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中央教育審議会

1999/6 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第6回)議事録

  議  事  録 

平成11年6月28日(月)13:00〜15:00
霞が関東京會舘34階ロイヤルルーム

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    河合座長、志村委員、森(隆)委員

専門委員
    渥美専門委員、安藤専門委員、下田専門委員、鈴木(清)専門委員、鈴木(り)専門委員、楢府専門委員、広岡専門委員、牧野専門委員、森(正)専門委員、山口専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    富岡生涯学習局長、河野視学官、御手洗教育助成局長、高総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○河合座長  それでは、ただ今から中央教育審議会の「少子化と教育に関する小委員会」第6回会議、第17期としましては第2回の会議を開催いたします。
  皆様方には非常にお忙しいところを御出席いただきましてありがとうございました。
  本日は、「少子化と教育について」の審議を行うことといたします。
  まず、配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○河合座長  どうもありがとうございました。
  それでは、6月25日(金)に、東京大学教育学部附属高等学校の家庭科の授業を見学させていただきました。
  そこで、まず当日参加された方から簡単に御報告をお願いいたしたいと思います。よろしくお願いします。

○  金曜日、ちょっと雨の中でございましたが、8名の専門委員が参加いたしました。東京大学教育学部附属高等学校の2年生の授業でございますが、食生活と衣生活の領域、両方を見学させていただくことができました。1クラスを二つに分けているという、これは恵まれた条件です。20人ずつ分けて、お2人の先生が授業ができるというところを、ちょうど廊下を挟んで、どちらの授業も行ったり来たりしながら見ることができました。
  食生活のほうですけれども、「自分たちの食生活を考えてみよう」ということで、それまでに生徒が自分の一日の食事時間と内容を考え、そして食生活の問題点を出し合い、朝食のメニューを考えようというところまでやっておられて、ちょうど授業を見せていただいたところは、自分たちがつくったメニューに従って、実際の朝食づくりをするというものでございました。
  グループは男子、女子と性別に分かれているんですけれども、これも生徒の事情、御配慮もあっての分かれ方ですけれども、男の子たちも実に自然にうまく作業をしておりまして、この光景を見て、定着しているということを私どもは感じさせられました。
  申し忘れましたが、最初に副校長先生のほうから、東京大学教育学部附属高等学校の学校の概要も御説明いただき、また家庭科の様子、それから総合的な学習などについても御説明がありました。エリート教育といいますか、エリート校ではないということが学校の方針でいらっしゃいますので、ごく普通の生徒たちと考えてよいかと思いますが、実に自然に生徒たちが作業をしているところを拝見いたしました。
  もう一方の被服のほうの授業ですが、「被服構成を考える」という授業の一部で、立体構成の開襟シャツの作業をしていくところで、型紙を自分の体のサイズに合わせて、SかMかLかを選んで、型紙の中から切り取っていくという、ちょっと見ますと複雑な作業なのですけれども、人数も少ないということもあって、これも男女とも実にスムーズに授業をしておられました。
  最後のほうで、調理室のほうに集まりまして、ここがハイライトでございましたけれども、生徒たちが私たちのために余分に朝食をつくっておいてくれましたので、サンドイッチやら、あるいはロールパンにソーセージを挟んだものなどを、試食させていただきながら、生徒と懇談をいたしました。
  その後、リンゴを6等分に切って、ウサギリンゴというのをつくるというので、御存じでいらっしゃると思いますけれども、これを私どもも実演させていただきました。どなたも体験をしまして、見るよりも、体験学習の貴重さを体験することができまして、特に家庭科共修を経験なさらなかった世代の委員の方には、非常に強烈な印象であったようです。事務局の方も参加してくださいましたので、大変強い印象を持たれたと思います。大変よい機会を与えていただきました。
  見学が終わりましてから、楢府専門委員をはじめ、授業を担当された先生から学校の授業の様子について説明をいただき、また、そのほかの学校でやっていらっしゃる教育活動につきましての御説明などをいただきました。男女共学は平成6年が全体的なスタートでございますので、非常にうまく落ちついて、子どもたちが違和感なくやっておりましたので、この世代の人たちが中年になり、社会を支えていくころになると、随分世の中も変わってきて、男女で共に家庭をつくっていくことがごく自然になっていくのではないかと強く感じさせられた次第でございます。

○  私が感じたことですが、やはり個人差がありました。家庭の中でお手伝いをしている子どももいて、男の子にもおりました。そういう子どもは包丁の手さばきとか上手でした。そこで申し上げたいのは、よいチャンスだから、家庭で調理をする機会がなかったりする子どもは学校の家庭科の授業でよい体験ができるのではないかと、そういうふうに思いました。

○  私は、男子生徒たちが被服の型紙を切っていたり、お料理をつくっている姿を見て、「こういうことをすることに抵抗ないか」と一人一人に聞いてみました。「そういう質問をするほうがおかしいのではないか」という反応でした。皆さんとても和やかで、「つくるなら、着られるようないいものをつくりたい」と男の子たちが言っていました。私としてはとてもいい経験をさせていただいたと思って感謝しております。
  ところで、子どもの大脳活動の働きを研究している大学の先生から聞いた話ですが、1969年と1979年を比較すると、1979年には10年前と比べて子どもの前頭葉の働きが非常におくれていたそうです。前頭葉は一般に意思や感情に拘り、人間関係を司る機能があります。この10年間の違いを調べてみたところ、車の数がとても多くなった。地域の中で空き地が、駐車場になって子どもの遊び場がなくなった。子どもの遊び方は、まず第1にテレビ、それからマンガ、雑誌になった。遊び方の違いが大脳の働きを不活発にしたのではないかということです。子どもが野原を駆けめぐって遊ぶとか、物にさわったり、自分で実体験するというのがいかに子どもの前頭葉の働きに重要であるかということを指摘なさっています。
  このことは実際、家庭科教育と深い関係があるとは言えないかもしれませんけれども、子どもの大脳の働きを活発化するためにも実技の授業をどんどん入れていただきたいと思いました。

