審議会情報へ

中央教育審議会

1999/11 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第10回)議事録

  議  事  録 

平成11年11月30日(火)13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階  シルバースタールーム

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    根本会長、河合座長、小林委員、志村委員、俵  委員、中島委員、森(隆)委員

専門委員
    渥美専門委員、安藤専門委員、鈴木(り)専門委員、楢府専門委員、牧野専門委員、山口専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    富岡生涯学習局長、有松男女共同参画学習課長、御手洗初等中等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


<事務局から説明>

○河合座長  それでは、審議に入ります。

○  先週、本当にこれほど嫌な事件はないという音羽の事件がありましたが、このことに関しても、少子化の問題は避けて通れない問題だと思いました。少子化だから引き起こしたという短絡的なことではありませんが、根底には現代の社会、そして少子化問題ということがあの事件には横たわっているように思いました。
  一つは、専業主婦が1人2人の少ない子どもを育てると陥りやすい「お受験」の競争に入ってしまったということ。もう一つは、たぶん加害者の家庭では、母親だけが子育てをしていたんであろうということが根底にあるんだろうと思います。
  この小委員会でもずっと討議はされていますけれども、子どもを基本的には母親一人に任せない。父親がいれば、父親と母親が子どもを育てる。そして、もう少し広く社会が育てるというような観点に立たなければ、人の子どもを危めるまではいかなくても、大なり小なり似たような事件が再発するのではないかと思いました。
  私もいろいろお母さんたちを取材するということがありますが、お受験戦争に巻き込まれますと、もう本当にはまるという、タコつぼにはまるという形で、母親の人生の生きがいや、目標が、有名小学校、有名幼稚園などに入れることしかなくなってしまう。子どもを有名な学校に入れることが、すなわち人生の目標であり、幸福であるという考えに陥りやすいということが、取材していてもよくわかります。
  そこに、例えば別の人、つまりお受験戦争に巻き込まれていない父親とか、おじいちゃん、おばあちゃん、それから第三者でもいいのですが、少し目を覚ましてあげる立場の人たちが、介在しなかったんだろう。そこに介在すれば、軌道修正はもしかしたらされたかもしれないというような気がしまして、まさに現代において起こるべくして起こった事件だと思いました。それでもあんなに嫌な事件はありませんね。
  もう一つは、お受験戦争の果てにしても、自分の子どもと同じ年の子どもを危めるということは、たぶんこれまではあまりなかったようなことなんだろうなと思うのです。かっとなってやったというわけではなくて、計画的であったようです。若いころ、それほど子どもが好きではなくても、自分の子どもを持つと、ほかの子がかわいくなったという経験が私にもあります。この容疑者には、自分の子どもと同じ年の子どもを危めてしまうという狂気みたいなものがあった。子ども全体への愛情が足りない。これは、属人的なものなのかもしれませんが、大なり小なり現代社会には子ども全体への愛情が足りないのではないかという気がして、その突出した形として出てきたのかなという思いもしました。
  先ほどの昼のニュースでは、被害者の女の子が幼稚園の受験に合格したのを知らなかったと容疑者が言っているというような報道がありましたが、少なくとも教育に対する悩みをふだん口にしていたという報道がありましたね。お受験が本当の教育の問題なんだろうかと疑問に思うほど、子どもが小学校に入るだの、入らないだのというのは人生において実はそれほど重いことではないと思うのですが、それが本当に子どもを殺すほどの悩みにまでなる、教育の問題だと錯覚してしまう風潮を、社会全体で子どもを育てるというようなことから少しずつ是正していかなければいけないのではないかと、この事件に出合って思いました。

○  母親たちは子どものためと言いながら、実は自己愛の塊で自分のことしか考えていない人も多いのです。子どものおしりをたたいて、勉強しなさい、あなたのためよと言うのは、実は自分のためなのだということを指摘している精神科医がいます。音羽事件はまさにそれを表現したような殺人事件であって、少子化問題を考えるときに、起こるべくして起こったものだと思います。今、文部省が心の教育とか、ゆとり教育を推進しようとなさっていますが、こういう事件が起こるからこそ、文部省の今の方針が必要だということがわかるような気がします。
  ただ、私は、その辺の受験のシステムをもう少しよく教えていただきたいと思ったのです。国立大学の附属小学校と幼稚園で、15人ぐらいしか入学できないそうですね。くじ引きがあるそうですが、私たちはよくわからないのです。どういう子どもが入学できるのでしょうか。専門家の方がもしいらしたら、教えていただきたいと思います。

○  基本的には、大学の附属幼稚園というところは、三つ目的がございます。基本的には教育実習の場であるということと、それから研究の場であります。それから、地域の全体の幼児教育を啓蒙していくという形の使命を帯びております。そういう意味で、私たちのところは基本的にはくじ引きという形なんです。私の園は3倍強ございます。3歳で入るクラスが32名です。4歳から入るクラスが32名で、大体3倍ぐらいあるんです。その選び方というのは、結局、面接とか、簡単な遊びをして、教育実習ということが前提になっていますから、すごく集団に入りにくいお子さんというのは、やりにくいというところがありますね。教育実習生というのはまだ正式の教員でございませんから、その辺のことだけは見させていただきますけれども、あとは基本的にはくじ引きといいますか、そういう形です。
  これはありがたいことに、定員を超えているし、私たちお預かりする側には定員がございますから、どうしようもないというか、そういう形でしか対応ができないというのが現状だと思います。

○  もちろん、自分の子どもはかわいいんだろうと思いますけれども、社会全体が子どもをかわいがるという風潮、あるいは子どもの世話をするという風潮が必要ではないか。
  簡単な例を申しますと、私が子どものころは、ウロウロ夕方暗くなったころまで遊んでいると、知らないおじさんに怒られたんですね、「おい、早く帰れ」って。何だか知らないけれども、よく怒るおじさん、おばさんがたくさんいたんですが、今はあんまりいないのではないか。これはどうしたらいいのかわからないですけれども、子どもは世の中全体の大人が監督して指導するということを、何かの形で教育の中に組み込むことが必要である。それに気がついたのは私は随分前で、現在40になる私の子どもが小学校へ入ったときに、運動会というのをやったわけです。父親がちっとも来てくれないと。今から見れば昔の話ですが。それで日曜日に運動会をやった。私は見に行ったんです。そうすると、お父さんが大勢来ていて、カメラを持ってくるんで、驚いたんです。カメラで写している対象は、全部自分の子どもだけなんです。運動会がいかに楽しく行われているかということにはあまり関心がない。それに私は非常に驚いた記憶があるんです。その子どもは、今、40歳になっておりますから、随分前からの話で、私はそのとき、新しい傾向だなと。自分の子どもが駆け込んでくるところに待っていて、ほかの子には目もくれない親が増えたなと、一つ思ったんです。これをどうしたらいいかという問題なんです。
  もう一つは、これも顧みますと、人生というのは大変なことだ。長く生きれば生きるほど、そう思うことが多いんですけれども、今、人生が辛いということを教えてないんですね。人生には困難な状況があって、そのときどうやって生きたらいいか、そういうことをたくさん教える。そうすると、子育ても大変なんだけれども、楽しい。辛さの一つなんだけれども、同時に楽しみを伴っているんですね。そういうことについての教訓というか、物語というか、そういうものが昔はたくさんあったような気がしますけれども、現在はそれにかわるのがバーチャルな世界、あるいはマンガになってしまって、人間の責任でなくて、人間以外のものが超人間的な力を持って解決するというような、実際の解決に少しも役に立たない物語が増えてしまったんです。これもどうしていいかわかりませんけれども、どうもそういうことがあるのではないか。私も子どもを育てるときに、結婚していない人は子どもがいない、楽だろうなと思ったことが随分あるんです。しかし、子どものいない、結婚していない人にない楽しみがある。
  つい先日ですけれども、これまた40過ぎて、ある大学の先生で、独身の人がいるんです。その人がうちへやってきまして、家庭の団らんがなくなったと言って嘆いている。私が子どものときは、日曜日になると、お父さんとお母さんと妹と連れ立って、おじいさん、おばあさんのところへ行って、いろいろ御馳走になったり、物をもらったりして楽しかったけれども、それがなくなったと言いますから、「ばか、おまえが悪いんだ。一人でいるからいけないんだ」と言ったんです。勝手なことを言うもんだと思ったんです。いい年してそんなことわかんないのかと思ったんですが。本人は、世帯を背負込むことの面倒より、一人のほうが気楽だと思っているんです。しかし、一方、考えて振り返ってみると、家庭の団らんが失われたと言って嘆いているんです。ですから、家庭の団らんというのは辛いし、大騒ぎなんだけれども、一人でいる人が持てない、楽しいもの、人生の味というものは、その中の悲しみと喜びから生まれるんだということを、何かの形で知らせなければいけないのではないかと思っております。

