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中央教育審議会

1999/9 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第9回)議事録

  議  事  録 

平成11年9月29日(火)13:00〜15:00
ホテルフロラシオン青山  1階  ふじの間

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    根本会長、河合座長、小林委員、中島委員、森(隆)委員

専門委員
    下田専門委員、鈴木(清)専門委員、楢府専門委員、広岡専門委員、牧野専門委員、森(正)専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    佐藤事務次官、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、寺脇政策課長、その他関係官


○河合座長  ただ今から中央教育審議会の「少子化と教育に関する小委員会」第9回の会議、第17期としましては第5回目の会議を開催いたします。
  皆様方におかれましては、非常にお忙しい中を御出席いただきましてありがとうございます。
  配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○河合座長  よろしいでしょうか。それでは、審議に入ります。

○  この間、少し関心があって調べてみたんです。データが完全にそろっているわけではないんですが、欧米諸国と日本等いわゆる合計特殊出生率の低い国は、あれやこれや見ていて、欧米の場合は家族政策をやっています。どんなことが影響するのかと思っていろいろ見ていて、どれも影響しないような感じがしました。
ただ、一つだけ気がついたのは、合計特殊出生率の低い国は、どうもお父さんの育児休業取得率が低いという相関関係を見つけたわけであります。どこまで正しいかどうかわからないんですけれども、ドイツと日本が際立って合計特殊出生率が低いんです。やっぱり家庭教育なんかで、お父さんらしさというか、お父さんになることの教育というのはあれですが、そういう意識を少し改革してもらうことをやっていったらいいのではないかということを、ふとそのときに思いました。
  よく女性センターの講座でも、男性が来ないというので、非常に悩んでいらっしゃるようですけれども、企業なんかで出前講座とか、ああいうのを引き受けてもらうと、結構いけるのかなという気がしています。文部省の心の教育で、たまたま石川県で講師になる機会があったんですが、教育問題はお父さんもかなり関心を持っていますので、そういうのを突破口にして企業への出前講座みたいな、エンドユーザーに直接届く手法が考えられるのではないかと思いました。
  二つ目は、幼稚園や保育所に子どもを預けることの意味を積極的に考えて、位置づけていかなければいけないと思いました。お母さんはお母さんで育児休業が終わって、子どもを保育所に預けたりするときに、とても後ろ髪引かれるような思いが一方ではするわけです。他方で、保育所の先生なり幼稚園の先生なりが、「最近、子どもを預ける親は、場合によってはなってない」というようなことをしばしばおっしゃるわけです。この間お伺いしたのでは、休日明けの子どもさんは決まっておむつかぶれが増えるそうなんです。月曜日に子どもさんが来ると、おむつかぶれが多いんだそうです。そんなようなことを保育所の先生がおっしゃったりするわけです。
  子どもを預けるという意味で言いますと、従来は地域で隣近所があったり、何よりおじいちゃん、おばあちゃんが子どもさんを預かっているということがあったんだと思うのですが、今、その役目を幼稚園なり保育所がかわりにしているわけで、そういうことの意味を少し積極的にとらえていく必要があるのではないかと思いました。
  子どもを預けて、お母さんたちは無責任だという声が、しばしば聞こえるわけでありますけれども、保育所や幼稚園に子どもさんを通わせているお母さんたちは、それを非常にありがたがりもし、喜びもするわけです。私の連れ合いもそうでありましたけれども、子どもが幼稚園に上がる日を指折り数えて待っているというのが一般的な感情ではないかと思います。
  それやこれや考えてみますと、従来のおじいちゃん、おばあちゃんなり、地域なりが持っていた役目を、今や保育所なり幼稚園なりが持っている。そこに子どもさんを預けるということのマナーなり、意義なり、預けられて子どもさんが成長するということとか、そういう様々なことを積極的にとらえていくことが必要なのかなと。そういう面で、子どもを預けることの哲学を打ち立てることが必要なのではないかと感じています。

○  ただ今の意見に関連してなんですが、昔は母親が家庭の中で、子どもが小さいうちは育てていたのがほとんどです。私は別のところでちょっと勉強したんですが、ホスピタリズムという言葉ですね。スピッツという方が研究した施設病で、施設で育った子どもたちは、発語とか、歩行が、一般の家庭の中で育った子どもよりおくれているという研究データがありました。
  ところが、今のお話では、最近の幼稚園とか、保育園で育っている子どもたちのほうがおむつかぶれがないとか、きめ細かな保育ができているというふうに感じるところがあります。
  というのは、幼稚園や保育所が何のためにあって、どういう方が預けるのかという原点だと思うのですけれども、例えば生活苦のために母親が仕事をしなければならないために、余儀なく保育所に子どもを預けて働くといったようなことが一昔前の形態だったと思うのです。ところが、子どもの面倒を家庭の中で見ているよりは、例えば自分は婚前、いい仕事をしていたとか、社会的にハイレベルで専門的な職業を持っていたとか、いろんな理由もあるでしょうけれども、そうなると子育ての時期に家庭の中で子どもを育てているよりは、できるだけ早い時点で保育所等に子どもを預けて働きたい。やはり母親の意識とか、希望が先行していて、その部分で子どもにしわ寄せが出ているような気がします。
  できることならば、保育所の本来の目的、保育に欠ける子どもたちの面倒を見てやる施設といったところを、お母さん方にもう少し認識をしていただいて、もっと心情的に考えれば、自分の子どもをかわいくないと思う親はいないと思うのです。ですから、その辺のところで、家庭の中で母親が安心して、一定時期には子どもを育てられるような対策、その辺のところを自治体とか、地域のいろんなボランティアとか、そういった多くの人たちが支えて、大事な時期に、親にまさる親はいないという感覚で私は思っているのですけれども、その辺のところに力を入れることが肝要かと思います。