○  この間伺いまして、事務局の方が見事に8分の1のリンゴからウサギの形をつくられるのを見まして、別に学校で習わなくても、知的にむけるのではないかという気がいたしました。大変余分なことを申し上げました。
  私の印象としましては、教科書と黒板による講義形式の授業ではなくて、実践形式、参加型の授業だったということ、それから先ほど他の委員の方も言われましたように、1クラス40人の、さらにそれを二つに分けるという少人数の授業であったということ。それから、施設設備が非常にゆとりがある。教室も広いし、いろんな器具が複数、非常に豊富にそろっていると思いました。それから、先生方がこの種の授業について造詣が深いことがはっきりわかりました。これだけのことをやれば、男女が共に社会的に労働し、家事労働も助け合ってやっていくという雰囲気や習慣や動機づけに非常に大きな影響があるだろうと考えました。
  ただ、もう一つ、帰ってから考えましたのは、副校長先生が、中高一貫で半世紀やっているということで、敗戦直後に、海後宗臣先生の御方針で、先ほどもありましたようにエリート教育は行わないという方針を立てられ、その後も双生児を優先的に受け入れるほかは、ごく普通の生徒たちを集めてやっておられる。そして、これは国立大学教育学部の附属高校です。ですから、これだけのことができる体制というのは、やはりまだ日本の中では少ないかもしれない。よく似た例が頭に思い浮かんだので振り返ってみますと、名古屋大学の教育学部の附属中学・高校の教育実践でかなり似たものがありました。したがって、こうした実践性、少人数、施設設備、それから先生方の教育体験を育てていくためには、学校としての基本的な方針、そして中高一貫というしっかりした制度が要るわけでありまして、これを普遍化していく契機はどこにあるんだろうかというと、ちょっと考えた次第であります。
  もちろん人数は少なくなっていくし、施設設備をよくすることができるし、実践の授業も導入することができると思いますけれども、こういうプリンシプルというか、考え方、こうした教育が貴重だという理念に基づく伝統の蓄積は容易なことではない。単なる多様化の中の一つの実践例ではなくて、持っている普遍性をどうやって広げていくかということが課題かなと思いました。

○  性差よりも個人差が大きいなという感じがしました。ですから、女の子でもリンゴをむけないというのは予想がついたんですが、割ることもできない。包丁を一所懸命引いている。リンゴが二つに割れないんです。一方、男の子でも「いや、皿洗いをしないと、母ちゃんに怒られるよ」と料理上手もいる。本当に性差よりも個人差が大きいという感じがしました。
  生活を大事にすることは、心も、体も、頭も、感性も、いろんな意味で豊かにしていくと思いますので、生活をする具体的な技をいろいろ持っている人間が、これから豊かな暮らしができると私は思うのです。実際に、高校生のお母さんですと7割がパートに出ています。食生活を先生が調べてくださったのがあって、すごくいい食生活をしている子もいるんですが、例えば、朝食・おにぎり、夜食・ハンバーガーとか、朝食・牛乳、昼食・パンとか、朝食なし、昼食・パン、夜食・ラーメンとか、かなりひどい子がそれほど珍しくなくいる。「お母さんが夕飯をつくらないのですか」と聞いたら、「何も言われなきゃ用意しない」とか、そういうお母さんたちが若い世代で結構増えているんです。ですから、自衛のために、お母さんがつくってくれなかったら、子どもたちが自分でつくれるぐらいのことをこれからしなければいけなくて、それを漠然と子どもたちが感じている。そのモチベーションをどのように高めて、具体的な場面を与えて、開発していくかということがとても大事だなという感じがしました。
  おもしろかったのが、将来住んでみたい住居の展示があったんですけれども、例えばコンビニまで5分以内というのがすごく多いんです。5年後、10年後、20年後どういう暮らしをしたいかということで、コンビニまで5分以内のところに住みたいとか、キッチンは狭くていい、あんまり料理をしないので別にオーケーと、これは女の子でした。ガーデニングするためのバルコニーと、友人と遊ぶためのバルコニーとか、遊ぶほうはすごく上手なんですけれども、生活面が具体的にビジョンが見えていないという部分があります。
  実際にコンビニとか、そういうところで外注的なもので生活ができてしまうということも確かでございまして、今、18歳から20歳まででコンビニに週6日以上行っている子が50%、週5日という子が15%です。そのうちの4分の1が弁当を買って帰るというんです。コンビニで弁当を買って帰る。ですから、食生活がかなりコンビニ依存になっている中で、野菜とか、果物類はむけるとか、その程度は必要だと思います。
  今、「成田着、台所デビュー、離婚」というのがあるんですが、成田に着いて、初めて台所に入って、あんまりよくつくれなくて、離婚に至っちゃうという若いカップルがいるというのですが、そういうカップルを増やさないためにも、家庭科の充実が必要だろうと思いました。
  それから、卒業研究テーマということで、高校生が1年半かけて卒業研究テーマを一つ一つやって卒業していくらしいんですけれども、その中で、例えばお年寄りにやさしい服づくりとか、お弁当とか、高齢者の介護食、食事とか、そういうテーマがあるんです。「このようなテーマを選ぶのは女の子が多いのですか」と聞いたら、これも性差ではなくて、男の子でも弁当なんていうテーマを選んで卒業研究するというので、性差で分けるというむしろこちら側の意識のほうが古くて、具体的な場面をどう充実させていくか。例えば、保育所との交流なんかもやっているんですけれども、ただ保育所へ行って遊ぶだけではなくて、こちらはおもちゃを手づくりでつくっていく。自分が子どもができたときに、若いころ、こんなおもちゃをつくっていたということがよみがえれば、男の子も女の子も自分でおもちゃがつくれるわけで、具体的な場面での展開を豊かにしていったらいいのではないかと思いました。

