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中央教育審議会

 1999/2 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第5回)議事録 

   中央教育審議会  初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第5回)


  議  事  録

  平成11年2月24日(水)    13:00〜15:00
  霞が関東京會舘  34階      ロイヤルルーム


  1.開    会
  2.議    題
      大学入学者選抜の改善について
  3.閉    会


  出  席  者
  委  員   専門委員   事務局
  木村座長   荒井専門委員   佐藤事務次官
  薄田委員   安齋専門委員   梶野生涯学習官
  坂元委員   岡本専門委員   辻村初等中等教育局長
  田村委員   工藤専門委員   清水大学課長
  永井(多)委員   黒羽専門委員   高   総務審議官
  横山座長   小嶋専門委員   杉浦政策課長
  高鳥専門委員   その他関係官
  永井(順)専門委員
  橋口専門委員
  久野専門委員
  山極専門委員
  山口専門委員
  四ツ柳専門委員

  意見発表者
  耳  塚  寛  明  氏(お茶の水女子大学文教育学部教授)
  池  田  輝  政  氏(メディア教育開発センター教授)


○木村座長    それでは、時間になりましたので、ただいまから中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第5回になりますが、始めさせていただきます。
  委員、専門委員の皆様におかれては、お忙しい中、本会議に御出席賜りましてありがとうございました。
  本日は、「大学入学者選抜の改善について」審議をお願いすることといたしておりますが、これらに関しましてお二方から御発表をいただく予定でおります。お一人は耳塚寛明お茶の水女子大学教授、もうお一人はメディア教育開発センター教授の池田輝政様です。 それでは、まず配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長    ありがとうございました。よろしゅうございましょうか。
  冒頭申し上げましたように、本日は「大学入学者選抜の改善について」ヒアリングを2件、その後自由討議をお願いすることになっております。
  まず最初に、事務局のほうで「大学入学者選抜の改善について」説明をお願いしたいと思います。

<事務局から説明>

○木村座長    これについて御質問等ございましたらお願いしたいと思います。どなたかございませんでしょうか。

○  高等学校卒業者144万人は、今後120万人台ぐらいまで下がるということもありますが、入学志願者の中で、いわゆる専門高校、職業高校等の志願者というのは大体何%ぐらいになるのか。選抜のところに、「その他」で「専門高校・総合学科卒業生選抜」が0.05%となっていますが、こことの関係はどういう構図になっているのか教えてください。

○事務局    「その他」というのは、一定の枠を設けて、別な選抜方法で実施するという配慮の例でございまして、入学志願者における割合については、後ほどお答えさせていただきます。

○木村座長    只今の質問は、専門高校の卒業者の志願についてですね。

○  ええ。どのくらいが大学入学志願しているのか。

○木村座長    志願者は相当多いと思います。私、理科教育及び産業教育に関する審議会の会長を務めておりましたので、パーセンテージははっきり覚えていませんが、意欲としては非常に高いことを知っております。
  ほかに。よろしゅうございますか。
  それでは、ヒアリングに入りたいと存じます。最初にお願いいたしましたのが、耳塚寛明先生です。耳塚先生は、お茶の水女子大学の教授でいらっしゃいまして、御専門は教育社会学でございます。「我が国の大学入学者選抜について―高等教育大衆化の中での大学入学者選抜の課題について―」、20分ほど御発表いただき、その後、質疑応答をお願いできればと思います。
 それでは、耳塚先生、よろしくお願いいたします。