○  先進国でこれからますます高齢社会になっていくと、国の財政も、それから家計も、男と女で支えなければいけないということもありますし、それから女性の自己実現ということで、働く女性というのは増えていくだろうとは思っています。だから、このように保育のサービス、男女パートナーシップを進めようということには全く異存はありません。
  ただ、ちょっと注意したいことは、幼稚園の預かり保育にしても、相談にしても、それはもっと充実してほしいと思うのですけれども、あれもこれもサービスいたしますということで、逆に依存的な親が増えて、預けたほうが楽だから長時間預けるというような親が増えていったら、母性は育たないし、自分の子どもがますますかわいくなくなるというか。やはり苦労しながら自分自身の母性や父性もたくましくなっていくと思いますので、保育園とか、幼稚園でその視点を少し入れていかないと危険な部分があるのではないかと思うのです。
  今おっしゃったように、親で自分の子どもがかわいくない親はないって、昔はそうだったかもしれないけれども、今、調査すると、虐待しているという母親が1割で、虐待傾向があるというのが3割で、合計4割が何か危なっかしいような状況になっています。そういう時代背景を考えると、あれもこれもサービスいたしますということでいいのかという気はちょっといたします。
  取材してみたんですけれども、最近、幼稚園や保育園にいろんな母親クラブができまして、ピアノを弾きにきたりとか、紙芝居を先生のかわりにやって差し上げたりという、むしろ自分たちが持てる力を、保育園、幼稚園の中で生かして、みんなで育ち合いましょうというような雰囲気をつくっているところがあるんです。それは時間的にはもしかしたら大変かもしれないけれども、人間が生きていく喜びという意味では本当に深いものがあって、その中から母性や父性を育てられた人間がまた地域の教育力を高める中年になっていくのではないかと思いますので、どういうふうに入れたらいいのかわかりませんが、何もかもサービスいたしまして、依存心を高めるだけがいいことではないという感じを持っております。
  それから、依存心が高まれば、小欲知足ではないけれども、もっともっとサービスが欲しいということで、どんどん不満も膨らむ一方だと思いますので、本当に人間が豊かに生きることって何だろうという哲学を持って、いろんなシステムをつくっていくことが大事だろうと思います。
  それから、幼稚園、保育園のあたりではお父さんがまだまだ参加しているんですけれども、小学校あたりではおやじの会みたいなのをPTAにつくって、必ず男女でPTAを支えてほしいと思っています。
  それから、パートナーシップを進めようという一方で、変なことを言うようですけれども、人間というのは本当にエゴイズムの塊で、パートナーシップなんていうのはなかなかできるものではなくて、ヨーロッパの生涯学習の「生きる力」の定義の中で、他人の罪というか、他人の弱さ、他人の十分でないところを許す力というのがあるんです。そういうものがないと、たぶんパートナーシップって育たないんだと思います。夫婦のパートナーシップって、もちろん学校で教わるのはいいんですけれども、結婚したからといってすぐにパートナーシップはできるものではなくて、10年、20年、30年かけてお互いに許し合ってつくり上げていくものだという視点もないと、「ああ、うちの場合はパートナーシップじゃないわ。じゃ離婚しましょう」みたいになってしまいますから。今の少子化の教育環境というのは、フレンドシップはあるんだけれども、パートナーシップがない。フレンドシップというのは、いい部分だけで、ニコニコお友達風にやるわけですが、パートナーシップというのは、ゴーリキイじゃないけれども、鎖でつながれた囚人同士の夫婦みたいな感じで、本当につらい部分もこらえて、許していというような、そういうパートナーシップをつくるための子どもたちの教育、それから親自身もそういう視点が大事なのではないかと思います。

○  母性や、母親が育てることが大切だということは当然ですが、ただ、厚生省も「子育てをしない男を父親と呼ばない」と言っているような時代に、先ほどおっしゃった施設病だとかというようなことを持ち出して、母親が子育てをしろという議論を、この場でしていいものかどうかというのは私は非常に疑問に思っております。というのは、それは余りにも保育園などの実情を知らなさすぎるのと、私も含めてですが、保育園に子どもを入れながら育てている親たちに、はっきり言って失礼な言い方ではないかと思うからです。
  もう一つは、今までの意見のうち「教育面等から少子化を是正するために」で子どもを産み育てることによって、いろいろなマイナス面を考えてしまうということで、その「負担や制約を軽減する必要がある」という意見の中には、「子どもを産み育てることにより、やりたいことが制約されるという不自由感」というのを軽減する必要があるということも入ると思うのですが、子どもを産み育てることによっての喜びもたくさんありますが、不自由なことがあるのは当たり前であると思うのです。そういうことまで「全部制約を取り除きますよ」というのは、これは親としての責任放棄に結びつくようなことだと思いますので、ここは私は必要ないのではないかと思っております。

○  今、他の委員からいろいろいただきましたので、ちょっと補足します。現在、自分の住んでいる地域に保育所が一つありまして、私はそこの運営委員をしております。確かに都会と田舎の違いとか、個人の受けとめ方とか、いろんなものが絡んでくるので、当然違ってくると思います。運営委員会等で、現場の先生方の声をいろいろ聞きますと、もし子どもがけがをした場合、保育所内ではほんのささいなけがであっても、責任の追及とか、いろんなことでトラブルが多いんです。もしこれが家庭の中で、お母さんが一緒にいながらけがをしたら、そのぐらいのことは仕方がないとか、その辺の責任の追及をどれほど自分でするか、そういった問題が現場でたくさんあります。
  子どもを家庭の中で育てられない人が、もちろんいろんな事情で、仕事があるとか、それから今のお話のように、保育所の中で子ども同士が切磋琢磨して体験を通して学ぶものも、集団教育の中にはあると思います。そういった面で、今、様々な理由で、保育所に出しているお母さんは確かに多いです。それは多様化していると思います。やはり子どものけがとか、補償問題とか、そういったことだとか、もっと極端な例になりますと、感染症、伝染病的なものなどでは通園禁止という期間もあります。お医者さんの診断書がないといけないという。子どもが病気にかかった場合なども、仕事を休めないとか、仕事に行かないといけないからということで、まだちょっと休ませたほうがいいのではないかという判断をしたい場合も、お母さんが連れてくるケースもたくさんあるというんです。こういう問題も、今、少なくとも私の住んでいる地域の保育所の中では非常に大きな問題になっています。
  ゼロ歳児保育となりますと、保母の数が子どもの数の半分に近いようなケースも、ここ二、三年はうちの地域の保育所ではそういった傾向が見られるんです。そうなってくると、運営委員会の中でも、この先、保育所の施設、保母の数をどんどん増やして、自治体は予算の面でも大変な目にあっているので、この辺のところもお母さんの就業の金額に見合ってというんですか、言い方をかえれば、金銭で得られないようなものがまだまだたくさん家庭の中にあるのではないか、そういったことも思います。

○  まず第一に、この会議で常に少子化の問題を考える上で重要であるという御発言が繰り返し行われる家族、家庭についてです。この場合の家族、家庭というのをどのように定義するか、どのように考えておくかということは、共通認識をつくる上では大事なことではないかと思います。
  例えば、「少子化の要因」について、「我が国の婚外子の出生割合は約1%であり、結婚が出産の前提となっている」という分析があります。また、「少子化が教育に及ぼすマイナス面の影響への対応について」で、「少子化の進行とともに、都市化、核家族化が進み」とあり、祖父母や地域との連携は弱くなるけれども、核家族、すなわち夫、妻、子どもからなる家族の存在が前提となっております。そうだとしますと、我々として少子化の問題について考える場合には、結婚によって構成された家族、またそれを基盤にした家庭というものを基本にしていることになりますが、それが適切かということです。
  裏を返せば、一方では仮に1%であっても婚外子がいる。それから、離婚率も非常に増加している。そうすると、シングルで子どもを育てなければいけないケースもたくさん出てくる。先に述べたように、この会議の議論においては、家庭や家族の重要性が強調されておりますが、その一方で、子育ては個人の責任という意見もあります。その場合の個人にはシングルが含まれていると思います。したがって家族や家庭について、我々としてはどのように整理しておくかが、議論をまとめる上で必要ではないでしょうか。
  第二に、少子化によって、教育上、物的な面で出てくるゆとりについてです。例えば、教員の一人当たりの担当の子どもの数がかなり減って、ゆとりのある教育ができる条件があるのではないかという見通しが出されておりました。しかし、今日の非常に厳しい経済状況の中で、小学校・中学校・高校を担当する地方自治体の財政も厳しくなっておりまして、少子化で教職員に余裕が生まれたら、定員を削減していくという動きもかなり顕著になってくるのではないか。私は県の行政合理化検討委員会の部会長をしていましたけれども、相当深刻な討論が行われていました。したがって、現実問題として、少子化で教職員に余裕が生まれるというのは、見通しはそのとおりですけれども、現実的には非常に厳しい地方財政の状況もありますので、そういうことも分析のもう一つの角度として必要ではないかと思います。
  第三に、私、本小委員会でずっと高等教育における少子化問題についての教育の重要性ということを申し上げております。各大学の一般教育課程では主題学習等も進んでいることから、少子化に関わるテーマを、幼い頃からの長い教育過程において結婚を控えた最後の段階である高等教育を受けている若い男性、女性の青年諸君にぶつけることが必要ではないかということを申し上げてきました。大学生の参加するインターンシップを子育てと関連させてやろうという御提起等々についても、その意味で、関心をもっております。
  一方、高等教育とは限定されておりませんが、「学校教育では、男女共同参画の考え方に立ち、男女が共同で責任を果たすべきことや生命への畏敬の念を育て、生命が世代から世代に受け継がれていくものであることをしっかり教える必要がある」という意見がありました。これは家庭科教育の必要性ということを言われております。
  ただ、このことには全く異議はないんですけれども、人口問題とか、少子化問題そのものを、小学校・中学校・高校の教育においてテーマとして、あるいは課題として直接的に教えることも必要ではないか。これは環境問題なり、あるいは様々な複雑な要因と絡んだ問題で、人類の重要なテーマになっていくと思います。学校教育のテーマとして少子化そのものがあるのではないかという気がいたします。