○  皆さんおっしゃったことと重なっていくと思うのですが、やはり人数が少なくて施設が整っているということで、大変恵まれているという感じを持ちましたし、先生方の力量がとても授業を左右しているという感じがしました。
  布の展示などもありましたが、そのコメントが「これがギンガムチェック」とか、「これは厚地のデニム」という内容ではなくて、これはパジャマには適するけれども、柄が合わないとか、唐草模様のようなものを見るとそういうコメントが書いてあったり、あまり型にはまらずに、学生たちが取りつきやすい内容でコメントが入っていたのが印象的でした。あるいは、人数が少なかったということもありまして、被服の授業でも全部の生徒さんの型紙に先生が目を通していらっしゃったというのが印象に残っております。子どもが減って人数が少なくなるというのは、悪いことばかりではないと思っております。
  それと先ほどおっしゃった卒業指導でも、自分でロボットコンテストに出せるような立派なロボットを、ほとんど先生のアドバイスだけで製作なさるような力作も残していらっしゃるということは、それぞれの個性に合わせた御指導を先生の力量でなされば、18歳で十分にあるレベルまでのことはできるようになるということがとてもよくわかったので、先生方の研修制度みたいなことも考えられたらいいのではないかと思いました。

○  私も一緒に伺わせていただきまして、一番印象に残ったのは、自分の中学校時代との対比でした。私のときには、男子は技術科というのをやっておりまして、その間、女子は家庭科だったんですが、もし自分が調理実習だの被服実習だのされたら、おそらく男だからこんなことやるもんじゃないよみたいなことで、きっと腰が引けてたんだと思います。あのころは、技術科の時間が終わると、女子が調理実習を終わって、例えばサンドイッチとかなんかつくって、自分の意中の男の子に持っていって食べさせるというような、結婚してから後の姿をほうふつさせるような行動パターンがあった。
  今回見せていただきまして、男子が「結構、家庭科の時間はおもしろい」という印象を述べていまして、そのことが大変印象に残りました。先ほども他の委員の方からありましたように、性差よりも個人差が大きいなということをつくづく感じました。男子の調理実習なんか見ていますと、だいぶ腰が引けているのももちろん少なくありませんで、「おまえやれよ」と言って、一人だけ専門官ができるわけですよね。そいつがリンゴを切ったりなにしたりというのを全部引き受けてやっているという感じで、それを見ててもほほ笑ましい感じがいたしました。
  調理実習は男子と女子が別々になっておりまして、「なんで別々にするんですか」という素朴な疑問があって、お伺いしましたら、「男子と女子では食べる量がそもそもだいぶ違う」とか、「食べたいものが随分違う」ということがあるんだそうです。ああ、そういうものなんだなと素朴な感想を持った次第です。
  実は我が家は夫婦の帰りが大変遅いし、家にいないことが多いものですから、高校2年と中学3年の子どもがいまして、下の子は男の子なんですが、両方料理をやるわけです。その子たちの技術と比べてみまして、うちの子たちのほうがずうっと上手だなという感じを正直言うと受けました。どういう原因でそういうことになるのかよくわからないけれども、料理が上手だからどうのこうのと思いませんが、これからの大きな課題は、男の子だからといって包丁を持ったりなんかするのは嫌だよということではなくなるということが一つと、それから、できればそこそこに上手であることが大事だと思います。これはおそらく学校で教える云々よりも、家庭の何らかの環境が大きな影響をするんだろうと思いました。そこのところは学校教育で手をつけられるところかどうか、判断がつきかねるところですけれども、非常におもしろい楽しい思いをすると同時に、学校教育というのはきっと限界があるんだろうな、そこをどのように工夫していけばいいのだろうかという課題のようなものを感じた次第です。

○  授業のほうは常々、教師が行うものではなくて、生徒とともにつくり上げていくものだということで、今回の場合は本当に生徒に助けられて、2時間を終えられたなという感じがいたします。
  今回見ていただいたのは、調理実習と被服実習だったのですが、生徒は昔からこの分野に関してはある程度なじみがありますので、楽しみにしている部分、内容がわかっている部分があるんですが、その後にこれをどのように生活の中まで定着させていくか。実際、家庭の中で不足している部分をここである程度補い、さらに生徒が家庭のほうでそれを広げていくような方法を考えなくてはいけない。そこまで私たちは家庭科教育を通して生徒に訴えていかなくてはいけないと感じております。
  今回は被服と調理実習だったんですけれども、実際の家庭科の場合は、最近はこちらの部分は昔に比べるとかなり縮小されておりまして、やはり家庭生活とか、保育、住生活、消費者教育などが広がってきております。その分、家庭で教えていた、自然につながっていた部分について、家庭科がかなり抱え込まざるを得ないような状況になってきているのが、今の家族の状況ではないかと思います。ですから、今回、男子と女子、性差よりは個人差だなということがおわかりいただけたついでに、家庭科教育というのは裁縫と調理だけではないということも理解していただけるとありがたいと思います。
  最後に、20人というので、私たちも恵まれた中でやっていますが、これは中学1年生から始めて、高校2年生、最後の年ということで、学校のほうにも無理を言ってやらせていただいている状態です。ですから、あの施設で、中学生では40人で実習をしたりしておりますし、高校2年生ですので、栄養計算などもやらせたいのですけれども、今だとパソコンのソフトを使えば、すぐに生徒も使いこなせまして、学校のほうにはパソコン自体はあるのですが、ソフトが高額であったり、施設、設備の関係もあり、学校教育の充実のためにはある程度の資金も必要かなというのは、実際やっていて切実なところです。
  全体といたしましては、本校の生徒は家庭科に対してとても素直に一所懸命やってくれていると思いますので、これがすべての学校共通というわけではありませんが、一つの面を見ていただけたらと思います。

