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中央教育審議会

 1999/2 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第4回)議事録 

   中央教育審議会  初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第4回)

      議  事  録

      平成11年2月10日(水)    13:00〜15:00
      霞が関東京會舘  35階      ゴールドスタールーム


  1.開    会
  2.議    題
      「大学教育の現状について」及び「大学教育を受けるのに必要な能力について」
  3.閉    会


  出  席  者
  委  員   専門委員   事務局
  薄田委員   荒井専門委員   佐藤事務次官
  川口委員   安齋専門委員   銭谷審議官(初中教育局担当)
  國分委員   磯部専門委員   高   総務審議官
  坂元委員   岡本専門委員   杉浦政策課長
  田村委員   黒羽専門委員   その他関係官
  永井(多)委員   小谷津専門委員
  横山委員   杉田専門委員
  高鳥専門委員
  永井(順)専門委員
  久野専門委員

  意見発表者  
  森       正  夫  氏(愛知県立大学長)
  柳  井  晴  夫  氏(大学入試センター教授)


○坂元座長代理    それでは、時間になりましたので、これから始めさせていただきます。
  本日は、木村座長が御都合により欠席されておりますので、前回と同様に、私、坂元が代わりに進行を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。
  また、大変恐縮でございますが、私のほうの本務の関係でどうしても外せない用事が急に生じましたので、途中で退席をさせていただかなければならなくなりまして、誠に申しわけございませんが、その後の進行につきましては、田村委員にお願いしたいと存じますので、田村委員、申しわけございませんがよろしくお願いいたします。
  それでは、ただいまから中央教育審議会の「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第4回会議を開催いたします。
  皆様方におかれましては、御多忙な中御出席いただきまして、誠にありがとうございました。
  本日は、「大学教育の現状について」及び「大学教育を受けるのに必要な能力について」の審議をお願いすることにいたしております。これらに関連しまして、森正夫愛知県立大学長、柳井晴夫大学入試センター教授から御発表をいただきたいと考えております。
  では、今回の配付資料の確認を事務局よりお願いいたします。

<事務局から説明>

○坂元座長代理    それでは、早速でございますが、ヒアリングに入らせていただきます。ヒアリングに際しましては、発表者からあらかじめ御提出いただいた資料をお配りしてありますので、適宜御参照くださるようにお願いします。
  初めに森正夫先生を御紹介申し上げます。森先生は、現在、愛知県立大学長であるとともに、大学審議会の大学教育部会の特別委員及び本審議会の「少子化と教育に関する小委員会」の専門委員をお務めになっていらっしゃいます。本日は、「大学教育の現状について」、20分程度の御発表をいただき、その後、10分程度質疑応答を行いたいと思います。
  それでは、森先生、どうぞよろしくお願いいたします。