○  私の知人が、その名も『お受験』という本を書いていまして、今、いろんなところから電話がかかってきて、パニックみたいに苦労しているようなんですけれども、彼女は自分の体験を書いたわけです。ですから、受け売りみたいになってしまいますが、聞いたところによると、一つ「ああ」と思ったのは、お受験に走る母親たちの最初のそもそもの動機は「子どものため」ということがあるんですが、「子どものため」の理由の一つに、公立の小学校・中学校は今ひどい状態なので、そういうところに子どもをやらせたくないので、何とか私立とか、附属というふうな動機が一つあるそうなんですね。そんなふうに公立がひどいというふうに認識されてしまうことはとても問題だなと感じました。
  それと最初は「子どものため」というスタートなんですが、タコつぼに入っていくと、「子どものため」というよりも自分のためというか、子どもを使った代理戦争みたいになって、そういうふうになってしまったお母さんたちには、これからそんな学歴が物を言う社会ではなくなるんですよといったような諭し方は全然耳に入らないような、すごく怖いことだなと思います。ですから、「子どものため」と思っていた出発点が、いつの間にか「自分のため」に変わっていくというところが、非常に問題だなと思いました。
  そう思いながら、「主な意見」として、「国力の減退を意味する」というのが最初にパーンときてしまうのは、「子どものため」と言いながら、国のためみたいな印象を持たれてしまような気もしたので、もちろんこれは大きな柱ではあると思うのですけれども、前面に出さないほうがいいのではないかという、あわせてそんな感想も持ちました。

○  先ほどのことに付け足したいのですが。母親が子どもを育てるということが当然だと思われていて、子育てというのは忙しいことは忙しいのですが、あのお受験の家族のことを考えると、一人は小学校に来年行く。一人は2歳ぐらいだというと、子育ての戦争状態、嵐の状態から少し脱して、ちょっと余裕ができてしまったときだと思うのです。
  そのときに、家にいるお母さんは何をやるか。最近は電化が進んでいますから、家事も比較的楽になっているだろう。そのころ、例えば復職ができたりすれば非常にいいんだと思うのですが、ふと楽になったときに、「そうだ。子どものための受験勉強があるじゃないか」と思うのでしょう。御主人は仕事で遅い。となると、あり余るエネルギーをどこに注ぐかというと、お受験にしかなくなっているというような現状があるんだと思うのです。ほかに打ち込める趣味があったり、仕事があったりというと、別のところにいくんでしょうが。そして、「子どものため」という大義名分があるという。現代社会で非常に楽になった家事、そしてあり余っているエネルギーを持て余しぎみという中で、周りがお受験に走っていれば、これは自分も走らざるを得ないというのは目に見えているような結果です。ですから、女性が外で、それは復職という形でもいいんですけれども、働くとか、ボランティアでも何でもいいんですが、エネルギーを社会に還元していくような、ただ自分の子どもだけのものにならないようなことも、これは行政が考えるべきものなのかどうかは別として、ちょっと考えたほうがいいのではないかという気がいたしました。
○  今のお話を伺いながら考えていたんですが、保育園に預けているお母さん方は、3人、4人子どもを生まれるんです。うちも2人産みましたが、上の子は「もう1人産んでもいいよ」とか、「1人は僕が面倒を見てあげる」と言って、兄弟を欲しがっています。お母さんたちも1人2人は割と当たり前なので、4人産むとすごいなという感じですが、3人ぐらいではそんなに多いという感じの反応を持たれないぐらい、今の平均値より随分産んでいらっしゃるような気がします。それは子育てにサポートをもらっているというのがすごく大きいのではないかと思います。逆に言うと、保育園のような場所に子どもを預けられない専業主婦の方の子育てサポートをもうちょっと手厚くしたほうがいいのではないかと思います。
  では、どの辺でどういうサポートができるかというと、新しいものをつくるというよりは、今ある施設を使えればいいと思うのですけれど、お母さんたちが集まれる時間というのは、午前中の10時とか10時半ぐらいから、子どもたちがお昼を食べる11時半ぐらいまでの時間なんです。その1時間か1時間半ぐらいの間に、どこか居場所を……。保育園の中では、その時間帯にホールを開放するとか、保育園の子どもたちがお散歩に出て、保育園が空いている施設の一部を貸すようなことをなさっているところもあります。子育てに正解はないんだけれども、どういうふうに子どもが育っていくのかとか、子どもが生き生きしている表情はどういうものなんだろうかというのを、保育園に送り迎えしているといろんな子どもを見ることができるんですが、自分の子と公園の何人かの子どもしか知らないお母さんたちは、圧倒的にそういうものに接する機会が少ないと思いますので、居場所とか、そういう人たちが集まる場所を確保していくことが大事だと思います。なるべくお母さんと子どもが孤立しないように、いる場所をつくってあげることが大事ではないかと思います。
  今ここで気になる言葉があって、「子育てに余計なエネルギーを注ぐこともなく」というのがありまして、お母さんが取り込まれるほどのエネルギーを注ぐという意味合いを持ったものかとも思いますが、子育てが一段落したお母さんたちのエネルギーというお話を伺いながら、この言葉もどうかなと思っていたんです。お母さんたちは仕事には戻りたいんだけれども、例えば商社でOLをしていたから、今さらレジ打ちはできないという感じで、小学校に上の子が入ったぐらいで、「やっぱりパートといっても、今、ないわよね」という感じであきらめていらっしゃる方が割と多いんです。日本では割とパートタイムの地位が低い。賃金にしてもそうですし、いろんな保障についてもそうですし、あと職種が限られているということもあって、フルタイムに戻るのはなかなか大変ですし、パートタイムにも戻れないということがあります。
  スイスでは、パートタイム、例えば幼稚園の先生は、午前中働いて帰って、午後は別の先生がそのクラスを見るということをして、自分の育児休暇の時間を1年間取ってもいいし、時間で取っていってもいいしという形で、自分の使いたい形でやっていくというようなことを読んだこともあります。パートタイムは時給で何とかという今の形に決まらない、もうちょっと多様な雇用形態ができてくると、職種も増えるでしょうし、それまでやっていらっしゃったお母さんたちの専門性を生かして戻っていくことができるかなと思います。

○  今、子育て中の母親、特に専業主婦の置かれている状況についていろいろな御意見が出て、共感するところが多いのですが、子育てが一段落してからのお母さんのエネルギーの注ぎ方のお話が出ていますけれども、私がちょうど今、子育て支援のことについて一緒に研究している人たちとやっている仕事の中のことを御紹介したいと思います。
  子どもが少なくなりまして、母親と子どもが育つ時期というのは、一段落する前から危険な状況があるのではないかと感じさせられます。横浜にあります家庭教育研究所というところが2歳半から3歳半の幼稚園に行く前の子どもたちと親たちを集めまして保育をしている。週に1回ずつ研究所に来て、子どもは遊び、親たちは集団活動をして、親自身が学び合うということなのです。ちょうど創立20年になるんですけれども、お母さんと子どもがとても変わってきているということに気がつきました。特に子どもが人との関係が持てない子がとても多くなって、目と目が合わない。視線が合わない。それから、見立て遊びができない。何かに見立てて遊べない。泥の水で「コーヒーよ」と言って遊ぶと、そのまま飲んでしまうような子が出てくる。それから、友達の上を踏んで歩いていっちゃう子どもとか、ちょっと大勢の子どもが来ると、遊んでいるように見えて、スッと避けてしまうような子が多い。それをずうっと見ていらっしゃる保育の専門家の方が、ビデオやテレビの長時間視聴がどうも関係があるだろうと。
  教材などゼロ歳児向けのものからたくさんあって、今、乳幼児向きのビデオがある。子どもがスイッチを押すと、繰り返し繰り返し見ることができる。外遊びをしなくて、かつ長時間視聴という子どもを抜き出して、保母さんたちがずっとチェックをしていくと、今言ったような行動傾向が10人のうち9人に当てはまるとか、8人に当てはまるとか、いろいろおかしい行動が出てきて、研究所の研究員の方がレポートにまとめまして、ある新聞社がその結果を報告してくれたら、その後、全国から電話がかかってきて忙しくて、あちこち講演やら小児保健学会やら引っ張りだこですが、似たような子どもがとても多いと言っています。
  お母さんたちに聞くと、1番目の子どももどうして扱っていいかわからなくて、泣いたときにいろいろあやすんですけれども、テレビを見せたらふと泣きやんだり、とてもいい道具になってしまった。その経験から見せる。2番目の子どもが生まれて手がかかっているときに、その子に見せるという形です。つまり、お母さんが乳児期にかかわって対応関係がとれない。そういう親子関係もお母さんは気づかなくて、研究所に来て、2歳半ぐらいになって、初めて子どもが友達と遊べないとか、自分のやり方に気づくのです。もっと早いうちからお母さんと子どもが外に出ていかないと、とてもおかしなことになってしまっている。これは横浜あたりのサラリーマンの家庭ですけれども、似たような環境がとてもある。1980年代ごろから、幼稚園に乳母車に乗せられてきている子がいて、幼稚園の先生がびっくりして、「歩いていらっしゃい」と言ったら、これがとても便利で、自分のテンポに合わせて歩けるというので、そういう形できたということもあります。それは集団の中に入って初めてわかるんです。集団が競争の場になってしまうといけないのですけれども、もっと親子が外へ出られるようにする。もちろんお父さんの参加も必要だと思うのですけれども。
  子どもを物ではなくて、生身の人間として、本当に通い合うというような体験ができるような機会を、どこかにずうっと忘れたままきて大人になってしまっていて、便利という感じになってしまう。それはとても怖いことだと思うのです。本当に子どもと触れ合うという機会を知って、それが育てられて、子どもとの時間が楽しめる。同時に、社会的な関係も持てるということをしていかないと、専業主婦が一段落してからというだけでは、ちょっと遅いくらいの問題があるのではないかと思います。その点で、保育園というのが「預かり」というふうに言っていますけれども、ついこの間の日曜日も、「預かり保育から親子支援の保育へ」という言葉でシンポジウムがありましたけれども、親と子をもう1回育て直していくという環境づくりが必要なのではないかと思います。