○耳塚意見発表者    お茶の水女子大学の耳塚でございます。
  レジュメを準備させていただきました。最初の2ページがレジュメの部分に該当します。残りの3ページから8ページまでが参考資料、データ等になっております。(※1)
  では、資料の3ページ目を御覧いただきたいと思います。まず初めに、既に御承知のことと思いますが、大学と短大への受験状況が近未来にどう変化するのかについて、データを確認するところから始めさせていただきたいと思います。
  資料の3ページの「表1」に、平成11年の1月にリクルート社から出されました予測をもとに、シミュレーションを行ったデータを挙げておきます。18歳人口の減少とともに、高等教育の入り口である大学受験は大きく様相を変えることになります。その変わり方を、非常に単純なものですけれども、「競争度指数」という指標をつくって示したのがこのデータになります。「競争度指数」と申しますのは、要するに入学者の数を志願者数で割ってやった数値、これが右から二つ目の列の数値でございますが、これを100から引いてやったものでございます。
  この予測によりますと、一番下の行を御覧ください、2009年の受験競争度はゼロということになります。つまり、志願した者が全員入学できる計算になるわけであります。ちなみに、現在のこの数値は21.2であります。「競争度指数」がゼロになるのは、この前年、2008年ぐらいであると予測がされています。競争度がゼロであるということは、無選抜状態であるということになります。
  実は「競争度指数」の低下は、今に始まったことではございませんで、既に数年前から着実に低下してきております。今さら大衆化した大学入試を議論すべきではないということも言えるわけであります。もっと早く問題視すべきであった現象だと思います。これまで日本の教育政策は、過熱した受験競争という幻想にとらわれ過ぎていたのではないか。この幻想のもとに、受験競争を諸悪の根源扱いして政策が構想されてきたのではないかと思います。
  実はこう述べますのは、やや極論に過ぎるかもしれません。例えば、97年の中央教育審議会答申では、注意深く少子化の影響に既に言及しております。受験競争の問題は特定の大学をめぐる問題だと的確に指摘がされているわけであります。しかしながら、いざ大学入学者選抜の改革を提案する段になりますと、この限定が取り払われて、選抜方法の多様化や価値尺度の多元化が一般の大学入試に必要であるというふうに問題がすりかえられてしまっています。結果として、答申全体を貫く問題認識が、受験競争に巻き込まれた子どもたちの生活からゆとりが失われていて、過度の受験競争に神経をすり減らされて、豊かな人間性をはぐくむことが困難になっているというものになっておりました。
  この意味で、今回の中央教育審議会のテーマ設定の一つは、高等教育大衆化の中での大学入学者選抜の問題というわけですので、日本社会を覆う過熱した受験競争の幻想から免れたという、この意味ではエポックメーキングなものではないかと思います。ただし、エポックメーキングであるということは、中央教育審議会の連続性という観点から見れば、人々やマスコミから違和感を持って迎えられる可能性もあるということであります。
  今、「受験競争度指数」がゼロになってしまうということを言いました。無選抜状態であると申しましたが、しかしこれは当然のことですが、高等教育の器を全体として見た場合の予測であって、現実的ではありません。
  まず、いわゆる威信の高い大学について考えてみます。戦前、戦後を通じて特定のエリート校への志願者の集中が緩和されるということはまずありませんでした。志願者全体に対して高等教育定員が不足しているとは言えない状況のもとでも、特定の旧制高等学校には志願者が殺到していました。この事実だけでも、近未来における威信の高い高等教育機関への受験競争の過熱を予測するのに十分なデータではないかと思います。そのほか、教育と職業の結びつき等の状況を考えますと、少なくとも威信の高い大学への受験競争が緩和される、あるいはこの構造を劇的に変えるような要素は見当たらないのではないかと思います。
  ただし、威信の高い大学への受験競争の参加者というのは、今日よりも特定の階層、あるいは特定の中学校・高等学校に限定されていく可能性があるかもしれません。
  資料の3ページ、「(1)教育機会の階層間格差」のところを御覧いただきたいと思います。階層間格差については、これまでにも比較的多く研究が行われております。親の学歴とか、職業とか、所得による不平等というのは、教育機会全体は拡大してきて、また国民全体の高学歴化も進んでおりますが、にもかかわらず戦後一貫して変化しておりません。つまり、特定の階層の出身者が有利な状況が続いてきております。そして、この階層差は、階級社会のイギリスやマイノリティーの問題に悩むアメリカに決して引けをとらない程度の大きさであるということが知られております。
  問題は、この後、入試システムの面でも、求められる学力の面でも、あるいは卒業者の進路の面でも、あるいは社会的な機能の面でも、大学が威信の高い大学と大衆化大学に一層分極化していったときに、高等教育機会の階層間格差がどうなっていくかということ、これが問題であります。
  家庭の経済力が高等教育進学に与える影響は、戦後から70年代にかけて徐々に小さくなってきたことが知られています。しかし、最近出された岩波新書で経済学者の橘木さんが示していることですけれども、所得分配の不平等度は、ここ10年間に日本社会では急激に高まっております。日本より高い国は数えるほどしかなくなってきております。この日本社会における所得分配の不平等の高まりが、教育機会の格差の問題にいかなる影響を与えたのかということについては、実はわかっておりません。教育政策は、今後、こうした政策が意図した効果だけではなくて、その背後で階層間格差に与える潜在的な影響に常に配慮していかなくてはならないのではないかと思います。
  資料の1ページに戻らせていただきます。今は威信の高い大学についての問題を申し上げましたが、合格率の飛躍的な上昇の恩恵にあずかるのはいわゆる中・下位学校ランクの高校生たちということが言えます。ここにこれまでの「選抜=受験競争」時代から、「選択=脱受験競争」時代へという新しい時代が到来していることになります。ここではもはや大学が学力によって学生を選抜する権利が消えて、学生が大学を選択することになるということであります。
  同時にここでは、教育情報サービスにも大きな変動が起こると思われます。資料の1ページに「(1)」から「(6)」として、教育情報がどのようなものに変わっていくのか、どういう情報が求められるのかといったことを整理しておきました。要するに、高校進路指導が困難の度合いを増して、ますます教育情報産業への依存を強めていくのではないかということが指摘したかったことであります。
  さて、第2のセクションですが、大学生の学力の変容について述べたいと思います。
  人口減シンドロームの中で、我々大学人が、そしてまた日本の高等教育にとっても、恐らく最も重要な局面は、入学してくる学生の学力の変化であろうと思います。大学生の学力の低下をもたらすと考えられる要素は、次元がいろいろあるんですけれども、それらを含めて考えてみますと、レジュメに挙げたようになります。
  第1に、少子化の影響が直接そのようなことをもたらす。つまり、大学へ入ってくる学生たちが、同世代の能力分布において占めている位置を考えると、これは明らかに下方へシフトするということが言えます。
  第2に、「勉強しないと大学へ行けないぞ」圧力というちょっと変な表現ですが、これは前朝日新聞記者の山岸さんの表現をかりたものですが、「勉強しないと大学へ行けないぞ」圧力が低下します。「脱受験競争」時代がやってまいりますと、高等学校以下における「勉強しないと大学へ行けないぞ」という圧力が低下する。
  さらに、大学教育が特色化されて、入試が多様化していくことによって、これまでの偏差値による一次元的な大学の序列は徐々に崩れていく。高校生の上昇移動欲求に基礎づけられた学習意欲は確実に低下する。入試科目を異にする大学を比べたり、さらには学力によらない選抜方式をとる大学を序列づけることは不可能だからと言えます。これらは高等学校格差をある部分あいまいなものとすると同時に、高等学校以下における学習への動機づけを小さくして、全体としての学力水準の危機を招くであろうと予測できます。
  学力水準が低下するだけではありません。先ほども若干紹介されていましたが、入試科目の少数限定であるとか、あるいはそれに伴う効率的な進学指導体制の強化は、バランスを欠いた学力をつくり出すであろう。
  様々な学生ニーズへの大学の適応は、入試方法にもあらわれておりますが、それは特定の入試科目のみ必要に応じて、かつ早期から効率的に履修する高校生の学習パターンを定着させることになります。新タイプの高等学校の新設とか、選択の幅を広げるという高校教育改革の動向もこれに拍車をかけるであろう。大学は、こうした全体として水準低下を来した、しかもバランスを欠いた学力を持って入学する学生たちの教育機関となるわけであります。
  大学が問題になるだけではなくて、実は高等学校以下にとっても、学習することに対して打算的な関与から放たれた青少年を、学校や「学び」へとつなぎとめる手段を学校は一体持っているのかという、非常に難しい問題に直面させることになります。
  以上、簡略化して申し上げた要素を整理したのが、資料の1ページの下から2ページにかけての箇条書きの部分でございます。
  このうち何点かだけに絞ってデータを御覧いただきたいと思います。まずは高校生の学習時間につきまして、資料の4ページを御覧ください。データの出典は、時間がございませんので、お読みいただくことにしたいと思います。資料の5ページの下に記載してございます。
  まず、現在、高校2年生が家に帰ってどのぐらい勉強しているかということですが、平均しますとおよそ1時間、60.6分ということになります。資料の4ページの「図1」で分布を見ますと、「ほとんどしない」者が35.9%ですから、3分の1強ということであります。しかし、この学習時間は、いわゆる学校ランク、学校種別によって差が著しく大きいと言えます。それを整理したのが資料の4ページの「(1)」の下に書いたデータであります。専門高校では平均すると10.9分、77.2%が、家でほとんど勉強しない層であります。
  続いて、資料の5ページの「図2」です。これは1979年と1997年を同一の高等学校を対象にした調査から比較をしたものであります。平均勉強時間は全体で94分から60.6分へとおよそ30分減少しております。3分の2になりました。また、ほとんど勉強しない者の比率も22.3%から35.9%、つまり5人に1人から3人に1人へと増加を見ました。
  これを高等学校卒業後の進路志望別に見るとどうなるか。つまり、大学から見て、学習行動という点で、どういう層の生徒たちが大学へやってくるかということであります。20年前と比べますと、短期大学では1時間強、私立の四年制大学では30分、国公立の四年制大学では50分、家での勉強時間が短い層を受け入れていることになります。今や四年制大学の私立の志望者は、高校2年生の段階で3分の1が家で勉強しない層を受け入れていることになります。国公立の四年制大学志望者ではそうした層は少ないんですが、それでも1割強は家でほとんど勉強しない層であります。
  次に、学力低下に大学入試の在り方が影響を与えているということについては、日本を代表する私大の人文系学部の数学系受験者の8割以上が2次方程式を解けないという調査結果があります。要するにトップランクの大学であっても、2次方程式が解けない学生が相当数いるというわけです。特にこのデータが示しているのは、受験科目として数学を置いたかどうか、つまりそれを取ったかどうかということによって、数学の基礎学力が著しく異なってくるということであります。入試と学力の修得の密接な関連がこのデータからわかるわけであります。
  それから、資料の7ページの「(3)新タイプの高校における科目選択 」。新タイプの高等学校での科目選択がどのようになっているかということを、新しいタイプの高等学校を精力的に観察した研究者による発言を要約したものであります。
  資料の2ページに戻ります。基礎学力の変容というところです。基礎学力の変容についてはポイントが三つありまして、「水準低下」「散らばりの拡大」「偏り」、この三つではないかと思います。
  問題は、こうした状況の中での大学入試をどうするかという点であります。この問題について、データに基づいてとり得る政策的な選択肢を挙げることは、結論から言って不可能であったといわねばなりません。しかし、主として4点指摘しておきたいと思います。
  第1点、これは当然のことですが、高等教育が全体として一枚岩的に何らかの対応をすることは困難であるだけではなくて、意味がない。ユニバーサル段階へ入っていこうとする高等教育が、機能的にも分化するし、大学教育への期待も分かれていくであろう。大学の中には、教育に重点を置く大学、専門職業教育に重点を置く大学などが出てくるであろう。また、今日までもそうでありました。むしろ短期高等教育機関であるとか、専修学校、専門課程も含めて、トータルに中等教育後の教育機会を考えてみますと、高等教育機関は一枚岩的な存在であるというよりも、これまでの高等学校並みに機能分化すると考えたほうが自然であろうかと思います。
  第2に、高校教育、とりわけその多様化と大学教育との関連についてであります。高校の多様化に応じて、大学での入試とか、あるいは教育を変化させるべきであるという議論は、極論を言えばやや奇妙ではないかと思います。大学は大学が社会的使命を果たすために、大学教育に何が必要であるのかを考え、そのための基礎を高校教育に要求すべきではないかと思います。
  日本の高等学校の特徴として、(これは資料の7ページの「(4)バートン・クラークによる日本の高校の構造的特徴 」として)バートン・クラークというアメリカの社会学者、高等教育研究者の整理を挙げておきました。日本の高校教育が持ってきた構造的な特徴とされるものを挙げておきました。それはどういうことかといいますと、アメリカのハイスクールは、理念とか、行政とか、教育内容、教育組織の点で、初等教育と結びついてきた。それに対して、我が国の高校教育は大学と結びついていた。特に日本の高校教育のカリキュラムの範囲と水準は、実質的には大学入試によって強くコントロールされてきた。これをバートン・クラークは「upward  coupling (上級学校との接続)」と呼んだわけであります。
  しかし、「選択=脱受験競争」時代になると、この構造的な特徴は崩れてしまうということになります。つまり、大学側が入試という手段を通じて、高校教育の学習内容をコントロールできなくなる。そうなったときに、一体、高校教育は高校教育の責務を果たしているかどうかということを、どう評価したらいいのか。これまではその評価といいますか、コントロールは大学入試が機能的に受け持った。ところが、それが不可能な事態が出現する。高校教育が多様化した場合に、高校教育の達成度を評価する機能なり機関が入試以外の手段として必要となるのではないか。
  多様化が進展するということは、どこかでそのコアを確保して、高校教育の達成度を確認する、チェックする機能が必要になることを意味します。その役割をこれまでは大学入試が果たしてきた。その役割を大学入試が果たし得たのは選抜型入試の時代であったからです。器と志願者のバランスが逆転した時代、「選択=脱受験競争」時代には、大学入試にその役割を期待することは困難になろうかと思います。だからこそ、学校段階は自己責任の原則に基づいて、意図的に達成度の評価機関であるとか、高校教育の水準維持機関を持つ必要が出てくるのではないかと思います。
  第3点。ではもっと具体的に言って、どうしたらいいのかという点であります。資料の2ページの「(3)学力の水準確保とバランスある『学力』の回復」というところを御覧ください。
  威信の高い大学にあっては、既に予測しましたように、当分の間は選抜型の入試が可能であります。入試を武器として、高校生の学習についてある程度コントロール可能だということになります。ただし、一種の買い手市場に甘んじまして、何もしないというわけにはいかないだろう。第1に、大学が求める学力の理念を入試に表現をするという必要があろうかと思います。また、さらに手に入れた学力を伸ばす上での効率性が求められるのではないかと思います。
  問題は、大衆化大学のほうであります。ここでは「選択=脱受験競争」型の入試が支配的となります。高校生の学習内容をコントロールできない。そればかりではなくて、むしろ消費者としての志願者のニーズに入試の場面でも適応することが必要になってきます。大衆化大学では、入試という変数を操作することによって、高校生の学習行動をコントロールできる余地は大変に小さいと考えなければなりません。残されたのは、先ほど述べましたように、高校教育の水準維持機関あるいは達成度の評価機関にこの任務をゆだねることではないか。そのぐらいしか残されていないのではないかと考えます。
  しかし、大衆化大学、もしかしたら威信の高い大学にも通ずることかもしれませんが、この大衆化大学において水準確保という点から見て重要なのは、学力だけではない。やや大学入試を外れてしまいますが、いまひとつ非認知的な側面である価値や規範、行動標準あるいはディシプリンの問題、こうした問題にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
  資料の7ページ、8ページに、この点にかかわる参考資料を挙げさせていただきました。研究者が観察の結果、指摘している事柄をピックアップしてきました。
  学習行動から推察することができますように、大衆化大学は、これまでの非進学者層を相対的に多く受け入れる大学であります。例えば、トーマス・ローレンは日本の高校教育を観察したわけですけれども、日本の初等中等教育の偉大な成果というのは、すばらしいエリートを養成したところにあるのではないということをはっきり言っております。一般の人々の能力水準を高めたことにあると言いました。ここで言っている能力というのには、狭い意味での学力だけではなくて、あるいは技能を指すだけではなくて、平均的日本人の行動が高度に社会化され、秩序ある社会、効率的な社会、教育ある社会を実現してきたというわけであります。日本の青少年に対する社会化は、効率的で生産性の高い経済を生み出したばかりではなくて、非常に安定的な社会を実現してきたと指摘しています。
  次に挙げました小池和男さんらの調査は、日本の労働者の生産性を指摘したものですが、生産性が高いという日本の労働者の特徴は、もちろんOJTに由来するとされています。しかし、そのOJTが優れていただけではなくて、職業の世界に入る以前に日本の青少年が決定的に重要な社会化を受けてきたのだという指摘があります。この点を見逃してはならないであろうと私は考えます。
  私が述べたかったのは、こうした日本の普通の青年層の社会化の面での変質の恐れと、そのもたらす全体社会へのインパクトの大きさです。国際的に見て優れた行動規範を持った、そして経済的な生産性に寄与し、効率的な社会を実現してきたとされる普通の青年層をどうやったら維持できるのか。この維持機能を大衆化大学が果たさなければならないのではないか。その意義は学力水準の維持にも増して大きいように思われます。
  冒頭に、ちょっと古いデータですけれども、1987年に当時のベネット教育省長官(アメリカ)が日本の教育を観察して言っていることを挙げておきました。ちょっと不適切な発言があるかもしれませんが、要するに日本の教育は普通の人々をよく訓練してきた。そこに美徳があった。上、つまり高等教育は魅力に乏しい面もあった。しかし、魅力に乏しいと言っても、今、日本は教育改革を進めているところだから、見ようではないかと言っていたわけです。
  では、10年以上経過した今、日本の教育はどうなったのか。大学審議会の答申が出され、高等教育も変わろうとしている。しかし、世界に卓越した高等教育システムができ上がったかといえば、少なくとも今の段階では決してそうではありません。日本の教育で最も変わったのは、初等中等教育のほうではなかったのか。極論ですが、卓越していると評価の高かった、あるいは日本の教育の美徳とも言えた初等中等教育は崩壊の一途をたどろうとしている。
  つまり、これまで下のほうで持ってきた日本の教育が、上も下もだめになりつつあるということではないのか。何らかの変革が近々起こるだろうとベネット長官は見た。その近々起こったことが、上も下もだめになったということではなかったのかというふうに、極論すれば見ることもできるのでないかと思います。