○森意見発表者    1月の半ば過ぎに、こうした大きなテーマで話すようにという御下命をいただいたわけでありますが、とてもこれだけのテーマをこなすだけの準備を短期間にすることができません。大変雑ぱくなものになると思いますが、お許しいただきたいと思います。
  私自身、御紹介がありましたように、比較的文部省の会議に参加する機会が多いのでございますが、そこでは「多様化」という言葉が、大学教育についても、その前提となります初等中等教育についても、しばしば用いられているわけであります。しかしながら「多様化」とは何かということについて、踏み込んだ御議論が必ずしもまだない。自分もしていないように思いまして、その辺につきまして、きょう御在席の先生方からむしろお教えいただきたいと思っております。
  なお、こうしたテーマについて、定量的にデータを出すことは非常に難しいわけでございますが、レジュメの冒頭にありますように、私が名古屋大学の学生部長及び副総長といたしまして、4年一貫教育の責任者でありました時点で、京都大学や名古屋大学の主として全学共通教育のシンポジウムや討論に多く参加いたしました。そのときに御発言を聞いておりまして敬服した先生方を中心に、国立の文科系や公立・私立の方々をも含め、今回、インタビューをさせていただきまして、そうしたものに基づいてお話しいたします。
  まず、多様化ということをいろいろ御議論になる前提として、入学者選抜方法の多様化に対応した年齢・学習歴・社会的経験などの多様化は確かに進行しております。この意味での、すなわち学生の存在形態の多様化は確認できるかと思います。
  資料の5枚目を御覧いただきますと、私ども本年度から全面的に昼夜開講制を実施いたしました愛知県立大学の様々なデータがございます。「B」は、昼夜開講制を実施している文学部、外国語学部、両学部についてのものであります。「A」と「C」のトータルには情報科学部や大学院若干名が入っておりますので、数字にずれがございますが、これを御覧になってあるいは驚かれるかもしれませんが、社会人の比重が入学者総数685名中150名ございます。
  それから、年齢別の構成を見ていただきますと、18歳から24歳までの者が多くいるのは当然でございますが、以下20代の後半、30代の前半・後半、40代、50代以降というふうに、かなりの比重でそれぞれの年齢層があることにもお気づきと思います。また、学習歴というよりは経歴別の構成を見ていただきますと、高卒でもいろいろな種類があり、また民間の企業の経験を持ったり今も従事しているのが57名、その他教員、公務員、地域の看護婦さんなどもございます。
  次の資料の6枚目は、アメリカで昨年8月に出されましたデータで、高等教育機関在学生の年齢構成でございますが、これほどまだ高年齢次には分布はしておりませんけれども、こうした多様化が我が国でも進みつつあることについては、認識を共有していただけるのではないかと思っております。
  しかしながら、本審議会で問題にしようとされておりますのは、一般選抜を経て大学に入学してきた学生間に見られると予測される多様化であると思われます。ただ、たしかに、学力における差異は確かに存在するのですが、高等学校教育におけるカリキュラム、教科・科目あるいは学科の多様化との関連はそれほど直線的かつ単純なものではございません。ある一つの大学を取り上げますと、入学者の基本部分を占めるところの、一般選抜を経た普通・全日制高等学校卒業者の18歳の学生間の学力における差異は、むしろ別の理由によるのではないか。特に国公立大学においてはそうではないかと思われます。
  こうした大学は、大学入試センター試験及び個別試験に際しまして、高等学校での特定の教科・科目を指定いたします。国公立大学では、御承知のように、ほとんどの大学が地歴ではB科目、理科でもB科目、数学ではA・Bを加えたものを課しております。大学入試センター試験及び個別試験の試験時間は、日程上の制限から比較的短時間でありますので、個々の学生の学力の深部の特徴を見分け得るような出題は容易ではありません。したがって、一般選抜がなお高い比重を持ちます今日、入学者の学力の特徴はむしろ基本的に共通してくる。この意味においては、多様化ではなく、むしろ、一様化しているというとらえ方も可能ではないかと思っております。
  さて、大学在学中の学力  ―学力というのはかなり広い意味にとっておりますが  ―の特徴につきまして、インタビューの結果は、自ら積極的に学ぶ姿勢と自分で考える力  ―積極的学習姿勢と自主的判断力  ―のない者が増加しているという声が強うございました。初等中等教育に多様化が進行しているといわれる事態と、こうした自ら考え学ぶ姿勢の喪失はどのようにかかわるのであろうか。これは非常に難しい問題でございますが、現象から確認していきますと、京都大学工学部教員間の認識では、学生は以下のように分化している。
  「A」タイプとして、積極的学習姿勢と自主的判断力を持つ学生が2割。「B」タイプとして、中間層に位置づけられる学生が6割。「C」タイプとして、積極的学習姿勢も自主的判断力も全く持たない学生が2割。そして、「C」タイプの学生が「B」タイプの中間層の学生に影響を与えて全体の傾向をつくっているということでございます。
  この分化は、私自身も招かれました平成8年度の京都大学の全学共通教育に関する研修会でも確認されておりました。工学部の一教授は、自啓自発意欲の低下、すなわち受け身的で、初めて見る問題や難しい問題は最初からあきらめてしまう。選んだ学科はもとより、自然科学に魅力を感じて入学してくる学生が少ない。工学者たらんとする意識の欠如。勉学に効率性を求めて、学問そのものの魅力への感受性が欠如している。良い意味でのエリート意識がない。文字を通しての理解が不得意と言っております。
  名古屋大学の工学部の一教授も、これらの総括に同意するとともに、「自分自身で教科書を進んで読み、自分で考え、自分で理解し、納得する学生が少ない。多くの学生は定期試験をパスするためにのみ勉強する」「与えられた課題は取り組むが、自分から物事を学ぼうという態度がなく、就職後は会社に身も心もささげるようになる」と言っております。教員間では、積極的学習姿勢と自主的判断力を持つものは10数%で、それ以外は意欲に欠けると話しているというふうにも言っております。
  たまたま名古屋大学法学部でも、教員間で、一般的に言えば、以前に比べて意欲あるいは目的意識が落ちてきており、この意味では良い学生と悪い学生との両極化が顕著であるとされておりますが、良い学生は非常に良いということもここでは指摘されております。
  定量的な資料はなかなかないわけですが、資料の7枚目を御覧いただきますと、京都大学は比較的早期に全学共通教育の体制をつくりまして、それが一応1サイクル終わりました平成9年5月に、4年間を経てきた学生へのアンケートを発表しております。4年間で最も力を入れてきたのは、「クラブ・サークル活動」が37.1%、次いで「勉強」で19.2%、先ほどの「A」タイプと見あう2割に近い数字です。また、「授業にも出席せず、自分でも勉強しなかった」という回答が最も多く、33.4%を占めておりまして、逆に「授業にも出席し、自分でも勉強した」という回答が11.8%ということになっております。
  資料の9枚目を見ていただきますと、これは各国立大学で2年に1回やっております「学生生活状況調査報告」でございます。真ん中の欄に、名古屋大学のケースでございますが、「1日の勉強時間」というのがございます。30分未満が一番多い。1時間未満から30分までのところも次いで多くて、両者を足しますと62.5%になります。また、「1か月の読書量」は、大学の学習に必要な本以外の本でございますが、ほとんど読まない人が一番多く、1冊程度が次いで多い。合わせて52.1%という状況でございます。
  本文の2ページに返っていただきます。こうしたことを即、先生方の分析に結びつけることは必ずしも適切でないかもしれませんが、ある種のバックデータになるかもしれないと思っております。
  さて、大学入学時点における学力の特徴は何かという問題でございます。もしこれが初等中等教育の多様化の結果であるとするならば、多様化とは学力の低下を意味することになると考えられます。
  意見が見事に一致しているんですが、大学入試センター試験及び当該大学の入試教科・科目に関する知識の暗記  ―その知識については飽和状態に達している。それから、頻出問題の解き方の暗記。この二つの暗記が大学入学時点での学力の実質になっている。短い試験時間で多くの問題に対応するためにも、こうした知識と解き方の暗記が必要であると言っております。
  高等学校カリキュラムの多様化の影響で、教科・科目の選択にある種の幅が出てきたとしても、暗記した知識と解き方に幾ばくかの偏りが生じるにすぎないと言っております。「公理や定義から根本問題を考えることをしない」「高校で基礎の理屈から学んでいたら間に合わない」ということを言っております。
  また、最近、上記の名古屋大学の工学部の一教授と面談した東京大学理学部物理学の一教授は「学力があり、東京大学で学ぶに値する学生は3分の1にとどまる。数学・物理学などにおける基礎学力がなくなっている。教科・科目の多様化の中で、内容をやさしくするため、授業内容から非常に重要な事柄を落とされる。例えば物理で“仕事の概念”を教えないため、物理学にならないという事態が起きている。こうして高等学校での物理の授業は非論理的になり、学生は羅列されたいろいろな要素を記憶力によって引き出すことのみに腐心する」と言っております。
  また、それほど多様化の影響を分析的に言ったわけではなくて、仮定が入っているわけでございますが、京都大学工学部の一関係者も、「例えば英語に力点を置いた選択をし、その結果英語が非常によくできればよい。しかしながら、英語がそこそこであり、ほかのはそうではないのに、大学がその入学を認めなければならないのであろうか。試験をやさしくして、こうした多様化教育のひずみを背負った学生を入学させることは妥当だろうか。このようにして、多様化の名の下で、学力がトータルとしては低いほうに流れることが心配である」と言っております。
  また、「大学に対して、総合コース出身者を採用せよ、工業高等学校出身者のための特別枠を設けよなどという要請があるが、そうした学生は特定の方面の知識だけでなく、きちんと発言できる能力を備えているだろうか。物理、化学及び数学の補習を、特別枠の入学者に対して実施する余裕はなく、一般選抜の合格者と同じレベルの授業を受けていただくしかない」と言っております。
  ちなみに、私ども愛知県立大学では工業・商業高等学校出身者のための特別枠を設けて、本年度から推薦入試で実施いたしまして、まだ少数でありますので、補習をやってみて、結果を見ようと思っております。
  また、ある私立大学の教授の責任者も、10年前と比較しますと、当該の大学では偏差値の水準は確実に上がってきているわけですが、高等学校教育の多様化の影響は学力の一種の分裂現象となってあらわれていると述べております。
  「理系では、受験のため選択した科目については理解が可能だが、選択していない科目についてはついていけないという事態が顕著である。文系では、英語でペーパーテストはよくできるが、プラクティカルな力は全くない学生と、英検準1級は取っているがペーパーテストはよくないというグループに分化しており、国文学でも例えば漢文は非常によく読めるが、文学の思想的内容は把握できないという場合があるなど、広い意味での実力が備わっていない。こうした分裂現象は、自分で自発的に物事を考える力がなく、自分で問題をどのように把握し、どのように解決するかがわかっていないという特徴と関連がある」と言っております。
  こうした状況は、大学の入学の目的とも無関係ではない。先ほどの京都大学工学部の一教授は、「下位の20%は、大学入学で人生の目的を達して、ゴムが伸びきった状態にある学生に多い」と言っております。また、今、言及しました私立大学の教授の責任者は「だれでも行ける、だれでも卒業できる大学という認識が蔓延し、大学に入学してからの訓練よりも、入ったこと自体に満足する傾向が、とりわけ私学入学者の父兄に多い」と述べております。
  お手元の資料の18枚目ですが、これは埼玉大学の学生部次長であられた当時の秋山さんがおつくりになりました「留年に関する一考察」で、埼玉大学及び国立大学のデータでありますので、後で御覧いただきたいと思いますが、留年生の数は昭和60年度と平成9年度を比較すると、52%増となっているとおっしゃっております。1枚めくっていただきまして、すべての国立大学の留年状況のトータルがございますが、「9年度」という一番右のほうの欄を見ていただきますと、留年数と入学定員との対比で一応留年率を出しております。「A/B」というのをざっと見ていただきますと、全国的な国立大学の一番新しい傾向がわかるわけでございます。理学部系の場合は32%、工学部系の場合は32%となっております。
  留年には、大学入学の目的や大学入学時点における学力の特徴及び大学在学中の学力の特徴が相互に絡み合っておりますし、様々な人間的な問題も絡み合っておりますので、なかなか原因の解明は難しいわけですが、ここまで述べてきた最近の学生のあり方と無縁ではないと思います。ただ、先日刊行された『IDE』で小林信一先生は、「“入りやすく出やすい”上に、“留年もしないで済む”ものになってきた」と、マクロな分析で述べられておられます。資料の10枚目を御覧いただきたいと思います。
  なお、資料の10枚目の上のほうに、たまたま昨年秋に私が簡単な調査をいたしましたアメリカのメリーランド州の大学における卒業率を掲げておきました。これは留年率とまた出し方は違うと思いますが、大学及びワシントンのスチューデント・サービス管理者協会の責任者は、「アメリカの大学ではいかに入学した学生を卒業させるかということで腐心している。ハーバードのような大学でも卒業する者は8割にすぎない」と申しておりまして、アルコールの問題、アルバイトの問題、その他生活上の問題をも含めて、総合的な指導を強める必要があるということを言っておりました。
  さて、時間がもう過ぎてしまいましたが、今後の課題ということでございます。
  誤解のないように言っておきたいと思うんですが、私が紹介しましたインタビューで発言をした先生方は、いずれも非常に熱心な教育者でありまして、全力投球で個々の学生と向かい合っております。クリティカルには言ってらっしゃいますけれども、どうやって学生を一人前に卒業させるか、一人前の工学の基礎を学んだ学生として卒業させるか、あるいはその他の分野の力量を持って卒業させるかということで腐心しておられるわけであります。そういうことをちょっと補っておきたいと思います。
  そういう先生方が今回はっきりおっしゃいましたのは、受験産業がコンピュータを駆使して大量の資料を分析して、蓋然性の高いデータを作成し、受験生及び関係各方面に提供している事態は非常に深刻であるということでした。この点の認識では完全に一致しているのです。それについて、受験産業が広範な市場を持つ巨大企業として定着している現実は変えがたいと見るか、そういう現実があっても大学や高等学校としてそれを改革する努力をすることが可能と考えるか、そのあたりでは意見の分岐がございます。
  そのうち入試改革について考えておられる先生方は、教科・科目に関する知識の暗記及び頻出問題の解答の暗記による高得点取得を許容する入試方法を改革することは可能かということで、丁寧な入試の一つの在り方として、いわゆるアドミッション・オフィスの理念とか方法とは少し違うわけですが、学科試験を非常に長い時間をかけてじっくりと課するという方法についても検討の余地はないだろうかという問題を出しておられます。
  今申し上げましたアドミッション・オフィスの方法でお考えになっている改革は、私も大変興味は持っておりますが、もしそうした改革をするとしたら、先ほどから申し上げておりました一般選抜のたくさんの受験者すべてに対して、それを思い切って適用するだけの大胆な準備が要るのではないかというふうにも思っております。
  さて、今日の大学における教育改革は、90年代に全国的に実施されましたカリキュラム改革、これはもう大きく進んでいますので、これをどのようにフォローアップするかということが問題でございます。大学審議会の先ごろの答申もそのことの一環であると私は理解しておりますが、その具体化の核心として、教育方法等々の側面について申し上げますと、教員の意識改革  ―従来の授業方法以外の教育方法の開拓と学科・学部・大学単位の組織的教育活動等とへの消極性と負担感をどのようにして克服するかということが、どの大学でもまだ問題ではないかと思っております。答申にファカルティ・ディベロップメントということが書いてありますし、その一環として優れた実践の吸収も考えられるわけでございますが、実はこうした教員の意識改革が非常に重要であると私は考えております。
  いま一つ、小規模大学の役割と少人数教育の機能ということも突破口の一つであろうと考えております。私が属しております愛知県立大学は、今、様々な財政上の困難にも直面しておりますが、教員1人当たりの1学年の学生は3.7人であります。徹底した丁寧な教育による様々な可能性を我々は感じております。
  もう一つ、学生の人間としての全側面を対象とする教育観と教育システムの創造という課題があります。この課題解決の具体化方途の一つが「エクストラカリキュラアクティヴィティーズの新たな展開」であります。この課題の重要性について私たち大学関係者は今や改めて目を開かねばならない。また文部省も長年にわたってこの方面での政策の土台に据えてこられた次の三つの歴史的文書をぜひ再検討し、現時点での大学の状況をふまえた新しい方向を打ち出していただきたいと思っております。すなわち、第一は、昭和33年(1958年)学徒厚生審議会答申「大学における学生の厚生補導に関する組織およびその運営の改善についてならびに学生の健康管理の改善について」、第二は、昭和38年(1963年)の中央教育審議会答申「大学教育の改善について」の  IV  「学生の厚生補導について」、そして第三は昭和55年(1980年)の厚生補導施設改善充実に関する調査研究会報告「国立大学における厚生補導施設の改善充実について」でありまして、いずれも今日もなお有用な側面をもっておりますが、改訂されるべき点も少なくありません。
  資料の11枚目から始まりますものは、学生のいわば生活意識の側面、あるいは人間としての多様な側面に触れたものでありまして、資料の11枚目は名古屋大学の学生自身が調査いたしました学生のモラルに関する意識調査でございます。
  資料の12枚目でございますが、カンニングをしたことがある学生は実に3割に達し、その3割の学生について聴取いたしますと、トータル5割5分までが否定的な考えを持っておりません。
  次のいじめの体験につきましても、いじめをしたことがある学生が4分の1、受けたことがある学生が4分の1に達しております。関連のデータを見ましても、同年齢の大学に進学しない若者とほぼ意識は共通していると思われます。そうした学生の状況を含めて彼らの人間的な力をどのように引き出すかということが非常に重要でございます。
  資料の15枚目です。北米でも様々な問題が起こっているわけでございますが、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学は、最近「スチューデント・サクセス」というカテゴリーをつくりまして、知的な成長だけでなくて、社会的責任の認識、それから地球環境のもとでどのように生きどのように働くかということへの準備、また人格的な達成、そういうことのために学習環境を整えなければいけない、と主張しております。そのために、スチューデント・サービスというセクションも積極的に学生のラーニングに加わっていこうという企画を推進しています。
  資料の16枚目は、ワシントンにあります全米学生サービス管理者協会でいただいたデータであります。いわばアカデミック・アフェアーズに関連している大学のスタッフと、スチューデント・アフェアーズに関係している大学のスタッフとが責任を共有して、学生の学習の達成のために努力しようではないかと言っておりまして、学力とか学習がただカリキュラム内の側面でないことを示しております。
  最後に、こうした様々な改革を大学が今後続けていくとしましたときに、財政的な基盤の問題がございます。資料の17枚目のデータは、私もブリティッシュ・コロンビア大学でいただいたときから、その根拠、裏づけを取ろうと思っていたわけですが、今のところまだ取れていません。おそらくOECDの調査に由来するものと考えられます。1人当たりの国内総生産に対する1人当たりの公私の高等教育に充当している費用のデータでありまして、日本は26ヵ国中19番目に属します。これは高等教育の人口が少ない、あるいは教育を受ける人口が少なければ、1人当たりのパーセンテージも上がっていくという落とし穴もございますが、しかしある種の分析をすればこうなるということについても考えていただきまして、教育予算、中でも高等教育予算の充実についての現実的な方法を模索していただく必要があるのではないかと思っております。
  雑ぱくな説明でございまして、補わなければいけないところも多いわけですが、とりあえず報告とさせていただきます。