○河合座長  ただ今のお話で、何か御質問とか、御意見とかありましたらお願いします。何かございませんか。

○  二つお伺いしたいと思います。
  一つは、先ほど家庭科は料理や裁縫だけではないとおっしゃって、そのとおりだと思うのですが、料理とか衣服は家庭科の各論だと思います。各論があれば総論がなければいけないのですが、家庭科では家庭というものをどのようにお考えなのか。家庭の定義というか、家庭の概念というか、家庭の哲学について、指導要領でどうなっていて、教科書でどうなって、どのように指導していらっしゃるのかということが第1点です。
  第2点は、男女共同参画、家庭が大事だとおっしゃるんですが、家庭科の先生で男の先生は何人ぐらいいらっしゃるのか、教えていただきたいと思います。以上です。

○  家庭の定義、家族の定義というものですが、例えば教科書で、お父さんと男の子から成る家庭ですとか、それから養子がいる家庭とか、一緒に生活を共にしている者という広い意味で家族をとらえまして、家庭はその生活の場であるということです。
  どんな家庭がいい、どんな家族がいいとか、これを定義的に述べるよりは、自分自身が見つけていくもの、つくり上げていくものというので、私たち現場の教師としましては、それをつくり上げていくためのいろいろな考え方、自己を確立するための情報を提供しているという感じでやっております。
  あと男性の教員は、最近、多少はいると思いますが。

○河合座長  事務局からお願いします。

○事務局  ただ今、委員の方から御質問いただきましたが、家庭の定義につきましては、家庭科では、小学校では、家族の一員として家庭生活への関心を持つということで学習をしております。
  中学校では、家族の一員ではありますが、発達段階を考えますと、自立をしはじめる時期でございますので、いろいろな家族があるけれども、子どもが育つ環境として、やはり家庭とか家族が大変大事なんだということを認識させるところに重点を置いて、中学校では使いたいと思っております。
  高等学校の場合は、社会の一番基本的な単位として家族があり、家庭は対社会的にもその機能、役割を押さえて、大変大事であるんだということを理解させたいということを考えております。それらについてなるべく具体的に調査とか、研究とか、話し合いとか、実践的・体験的な学習を通して感じ取らせるといったような形で、いわゆる家族とは何ぞやという、家族社会学でとらえていらっしゃるようなところをギリギリ机の上で学ぶという形にはとらえたくないと思っているところでございます。
  それから、男性の家庭科の教員の人数でございますが、平成7年度学校教員統計調査報告書(文部省)によると、約500人程度となります。

○  既に出た御意見で多少触れられたこととは思いますが、少子化と教育という委員会に参加させていただいて、特に強く感じていることは、日本と限りませんが、21世紀の社会にとって本当の男女共同参画、共生、協力、社会生活でも家庭生活でも役割を固定しないでということが非常に重要だと感じているものですから、今日御報告がありましたように、実技を通して自然に学ぶことも重要だと思いますが、そういった問題の話し合いがどのくらい、そしてどのように扱われていて、それに対する生徒さんたちの反応、それもできれば建前と本音の使い分けが感じられるかどうかなどといったことについて、現場の先生方からも、それから文部省の方針も簡単に伺わせていただけたらと存じます。
  それに関して、先ほど20人ずつに授業をお分けになったときに、男女でお分けになったと。その理由も伺ったんですが、そのように男女でお食事の量も違ったり好みも違ったりするのが一緒になるのが家庭であって、ちょっとそこは疑問に思いました。

○  今のところなんですけれども、男子と女子が別の班になっていたというのは、4月の第1回目の調理実習が「自分たちのつくりたいもの、食べたいもの」ということでやりました。そのときは自由献立で、自分たちで材料を持ってくるという形でしたので、男女別の班をつくりました。
  今回は第2回目の調理実習だったので、チームワークもできたところでもう一度一緒にやってみようというので男女別だったんです。
  講義にいらした方にはお話ししましたが、調理技術を中心に勉強するときは2人で組になって、お魚をさばいたり、そういうふうなことを入れたりしますし、その後、家族の食事をつくる場合は、4人グループで男女2人ずつにしたり、それから最後のアフタヌーンティーの場合は、5、6種類のメニューをそれぞれが自分のものを担当して、クラス全員のものをつくるような形ですが、その場合はつくりたい者同士で班をつくる。ですから、男子と女子の比率が4対0になったり、3対1になったりという形で、いろいろな形を組んでおります。

○  生徒に、「調理実習は女子だけやると言ったら、どう思う?」と聞きますと、大体今の子どもは「それはおかしい」と言います。食物の授業ではないんですが、家庭生活のところでは、ライフスタイル、生活設計をする部分があるんですけれども、その辺を見ますと、最近増えているのはシングル型も増えているんですけれども、みんなそこそこのところで結婚をして、ただ、結婚をした後に、やはり子どもが生まれたら、男子は特に「女性はうちにいてほしい」というようなところが今も見られるかなという形はあります。
  ただ、結婚をして、子どもの手が離れて、それでもなおかつ家庭にいて家事だけをやっていてほしいという形はあまり見えてこないと思います。

○事務局  ただ今御質問をいただきまして、事務局からもということでございましたので、研究指定校でやっていただきました学校でどんな状況であったかということを少し御報告をさせていただきたいと思います。
  確かに、生徒自身が楽しいと思う内容は、男女を問わず調理のところに集中いたします。あと興味深いなと思いますことは、男子の生徒は割に家庭の経済とか、消費者教育のところと、高齢者の福祉のところに案外興味・関心があるようでございます。女子に興味・関心の深い内容が保育でございます。保育などを例にとりますと、学ぶ前に興味・関心があるとうのは圧倒的に女子が多いのですが、学んだ後の感想を聞きますと、「あ、男にも保育というのが必要なんだというのがわかった」と。
  そして、保育所などに行きますと、男子が大変張り切りまして、自分は今まで子育てというのは母親がやるものだと思っていたんだけれども、先生が授業のときに言ったことが正しかったんだというのが確認できたというようなことで、実際に幼稚園や保育所に行って乳幼児とかかわってみて、初めて父親が大切だと教科書に書いてあったことの意味が何かわかったような気がするというようなことを感想に書きますので、今まで大人の側が何となく「男子は」、「女子は」という形で内容を決めてしまっていたところがあるのではないか。人間としてこういうことが大事なんだということを学ぶことによって、かなり意識が変わってきているような感じがいたします。
  それはひとえに学校の教員がどういう内容を用意をして、授業として考えていくか、仕組むかというところにかかってきまして、やはり学校の教員の資質というところが大いにそこには関係してくるのであろうとは思いますが、私どもの年代が危惧していた、生徒自身の「男子は」「女子は」ということで性別に考える意識は、予想しているよりは少ないというのが実態だと思っております。