○木村座長    耳塚先生、ありがとうございました。大変興味ある御発表であったと思います。いかがでございましょうか、今の御発表に対して御質問がございましたらお願いします。

○  大変いいお話をいただきまして、久しぶりに耳塚先生のお話を聞いて懐かしかったんですけれども、これはどうかなと思いましたのは、高等学校卒業資格を考えるべきだというお話をされたんですが、私は現状で言うとすれば、大学卒業の資格をプロフェッショナル・プロフィシェンシー・テストという形でチェックするほうが本筋ではないかという気がします。
  つまり、入試で高等学校から大学へ行くときにチェックできないというのであれば、ほとんどが大学へ行くという事態の中では、むしろ大学教育を修了した学生の学力をテストするほうが筋ではないかということが第1点です。それについてどうお考えになられるか。ですから、高等学校卒業資格をテストするという以前に、大学卒業の資格を議論するという意味のほうが大きいのではないか。
  2点目ですけれども、初等中等教育が崩壊しとおっしゃっている理由について、学力の問題だけに中心を置かれる形での議論を進めておられるんですが、実は日本の高校生なり中学生が、みんなと一緒にやるとか、友達関係にすごく神経を使っているという状態は、別に学校がやっているのではなくて、日本の社会とか、日本人そのものの資質なんですね。ですから、学校がそうやれと言っているのではないんですが、そういう意味ではみんなでやることを大事にするとか、みんながやっているからやるんだというところが、もともと非常に強くあるわけです。これは学校のシステムとはかかわりなく、実はそのことが現代における産業社会に非常に有効に働いたということで、日本人がこのように経済成功したんだという指摘もあるわけです。ですから、学校制度にそれを求めるのは、どうかという気もするわけです。
  学力にかかわっていうと、むしろ今まで教え過ぎていたのではないか。つまり、七五三という現象があるわけです。小・中・高ということで、だんだんわからない人が増えている。そのことを無視して、高等学校までの教育の内容についての改変を先生が御指摘されるということについて、いまひとつ理解が十分できないので、御意見をいただければと思います。

○耳塚意見発表者    第1点についてですが、高等学校卒業資格ではなくて大学卒業資格でチェックするほうが筋ではないかという御意見でした。私が申し上げたのは、各教育段階が各教育段階についてチェックする必要があるのではないかということであります。これまでは大学入試がそのコントロールの機能を果たしてきたけれども、そのコントロールがきかなくなる部分がある。そうなると、そこはどこか別の機関なり機能が必要になるのではないかという意見です。
  第2点ですが、日本人の行動標準とか、規範とか、あるいはディシブリンの質が高いといったことについては、学校教育の成果としてこれをみなすことが妥当であるかどうか。むしろ学校教育は無関係で、日本社会の文化的な問題として把握したほうがいいのではないかという御発言だったと思います。そのような考え方もあろうかと思いますが、これは意見がぶつかり合うだけで、正解はたぶんないと思います。
 私がきょう示したのは、もちろん学校教育だけがつくり上げたことではないにせよ、学校教育は非常に大きな貢献をしたということを、観察の結果やデータをあげて、示させていただきました。学校教育は重要だったと私は思っています。