○  私はもともと青年期の研究から入りまして、青年期では手おくれということで、どんどんさかのぼって、妊産婦の研究までいった人間なんです。それは何かというと、これをどう手直しをすればいいかというと、結局、お母さんが母親になるという妊娠中の時期にお産の話だけではなくて、子どもがどう育っていき、乳幼児期がどう大切なのかということをきちっと伝えていないと、お産の話、栄養の話だけでは十分でない。私は、今、一番気になりますのは、私の幼稚園でも、言葉が通じない子どもといいますか、「そんなこと嫌だよ」と言っても、同じことをする。それはどこに原因があるのか、ずうっと考えると、赤ちゃんが生まれてから半年とか1年までのところは、逆に手抜きをしようと思ったらいくらでも手抜きができるんです。ベビーサークルの中に寝させておけば、子どもは自分でどうにもできないから。でも、そこのところで言葉かけをしてかかわらないと、言葉が言葉として機能しない。その辺は非常に欠落している部分なのではないか。だから、集団の中へ入った時、心のきずなというものが育っていて初めて、「そうしたら嫌よ」「そうしたらうれしいよ」というふうな言葉が有効なのです。それが非常に希薄な子どもたちが集団になったときに、それが全く集団として機能しない。その辺の根本から私たちは考えていかないといけないのではないかと思います。

○  子どもはやはり地域でかかわってみんなで育てようとよく言われますけれども、現在は非常に難しい状況が広がっていると思うのです。例えば高等学校ですけれども、そばに高校がないほうがいいと、そういう地域がいっぱいあると思うのです。入れたいと思っても手が届かない高校とか、絶対に入れたくない高校とか、いろいろあります。せっかく頑張って家を構えた目の前の学校が、「だめな学校」というふうに評価されて、そういう地域というのは、住んでいいまちとか、訪ねていいまちにはならないと思うのです。だからって高校が何かをやろうかという動きがあるかというと、見えてこない。また、子どもたちに何か声をかけてやろうかなと思っても、道路いっぱいに広がっている子どもたちに、せいぜい「もっと固まって歩け」と言うぐらいです。小学校にしても、もっともっとかかわり合いができればいいんですけれども、それと逆行するように学区を拡大していこうというか、そういう動きもあるというのは、どのように考えたらいいのかなと思うのです。もっと地域全体で、「ここは誇りに思える学校だ」というような取組ができないものなのかと思います。私たちが今話していることは、こういうことを達成していくのにどのぐらいの時間が必要だろうかということを考えていくと、相当長いスパンで考えていく必要があるのかなと思います。

○  まず文部省で作成しているリーフレット「Discover  the  LIFE」ですが、なかなか人目について、持ち運びまで考えられて、よくできていると思うのですが、開いてみますと、それぞれ有名人がズラッと並んでいるわけです。これは注目度を高めるにはいいと思うのですが、「だけど、こういうことは立派な人だからできるんで、私たちは……」と思うお母さんも一方ではいるのではないかと思うのです。ですから、私はこういう人は半分ぐらいでいいと思うのです。半分のページは、一般の人、そういうお母さんが「いや、子どもを育てるのはそんな苦しくないのよ。楽なのよ」とか、「案ずるよりは産むがやすし」と言いますが、それに加えて「案ずるよりは育てるがやすしよ」とか。堺屋太一さんがおもしろいことを言っていましたが、西ドイツで少子化対策が成功したのは、子育ての条件整備をいくらやってもだめなので、子どもというのは案外楽に育つんだよと、苦しさを払拭したときに子どもが増えたというんです。それまでは子育ては大変だ、大変だというイメージが強かった。その証拠に、人類が延々と続いているじゃないか、子どもは一人も生まれなくなってないじゃないかと。そういう逆転の発想みたいなことも、かえってお金を使わなくてパッとできるのではないかと思います。ですから、今度これは改訂版を出されるときには、一般の人として、農村部のお母さんとか、そういう人をぜひ入れていただけたらなと思います。
  それから、お受験から議論が出ているんですけれども、「お受験」とか、「公園デビュー」とか、ああいうマスコミのつくった言葉にあおられ過ぎているので、そういう言葉を使わないようにしたほうがいい。マスコミの方も今日はいらっしゃるんだと思いますが、みんなそれに振り回されて、文京区という局地的なところで有名な幼稚園が三つも固まっているから、ああいうことが起きるので、地方へ行けば何のことかなと思うんで、あんまりこの問題が一般化すると考えなくてもいいのではないか。この問題はまた別にゆっくり議論をすればいいのではないかと思うのです。
  結局、他の委員の方がおっしゃいましたが、親子支援といいますか、親がどう子どもを育てていいかわからないので、これは親だけの責任じゃなくて、文明全体、社会システム全体の問題なので、これをどう変えるかということと、個人の問題と社会の問題と両方変えなけれいけないんです。日本の国の政策は、今、平等から自由へ、社会から個へといいますか、公から私へ、小さな政府へと、そういうところへ大きくシフトしているときに、昔はしかる大人がいたけれども、今はしかる大人がいないということと、それから個人の確立とか、個人の責任ということとどうかかわり合うのか。
  私はテレビで、もっと社会で大人がやるべきだと言いましたら、「いや、自分の子は親が責任を持つんだから、自分の子にフォアグラをいっぱい食わせてもいいんだ」とか、そういうことから、勝手に学校で校長先生が「おにぎり1個の遠足だ」と言ったら、「そんなことをやるのは反対だ」という人がいる。ですから、世の中、評論家自体もおかしくなってきていると思いました。
  確かに地域社会で、しかる大人がいたり、みんなの子どもだという意識がなくなったんですけれども、一方では個人の責任、自己決定、自己責任と言っていることと、どうかかわり合うのかということを押さえなければいけないと思います。
  話は、親子支援、親の教育に戻りますけれども、私は前にも言いましたが、文部省の「家庭教育ノート」とか、「家庭教育手帳」の改訂版を出して、簡単に薄くていいと思うのですが、子どもを育てることについて、ノウハウみたいなことをわかりやすくやったらいいと思うのです。例えば、先ほど他の委員の方がおっしゃった横浜の例で、子どもが対人関係が下手だとか、目と目が合わない。目と目が合わないのは、これは大脳生理学者の方がよくおっしゃるんですが、抱き締めると抱かれた人の目を見る。それは大脳生理学で説明ができるんで、体表の組織をつくる  ―難しいことは知りませんが  ―細胞か何かと、大脳の本能をつかさどる大脳皮質のところが非常に類似しているので、抱き合うと目を見る。だから、人間は口づけをするんだという話から、非常にわかりやすい説明があったんです。だから、今のお母さん方は、子どもを本当に抱いているのかどうかということです。
  この話を講演でやったら質問が出て、あるお母さんが「うちの子、中学生なんですけれども、どうやって抱いたらいいんですか」と。私は、「心で抱くということも必要なんじゃないか」と逃げたのを覚えているんですけれども、ともかく子どもと一緒に生活しなければいけないということをよく言われるんですが、一緒に生活する人数が大事なんです。昔は、お母さんは第1子の育て方がわからなくて、それで苦労して、自己学習をして、2番目、3番目に生かしたので、それで総領の甚六と言ったわけですが、今は全部総領の甚六なんですね、一人っ子ですから。みんな不完全に育っているわけです。そういう意味でも、社会でそういうのをもっと支援してやるということが大切なのではないかと思います。
  対人関係が下手だとか、テレビを見ると落ちつくということですが、大事なのは自然というものと人間とのかかわり合いの方で、今井通子さんが「子どもには自然をおもちゃにすべきだ」とおっしゃいましたけれども、そういうわかりやすい例をですね。ただ楽しいとか、よかったという主観的な感情ではなくて、そういうものも載せていただけたらなということであります。
  お受験に戻れば、非常なショックを与えたんですけれども、ショックがあれば必ず効果があるんで、お受験殺人ショックから何を学ぶかということを今考えておかないと、また75日たって忘れて、そのうちまた同じようなことが起こるのではないかという気がいたします。

