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中央教育審議会

 1999/7 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第15回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第15回)

議事録


平成11年7月28日(水)  13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


1.開会
2.議題
「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉会

出席者

委 員 
根本会長、木村座長、川口委員、河野委員、國分委員、坂元委員、田村委員、土田委員、永井(多)委員、松井委員、横山委員

専門委員 
荒井専門委員、安齋専門委員、岡本専門委員、小川専門委員、黒羽専門委員、小嶋専門委員、小谷津専門委員、杉田専門委員、鳥専門委員、永井(順)専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山口専門委員、四ツ柳専門委員

事務局 
佐藤事務次官、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  それでは、時間になりましたので、ただ今から中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第15回になりますが、開催させていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会に御列席をいただきましてありがとうございました。
  それでは、まず資料の確認を事務局よりお願いいたします。よろしくお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長  それでは、早速でございますが、審議に入らせていただきます。

○  私は今まで出された意見について、まず、「生涯学習社会の中の初等中等教育、高等教育という観点から両者の接続の在り方を全体的に考えていくことが必要」という点。
  それから、「高等学校の多様化、大学の多様化との間の上手なマッチング」という点、これはいい言葉が使われていたと思います。
  それから、これは私が前回も申し上げた意見でありますが、今回の答申を中央教育審議会、生涯学習審議会、教育課程審議会、大学審議会などを統合するものと位置付けていけばいいのではないかという点。その中で、例えば「課題探求能力」、これは大学審審議会の御承知のとおりの答申です。
  そういうことを申し上げましたのとあわせて、高等学校までの教育の多様化は、国民全体による様々な議論を経てたどり着いた姿でもあるという点。この方向は、後戻りできないのであり、高等学校までの教育の多様化を前提とした議論が必要ということがあります。
  これらの4点を総合的にとらえて整理をすることができるのではないかと思います。
  まずその中で、先ほど「課題探求能力」ということを申し上げましたが、これからの初等中等教育、高等教育、それから生涯学習を通じて大事になってくるのが、第1に「課題探求能力」です。これについて、すぐに新しいばかりのものを採るわけではありませんが、今回の経済計画の中で出てまいりました「知識から知恵への転換」ということは、どなたもすぐお考えになろうと思います。
  それと私はこの際、ぜひ初等中等教育と高等教育を通して重視したいことは、生涯学習審議会が打ち出し強調しております、平和の問題とか、あるいは食糧の問題、人口の問題、環境問題というような現代的課題の解決能力について、生涯学習の中で重視したいと。この意見を大事に考えたい。初等中等教育と高等教育の全体を通して、現代的課題の解決についての意欲とそれに必要な知恵をいかに涵養していくか、そのことが今申し上げたことに関連すると思います。
  そのことに関連しながら、ここで申し上げたいことは、先ほど申し上げました第4点目のことですが、中等教育、特に高等学校の教育が非常に多様化されている。申し上げるまでもなく、そこにもありましたように、高等学校の普通課程が今70数%で、これはあまりに普通課程に偏り過ぎるのではないかという意見のあることは御承知のとおりでございます。
  それと並んで専門高校が現実にある。これは職業課程の高校と同じことでございます。そして一方で、新しい総合学科については、先ほどのところでちょっとありました。これからは総合学科が主なものとして、それに加えて専門的なもの、それからアカデミックなものをねらうものというふうに考えられるのではないかというくだりがございました。
  さらに、定時制高校をどう接続の中に位置付けていくかということも重要になってくるし、この観点から、さらにこれから増えてくるであろう中高一貫学校を考えなければならないだろう。
  そういう全体を考え、初等中等教育と高等教育の接続という観点からのシステムを考えていくときに、私は特に強調したいことは、よく言われる接続の問題を考えるときに大事なことは、中等教育がそのように多様化されている。そして、高等教育、大学も多様化されている。それを接続という点からとらえるときに、多様化された中等教育のそれぞれが高等教育との接続のときに、そこに袋小路になってしまうというようなことは絶対に避けなければならない。私は教育システムを変えていくときの非常に大事な点はそこにあろうと思います。個性化に応じた教育システムの多様化を強調しながら、肝心の大学との接続ということになりますと、よく言われるように高等学校の普通課程に非常に有利で、職業課程、定時制高校には門がいわば開かれていない。そこのところで、例えば入学試験の在り方なども、その点から言えば袋小路になって、その点が不利な位置付けになっているのではないか。
  今、いろんな大学で試み始められておりますように、職業課程の卒業生に対して門を開くという点から、こういうことができるかどうかわかりませんが、大学の定員をプレイスシステムで考えていって、うちの大学の何%は職業課程の出身者に開くという考え方だってできましょうし、定時制高校出身者に対して何%の門を開くという考え方もできるのかもしれない。接続の問題をとらえるときに、今まで論じられたことでいきますと、下手をすると、高等学校の普通課程と高等教育の教養教育との接続の関係というような面にどうしても論議が集まりがちになる。この点を少し変えていって、袋小路にならないような接続の在り方を考えていく必要があるのではないか。
  例えば、今、職業課程で学習して、生き生きとやっているのは、課題研究に取り組んでいる生徒たちであります。偏差値からいって必ずしも高くない人が、高等学校の職業課程で1年間かけて自分で実験、実習、企業へ出かけていってということをしながら、1年間かけて論文をまとめる。その論文は、大学生の卒業論文以上の成果のあるもので、それが企業で評価されて、一流企業に採用されるというケースも、全国各地の職業課程で出始めておりまして、ここは非常に活性化していると言うこともできます。
  そういう点から、この接続の問題に光を当てて考えていきたいものだと、そのようにまず思います。
  学力の問題についてもありますが、これは後にさせていただきます。

○  今のお話に基本的に私も賛成ですけれども、お話の中に「多様化」という言葉がたいへん頻繁に出てまいります。この「多様化」という言葉は、今までの政策論議の中でもそれこそ多用されているのですが、「多様化」という言葉を聞くとだんだん元気がなくなってくる気がします。現実に中等教育の多様化というのは国民的な合意であると思います。しかし多様化の現実は教育課程の細分化と受験シフトに終始していると言わざるを得ません。それらの事実は、これまでの議論の中でも、あるいはヒアリングの中でも出てきたところだと思います。「多様化」を乗り越えるような新しいキーワードを探す必要があるのではないかという気がいたします。
  とりわけ、21世紀に向けてということなわけですから、多様化といって、だんだん先細りになるのでは寂しい。それこそ他の委員の方が、袋小路になってはいけないとおっしゃったわけですけれども、この多様化の現状は、実際には徐々に袋小路になっていっている。これを何とか脱却するといいますか、これに対する歯どめの効く、少し勢いのいい目標を立てたいものだと思います。
  その一つの考えが、おそらく「課題探求能力」ということなのだろうと思いますが、この「課題探求能力」ももう少しブレークされないと、具体的なイメージはつかみにくい。理念は高く掲げて、「多様化、多様化」と言ってみても、結局は「細分化、細分化」となるのでは仕方がありません。何らかの歯どめを、基本的な考え方として示す必要があるのではないかと思います。

○  基本的な考えのところだけ今申し上げるんですけれども、これもアメリカから入ってきた言葉ですが、産業界では「ユニバーサル」という言葉が出てきております。いろいろな産業物、プロダクツでも「ユニバーサル」。つまり、障害者も含めて、いろんな個性の人たちがいる。生産物がそこに近づくということ。つまり、「多様性への依拠」というのが21世紀の一つのキーワードのようなものになっていると思います。私は、これからの日本の教育も、ユニバーサルなデザインのものでなければならないだろうと思います。
  ですから、多様化であるとすれば、一つの物差しで接続ができるわけがないと考えます。ですから、一定の時期に集中したコンペのような、共通な選抜というのはこれからはないのではないかと思います。
  ただし、その一方で、接続の前の段階で、つまり到達度を、本当にミニマムでいいんです、「生きる力」に近いような、自己について表現したいことを表現する力とか、わずかな算数とか、それから理科にしても、双子葉植物がどうのということは知る必要はないんですけれども、生命というようなことについてある程度知るとか、今おっしゃられた知恵のようなものは最低限必要で、ミニマムの学力としての到達度はきっちり把握していきながら、それを積み重ねていく。そして高等教育に行くというときには、これは職業教育も含めてですけれども、袋小路にならないような、いろいろな多様な試験があるのではないかと考えます。