○坂元座長代理    どうも森先生ありがとうございました。
  それでは、ただいまの御発表につきまして、御質問等をお願いいたしたいと思います。どなたからでも結構でございます。

○  大変におもしろく伺わせていただきました。私の理解の仕方が恐らく悪いんだろうと思いますが、御説明の中で、現在ある問題点を多様化と結びつけて御説明をしていらっしゃるように私には受け取れたんですけれども、多様化と今のそういう問題が果たして因果関係があるのかということは、必ずしも明確でないように思いました。例えば資料の3枚目の上のほうで、「教科・科目の多様化の中で、内容をやさしくするため」に云々とおっしゃっていらっしゃいますが、多様化はあっても、要するに全部が多様化したものを学ばなければいけないということであればレベルが下がるだろうけれども、そうでなければ必ずしもレベルが下がるということではないわけでしょうし。
  たぶん一番いい例は、私は自分自身でアメリカの高等学校で1年、大学で1年勉強しまして、大学院へ2年行きましたけれども、アメリカの例を考えてみると、資料の3枚目の真ん中のパラグラフの一番下でおっしゃっているような「自発的に物事を考える力」を持つということと、多様化しているということは全く無関係であるというか、逆に正の相関を持っていると言ってもいいぐらいかもしれないんです。
  ですから、私の理解の仕方が悪いと思いますけれども、多様化とこういう現象は一体どういう関係があるのか。それから、それに付随する疑問としては、大学自体が、自発的に物を考えるように、大学に入ったところから果たして教育できないんだろうか。高等学校時代以前の話に全部規定されてしまうんだろうかとか、いろんな疑問につながっていくわけです。ということで、よろしく御説明いただければと思います。

○森意見発表者    ありがとうございました。御指摘のとおりでありまして、ここで特に力点を置いて紹介いたしました、いわば学ぶ姿勢と申しますか、あるいは学ぶ意欲と申しますか、そのような問題と多様化の進行との論理的なつながりについては、このインタビューに基づく報告は十分ではありません。
  たまたま今、高等学校では平成6年度の学習指導要領の改訂以来、教科・科目の多様化が進んできて、以前の小学校・中学校の学習指導要領の改訂も含めて、新しい教科・科目の影響を受けた学生が入ってきているということと、最近、特にこうした学習意欲や判断力の低下が目立つということとが、ほぼ時間を追って相即的に起こっているのではないかという推論にしかすぎません。
  先ほど例に挙げられました物理の教科書の問題ですけれども、これについては、教科・科目の多様化と並行して起こっている個々の教科の編成の仕方、教科書のつくり方の中で、ここで指摘しておりますような「内容をやさしくするため」の加工が行われたり、知識の羅列的な展開が行われているということを示したものであります。教科・科目の多様化と並行して教科内容の変容が生じつつあるのではないかということを意味しております。教科・科目の多様化が、結果として学力低下につながる副産物を産出しているのです。
  続きまして、大学でどのようなことができるかということでございますが、実は90年代以降の大学改革の中で、日本の大学は相当のことをやってきていると私は思っております。非常に多くの大学で、少人数の、いろいろな呼び方がありますが、高等学校教育から大学教育への転換を図るためのゼミナールをやっております。その中で、学生は自分で問題を設定し、それについて調査し、報告し、討論するという訓練をかなり受けております。
  きょうは報告しませんでしたけれども、私が今回のインタビューで知りました例を申し上げますと、高等学校から大学への転換教育のための少人数のゼミナールの中で、大学では、与えられた問題に対して答えが一つではない、答えが複数あり得る、あるいは3通りもあり得る。また、そういう立場で発言してもいいんだということを自覚した学生は、その後、非常に伸びているということがございます。たまたまそうした学生をずっと追跡してこられました名古屋大学法学部のある先生によりますと、その基礎ゼミナールで積極的な学習態度を示した学生は、その上の本格的なゼミナールの報告等でも同じように積極的な対応を示したのだが、そのほかの講義等の成績は「優」が非常に少なくて、むしろ「可」が多い学生であった。その学生はしかし、最近、非常に優秀な学生が就職すると考えられている会社への就職が決まったということであります。
  その先生の評価では、大学で学ぶ学び方というのは、自分で問題を立て、解き方を見つけることなんだということを自覚できた学生は伸びる。そのような指導をしていかなければいけないとおっしゃっておりました。直接的なお答えにならないかもしれませんが、大学で相応の教育努力をしていることは、どこについても言えると思います。

○  大変興味深くお話を伺ったんですが、かなり内容の多いことを短時間でお話しになったので、私も十分理解できていないんですけれども、特に資料の1枚目の下のほうにございます、「大学在学中の学力の特徴」というところで、どちらかというとマイナスイメージの学生が増えているというふうに受けとめたわけです。
  これはいろんな要因があって、端的に言うことはなかなか困難なのかもしれませんが、それは先ほど高等学校の多様化のお話も出ましたけれども、高等学校教育の結果こういうことになるのか、あるいはまた大学の入学試験の在り方、受験科目、あるいはそのレベル、あるいは問題の内容・出し方等にあるのか、あるいはまた今日の社会の様々な風潮がこういう学生を多く生み出していることになるのか。これは端的に言うのは難しいかと思うんですが、先生のお話を伺うと、どちらかというと1番目の高等学校教育に問題があるようにもうかがえたんですが、その点、いかがなものでございましょうか。

○森意見発表者    先ほどの他の委員の方もそのように御理解いただいたようでありまして、私の説明に不十分な点があったということを感じております。私が今回行った、インタビューを通じて大学教育の現場におられる先生方から把握したのは、端的に言えば、近年の大学在学中の学生の学力の特徴は、むしろ入試の在り方に負うているということであります。ただ、その背景として、高等学校における教育内容や教育方法の変化があるのではないかということを、これは必ずしも十分なデータではなくて、推定を交えて先生方がおっしゃっているということだと思います。主要には、今日の受験の在り方、入学試験の在り方に負うというお考えが多かったと思います。そのことが、大規模なデータをコンピュータで操作して、非常に正確なデータを出す受験産業の在り方への批判なり懸念になってあらわれているということであります。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました。
  それでは、お時間もきておりますので、質疑はこれまでとさせていただきます。森先生、本日はお忙しい中、御説明いただきましてありがとうございました。
  それでは、引き続きまして、柳井晴夫先生を御紹介申し上げます。柳井先生は、現在、大学入試センターの教授で、研究開発部長でいらっしゃいます。御専門は教育心理学です。本日は、「大学教育を受けるのに必要な能力について」、20分程度御発表いただきまして、その後、10分程度の質疑応答を行いたいと思います。
  では、柳井先生、どうぞよろしくお願いします。