○  日本というのは、個々人が自分の自前の人生観を鍛え上げていくという場所がなさすぎて、だからこそすぐにお受験みたいなところにパッと絡めとられていくんだと思うのですけれども、だれしもいろいろコンプレックスがあって、思いどおりいかないことがあって、物語の中でいろいろ体験していく中で、それをいかに克服したり鍛え上げていくかという、そういうことがなさすぎると思うのです。ですから、兵庫県の「トライやる・ウイーク」のように体験して、いろんな人の生き方を見て、いろんな人生があるんだ、すばらしいいろんな花がある、そして花の陰にはいろいろな苦労とか、工夫もあるんだということを見る体験をやっていかないと、親自身が今そういう体験がない中で、自前の言葉を持たない、かかわりを深く持てない。表面的なフレンドシップはできるんですけれども、いわゆるグッチョグチョのパートナーシップでお互いに鍛え合ったみたいな体験が足りなさすぎるので、そういう場所づくりが大事なんだろうと思っています。
  私自身は、2年半ぐらい専業主婦をやりまして、みんなとしゃべったら、結構皆さんノイローゼで、育児が苦しいという日本の主婦は7割ぐらいいるんだそうですけれども、やはり一人のお母さんの肩にだけ背負わされてしまうので、育児ノイローゼぎみのお母さんがほとんだと言っていいと思うのです。東京都のある区で調査しましたら、「自分は虐待している」というお母さんが1割で、「虐待傾向がある」というお母さんが3割というショッキングな数字も出ているんです。
  私の場合は、公立の保育園にうまく入れませんでしたので、20〜30人で、地域でお母さんたちの預け合いっこグループをつくって、みんなでパートに出始めたりしながら、お互いに育ち合おうとしました。するとだんだんどの子も我が子みたいな肝っ玉もできてきて、とてもよかったなと思うのです。今は親自身がかかわり下手になっていますから、保育園、幼稚園、小学校、あるいは公民館、いろんなところの複合施設として、いろいろ利用できる場所を積極的に使っていくことが大切だと思います。ある幼稚園では、おじいちゃん、おばあちゃん登園日、お父さん登園日、お母さん登園日、それから地元の幼稚園に行っていない子も100人ぐらい来てわいわいやっています。先生がいらっしゃると、お互いに親同士の心のぶつかり合いがなくて助かるなんていう親もいる、そのぐらい親たちは不器用になっているんですけれども、でもそういう場所をつくって、徐々に自分たち自身が育ち合うということをしていかないといけないのかなと思います。ですから、核家族で世代交流もなくなったからこそ、地域とか、いろんな場所を拡大ファミリーのような仕掛けにしていくことが大事なんだと思います。
  国分寺の光公民館というところを取材に行ったんですが、そこはたった一つ小さな部屋に、防音装置をつけただけで、100組ぐらい中・高校生のバンドがそこに通うようになって、大人たちのバンドと交流をやったり、地元で何か音楽会があれば出張していったりとか、そのようにちょっと場所をつくるだけで、子どもたち自身がどんどん発展させていくということがあるんですけれども、今、そういう仕掛けもなさすぎるし、大人が誠意を持ってそういう声を聞こうという姿勢もなさすぎるのではないかと思います。
  世田谷区で、この前、中学生自身が教育委員になって、行政に声を出すというような会があったんです。そこでとても多かった声が、「大人たちは僕たちを寒い目で見る」と言うんです。「なんも悪さしてないのに、公園で遊んでるだけで冷たい目で見る」とか、「親は、おれたちのころは近所で遊んだもんやって言うけど、自分たちがそれと同じことをすると冷たい目で見られる。とにかく居場所をどうにかしてくれ」という声がすごくありましてね。今、空き教室もありますし、公民館なんかもどうしていいかわからないという曲がり角にありますので、そういうところを徹底的に世代交流、地域に開いて、拡大ファミリー化していくというようなことが大事なのではないかと思います。
  以前の日本は、それなりによき宗教的情操みたいなのがあって、皆様のためにとか、皆様のおかげで生きているとか、命をつないでいく尊さみたいなのがあったわけですけれども、今、もう1回それを昔のような形で取り戻そうとしても無理でしょうから、お互いに体験し合う場、それもフレンドシップではなくて、時にはぶつかったり苦しんだりするパートナーシップの場所としてつくり上げていって、育ち合う。それは子どもだけではなくて、いろんな世代、高齢者も含めて仕掛けていくことが大事かなと思います。

○  私は一番大切なポイントだと思うのは、「少子化への対応策を考える際には、育児サービスの充実等単なる利便性の追求に終わると、親の方にますます依存心が高まることにもなりかねない」というところです。この間、保育所の設置者理事長会議がありまして、私、それに呼ばれていったときに  ―今日もこの後、保育所に伺うんですが、この問題をすごく深刻に感じられているんです。
  お預かりする側というのか、そちらでできることと、やっぱりどうしてもできないこと、親御さんを巻き込まなきゃいけないことも必要だと思います。今、方向としては、何か利便性のほうにワーッと流れ過ぎて、それをすればするほど家庭が崩壊するし、家庭の教育機能の足を引いてしまう。ジレンマに陥っているとしたら、こちらでできることといいますか、育児サービスのサイドでできることと、これは大切だけど親御さんのほうに返さなきゃいけないことがある。そういう意味では、どなたかおっしゃっていましたけれども、育児のバイパスのシステムとか、それから岡山でやっていますけれども、親子サークルといいますか、オーストラリアで私が大学で教えていたときに、プレーグループというようなものがありますが、親子で世代を越えながらといいますか、小さいお子さんをお持ちのお母さんと子どもが母子分離する前に、グループでお互いに育ち合うようなシステムとかですね。その辺で、何が何でも全部という形でやるのは間違いだし、そして親のサイドから考える声が大きいけれども、子どもたちのサイドから、子どもたちの幸せは何かという視点が抜けることは困ると思います。

○河合座長  そうですね。子どもは発言できないから、子どものほうから見てやらないと。

○  私はふだん、子育てとかに直接の経験や縁の少ない人間なものですから、今、伺っていて、そこまでひどいのかと、実はびっくりしながら伺っておりました。この小委員会のテーマは「少子化と教育について」で、少なくとも今日の御発言では、直接学校教育にはあんまり触れていらっしゃらないように思ったんですが、伺っていて、学校教育では遅い問題が多過ぎる。その前の幼児を家庭だけでなく社会全体でどのように育てるかというところが一番根本であると感じました。そして今のお父さん、お母さんの世代は、その方たちが育っていた時代にも既にいろいろ問題があって、何人かの方がお触れになりましたように、かつてそれは全部よくはなかったかもしれないけれども、日本の社会には社会全体で共有したいろいろなやり方、倫理、考え方があったのが、戦後すっかり崩れてしまったような感じで、そういう中で、個々の家族が望ましい子育てをするというのは非常に難しいと思うのです。社会全体にある程度共通の雰囲気がある中での昔の子育てに比べますと、今は親御さん方が孤立していて、それが難しい。
そのように考えておりますと、どうしたらこういう状態を変えられるのか。策がないような悲観的な感じにもなるんですけれども、お母さんが一人で子育てをすることを余儀なくされている状況が多い。そこでまず最初に子育てにもっと加わってほしいのはお父さんであるわけです。日本の場合、特にほかの社会に比べましても、父親、夫という人は仕事第一で、家庭のことなど顧みないのが、よき職業人の美徳のように考えられる傾向が、このごろだいぶ変わったとは伺いますけれども、まだあるんではないか。それは雇用者のほうから御覧になりますと、いろいろ問題はあるかと思いますけれども、将来の子どもを育てるということは非常に重要な社会全体の目標であるわけですから、そこのところについて雇用者に何とか理解を広めていただく。父親が時間的にも、体力的にももっと子育てに参加できるような雇用形態、そして子どもや家族のことを顧みることはいいことだと認識されるような雰囲気が望ましい。どこから手をつけていいのかわからないような複雑な問題の中で、少なくともだんだんそういう考えを広めていけば、多少影響力のある一つの手だてではないかという気がいたします。
  それから、一つ細かいことでございますが、あまり国力の減退というようなことを  ―これはもちろん個々の委員、専門委員の方の御意見の概要で、特に順序も不同かと思いますけれども―最後的にはそういう視点が強過ぎないことを望みます。
  それから、「現在の少子化は、女性が結婚しなくなったのが原因である」と、断定的なご意見がございましたが、それをちょっと否定するようなことも意見として有りましたし、結婚しなくなったのだけが原因ではなくて、結婚しても子どもを1人かせいぜい2人しか産まないということもありますから、こういうことはあまり断定的には書かれないことを希望いたします。

○  私は、さっきからお聞きしてて思ったんですが、子どもさんができて、いろいろな苦労のことを言っておられますが、結婚するまでの話というのも大事みたいな気がしてきましたね。結婚するまでに、一体結婚するということは、男はどういうことをするのかとか、女の人はどういうことをするのかとか、どういうつもりでしたほうがいいのかとか、子どもを育てるということはどういうことかとか、考えてみたらそういう話はだれも聞かないんじゃないでしょうかね。結婚してからみんなびっくりするわけだけど。大学でそういう話はまずないですわね。考えたらしかし、大学でそういう時間もあっていいかもしらんと思うぐらいです、ここまできたらね。文学をやってたら恋愛小説は読むと思うのですけれども、恋愛小説って大体結婚したら終わりになるんですね。不思議なんですね。僕はそこから始まるんじゃないかと思うんだけれども。結婚することとか、子どもを育てることに関する話はどこでやるのかなと、ちょっと思いました。