○  先ほどの「『多様化』という言葉は……」という御意見に対しては、私は全くそのとおりで、賛成でございます。さればといって、それにかわるキーワードということになりますと、どういうことになるのでしょうか。
  結局、「多様化」という言葉は、個性化といいますか、それぞれの個性に応じるものであって、「細分化」という言葉とは必ずしも違う。分化されるけれども、その一つ一つは社会的な評価とか、そういう点においては対等であるという、これが前提になる。それが袋小路になっちゃいけないという、私の論拠になってくるわけです。それをあわせたようなものでどういう言葉があるのか、お聞かせいただければと思います。
  それから、「課題探求能力」ということは、大学審議会ではっきりと使っていますから、それを使えばいいのかもしれませんけれども、やはり中央教育審議会でせっかく論議しているわけですから、私はやはり「生きる力」ということと結び合わせて、これはこの前も申し上げましたが、これからの教育課程の改訂で小学校、中学校、高等学校を通じて、必修として課されてくる「総合的学習」によって得られる力、これは明らかに「課題探求能力」をねらうものだし、私が先ほど申し上げました現代的課題の解決能力をつけているものだと思います。
  だから、高等学校で「総合的学習」に打ち込んでいって、課題研究ということで1年間かけて論文を書き上げたという学生に対しては、これは無試験で、高等学校の調査書をもとにして大学には合格させるというぐらいの、大学入試との関連なども考えて、ぜひ「総合的学習」で身に付けてくる力を、後から出てまいります「学力」ということの中に高く位置付けたいものだと。そのことだけ申し上げておきます。

○  基本的な考え方についてですけれども、いま一つ私の頭の中の整理が十分にできなかった部分は、接続と言ったときに、制度の接続を言っているのか、あるいは一人の個人の接続を言っているのかというところが、一つはっきりしないんです。今までの意見は、どうも制度の接続を言っているのではないかという気がします。
  同じようなことに聞こえるかもしれませんけれども、私なりに考えると、そこに多少違いがあって、今後、多様化の結果―私も「多様化」にかわるいい言葉が思い浮かばないんですけれども、いかに複線的な制度ができたとしても、それが制度と制度の接続を考えられている限りは、たぶん一人の個人として、複数化した制度の中で自由に泳ぎ回る、あるいは、失敗してもまたやり直せるとか、違うルートに移りかわるとか、そういう部分が必ずしも十分に確保されないのではないか。
  そういう意味で、二つのディメンションがあって、複数の制度、多様化した制度の接続。それから、それを使って、その中で動く個人の一人の人間のそれぞれの段階における接続という、両方がうまくメッシュで取り込めないといけないのではないかという気がして、そこの個人の接続の観点というのがもう少し濃くあっていいのではないかという印象です。
  それから、今のを詰めていくと、先ほどお話があった、多様化が袋小路になってしまうというところが、少し抜けられるのではないかという気もします。
  2番目に、先ほども出ましたけれども、生涯学習体系の中で、初等中等教育、高等教育を位置付けていくという考え方は私は大賛成で、どうも今の制度は、初等中等教育があって、高等教育があって、その後のところで生涯学習というふうに言われているような気がするんですけれども、本来は全体が生涯学習であって、初等中等教育、高等教育というのはその部分であるということではないかと思います。

○  学力低下問題で意見を申し上げたいんですが、基本的考え方についてだけを申し上げさせていただきます。
  基本的考えの中で、他の委員の方がおっしゃった制度の接続と個人の接続ということで、実は私は同じことを申し上げようと思っていたわけです。言葉で言いますと、いわゆる啓蒙主義とロマン主義なのかなという気がしているわけです。啓蒙主義が終わって、ロマン主義に入っている。つまり、自我とか、個人というものを、啓蒙主義的な発想で理性でくくって、人間の評価をするというところから、一人一人という考え方に移っていく。ロマン主義といいますか、夢みたいなものが入ってくる。それが学校の接続のところに活かされていくという考え方が、今回の中央教育審議会が接続を議論する意味ではないかと思うわけです。他の委員の方がおっしゃった制度としての接続と個人にとっての接続の背景にあるものとして、そういう思想を考えるべきではないか。
  つまり、啓蒙主義はもう終わって、ロマン主義の時代に我々は入っているんだということを、あるところで明確にしたほうがいいのではないかという気がしているわけです。言葉で言うと、「夢」と言うんでしょうか。それを求めれば、多様になるのは決まっているわけでありまして、近代社会の成熟はそういうものを生み出すわけで、これは日本だけではなくて、世界じゅうそうでありますから、その辺のところを明確にすることが大事ではないか。
  ただ、その際、「学力」のところでまた申し上げたいと思いますが、決してそのことは反知性主義とか、反教養主義を意味しているのではない。その辺の歯どめを明確にしておくことをどかかでやるべきではないか。それはまた後ほど時間があれば意見を申し上げさせていただきたいと思っております。

○  基本的な考え方ですけれども、先ほど他の委員の方がおっしゃったことについて、私も同感でして、それとの絡んだ発言です。
  一つは、基本的な考え方のところで、生涯学習社会という中で、接続等の在り方を考えるという話については、それはそのとおりだと思うんです。その生涯学習社会の体系の中でというふうに問題を組み立てたときに、いわゆる初等中等教育の教育内容としてどのようなものをデザインするか、子どもに何を学んでほしいのか、そうした議論につなげていかなければならないと思うんです。
  生涯学習ということを強調する際には、高校以下においては、文系、理系というような区分けをしないで、また入試による教科目の絞り込みなどをさせないような形で、幅広い教科をしっかり学ばせていく視点が、基本的な考え方の中では必要ではないか。今後、職業生活の上でも労働力の流動化が一層促進されるであろうし、社会のグローバル化ということを考えれば、仕事の内容はいろんな分野の総合的な力量を要請してきます。日本の場合には、例えば大学レベルで複数の学士号を取るとか、修士号を取るという話はよく言われるんですけれども、それがあまり現実化してきていないというのは、高校以下でかなり細分化されたような教科履修が原因としてあると私は考えています。
  今後の生涯学習社会ということと、そうした生涯学習社会をつくりだしてきた社会経済的な変容ということを考えれば、高校以下でバランスのよいしっかりとした学習を子どもたちにしてもらうという、そうしたメッセージは、基本的な考え方の中で強調してもいいのではないかということを考えています。
  もう一つ、今度の中央教育審議会でこれを取り上げていいのかどうかわかりませんけれども、やはり小学校・中学校・高等学校という接続の問題を考えていく際には、今までの6・3・3制度の問題をそのままにして議論していいのかどうかということも、私はちょっと疑問に感じています。今の子どもの発達に関する研究者のいろんな話を聞くと、明らかに今の子どもの発達の区切りは、小学校4年生、5年生ごろが一つの区切りで、小学校6年生から中1、中2ごろまでが一つの区切りで、あとは中学校3年生、高校1年生あたりというふうに、発達的には大体そういう区切りがあって、今の6・3・3制に対応していないのではないかという議論をされる方が非常に多くなっています。
  子どもの発達の段階というのは、当然、社会がつくり出すものですので、6・3・3制がつくられた当時はそうした社会的な要請や子どもの発達の状況があったと思うんですけれども、今は明らかにそうした6・3・3制とは違ったような子どもの発達の区切り方が見えてきているんです。そうした問題は、今度の接続の問題でどう考えていったらいいのかということは、これまで私もほとんど議論してきませんでしたけれども、こうした問題は何らかの形で議論に上げておく必要があるのではないか。

○  基本的な考え方だけ申し上げますと、これはすっきりまとめていただいていると思いますが、内容という見方とシステムという見方で申しますと、内容という点では、これからの人間像として、我々は「生きる力」というのを強調しておりますので、その「生きる力」が社会人に至るまで続いていく。段階によって、「課題解決能力」とか、「課題発見能力」、あるいは「探求力」と呼んでもいいわけで、「生きる力」についてどの段階でどういう呼び方をして、つながるかということを考えていくのが一つの考え方の枠としてある。
  もう一つ、システムとして、縦と横と両方の枠で考えて位置付けていけるのではないか。そうしますと、縦の枠としますと、小学校・中学校・高等学校・大学・社会という縦の枠がありまして、それぞれの段階が相互関係を持ったり、相互乗り入れをしているという見方で眺めてみる。そうすると、他の委員の方がおっしゃってくださった小学校・中学校あたりですと、5、6年生と中学校の初めのところの関係は非常に深い。中学校・高等学校は一貫教育ということで我々は既に提言しております。それから、高等学校と大学というのは、アドバンスト・プレイスメントとか、リメディアル、あるいは飛び級という形での相互乗り入れをやっているわけです。大学と社会との間は、社会人がまた大学に入ってきたりという、大学と社会との相互乗り入れがあり得るわけです。小学校・中学校・高等学校・大学・社会―大と社会は必ずしも縦ではなくて、横の場合もありますけれども、そういう流れとその相互の関係で、基本的考え方ですから、縦の見方で見てみる。
  それから、横の見方としましては、義務教育は一貫としてまいりますけれども、高等学校ぐらいで御議論になった個性化・多様化が出てまいりますので、普通科、専門科、総合科、それから大学入学者検定を受ける資格のあるような形の子どもさんたち、これは横の枠でございます。大学の場合ですと、お話に出ていた教養とか、専門とか、職業という枠がありまして、それぞれの段階での横の枠を、今度は縦につないでいくというマトリックスの配置に位置付けて、それぞれの接続を考えていく。
  そうすると、高等学校・大学の場合ですと、「生きる力」での接続、カリキュラムでの接続、方法としての接続を考えた教育の在り方、それから目標の設定の仕方、あるいは選抜の在り方が位置付けられるのではないか。基本的な考え方としては、全体の図をちょっと頭に置いておいて、上手な文章を書いていただければいいのではないかと思います。