○  お話の中で、家庭の経済の面から少子化と教育ということを考えたときに、今の子どもたちの育ちそのものが、子どもの数が少なくなる中で、収入と支出のバランスということから考えて、消費先行型の育ちをしてきていることが非常に大きいのではないかと思うのです。
  今、子どもたちが持っているようなもの、例えば携帯電話一つとってみても、自分では払い切れないぐらいの高額のお金が必要になるような生活だと思うのです。私もいろんな国に行ったりしますけれども、若者たちまでが自分で払い切れないような、支出をさせているような国はあまりないと思います。我が国は、収入と支出のバランスが、完全に支出過剰型、破産しているような感じです。
  そのことと、中・高6年間で消費者教育を行うことが必要になってきています。悪徳商法とか、クレジットの問題を家庭教育の中でどのように教えていくのか、その辺をもう少し具体的にお話しいただければと思うのです。どうも子どもの欲望に歯どめがかかっていないというか、この子たちが大きくなったときにどうなるんだろうかと、私は非常に危惧を持っているものですから、この点についてお考えを教えてください。

○  教えている内容が中心になってしまうかもしれないんですけれども、経済のところでは、税金―多少「社会科」と重複するところもあるんですが、家庭に視点を置いてやっております。まず、親の収入を知らないという子がかなりおりまして、例えば教育費を計算させて、「毎月あなたはいくら使っているの」と。携帯電話の電話代もありますし、物を買ってもらって、授業料はいくら。そうすると、すごい額になってしまうというので、教育費というのは普通は家計の何%ぐらいが平均だからということで逆算していくと、「エッ」とか。特に高校生は大学入試を控えておりますので、そのあたりでかなりお金が要るから、「親は大変」とは言っていたんですが、実際に計算してわかったというようなこと。
  あと住宅のところでは、現代の住生活の問題ということで、ローンの計算。自分が好きな家を選んでくるんですが、それが本当に買えるのかどうかということで、ローンの計算をさせたりします。そうすると、うちの生徒なんかですと単純な感想になってしまったりしますが、「親を見直した」なんて言う人もいたりします。
  また、実際に銀行のカードを持っている子が結構いるんですが、銀行のカードとクレジットカードの違いもよくわかっていなかったりして、「今日は先生のお財布をばらしちゃいます」みたいなことを言うんですが、いろんなカードがあります。プリペイドカードもあれば、ポイントカードもある。その辺のカードの種類も全然わかっていないので、これは本当はどういう意味を持つんだということを話したりしております。
  また、私は最近はやっていないのですが、悪徳商法についてはよくロールプレーイングなどをやりまして、片方の生徒が業者になり、片方の生徒が消費者になると、かなり真剣なやりとりになって、その場にいると、第三者は見ていて笑っていて済むことなんですが、消費者になった側は、誘われると断りようがなくなるというのを体験できたりして、いい場合もあります。また、実際にも高校生の生活の中にもそういうものが入ってきているという現実もありますので、授業では取り上げております。

○  仕事の合間、近くの高等学校と中学校の授業を見学してまいりました。中学校は、1年生がパッチワークの壁掛けづくり、2年生が昼食づくり、高等学校は3年生が被服と食物でした。
  私自身が自立に苦しんでいる一人でございまして、カレーライスをつくっても、娘から「今日はどんな工夫をしたのか」ということを言われまして、毎日やってないととにかく覚えられないというのが実情でして、大変苦しいというのが実情です。
  そういうことで見てまいりましたら、技術的には中学生も高校生も、料理をつくるということではあまり差は感じなかったんです。例えば高校生がホウレンソウをゆでるのを見ていたら、洗わないでそのままゆでるんです。「塩を入れたら、色が少しきれいに出るよ」と言ったら、「あ、そうなんですか」とかってやっていましたし、それから包丁の使い方も、中学校の子どもの包丁の使い方のほうがおもしろい使い方で、切り方も大きさもいろいろで、このほうが楽しいのかなと思いました。缶切りの昔ながらのやつは、やはり全然わからないんです。どうやったらあけられるかわからなくて、中に一人知っている子がいて、教えて歩いていました。
  そういうのを見ながら思いましたのは、むしろ林間学校とか、クラスハイクで行って、時間なしの食事づくりのほうが楽しくて、学べるところが多いのかなと。ある決められた時間の中でつくっていくというのは、授業の中で少し考えなければいけないのかなと思いました。
  また、「父親がうちでやるか」と言ったら、「やらない」と言う子どもがほとんどなんです。また私みたいなのができてくるのかなと思いましたけれども、家庭で父親が台所に立つことをどうやって広めていくか。今のまんまだと、あの子どもたちが大人になっても、本当に台所に立つのかなと。だから、もっといろんな場面で啓発を図っていくというか、体験させるということも考えていかなければならないと思います。

○河合座長  ありがとうございました。
  ほかにございませんか。それでは、いろいろとありがとうございました。
  次に進みたいと思います。これまでも申し上げておりますけれども、「少子化と教育」というのをどのような内容にするか、なかなか工夫が要るのではないかと思っておりますので、御意見をいただければと思います。