○  今のお話には続かなくて、先ほどのことに関連してくるんですけれども、保育園、幼稚園の役割というのは、子どもが少子化の社会の中で育っていく、少子化を前提とした社会の中での子どもの人間形成という、そのことを考えていこうという視点に立つというところが、この小委員会の大事なところではないかと思っております。一番最初に、前は社会的な労働人口、経済問題が入っていたんですけれども、少子化がもたらす問題を、心身ともに健全な子どもの育成という面から検討しているのはとてもいいことだと思っております。
  その点で言うと、例えば保育に欠ける子どもがやむを得ず保育所に預けられるというようなことも、現代では非常に数が少なくなった子どもたちを、たった一人の母親が育てている。父親は忙しくて子育てにほとんどかかわれないというときに、幼稚園に行く前ぐらいから、母親が自分に都合のいいように子どもをどうしても育てがちなんです。農村部や地方のほうでは、おじいさん、おばあさんもいたりして、あるいはいとこや、おじさん、おばさんと接する機会もあるかもしれないんですけれども、都会ではテレビやビデオで子育てをさせてしまったり、お母さんが早くから子どもを夢中になって教育したり、あるいは場合によっては幼稚園に行くまで、移動のときにはいつでも乳母車に乗せて移動していて、幼稚園に来るときまで乳母車で連れてくる。体が大きいのに足がとても弱くなってしまっている。でも、母親はそういうふうな育て方が、おかしいとも気がつかないで、3歳ぐらいになって言葉の数がとても少なかったり、人とかかわる力がとても弱っているということがあるんです。これはいとことか、おじさんもおばさんも少なくなっていくというのが、少子化の特徴ですから、これはかなり早くから子どもたちが人とかかわる力を育てていかないといけないのではないか。そのことは小さいうちから、それから小学校においても非常に大事だと思うのです。これはいじめとか、不登校とか、あるいは学級崩壊などにもかかわる、とても大事なことではないかと思います。
  私の研究テーマの母と子の密着保育、あるいは育児不安などで、子どもたちがどう育っていくかということを検討していまして、やはりかなり大きな問題があって、家庭の中で母親だけに育てられている子どものほうが、むしろ保育に欠けると言わざるを得ないというのが現状ではないかと思っているんです。
  ですから、3歳時点での幼稚園の入園の実施というのもございますけれども、もうちょっと早くから子育て支援活動の推進、単なる相談だけではなくて  ―括弧して「相談」となっているんですが、もう少し週1回でもいいし、お母さんたちが子どもを連れてきて幼稚園で遊べるというようなことを、幼稚園にもお願いできる。あるいは、預かり保育というのは、時間延長と受け取れるんですけれども、かなり早くから幼稚園などの場所を地域の子育てサロンのような形にして、うんと早くからお母さん同士が交流したり、子ども同士が交流できる場所を、少子化の時代だから本格的に考えていかないと、これは子どもの育ち方がとてもおかしくなるのではないかということを心配しています。ぜひ子どもの視点から、そういうところが見えるように入れていただけるといいと思います。

○  まず少子化のとらえ方といいますか、視点ですが、私は少子化というのは小国力化だと思うのです。そういう認識がないといけないと思うのです。どうしてそう思ったのかといいますと、最近、政府の21世紀の成熟した経済社会云々という長い名前の報告を見ていましたら、教育のことにも触れているんですが、義務教育からなんです。つまり、少子化問題の社会経済対策はかなり進んでいるようですが、少子化の教育対策の議論がない。その議論は少子化の社会経済対策を視野に入れてトータルにとらえていかないと、少子化の議論が矮小化されていくのではないかという気がします。
  その一つの具体的な例を申しますと、少子化になれば小国力化になる。人材が少なくなる。そうすると、円安になるとか、G7にも出れなくなるぞと脅す学者もいるんですけれども、それは別としても、教育を支援する財源も少なくなると思うのです。
  そこで、少子化の教育対策はどのように考えたらいいのかというと、生涯発達教育論的な見方で教育を全体的にとらえる視点ではないかと思います。そうすると、人間は家庭に生まれてくるんですから、家庭で生まれなくても親から生まれるわけですから、家庭が生涯学習の出発点になる、これは中央教育審議会の答申でも言っていますし、臨時教育審議会は「原点」だと言っています。みんな問題の指摘だけして、その後、お忘れになったのでしょうか。委員になりまして、毎回ここへ出て、「家庭、家庭」と言っているんですが、出てくるのは家庭科だけで、家庭が出ていないのを申し上げようと今日も思っていましたが、家庭がどうも見えてこない。
  子どもはまず家庭で育つのに、先ほど他の委員の方もおっしゃっていましたけれども、いろんな制度、支援をやりますと、逆に家庭崩壊を促進することにもなりかねないんですが、家庭の問題点があまり見えない。学校教育における少子化の問題点というのは、「学校におけるマイナス面」というのがありますが、家庭におけるマイナス面からこそ出発したほうがいいのではないか。
  今、保育所に入るのは、保育に欠ける子が入ると法律上なっておりますけれども、それ以前に、家庭教育に欠ける子がたくさんいると思うのです。そういうものをどうするかというと、やはり親の意識しかないんですが、親の意識の変革を促す支援が必要だ。それをどう考えるのかということが非常に大きな問題になるのではないかと思います。そういう意識変革のことについては、「世代から世代へ受け継がれていく」といった意見もありましたが、少子化の現在、子どもを授かって、育てる喜び、充実感、重要さというものを家庭科で教えるのかですね。臨時教育審議会第2次答申では、将来親になる子どもに学校で教えるとか言っていましたけれども、それも大事ですが、今の親にも教えなければいけないので、そういうことが社会教育、その他の分野であまり見えてこない。現在、我々が自由に豊かな生活が謳歌できるのは、親に産んでいただいたからできるんで、それを次の世代に育てる責務のようなものがあるのに、それを考えていない。
  そういった意味で、「やりたいことが制約されるという不自由感」というのは明らかにおかしいので、親に責任の自覚がないということなんですから、それをもっと強調することをやらなければいけない。要するに家庭が見えないというのが一番不満です。
  それから、少子化というのは量的概念で、質的などういう子どもが育つかということについてですが、「生きる力」を今なぜ言い出したかというときに、「生きる力」がないから言い出したというふうにすれば、「生きる力」の中身は知・徳・体になりますが、知においても、徳においても、体においても、今の子どもは劣っているんです。これは時間がないので説明しませんが。劣っているという意味で、子どもが劣化している。「劣子化」と私は言っているんです。「少子化」というのは量的な表現で、「劣子化」は質的な表現と言っているんです。少年犯罪の増加、刑法犯でいえば、今、1,000人に約7人です。これはすごい数字だと思います。そういうことを考えてくると、今の子どもたちは、道徳面でも人材が劣化していると言えるのではないかと思います。そういう対応をどうするか。
  申し上げたかったことは、少子化の社会経済対策をにらみながら、教育対策をどう考えるかということと、産んでからどう支援するかではなくて、産みたいという意識を育てる教育ということです。
  それから、少子化の構造分析ということをだいぶ前にもお願いして、資料が少しここに出ているんですが、都市では特殊出生率が平均よりも上がって、都市には人口がこれから増えるでしょうし、地域では過疎化が進行する。そういう問題とも絡めて検討する必要があるのではないか。