○  皆さんの御意見に賛同しつつ、補足して発言をしたいと思います。
  これまでは高等教育と初等中等教育がソフトの面でつながっていなかったということを、まず認識しておくべきだろうと思います。と同時に、希望者全入時代を控えて、これからはつなげざるを得なくなってきたのだという認識が必要であるからこそ、ここでこの議論がなされているんだろうと思います。その際、このつなげざるを得なくなったということの接着剤のキーワードとして使えるのは、私は、他の委員の方のおっしゃる「課題探求能力」の育成ではないかと考えます。
  と申し上げますのは、大学審議会で出されている「課題探求能力」ですけれども、教育課程審議会のほうでも実は「課題発見・課題解決型学習」という形で、ほぼ同様の趣旨のことを述べているわけです。したがって、少なくとも初等中等教育における求める能力と、高等教育における求める能力とが、文言の上では一致した、あるいは筋が通ったということになるんだろうと思います。しかしながら、イメージとして、どのようにつながっていくのかとか、具体的にどういう教育の中身が行われるのかという点においては、まだまだ整理がしきれていないと私は考えます。
  同時に、このあたりを突破口にして、いわゆる「課題探求能力」というのは、いずれにしましても総合的な能力になってくるわけですから、言ってみれば、例えば学力低下論に対しての整理を、このあたりをキーワードに行っていくと同時に、これから21世紀を考える際に、既に現在あらわれているわけですけれども、学問の世界における学際化どころか、超域化あるいは文理融合というような現象に対処するためにも、高校以下若しくは大学の授業において、そのようなことを念頭に置いた教養教育、あるいは高等学校における基礎教育を考えていくべきではないかと私は考えます。

○  今、たくさんの意見が出ましたが、議論の外に出ていた項目を少しコメントしたい点と、そのほかは「生きる力」「課題探求能力」を軸にして、小学校・中学校・高等学校から高等教育まで統括した体系を組めるのではないかという考えに私も賛成でございます。
  抜けているポイントは、先ほど他の委員の方から職業高校の事例が御紹介にありましたけれども、そのもう一つ先、高等学校から大学まで一貫した教育がなされている体系が日本にある。これは高等専門学校です。高等専門学校が最近になりますと、専攻科までつけますと、高等学校入学からちょうど大学卒業までの課程を一貫して、一つの思想のもとで教育できる体系があるわけです。そういう意味で、これは工学系でございますけれども、その在り方に非常に注目しておりまして、その中でまさに「課題探求」「生きる力」、すべての統括されたトライアルがなされていると私は聞いておりますし、期待しております。ですから、この基本的な考え方の中で、そのパスが日本にあることを少し触れていただければというのがコメントでございます。
  あわせて、私も学力低下問題と、高等学校と大学の教育の基本的な考え方にどこか違いがあるんではないかという論調がいくつかこの後でも出てまいりますので、その場面でまたコメントしたいと思います。

○  基本的な考え方についてでございますが、学力、能力の側面はこれで十全だと思っておりますけれども、希望者全入の時代を迎えて、もう一つどうしても大きく取り上げていかなければいけないものに、人間形成、人格形成の問題があると思います。
  先ほど他の委員の方から、マトリックス的に考えるべきだというお話の中で、小学校・中学校・高等学校・大学とシステムが段階を踏んでいくのに対して、もう一つ横軸に重要なアスペクトを考えるべきだというお話がございました。全く賛成でございますが、その中に人間発達形成論、人間形成が段階的に進んでいくプロセスを加えていくことも一つかなと考えます。
  人間は対人環境の中にはなから生まれてくるわけですけれども、人に対して信頼感を獲得していくプロセス。それから、やがて親族関係を中心にした対人関係の処し方から一歩ステップアップして友愛関係を獲得していくプロセス、あるいはもう一段階上がって劣等感を克服して、自分の能力その他、いろいろ見越した上での勤勉性の獲得、あるいはさらに高校・大学のところで、アイデンティティの混乱から確立に向けてとか、人間のライフサイクル全般にわたっての段階的漸成論をバックに置く。それと社会的なシステムとの整合・不整合の議論が背景にあったらいいなと感じました。

○  今までの議論と重なると思いますが、日本の学校教育というのは、少なくとも戦後の6・3・3・4制というのは、下から上へといいますか、発達段階の低いほうから高い段階へ積み上げていくという考え方で基本的につくられていると思うんです。このことはまたいろいろな法令を見ましても、例えば小学校教育の基礎の上に中学校教育があるということが明確に書かれているわけですが、私どもはそういう考え方で教員養成もしているし、実際の教育の営みをしていると思います。
  ところが、そういう考え方といいますか、理念があるにもかかわらず、実際に機能をしているカリキュラムを考えてみますと、結局、大学入試の在り方が事実上、高校のカリキュラムの多くの部分を決めてしまっている。あるいはまた、高校の入試の在り方が、中学校のカリキュラムの重要な部分を決めているということで、理念的に考える下からの積み上げ方式が、実質的にはそうではなくて、入学試験というその一点において実は上から下へおりてきているという矛盾した状況があるわけです。
  中学校教育でも、これから子どもたちに育てなければならない一つの側面として、子どもたちの感性をどのように育てていくのかというのは非常に重要な視点だと思いますが、高校入試の中で、内申書では、音楽とか、美術はもちろんあるわけですが、入試科目に入らないということになってくると、どうしてもそこが軽く扱われてしまうということがないとは言えないことがあります。
  入学試験というものがどういう形で、下級のといいますか、より下の校種のカリキュラムに影響を与えているかということをきちっと分析してみる必要があると思います。そして、小学校教育の充実の上に中学校があり、中学校の上に高校がある。そして、高校教育が充実した形の結果として、大学入試があるという、その考え方をきちっと出しておくことが、まず基本的な考え方の大前提になるのではないかと思います。今まで違った表現の仕方でそういう意見は述べられておりますけれども、改めてそのように思います。

○  ちょっと話題が変わってしまうかもしれませんが、以前、意見があった大学についてのことですが、「専門教育は大学院を中心に行い、学部では、教養教育を強化してはどうか」云々ということと、「人文社会系の場合、ほとんど学部卒で社会人になる」から、学部教育を相当しっかりやらなければいけないのではないかという意見とあって、一見矛盾したような、意見が二つ出ております。これを詰めるのは大学審議会の話で、中央教育審議会ではそれ以上詰めなくてもいいかと思いますが、中央教育審議会でも先ほど申し上げました2つの意見などは、学部教育について若干ニュアンスの違うことを言っているように感じられましたので、もう少しすり合わせる必要があるかなということを感じました。
  実はそのことを言おうと思ったわけではなくて、先ほど申し上げました意見のうち、「専門教育は大学院を中心に行い」ということは実は賛成でありまして、きょうも各新聞に大きく出ておりますが、司法制度改革審議会が始まりまして、法曹専門家を増やすということで、どこまで議論がいくかわかりませんが、観測によりますと、法曹実務者の養成なども含めたロー・スクールというようなプロフェッショナル・スクールのようなことまで話がいくかもしれないということもささやかれております。それから、言うまでもなく、経営とか、そういう面でも、ビジネス・スクールのようなものがもっと発達していくでしょう。ですからプロフェッショナルな大学院が日本でもできてきてということがあちこちで言われていますが、そのことは今度の中央教育審議会の答申でも若干触れたほうがいい気がいたします。
  上のほうの構造が変わってきますと、だから学部の入学試験へのプレッシャーが全く薄くなるというわけではありませんけれども、そういうところから、学部入試の位置付けも広く見直す可能性があるわけです。現実にプロフェッショナル教育が学部ないし大学院のマスターぐらいのところでだんだん重視されていくようになるだろうというのは、アメリカ型が仄聞するところ、最近はイギリスとか、ドイツとか、ヨーロッパのほうにもだいぶ波及しているようですので、その辺のことをちょっと感じて申し上げました。

