大学とも同じようなことを目指しているのではないかという印象でございました。
  そういったような考え方に立ちますと、この接続という問題につきまして、先ほど何人かの方が、他の委員の方もその点を指摘しておられましたが、いわゆる知識による選別の問題もさることながら、精神面、道徳面、あるいは社会性の問題といったような人間的な要素、人間形成上の問題についての選別方式を何か考えなくてはいけないのではないかという思いでございます。
  そのことを考えてまいりますと、文部省の今までやってこられた文部行政の哲学の問題にかなり関係してくるわけでございまして、平成元年の指導要領ではゆとりと自由と独創という三つがおそらく柱だったと思うんです。ゆとりと自由というものをさらに拡大して、必須科目を3割削減する、週5日制にする。そういったもののある種の弊害をカバーする意味で、総合的学習制度を導入することになったんだろうと私は理解するんです。このゆとりと自由には光と影があるわけで、その影の部分が、先ほども何人かの方からお話のありました学力低下とか、あるいは学級崩壊とか、あるいは快楽を求めていく快楽主義というようなものを助長するようなことになっているのではないかと思います。これが私の危惧であればよろしいんでございますが。
  私が言いたいのは、自由の意味する本来の意義をもう少し指導要領の中でもはっきりとして、モラル・ディシプリンとデューティーといいますか、自由には必ずそういった規律というものがあって、初めて自由なんだということと、それから今後21世紀をにらみました際に、一層地球規模の市場主義とか、あるいは情報通信革命はますます進んでいくわけでございます。この光の部分と同時に影の部分である、人間性を疎外していくという非常な毒薬が影を潜めているわけでございます。そういう毒薬に負けない人間を育てていかなければいけないのではないかという思いを強くしております。
  そして、せっかく用意されたゆとりというものを、人間形成の上で十二分に活用できるような工夫をしなければいけないのではないか。そういたしませんと、日本は今の北東アジアの中国とか、あるいは韓国といったような連中に対して劣後になっていく可能性がなきにしもあらず。私の理解では、大学によっては高校2、3年の補習を大学に入ってからやっているというようなことを聞いておりまして、私たちの常識では全く考えられない。何でそんなことをやらなければならないのか。
  今後、まとめにいずれ入るわけでございますけれども、私が申し上げたような点についても、ぜひとも答申に入れていただきたいというのが希望でございます。

○木村座長  それでは、本日は以上としたいと存じます。どうもありがとうございました。



(大臣官房政策課)

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