○  家庭のお話が出ましたが、欧米と比べると、日本は家族の在り方が、今、変わりつつあるから、みんな非常に困っているのではないでしょうかね。最近、西洋人の書かれたエッセーを見ていますと、わざわざ片仮名で「コジン主義」と書いてあるんですけれども、「日本人のほうがよほどコジン主義だ」というのがあります。つまり、日本人ほど家族一緒に旅行したり、家族一緒に楽しんだりしない国民は少ない。ドイツ人は個人主義だと言うけれども、みんな家族はちゃんと大事にしている。ところが、日本人の個人主義は、家族から離れてバラバラになる個人主義をやっているので、欧米の個人主義を非常に誤解しているのではないかというエッセーがありました。そうかといって、日本の昔の家族主義に帰るというのはだれも反対だと思うのです。新しい家族とか、家庭というもののイメージが、もう一つみんな心の中に持ちにくいということも、一つ大きいことのように私は思っています。

○  だからこそ、政府の審議会のような場で、これからの家庭像とか、家族像を提示しないと、現場はますます波に流されていくのではないかと思います。私は答えを持ちませんけれども、そういう問題提起です。
  それから、細かいことになりますが、今日のこの論点の中で、これからは一人一人の能力とか、独創性、創造力とか、個性といったことは出てくるんですが、独創性、創造力、個性だけで、「人間性」「心の教育」とか、それが出てこないんですね。「たくましさ」や「活力」は出てくるんですが。これだけ少年犯罪が増え、自殺のマニュアル本とか、変な本が出ているときに、「完全人格完成マニュアル」とか、そういう本をどこも出さないし。そういう皮肉も言いたくなるんですが、そのことがちょっと気になりましたので、申し添えさせていただきます。

○  一つは、これからの社会を考えるときに、男女共同参画社会を目指そうということですが、それがどうしても女性が社会へ参画していくということで取り上げられることが多いと思います。例えば、会社の中でどうやっていくか、子どもを産んでどのように仕事を続けていくか、あるいは女性が社会に出て差別されるというような取り上げ方は多いです。しかし、男女共同に参画して社会をつくり上げていこうということであれば、昔の女が家、男が外で働くということを前提とすれば、女性がどちらかというと社会へ参画するということでとりあげられる一方で、男性がいかに家庭とかかわりを持っていくかということももっと取り上げていかないとバランスがとれないと思います。少子化の中で、家庭というとすぐ母親が出てくるみたいなパターンから抜け切れないのではないかと思います。
  当然、生きていく場の変容の中で、都市化ということによって地域社会が崩壊しているわけですし、女性が社会進出することによって家庭が変容して、家庭の在り方も多様化している。これだけ社会が変わってきている中で、子どもが今までのように自然な状態でなかなかうまく育たなくなっているのを、どのように支援していくのかというのがこれからの大きな問題だろうと思います。
  そういう意味では、一つの政策として、男性が家庭にどうかかわっていくのか。さっき、学校の中でもっとおやじの会をつくってやったらどうかとか、そういう御提案もありましたけれども、小さなことでも何かそういうことを少しずつ政策提案の中に入れて強調していかないと、男性の家庭に対する関わり方は変わっていかないのではないかと思います。
  それから、家庭について論じるときに、一般論とか、標準論が通じないのだと思います。例えば、ここの中でも、土曜日・日曜日のお休みみたいな話が当たり前のように出てきますけれども、第三次産業の中においては、土曜日・日曜日は働く日であったりしますし、それから夜働いている方も多いでしょう。家庭も両親そろった家庭もあれば、片親だけの家庭もあるというように標準論で語れない時代であるというところに、この辺の御提案の難しさもあるのかなというのを実感しています。とにかく、理念でこうあるべきだと言っても、ほとんどあるべき論に世の中は動いていかないで、時代の流れの中ではもっと多様化していくと思いますので、むしろ多様化ということを前提としながら、話を進めていったほうがいいと思います。

○  今の家庭標準化論ですが、私は何も標準化論を言っているのではなくて、物事すべて基礎・基本というのがあるので、多様な家庭の中にも共通しているものは必ずあるはずなので、それは家族が「一緒に」食べて寝る場所、生活する場所ですけれども、それを基礎にして多様化しているというふうに考えればいいのではないかと思います。

○  私が子どもを産んだときに親から言われたことが、「これでおまえも権利が10分の1、義務が10倍になったな。だけど、それはすばらしく豊かな義務だな」と言われまして、思いどおりいかないことも、すべて喜びに変えようと思って子どもを育ててきた経験もあるんですけれども。家族というのは、ファミリーのメンバーのために自分を喜んで捨てるということも基本にあるのではないかと思うのです。
  さっき他の委員の方が、個性、個性と言うけれども、人間性が育っていないじゃないかと。日本の場合、個性というと、どうしてもエゴイズムになってしまって、自分を捨てて、より豊かな個性に出合うみたいな、その辺の視点が今欠けているなという感じがするんです。それは仏教とか、儒教的なものでずっときて。それがたまたま封建主義とか、軍国主義にからめとられて、あれは一切嫌だ、思い出したくもないということで完全否定してしまって、それを伝承としてつないでいかないから、スピードメーターだけで、羅針盤がなくて、多様性、多様性といって、エゴイズム、エゴイズムになっちゃっている状態ではないかと思うのです。
  やはり生きることとか、死ぬこととか、家族とは何かとか、人間とは何かというのは、どうしたら考えさせることができるのか。「生命への畏敬の念を教えましょう」といって、「世代から世代へ命はつながれていきます」なんて、心が貧しい感じの先生がいくら教壇でわめいても、子どもたちはうんざりするだけで、本音と建前は違うみたいな受け取り方しかきっとしないと思います。
  文部省ではなかなか難しいのかもしれないけれども、国際競争時代で、外国語運用能力とか、交渉力なんていうのがここに挙がっていますけれども、キリスト教とか、仏教というのを教養として学んでおく必要があるのではないか。そうでないと、欧米人が個人主義といった場合、個人というのはゴッズ・ギフトといって、神様からのたまもの・ギフトだと考えているわけです。ゴッズ・ギフトがいろいろあって、喜び合うのが家庭で、家庭から愛が始まる。家庭内エゴイズムでもいけないし、バラバラのホテル家族でもいけない。やはり文化の違いがあって、それは宗教的情操心に裏打ちされた文化ですけれども、そういうものを教えていかないと、日本人は英語ができても、相手の心が全く理解できない。すなわち、交渉力もないということになってくると思います。キリスト教とか、儒教とか、神道とか、武士道とか、仏教を教養として教えて、いろんな羅針盤が世の中にはあるんだよと。君たちはその中で、宗教を持てと押しつけるわけではないけれども、生きること、死ぬこと、家族、人間をどういうふうに考えるかということを常に問いかけながら、教育していくという面が必要ではないかと思います。