○  話が一つ先に戻ります。先ほど他の委員の方がおっしゃった我が国のカリキュラムは下から積み上げていっているが、実際には上級学校の入学試験が下級学校のカリキュラムを規定しているという見方といいますか、そういう考え方には全く賛成でありますけれども、先生の、感性にかかわっての受けとめ方は、必ずしも学校現場の状況とは一致していないと感じていますので、それに触れさせていただきたいと思います。
  私は専門が数学でございますが、現在の中学校のテスト、特に定期試験と言われるテストは、99%あるいはそれ以上かもしれませんが、解答欄というのがあって、結果が合っていればいい、プロセスはどうでもいい―どうでもいいというわけではなくて、プロセスは見ないというのがほとんどなわけです。例えば図形、昔でいう幾何ですが、その証明にしても、虫食いの穴あきになっている。そうすると、図形の問題にはいろんな証明の仕方があるわけですが、強引に一つの証明のスタイルで穴をあけていくものが目立ちます。むしろ結論のほうからやっていったほうが正解に至りやすいという問題もあるわけで、プロセスを大事にしていないと思っています。
  それはなぜなのかというと、これは教員の学習観といいますか、どこかにそいうことが言われたのもあったと思いますが、教師の意識の問題であることはもちろんでありますけれども、そういう意識が一つは入学試験によってつくられてきたと思っています。そして入学試験だけではなくて、そういう知的な、断片的な知識と言ったほうがいいかもしれませんが、そういうことを尊しとする、長い我が国の歴史があるんだろうと思います。そういう中でこのような意識が形成されてきた。今の教員もそういう教育を受け、そしてまたそういう教育をしてきている。
  例えば音楽は、現在、多くの入試において受験科目に入っていないわけです。これは昭和30年代の後半、40年の初めでしたか、都立高等学校がそれまでの9教科を一気に3教科に、入試を英語・数学・国語の3教科に絞ったときに、教科から外れた特に社会科や理科の教員が猛烈にそれに反発をしたわけです。それは入試教科から外れたから、子どもが勉強しなくなるという建前が先行しましたけれども、本音の部分は、自分の教科が軽んぜられたということもあったかなと思います。そのときに私は、入試教科から外れれば本当の教育ができるのにな、もっと本質に迫れるのになと思ったわけです。しかし、入試教科から外れたから、その後、子どもたちが音楽を勉強しなくなったわけではないし、美術を嫌いになったわけでもなくて、ずうっと一所懸命やる子はやってきているわけです。
  ところが、先ほど音楽が入試教科に入っていないので、軽く扱っているのではないかということですけれども、そういったことは中学校にはありません。しかし音楽のテスト問題を見ますと、「赤とんぼ」はだれが何歳のときに作曲したかとか、あるいは学校の校歌が全部平仮名で書いてあって、ある部分を漢字に直すとか、そういう問題も少なくありません。
  一体、これは何なんだというと、やはり入試の問題だけではなくて、知的なことといいますか、そういうことが大事だという意識が長い間につくられてきたことにあると思います。しかし、これを壊していくには、私は入試だと思っています。音楽は入試にないけれども、入試のある教科を壊していくことが、いろんな意味で壊すことにつながっていきます。現場の状況は、高等学校はよくわかりませんが、中学校では入試教科に入っていないからその教科を軽く扱っているということではないということを、ひとつ御理解いただきたいと思います。

○  私も先ほどの委員の方のご意見に賛成です。接続のことを考えた場合に、小学校・中学校・高等学校が、現在、6・3・3と区切られていますが、その接続を今後よりスムーズにするためには、6・3・3の区切りについて、もう一度今後、見直しを含めて検討すべきであるということを意見として触れてもらいたいと思っております。
  現在、それぞれの学校の学習活動は入試に影響されているという事実が一部にあります。また、学習指導要領で示されている内容は、その時期において身に付けなければならないというような内容がきちんと示されていると思います。その内容を合理的に身に付けさせるためには、発達段階をきちんと考えてやらないと、生徒のほうは本当の意味で学ぶべき内容をきちんと身に付けて次に進むことができなく、また充実感を持って学校生活を送ることができないで、接続されていることが少なくないと考えております。
  このような状態で次の段階へ進んでいっているということは、当初考えていた6・3・3の制度のときと比べて、今の子どもたちの発達段階が変わってきていると思いますので、その点についても言及していただきたいと思います。

○  基本的には多くの委員や専門委員の方から出された意見に共感する部分が多いんですが、先ほどの他の委員の方々の意見に合わせて、基本的に生涯学習体系の中での初等中等教育、高等教育の在り方を全般的に考えていくことは大賛成であります。
  ただ、今まであまり議論されていないのは、就学前の教育、つまり幼稚園・保育所と小学校段階の連携とか、提携という問題についてはあまり議論がなされていないと思います。最近、いわゆる学級崩壊とか、様々なことが言われているわけですけれども、いろんな人の意見を聞くと、やはり小学校に上がるまでの幼児期の基本的な生活習慣とか、子どもたち同士での相互のコミュニケーションをつくるとか、そういう意味での人間としての育ちというものが、就学前において必ずしも身に付いていないのではないかということが、特に低学年でのいわゆる授業崩壊という問題を分析していく中で、かなり多くの人から指摘をされている。
  私も4、5年前から、今の6・3・3・4制を性急にとは言いませんが、他の委員の方から出されましたように、子どもたちの発達段階が全体的に早熟化しているといいますか、そういう状況の中で、小学校の入学年齢を1歳か2歳下げるということも含めて、それから中等教育自体が様々な問題を抱えているということで、3・3ということに中等教育が分かれているということも含めて、6・3・3・4制を就学前も含めて見直しをしていく必要が、今日的な課題としてあるのではないかと日ごろ考えているわけです。本委員会での議論は、どちらかというと大学入試を中心にした、高校と大学の接続の部分に多くの意見なりヒアリングがなされてきていまして、「幼児期からの心の教育」の議論の中でも、私は、幼稚園と保育所の一元化を含めて、就学前教育と小学校との連携の必要性を一度御意見として申し上げたことがあります。
  今回、中間まとめの時期に差しかかっておりますから、6・3・3・4制そのものを今回のこの委員会で見直すということについては、議論不足でありますし、もっともっと研究しなければならない課題ですけれども、就学前教育と少なくとも小学校との提携、連携について、できればもう少し―今、国会でも、就学前の教育の幼稚園・保育所の在り方については、政局絡みで予算が急激についたりいろんな動きがありますけれども、中央教育審議会の中でもどこかにそのことについて、将来の課題として書き込んで、次の中央教育審議会に向けて議論をするということが必要なのではないかということを、特に意見として申し上げておきたいと思います。
  なお、特にこの接続の問題の中で、何回か私も申し上げておりますけれども、高校までの12年間と高校以後の高等教育とは、ある程度そこははっきり、今の年齢で言えば、18歳で完全に大人になるという考え方を基礎に置いて、やはり高校が事実上義務化しているということを踏まえて、高校を出て、社会人、職業人として自立した市民社会の中の構成員になれるんだということで、ここでも出ておりますけれども、高校自体が高等普通教育と専門教育ということで学校教育上書かれておりますが、果たして97%も進学するような状況になっている中で、高等普通教育というより、むしろ中等教育の基礎・基本というのは、社会人として自立して生きていくための基礎・基本として身に付ける。
  他の委員の方から多様化について若干の御意見がありましたけれども、最近、基礎・基本のところが若干軽視されて、個性化・多様化していくという中で、多様化のほうに力点がかかり過ぎて、人間として普遍的に身に付けておかなければならない基礎・基本が必ずしも十分備わっていない状況にあるのではないかという指摘も、あちこちから聞こえるわけであります。流れとして多様化しているということは、後戻りできないとここに書かれていることについては、私も同感でありますけれども、基礎・基本に少し重きを置くようなことが述べられないのかなという意見を持っていることを申し上げておきたいと思います。

○  一つ基本的な考え方の中に入れていただきたい、あるいは考えていただきたいことは、学校完全5日制という大前提だと思うんです。学校完全5日制という形で、私ども保護者が考えているのは、学校完全5日制の中で、特に小学校、中学校、高等学校において、基礎・基本を学校でもって修得していただく。基礎・基本は、今、他の委員の方からもお話がありましたけれども、学校完全5日制のキーワードみたいになっているわけです。そうであれば、大学で学ぶのに最低必要な生徒の資質については、小学校、中学校、あるいは高等学校で学ぶ基礎・基本の修得の延長線、あるいはそれに基づくものであるということが必要ではないかと思います。そういう中で、学校完全5日制がいろんなところで言われていますけれども、学校完全5日制と基礎・基本ということを明確に基本的な考え方の中に入れていただければ大変ありがたいと思っています。