○  先生のお話を伺いまして、二つの大きなメッセージあるいは先生の憂慮があると思いました。両方とも国家的なものですが、一つは広い意味での学力水準。これは単なる知識や技能だけでなくて、動機づけから価値観から、行動パターンまで全部含めて、学力水準が低下していくのではないかということを憂慮してられるようでございます。もちろん日本が鎖国状態にありましたら、初等中等教育段階でも、高等教育段階でも学力が下がっても、日本はうまくアダプトしていくのでしょうけれども、もちろんそのようなことがあるはずはなく、国際間で協調しかつ競争するときに、これは大変憂慮すべき問題だということが、先生の一つのメッセージだと思います。
  もう1点は、階層間の社会的不平等がある。特に高等教育の機会が均等でない。これは当然、知識のディストリビューションなり、あるいはパワーと結びつくから、不平等は今後も少なくとも維持されていくし、先生のお考えを延長して考えると、今後も縮小されるというよりは、むしろ拡大する可能性がある。
  この二つの憂慮をメッセージとして受けとめたのですけれども、今後、我々は何をすべきか、どのような道があるかというときに、この両者はどのような関係にあるのかということが、もう一つよくわからなかったのでお教え願いたい。
  それから、もう一つ、それと関係いたしますけれども、将来、大学が全入状態になるということは、いろんな方がおっしゃっていますが、一つのやり方としては、どういうふうにやるかわかりませんけれども、高等教育を縮小することを考えてもいいわけですね。それはまずいのかどうか、どのような問題点があるのか、それをお教えいただいたらと思います。ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、よろしくお願いいたします。

○耳塚意見発表者    恐れ入ります。最初のほうの質問を簡単にもう一度おっしゃっていただけますでしょうか。

○  はい。二つの憂慮を私は受けとめました。広い意味での国家的な、学力という言葉だけにしておきますが、動機づけから行動パターンまで全部含んだ水準での低下で、国際競争力が失われるのではないかという心配が背後にあるように思いました。そのような憂慮と、もう一つ、他方で不平等が維持あるいは拡大されている。これは少なくとも社会学の視点からは憂慮すべき問題だということで指摘されたのだと思います。何かの方策を考えるときに、この二つについて対処する方法が矛盾することはないのか。うまく対処の方法があるのか。その二つの関係がよくわかりませんでしたので、それをお伺いしたいということでございます。

○耳塚意見発表者    最初の御質問についてですが、これは非常に難しい問題で、たぶんバランスの問題になってくると思います。つまり、学力水準のほうを上げようとすると、一定程度、教育システムの中での階層分化は避けられないであろうと思います。うまい解法はありませんが、しかし今までの日本の教育システムは、その辺についてうまくバランンスを取ってきたのではないかと思っています。
 二つ目は、確かに高等教育の水準を維持するという観点から考えてみると、高等教育の器自体を縮小してしまうという選択肢もないわけではないであろうし、現に政策的にはそのような配慮があった時期があったのではないかと思います。しかし、いま、現実的にそのようなことは可能でしょうか。

○  それは自然に任せておいたら無理でしょうけれども、絶対ないとは言えないと思うのです。高等教育機関が本当にサバイブし、社会の中で機能を果たしていくために必要だと考えれば、絶対不可能とも思えない。歴史的にそういうことが今まであったかどうか全然存じませんが。

○  大変鋭い御指摘をたくさんいただきましてありがとうございました。
  一つ特に御質問申し上げたいのは、威信の高い大学と大衆化大学と二つに分けて、それぞれ学力の面での貢献、ディシプリンの維持への貢献を御指摘いただいたんですが、ほかのところで入試が、子どもの学力に大変大きな影響を持っているという指摘もありましたので、それを考え合わせると、大学へ入るすべての人に例えば大学入試センター試験みたいなものをしてもらう。高等学校卒業者ではなくて、大学入学者としてです。
  もう一つは、その中に、あるいは別かもわかりませんが、何らかの形で社会規範を維持するファンクションの評価をする。こういう2種類の評価を、大学へ入る人すべてに何らかの形でするということの、実現可能性までは別としまして、意義はいかがお考えでしょうか。

○耳塚意見発表者    私は、具体的な方策として提案することはしませんでしたが、ご指摘のような意見はあり得ると思います。実現が可能であるかどうか別の問題としていえば、また入試という形でそれをやるのかどうかは別として、その二つの点についてのチェックは非常に重要になってくるのではないかと思います。入試の一部としてやるのか、それとも別の形なのかはわかりませんが。

○  私もある意味で大変ショックを受けながら聞いていたんですが、ありがとうございました。
  一つ、先ほどから水準の低下の問題が議論されておりますが、今、たまたま私どもの工学関係の話で、4年生を終わったときに国際的に通用するエンジニアのグレードの相互承認という問題が出てきております。ちょうど工業規格におけるISOとJISの関係のようなものでございます。ですから、日本一国が孤立してある水準を自由に動かせる時代ではもはやなくなってきている。インターナショナルに学士というのはどんなものかというグレードが相互に承認されるようになってきている。それを考えますと、そのあたりも考慮に入れて大学はどうあるべきであるかと。そうすると、関連して初等中等教育がどうあるべきかという問題と接点が出てくると思います。
  ただ、初等中等教育の部分につきましては、単純に学力だけの問題でない、大変厄介な問題を含んでおりますが、私ども工学の立場で国際的に通用するエンジニアといったときには、学力がどれぐらいのウエートを占めるかは問題ですが、大きく分けて4項目だろうという議論がされております。第1項目が基礎の学力と専門の学力、第2項目がそれを使いこなす能力といいましょうか、いわゆるダイナミックに使いこなす能力、第3項目がそれをベースにして相手と交渉して説得したり、自分の提案を伝えたりする能力、第4項目が戦略とか志にかかわる資質だと思います。これらをあるバランスで持っている状態が、我々が想定している国際的に通用するエンジニアだろうということを考えています。
  そうすると、どうしても初めのほうの二つについては、初等中等教育の中でかなりしっかりした、でき上がっていなくて当然いいわけですが、芽はつかんでいないといけない。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、その辺の考え方はむしろ小学校に入るあたり、もっと前かもしれません、家庭教育が入ってくるかもしれませんが、その辺の強さが恐らく日本の過去の家庭生活の中と初等中等教育にはあったのかもしれないという気持ちがちょっとありましてね。
  その辺も含めてお伺いしたいポイントは、私も先生御提案のとおり、可能ならば何らかの中間チェックが各段階であった上で、それの発展系として初等中等教育の完結の水準、それから大学の出口の水準が定まっていくのがいいのかなと思っていたものですから、その辺につきまして、若干前の御質問と重なりますが、御意見がございましたらお聞かせください。

○耳塚意見発表者    御質問であったんでしょうか。もう一度おっしゃっていただけますでしょうか。

○  初等中等教育の中に占めるものについて、先生のお話は学力のほうにウエートがかかっていたんですが、そのほかのパラメーターの評価というか、見方について、もし補足していただければという点が1点です。
  もう一つ追加させていただきますと、高等学校までの水準が30%下がったという議論がなされていたわけですが、受験の科目の数の議論もあるかと思いますが、ある科目を減らしたことによって起こる事態ですね。典型的に言いますと、生物と化学と物理、三つあって、学生がどれか一つを取らなくなったらどうなるかという議論があります.そのときに知識量は何分の1になるか。これは三つある中の一つ減ったから、3分の2ではないんです。生物と化学の中間領域があるし、物理と化学の中間領域があるし、お互いにありますから、いわば3軸とっただけでは3次元の空間になりますから、どれか1本とると実質的には無限大分の1に小さくなってしまう。
  ですから、どんどん受験の形態が変化する中で、初等中等教育が受けている影響というのは、大学側からの試験の影響でそうなっている部分は多分にあるんですが、その辺を立て直す何らかの手法が、中間の評価の段階で要るのではないか。入試として要るから要るのだというのではなしに、本来身につけておくべき素養として何か中間段階のチェックがあれば、ドラスティックな削減を避けられるのではないかということをちょっと考えているものですから。

○耳塚意見発表者    二つ目の御質問につきましては、むしろ私のほうが勉強させていただきましたが、威信の高い大学のほうでは、それはより直接的に科目数なり求める学力の理念も入試の形で表現することによって、大学が求める一定程度学力を身につけた学生を手に入れることは可能なのではないかと思います。難しいのはやはり大衆化大学のほうで、ここでは大学側がこういうのを欲しいと言ったところで、むしろ大学は消費者としての学生のニーズに適応するほうに精いっぱいでして、立場が違う。だからこそ大学ではない何らかの、恐らくこれは高等学校は高等学校なりのというか、自己責任においてそれをチェックする機能を持たなければならないのではないかということを申し上げました。ただ、科目数と能力というか、その関係については大変勉強になりまして、ありがとうございました。
  最初のほうの点につきましては、きょう持ってまいりましたのは、資料の7ページにございます「(5)トーマス・ローレン『日本の高校』の観察 」と「(6)日本の労働者の生産性と、青少年の社会化   」の点でございます。これをお読みいただければと思います。