○  今のお話のとおり、また「家庭科」と言うとひんしゅくを買いそうなので遠慮をしておりましたけれども、「生きる力」とか、あるいはどう生きていくか、何を目標にどういうふうに生きるか。子どもが目標になったり、夫の出世が目標になったりとか、そういうことでなくて、1人ずつがどう生きていくかということを考える。一つの正解があるわけではなくて、昔は上手に縫えるとか、正確なやり方できれいにでき上がるなんていうことを、料理にしても、裁縫にしてもやっていたりしたのかもしれないんですけれども、日本の学校教育の中では、正解にマークをつけていくなんていうことばかり教えられるんですが、家庭科というのは正解がない、いろんな考え方を知るとか、その中で自分が選んでいく。しかも、人生全体、生きるということを学べる、とてもいいことができる可能性を持っていて、少しずつ教育が変わりつつあるので、ぜひ期待をしたいと思っています。家庭科だけでなくてもいいんですし、「総合的な学習の時間」などというのも、これから大いに活用できると思います。
  保育園に中学生・高校生のエネルギーをもっと利用して、保育園の子どもたちにも違う世代の人と接するという体験をさせたいですし、中学生・高校生が子どもと接すると、とても変わっていくんですね。通わせたくない高校のお話をチラッとおっしゃいましたけれども、そういう高校でも高校生が子どもに育てられるんです。出かけていって、遊ぶことによって、子どもは髪の色の違うお兄ちゃんなんか一番先に目をつけますから、とてもよく遊んでくれるんです。そういう中で、高校生自身がとても注目を集める体験をして、自分のやっていることで喜んでくれる子どもの表情と出会うということの中で、子どもがかわいいと思えてくる。今は男子も女子もありません、女の子たちももちろんしていかないと、自分が違う世代から育てられるという体験が本当にないのです。
  ですから、地域とのつながりという点では、幼稚園、保育園という場所を、地域の青少年を一緒に育てる場所にも使ってほしいですし、子どもを持っているお母さんたちには、そこで交流をしたり、自分で仲間づくりをしたりというような、親と子が共に育っていくような場所として、幼稚園などの役割はとても大きいのではないか。場所がまず大事ですので、サロン風な役割を果たすということが幼稚園の大きな役割だと思います。
もう1点、他の委員の方が、企業の雇用の場の問題をおっしゃってくださったので、私も本当に大事なことだと思いました。社会全体で、子どもはとても大事なのだから、お父さんが子どもと接する時間を持てるというような、社会全体の雰囲気づくりが大事だと思うのです。私は育児不安というのを研究していまして、つらいんだと言っていいんだという声をあげることをしていけばという形で研究をしたんですけれども、そこに今や「つらい、つらい」というのが表に出てきてしまっていますので、もっと楽しいというのをこういうリーフレットで宣伝していただくのはすごくいいと思っています。それから、お父さんがこの楽しみを味わわないと損ではないですかと。人生もうちょっと豊かに、お父さんも会社の中だけで、リストラのことばかり頭にあって暮らしているだけではなくて、もっと豊かな人生があるのだということ。
  そのことで、父と子がかかわると、子どもにこのようにプラスに影響があるんだということを証明したいと思っていまして、先ほど言いました横浜の家庭教育研究所で、まさにセットで父と子をとって、子どものほうは保母さんたちが観察をして、発達の中くらい、ちょっと早め、遅めというのを調べてみますと、子どもとかかわる時間の多いお父さんの子どものほうが、3歳の時点で総合的に発達がいいということがわかったので、声を大きくしているんです。そのお父さんたちがどうするとかかわりが増すかというのを、いろんなファクターを入れて、役割分業意識だとか、子どもの数だとか、就労とか、年齢とか、いろいろ調べてみて、一番はっきり効いてきたのがやっぱり労働時間だったんです。労働時間が長ければ接触できないというのは、これははっきり出てきております。
  これを論文にまとめてアメリカの学会に出しましたら、向こうのレフェリーが、父親の労働時間をもっと下げるような、向こうではファミリーフレンドリーなワークプレイスと言っていますが、家族にやさしい企業ということがすごく問題になっているわけです。そういう参考文献を載せろと言ってきて、すごいと思ってびっくりしたんですけれども、ファミリーフレンドリーな企業について研究している論文はないかというんです。かけ声はちょっと出てきているんですが、日本ではそういうことをきちんと研究していなくて、「やられたな」と思っているんですけれども、父親を家庭に向けるような企業の仕組みをつくらないといけないと考えているところです。

○  「現在の少子化は、女性が結婚しなくなったのが原因である」。これは確かに強い言い方だと思うのです。結婚しなくなったのが原因じゃなくて、少子化の原因は晩婚化が原因なんですね。初婚年齢が高くなったから、30後半で結婚すれば、子どもは1人か、せいぜい2人ぐらいしか産めないので、結婚年齢が早ければ5人、6人産んでいる。これは逆説的に言えば、子どもの数の多い人の結婚をした年齢を調べれば、すぐ出てくることです。これは私が言っているのではなくて、だれでも言っていることで、たしか政府の有識者会議でもこれに近いことを言っていると思います。
  それに絡んで申しますと、少子化と教育について考えるときに、政府の有識者会議では社会経済的な分析ばかりやっているわけですが、教育のこともちょっと述べていますけれども、こちらで教育のことを考える場合にも社会経済的な背景とか分析がないと、バランスがとれないし、偏ったことになりかねない。そういうことを考えると、少子化になれば、まず労働力が不足する。これは当然なので、需要も供給も減るわけです。労働力が不足すると、ある人はロボットがあるじゃないかと言う。ある人は、養子がいいじゃないか、移民がいいじゃないかと。ヨーロッパの少子化のころを見ますと、スウェーデンは1980年代が少子化ですが、ちょうど私はヨーロッパにいまして、スウェーデンに教え子がいるので、ストックホルムへ行きましたら、商店へ行ってびっくりしたのは、東南アジアの子どもが店員で非常に多のです。「外国人労働者を雇っているんですか」と言ったら、「いや、先生、違うんです。これは全部養子です」と言いいました。当時はベトナム難民の孤児を養子にするというのが流行で、一種のステータスシンボルで。そのように養子とか、移民が増えていたのです。
  そうなると、文化が必ず変わってくるんです。日本でも既にサンバが……。そのうち阿波踊りを追放するとは思いませんけれども。この前新聞を見ていましたら、富山県の氷見市で、祇園祭りに子どもが少なくて、左大臣、右大臣の男の子がいない。女性にかわってもらったというんです。女性が男役をやった。文化が変われば教育も変わるので、少子化と移民とか文化の変容とか、教育の問題がどう絡むのかといったようなことをもう少し視野に入れたほうがいいのではないかということが第1点です。
  第2点は、どなたでしたかね、専業主婦が暇になったからという話がちょっと出ましたが、暇の使い方が日本人は非常に下手なんで、フランスのデュマズ・ドゥエという自ら余暇学者と言って、余暇の研究をやっているよっぽど暇な人だと思うのですが、その人が「余暇三分法」というのを言っていまして、余暇は「休息、気晴らし、自己啓発」と言うんです。専業主婦の人は、休息は寝転がってテレビをよく見ているでしょうが、気晴らしは何でやっているのか。パチンコか何かわかりませんけれども。自己啓発はまさに生涯学習局のお仕事なので、その中に育児支援を絡めた何か新しいノウハウを考えていただければいいんのではないかということを感じました。
  最後に、「国力の減退」というのが挙がっていて、これは確かに誤解を招くかもしれませんが、私は国あっての国民なんで、国力というのは人材という意味なんですね。人材が不足すれば、国力が低くなるのは、事のよしあしは別として事実なんで、これはどこかに書いてもいいんで、必ずしも最初に書く必要はありませんけれども、人材としての国力で、何もGDPが減るとか、G7に日本がそのうち出られなくなるとか、そんなことまで言う学者ほど私は強力に国力のことは言いませんが、ちょっと意見を申しておきます。

○  一つ事務局の方に質問させていただきたいのです。保育園と幼稚園があって、お母様たちに聞くと、子どもを保育園に預けるということに対して、すごく悩みがあるようです。この子は保育園に行ってるからかわいそうだと言われるような社会的風潮がまだ残っていると聞いています。片や保育園のカウンセラーに聞くと、保育園は育児に欠ける子どもが入っていると言うけれども、幼稚園に通っている子どものほうが実は育児に欠けているとおっしゃいます。つまり、母親は、子どもと一緒にいさえすればいいということで、実はテレビを見ていたりする。働く母親のほうが、帰宅後や、土曜日・日曜日に集中して子どもと一緒にいますので、専業主婦より子どもの教育、育児にかかわっていると言う方もいらっしゃいます。イギリスのラジオ放送でそういう調査結果を聞いたことがあります。この結果を発表して働いているお母さんに対して、働いているということで、子どもに申しわけないとか思う必要はないという内容だったのです。
  そういうことを考えていますと、保育園と幼稚園に分けているということが一つの問題ではないかと思うのです。将来的に統合していこうというような動きはあるのでしょうか。