○  今、子どもたちの置かれている状況を考えたときに、悪いところがある、困ったことがあるというふうに周りの者が考えて、どんどん与えることをしているんです。子どもたちはどちらかというと、もう与えられることが当たり前、その与えられたものを与えられた以上に追求しようとか、与えられて大変なことになったときに、それを乗り越えようということをしなくても済むようになっている、またはするだけの余裕を持たされていないような気がします。
  マイナスへの対応で、いろんなことがプラスされているんですけれども、その分、人間の力というのは限界があるので、どこかを削って、これはしなくてもいい、これは今までより減らしてもいいから、こういうことをたくさんやろうという、足し算の裏側の引き算の部分も考えていかなくてはいけないのではないかと思います。
  例えば、学習を充実させる、保育をボランティアでやらせる。それはいいことなんですが、そのボランティアをやる時間をどこから引き出すか。子どもたちの寝る時間を減らすのはたぶんこれ以上無理だと思います。だったら、例えば入試であるとか、学校格差のような、受験戦争のようなものを少し減らすとか、どこかで緩和させてあげないと、結局は飽和状態で、どれも実を結ばないのではないかと思います。
  また、母親に関する子育て支援も、いろんな形で並んではいますが、それをどういうふうに自分たちで消化したらいいのか。行政はこんなに窓口があるんですよ、電話をかければいいじゃないですかと言われても、電話をかけたことによって自分が変われるのかどうか、その先の部分がもう少し深められるような形でないと、表面を上滑りしたものになるのではないかと思います。

○  家庭が大切だというのは本当にそのとおりですが、家庭の形になっていない家庭が増えているということが今の問題なんだと思うのです。食べるとか、寝るとか、家庭の共通項は有るでしょうが、寝るぐらいはあっても、家庭でみんなで食べるということさえ欠いている家庭が、今、増えている。このようなことが、日本のいろいろな問題の一つなんだと思うのです。
  最近痛切に思うことは、地域というものをどうにかしていかないといけないということです。つまり、核家族化とか、家庭の変容というのは、ある意味ではとめられないかもしれない。それならば、地域で全く家庭と同じことはできないけれども、家庭の肩がわりみたいなもの、つまりお父さんが忙しくて、いないうちもある。それから、離婚して片親のところもある。そこで、そのうちの家庭ではお父さんはいないけれども、地域でお父さん役の人がいるというようなこと、そういったものをつくっていく必要があるのではないかと思います。
  私も、いつか仕事をやめる時期があって、ボランティアみたいなものができたら、炊き出しのおばさんをやるのもいいかなと思っているんです。つまり、中学生の娘の友達の中にも、夕食をコンビニの弁当だけで済ませているような子たちが少なくない。「うちへ来て食べなさいね」という活動ができないかなと思ったりするんです。これを行政がどうするかということは別問題ですが、地域で今まで担っていたおじいちゃん、おばあちゃんの役、おじさん、おばさんの役、いとこたちの役を、人が集うことで担っていくことができないだろうかと考えています。

○  3点、手短にやります。一つは、以前子育て支援の充実を進めるに当たって「児童館、保健センター、婦人会館等、福祉、医療、女性関連施設との連携・強力の推進」との意見がありましたが、その意見の中の「婦人会館」については現在、「女性センター」というのが普通になっているかと思うので、表現を改めたほうがいいのではないかという気がします。
  それから、今までの審議を振り返って、少子化によって競争が緩和されて、それが劣子化をもたらすというようなトーンがちょっと強いかなと思うのです。確かに少年犯罪が増えたり、キレる子が出てきたり、いろんなことがあって、本当に子どもが劣子化しているのではないかという不安感を持っている方が多いかと思います。
  でも、一方で私はいつも感じているのですが、自分は昭和26年生まれなんです。自分の中学、高校時代の受験勉強のことを考えると、受験競争が緩和されて、創造的な自分の能力を生かす機会がいっぱい出てきて、こんないいことはないじゃないかという気持ちも他方であるんです。競争を通じての活力が削がれるというのも確かにそうかもしれませんけれども、同時に創造的な発展の機会もあるんだということを、もうちょっと強めに出されてもいいのではないかという気がしています。
  3点目ですが、虐待の傾向が強いと言われていますけれども、確かに虐待傾向の高いのは母子密着の家庭で、虐待の中には例えば放置というのがあるわけです。ネグレクトといいまして、子どもをほっぽらかしにして、遊びに行ったりするというのもあるわけです。虐待は、保育所に子どもを預けられると、そのときに保育所の先生が気づくというケースが非常に多くて。それやこれや考えてみましても、地域で子どもを育てていくということの意味は、幼稚園なり保育所なりで子どもさんを預かることを通じて、御両親にも親であることの自覚を促していくという、具体的にはそういうプロセスになろうかと思います。単に子どもを預けて、自分の好き勝手なことをしているというイメージでとらえるのは、ぜひ各論としてはやめておきたいという感じがいたします。

○  私は考えがまとまらなくて困っていることがあるんで、もしかしたら私一人だけちょっと違った考えを持っているのかなというのが一つあるんです。その点を述べてみて、皆さん、遠慮なく批判をしていただきたい。
  一つは、少子化の問題ですけれども、私は少子化はある程度の傾向であると思うし、悪くないと思っているんです。むしろ明治以来の日本の人口増加は異常であった。だって、3,000万が1億2,000万になったわけですから、そんな100年で4倍になるということが異常な状態。それに伴って、もちろん経済は右肩上がりで上がってきたわけです。ですから、何となく私どもはまだ経済がさらに成長すると考えており、現在は経済成長を制約されているというんですけれども、そんなに成長しなければいけないのか。人間の数が減れば、車の売れる台数が減って、電気器具の台数が減る。これは当然のことです。日本の経済界がそういう経験を一度もしたことないから、右肩下がり、あるいは現状維持ということを考えない。考えないから、なぜだ。子どもが少ないからだ。なぜだ。結婚しなからだ、産まないからだということになるわけですけれども、そんなことに一体日本人がみんな付き合わなければいけないのかということが、私の第一の疑問です。
  第二の疑問は、今、他の委員の方もいっておられましたが、確かに競争が緩和されることが予想される。受験という現象においてはそうだと思います。なぜかといえば、学生の収容数が多くて子どもが減るわけですから、受験競争はどこかに入ればいいならば楽になると思います。しかし、私は日本の人口が今の半分ぐらいのころに受験したのではないかと思っています。しかし、激烈な受験競争を私は通ったと思っています。そんな生やさしくのんびりと入ったとは思っていません。友達に聞くと、天才みたいな人もおりますけれども、やはりかなりそれ相応に受験勉強して、私が小学生から中学生になるときに「受験地獄」という言葉が出ました。1年だけ、受験地獄があまりひどいから学力試験をやめるといって、内申書だけで試験をしたんです。たぶん会長もそのころではございませんでしょうか。ですから、受験地獄というのはあった。人口が少ないときからですね。ですから、競争はなくならないのではないか。
  つまり、ここに入ればいいという競争は楽になるかもしれないけれども、絶対というものに対する競争が一つあるわけです。科学技術とか、学問をやるとか、経営というような。これは景気がいいときや、景気が悪いときなど、経営者というのは大変な競争と努力をしているわけです。
  したがって、少子化で活力が削がれるかというと、そうでもないのではないか。むしろ子どもがだんだん減ってきた今、就職難はだんだんひどくなってきて、今の学生を見ていると、本当に哀れです。とりわけ女子学生は。右往左往と駆け回っても就職先がない。彼女たちは将来、子どもを産んでも、こんなになって就職先もなければ産んでもしょうがないと思うのではないか。どうなるんだろうという疑問が一つあるんです。
  もう一つは、少子化は社会の活力を削ぐもので、マイナスの影響が大きいとの意見が出ておりましたが、私もそういう面が確かにあると思うのですが、少子化社会に一番早く突入したのはフランスなんです。そのときに日本では、フランスは堕落した国であると、明治時代の地理の教科書のフランス人というところに書いてあるんですね。軽佻浮薄にして子どもが少ないから、人口減少の重大なる結果を生んでいるというのは、志賀重昂という人が書いた「世界地理歴史」に書いてあるんです。そのときは、ドイツは尚武の気質があり、学者と軍人はドイツの誇りなりと褒め上げたんですが、今、そのドイツが少子化になって、活力がなくなっているんでしょうか。私は、なかなかいい社会をつくっていると思います。ですから、その辺のところを少し考えておかないと、大国の夢を追っかけて、しかもアメリカモデルで、アメリカは超大国で、ものすごいエネルギーを使って、ものすごいむだをやっているんですが、アメリカの2番目になろう、あるいはなろうとするのかというと、私は非常に疑問に思います。
  そういう点で、何か欠けた問題がどこかあるのではないかと思いますが、遠慮なく皆さん私の意見を批判していただきたいと思います。