○  接続の問題はいろいろ論議されておりまして、多様な御意見が出ているわけですが、必ずしも明確に出なかったポイントが一つあるのではないかと思います。つまり、本人を接続させていくために、高校側の先生方、それから大学の教官・教員というものですけれども、私は特に大学におります関係上、大学生を受け入れる教員もしくは教官としてどういう役割を果たすか。そこに焦点を当てた接続の問題を少し考えてみたいと思います。
  我々は今までそういう問題であまり苦労しなかったのかもしれませんが、実際にここにもいろいろ御意見が出ていますように、積極的な学習姿勢等に欠ける学生が多い。今後はますます苦労するだろうと思います。基礎的な段階でのカリキュラムを充実させることは当然大事でございます。これは基礎的な段階だけでなくて、専門教育まで含めて全部ですが、そういう教育プログラムを支える基礎は、やはり人だろうと思います。
  その人の問題に焦点を合わせますと、まず大学の教員をどのように採用するか、こういう問題が出てくるかと思います。もちろん学生に親しまれるような人格の持ち主であるとか、尊敬されるに値する学識の持ち主であるということは当然でありますけれども、教育者に要請される基礎的な、本当に基本的な態度を備えている人であるかどうか。あるいは、教育指導の技術のミニマム・エッセンシャルズを身に付けているような人であるのかどうかということも、教員を採用するときに、これは若い人を採用するときにも、中堅あるいは老練の方を採用するときにも非常に大事な問題ではないかと思います。
  今は教員の候補者は非常にたくさんおられますので、そういう視点を入れて、適切な人を選ぶ必要があるだろう。もちろんそれを選ぶためには、選ぶ側がよほどしっかりした目を持っていなかればいけないというのが一つです。このように大学の教員採用を考えたい。もちろん採用段階だけではなくて、その次に出てきますのは、採用後の資質向上でございまして、本人が研究にいそしんでいただくのはもちろんでありますけれども、教育者としての資質向上も図る必要がある。本人の自己研鑽も含めまして、いわゆるファカルティ・ディベロップメントプログラムのシステムを展開させていくという、人からの面でございます。
  採用の面だけではなくて、ではそういう人がどうやって育っていくのかと考えますと、私は大学院教育に注目する必要があるかと思います。今まであまり意図的にやらなかったかもしれませんけれども、現実には大学院で、私は特に後期課程だと思いますけれども、いろんな試みがなされていたのではないか。現に大学の教員をそのようにして育てていたのではないか。そこにもう少し焦点を当ててはどうかと思います。
  と申しますのは、極めてささやかでございますけれども、我々の教室、心理学でずっとやってきましたのは、後期課程の学生の3年間に、研究指導法という演習を課しておりました。これは実は学部の訓練と、それから大学院生の訓練とを兼ねてやっていまして、学部生が基礎訓練を受けて、それぞれの心理学の研究課題を設定して、実証的にそれに答えていく。そして、結果をまとめるという個別の探究を小グループでやります。そこに我々教官が入りますが、同時にそこに後期課程の学生を入れるわけです。そして、我々が直接に学部生を指導している中に参与してもらう。私がいいモデルになっていることもありますし、私のようなやり方ではダメだというので、反モデルになっていることもありますし、あるいはまた我々が、「この点は何々さんに教えてもらいなさい、何々さんはこういう点に詳しいから」と言って学生を返しまして、その中で学生が育っていきます。そういうことをここ30年、いや、もっとやってきたと思いますけれども、これはほんの一つの例でございまして、いろんなところでいろんな工夫がなされているだろう。
  そんなふうに大学院の特に後期に、教育者を育てるという視点も入れながらやっていって、先ほど申したような採用でそれを適切に評価していただく。本人がまた自己研鑽やファカルティ・ディベロップメントの中で進んでいく。そんなふうな大学の教員が増えてくれば、接続の問題が一つうまく解けていく道ができる。その人たちが高校の現状をよく知ることはもちろん必要であります。
  もう一つ、我々のほうがこういう努力をすると同時に、恐らく高等学校側でも何かそういう努力があるのだろう。現に我々が大学生に面接してみますと、高校の先生からこのような影響を受けたというようなことをよく聞きます。そういうわけで、高校のほうでの努力、大学のほうでの努力、それからできたら高校と大学の教員の連携などをやっていきますと、接続の一つの面が見えてくるのではないか。少し長くなりましたけれども、以上でございます。

○  今、いくつか接続の問題と、それから基本的な考え方の接点で話題が進みましたので、ここで発言させていただきます。
 基本的な考え方とその後の議論を見ておりまして、先生方はたぶんかなり食傷ぎみになって、あえて今回の中から省いている大事なキーワードがあろうかと思うんですが、それは「独創性」とか、「想像性」というキーワード。これが全く出てこないんですが、いろんな答申でこれは十分に出ていますので、あえて避けた感があるのかもしれません。ただ、先ほどからの「生きる力」を養う教育とか、「課題探求能力」を養う教育ということになりますと、どこかで子どもたちがある問題を解決した達成感、フレークスルーをしたときの感激、そういうものが子どもを大きく育てていくんだと私は思っております。
  そこで、大事なキーワードとして、例えばかつての経済学者でありますマックス・ヴェーバーがある講演の中で、これは『職業としての学問』という形で、岩波文庫から出ておりますが、その中で述べていた言葉の中に、いかに努力をしても、いかに知識を持っていても解けない問題はあるんだと。それを解くためには、その場に適した思いつきが必ず必要だ。この「思いつき」「着想」というのは、日本では当てにならないもの、単なる思いつきという悪い言葉があるように、これを重視してこなかったところに、「独創性」とか、「想像性」という問題の取組がおざなりになっていたように考えられて仕方ないんです。
  今の「生きる力」「課題探求能力」ということを軸に、小学校・中学校・高校から大学まで一貫してある教育体系を組むんだとすれば、ここに関するそれぞれのレベルに応じた達成感が獲得できるような教育体系が組まれていることが大事です。先ほど他の委員の方がおっしゃった、断片的な知識を重視する教育と、今のブレークスルーをねらって着想重視のトレーニングを行う教育とは、いわば相入れないんですね。
  それから、反対に頭の働きから言いますと、いわゆる着想脳と、記憶する、理解する脳とは別だという脳の理論がありますね。右脳・左脳の話があります。ですから、私は、いわゆる暗記していて、受験偏差値の高いレベルの学生が必ずしも「独創性」や「想像性」に優れている学生だとは思っていないんです。大いに違う事例はたくさん経験しております。そういうわけで、私どもは学生たちをエンカレッジするときに、偏差値重視の輪切りで入ってきた学生たちの中に、その価値とは全然独立の能力をあなた方が持っている可能性があるんだということで、いわゆるティーチング・アンド・トレーニングとは対極にあるエデュケーション、持っているかもしれない潜在能力を引き出す方向の教育をどうやるかというのが、今、我々、特に大学の想像性を要求する場面での教育の重点になっております。
  そんなわけで、医学部とか、工学部では、最近、実物教育もしくは現場教育が学年の低いところから重視されておりまして、学生というのは、今勉強していることが、将来何の役に立つのかというものと常に問答しながら勉強しているのが実態でございますので、自分で実態にぶつかって、それをブレークスルーする過程で何が間に合って、何が足りないのか。それから、それが質的に違うものであるのかというのを早い時期に体験して、そこから後の勉強と取り組んでいくインセンティブを与えるのが非常に有効であろうと私どもは見ております。
  そういう意味で、それは何も大学に限らずに、小学校・中学校・高校の課程でもそれぞれの在り方として、今の総合的科目の中にそれが生かされていくのであれば大変ありがたいし、そうなっていきますと、大学が求めているものと高等学校で教育するものとのギャップはおのずと埋まってくるのではないかと、理想的には考えています。