○事務局  御案内のことですけれども、幼稚園と保育所を分けているということではなくて、歴史的にそれぞれの必要性に応じて、国民や地域住民のニーズに応じながら制度がつくられてきたということでございます。現実にも意識の問題があるかないかは別にして、子育て、あるいは家庭の在り方において、子どもさんをどうしても預けなければならない、一日じゅう預けなければならないという方と、それから一日じゅう預けないで、幼稚園でいいという方、預けなくていいんだけれども保育所がいいという方とおられる。保育所は保育に欠ける子どもへの措置という考え方を全面的に改めて、保育に欠ける欠けないということを抜きにして、ニーズに応じて対応しましょうという形で緩やかになってきています。
  幼稚園のほうがそういった意味では、4時間程度を基準とする幼稚園の教育活動、この時間を親御さんのニーズに応じて、預かり保育という形で積極的に、いわば幼稚園教育外の子育て支援に取り組もうという動きが出てきておりまして、それを行政的にもサポートしましょうという形で進めております。
  ですから、歴史的にできたものを、いきなりこれを一緒にするとかしないとか、ずうっと議論はあるわけですけれども、現実問題として、例えば保育所をとってみますと、公立が中心になって設置してきたものが、今は民間が参入している。あるいは、社会福祉法人でなくても参入しましょうというやわらかな仕組みになってきている。幼稚園のほうは公立ではなかなか対応できなくて、市町村はどっちかというと小・中学校で手いっぱいでございますので、私学に8割をお任せするという形で、いわば民間活力で幼稚園はつくられてきたという現状もございます。これを行政的にこういう考え方でというのは、関係者が二、三十年来そういう議論を繰り返しやってまいりましたけれども、一刀両断にはいかない。申し上げたように、それぞれが子育て機能を緩やかに広げながら、接点を求めて、それぞれの家族のニーズに応じて、利用しやすいような形にこれから発展していくというようなことで、今、考えているというような状況だと思います。

○  御説明ありがとうございました。さらに質問させていただいて恐縮ですけれども、少子化有識者会議の提言の中で、たしか労働省が、ファミリーフレンドリーな企業を表彰するという制度をつくられるということだったのです。文部省としては、ファミリーフレンドリーな学校を表彰するなどという動きはないのでしょうか。なければこの会議で提案していくべきことかもしれませんね。
  先ほど子育てが一段落した母親のエネルギーが余っているというお話がありました。専門家に聞いたところ、昔は働いている母親の子どもは非行に走りやすいと言われたのですが、実際の調査では、一貫して働いている方、一貫して専業主婦をなさっている方のお子さんは非行には走らない傾向があるそうです。反対に途中でライフスタイルを変えた方のお子さんが、実は何らかの問題を起こしている傾向が強い。つまり、母親が環境変化などにより精神的に安定していないことに子どもが影響されるのかなとも思うのです。皆さんがそれぞれ自由な選択ができるとべきですが、個人的には人間として女性も働き続けたほうがいいのではないかと思っています。その辺のライフスタイルに対する教育について先ほど他の委員の方がおっしゃっていましたけれども、文部省でも進めていただきたいと思っています。
  また、先ほどテレビと母親の話が出ました。私は今年の3月に「家族のきずな」というレポートを書きました。テレビが親子関係にどういう影響を与えているかを調べたのです。遊び時間として日本の子どもはテレビを見たりビデオゲームをしたり、静的な座ってする時間が世界で一番長いらしいのです。母親は、子どもにうるさくまとわりつかれると、「ビデオを見なさい」とか、「テレビを見なさい」と言うようです。今の母親の多くは1960年代以降に育ってきて、彼女たち自身がテレビっ子ですから、自分がテレビを見たいんですね。自分の好きな番組を子どもにも見せてしまう傾向にあるのです。ですから、子どもの見ている番組は母親が見ている番組と全く同じものであるという問題がありました。
  これは蛇足になるのですけれども、家族のきずなを強めるのに、人間関係を深めることを避けて、何でも形式で整えようとする傾向があります。今の家族は年に平均、何十回もイベントをするようです。10日に1回は何かしらのイベントをしているのです。クリスマスやお誕生日とかは当然なのです。例えばケーキは丸くなければいけない。1個1個のケーキではなく丸いケーキが家族のきずなをあらわしている。それをみんなでナイフを入れる。丸いケーキを食べなければ家族のきずなを確認できないような状況になっているということなのですよ。人間関係の大切さを学ぶというような学習、つまり心の教育には力を入れていただきたいと思いました。
  それから、子どもの受験の話、一番最初の話に戻ります。日本社会は敗者復活ができない社会なのです。それが一番問題ではないかと思います。子どもをいい大学に入れて、いい企業に入れれば、何とか敗者にはならないのではないか。別にいい大学に行ってなくても、その子の才能さえあれば認められる、失敗してもまた復活できるという社会をつくれば、母親たちも「子どものため、子どものため」といって受験させたり、おしりをはたいて、本当は子どものためにならないことをさせるようなことにはならないのではないかと思いました。
企業の話も出ました。企業が変われば社会が変わるとよく言われています。企業が人材を採るときの仕組みを変えれば、大学の入試も変わるだろうと言われています。さきほど日本はパートタイムの雇用状況が悪過ぎるという話がありました。これは文部省ではないかもしれませんけれども、文部省や通産省が協力し合って、労働省がファミリーフレンドリーな企業を表彰する制度をつくっているように、母親を雇うことを表彰するような制度もつくっていただきたいのです。それがファミリーフレンドリー、マザーフレンドリー、ファーザーフレンドリーな企業になると思います。政府として少子化対策は企業に対しても何らかの形でプッシュしていくことがこれから大事になるのではないかと思います。長くなって申しわけありません。

○  今の社会の大きな問題となっているのは、やはり社会構造にあると思っています。なかなか結婚しづらい社会になっているのではないか。例えば高学歴ということで、大学を出ると二十を過ぎている。さらに最近は、大学を出ても職がない。自分で稼げないうちに結婚なんかできるのだろうか。運よく仕事を見つけられたとしたら、とにかく忙しい。それに専心してしまうと、ほかのことを考えている暇がないうちに、ハッと思ったら自分の年がかなりいってしまった。そういう意味では、すごく結婚しづらい社会構造になってしまっているので、先ほどから企業のことが出ているんですが、社会全体が変わることが第一に必要だと思います。
  とはいっても、ここで教育でできることを考える場合、例えば中学生で保育の授業をやった場合、結婚の意味とか、そういうことは教えても理解しきれないと思うのです。とりあえず中学生であれば、保育園に連れていっても、子どもは異星人ではない、とてもかわいいものであるとか、自分に引きつけて、自分が小さかったころを思い出す、せいぜいそのあたりで終わると思います。そして、高校になったときに、今の教育課程の中では、父性とか、母性とか、結婚について考えているんですが、今の学校の状況を考えてみますと、大学受験などがある場合は、高校2年生、高校3年生で受験のための選択が入ってきたりしてしまう。とりあえずそちらに向かわなければとなったときに、人間的な部分は直接関係ないと切られてしまう。とりあえずと、高校1年生で、やむを得なくて入れたとすると、中学生よりは進歩したかもしれないんですが、16歳の人に10年後を  ―今の私たちでも10年後の自分の老後を考えろと言われても、なかなかできないのと同じなんですね。ですから、高校段階にはある程度教えたいと思いますので、そういう時間を確保したいなとは思います。
  子どもたちというか、青年がだんだん幼稚化したり、また人間的な教育をなかなか受けられない場合は、ぜひ大学のほうでも多少人間教育的なことを……。見ていますと、大学生は暇だなんて言っていて、昼まで寝ていたとか、授業はここがこんなにあいているとかと言っているので、そういう時間帯にもう少し  ―大学は、以前は専門性ということでよかったと思うのですが、だれもが行ったら、専門性だけを教えていたら、なかなか追いつかない部分もあるし、その時点で考えることによって、できる部分も大いにあるので、小学校・中学校・高校・大学まで含めたつながりみたいなものをぜひ考えていく必要があるかと思います。あとつけ加えるのであれば、就職した後も生涯教育で、勉強するのが嫌になるための勉強をするのではなくて、この先に続くような形で、人間が膨らんでいくような、段階をらせん状に上がっていくような対策を、子育てという視点からつくっていく必要があるのではないかと思います。

○  私たちの学生のころは、そういうことは喫茶店でやっていたんですよね。

○河合座長  そうですね。

○  そうでしょう。それはここで笑っていただければと思います。そういう意味では、私、学生を見ていて、喫茶店に入っても話をしていないんです。別々に本を読んで、会話がない。