○  少子化がいいとか悪いとかじゃなくて、目の前に現実があるんです。それで私はそれを受けとめて、どう対応するかということを言っているんですが、一つ欠けているとすれば、日本の国の人口の適正規模の提示がないということです。2050年にはこうなりますという指摘はあるけれども、それでは困るからこうしましょうということがないんです。車でも速く走っていたら、急に止まれないんですよね。このままほっておけば、30年たって、50年で止めようと思っても無理なんです。だから、今からどう考えるのかというと、これは教育だけの問題ではないのですが、考えてもらいたいと思います。
  フランスとか、まあ、ドイツも少子化になっていますけれども、ドイツで少子化になったときに、子どもを産まない理由は、子どもを育てる費用よりも車のほうが安いから、車で夫婦でバカンスにどこかへ行こうとか、そんなのが「シュピーゲル」に統計で出ていましたけれども、そういうふうになっていくんで。そういう国では、結局、国際化で外国の移民がどんどん増えています。日本も少子化で人材が不足すれば、現に今入っていますけれども、もっとどんどん入ってくる。それをボーダレスの社会になるんだから、いいんだと受け入れるかどうかという問題もあると思うのですが。
  2番目の問題は、他の委員の方が、私が家庭が大事だ、家庭が大事だと言っているということで、おっしゃいましたが、私自身はあまり家庭を過大評価されても困ると思うのです。といいますのは、この少子化の委員会で、今、家庭の問題が欠けているのではないかということを言っているので、家庭だけで解決するとはちっとも思っていません。その点、誤解のないようにお願いしたいと思うのです。
  それから、一緒に食べる機会が減っているというので、雑談的に言いますと、例えば「教育面以外からの方策」ということで、「ノー残業デーの徹底」なんていうのがあります。私はもっと具体的にこういうことを考えていけば、「ノーゴルフデー」とか、日曜日は会社の接待ゴルフをやめるで、父親は家庭に帰れるのに、学校5日制で土曜日、日曜日、子どもは自然に親しめと文部省は言っていても、お父さんはゴルフで自然に親しんで、子どもはうちでファミコンをやっているという、そういうばかな現実なんですね。ある元文部次官が、ゴルフをやらない人なものですから、ゴルフ場を全部青少年の広場にすればいいなんて。いい夢だと思うのですけれども、とてもできませんけれども、ノーゴルフデーぐらいはつくれば、子どもと一緒に食べるということもできるのではないか。
  3番目ですが、他の委員の方が男女共同参画で、家庭への男性の参画ということをおっしゃいましたが、そのとおりだと思います。私自身が参画していませんので、大いに反省していますが、そういう方策は、マニュアルをつくらない限りだめですね。文部省が、父親は夜うちへ帰って、子どもと食事をしろといったように具体的に言わないとだめですよ、理念だけでは。だから、理念を親が持つべきとありますが、理念なんてみんな暗唱していれば言えるんですけれども、具体的にどうしていいかわからないので、理念を実現する理論もなければ、理論を実践する方法、マニュアルもないんですから、これはちっとも進まない。家庭のしつけはその典型ですが、しつけを厳しく厳しくと言っているけれども、厳しくするマニュアルがないということだと思うのです。
  4番目に、これは大事なことではないかと思うのですが、「少子化が教育に及ぼすプラス面の活用について」で、「人的・物的資源は減らすことはしない」と。これはここでいくら言っていても、私は減らされると思うのです。といいますのは、他の審議会で、30人学級にした場合と、初任者研修の初任者の教師を別枠にした場合との財政比較というのを私が質問したんですが、30人学級にするには1兆円要るんだと聞いて、「あ、これはとてもだめだ」と思ったんです。ですから、当然これは減らされますし、どのようにこれに対応していくかというのは大事なことではないかと思います。

○  言い忘れたことが一つあります。私は自分がフランス研究をやっておりますから、フランスが少子化をどう乗り切ったかというか、乗り切っていないんですけれども、先進国の中では出生率が高いです。最近は知りません、この四、五年は。しかし、少なくとも戦後、人口が非常に増えたときがある。それはドゴールという大統領が出て、自分の国を見詰めたときに、第1次大戦で若者を非常に多く失ったわけです。ドイツも失ったわけです。フランスも失った。その若者が20代になったときに第2次大戦になった。ですから、そもそも親の数が少ないわけですからますます減った。どういうことをやったかといいますと、それが私が留学したころで目撃者なんですが、子どもが3人以上いると、金銭的支援をした。たしかあのとき、4、5人いると働かなくても何とか生活できるというぐらい金銭的支援をしました。
  日本の財政難ではそれは無理だと思いますけれども、しかし、フランスだってあのとき、ドイツ軍に占領された後、ひどい荒廃ぶりで、その中でできたわけです。そしたら、すごく子どもが増えた。私が初めてパリへ行ったときに、戦前のパリを知っている人が、私に「あなた初めて見て、乳母車が四方八方にあるけど、戦前はこんなじゃなかったよ。乳母車なんてなかったよ」と言われたんです。事実それについての風刺的なお芝居が10何年ロングランをしたり、ともかく子どもがものすごく増えたんです。
  変なことを言いますと、財政に覚悟を決めて、子どもに対する手当をどっと出せば、日本人はたちまち増えるだろうと思うのです。ただし、それはドゴールのような人じゃないとやれない政策で、今の日本ではできないだろうと思うのです。そういう意味で、子どもが急激に減るというのは、憂えるべきだと思うのです。徐々に減っていくことは、適正規模を考えるためには、日本という国は人口異常繁殖の実験国みたいなのですけれども、もう少し減ったほうが、お互い環境を壊さなくて済むのではないかと思いますが、どうしても増やしたければドゴールが出れば大丈夫だと私は思っているんです。そういう意味で、将来もだんだん減っていって、日本人がいなくなっちゃうのではないかなんていう心配はないと思うのですが、そういうことをやったわけですね。ですから、どうにも手を打てないことではないという気が私はしています。
  むしろ心配なのは、先ほどから皆さんもおっしゃっている、子ども、あるいは親も含めて、家庭も含めて、どこか狂ってきたのではないかということなんです。これはまた、たまたま自分の孫が小さなとき、オランダの幼稚園にいて帰ってきて、日本で幼稚園に入ったので、幼児のころの違いが非常によくわかるんです。オランダは小さな国です。オランダとか、ベルギーというのは、日本と人口密度が同じですが、山がないから、見渡す限り人のいないところがたくさんあるんです。日本には、少なくとも東海道新幹線の両側にはそんなところはないわけです。とても夢のある育て方を幼稚園でしています。それに対して帰国後の私の孫が見ているテレビとか、本とか、マンガには夢がないんです。人造人間のロボットみたいなのが飛び出してきて、変身したりする。実はあのマンガはヨーロッパでもやっています。ちゃんとフランス語版もできて、フランス語でいろんなアニメをやっていますが、日本ほど子どもが熱狂していない。どうも子どもの精神的な形成に与えるものが、日本はとても質が悪いのではないか。それが20年、25年たってくると、若い母親が子どもを育てるときに、さっき他の委員の方が劣化とおっしゃったけれども、そういう現象が起こってきたのではないか。これはモラルの問題と価値観の問題ですが、私は非常に心配なわけです。