○柳井意見発表者    ただいま御紹介いただきました大学入試センターの柳井です。資料に基づいて説明させていただきます。
  与えられた課題は「大学教育を受けるのに必要な能力について」ということです。この「能力」をどのように定義するのかというのはなかなか難しい問題でありますが、ここでは、簡単に説明させて頂きます。能力は心理学ではいろいろな形で定義されておりますが、「適性」という中で、「能力的側面」あるいは「非能力的側面」という言い方があります。さらにまた、「能力」は「技量」とか、「潜在的能力」に分かれるといったような議論があります。きょうは時間がありませんので、そこに関しては触れません。きょうの話は、特に大学入試センターで行いました幾つかの調査をもとに、具体的な話をさせていただきます。
  「能力」というものをもう少し広く「資質」という観点からとらえることができます。具体的なデータとしまして、資料の4枚目の「図1」を御覧ください。この図は、きょうの課題の「能力」を適切に表わしているのではないかと思って私が選んだものです。大学入試センターで平成4年に、全国の国公立大学教官約4,000名に調査を行いました。先生方に「先生の所属する専門を学生が修了するために必要とされる能力は何ですか」という質問を、最初は自由記述で行いました。その自由記述で行ったものをいろいろな分析にかけて、「図1」のような形に分けたものです。
  ここでは「能力」というか、「資質」という言葉を使ったわけですが、100以上の資質は「性格・態度」、あるいは「技能・スキル」「興味・関心」というように分類されます。こういったものが大学の先生方が評価したという観点で、大学を卒業するのに必要な広い意味での「能力」ということになると思います。
  図1の上部に性格的な資質、真ん中がいわゆる「能力」、あるいは知能・学力的な資質が入っていると思いますが、かなり細かく大学の先生の目で見たという意味で、貴重なデータではないかと思います。
  こういったすべて観点を調査するのは大変ですので、我々は27の資質にまとめました。その結果については、資料の5枚目の「図2」を御覧ください。100以上あります細かい資質を27に分けまして、大学の各分野の先生方に、自分の専門分野を卒業するにはこういったものがどの程度必要かという評定を行って頂きました。ここでは単純に「必要か必要でないか」ということを調査しました。この調査は全学部、文科系から理科系まであらゆる学部、芸術学部まで含めてあります。例えば医学部系などのように教官数が少ないところはほぼ全数調査になっております。そういった意味で、少し古くなりましたが、国立大学の教官の集大成の意見が反映されている貴重なデータであると思います。
  まず第1位として、「探求心」というものが学部にかかわらず広く必要とされていることがわかりました。これは当然といえば当然の結果です。要求されているパーセンテージは85%ぐらいです。三つの線がありますが、上から順番になっていますのが教官の必要度を表しました。「探求心」「論理的思考力」「持続力」「発想力」「判断力」「文章表現力」「自己表現力」「語学への関心」、こういった資質がどの学部の学生にも必要だというふうに教官は答えています。
  さて、あと線が2本あります。教官と同時に、学生にも調査しました。学生は、大学の教養課程を学んだという基準で、3年生あるいは4年生、医学部の場合は5年、6年の学生を約4,500名調査しました。学生に関しては二つの群に分けました。「高適」「低適」という意味は、自分の専門分野で満足している、あるいは適応している、あるいは将来的に自分の専門を生かした職業に就ける、そういったような質問に基づき、すべての学生を上位25%を高適応群(「高適」)、下位25%を低適応群(「低適」)と分けて、同時に図示したわけです。
  ここで強調したいことは、先ほど申しました最も強く必要とされた「探求心」から「語学への関心」までの8つの資質は、どの学部においてもそれぞれの学部で適応していくために必要とされる資質をあらわしているということが明確に調査結果に反映されている事です。図の下へいくほど学部特有のもので、例えば「音楽」とか、「美術」とか、「空間図形」とか、「機械技術」の必要度は、当然学部によって変わってきます。
  もう一つそれに関係したものとして、資料の6枚目の「図3」を御覧になってください。「図3」に関しましては同様の調査の中で、「大学の教養課程あるいは1、2年の間で27の資質がどの程度養われましたか」ということを学生(専門課程で学ぶ3年・4年の学生)に質問しております。その平均値が点線で、教官のほうは実線で先ほどのグラフを書き直したものです。やはり先ほどの上位の七つの資質、すなわち、「探求心」、あるいは「論理的思考力」「文章表現力」「読書力」「持続力」「判断力」「発想力」といったものについて、学生の1、2年次で形成された度合いが必ずしも教官の希望を満たしていないということがわかります。
  言い換えますと、実線と点線の差、点線を教官の希望する実線に持ち上げるような教育が現在の大学教育において必要ではないかと主張したいと思います。この差の部分を小さくするような教育が、大学1、2年次、あるいは3、4年次においても必要とされましょう。大学の教官が要求するものと学生の実態とのギャップが、先ほど言いました七つあるいは八つの特性に明確にあらわれていると思います。
  資料の1枚目のほうへ戻ります。「提言(1)」は、今申しましたように、こういった資質を学生に形成させるような大学教育の改善ということを提言するものです。
  もう一つ、高等学校で学ぶ教科・科目に関しまして大学の学部の教官から「外国語(特に英語)」と「国語」は高等学校時代にかなりの程度学習しておくよう要求されています。しかし、これらの科目に対する学生の得意傾向は、教官の要求度に比べて著しく低いことがわかりました。「外国語」「国語」に関しましては、おしなべてすべての学科で要求されているのですが、理科系の学生は文科系に比べて「外国語」「国語」が得意でないということが明確にこの調査結果に表れています。
  学部別のことはあまり詳しく申しませんが、学部別に見て特徴が異なるものに、「判断力」は法学系と医学系で、「文章表現力」が経済系、文学・社会学系、教員養成系、「持続力」が理学系、工学系、農学系、「協調性」が医学系、歯学系などで強く要求されていました。これがまず第1の調査に関するものです。
  次に、第2の調査は少しホットな話題を取り扱ったものです、大学入試センターが昨年12月に、学生の学力低下に関して国立大学の各学部長に対して行ったものです。国立大学が95、学部数は362あります。その主要な結果を、資料の7枚目、8枚目に載せておりますが、まだ整理をしている段階ですので、きょうの段階では「図4―1」「図4―2」だけを提示しました。
  詳しいことは時間の関係であまり話せませんが、学力低下が最近話題になっていますので、それに関していろいろな質問項目を含めた調査を行いました。これから話しますことは先ほどの森先生の話と関係あると思います。「図4―2」を御覧になってください。学力低下が深刻と思われる具体的内容とは、「論理的に思考し、それを表現する能力が身についていない」、また「自主的、主体的に取り組む意欲が低い」が、挙げられています。これらは学部に関係なく、およそ80%ぐらいの学部がこういったことに関して悩んでいるという結果です。
  もう一つの「図4―1」をご覧ください、「外国語の基礎学力の欠如」。これは実線ですので、比較的高いのが理学部と工学部ということになります。
  それから、「日本語の基礎学力の欠如」は、押しなべてどの学部でもみられる学力低下の実態ですが、平均して30%ぐらいの学部がこういったことを指摘しております。
  資料の1枚目の下から4行目です。こういったことに対する対策としましては、「高校以下の教育で論理的思考力、表現力など基礎的能力をきちんと身につけさせるべき」であるという意見が、80%の学部で見られました。さらに大学入試との関係では、「大学入試で知識量だけでなく、論理的思考力、関心・意欲を含めて測定すべきである」という意見も同様に80%近くの学部で見られました。
  こういったことに関して、資料の2枚目の「提言(3)」に、まとめました。つまり、「大学入試で知識量だけでなく、論理的思考力、関心・意欲を含めて測定すべきである」という意見については、今回の調査で、かなり多くの大学の学部学科の教員が主張しているように思われました。
  次に、学力低下の具体的内容に移ります。これは先ほど挙げましたことの繰り返しになりますが、「大学での学習に必要な基礎科目を履修していない」「英語、日本語などの基礎学力が低い」といった内容を指摘した学部は、文系よりはむしろ理系、特に理学部と工学部に多く見られました。こういった内容の学力低下を訴える学部の多くは、「大学入学の要件として特定科目を履修指定させる」または「大学における必修科目の増加の必要性」を強く感じている傾向が見られました。
  さらに、こういった学力低下に対する対策として、これも先ほどの森先生の話の一部に含まれていたことですが、「個々の教官が授業をわかりやすく工夫する」「TA(ティーチング・アシスタント)を導入して、学習指導の密度を上げる」を行っている大学は学部によらず90%近くあるようです。また、「必修科目の増加、履修の順次性の強化」など、カリキュラムの改善を行っている大学も多数ありました。それから、最近話題になっていますが、大学でのリメディアル(補習)教育を実施している学部は理系に多く、文系は非常に少ないということがわかります。
  以上、昨年12月に行った調査結果のほんの一部の紹介ですが、最初の話との関連で申しますと、入試で「論理的思考力」「関心・意欲」を測定すべきであるという主張が強いように思われました。逆に言えば、こういったものが最近の学生には欠如しているということが、調査の方でもはっきり確かめられたと思います。
  そこで、2番目として、こういった「論理的思考力」「関心・意欲」を、どのような試験で測定すべきかということを簡単に触れたいと思います。
  恐らく「大学入試センター試験では「論理的思考力」「意欲」等を測っていないのか」という御質問が出ると思いましたので、資料の8枚目に「表1」を用意しました。これは少し古くなりましたが、平成5年に大学入試センターが高等学校教員と大学教官を対象として調査したもので、ここに挙げました五つの選抜資料、すなわち「センター試験」「個別学力試験」「小論文」「面接」「実技」が、表1の左に示してあります15の特性を測定しているか否かについて調査したものです。これは意識調査になります。数字はパーセンテージです。
  大学教官のほうは、「センター試験」は「基礎学力」と「基礎知識」を測っている、「理解力・読解力」に関しましても61%が測っていると回答しています。最近は私自身もそういう傾向が強くなっていると感じております。かなりのパーセンテージの大学教官から「センター試験」でも理解力は測れているという回答をいただいています。しかし、これは5年前ですので、最近の傾向はまだ調査しておりません。
  それに比べまして、高等学校の教員のほうは、「センター試験」が「理解力」を測かっていることについて肯定している割には45%で、大学教官に比べると低いようです。「個別学力試験」について、「基礎学力」「基礎知識」よりは「理解力・読解力」を測っているということを随分はっきり言っています。
  2番目として、資料の2枚目の2ページの「b」に移ります。最近、総合試験がいろいろな大学で行われています。平成10年度は134大学の1,003学科で総合試験及び小論文を実施していることが報告されています。大学入試センターでは昨年10月にこれらの大学に調査を行いました。総合試験は医学部・歯学部、工学部で行われ、小論文試験はどちらかといえば教員養成学部で実施されていることがわかりました。また、ここでも同様に調査をしましたが、総合試験で測定されている資質は、「思考力」「問題解決力」、また小論文で測定されている資質は「文章表現力」「発想力」「探究心」であることがわかりました。
  資料の3枚目になります。総合試験は大きく分けますと二つのタイプがあるように思われます。一つのタイプは「教科・科目複合タイプ」。高等学校で教育される個々の教科・科目の内容の枠を超え、幾つかの教科・科目の内容を融合した形で出題されているものを指します。特に関連教科としては、理科、数学、英語が多くて、国語、社会はやや少ないことがわかりましたが、現在の大学入試で実施されている総合試験はこのタイプが多いと思います。
  もう一方は、「教科・科目に限定しない能力を測るタイプ」の総合試験です。これは大学受験を受けるのに必要な基本的能力の測定を目指していると言えると思います。高等学校で教育されている個々のカリキュラムには必ずしも対応するとは限らないという点が問題かもしれませんが、問題解決型と呼ばれることもあります。
  このタイプに含まれる検査として、アメリカのSATが有名だと思います。SATに関しては、簡単に話しますが、カレッジボードというアメリカの団体が1926年に開発し、41年に現行のように言語、非言語という形に分けています。これを受けて、昭和22年から29年に進学適性検査が実施されましたが、SATを見本にしたところがあります。大学では昭和36年(1961年)にICU(国際基督教大学)がSATに対応した形の検査を作成し、これは現在でも行われています。また、能研テストの時代にもこれに見合った進学適性能力テストがあったこともつけ加えておきます。
  SATに関しては最近変革がありました。1994年にSATはSAT  I  に、従来からありました学力検査がSAT  II  と名称変更されました。特にここで強調したいことは、最初のSATはアプティチュード、いわゆる適性を測定することを意図して開発されました。この適性のとらえ方はいろいろあると思いますが、1994年になってアプティチュードではなくてアセスメント(評価)に変えたということは、現行のSAT  I  がいわゆる遺伝的な能力ではなくて、むしろ学力的なものを測っていると言っていいと思います。
  こういった総合試験の是非というのはいろいろ議論があると思いますけれども、高等学校カリキュラムとの関係、あるいは出題と採点に時間がかかるということなど、いろいろ解決すべき研究課題が残されていると思います。
  以上、大体話は終わりますが、大学教育を受けるのに必要な能力及び資質について、一言でまとめてみましょう。教科・科目に関連した能力としましては、当然、高等学校で学ぶ基礎科目の学力、あるいは基礎知識があることは言うまでもありませんが、特に強調したいことは、全学部的に国語力あるいは外国語力、これは大学の理科系の先生方が強く要望されています。
  また、教科・科目を特定しない能力としまして、「論理的思考力」あるいは「問題解決能力」「文章表現力」「推理力」「言語力」「数的能力」の測定が必要視されています。こういった資質は恐らく総合試験という形で測定した方がよいという議論が出てくると思いますが、もちろん大学入試センター試験でもこういったものを測ることは可能ですし、そういった努力も行われているように私には見受けられます。
  また、その他の資質としまして、「探究心」「発想力」「判断力」「持続力」「学習意欲」「協調性」、こういったものを総合したものが、「大学教育を受けるのに必要な能力について」の回答になると私は思います。
  すこし駆け足で話しましたが、これで私の話にかえさせていただきます。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました、柳井先生。
  それでは、ただいまの御発表につきまして、御質問等がありましたら、どうぞ御遠慮なく。