○  家族の在り方に関連してですが、うちの子どもの教科書なんか見ますと、シングルファミリーも家族であるとか、あるいは血のつながりがなくても家族であるとか。偏見や差別をなくすためには必要とは思うのですが、お父さんとお母さんが結婚して家族があるんだよというのを抜かしちゃって、今、バリエーションばかり教えちゃっているような気がしまして。私は保守派だというふうに言われてしまうかもしれないけれども、やはり踏ん張って、普通に結婚して、離婚の誘惑は山のようにあっても、それに耐えつつ我慢しつつという重さも押さえないと。シングルになるときついんですよね、経済的にも、精神的にも。その部分を教えないで、すべてのものが尊重されなければいけないって、本当に尊重されなければいけないんですけれども、やはり基本の良さも教えておかないと現実感覚なく、綺麗ごとの個の尊重に走ってしまう。今、その基本が考えられないくらい見えなくなっているんだと思います。
  子どもというのは非常にかわいい存在であるとか、あるいは自分自身が命をいただいて、また命のリレーをしていくという神秘的なすばらしさ、それから恩返し的な考え方は子どもと接触したり、そういう場所を増やしていかないと、いくら教科書で言ってもわからないと思うのです。触覚としても、ポチャポチャした子どもとくっついたりしながら、そういう感性が育っていくと思いますので、異年齢でのいろいろな交流の場面をつくるということ。それから、生活技術が実際にあって、それを協力し合っていくという男女でなければ、なかなか結婚に踏み切れないので、男の子も生活技術がないとこれから結婚してもらえないし、結婚しても離婚されてしまいますし、その辺のところできちんと生活技術を高めた男女が結婚する。
  今、結婚がバリアになっているのは、確かに経済的なレベルが落ちてしまうということもあるんですが、生活技術に自信がないものですから、「御飯どうするの?」「洗濯は?嫌だわ」という感じがあるので、そのバリアを低くしてあげることが大事だろうと思います。
  アメリカの学校とフランスの学校に行っている親戚の子どもがいるのですけれども、お母さんたちが週に何回も学校に出入りして、ずうっとお料理クラブを継続的に活動させてくれたり、夏休みなんて6月ぐらいから始まってしまいますから、6月、7月はお母さんたちがむしろ学校でクッキング・クラブを運営したりしている。お母さんたちの力もかりながら、家庭科の先生だけではなかなか日常的な幅の広い活動はできないと思いますので、そんな試みもあっていいのではないかという気がします。

○  今の委員の方の意見にも関連するのですが、私はちょっと考え方が違いまして、「少子化をもたらしている要因」について、ここで話し合う必要があるのか、ちょっと疑問に思っています。
  未婚化・晩婚化が必ずしも悪いことであるとは個人的に考えていませんし、このことに踏み込むことが中央教育審議会で必要なのか、疑問に思っています。
  それから、先ほど他の委員の方がおっしゃった家庭の在り方の問題ですが、基本的な家庭のことを押さえるというのは、必要なんだろうと思うのですが、今の子どもたちの状況を考えると、例えば母の日にお母さんの顔を書いていいだろうか、父の日にお父さんの顔を書くことを図工でやっていいだろうかという議論もあるように、既に家庭が様々な形に変わり始めているわけです。両親がいて、子どもたちがいるというような家庭、それが基本だとは、言いがたくなっているのではないでしょうか。それが従来の理想の形だったとは思うのですが、それが「基本である」と文部省や、学校がわざわざ言うことなんだろうか、中央教育審議会がわざわざ指摘することなんだろうかというような気はしています。そういう意見です。

○  今の委員の方のお話はよく理解しがたいところがあるので手を挙げたんですが、やはり男は女になれない、逆に女も男にはなれない。そうなったときに、子どもが生まれるということは、親がいて、子どもができるわけです。男性と女性がいて、生物学的に見ても、できるものだと思います。その中で、今申し上げたように、女はどこまでいっても男にはなれないし、男は女にはなれないとなれば、やはり世の中には男性と女性が半々ずつくらいいるわけですから、それなりに人間教育として、人間が成長する中では、両方ともそれぞれの役割分担があって、重要な部分があると思うのです。そういう意味では、これが理想で、これが基本だよというものは、時代が変わっても、どこの国に行ってもあると思うので、その辺のところは明確にすべきだと思います。

○  申し上げたいことはほかにもあるんですが、今、未婚化・晩婚化に限ってだけ申しますと、これは厚生省なら言ってもいいけれども、文部省は言ってはいけないというのにちょっと抵抗を感ずるんですが、なぜかといいますと、これは人間の生き方の問題なんです。そうすると、「生きる力」と文部省が言っているわけで、人間どう生きるかということの一つのパターンとして未婚化・晩婚化ということがあるので、それを言ってはいけないと決めつけるのはどうかと思うのです。
  なぜそんなことを言うかといいますと、私、他の省庁の委員をいろいろやっていまして思うのですが、他の省庁に関係するのは教育に関して関係する訳ですから、それはあらゆる行政が教育化しているということです。その理由はなぜかというと、生活が教育するからです。生涯学習というのはあらゆる生活にかかわり、これは文部省だけでカバーできないと思うのです。そういう意味で、未婚化・晩婚化というのは、厚生省ならいいけれども、文部省はというのには異を唱えたいということが第1点。
  もう一つは、未婚化・晩婚化そのものについて、現在の自分があるのは、やはり親が結婚してくださったからいるんです。だから、自分のことだけ考えて、現在、多様な生活パターンがあって、独身、DINKSもいいんだというふうに認めていきますと、将来の子孫はどうなっていくのか。「種」の保存というのは、「個と種」の関係。ですから、今、権利の主張というのは「個」の権利の主張ばかりで、人権、人権と言うけれども、個人の自分の人権ばかり言って、将来の人間の人権といいますか、種の保存ということをちっとも考えていない人も多いのではないかということです。
  ですから、言いたいことは、今日、たまたま懸賞論文を審査で読んでいまして、「子どもが生まれたときに、『将来の親になる子が生まれた』とお母さんが言って、ハッとした」と、こう書いているんです。私はむしろ家庭科というのは、そういう物の見方、考え方を教えるべきなんで、調理とか衣服とか、リンゴを切るのが上手だとか、瑣末的な技術主義にあんまり陥ってはと―そんなことはないと思うのですけれども、今日のお話を聞いたんです。
  要するに、未婚・晩婚というのを言ってもいいのではないかという気がするんです。