○  そこら辺のところで私も一つ思っていることがあるんですが、例えばいろいろな対応策として、「子育て支援の充実」であれば、「『子育て相談員』の配置」とか、それから「連携」とか、そういう言葉はあるんですが、では子育て相談員は本当に適切な人がいるのかどうかと言われると、そういう養成に関しては、ここにはひょっとしたらそういうことも裏には含んでいるのかもしれないんですが、はっきりうたわれていないような現実があります。
  また、保育園や幼稚園は連携するということがあっても、その連携を取り持つようなコーディネーターを置くのかどうか。そういうものがない限り、現場の人たちは人員削減の中でギリギリの状態でやっているのに、新しいことをさらに勉強して、さらに新しいところとコンタクトを取ってということは難しいのではないかと思います。ですから、適切な人員の養成を政策の中に積極的に入れていただけたら、一つは解決になるのではいかと思ったりします。

○  反論ではなくて、本当にそのとおりだという賛同の意見なんです。人口爆発といいますか、人口が増えたことによって、右肩上がりの経済成長を遂げたというその考え方を切りかえていくのはとても大事だと思うのです。経済成長しながら、しかも子どもも増えていったというのは、男性が経済活動に全面的に参加して、つまり女は家庭、男は仕事というこの分業体制と一緒になって、家庭を全く振り捨てた経済活動があったからできたと思うのです。そのことがやはり今行き詰まってきていると思わざるを得ない。家庭を経済活動とは切り離してきたのではないか。どうしてもその点で、子どもが一緒に切り捨てられてきたと言わざるを得ないと思います。
  競争緩和はないということも賛成です。人数が少なくなったらみんなだらけてしまうかというと、決してそんなことはないだろうということも賛成です。
  ただ、今まで家庭を母親だけのものにして、子育てを女だけの役割に押しつけてきたというような部分を変えていかないと。ゆとりもある意味で、男性がもっと家庭のほうに目を向けるというのか、子どもに目を向けるということが必要だと思うのです。家庭と言うかどうかは問題ですが、子どもを産むということには、先ほど来話が出ていますように、非常に責任があるんだ、エネルギーが要るんだ、おカネがかかるんだということを、ちゃんと男も女も自覚しなくちゃいけない。親として同居していないかもしれない、離婚をしたかもしれないけれども、やはり責任もあるとか、子どもについての考え方は、父親になる人、なった人は考えていかなくてはいけないという気がしています。子どもから見たら、だれか大人がいないと育たないんだということで、どうしても家庭が大事になる。家庭といいますか、大人、しかもそれは母親だけではなくて、いろんな人がかかわって、初めてうまく育っていくというそのことは、子どもの発達から見てもとても大切なことだろうと思います。
  そのためには、社会全体が子どもというものに関心を持つ。経済活動だけではなくて、時代が変わって、右肩上がりの成長ではないという社会の仕組みの中で対応できるような物の考え方になっていかないといけないかなと。そこのところはつけ足しというか、そちらの方向へ持っていくという点で、とても賛成です。

○河合座長  少子化に対してどうと言う前に、経済成長が非常に大事なことと考えたのと、日本の多子化傾向が裏表になってダーッときた。その傾向が今止まったんですね。止まったのは、少子化という格好で止まっているように見えるけれども、これはそれの批判というか、反省というか、そういう状況が起こってきている。根本的に日本人の生き方というか、生活全般的に考え直さないと少子化の問題は解決しないと言ってもいいかもしれませんね。相当考えないと。今まで言ってみれば、家庭を犠牲にして日本は成長してきたと言ってもいいと思いますけれども、それはやめようというところへきているのではないかという感じがします。

○  先ほどの他の委員の方の御質問に直接お答えすることは今すぐにはできないので、宿題としていただきたいと思うのですが、幾ばくかはかかわることを一、二申し上げたいと思います。
  一つは、「子どもを産み育てることにより、やりたいことが制約されるという不自由感」があるから、「育児や教育にかかる様々な負担や制約を軽減する必要がある」という提言についてです。この方向が、本小委員会の「少子化と教育について」のライトモチーフではないかと思います。つまり、少子化を防ぐために、子どもを産み育てやすいような条件をできるだけつくろうではないかということが強調されております。
  私、この小委員会に参加して驚きましたのは、この小委員会の前にもたれた総理府のほうの御提言とか、御方針も非常に物わかりがいい。それから、本小委員会で示された文部省の姿勢も非常にソフトで、全面的に子育て支援のほうに向いている。企業のほうも、最近、いろんな形で理解を示されている。しかしながら、ここにおられる委員の方々が実際に子どもを育てられたときには、そんな状況はなかったと思うのです。委員の皆さんの世代は、子どもを産み育て、かつやりたいことをやりたい。だから、保育所がなければ保育所をつくる、保育所がつくれなければお守りさんを探す。学童保育がなければ学童保育をつくる。学童保育がつくれなければ、何とか仲間でカバーする。このように、社会的な仕事として自分のやりたいことをやることと、子どもを育てることとを、一人一人が自立的に工夫してやってきたのです。必ずしも当時の政府も、文部省も、企業も、それほど理解があったわけではありません。
  私は、各方面で理解が必要ないと言っているのではなく、まさにこの方向で、育児や教育にかかる負担や制限を軽減するための条件づくりを行うという基本方針には賛成ですけれども、一つ心配なのは、そうした様々な措置をきちんといろんな形で整えていったときに、それでもなおかつ、子どもを産み育てることにより、やりたいことが制約される、あるいはやれないというふうなことを、若いお母さんたち、あるいはお父さんたちがおっしゃるようになるのではないかと予測するのです。つまり、新しい状況を整えたら、また際限なく不自由だ、不便だという要求が出てくるような感じがするのです。それはなぜなのか。我々が子育てをしたときに比べて、労働条件がもっと複雑になり、もっと厳しくなったからなのか。必ずしもそうとは言えないかもしれない。総合的な人間力が落ちたのか。どちらかといえばそういう気がするのです。
  今回の小委員会の審議を通して、子どもを生み育てるための条件づくりを提起することは必要なのだけれども、そのことに加えて先ほどから問題になっているような人間の価値観や、生きる力、生き方にかかわる問題提起も、あわせてしなければいけないと思います。
  もう一つ気がついたことを申し上げます。フランスで発達している学問の一つに、歴史人口学というのがあります。フランスには教会方面の非常に優れた資料があるからではあるのですが、また社会史の伝統があるからなのですが、歴史人口学が見事な発達を遂げている。このことと先ほどの人口問題に対するこの国のいろいろな取組や実践とは、どこか根底でつながっているような気がいたします。日本の場合にも、厚生省の社会保障人口問題研究所の御研究もあるし、そのほかでも取り組んでおられるところはあるけれども、まだまだ学問的に歴史的、社会的に人口問題をとらえる体制が十分にできていないのではないかと思います。このことと人口問題に対する視野の狭さ、短さがかかわっているかもしれないと思います。あの中国では、ただ政策的な必要から人口抑制をやっているように見えますが、図書館で調べてみると、大学を拠点とした専門誌がいくつもあり、人口問題に対する学問的研究をいろんな角度からやっております。そういうふうな姿勢も必要なのではないかと思います。
  最後に、さきほどの地域をはじめてとして、いろいろな形で、個々の親をバックアップする体制を新しく考えなければいけないというお話についてです。ただ、今の私たちの世代は、地域でも何かしなければいけないでしょうし、家庭でも子育てのバックアップもしてあげなければいけないのですが、他方私たち自身の親の介護に、今、相当なエネルギーを割かなければいけないような状況になってきております。私たちのエネルギーが、少子化だけに割けないような、高齢化との闘いにも直面している。そういう複雑な状況にあることを指摘しておきたいと思います。