○  前々回にQCSとかPASSのお話があったのですが、それと先生が御説明くださった「教科科目に限定しない能力を測るタイプ」は重なっているのでしょうか。日本の場合ここでおっしゃっていただいた資料の3枚目の「ii」の「教科科目に限定しない能力を測るタイプ」ですが、これは、オレゴン州とか、クイーンズランド州とは違う形になっておりますか。いかがでしょうか。

○柳井意見発表者    日本の場合は、どちらかといいますと、今、大学で行われていますのは、英語と物理を複合したといったように、科目を複合した形のものが多いと思います。例えば千葉大学のある学科では専門適性試験ということで、かなりベーシックな空間把握能力を測っているようなところがありますが、オーストラリアやアメリカのオレゴン州のような形での総合試験は私の知っている限りでは日本の大学ではまだ実施されていないような感じがします。

○  資料の3枚目の「c」の「ii」は日本ではまだないということですか。

○柳井意見発表者    はい。私の感じではそのように考えております。

○  それはなぜですか。つくるのが難しいということでしょうか。

○柳井意見発表者    確かに非常に難しいと思います。これに関係したことでは、本日はお話しませんでしたが、MCAT(Medical College  Admissions Test )というのがあります。これはアメリカの医科大学の入学者選抜資料として使われている検査です。MCATに対応した日本版の適性検査に関しましては日本の福岡大学とか、高知医科大学で行われていますが、どちらかといえば福岡大学や高知医科大学のタイプは「ii」に対応しますが、かなり難しいということは聞いています。福岡大学のほうは最近廃止してしまったということです。

○  簡単な質問です。資料の6枚目の「図3」で、先生の要求している資質と、大学で学生がどれぐらい資質を形成したかという自己評定のズレが興味深いのですが、先生の側の「自分が担当している授業を聞くと、学生のこれこれの能力が上がるはずだ」とか、「そこに力を置いてやっている」とか、そういう要素はこれには全然入ってこないんですね。学生が大学に入ってからの向上という側面はこのデータには全く入ってこないわけですか。

○柳井意見発表者    この質問の意図は、学生が1、2年の間でこういう能力が形成されたかどうかということを聞いたものです。教官のほうは、こういった特性が必要かどうかということで、そのギャップをあらわしています。

○  ですから、先生がこういう特性を向上させようと思って講義しているんだという前提はないわけですね。

○柳井意見発表者    そういう形では聞いていません。そうあってほしいということです。

○田村委員    それでは、残りの時間、私が進行を務めさせていただきます、よろしくひとつ御協力のほどをお願い申し上げたいと思います。

○  森先生の御発表で、先ほどお二方からの質問にもありましたとおり、「多様化」という言葉が大変印象深く使われておりました。高等学校教育あるいは高等学校までの教育と言っていいかもしれませんけれども、基礎・基本の部分が大変多様化している。そのことの結果、全体に若者の知的レベルが下がってきているのではないかという取り方をしかねないという御指摘があって、森先生御自身はそうではないというお話でありましたけれども、私も御説明の中で「そういうニュアンスかな」と思って聞いていたわけです。
  これは言わずもがなとは思いながら、高等学校教育までの多様化というものが、さんざん国民全体が苦労して、結局、今現在たどりついている一つの姿なんだということです。その結果、多様化することによって、例えば高等学校の教育に活気を取り戻せている。あるいは、本来あまり勉強したくないんだけれども、高等学校ぐらい出ないとみたいな、そういうプレッシャーが若者に対してある中で、多様化ということがかなり雰囲気を和らげる効果ももたらしている。
  したがって、多様化してきている、あるいはますます多様化するであろう一つの流れというもの、これについてはもう後戻りできないという認識をまず持って、じゃあどうするかと。多様化によって、学力不十分と思われる者もどんどん大学へ入ってくるようになるという事態はもちろん心配でありますが、ただ、やはり多様化していく姿は崩さないことを前提にして物事を考えてもらいたい。これは高等学校の代表として私はここへ来ているわけですから、そういう立場からぜひお願いしておきたいと思ったわけです。もちろん森先生の御発表が多様化を否定するものではなかったことを十分承知しておりますけれども、もう一度ここで念を押しておきたいと思います。よろしくお願いいたします。

○田村委員    先ほど他の委員の方からも御質問がありましたが、多様化が大学教育に新しい課題を持ち込んでいるという意味でとらえるということかなとも思いますが。
  いかがでございましょう。さらに御意見をいただけますでしょうか。

○  質問も含みますが、柳井先生の説明の中で、学力の低下が深刻と思われる側面の資料の7枚目の「図4―1」ですが、「外国語の基礎学力の欠如」が理学部・工学部で特に比率が高いという指摘をされました。理学部や工学部に進学する高等学校生はどちらかというと学力が高い生徒です。それ程学習内容や指導方法が最近変わっていないと認識しています。
  理学部や工学部は、科学技術の発展が非常に早いですから、大学の方の教育内容の変化が大きく、要求度に違いがあるのではないでしょうか。基礎学力の欠如ということは、高等学校側ではそれ程大きな低下と考えていないのに、結果的に大きな認識の差が出てきたのは、大学教育の変化によるのではないでしょうか。その辺大学の特に理学部や工学部の先生にお聞きしたいと思っています。
  医学部や歯学部のところで、例えば「基礎学力の欠如」が出てくるのは、例えば「生物」を学習してこないものが入学しているとかという事実はあるでしょう。「化学」「生物」を勉強してこなかったということは分かりますが、高等学校教育での教育内容や指導力に問題があると指摘されると、ちょっと疑問を感じるところがあります。