○  高等学校程度までの、要するに中等教育の達成度を外部にというお話で、これは一つの御提案として、ほかの方からもありますし、大変興味深い御提案ですが、私もこのイメージをあれこれ考えてみるんです。
  今、高等学校なり何なりですと、学校の先生というのは身近な子どもたちですので、多少学力が保証できなくても、何とか卒業させてやろうというような人情が働きますよね。それが日本人の特徴だと思います。さして学力がない者を高卒としてしまうということで、その後、高等教育のほうに入っていくと、また入試のほうで苦しむというパターンになるわけです。また,大学の方は高等学校を信頼しないということにもなります。少なくとも中等教育をしっかり身につけるということで、第三者テスト機関があるということは、ある意味では魅力的で本音と建前が一緒になるといいますか、第三者機関の試験にパスするために、良いほうを見ますと、高等学校の先生は一所懸命教える。その学校の中で力を合わせて勉強するという形になるんですけれども。
  一方、マイナス面で考えますと、より教えることのうまい、例えば教育産業、塾のほうに行ってしまう。そうすると、大学入学資格検定試験と同じで、学校なんていうものに行かなくても、その試験がどのようなものであるかによるんでしょうけれども、その試験に合格するためのマニュアルを身につける。―教育産業もいろいろありますから、一概に悪いというふうに言えなくて、中立的に見なければいけないと思いますが、学校の成立が危うくなる。その辺の模様が私も予測がつかなくて、とても悩むところなんです。先生はどのようなイメージをお持ちでいらっしゃいましょうか。難しいことを聞いて申しわけございません。

○耳塚意見発表者    どなたかそういうお尋ねをするだろうと思っておりましたが、むしろお教えいただきたいと思います。そんなことを言ってはいけないのかもしれませんけれども、具体的にどういう形を取り得るのかということについては、本当によくわかりません。どんな提案あるいは選択肢があるのかということについては、もっと勉強しなければ今の段階で申し上げることはできません。
  ただ言えるのは、何かシステムをつくったときに、その中で人々がごく自然に動機づけられるようなものでなくてはいけないであろう。頑張れ、頑張れとメッセージを発するようなシステムではいけないであろう。個人の努力にゆだねるようなやり方、あるいはもっと達成度を上げるようにといった、ただメッセージを伝えるだけのようなシステムではだめだろうと思います。そのくらいしか申し上げられません。

○木村座長    ありがとうございました。
  どなたかまだいらっしゃいますか。よろしゅうございますか。
  だいぶ時間も過ぎましたので、以上といたしたいと思います。耳塚先生、どうもありがとうございました。
  それでは、次へまいりたいと存じます。次は、池田輝政先生でございます。池田先生は、先ほど申し上げましたように、メディア教育開発センターの教授でいらっしゃいます。教育行政学並びに大学入試及び高等教育が御専門と伺っております。本日は、「我が国の大学入学者選抜について―大学教育への接続を重視した大学入学者選抜の在り方について」、20分程度また御発表いただきまして、その後、質疑応答をお願いしたいと思います。
  その前に、先ほどの委員の方からの御質問に対して、事務局から説明があるようですから、よろしくお願いいたします。

○事務局    先ほどのお尋ねでございますけれども、平成10年度の数字で申し上げますと、専門高校等の大学入学志願者は5.5万人、短期大学入学志願者は3.1万人、合計8.6万人となっております。
  入学者で申し上げますと、大学には3.6万人、短期大学には2.8万人、合計6.4万人が入学いたしております。
  以上でございます。