○河合座長  そのうちに家庭教育のマンガができると思いますけれども。

○  できてますよ、先生。

○河合座長  もうできてますか。

○  そういう意味では、私自身、一方的な講義をやめて、スモールグループでバズセッションみたいな、私たちの学生のころだったら喫茶店でやったようなことを、あるテーマを放り投げて話し合わせるというか、受け身ではだめで、話し合わせるように大学の講義の形態を変えていかなければいけない。おもしろいことは、それが今の学生にとっては新鮮に見えるというか。いかに彼らに参加をさせるかということだと思います。
  もう一つ、その中に18歳で入ってきた大学生だけではなくて、主婦であったり、18歳人口だけの大学ではなくて、パートタイム・スチューデントというか、いろんな方がそういう中に入っていただいてガンガンやる。私、いつも思うのは、私自身が発達臨床心理学ですから、生まれるところ、死ぬところの両方が、今は全部病院で管理されてしまっていて、結局、いつまでたっても若者たちのアイデンティティーが確立しない。その辺からさかのぼってこういう問題を考えないと、例えばおじいちゃんの死に目に遭ったときに、「あ、死ぬんだ。じゃ僕はどう生きるのか」みたいなね。その辺から、全体の中でこういう問題をきちっと位置づけていかないと、本当は見えてこないというか、本当に根づいてこないということがあるような気がします。

○河合座長  生涯学習が本当に大事になりますね。これは本当に大事になってくると思います。

○  さっきのつけ足しのことで、人間的な教育ということで、今、総合学習が中学校や高校も含めて現場に入ってきているのですが、総合学習というものであると、それぞれ統一性みたいなものがあまりないので、総合学習でボランティアをやればいい、総合学習で保育をやればいいということだけで終わってしまうと、そこで途切れてしまうんです。人間教育みたいな柱のところは、受験とも関係ない、総合学習とも別に、きちんと小学校時代から高校、できれば大学まで通すような方法でしないと、今の社会の中では、受験とか、一見華やかな名前のもとにすべてが流されてしまうので、地味だけれども筋を通すようなところはずっと残す必要があるのではないかと思います。

○  ちょっと違うことを申し上げて申しわけないんですけれども、この議論の中でしばしば出てくることは、育児とか、家事が母親に集中するということなんです。父親はあまりそういうことをしない家庭が非常に多い。それは一つは、父親と母親、男女の仕事が違うようなことに決まってしまっているような家庭形態が非常に多い。なかなかこれは直らないと思いますけれども、教育という面で一つだけ有効ではないかと思うことを前から考えていて、私は一遍ボールを投げてみたいんです。
  スポーツで中学校、高校、特に高校あたりは、大学でもそうなんですが、スポーツで戦うのは男で、マネジーャーが女というのが非常に多いんです。私は大学のボート部長のときに、それをやめさせたのです。自分のボートは自分でちゃんと掃除しろ、炊事から何から合宿は全部みんなでやれと。前からそれはやっていたわけです。女子マネージャーというものが入り出したときに、私はやめさせたんです。自分たちの世話は自分でやれ、食い物も自分でつくれと。その結果かどうかわかりませんが、私が部長のときに17年間で4回、全日本で優勝しているんです。その結果かどうかわかりませんよ。しかし、私が定年でやめたら、たちまち女子マネージャーが入ってきた。私は合宿所へ行って「君らは何だ」と言ったわけです。女子がボートを漕ぐなら私は大賛成で、実際いるわけです。有名なシャンソン歌手にも大学のボート部で漕いでいた人もいます。炊事だけやるというのを学生のときからそういうことをやっていたのではだめではないか。
  ところが、見ていますと、高校野球などでベンチに女の子がいるんです。あれは教育的にどういうものなんだろうか。こういうことをやっていると、またうちへ帰って、家事と育児は妻がやるものというふうに固定する原因をつくっているのではないか。どうもそういうような気がするので。どうしたらいいのか。そういうことはちょっと考えておいたほうがいい。先ほど他の委員の方が言われたように、逆に女子マネージャーのいないチームが優勝したらとりわけ褒めるとか、そういうようなことをやってもいいのではないかということです。

○  これも余談ですけれども、アメリカのカニグズバーグという人の書いた児童文学で、私の大好きなのがあるんです。『ロールパンチームの作戦』という、お母さんがリトルリーグの監督になって活躍するすごくおもしろい話があります。こういうのは非常にいいですね。

○  私は、男の人以上に子どもたちが、今、家庭の仕事に参加しなさ過ぎると思っているんです。

○河合座長  そうですね。それは非常に大事です。

○  結婚のこととか、家庭のこととか、学校で教えるのもいいのですが、本来的には家庭で教えるべきことです。今は「子どもはお勉強さえしていればいい子なのよ」というのが大きな流れで、勉強してさえすれば、お茶碗を洗わなくてもいい、庭仕事もしなくてもいい、自分の部屋も掃除しなくてもいいということになっている。そうすると、家庭というものに子どもはほとんど何も参画しないで、ただ与えられて生きていくということになっていると思うのです。よくアメリカでは、仕事をするとお小遣いをもらう。実はこれは私としては反対で、家庭の仕事なんていうのは家族として当たり前のことなんで、お小遣いをもらうようなものではない。これは自分の考えなのですが。私の家は、私も夫も働いているので、娘たちは働かざるを得ない立場にあって、文句を言いながら働いていますが、専業主婦のお母さんがいても、子どもたちをいかに働かせるか。これは家族の一員として当たり前のことなんだというのを、本当は家庭がやるべきですが、それを世の中で少し盛り上げていく必要があるのではないかと思っております。

○  少し前までは、おじいちゃん、おばあちゃんとか、日本人というのはポロッといい言葉を語り合っていたと思うのですが、今は喫茶店に行っても語れなくなってしまった人たちが増えているということです。
  女子マネージャーのことについていえば、よくうちの息子なんかも言っているんですが、「僕たちができることをやろうとすると、女子マネージャーが悲しむ」とか言って、女子マネージャーたちに取材してみると、いいボーイフレンドをゲットして、いい結婚をしようというために女子マネージャーをやるみたいな、その辺から始まっているんですね。ですから、女が何で自分で自前の人生を戦わないかっていうね。男の後ろに乗っかって、いい思いをしようなんていう卑屈な女を育てないための教育を家庭でしておかなきゃいけないのではないかと思うのです。
  ある小学校で、みんなが元気に発表していて、普通とちょっと違った感じがしましたので、「どういうことをやっているんですか」と言いましたら、県の学社融合の指定校になっていて、おじいちゃん、おばあちゃんが遊びに来てくれたり、外国から帰ってきた人もいっぱいいるので、方言のいろんな授業をお母さん、お父さんがやりにきてくれたり、読み聞かせをやっていたり、常にふだんからそういうことをだれか入ってやっているんだというんです。つまり、子どもたちはいろいろ違って当たり前と。正解は一つではないんだから、自分たちは好きなことを言っていいんだみたいな雰囲気を日ごろからつくっているということで、やりようによっては、日本人もいろんな意見を自由に、気がねせずにしゃべれるような人間をつくれるのだと思いました。
  私はアメリカにいたときに感じたのは、日本の教育というのは、今現在の問題を取り上げなさすぎるということです。これは小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも、「少子化と教育について」なんていうのを取り上げたっていいわけですし、それから原子力の問題を取り上げたっていいし、この前は臓器移植の問題を小学校で取り上げようとしたら大反対が起きたなんていうこともありましたけれども、賛成か反対かというのではなくて、いろんな視点があって、その複雑さをのみ込みながら、社会というのはできてくるわけだし、自分自身はどういう立場でのみ込んでいったらいいんだろうか。そういう思考のプロセス、今の悩ましい問題に取り組んでいく。問題意識を先鋭化していく。自分自身の甘えの体質も見直していく。そういう教育が足りないのではないかという気がします。ですから、総合学習の時間には、ぜひぜひ今の問題、春奈ちゃんの事件、お受験について、みんなどう思うかというのですぐ取り上げたっていいわけです。どっちが正しいというやり方ではなくて、複雑な視点というものをとにかくいろいろ考えながらのみ込み、論理的に自分で考える力をつけていくという教育をやってはいかがかと思います。

○  それは日本の今までの考えでは、先生というのは何につけても正解を知っている人だ、あるいは正解を供給しなくてはならないというふうなイメージがあまりにも強かったということではないでしょうか。それはだんだんこれから変えていくべきことだと思います。