○田村委員    理学部、工学部の場合は、インターネットの関係かなという気がちょっとしていたんですけれども。どうでしょう、今、理学部、工学部というのはインターネットを使わないと研究ができないらしいので、その関係もあるのかなという気がしたんです。柳井先生、何か御意見ございますか。

○柳井意見発表者    やはり先生がおっしゃいましたように、要求度の違いが一面あるような気がします。

○  柳井先生にお伺いしたいんですけれども、能力というものですね。いわゆる技能的なものと適性と、それから潜在能力みたいな三つぐらいのものがあると。一体、今の大学入学試験というのはどこを測っているんだろうかということが、一つ疑問があるんです。その辺の略されたところをもうちょっと御説明いただくと、私どもの議論を深めるきっかけにもなるかと思いますけれども、いかがでしょうか。

○柳井意見発表者    これは、大学審議会の大学入試に関する専門委員会で、昨年2月16日に私が話した点ですけれども、「能力・適性」という言葉はよくいろいろな場面で使われていると思います。「能力・適性」というものを大きく分けますと、能力的側面と非能力的側面に分かれるということ。さらにまた、能力的側面は潜在的能力、それから技量に分かれます。技量といいますのは、学力とか、技能が入るわけですが、能力との関係で申しますと、「獲得した能力」、「学習したり遂行したりする力」ということになると思います。いわゆる学力試験というのは、能力がどれだけ到達したかを測定しいることになると思います。
  ただ、その場合、潜在的能力といいますか、先ほど申しました「論理的思考力」とかいったような、幅広い能力があると思いますが、そういったものがいわゆる学力の範囲を超えているかどうかということか、しばしば心理学者の中で論議されています。ですから、先ほど申しましたアメリカのSATも学力を測っているのか、適性かという議論がいろいろありましたが、最近はどちらかといえばSATは学力的なものを測っているという意見が多いようです。ただ、その辺、学力とか、知能というものの明確な基準は非常に難しいと思います。最近では、知能の中に知力という概念も出ていますし、「心の知能」というものがアメリカでは話題になっています。そういった意味で、限定的に一線を引くことは難しいと思いますが、大学入試というのはこれまでは学力を中心に測ってきたと言えると思います。
  ただし、それに対しまして意欲というものは、非能力的側面の中の人格的要因と関連します。人格的要因の中では、欲求とか、性格とか、興味というものがありますけれども、こういったものを総合化した形で、広い意味での大学に必要な能力というようになってくると思います。

○  柳井先生の御意見では、意欲といいましょうか、EQとか、こういったものは入試で測れるものでしょうか。すいません。

○柳井意見発表者    大学入学入試のやり方もいろいろありまして、最近では面接が行われています。面接も、信頼性というか、評価方法の点で問題がありますけれども、意欲的なものを測定する試みではないかと思います。意欲をいわゆるペーパーテストで測ることは非常に難しいと思います。

○  透過率は落ちるけれどもということで、やれることはやれるということなんですね。

○  一つは、先ほど高等学校の多様化の問題がありましたけれども、高等学校の多様化というのは、高等学校教育全体を見たときの多様化であって、一人一人の生徒にとってみれば多様化でも何でもないんで、自分の能力開発についてのいろんな選択ができるということだろうと私は思うんです。
  それは別としまして、大学教育について見ますと、入試も何も含めて、およそ大学一般について言えると思いますが、大学と一口に言ってしまうと、例えば議題にある「大学教育を受けるのに必要な能力について」といったものが、実態的に見るとあるんだろうか。
  それは大学審議会の答申にもありますように、大学にも様々な大学があるんで、研究者養成を主たる目的とする大学もあれば、職業人養成をする大学もあれば、いわゆる教養的な大学もあれば、コミュニティカレッジを目指すような大学もあれば、様々あるわけですね。だから、「A大学」の大学教育を受けるのに必要な能力、あるいは「B大学」における大学教育を受けるのに必要な能力というものはあるかもしれませんが、およそ今日の進学率がこれだけ高まって、半数近くが大学へ行くようなときに、一般的にこういうことを論ずることが、果たして妥当なのかどうかという気がするわけです。
  そういう視点が、大学入試の在り方を考えるに当たっても、極端なことを言わしてもらえれば、今、18歳人口がどんどん減少していく中で、もう質なんかどうだっていいと。とにかく定員に足りる生徒が受験してくれればそれでいいと。極端な言い方で失礼に当たるかもしれないんですけれども、そういったたぐいの大学すらあるわけですね。そういうものと、前から言われているようないわゆる影響力ある大学というか、そういうものの大学入試の在り方はおのずから変わってくるのではないかということを、全体を通じてですけれども感じておる次第でございます。

○  ありがとうございます。いかがでしょうか。今の御意見ですが、例えば論理性、探求心を追求するといっても、程度にかなり差があるということは、大学の多様化と密着してあり得るんですけれども、程度の差というのは質が変わることになるという御意見ですね。他の委員の方、その辺はどうでしょうか。

○  先ほど委員の方のおっしゃることに全く賛成でありまして、ここへ参加したときから私は考えているんですが、このテーマを一口でくくって何か議論することも難しいし、議論することも難しいぐらいですから、まとめることも大変難しいと思っております。
  そこで、今すぐどうのということではないんですが、しかしそれにしても、一くくりに接続について何か言うことになるのか、あるいはあんまり細かく分けるわけにもいかないでしょうけれども、三つのパターンぐらいに分けて物を言うようにするのかとか、そのようなことも、今すぐお答えをいただくというわけではないんですが、頭に置いて議論をしないと、何か堂々めぐりを繰り返すような気がいたしますので、先ほどの委員の方の意見に賛成して、追加して申し上げます。

○  そういったことに対し初等中等教育も、学習指導要領のレベルがどの程度であるのかということによるわけですけれども、その程度ではだめだという大学とのこの差を、高等学校の質の差、多様さで埋めるのか、それともそこに塾産業が登場するのか。その辺のところは、下のほうの初等中等教育の在り方と非常にかかわるわけですね。

○  今の御発言ですと、接続の部分の傾斜が、なだらかでいけるか、急になるかという、そのことに必ずつながってくるわけですけれども、その辺をどう整理したらいいか。何かお考えはございませんでしょうか。

○  先ほどから学力の低下と高等学校の多様化という問題が出ておりますけれども、学力の定義は非常に難しいという冒頭の話もございましたが、これの定義は別といたしましても、現実に中学校、高等学校は新しい学習指導要領に基づきまして、いわゆる学力観も随分変わってきたわけです。特に従前の学力観から大きく変わって、現在実施しておりますのは子どもの判断力でありますとか、問題解決能力というところに力点を置いてきているわけです。私のいる地域でも、いろんな追跡もしているんですが、既に中学校の段階で、従前の子どもとは違った育ち方をしている。これはいい意味でとらえたいと思います。そういうものが結果として、大学の求めている基礎学力と微妙なズレもあるのかなという感じもするわけです。
  ですから、「多様化」というこれも非常に広い言葉でありますけれども、今目指している学力観と、大学が伝統的に求めている学力観とのズレもあって、このような問題もあろうかなということをちょっと申し上げたいと思います。

○  先ほどから高等学校教育の多様化の問題、それから大学入試そのものが既に一枚岩ではないという御議論が行われているわけですが、私も全くそのように思っている一人でございます。
  議論が始まりましたときに、他の委員の方から、高等学校教育の多様化というのは、いろいろ議論をした末にここまで進んできて、もはや後戻りはできないのだ、現状を踏まえた上で考えましょうという御提案があったわけです。現在の高等学校教育の多様化を考えたときに、多様化に関する目標と申しますか、ねらい自体はたいへん多く語られているわけですが、それをどのように評価するのか。高等学校教育でこういう多様化の努力をいたしました、その結果、高等学校教育の成果はこうだということを示すための方法論が欠如しているのではないかと思います。
  日本の教育システムの根本的な欠陥ではないかと思いますが、高等学校教育の成果、特に進学者につきましては、大学入試で評価をするという形でずうっと今まできている。ところが、これはやはり筋違いなのではないか。高等学校教育の成果、あるいは初等中等教育の成果は、それぞれの段階でもってきちんと評価をすべきであって、それを上級学校の入試でもって評価をするというのは、話が違う。これを是正することなしに、大学入試をどうこうすると言いましても、非常にあいまいな制度的欠陥を抱えたまま接続を考えなければいけないということになります。
  したがって、高等学校教育の多様化も結構ですけれども、多様化をしたのであれば、その多様化の評価をどうするのか。それを踏まえた上で、大学入試の議論をしなければいけないということを申し上げたいと思います。