○木村座長    よろしゅうございますか。
  それでは、池田先生、よろしくお願いいたします。

○池田意見発表者    メディア教育開発センターの池田でございます。
  私がいただきましたテーマは、「大学教育への接続を重視した入学者選抜の在り方」というテーマでありました。特に先ほど議論がありました学力に焦点を絞って何らかのプレゼンテーションをしたいと思います。私の資料は、レジュメと申しますよりは、資料という形で提示させていただきます。(※2)資料は大きく二つのパートからなっております。
  一つは、「1  接続の課題」と書いてありますように、まず接続の課題を少し共有化したほうがいいのではないかと思います。いろいろ議論をするときに、私はこのように考えているというところを、皆さんに共有していただいたほうがいいということで一応用意させていただきました。
  それから、「2  2001年秋期大学入学生のための学力スタンダード −米国オレゴン州の事例−」は、その課題の解決策のために、今までどういう取組があるのかどうか。その議論のきっかけになるような資料を用意させていただきました。
  これはすべて資料を細かく用意しますと、10枚、20枚になりますので、一応サンプルという形で資料をつくらせていただきました。
  まず「1接続の課題」のところから入らせていただきます。なぜ接続の課題を問題にするのか。接続するものは何なのか。それをどういうふうにするのか。この三つが基本的に総合的に問われるというのが、接続の課題だろうと私は思います。
  これについてはいろんな研究者の指摘があると思いますけれども、私が今まで、ここに委員としていらっしゃる方を代表者にしまして一緒にやってきました研究のデータをもとに話をさせていただきます。
  まず、接続の課題。基本的にはここに書いてありますように、学力ということを焦点にすれば、選抜の学力の基準は高校までに育成された学力と、それから大学で必要とされる学力を橋渡しすることができていないということだろうと思います。これは委員の皆さんも同じような見解であろうと思います。それはしかし、具体的にはどういうことかというのが非常に問題になると思います。
  実は私ども、共通第1次学力試験の高得点者 ―共通第1次学力試験が11回ほど行われましたが、その30万人、40万人の中で、現役で100番以内に入る人を特にターゲットに据えて追跡調査を始めました。この人たちはどういう人間なのか、それを丹念に追ってみようということです。この高得点の調査は、共通第1次学力試験の高得点者からもう少し時代をさかのぼりまして、昭和20年代に行われました進学適性検査の高得点者まで手を伸ばしまして、一人一人追っかけてみようとやっております。きょうは、共通第1次学力試験の高得点者の一部のデータをここに載せております。
  目的をかいつまんで言いますと、高得点者という人たちの能力の共通的なものは何なんだろうか。それから、それぞれに独自なものというものは何なんだろうか。入試の高得点者が社会に出てどれだけオリジナリティーのある仕事をしているんだろうか。そんなことを丹念に追ってみまして、最終的にはそういう人たちのデータを通して、入試における評価の意味、そういったものを少し明らかにしていこうという研究を進めております。
  共通第1次学力試験の高得点者に面接、それから質問紙調査をやっていますが、きょう出しましたのは質問紙調査の一部です。「大学に入ってみて、高校時代までの勉学観や勉学方法と何か違ったものを感じましたか」ということを聞きました。
  我々は、「あんまり違わない」ということも期待していたんですが。実はこれは生身の人間をフォローするものですから、生身の人間は動きます。住所が不安定だったり、それから「そんなことは協力したくない」とか、いろいろおっしゃる方がありまして、実は69人だけしか得られていないんです。本当は研究的にいえばシラミつぶしにやらなければいけないんですが、それができておりません。69名の中で、多くみられた意見ということで、三つのケースを書き出しております。
  一人は理学部卒業者です。「高校までは問題・テーマは設定され与えられたが、大学では自分で問題・テーマを選択していくことが違っていた」と。やっぱり違いますと。「ただし大学院に入るまでは、テーマ選択後は高校と同じように教科書を読むだけで何とかなった」と。これは能力の自分の高さと、大学の学部レベルでの勉強の実態をここで反映しているような気がします。とにかく違ったということを、このように書いてありました。
  2番目は、医学部卒業者です。「高校までは、教えられたことを絶対的に正しい事実としてとらえ記憶しようとした。大学以後は、講義内容は専門的で真実のとらえ方の一例だ」と。これは物の見方なんだと。そのように「受けとめる柔軟性を要すると思った」と答えておられます。これも私も大学人としてよくわかる話になっております。ただし、これも違うということです。こういうふうに違ったよということです。
  3番目は、「『受験勉強』として割り切ってやっていたものについては、もとより勉学観のようなものはなかった」と。ちょっと恐いなという気がします。割り切るとこのようになるのかということですね。「……違いを感じることは特にありませんでした」ということです。「ただ、『大学での勉学』として高校時代に思い描いていた」ものは「豊富な読書や多くの議論といったもの」と漠然と思っていた。「専門課程に進んで必要に迫られるまでは自発的にやる意欲がわかず、漫然と過ごした」と。これは教養学部卒業者です。威信の極めて高い二つの大学に入学し、卒業された3名の方の例を出しております。
  高得点者ということは、この人たちは能力が高い。高いということは、我々としては確かめております。非常に高いです。記憶力もすごくいいし、論理、推理能力も高い。だから、その人たちが極めて余裕を持って威信の高い大学に入って、自分自身の勉強のスタイルみたいなものを高等学校までにつくっていたのかなと思っていたんですけれども、実はある意味では、この人たちも受験の体制にかなりコミットさせられている。普通の人たちと同じように自分独自の勉学のスタイルはつくってきていない。大学に入って違いを感じている。高得点者で極めて能力の高いこの人たちでも、実は同じような課題を持っていたということが、ある意味で私にはショックでした。
  もう一つ、接続の課題というのは、基本的には学生もしくは高等学校の生徒を上位層から下まで差別することなく見ていかないと、この人たちを特別扱いしてしまって、結局、置き去りにしていくのではないか。もしくはもっと普遍的な、一般的な課題が見えなくなるのではないかと思っております。
  それから、この人たちに対して少し面接をしていまして、そこから見えてきたものがあります。我々はよく言うんですけれども、大学というのは学問をしに行くところだ、学問をしない人は来なくていいという、ある意味で我々大学人としては、少し一面的・画一的な大学観を高校生もしくはほかの人たちに投げかけてしまう。だけど、高等教育の大衆化を考えますと、彼らが学問をする、それはいいんですけれども、学問を通して自分たちの生き方をそこの中で見詰め直す、自分たちの生き方を模索するということをやっている。我々は、学問はあくまでもそういう人たちに向かっては手段として、学問を目的としてではなくて、学問を通して生き方を教えるという方向に転化しなければいけない。ところが、果たして我々がそういう多様な見方を意識として身につけたかどうか。これは自分自身としても反省するところであります。大学に生き方を求めるということは、高得点者であろうと、普通の人であろうと、これは変わりがない。そういうところが見えてきました。
  彼らを丁寧に追うことの中で、なぜ、何を、どのようにという接続の課題を、具体的に明らかにしていく。その一歩を踏み出したのかなと私個人は思っております。こういう資料を出しましたのは、接続の課題を具体的に把握するのは非常に難しいということを申し上げたかったわけです。
  次に本題にいきたいと思います。こういう接続の難しい課題を、どこがどういうふうに努力して解決しようとしているのか。それを2番目に披露したいと思います。
  それはアメリカのオレゴン州の事例であります。2001年の秋の大学入学生のための学力スタンダードを州レベルでつくっているところです。この学力スタンダードは、今、全米で求められている課題であります。特にオレゴンは、小学校から大学4年までの教育システム全体をとらえた観点から、円滑な接続を実現させるという方法論を模索しております。これは正解というよりは一つの考え方です。
  アメリカの今の学力スタンダードというのは共通の方向としまして、日本でいう書かれたテキストの中に盛り込まれているものをどれだけ理解しているかということを評価するということではなくて、向こうでの言葉は「パフォーマンス・スタンダード」ということを提示しております。「パフォーマンス」というのは、要するにドゥイングすることです。何かをなすことによって、それを自分自身で証明していく、それが「パフォーマンス」であります。知識、技能の言葉でいえば、技能というところに近い。それを強調したスタンダードであります。
  オレゴン州の大学ではそれを「プロフィシェンシー・スタンダード(PASS:Proficiency-based Admission Standards System)」ということで、「プロフィシェンシー」という言葉で置き換えておりますが、「パフォーマンス」「プロフィシェンシー」とも、言おうとしているところは同じであります。
  資料としましては、その「学力スタンダード」の例を取り出しております。それは後から少し読ませていただきますけれども、もともとこの「学力スタンダード」をオレゴン州でつくっていこうという理由は三つあります。
  1点目は、1995年にオレゴン州が初等中等教育に関する改革を行ったというか、既に行っていたんですが、1995年で一応改革の案を固めたということです。学校改革の中で、生徒の学力について、パフォーマンス・ベースの学力をきちんと高等学校までに身につけさせる、そういうことを法律の中に書きました。そこから、プロフィシェンシー・ベースのアドミッション・スタンダードをつくるということが、大学に対してのインパクトになっています。
  2点目は、大学自身に直接かかわることでして、米国も高等学校教育の学力が低下した。これは例外ではありません。大学がそのツケを回されるわけです。大学で補習教育というコスト高な教育のシステムを採用しなければいけなくなった。ただし、大学も財政難であります。人も減らされ、カネも減らされる。そのコストをとても負担できるわけがない。そのためには、入試、やはり接続の時点で、ある程度高等学校にこういう学力を身につけてほしいというメッセージをフィードバックせざるを得ない。そのために、選抜の時点での学力スタンダードをつくって、それを発信していくということです。それは大学からということです。
  3点目は、大学に入れても、大学卒業の水準は落としたくない。大学卒業の水準を落とさないためには、選抜の時点でのある程度の高さ、それから内容を大事にしたい。単に補習教育を避けるというだけではなくて、卒業後の水準に対しても関係づけできるような、そういう選抜時点での学力スタンダードだということを、きちんとメッセージとして伝えておきたい。その三つの理由で、高等学校以下に向けて大学から発信する学力スタンダードがつくられております。
  その方法といいますのは三つほどありまして、こういう学力スタンダードをどのように評価するかという問題ですが、一つはオレゴン州の場合はマルチプル・チョイスを少し使ってみようと。それがすべてではなくて、測定の信頼性ということで非常に安定しておりますから、多肢選択のテスト方式で、ある側面を評価してみようと。
  メインはパフォーマンス・ベースの学習技能を評価する方法です。結局はドゥイングの評価ですから、本人自身が表現したものを評価していこうということです。自分自身で表現したもの、もしくは日本でいえば卒論とか、リサーチペーパーとか、そういうのも入ると思います。具体的にはいろいろあると思います。それが基本の考え方であります。
  それから、高等学校の先生の役割は、本人自身が表現したものを基本的には証明していく。評価者というよりは、証明者の役割を果たす。というのは、アメリカの大学入試は、基本的には高等学校の成績を基本にしております。プラス、外部テストの得点です。成績評定値がインフレーションを起こして、とても信頼できなくなっているということが背景にあります。高等学校の先生に日本人もアメリカ人もないんで、やはりゲタをはかせてしまうということが起こるんです。自分の教えている生徒にはそうならざるを得ない。これは批判してもしょうがない。直接の評価よりは、生徒の表現物に対する証明機能、「ベリフィケーション」という言葉でやっていますけれども、それを高等学校の先生にお願いしようと。今のところ、その三つの考え方で進んでおります。
  では、どういう学力スタンダードを今のところ用意しているのか。まず、基本的に教科の領域は、六つの領域でぜひ勉強してほしいと。一つ、二つ、三つ、それはあり得ません、六つの領域をすべてやってくださいというのが、大学からのメッセージです。
  その中で、数学は「10の学習技能(10 Proficiencies)」ということですが、委員の方にお目にかけたいと思ったものを訳しております。まず、「数学的アイディアを数学用語と記号を使って書いたり口頭説明できる」、「口頭説明」がポイントになっております。それから、「アイディアを数学的に表現した内容や数学の著述物を、読んで、理解し、解釈し、評価できる」。こういうものをぜひお願いしたい。これが身につけば大学でもきちんと勉強できる。高等学校と大学の勉強は違うということは言わなくなります、ということでしょう。
  理科は、「9つの学習技能」が語られております。「科学の理論や概念がつくられた文脈」の理解までも要求します。ただ公式を示して、「はい、理解しなさい」「はい、これに基づいて計算をしなさい」ということではなくて、理論や概念は文脈抜きにはつくられていませんというメッセージが背後に感じられます。それから、「社会に対する科学的研究の影響も理解できる」という研究の責任の視点をきちんと示しております。
  社会科学は「7つの学習技能」があります。「複雑な社会問題や現象、そして地域的・広域的・全国的・国際的な出来事を分析、説明」し、しかも「プレゼンテーション」、「提示できる」ということを要求。それから、社会科学は一つの見方では成り立ちませんので、「社会科学の様々な捉え方」、「偏りのない多様な資料源」を指摘。この資料しかないというのではなくて、いろんな資料を駆使して、それを相手に伝えるという「コミュニケーション技能」、それから「社会科学分析の情報技術を使うことができる」ということも強調しております。
  外国語は、「3つの学習技能」を定義しております。これは外国語そのものを勉強するというよりは、「外国語を使って他の学問分野の内容を理解し、それをきちんと伝えることができる」、理解だけではなくて、コミュニケーションするということです。
  それから、英語・英文学 ―日本でいえば国語 ―の「8つの学習技能」を三つほど抜き出して書いております。「言葉がいろいろな文脈や時間周期や文化のなかで機能し」ていることをきちんとわかる。それが「他人にどういう影響を与え」ているのか。その「意味を伝える過程を理解し」なさい。そして、それを「分析」することができる。そういう力を身につけてくださいということです。
  それから、「個人的な反応や批判的反応を通し」ながら、「テキスト、パフォーマンス、メディア、を分析し、解釈し、批評することができる」。これもきちんとやってくださいということです。
  それから、「人々自身の生活のなかでの文学の意義を理解し、分析できる」。文学をそのまま教養として学ぶのではなくて、文学は人の生き方に対してどういうインパクトを与えているのか。生きるということに対しての文学の意味合いも理解するような勉強をしてくださいということです。
  最後は、視覚芸術・パフォーミンングアートで、「6つの学習技能」を言っております。「少なくとも……」ということで強調しております。「少なくとも一つの芸術分野を知って」くださいと。そして、その「技能を発揮でき」るようにしてください。「深い洞察力と技術力と高い質」へのこだわりでもって、「芸術的な問題を明らかにし、それに応じることができる」。これもぜひ身につけてくださいということです。
  これがオレゴン州の現段階で取り組んでいる学力コンテンツの例です。
  以上で終わりますけれども、最後に、日本の接続の課題というのは、学力ということに特化しましても、学力のコンテンツそのものがプアであるという状況だと思います。その学力のコンテンツがプアな上に我々が何を要求しても、何も機能しないのではないか。学力というのは単に知識ではなくて、そこに学びにくる学生の生き方にかかわるような学力の再定義。それについて具体的なものをきちんとつくって、それを大学側から発信し、高校の先生もそれに向かって努力する。そういう基本に立ち返った方法論、考え方が大事ではないかと思っております。