○  私が言ったのは極論だったかもしれませんが、つまり、少子化をもたらしている原因云々ということを、ここで話し合ってもしょうがないのではないかと思っただけなのです。
  それから、他の委員の方のおっしゃった種の保存ということを考えないで、個の権利ばかり主張している今の風潮をおっしゃいましたけれども、私は、ホモ・サピエンスという種の保存は全世界的に見て問題はないと考えています。日本国内を考えるとやはり流れとして未婚化・晩婚化というのは変えられないものだと思います。これが教育によって、結婚しなさい、なるべく早く結婚しなさい、子どもを産めるうちに結婚しなさいというようなことが果たしてできるかというと、それは疑問であると思います。
  種の保存ということであれば、それは自分の子どもを産むということではなくて、社会が子どもを育てるんだというような方向に持っていったほうがいいんではないか、そのように個人的には思っています。
  先ほど他の委員の方が、男の役割、女の役割ということでおっしゃったことは、私、それこそ理解ができません。男と女と性差があることは間違いないですし、男が女になることは性転換手術でもしない限りないわけで、それはもちろんだと思うのです。男女がいて子どもが生まれること、これも間違いないことなわけです。先程も申しましたがお父さん、お母さんがいて、子どもがいるということが理想ではあるけれども、これが基本なんだと示すのは、今の現実、私の子どもたちの同級生たちを見ましても、そういった家庭が非常に少なくなっています。少なくなっていることをよしとしているわけではないですが、現実がそうなっている以上、それが理想なんだと掲げることは、一度考えたほうがいいのではないかと思ったまでです。

○  高等学校まで家庭科が男女必修となったことは、とても大切だと思うのです。「生きる力」、自立して料理をつくったり、それからプリペイドカードのことを知ったりという、生活万般のことを知って、自分の力で生きていく力をつけていくというのが、私は広い意味での一番根本的な少子化対策ではないかという気がしています。
  先ほど瑣末的というお話もございましたけれども、瑣末的といえば瑣末的なのかもしれませんが、瑣末がまた根本でございまして、こういうところは学校教育で教えてくれるところがないと、ただでさえ消費先行型になっていて、何でもかんでもコンビニエンスストアへ行って調達できるような時代ですから、それを考えると、実際に料理をつくって、家庭でみんなで食事をする楽しみ、あるいは友達同士で食事をする楽しみを、中学、高等学校時代までに学校で経験していくことは本当に大切なことなのではないでしょうか。
  もう一つ、かねて私は思っているんですけれども、何が基本かというときに、我々は家庭科という教科で考えるのではなくて、それこそ哲学のレベルで考えると、現代社会は自己決定というのがいろんな面で根本になってきているのではないかと思います。例えば福祉の場合でも、お年寄りの残存能力をサポートしながら、お年寄りの自己決定に沿って暮らしていけるような社会をつくっていくんだということがしきりに言われますし、それから性同一性障害なんかの場合でも、自分の心の性に合わせて体をつくりかえていくという、やはり自己決定を尊重しようという流れです。
  もしそれが基本だといたしますと、男性と女性が家庭をつくって、それで子どもを産んで育てていって、種の保存が云々と、それが基本だというのではなくて、やはりいろんな生き方があって、その中で、おのずから多くの人たちが結婚して、家庭を営んでというところを選んでいくという物の順序になるのではないかと思うのです。
  そんな面でいきますと、私は必ずしも結婚して男女がお父さんになりお母さんになりということを強調するのではなくて、むしろいろんな生き方があって、これから私はシングルマザーが増えるのではないかと思うのです。あるいは、シングルファーザーも増えるんでしょうが、そういうことも視野に入れて、シングルマザーで生きる生き方が決して恥じるべきことではない。これが私の自己決定なんだと誇りを持って生きていける価値観を持つことのほうが、私はある意味では少子化対策だと思います。結婚をしないで、子どもを育てていくという選択をする。経済的にも、いろんな面で非常にハンディになるでしょうけれども、ヨーロッパの特にフランスとか、スウェーデンを見ていますと、そんな形の少子化対策になっています、流れからしますと。
  でありますので、私は、個人が自分の力で生きていく力を持ちつつ、自己決定をして生きていくというのが、いわば基本ではないかと思います。

○  今、他の委員の方がおっしゃった「自己決定」という言葉が、これからの日本のキーワードになると思います。
  家庭教育がまず基本にはなるのですが、その家庭教育がなっていないものですから、「生きる力」と文部省が、言わざるを得ない状況にあるのだなと思っています。ただし一方では、文部省がここまで言う必要はないという意見もあるようです。少子化と教育の問題でも、文部省がそこまで踏み込む必要はないのではないかというところまで踏み込まざるを得ないような状況にきているのではないでしょうか。
  少子化に関しては、基本的には家庭で教えるべきことが家庭で教えられていないので、家庭人となること、親になる人間を育てるということで、学校の役割が期待されるようになってしまいました。自己決定については、責任感があって、自己決定ができる人間を育てていくということが、文部省の基本的な教育の在り方であって、それは少子化対策にも結びつくと思うのです。人間が人間として当然の責任を果たすような、価値観を養っていくと、人は子どもを産もうという気持ちになるのではないかと思うのです。
  それは先ほどどなたかおっしゃったような男女の役割分担ということではないと思います。男女共同参画社会基本法案というのが衆議院を通りました。育児については、子どもに授乳することは女の人しかできないけれども、それ以外は男の人もできるということです。育児に拘わることによって、男の人も人間性が広がり、仕事だけでなくて、地域人、家庭人として、役割を多様化していくことが求められています。それから女性は家庭だけではなくて、社会的な責任も負ってもらおう、お金を稼いでくるのは男の人の役割だけではなく女性にも経済的な負担を負ってもらおうというところに、日本社会がきていると思います。
  また話がずれてしまうかもしれませんが、先ほど話した前頭葉の研究をしている大学の先生のレポートの中におもしろいことが書いてありました。サルの実験の話です。赤いランプを出したときにサルがレバーを押すと褒美をあげて、黄色いランプを出したときにレバーを押さないと、正解だけれども褒美をあげない。これを繰り返していくと、サルは赤いランプがつくとレバーを押して褒美をもらうようになる。
  ところが、今度は、赤いランプを押したときにレバーを押すと、前と同じように褒美を与える一方、黄色いランプを出してレバーを押さないと正解なので、今回は褒美をあげる。そうすると、サルは、何もしなくても黄色いランブさえつけば褒美がもらえることを学ぶそうです。そして、そのうちにサルは何もしなくなる。
  その実験を長時間続けた後、赤いランプだけ出していると、サルはレバーを押さないので何ももらえなくなるのですが、そのうち黄色いランプが出るだろうと思ってか、フラフラになって餓死寸前までレバーに手を出さないのだそうです。
  人間にも当てはまるそうで、少子化が子どもを大切にしすぎて親が子どもに与え過ぎるということが、子どもを廃人にしてしまう可能性がある。少子化が進むと積極的には自分から何もできない子どもが多くなる可能性があるということも、学校教育の中で考えていってほしいと思いました。