○  今のお話は、私も本当にそうだと思います。初等中等教育の成果の評価はそこでしっかりやってしまわなければならないと思っている一人であります。
  森先生のお話の中で、資料の1枚目の下の方から2枚目にかけて、「大学在学中の学力の特徴」という項目がありまして、「A」は「積極的学習姿勢と自主的判断力を持つ学生―20%」、「B」は「中間層に位置づけられる学生」、「C」は「積極的学習姿勢も自主的判断力も全くもたない学生」ということで、「そしてCタイプの学生がBタイプの学生に影響を与えて全体の傾向を作る」というようなことが述べられております。
  これは先ほどから話が出ている多様化という問題の中で一くくりにしてしまえば、いろんなのがあっていいんだということになってしまうのかもしれません。しかし、学校へ行って学ぶという姿勢から見たときに、随分外れている人たちもいっぱい入っていると思えてならないし、それによって以下では、「自分で自発的に物事を考える力がなく、自分で問題をどのように把握して、どのように解決するかがわかっていないという特徴と関連がある」ということが述べられています。そして、大学入学の目的ということに関しても、「入ってしまえばもうそれで終わりだ」というようなことが述べられ、さらに留年のところでは、「入りやすく出やすい上に、留年もしないで済む」というような物の考え方になっているということです。このように見てくると、大学自体が随分とおかしなものになりつつあるのではないかと私は思えてならないんです。
  先ほど他の委員の方のお話の中にもありましたけれども、初等中等教育から大学へ進む過程の問題、初等中等教育はそれで終わって、さらに大学ということを考えたときに、大学の在り方に関して、やはり中に入って学ぶ姿勢が十分にないと、それぞれの大学が自分たちの首を絞めていく姿勢のほうにどんどんいくのではないか。どなたもおっしゃらないんですけれども、大学の経営という問題に非常にかかわっていて、多様な学生を採ることによって経営が成り立つというところにも一つ問題があるのではないかと思っています。
  先ほど森先生は、留年ということ、それから今後の課題のところをあまりお述べにならなかったんですけれども、そのような書き方をされていて、ではどうあったらいいのかということをもう少し聞かせてもらえるなら聞かせてほしいと思います。

○森意見発表者    適切にまとめられるかどうかわかりませんが、一つ御理解いただきたいと思いますのは、今回、私がインタビューいたしまして、主に答えていただきました京都大学や名古屋大学の工学部の先生方というのは、日本の工学教育における教育プログラムについて、日本の科学技術や経済が今までのキャッチアップ型ではだめで、より創造的な性格を持たなければいけない。そうでないと、国際競争に立ち遅れる。一方、従来のような発展のための科学技術の追求では、地球環境の変化の問題、環境問題と真正面からぶつかる。だから、一方では科学技術をより創造的にし、一方では環境問題にも対応できる教育プログラムを、日本の国立大学を中心にした工学部教育の中でどのようにつくっていくかということを考えておられまして、そういう問題意識が前提に恐らくあるだろうと思っております。ですから、極めて現実的な必要から、日常的に教育活動を行ったり、それの点検をやっておられるということであります。それが一つであります。
  先ほどおっしゃいました中での留年の問題でありますけれども、国立大学では留年がこのようにまだできるんです。30%です。ところが、私学では留年がなかなかできない。これは経営上の問題があるからです。ですから、国立大学ではまだ留年ができるという状態で、このパーセンテージがあるわけであって、経営の問題から相対的にフリーであるということがこのデータになっていることを御理解いただきたいと思います。
  なぜ留年が起こってくるかという原因ですが、先ほど御指摘の、大学に入ってそこで目的を達成したという感覚を持つ学生諸君が、インタビューをした先生方の大学でもかなりの比重でありまして、その学生は低学年次の間、何をしていたかわからないような状態で過ごすわけです。そして、3年になってみて、工学部でありますから、段階的には積み上げのプログラムがありまして、どうしてもより専門性の高い授業を受けなければいけない。それで一、二回授業に出るんですが、前提がありませんから、とてもついていけない。そうなると、卒業研究に必要な単位をそろえられない。単位をそろえられないと卒業研究はできませんから、当然、留年ということになる。そういうコースをたどっておりまして、大学に入学した段階の彼らの姿勢とか、意欲が、実は留年に響いております。
  そういう中で、大学のほうで今考えておられますのは、いわば中間層に位置づけられる学生を、より積極的に、自主的にするために、工学部においても、答えが必ずしも一つでない試験問題を出す。あるいは、教科書の自己分析を徹底的にやらせる。あるいは、チームを組んで、かなりの費用をかけて、それも答えがない一環になるわけですが、あるテーマを与えて実験させ、そこからいろいろな新しい考え方を開発する、そういう授業もやっておられます。その面では、教育改革というのはある程度進みつつあるわけですが、どうしてもドロップアウトしていくのに近い層の問題がなかなか解決できないところに深刻なものがあります。これは文系でも共通でありますし、私学においても当てはまることではないかと思います。
  今後、大学としてはどのように考えていくかということでありますけれども、先ほど申し上げましたように、教員の間で現状の認識と教育方法の開拓についての相互努力を組織していく以外に、なかなか当面の解決方法がないと思います。初等中等教育以下についてどのように考えるかということについては、一旦おかせていただきますけれども、教員の教育活動への努力の一端が工学教育のプログラムの新しい開発でもありますし、各大学でも幾つかFDが開始されているということになるかと思っております。
  十分なお答えでないんですけれども、現状を中心に御説明申し上げました。

○  先ほど来出ているお話で、高等学校も多様化していて、それから大学もいろんな幅があるでしょうというのは、言葉をかえれば大学も多様化してきているということです。どなたかがおっしゃったように、高等学校教育、大学教育、それはそれなりにそれでいいのか、あるいは十分に多様化しているんだろうかという観点も入るかと思いますが、評価がなされなければいけないというのは、私も賛成いたします。高等学校が多様化し、大学が多様化していくということを前提に考えれば、当然に大学入学試験も多様化していって当然だし、せざるを得ないということなんだろうと思います。そういうことを考えますと、大学入学試験がどうあるべきかということを、形にはめる形で議論をするというのはいかがなものだろうかという気がしないでもないというのが1点です。
  2点目に、私が理解しておりますところでは、大学の入学試験というのは、かなり自由にできる  ―これは二、三回前のときにも申し上げましたけれども  ―と聞いておりますし、それから先ほどの森先生と柳井先生のお話は、実は大変に共通したところがあって、大学生の中に論理的に思考ができて、自発的に行動がとれて、学ぶ意欲が積極的である学生たちが育っていないということであります。
  そうであるならば、大学が入学試験をやるときに、そういう学生を選択できるような、特にそういう学生を欲しいと思っている大学は、そういう大学入学試験を自分でなさればいいではないだろうかと単純に思ってしまうわけです。恐らく現実問題としては、そう思って、それができない様々な理由がおありになって、それは先ほど来出ていますような財政的な理由かもしれませんし、大学入学試験のコストということもかもしれませんし、それから社会の見る目、客観性の担保とか、いろんなことがあるんだろうと思います。逆にそういう周辺の問題をどうやって解決をしたらいいかということを考えるほうがあるいは先決問題で、そうであれば、単純化して言ってしまえば、多様化する高等学校、多様化する大学の中で、大学入学試験が多様化するという形をとれば、問題は割に簡単に解決するのではないだろうかと思ってしまうんです。

○  教育の多様化というと私たちは、まず、カリキュラムの多様化を考えます。生徒の関心をひろげますが、生徒が意欲をもって関わってくる科目はどうしても限定されます。然も、十人十色です。
  一方、大学の教員は、「発想力」「判断力」「持続力」あるいは「探求心」等を求めているわけですけれども、この十人十色の生徒たちの興味と関心を前にして、これらの能力を育成するのは容易ではない。それに、大学サイドと高等学校サイドでこれらの能力に関するイメージが一致しているかどうか。まずは、個々の教員が自分の専門領域で具体的に実践していくことが必要であろう。その意味で、本日の両先生のお話は大変有意義でありました。
  自分が興味を持った領域においてこういった能力が、特に発達していくことは明らかです。
  これについて、高等学校と大学のリエゾンという線で考えてみますと、大学教員と高等学校の生徒との接触の機会を増やすようにし、生徒が何に最も興味を持ち、どういう点に力を発揮できそうなことをよく見据えて、他の大学も含めて、進路相談にのってあげることは出来ないか。日本の次の時代を背負っていく若者を、自分が所属する大学にこだわらず、大らかな気持ちで育てていきたいものです。