○  学力低下のところで、多様化しているとか、分散化だとか、いろんなことが書いてあって、これはこれで本当にそのとおりだろうと思います。ただ、今提起されている学力が低下しているかどうかという問題に、正面から答えているとは言えないのではないかという気がします。基礎・基本に類することの分野で、その範囲で学力が低下しているかどうかということに答えていないのではないだろうか。ここではそういう観点から、低下しているのかしていないのかということをきちんと、いろんな見方があるというのは事実ですけれども、正面から答える必要があるだろうと思います。
  それとの関連で、もう一つ、基本的な考え方なのか、その後のところで出てくる話なのかよくわかりませんが、抜けているキーワード的なこととして、能力の違いをどう考えるのかということが抜けているのではないかと思います。多様化とか、個性化ということで一部扱ってはいますけれども、いろんなタイプの能力、短い時間で答えが出せる人もいるでしょうし、理解するのに非常に時間がかかる人もいるということですから、そこをどうやって考えるのか。
  ゆとりを持たせてきたというのは、それは一つのやり方であったと思いますけれども、平均値にゆとりを持たせるということであっては、今、国際的に要求されている、まさに他の委員の方がおっしゃったような部分ですとか、あるいは非常に優れた能力を持った人の能力を生かすということには必ずしも十分ではなくて、中央教育審議会で以前、理数系、物理、数学で特別な能力を持っている人たちを生かすという話がありましたけれども、そのつながりをどういうふう考えていくのか。そこで問題が終わったということではないと思うので、そのあたりをどのように考えるかということだろうと思います。今後、ますますゆとりを持たせた教育をやっていこうと思えば、理解度の早い人にはそれなりの教育をしていくことが、日本全体にとって好ましいだろうし、理解に時間がかかる子どもにはそれにふさわしい教育をしてあげたほうが、やはり日本全体としてもいいだろうし、もちろん個人的にもそのほうがちゃんと理解ができるという意味でプラスであろうと思います。
  それから、社会の受けとめ方として間違った受けとめをしない方向に持っていくことも大事だと思うので、その辺について、基本的な考え方で扱うのか、ほかで扱うのかわかりませんけれども、考え方を提示すべきではないだろうかという気がします。

○  学力低下問題に入ってもよろしいわけですね。学力低下問題は、今、社会的に影響のあるような方がいろいろなところで発言されておられるので、随分議論されてきているという感じなんですが、少しこの点について申し上げたいことは、完全学校5日制を目指して教育課程審議会が教育課程を論ずるときに、当然のこととして、基礎・基本の学力はどういうものかということをかなり真剣に議論した経緯があります。
  ただ、学力を研究するのは教育心理学の分野らしいんですが、日本のようにガチガチに指導要領を決めて、そのとおり教育させているところでは、あまりそのことを研究するということの価値がなかったのではないかという気がしているんです。というのは、学力を本当に研究している人はあんまりいらっしゃらないです。私がよく知らないから言っているのかもしれないですけれども、私の調べた範囲ではほとんどいらっしゃらないんです。
  ですから、学力、つまり基礎・基本はこういうものだということを、学力の面で明示できる研究があまりない。国立教育研究所で調べてみても、そういったレポートが出ていないわけです。考えてみれば、指導要領をきちんと決めて、全部にそれをやらせれば、そんなことを研究してもそう意味がない。できたか、できないかだけの議論になってしまいますから、確かに研究対象にならないということがあったのではないかというのが背景として考えられるわけです。
  ただ、そのときに一番問題になったのは、基礎・基本の学力と同時に、いわゆる新幹線授業とか、七五三という現象が非常に気になったわけです。新幹線授業というのは、子どもがわかろうがわかるまいが、決めたことを授業する。突っ走っちゃう。そういうことが横行している。その結果、七五三と言われる、高等学校では7割の生徒が高校のことが理解できないままに高校卒業の資格を持っている。その現象を何とか工夫をして解消できないだろうか。そのことと、先ほどから他の委員の方もおっしゃっていますけれども、「生きる力」の問題とか、「課題探求」という新しい時代に応じた能力をいかに身に付けさせるかという工夫のほうが中心だった。確かにそれは言えるわけです。
  ただ、この時点で、私がちょっと気になるのは、学力低下という論議が、実は全部大学人から出ているんです。大学の教員以外は言っていないんです。それはどういうことなのかよくわからないんですけれども、現場の高校で、そういった議論が真剣に言われたということを聞いたことがありません。その問題について、大学の教員がそういうことをおっしゃるということは、今の時代の傾向としてある反知性主義とか、反教養主義みたいなことに対する警告という意味では、非常に重要な提言だとは思いますけれども、ただ単純に自分が教えにくいからみたいなところから言われてしまうと、この改革が担っている非常に重要な役割を変なふうにゆがめてしまう危険があるので、これは私は警告する必要があると思っています。
  本当に学力について発言されている大学の教員が、きちっと研究して、年号を知っているからというのではなくて、基礎・基本の学力というのは一体何なんだと。その部分が本当に落ちているのかどうかということを研究して、精査された意見として出ているのかどうか。ですから、非常に危険ではないかという気がしてしょうがないわけです。もちろんおっしゃっていることは、改革に反対ということでおっしゃっているわけではありませんから、あまり攻撃的になる必要はないような気もするんですけれども、その点はかなり慎重にやらないと、日本のマスコミを信じていないわけではありませんが、ある県の高等学校の校長さんが「マスコミには何も言うな」と言ったという。これもひどい話なんですけれども、こういうのはよくないですが、その辺はマスコミが乗っちゃうのではないかというので、非常に心配しているところであります。
  もしこの時点で何か考えられるのかといったら、私は、学習指導要領を緩和して弾力化して、そして学力という点でいえば、選択制の大幅な導入によって、従来の学習内容を確保できるように仕組んであるわけですから、そのことを生かすということで、高校以下が頑張ればいいわけであります。その代わり、高校といっても、全然違う高校生が出てくる。ある高校では10までやるけれども、ある高校では7までしかやらない。そういうふうになるんだということをわかってもらいたいと思いますし、それを無理すれば七五三になるわけです。そういう制度の改革をよく理解してもらった上で、さらに言えば、税金を使って教育をしているわけですから、それに対する説明責任として、いつも申し上げているんですが、何らかの形での学力テストを中学校とか高校段階でやってもらって、それを公表する。
  聞いたところによりますと、大阪の教育委員会はとうとう学校別の中退率を公表し始めたそうです。これはすごい変化だと思うんですけれども、それはアカウンタビリティーを求める社会の要請にこたえだしたということだと思います。そういう意味でいえば、学力テストをやって、公表する。それは全国統一でなくていいと思うんです。県単位でも、どういう形でもいいと思うんですけれども、何かそういうことをやるということは、テーマとして考えて、中央教育審議会で答申することによって学力問題に対するはっきりした返事がそこで出ると私は考えているんです。こうしてほしいという気持ちはありますけれども、これはよく御議論いただいて方向を決めていただければと思うんですが、そんな感じでございます。

○  議論が出尽くした感じがしますが、本格的に野性とか、倫理観を持った、あるいは人間性に富んだ子どもを養成していくとすればどうしても10年、20年かかるわけです。
  そう考えますと、今すぐ着手すべきは何かを考えますと、既にご発言もあったのですが、思い切って保育所とか幼稚園も含めて接続を考えるべきでしょう。世の中が大きく変わってきております、親の感覚も変わってきております、それから子どもの成長も早いので、学齢期を1年切り下げるとしますと、接続のお話もだいぶ変わります。例えば発達段階に応じて、今の6・3・3制の区切りを変えてもいいのではないかと思うのです。したがって、話をその辺まで持っていったほうがいいとも思います。
  それから、上のほうの学年と申しますか、高等教育に至るまでの各段階において、それぞれ独創性、創造性の高い、高い志を持った人格を養成しようといたしますと、小学校へ入る前から、本来の家庭教育を学校へ結びつけて実施することが、急がねばならない状況にあるのではないかと感ずるわけです。今申し上げたような観点からの検討もひとつお願いしたい。
  それから、学力云々のお話は、大学教員だけの発言というお話ですけれども、そうかもしれません。そうかもしれませんが、大事なことです。既に採択の議論が済んだ話題の一つに、飛び級問題がありますが、上級学校でのではなくて、下のほう初等教育の場での採択もあってもいいのではないか。
  実際に外国から来た、大学院生や、ポスドクを見ておりますと、24歳とか25歳ぐらいで学位を取ってきている。一見、果たして役に立つかと思っておったのが、人間的に優れておりまして、学力も随分あり年数を踏んだ例と比較して遜色がない。逆に日本にそういう人材はいないかと、考えますと、実はかなりいると思われます。制度がないためいたずらに足踏みをしている。結果として積極果敢な行動に欠ける人材、あるいは研究者養成になっているのではないか。
  多様化というのは、捉え方はいろいろありますけれども、例えばカリキュラムを豊富にして、その選択枠を変える形で能力の高い人を養成する方式はもちろんでございますが、それと同時に、いつまでも足踏みさせておかない。また、ゆっくりやっても到達度の高い人もいるわけで、これは古今東西の歴史が証明しております。かえって画一的教育のために独創性が抑圧されてしまった具体例を、私どもは目の前に置いて議論しておるわけでございますので、この問題についてもぜひ今度の中央教育審議会のまとめの中で御議論を進めていただき、改革の方向を打ち出せるものなら打ち出していただきたいと思うのです。