○木村座長    ありがとうございました。
  それでは、池田先生のただいまのプレゼンテーションに対して御質問等ございましたらお願いしたいと思いますが、いかがでございましょうか。

○  先ほど私が工学教育の中で言ったようなことが、実はここに出ていまして、これは高等学校に対する要求より、むしろ現段階では日本の大学の卒業要件にしてもいいぐらいの質を持っているなと思って拝聴しておりました。
  お聞きしたいことは、これは州のレベルで決めているわけですか。大学のレベルで決めているんですか。

○池田意見発表者    基本的には州のレベルで決めています。それで大学の先生が実質的にこれを推進しております。

○  オレゴン州の全大学がこの基準に従うわけですか。

○池田意見発表者    そうです。

○  ありがとうございました。勉強させていただきました。若干質問というかコメントなんですけれども、学力スタンダードのオレゴン州の例、それぞれの教科で身につけるべき能力や態度等が出ていますけれども、こういった考え方や能力というのは、恐らく日本の大学から高等学校へ要求する能力でもあるし、それから高等学校時代に本来身につけるべき能力ではないかと思います。日本の場合にも、大学が高等学校へ要求する能力とか、高等学校で本来身につけている能力は、もともとそんなに差はないと思います。
  それから、ここに出ているオレゴン州の例も、各教科で身につける能力も、日本の例えば高等学校や中学校の教育課程の基準で、各教科で示している能力とそんなに変わりはないんです。なぜならば、私も昔、理科関係の仕事をしていましたけれども、オレゴン州立大学の方とはしょっちゅう会議をやっていました。そして、お互いに理科でどういうスキルズを身につけるかなんていうのはしょっちゅうやっていたわけです。そういうものから生まれてきたし、日本の学習指導要領をつくるときも、そういうものをベースに置いていたと思います。
  ただ、残念なことは、さっきからあるように接続のところで、それぞれが大事な共通する能力を身につけるというのがありながら、ややもすると接続の方法のところで、先生がおっしゃったパフォーマンス・ベースといいますか、ドゥイングといったところが若干十分でないために、本来の力を高校でもなかなか発揮しないで、別なほうの力に寄っていくということが若干あったかなという感じがいたしました。

○  大変興味深いお話をありがとうございました。もしおわかりでしたら教えていただきたいのですが、スタンダードということの意味解釈です。いわゆる教育目標ととらえるのか、それとも、これは資格基準であって、これをクリアしなければ合格できないという性格のものなのか。特に2001年から実際に  Proficiency-based Admission Standards System が適用されるようになった場合に、ここの基準から下はだめだという形の扱いになるのか、それともこういうスタンダードに向けて評価を重ねていって、それを資料として判定が行われるということなのか、お伺いしたいと思います。

○池田意見発表者    スタンダードもいろいろありまして、州のスタンダード、その上にはナショナルなスタンダード、それからローカルなスタンダード、いろいろ水準があると思います。これは州のレベルでスタンダードを示した。ただし、これを実行するというのは、州ができるわけがありませんので、ローカルなところに、もしくは個別の学校のレベルにおりて、これを実現していかなければいけない。
  スタンダードそのものは一応提示できますけれども、果たしてそのスタンダードに合ったものを実現するというのは、適切な教材が必要ですし、それを理解される先生方が必要ですし、それをまた理解する地域が必要です。学校の経営者も、もちろん教育委員会も、すべてそこのところに絡んできます。ですから、いいスタンダードを提示できたとしても、その実現は非常に難しいというか、大変苦労するのではないか。評価の手段も必要です。どういう評価をすればいいのか。これは非常に困難なことに取り組み始めたなと。スタンダードが規格であるのか、目標であるのか。これはまた何年か後に、いろいろな取組の中でおのずと決まっていくのかなというぐらいしかお答えできません。

○  ありがとうございました。今の延長線上で、このスタンダードに対して、高等学校以下の学校もしくは教師たちの反応はどうなのか、もしおわかりでありましたらお聞かせいただきたいと思います。

○池田意見発表者  オレゴン州で関係者から会わせていただくのは、一所懸命努力しようとされている先生方です。そこの中でも、話していると少しクリティカルなことも出てきて、そこから推察するというような知的作業をせざるを得なかったんですが、一所懸命努力しようという先生と、これは無理なんだ、ちょっとやりきれないよという先生がいらっしゃるような気がしました。

○  今の話ともつながると思いますが、接続というのは、御存じの「アーティキュレーション」という言葉でたぶん言われていると思います。「アーティキュレーション」ということの中には、切り離すという面とつなぐという面と二つの面が当然あると思います。
  今のお話だと、つなぎ方で高等教育のほうから中等教育のほうへおろしてきている。その逆のほうの中等教育のほうから高等教育のほうへつないでいくという発想の仕方といいますか、アプローチのようなものですね。アメリカの「アーティキュレーション」をめぐって、そういう発想の仕方はなされているんでしょうか。

○池田意見発表者    切り離すのとつなぐというのは何なのかなと思いましたけれども、今、具体的におっしゃられてわかりましたけれども、高等学校側から大学につなげていくという動きそのものは、もう一つオハイオ州に行きましたが、そこではそちらの方向をとっていました。オレゴン州の場合は、逆に大学のほうからむしろ積極的に中等学校にコミュニケーションして、そこからつなぐ。切断ではなくて、つなぐ。方向性の違いはアメリカの中でも起きていまして、オレゴンのほうがむしろユニークなケースということになっております。もともと大学が中等教育に発言するのはけしからんというのは、アメリカでも根強い声があります。

○  ナショナル・スタンダードというからには、やはり何らかの絶対的基準の達成や到達というのがインプライされているのではないかという気がいたします。それにいたしましても、いま説明された中身をある程度でも達成できたらすばらしいことで、そういう人が入ってくれば大学も楽であるし、また逆に楽だけしていると、学習者から批判を受けて、大学も努力をしなければいけないということで、教育的に非常にすばらしいことだということを一方で思うわけです。
  しかしながら、従来の日本のことを考えてみますと、アメリカ人は日本の初等教育、場合によったら中等教育は、一種のナショナル・スタンダードがあると思っているわけです。それに対して向こうはないのである。ですから、どのように立てたらいいかということを一所懸命やっているような気がします。他方、大学に関しましては、我々が明確な基準を持っていないことは事実です。そこでお尋ねなのですけれども、オレゴン州のは大学側から打ち出されたものである。「このようなものを備えた人を受け入れます。その後、大学はこのように教育するのだ」ということが明確に方針として出ているのかどうかをお教えください。

○池田意見発表者    ナショナル・スタンダードにつきましては、二つあると思います。考え方ですけれども、アメリカでは州が集合して国ができていますけれども、州間の違いが非常に大きいわけです。その州間の違いについて、学生が州間を移動するときに困らないように一つの共通的なものをつくっていくというのが、ナショナル・スタンダードの一つの考え方です。それとアメリカが他国との国際競争力の水準で伍していくナショナル・スタンダードがあるわけです。その二つの方向で本当はつくりたいのでしょうけれども、アメリカの中で今現在は、たぶん無理だろうという気はしております。しかし、そういう声は政治的には必ず上がってきます。
  もう一つ、ものすごく大事なポイントをおっしゃいまして、受け入れた後に、大学がどういうスタンダード、要するに教育のスタンダードをつくっているのか。私が調べてから1年以上たっていますから、正確には言えないかもしれませんけれども、その時点でそういう質問をしましたら、まだアドミッションのスタンダードをつくるのでいっぱいだ。その後の教育スタンダードを、また大学人とコミュニケーションしながらつくる、それが大きな課題として残っているということでした。