○  この小委員会で発言するのはなかなか難しくて、一般論の限界について先ほども御指摘がありましたけれども、本当にそのとおりだと思います。しかし、大学で実際に、私は文科系、法学部のほうですけれども、きょう森先生の資料を拝見して、とりわけ「A」「B」「C」の3分類のあたりですね。森先生の資料は主として工学部の先生のインタビューのようですけれども、法学部もちょっと出てきますが、私どもでも恐らくほとんどの先生がこのような実感を持たれているだろうと思います。そういう意味で、特に全国データがなくても、恐らく大学教師の実感はこんなところだろうと思います。
  ただ、考えてみますと、20%ぐらいやる気のあるやつがいて、20%ぐらいはやる気がなくて、あとは真ん中大勢というのは、考えてみれば自分たちが学生のころもそうだったかなと思いますし、これは永遠の問題なのかもしれないとも思うんです。ただ、「C」ランクは昔も今も似たようなものかもしれませんけれども、「A」については、「A」なんだけれども、「A」の中身がちょっと変わってきているかなというのはあります。そのことはもっと分析してみなければいけないのかなと思います。積極的学習姿勢とか、自主的判断力は、ほかのに比べればあると言えるんだけれども、しかし本当に自分で探して次々にやっていくというより、やはり整理して与えてあげると動き出すという学生が増えているような気がします。
  申し上げたいのは、「A」「B」「C」が、きょうのお話でも、高等学校教育の多様化ということと直線的に結びつく話ではなさそうで、それとは直接的には関係のないことなのかなとも思います。では大学入試のせいかというと、これもよくわからないんですが、森先生の御提言の最後は、もっと丁寧な大学入試をやっていけば、例えば大学入試センター試験のスコアは悪くても、本当は「A」だというのを、丁寧な大学入試をすれば選び取れるんだと。大学側がそういう可能性があるならば、もっと手間暇かけた大学入試をしていくというインセンティブにもなるかと思うんですが、どうもそこは自信がなくて、これは大学教師の本音のレベルでいきますと、普通の学力試験をやっていれば、大体いい成績を取るのがそのまま「A」になる可能性が割と高いから、何となくそのままやっているという程度のことなのではないかと思うんです。
  どうも消極的なことを申しているようで恐縮なんですけれども、入試をあれこれいじっても、結局、「A」「B」「C」はそれほど変わらないような気もするんです。そうだとすると、高等学校教育の中身の多様化の話でもないし、入り口の入学試験が決め手でもないとすると、やはり大学の学部教育のとりわけ低年次といいましょうか、1、2年次での教育カリキュラムがずれてしまっているので、そこのところを変えるしかないのかなと思うわけです。
  多くの大学がカリキュラム改革を、これは大変な時間的、労力的コストを払ってこの10年来やってきたと思うのですけれども、何分4年間の幅は決まっていて、しかも専門教育の一定水準は確保しなければならない。くさび型教育だとか、専門教育をとにかく1年次からやるんだとか、専らそっちのほうへいっちゃいましたので、結局、高等学校までの勉強の仕方と違う、自分で物を考える大学らしい勉強の仕方を教えるという余裕が、時間的にも心理的にもマンパワー的にもなくなってきているというのが多くの大学の共通の悩みなのではないかと思います。
  そういう意味で、じゃ学部教育を5年とか、少し増やすという方法もあるのかもしれないですけれども、もうちょっと丁寧な1、2年次の、しかもとりわけ、逆説的なのかもしれませんけれども、かつての教養教育のようなものの充実という方向で、何か活路を見出せないものだろうかというのが、私なんかの個人的な感想なんです。そこをきちんとやれば、「A」とか、あるいは「B」、むしろ「C」からまたいい学生が出てくるのかもしれないということですね。そういうようなことを大学教育で1、2年次のときにやれたらうれしいなと思うんです。
  ところが、皮肉なことに、いい成績で入ってきた学生ほど、例えば法学部ですと、1年生のときから司法試験とか、そういう塾に平気な顔して行っちゃいまして、こっそり行くのではなくて堂々と行きますんですね。だから、「本当の勉強は」とか教師が言っていても、要は専ら国家試験対策用のマニュアル的な知識ですね、それを覚え込ませてくれるところへ、これは自発的に喜んで行くわけですから、何か申し上げていてもむなしいなという気がしてしまうんですが、文系学部の教員として本音的に言うとそういう感じがいたします。

○  司法試験も、会計士試験も同じように合宿でやって、世間を何も知らないで試験だけ通るというのは、今、問題になり出していますけれども。
  大学入試の問題ということになるんですが、他の委員の方から先ほど御指摘がありましたが、森先生、いかがでしょうか。「A」「B」「C」の話ですが、これは入試で解決できるんでしょうか。例えが悪いんですけれども、みこしでも担ぐのは二、三割で、2割ぐらいはぶら下がっていて、あとはくっついているだけというのが一般だそうですが、そういう現象というように割り切っちゃってよろしいんでしょうか。それとも、入試あるいは大学教育に原因があるんでしょうか。

○森意見発表者    ここで「丁寧な入試のいくつかのあり方」と私が書きましたのは、先ほども申し上げましたが、AO入試、いわゆる学習成績以外の力も面接等を通して見るというタイプの丁寧な大学入試が、今、追求されているんですけれども、もしそれを追求するとしたら、現在、一般入試を適用されている多くの学生に対して、それを適用するだけの思い切った転換がないと意味がないだろうということが一つです。
  もう一つは、丁寧な大学入試ということで、大学の教師の中で、もしできたらというように考えているのは、学科試験をもっと時間をかけてやるということです。数学なら数学に半日かけるとかですね。私どもが1954年に大学入試を受けたときは、相対的にはもう少し長うございましたけれども、学科試験を時間をかけて丁寧にやれれば、もっと学生の力もつかめるし、また引き出せると考えている先生もいるということで、その点についても、難しいかもしれませんが御検討いただきたいと思っております。
  それから、先ほどの委員の方の質問に対して十分にお答えできなかった点を補足します。私が報告の最後のほうで「エクストラ・カリキュラアクティヴィティーズ」に関するいくつかの資料を出しまして、例えばスチューデント・サクセスとか、スチューデント・サービスとアカデミックな部分のパートナーシップというカナダやアメリカでの試みに言及しましたのは、実は今、日本のどこの大学でもサークル活動がかなり下火になってきているという事態があることにも関わります。たまたまインタビューでは自主的な判断力と学習意欲の問題が出されました、しかし、サークル活動も学生の自主性や連帯性を養う上で貴重な活動なのに、公認のクラブ活動への参加のパーセンテージがどの大学でも減ってきております。かつて6割を超えていた三重大学でも、今、5割に減ってきておりますし、多くの大学は3割になってきているということがございます。
  その場合に、例えば文科系のESSのような華やかな、長年にわたって学生に一番アトラクティブであり、参加者が多かった部でも、その練習の厳しさが多くの学生をそこから避けさせる原因になっているんです。そうしたことも含めて、低学年次の教養教育の問題をもし取り上げるとするならば、学生のカリキュラム外の生活の指導という点についても、もう少し大学や文部省が目を向けなければいけないのではないかということを切実に感じております。

○  複雑に入り組んでいて、どこかのボタンを一つ押せばたちまち解決策が見つかる話ではないことを承知の上で、同時に先ほど他の委員の方がおっしゃったことに触発されて、それを少し発展させた形で意見を述べたいと思います。
  今の大学は4年制の学部中心主義を前提に議論をされている。しかも、それは専門教育中心主義でもある。これを前提にするのを少し考え直してみるのはどうだろうかと考えます。つまり、専門的教育について、研究者養成も、あるいは高度職業人養成も含めて、大学院中心主義に置きかえてみると、いわゆる4年間というのはかなりの部分、教養教育的なものを強化していく方向になるだろう。同時に、1960年代ぐらいまでの高等学校教育が担ってきた、いわゆる高等普通教育の一部を、大学の教育も前半で担うといったような方策をもはや考えていくべきではないかという気がします。
  というのは、例えば教育課程審議会並びに学習指導要領の変遷を眺めてみましても、教えるべきあるいは学ぶべき知識の量は減らす、そのかわり学び方を学ぶとか、物の見方を身につける方向に持っていこうとしているわけで、知識の量は、今からの高等学校教育以下の学校では減ってくるという傾向に当然なってくる。少ないものをじっくり学ぶという方向になってくる。そうすると、本格的な教育は大学の前半の部分になってくるのではないかという発想の仕方もあるのではないかと私は考えます。

○田村委員    ありがとうございました。
  実はきょうは最初から最後まで次官にお出ましいただいておりますので、ぜひ意見をお伺いしておいたほうがいいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

○佐藤事務次官    大変有意義な御議論で、一々感銘をして聞いていたわけでございます。
  最初に委員の方から、高等学校の多様化は水準の低下と結びついたものかという御質問があって、森先生はややソフトに推論にすぎないというふうにお答えになりましたけれども、私ども、例えば大学の学生部長の会議へ行って話を聞いていますと、多様化というのは、全体としての水準の低下を上手に言っている言葉というぐらいに受けとめられている方々が多いように感ずるわけでございます。
  考えてみますと、97%の子どもたちが高等学校へ行くわけでありますから、昭和23年発足当時のように、40%の進学率で考えた高等普通教育を施すという目的が、同じように実現できているかというと、実態としてはそうではなかろうと思います。しかし、ナショナルミニマムとしてのスタンダードは決めてあるわけですから、そのスタンダードは勢い、言ってみれば切り下げざるを得ない。そして、その切り下げたこととプラスして、個々の子どもたちの能力を伸ばしていくということとの組み合わせで、今の多様化という路線が出てきておりますし、これはお話に出ましたように、引き下がることのできない、みんなの知恵の結果でき上がった今の姿だと思います。
  しかし、それを制度的に見てみますと、ミニマムスタンダードは全体として切り下がってきておりますから、それだけで卒業した子どももいれば、それにプラスしていろいろな教育を受けた子どももいればというその多様な子どもたちを、50%進学することになった高等教育が引き受けるわけでありますので、そこの接続の在り方は、大学入試の前に、まずカリキュラムの上でどうつながっていくのかということも含めて、どうしても考えていかざるを得ないだろうと思っております。
  そのことはさっきからお話に出ておりますように、むしろ学部教育のファンクションをどう考えるか。120年前の学部の設計思想である専門教育の完成というのは、実態としては大きく崩れかけているわけであります。これは大学審議会で言っているような大学院教育あるいはプロフェッショナルスクールという姿と結びついていくと思いますので、全体としての制度設計を見直す時期にきておるのかなという問題意識を持っているということを申し上げておきたいと存じます。どうもありがとうございました。

○田村委員    ありがとうございました。かなり方向性が見えてきたように思うんですけれども、現実問題になるとなかなか難しいことがいっぱいあるんだろうと思って、これからしっかりと議論をしていかなければいけないテーマがまだまだ出てくるかなという感じもございます。
  それでは、きょうの審議はこれて終わらせていただきたいと思います。
  なお、今後の審議の日程につきましては、資料に出ておりますが、第5回小委員会につきましては、「大学入学者選抜の改善について」御審議いただくということで、我が国の大学入学者選抜の現状や課題についてヒアリング等を行ってまいります。また、お出ましいただいております委員の先生方にも御協力をいただいて、ヒアリングをさせていただくということも今後あるようでございます。どうぞその際はよろしくお願いを申し上げたいと思っております。
  それでは、次回は2月24日、1時から、34階、ロイヤルルームになります。どうぞよろしくお出ましをお願い申し上げたいと思います。
  ありがとうございました。

(大臣官房政策課)

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