○  先ほど他の委員の方からもありましたけれども、実際に高等学校の現場として長いこと苦しんできたのは、大学への入試という問題にどう向き合うかということだったと思うんです。これが今、この審議会で検討される中で、何か大きく変わっていきそうな予感を持ちながら、なおかつやっぱりダメかなと思えたり、もう一つはっきりしません。やはりここまで話し合ったのであるから、日本国中があっと驚くような改革の手だてを打ち出していただきたいと思います。
  例えば、入試に関するこの国の国民性ですけれども、公平であるとか、あるいは客観的であるとか、そういうことが過度に重視され、それなるがゆえに、入試で出される問題もそれにふさわしいようなものというふうな一つの意識がずっとあったわけです。この辺のところからまるっきり変えることができないか。あまり客観性ということを言わない。問題についてもかなり主観テストが入ってくるみたいなことができないか。それから、選抜のしくみについて、納得のいく説明ができるかどうかということもあるわけですけれども、逆に言うと、必ずしもだれが見ても公平というわけにいかない、そういう結果もあり得るよと、こういう主張もあっていいのかなと考えています。
  さて、実際の高等学校では、それに伴って、例えば大学入試センター試験が近づいたから、学校の授業全体をセンター対策にシフトするような、本当にくだらない現実がかなり改善できるのではないかと思います。私も再三申し上げていますけれども、大学入試センター試験は大事です。大事なんだけれども、これが必要以上に力を持たないようにしつけていただきたい。これがあるので、高等学校の知的レベル、あるいは大学の知的レベルもある程度保障されるよと、そういう試験にしていただきたい。
  もう一つ言うならば、各大学でいろいろおやりになっている入試の問題が、これも前に申し上げましたけれども、ここのところ特におざなりになっているという印象が強うございます。これはもうやらなくてもいいのではないか。あるいは、その辺、正直言って大学の側であれはしんどいよというのだったら、やめていただいていい。自信を持って、いや、うちの大学はこれは絶対に必要な試験であり、これによって選ばれた人材は、それなりにちゃんと結果を出しているということが説明できる入試であれば、個々の大学でおやりになるのは結構です。だけども、そうではない大学の入試については、なさらなくていいのではないか。そのかわり、大学入試センター試験を大いに活用していただく。あるいは、そのほか面接であるとか、あるいは受験生どうし討論させてみるとか、いろんな手だてを使って、選抜はおやりになる。ペーパーテストのかわりに、そういう方法を考える。そんなふうにしたらいかがかという提案を前面に打ち出してもらいたいと考えています。
  もう一つ、ここに私立大学の関係の先生方もたくさんいらっしゃるんで、大変言いにくいんですけれども、入試にできるだけたくさんの受験生を動員させて、経営を大きく、有利にするというふうな計算は、大変でしょうけれどもやめることはできないか。選抜というのは必要だからやるということで、経営とは関係ないよというものに徐々になっていけないかと考えています。
  もう一つ、これは後半で出てくるのだと思いますけれども、具体的な教科として非常に心配なのは、外国語の問題とコンピュータの問題です。日本も国際化が進み、生徒の中には達者に外国語を操る、特に外国から帰ってきたような子どもを中心に、そういう若者が結構多くなっています。実際の高等学校の授業では、むしろ先生のほうがたじたじとしてしまうようなこともあったりする。ですから、授業を、使える英語を中心にどんどん変えるべきなんです。そのことがもっと大きく評価されるべきでしょう。英語がそれですべていいとは思いません。翻訳中心の、要するに読解中心の英語もあっていいんだけれども、逆に言うとコミュニケーション中心の英語も大きく評価されて、大学入試につながるみたいなことを早くやっていただきたい。
  それから、コンピュータに興味を持っている子ども。恐らくここにいる顔ぶれの我々とは全然違う、コンピュータに対する感覚でとび抜けた子どもたちが育ちつつあります。これも何かしっかり評価して、そのことが大学、あるいは今後の学問につながっていくというふうな接続を考えてやりたいと思っています。すみません。長くなりましたけれども。

○  私は接続をめぐる問題で、今までに学力低下ということは、きちんと言われているのですが、その中で「現在は、誰でも希望すれば大学に進学できる素晴らしい時代になったと考えるべきである」という意見もありましたが、私もそう思うんです。〈誰でも希望すれば大学に進学できる時代に入った〉=〈学力低下〉という結びつきでいくつかの意見があったように思ったので、私もそこでそうだなと思いながら、また先ほど他の委員の方が学力低下のところでおっしゃった意見の中で、大学審議会か教育職員養成審議会のほうでデータとして学力低下の実際のデータを見たことがありますので、なるほどなと思いながら、ここでちょっと考えが新たになりまして、ちょっと意見として申し上げたいと思います。
  従来の伝統的な学力に加えて、学力の多様化、国際化という切り口があってもいいかなと思うんです。国際化の切り口もあっていいのではないか。というのは、最近、若者たちの傾向の中で、学問に対する関心の広がりというのは幅広くなっていると聞きますし、人間の問題の関係とか、環境問題等々、かなり多様化の中でも一定の普遍性はあるように思うからです。先ほどの他の委員の方の意見に加えまして、学力低下は実際に認めますが、そういった学生たちもいるんだよということも、国際化につなげた意見で何か言えないかと、私はここで意見を言えませんが、そう思っただけでございます。
  それから、これはここの接続のところで言っていいかどうかわからない感想ですが、これは全くの感想ですが、教育問題というか、制度や施設がどんなに変わっても、我々国民一人一人の人生、生き方と教育は深くかかわっているんだということを再認識した文言が必要かなと思います。これは教育だけではなくて、生き方、人生すべてにかかわるんだという文言が中央教育審議会で提案されていかないと、今後も教育というのは、もちろん時代とともに教育観は変わっていくんでしょうが、そういったことの繰り返しになっていくのではないかと感じました。

○  いろいろお話を伺っておりまして、おっしゃったことを文字に小さくまとめることは難しいことだなということがよくわかりました。多様化ということが問題になります以上は、高校学校について言えば、高等学校の先生方あるいは学校自体が多様化という意味を本当に生かしていくような教育をやっていただきたいと思います。
  それと同時に、今度は受けとめる大学側も、いたずらに規模とか、歴史だけを争うのではなくて、それぞれ多様な興味や関心を持った生徒が進学してくるわけですから、それをどうやって生かしていくかというところが勝負になってくるわけで、むしろ個性を出した教育。それは小規模の、あるいは弱小大学と言われるところは、やり方によっては十分やっていけるような時代になってきたんだろうと思います。
  そういった意味で、この問題は抽象的に議論するだけではなくて、高等学校あるいは大学、短期大学を含めまして、学校側の体制と申しますか、あるいは個々の教員の多様化に対する理解がさらに強く求められてくるし、特に少子化に伴いまして、全入時代がだんだん近づいてきている。こういう段階になりますと、入試で学習させるという動機は非常に弱くなってきている。新しい動機づけを上級の学校の方は見つけなければならない。ぜひそういった点にそれぞれ個性を生かして頑張ってほしいというふうな、大学側あるいは教員側の理解を求めるということは、やはり正面から取り上げたほうがよろしいのではないかと思いました。