○    さっきから私は工学の話をしていますが、オレゴン州は出口に関して、ファンダメンタル・エンジニアのスタンダード・テストを持っているんです。大学を出てすぐ受ける試験です。私どもは、国際的に通用するエンジニアというもののイメージがなかなかつかめなかったんですが、試験問題を見たら、「あ、そうか。そういうレベルか」というのがわかるんです。文言で出ていましても、なかなか様子がわからない。ですけれども、アメリカのいろんな州がそれぞれ独立にエンジニアリング・スタンダードのファンダメンタル・エクザミネーションを持っていまして、いろいろなレベルがあります。
  それを一括してアメリカは、ワシントン・アコードという国際条約がありまして、いろんな国とエンジニア・グレードの国際承認をやっているんです。それが先生が今おっしゃったナショナル・スタンダードとしてのあるレベルの保障につながっているんだと思います。ただ、これは工学の話ですから、教育全般にわたってそういうネットワークができているかどうかよくわかりませんが、ローカルには既にそういうものが存在していて、たぶんそれが一つの目標になって教育プログラムが組まれているんだろう。
  私が拝見して感じたことは、その試験の問題の内容は「知っているか」ということを確かに聞いているんですが、そのレベルが本当に身についているかというのを聞いているんです。前にもここで申し上げたことがあるんですが、「自転車に乗れるか」というような試験なんです。ですから、日ごろすっかり忘れていても、必要なときにすぐ使える ―さっき「技能」という言葉も出てきましたが、技能になっているようなことを聞いてくるという特色がある。
  というのは、4時間で120問解かせるんです。1問たった2分です。これは全員が受ける試験。いわゆる工学領域の電気から機械から化学から全部受ける。もう一つ、午後にまた4時間で60問解かせるんですが、これが専門と称するんですが、これだって1問たった4分なんです。ですから、一体これは何を意味するのかなってしばらく考えたんですが、どうも技能を聞いている。本当に身についている知識を聞いている、そんな感じでした。御参考までに。

○  一つ確認ですけれども、池田先生のお話では、オレゴン州のスタンダードは大学の側から設定されているということでした。しかし、私の理解ではオレゴン州のスタンダードは、従来アメリカの大学が用いてきた入学基準とは違って、下からの積み上げ ―それはPASSの御説明の一番最初におっしゃった初等中等教育の改革と連動しているということでもありますが、初等中等教育からの積み重ねとして考えられている、そういう理解で構わないかどうかお聞きしたいと思います。

○池田意見発表者    そのとおりであります。

○  問題が最初のほうにいくんですけれども、例のマズローの自己実現を言っているのは、アメリカと日本人だけだとよく言われるんですが、先ほど大学入試も含めて自分の生き方とのかかわりという意味でのとらえ方という指摘をされたんですが、先生のお考えでは、そういう方向に日本の入試も行くべきだとお考えでございましょうか。

○池田意見発表者    数学なら数学、それだけやっていれば楽しいという人は必ずいます。しかし、それは本当に少数です。大衆化というのは、それは少数になってしまう。むしろ学問を手段として自分自身の人生をどのようにつくっていこうか、どういう学問を通して自己実現を図っていこうかというのが、大衆化の一つの大きなテーマだと思います。既存の学力という面から見ると低いかもしれないけれども、彼らの態度として高等教育に求めるのはそうではないか。それを生き方という言葉で、ちょっと抽象的ですけれども私は表現しました。

○木村座長    ほかにございませんでしょうか。よろしゅうございますか。
 自由討議の時間も設けてあったのですが、お二人のプレゼンテーションについてできるだけ議論をお願いしたほうがよろしかろうと判断し、時間を延ばさせていただきました。どういうことでも構いませんが、何か御意見がございましたらお願いします。

○  先ほど耳塚先生のところで大衆化のお話があって、池田先生のお話とも絡まるんですが、他の委員の方が御質問になったところで、学問というものは一つのツールであって、自分の生活の知恵を大学で学んでいく。そういうときに、大学で学力を道具にして自分の生活の知恵を学ぶ。耳塚先生のお話だと集団規範とか、頑張るぞとか、そういうところで大衆化大学の教育の値打ちがあるという、私は大変おもしろい御指摘をいただいたと思います。
  それを調査書なり子どもたちが高等学校でやった技能なりで評価をするとします。大学へ入るためにそういう評価があれば、子どもたちは一所懸命それをやるかもしれないんだけれども、今や全部が入れちゃうという状況ですね。そうすると、幾ら規律とか、ふだんの高校生活での生活態度的なものを大学入試のために評価するといっても、やらなくたって大学へ入れちゃうぞということになると、子どもたちは今までのようにルーズに過ごしてしまうという恐れはないだろうか。全員入れるようになっても ―これは学力だったら競争で集中するから頑張らなければいけない。大衆化大学であったら何していても入れるじゃないか。そういう状況の中で、きちっとした生活態度を高校生に身につけさせるいい方法というか、工夫は何かあるものでしょうか。難しい質問で申しわけありません。

○池田意見発表者    確かにそこが大事なところかなと思います。学力というのは、前は、単純化しますと知識の面がすごく強かった。技能もありますけれども。だけど、今、学力の再定義が世界的に行われている。その再定義のときには、以前は学力もしくは学力以外のパーソナリティーという二分法をやっておりましたが、その辺の境界がどうもあいまいになってきている。つまり、学力の中にコミュニケーションの技能、チームワーク、そういうものを入れてきている。前は生活の規範、態度にかかわるものだったと思います。そういう要素が学力の中に取り入れられて、新しい学力の再定義が行われているというのを私は何となく実感しております。
  そういう意味では、教育としてはパーソナリティーのところも大事ですし、学力も大事。そこのところが融合してきている。そんなところがある意味では非常にあいまいになってきているような気もします。では大事な学力とは何なのかというのが、今から時間をかけてはっきりさせていくのかなと。生活態度とか、そういうのも基本的には取り込まれていくような学力観もしくは学力の物差しができ上がっていくのではないかと個人的には考えております。

○  いろいろお話を伺わせてもらいまして大変ありがたかったんですけれども、話を聞いていて私もわからなくなってきたんですが、高等学校での学力の達成度をしっかり見るとか、大学での学力の達成度を見るというような、ただ単に学力を求めていたということから、今までのいろんな論議の中で、初等中等教育の中では自分探しの旅をということが言われてきました。
  そういうものを考えてみると、先ほどどなただったか忘れましたけれども、大学とはというところで、学問をするためにというただ単にそれだけでなくて、学問をしながら生きる方策を見つけるためにというようなことが出てくると、学力の達成度だけではできなくなってきているジャンルに入りつつある。そういうふうにしたときに、「大学とは」と。「高等学校とは」でもいいかと思いますけれども、ただ単に学力だけを見るのかということになってくると、大きく「大学とは」と言っても、今度は二つに分けられるような気がしてならなくなってきたわけです。そういうものを本当に二つに分けたほうがいいのか、一つの中でとらえていったほうがいいのか。
  また、今までの流れの中からすれば、大学は入試をしなくてもだれでもが入れるような定員の数になるというけれども、果たして自由競争の中で、大学が全部生き残っていかれるのかということも考えると、別の問題がいろいろ出てくるのではないかという思いがしてなりませんでした。

○  最近急速に世界じゅうが変わっているなという印象を持っておりますが、一つだけ例を御披露したいと思います。私、20年前にケンブリッジ大学に滞在し、工学部のカリキュラムを詳に見たのですが、工学部にしてはインターディシプリナリーなことをかなりやっているという印象を持ちましたが、全体としてはものすごく難しいハード面だけを教えていました。昨年から今年にかけて再び暫く滞在する機会があり、新しいカリキュラムを詳細に見てみました。ハードなところが減ってしまって、そのかわり、例えば「エクスポジション」と言うのが入っています。要するにコミュニケーション能力とか、相手に自分のつくった物をどうやって説明するかとか、それからエシックスとか、ソーシャル・スキルズとか、そういうことを工学部で教えているんです。あんなハードなことをやっていたのがすっかり変わっているので驚いてしまいました。
  先ほどから非常に気になったのは、学力といった場合、従来の学力観に基づいた議論が多かったようです。私は、それでは駄目なような気がしています。さきほどの委員の方がおっしゃったグローバリゼーションということからすると、日本の教育も考えていかなければいけないのではないか。ケンブリッジの工学部のあんなかたいところのプログラムが全く変わっているのを知って、益々そう思い始めました。

○木村座長    時間になりましたので、本日の議論は以上とさせて頂きます。資料5に第6回の小委員会の予定が出ております。3月10日、13時から15時まで、35階でございます。今後ともプレゼンテーションをふんだんに行っていく予定でございますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、本日は以上とさせていただきます。どうもありがとうございました。


※1、※2 この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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