○  少子化とともに、家庭教育のお話が随分出ているわけですけれども、しつけというのをどういう段階でどうやるかというのをきちんと皆さんに認識していただくというか、特に親の方々に今ははっきり伝えていくことが必要ではないかという思いがしています。特に社会で生きていく上で、守るべき最低限のルールは必ずあると思います。これを幼児期といいますか、ある意味ではお母さんのおなかにいる段階からわかるようなことを考えていかないと、皆さんがいろいろ訴えられたような風潮は直らないのではないかと思います。例えば、決められたルールは守るということですね。これはいい悪いではないんですね。そういう約束事で我々の社会は成り立っているんだという前提で話をしないと、ある意味では社会が崩壊してしまうのではないかという危機感さえあるわけです。それは小さいときに教えないとなかなか身に付かないのではないか。そういう意味でのしつけなり社会的なルールの伝え方をきちんとするということを、これから親の方々を含めてみんなで考えていかなければいけない。
  その一つとして、家庭で手伝いを子どもにさせるというのは、非常に重要なことだと思います。どういう社会でも自分の果たすべき役割はあるんだということを、小さいときから身に付けさせるという意味では非常に大事なことだと思います。結局、自分がやることによって、何らかの役に立っているということが目に見える形でわかるというのは、非常に大事なことだと思います。家庭の中でも、これをやるということは、一つの約束事でいいんですけれども、そのときに親が、終わった後に必ず「よくやったね」という褒め言葉を与えれば、子どもはやってよかったという思いを持つと思うのです。これもいわば体験だと思います。
  学校においても、実習体験といいますか、今、保育所とか、高齢者の施設を訪問するような体験がかなり広がってまいりました。これも私どもが小さいときに、学校以外で体験できたことが、今の少子化の中では子どもたちがなかなか体験できないわけですから、そういう意味で、いろんな段階で体験学習を大いに活用していくべきではないかと思っております。そのことで今まで知らなかった世界が広がっていくと思います。
  先ほど兵庫県の「トライやる・ウイーク」の話が出ましたが、あそこは中学2年生に自分の体験したい活動をできるだけかなえる形で1週間の体験学習をやっています。訪問して伺いましたところ、預かっているほうの企業なり、例えば保育所とか、高齢者施設のほうでは、1週間ということは月曜日から金曜日まで行くわけですが、3日目から4日目に顔色が変わってくる。最初2日目ぐらいまでは戸惑って自信なさそうにしていたのが、3日目、4日目にかなり自信を持った形で、顔色が変わってくるという話をされたのが印象的でした。そういう意味で、有効な手段だと思います。これは小学校でも、中学校でも、高校でも必要ではないかと思っております。
  それから、部活、マネージャーのことでお触れになりましたが、大学と高校はちょっと違うと思います。高校の場合には、部活マネージャーは、ある意味では手伝いといえばそうなんですが、合宿の賄いをやるようなマネージャーはほとんどいないと思います。金銭面の管理とか、あるいは試合のノートをつけるとか、いろんなことがあると思います。ただ、これは私も詳しいことは知りませんが、マネージャーをやりたいという希望があって女生徒が入ってきた場合に、あなたは女だからだめですよという排除はできない。そういう希望があって、きちんとやっていただけるなら、やっていただきましょうかという話になると思います。最初から女性のマネージャーという形で募集をしているわけではないと思いますので、その辺はそれぞれの学校のお考えだろうと思います。もちろん男性がやっても構いません。ただ、女性が直接競技に参加するということになりますと、いろいろなハンディがあるわけです。男性とまじってやるというのがだんだんはやってきましたけれども、それはそれで構いませんが、今、肉体的なハンディがあるわけですから、その中で、必ずそれに参加しなければ部に入れませんよというのは、いかがかなと思っております。

○  しつけの問題でいえば、結局これはニワトリとタマゴみたいになりまして、私の子どもが小学校2、3年のころに、私が新聞を読んでいましたら、横で大きな声で「子どものしつけは親がする。親のしつけはだれがする」と、私のほうを見ながら大きな声で言っているんです。「これ生意気なことを言うな」と思ったら、何かパンフレットを読んでいるんです。今でも覚えていますが、お米屋さんからホープというパンフレットがきていて、確かにそう書いてあるんです。結局、子どものしつけをする親のしつけができていないので、これはニワトリとタマゴなんですが、親が幼児化しているわけですから、それをどこでやるか。これは中央教育審議会、臨時教育審議会も困って、「将来、親になる子どもの教育をやる」という文言で逃げていましたが、じゃそれができているのかというとできていない。そのところは一応整理しなければいけない。
  しつけの問題でいえば、「過保護」という言葉がよく出てくるんですが、私はこれは間違った過保護で、「無保護」だと思うのです。やるべき保護をしないでいるので、これは本当に過保護なのかどうかという問題が一つあると思います。
  もう一つ、少子化の問題は、高齢化の問題と同時に考えなければいけないというのを、他の委員の方が前にもおっしゃいましたが、そういう視点がちょっと弱いのではないか。といいますのは、先ほど他の委員の方が、小さいころおじいさんが死んで、死というものを葬式で考えたと言いますけれども、今、おじいさん、おばあさんが高齢化していますから、おじいさん、おばあさんが死ぬころは、大きくなっているんです。葬式の直接体験がないから、11年前に中野・富士見中学校、お葬式ごっこ、いじめ自殺事件というのが起きたんです。あれは伊丹十三の「お葬式」という映画も影響していますけれども、そういう意味で、高齢化の視点をどうしたらいいのか。
  最後に、これは文部省にお伺いしたいんですが、少子化になれば子どもが減るんですから、教育予算も減っていくんでしょうか、それとも減らないようにいろんな対策を考えているんでしょうか。

○事務局  少子化によって、単純に教育予算が減るというようなことにはしたくないと考えております。

○  雇用の問題について、いろいろ御意見がございました。どういう社会が最も望ましいかということを考えますと、雇用が確保されておって、皆が安心して働け、かつ社会としてクオリティー・オブ・ライフが保障されるような社会、別の言葉で言えば温かい社会、そういうものを日本は目指すべき方向だと私はかねてより思っております。
  雇用問題につきましては、今、ちょうど日本は変質しつつある時期でございまして、従来の終身雇用型の雇用形態だけの社会から、中期的な雇用、あるいは短期的な雇用が混在するような社会に、実際に変質しつつあります。そういった中で会社における教育の意義を私は繰り返し社内で関係者に言っております。いわゆるオン・ザ・ジョブ・トレーニングというものに加え、私どもの会社には人間塾という学校というとおかしいですけれども、そういうものをつくりまして、そこで月に1回ぐらい、いろんな方をお呼びして御意見を伺っておるということでございます。我々の価値観というのは、先ほど来もお話がございましたが、自由というものは確かに基本的な必要要件ではあるが、それに対して必ず道徳的な規律をしっかりしなくてはならない。その結果として、秩序を維持していく。言うなれば、自由と規律と秩序を三位一体化して仕事をしていこうということを繰り返し社員に言っているわけです。
  時間外労働につきましては、毎週水曜日を「早帰り日」と称して5時以降の仕事は、よほどのことがない限り禁止するということもやっております。これは一つの例でございますが、それぞれの企業がそれなりの努力はしているのではないかと思うわけです。そういう動きがもっと拡大していく必要があります。
  問題は、学歴社会というかディプロマ・ディジーズという問題。これをいかに打破するかという問題になるわけでございます。我々も就職試験をするときには、学校を問わないというような方針をとっております。これまた、日本の企業も徐々に変わってくると思うのです。
  今回、非常に痛ましい事件が起きましたが、結局、学歴社会の弊害が、幼稚園のところまでいっちゃって、親は一所懸命自分の子どもをよりよい幼稚園に入れようということになるわけです。私はさっきの話を聞いておりまして、他の委員の方から、実際の体験教育とか何とかで附属幼稚園をつくって、みんなくじ引きでやっておるというお話を聞くと、もうそういう幼稚園はやめたらどうかという感じがしないでもないんです。実は私も孫がおりまして、幼稚園に行っておりますけれども、小さいときからそういうことをすることが本当にハッピーなのかどうか。子どもはもっと野性的に育てなくてはいけないわけでございまして、その点は考えなくてはいけない問題ではないかと一つ考えました。
  もう一つ、日本の社会そのものが非常に変質してきておって、これは教育だけの問題ではないということが一つあると思います。それは何かというと、日本のように経済が世界第2位ぐらいになってしまいまして、皆さんが飽食の時代に入って、失業が激しいと言いながらも、300万人ぐらいの失業者でおさまっているということになりますと、ある意味では経済的に恵まれた社会で、精神的に崩落していく可能性があるのかということです。
  それから、今はやりの経済市場主義を推し進めていきますと、これは欲望と欲望の交換でございますので、非常に影の部分を秘めている。ヘッジファンドの動きは全くそうでございます。それから、情報通信で、先ほどもお話がございましたが、うちの孫なんか見ていても、バーチャルリアリティーの世界にひたりきってしまう。目と目で語り合うというようなことができなくなってくる。こういう人間性が疎外されていく大きなうねりが、ますます深まっていくかもしれない。そういった大きな流れに対する砦はどこかということを考えますと、家庭というか、家族というか、それからそれを囲む地域社会、今でもお祭りとかなんかで盛んにやっているところもございますが、私どもの少年時代は、自分たちのまちの年中行事に喜んで参加するということであったわけでございます。これは行政の立場でいうと、地方分権というテーマにはなっていきますが、人間が本来あるべき姿というと、そういうものに戻ってくるのかと思います。その辺を突かなければ、日本の教育問題もなかなかうまくいかないのではないかという感じがしております。
  時間が過ぎましたので、これでやめますけれども、とにかくこの問題は非常に大きな問題であることは、私もよく認識しております。

○河合座長  これで審議は終わらせていただきます。

(大臣官房政策課)
  

ページの先頭へ