○  私も一点だけ申し上げたいと存じます。
  中等教育と大学との接続ということになりますと、私も長い間高校に勤めておりましたものですから、大学入試というのがすぐに念頭に浮かぶわけであります。高校と大学との接続に関しましては、今までの審議において、ほぼ細かに出ていたように思います。
  むしろ、この中で取り上げられていないことは何かと考えますと、やや水を差すような言い方になるわけでありますが、例えば大学へ行ける幸せということが議論の基礎になっている感がありますけれども、大学には行かない場合でも幸せはつかみ得るんだという視点も必要ではないか。高等学校が義務教育化になったといわれる昨今、実際には中学校を卒業して本人は社会人になりたいと思いながらも、親御さんが高等学校くらいは出ておかなければいけないということで、高校に合格したものの入学式の日から来ない子どももいるわけです。そういう現実を見ますと、もう少し世の中が複線化していくことが必要ではないか。私たちの審議の中にも、一つの方向性だけではなくて、いろんな方向があるということを示すことも必要かなと思ったりしたわけであります。
  大学の入試に関しましては、難関の大学もあったり、あるいは入りやすい大学があってもいいのではないか。承知して挑戦するというようなことを若いうちから身に付けることもまた必要ではないかと思うわけであります。
  それに関連しまして、先ほど右の脳、左の脳の話が出ましたが、ちょっと思い出したことがあります。一昨年、アメリカのあるハイスクールを見学する機会がございました。ここはスタンフォード大学とか、ハーバード大学にかなりの人数を送っておりまして、大変すばらしい高校だという話でございました。そのとき、私の第一印象は、ここに学ぶ高校生は本当に生き生きしている。もっと別な言い方をすると、屈託のない生活をしているなと思ったわけでございます。日本の場合、高等学校で、例えば普通科で進学を中心とします学校は、それなりに明るくは過ごしておりますが、本当の意味での屈託さがない。そのハイスクールを見まして、この子どもたちは本当に屈託がないと思いました。
  食事のときに、通訳を介して、私もいろいろ尋ねたわけでありますが、自分はこれからスタンフォード大学に行って、お医者さんになってみたいとか、あるいは自分は何々大学へ行ってマスコミで活躍をしてみたいとか、自分の人生の目標を明確にしている。要するに、人生は常に自分との闘いなんだということで、相手との闘いではないという。私はそのことばを大変印象深く思ったことを覚えております。日本の教育も本来そういう方向に行かなければいけないのではないかと思ったわけであります。彼らはそういう意味では、右の脳も左の脳もよく働かせながらやっているのではないか。
  実は先日、ある棋士とお話をする機会がありました。自分は右の脳を使うようになって強くなったように思うと、こういうことを言うわけです。先ほど創造性の話がありましたけれども、全く同じ話を私は伺いました。棋士の場合も、人様の棋譜を覚えるだけでは決して九段にはなれない。今、コンピュータを使って、囲碁とか将棋に強くなった若者がいると言うけれども、あれは報道が必ずしも正しくない。本当に強い人は創造性がなければダメなんだと。それは右をちゃんと使っているし、覚えているだけではないのだということを力説されておりまして、私も教育について、そういうことが本当に大事だなと思ったわけであります。
  大学も、本当に必要な人材を求めるのであれば、例えば医学部で生物を取らない学生がいるとか、この会議でもいろいろ話題になりましたが、必要な科目は入試に課せばいいわけであります。うちの大学はこういう科目を要求しているんだということを面と向かって公表してもいいのではないか。むしろそういう方向も出しながら、審議のまとめなどをしていっていただいたらいかがかなと思います。ちょっと暴論かもしれませんが、以上でございます。

○  接続に関する総論的あるいは基本的な考え方は、私はしばしば申し上げてきておりますので、きょうは黙っていようかと思ったんですが、これは審議の進め方というか、在り方というか、私が心配することではなくて、会長、座長のところでお考えになることかと思いますが、単に接続といっても、そこだけ議論するわけにいかないので、現下の教育上の課題がすべて絡んできている問題であるということは理解しております。
  しかし、基本的な考え方にあるように、生涯学習との関係、あるいは高等学校の在り方、役割分担、大学の在り方、あるいはその理念ということは、ある意味では切りがない話だと思うんです。それ自体、議論に大変時間を要することであるので、次回以降、接続の中心的なところに議論が進むのだろうと思いますが、何人かの方から整理の仕方についての議論も出ましたけれども、そろそろそういう視点で議論をし、あるいはたたき台的なものをもとに議論していかないと、意見を並列的、羅列的なまま開陳するということに終わってしまいやせんかという気が一つはいたします。切りがないことではありますけれども、ある程度切りを打たないといけないかなと思います。
  その中で、先ほど6・3・3・4制について言及したらどうかという、何人かの方の御意見がございましたが、私はうかつに言及すべきではないと思います。これは大変大きな問題で、大変重要な問題であるということは認識しておりますが、単に言及しますと、やはりマスコミその他、短絡的に今の6・3・3・4制を変えるんだという議論がすぐ行われるわけですし、それから下手をすると政争の具に利用されるというおそれもある問題だと思います。したがって、もし言及するのであれば、言及すること自体について相当議論をしないといけないのではないかと、一点、ちょっと気になるものですから、申し上げておきたいと思います。

○  大変な大問題だという印象を強くいたしましたが、要するにこれは文部行政の哲学とは一体何なんだということに非常にかかわってきて、ゆとりとか、自由とか、生きる力ということを言ってまいりましたけれども、あまり自由放任であれば、子どもたちは楽を追求するとう快楽主義に転落していくわけだし、また学級崩壊あるいは学力低下というものにつながっていくわけで、本来の自由とはいかなる意味を持つものかというようなことを、今、皆さんのお話を聞いておって痛感したわけです。
  接続という場に私自身を置いて考えてみますと、これは双方向の問題だと思うんです。要するに、大学サイドからくる流れと、既に現在完了形になっている12年ないしは先ほどお話のございました幼稚園・保育所のほうの14年間、そっちのほうからくる問題とが、まさに接続という場でぶつかり合って、それを一体どうするのかという議論が今展開されておったと思うんです。
  そうしますと、まず、大学サイドから見たときに、どういう学生像をそれぞれの大学が求めておるのか。そのことは、その背後に、日本が21世紀に向かって、どういう社会、国家、あるいは世界像を持って進んでいくのかということと密接に関係してくるわけです。一方、現在完了に終わっている14年間のほうから見ると、そこにはいろいろな御指摘のあったような問題を抱えている。
  結局、これをずうっと考えていきますと、来世紀に向かって、我々の社会、国家、世界が一体どうなっていくのかという視点が、まず大事だと思うんです。そのことは何を意味するかというと、我々はどういう価値観を追求すべきかという問題にもなってくるわけです。先ほど多様性、多様性というお話が出てまいりましたけれども、私はむしろ逆に普遍的なものは何か。要するに、多様性の中における普遍性というのは一体何なんだと。ユニバーサルということで永井さんが言われましたけれども、地球規模の多元的な社会がせめぎ合うような時代に入ってきまして、価値観の違うところが非常に多い。そういう中で、我々日本が心がけるべきことは、より普遍的なものをお互いに掘り起こして、それを共有していく。人権問題についても。そういうビヘイビアが日本にとって大事だと思うんです。
  そうなりますと、そこに忍耐力と寛容の精神というような基本的なものが要求される。それから、市場主義がますます怒涛のごとく地球規模で広がっていくわけですが、これは究極のあれは欲望と欲望の交換になるわけですから、そこに一つの制約というか、道徳的な規律がなければ、市場主義はぶっ壊れてしまうわけです。最近は、ソロスですら、ヘッジファンドについて批判をしておる。
  それから、先ほどお話も出ましたが、情報通信革命についても、これは絶対に必要なものではございますけれども、バーチャルリアリティーの世界という影の局面が多い。自分の部屋で一所懸命情報通信かなんかでいろいろやっていって、バーチャルリアリティーの世界で、それをいかにもリアルなリアリティーのごとく錯覚を起こすような子どもたちがどんどん出てくる。このことは何を意味するかというと、結局、人間性が疎外されるようなファクターが21世紀においてますます大きくなってくると思うんです。
  そうすると、その人間性の疎外をいかにして抑止していくかということが、教育上も非常に大きなテーマになってくるわけでありまして、この接続の場において、要するに学力だけの問題ではなくて、その人物というものをいかに評価し得るかどうか。これは私にはわかりません。あるいは、その人物のNPO活動とか、いろんなことがあるでしょう。それから、中学校あるいは高校から大学を貫いて、リベラルアーツを今よりもさらに強化していく必要があるのではないかと私は思います。
  このごろ、私、18世紀、19世紀のあれを見ておりますと、例えば20世紀に入りまして、ケインズという経済学者が出てまいりましたが、彼がやはり非常に勉強したことはモラル・サイエンスなんです。つまり、モラル・サイエンスという概念が、ヨーロッパの学術の中に伝統としてあると思うんです。それが哲学というものとサイエンスが分離しちゃった。しかし、本来あるべきものはモラルを追求するためのサイエンスなんです。だから、政治も、経済も―我々は経済人ですが、その究極の目標はモラルの実現にあるべきなんです。そうなると、モラル・サイエンスという視点から、それでは接続をどう考えるのかということも大事ではないかと私は思っております。
  もう一つは、大変言いにくいんですけれども、指導者というものをどう考えるのか。指導者論というのは、政治の世界においても、経済の世界においても、一般の社会においても大事だと思いますけれども、大衆化された大学の中において、一般的な階層の人と指導者に将来的になっていく人たち、そういった人たちの教育を今後どう考えるべきなのか。これは非常に難しいところでありまして、平等という価値観に立てば、そういうことはなかなか難しいかもしれませんが、欧米においては御案内のとおり、指導者層の教育ができるようなシステムになっているのではないか、こんなような感じがいたしました。
  大変熱心な論議をありがとうございました。

○木村座長  本日はどうもありがとうございました。



(大臣官房政策課)

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