○河合座長  子育ての苦しみをできるだけ軽減するようにしようといういろんな案が出てきているんですが、私はこれは基本方針というのではなくて、具体的方針ということで、基本的に考え出すと、他の委員の方が言っておられることが非常に重要だと思います。ただ、それを文章に書くのは非常に難しい。ものすごく難しい問題で、これを論じるんだったら、1冊本を書いたって大変。しかし、私もずっと同じようなことを思っています。ただ、我々が今ここでできるのは、我々がというか、あるいは文部省としてできることを考えようということで、こういう答えが出てきているけれども、これは何も基本方針とか、基本的解決なんていうことではない。

○河合座長  だから、前文をちょっと書いてもいいなという感じを持ちました。前文に、これが一番大事なことだと、我々全員が一致したというのではなくて。他の委員の方が言っておられるような疑問点を書ければいいと私は思っております。

○  百貨店のようにあらゆるサービスを行政がしたらどうかということを言っていますが、これには疑問に思うこともあるのです。女性が子どもを持って働くためのきちんとした基礎的なインフラは必要ですが、少子化の歯止めをするために、それ以上のサービスがなければ子どもが産めないんだったら産まなくていいのではないか。やりたいことが制限される不自由さを感じ、それがいやな人は子どもを産まなくていいのではないかという気がしています。
  先ほど地域でのボランティア云々と言ったのは、今の現実、つまり少子化の歯止めということではなくて、現実が余りにもひどいので、子どもたちを救うために、社会で子どもを育てることが必要ではないかと思って言ったんです。それ以上の少子化の歯止めをかけるために、例えば、「子育てっていいものなんですよということを教えられたから、子どもを産む」というような、短絡的な親ではやはり困るのではないか。そこまで手を差し伸べて子どもを産ませるのか。かえってそういうのは子どもを産まないほうがいいのではないかという気もしないではないのです。

○河合座長  だから、この問題は、おっしゃるように、私は非常に難しい問題だと思っています。根本的に考えれば考えるほど難しいし、思っているとおり言うと必ず怒られそうなことがあったりして、その中で何ができるか。行政として何ができるかということを考えていこう。しかし、それに底流する考えというか、思想的なものは、もしちょっとでも前文に書けるならば書いてみようというところではないかというぐらいに思っております。

○  私が一つだけ、おやっと思うのは、以前「外国語運用能力、コンピュータ・リテラシー、交渉力などを兼ね備えた人材を厚い層として形成する必要がある」という非常に具体的な意見がありました。これは全く私も賛成なんですけれども、いずれまた文章を書くときに、この辺をもう少し抽象的に書くかどうかという工夫がちょっとあるのではないか。
  私は、長年にわたって外国語を教えてきた人間として、日本人は外国語が下手だというのを書かれると非常に責任を……。私は英語じゃないわけで、フランス語なんですけれども、それでもフランス語が下手だというのは、何百分の1か私の責任があるので、いろいろ考えているんですけれども、やはり言葉の問題というよりは、社会の中で人間が生きるときの姿勢がどうも違う。この審議会でもたびたび出てきたように、アメリカでは「アグレッシブ」というのは褒め言葉だというんですが、日本で攻撃的な人間というのはどうしても褒め言葉ではない。
  私が教えたある秀才学生が、私のうちへ四十ぐらいになってこの間三、四人やってきて、何言うかと思ったら、会社で物を言ったら出世しないというようなことを言うんです。

○河合座長  会社だけではないです。

○  だって、物を言わなきゃだめじゃないかと。ところが、事実、私より年上の職場の偉い方が、「大使に御馳走になったら、フランス人が一人、日仏会館というのはよく機能していないと、大変失礼なことを言う。反論しようかと思ったけど、やはり御馳走の場で事を荒立てるのもなにだからやめた」と言うから、私は「だめだ。そういうときは荒立てなきゃだめです」と言ったんだけれども、そういうことをやっているわけです。ですから、外国語能力なのか、人間関係の付き合いの発言のやり方の違いなのかという問題があって。コンピュータ・リテラシーというのは私は大賛成ですけれども、外国語というのはなかなかうまくいかないような気がするんです。それをどうして直すかということなので。ただ、TOEFLがいよいよビリになったというのは深刻な事態だと思うのです。コンピュータの場合だと、オタクになってしまうということもまた裏返しにあるんです。ただ、今、オタクが21世紀をつくるという仮説の人もおられるようで、事実、来月、「オタク」についての大論争を私どもは企画しています。

○  他の委員の方からお話のあった経済成長を制約するという論点の部分と、もう一つ非常に気になるのは、「企業が今後一層厳しい国際的競争にさらされるにもかかわらず、少子化の進行により国内的には様々な分野で競争が緩和されることが予想され、競争を通じて鍛えられるたくましさや活力を削がれる」とあるところで、読みかえれば、少子化の進行によってたくましさや活力が削がれて、日本は国際的競争に勝ち抜けないというようなことだと思うのです。
  全体的に、労働人口、経済成長、国際的競争というような論点でずうっときて、そして少子化は是正されるべき状況だと。果たして、日本は経済成長、国際競争力を追い求め続けるのでしょうか。そしてその為に少子化は是正されなければならないのでしょうか。実際に企業の中にいると、国際的競争が激しくなり弱肉強食が強まっている状況であることは確実だと思うのです。要は強い企業は生き残るし、弱い企業は敗れていくということは、もう目に見えていることです。
  ところが、一方で我々は、食べることに困らなくなっている中で、そこまでなぜさらに頑張らなければいけないのだろうかという思い、ゆとりを求める思いがものすごくあると思います。従って、先の記述については、もう少しそういうことを考慮していただいたほうがいいのではないかと思います。
  むしろ、競争が激化する中でゆとりのない労働環境が、少子化という部分の背後の問題として非常に大きいなと感じています。

○河合座長  ほかにもあると思いますが、時間がきましたので、このぐらいにさせていただきます。
(大臣官房政策課)

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