○  今のこととかかわっていくわけですが、結局、私、この中央教育審議会でずっとこだわっていることは、今の少子化の中で、要するに与えてもらうことばかりが優先するのではないかということです。働くこと、私は「貢献感」という言葉で表現をしてきていますけれども、そういう意味で家庭科の中で、労働の意義、働くということはどういうことなのか教えなければならないのではないでしょうか。それは要するに知識や技術でもって相手を喜ばせることであり、貢献感の育成です。学校教育で学ぶということは、知識や技術を身に付けることであり、その前提として家庭教育が必要であり、相手を喜ばしたり喜ばされたりする体験をする社会の一番小さなユニットが家庭だと思うのです。
  家庭教育の中で、喜ばせたり喜ばされたりということがあり、その上で初めて学ぶということが非常に意味を持ってくると思うのです。知識や技術を身に付け、そのことを通して相手を喜ばせる。その上で経済生活ということが成り立ってくると思うのですが、その一番基本的な家庭教育が、今、空洞化しているというか、成り立たなくなっている。その上に学校教育をいくら積み上げようとしても、基本の一番小さい社会のユニットが機能しなくなっているところに、少子化の問題、教育の問題を考えるときのポイントがあるのではないかと思います。
  それを家庭科の中でどれだけカバーできるかというのは問題だけれども、そういう意味で、働くとはどういうことなのかとか、そして、お金がいただけるというのはどういうことなのか、収入を得ることはどういうことなのかということを、どこかで教えてやらないと、消費だけが先行することに大きな矛盾があるのではないかと私は感じているんです。

○  高等学校まで家庭科が男女必修となったことをどのように評価するかということですけれども、私がここで一貫してお願いしてきたというか、自分に課してきましたのは、高等教育において、大学進学の大衆化が進み、そうして大学に入った若い青年男女が子を産み育てる直前の段階の生活をするわけですが、そこで何かするべきことがないかということを課してきたんですが、これはなかなか難しいんです。
  今まで私が言ってきたのは、大学における人間的な豊かさを養う面での実践を、カリキュラム内的な教育だけでなくて、やらなければいけないのではないか。だから、文部省が最近トライされたボランティア活動、サービスラーニング、それから通商産業省と一緒にやっておられるインターンシップ、そうしたことも重要でしょうし、あるいは文部省がメンタルヘルス協議会をつくってこの二、三年やっておられる精神衛生やカウンセリングのことも重要でしょうし、それからサークル活動とか、自治会活動とか、大学生の支援も必要でしょうし、そういういわばエキストラ・カリキュラー・アクティビティーズというか、あるいは従来のカリキュラムになかったような教室外授業をやっていくというか、そういうことの重要性は、今日の家庭科の問題とも絡んで高等教育でもあると思うのです。
  少し別の側面で考えますと、高等教育において学生に与える彼らの現実認識にかかわる課題の面でも、多少の工夫が要るのではないか。価値観にかかわる部分はどこまで議論ができるかという問題はありますけれども、現実の認識において高等教育でもやれないことはないのではないか、あるいはやるべき問題があるのではないか。
  例えば、今、全国の大学で大綱化の後の教育改革で、主題科目というのがどこでも行われておりまして、そこでは現代社会の基本的な課題がたくさん挙がって、その中で環境問題は必ず挙がっているし、国際化とか、文化摩擦の問題が挙がっているし、それから高齢化の問題も挙がっている。それから男と女の問題もいろんな角度から扱われている。ところが、人口問題とか、その中の少子化の問題というのは、必ずしもエクスプリシットには取り上げられていないような気がするんです。実際調査してみたらだいぶ変わってきているかもしれませんけれども。
  最近の厚生省の人口推計予測で、2050年に日本の人口が6,000万人になる可能性があるということがございましたけれども、そうしたことに即しまして、中国史を勉強している学生に対して、「あなた方が中国をやっているということは、現実の日本の問題とはかかわらないと思ってきたかもしれないけれども、もし人口が半分になって、日本の経済や文化や社会体制を支える人の力が必要になったときに、それはあなた方が考える日本人だけでは支えていけない。中国を中心とするアジアの人たちや、場合によってはそのほかの人たちによって支えられるかもしれない。そういう問題なんだよ」と言いましたら、学生はかなり緊張して聞きました。
  狭い例であるかもしれませんが、少子化の問題について、一番対峙的に社会が認識できる高等教育の中で何らかの形で取り上げるべきではないか。昔だったら学生運動の中で、平和問題、原爆問題、安保問題、大学問題を、学生は自主的に取り上げたんですが、なかなかそう簡単にいかないかもしれないけれども、そういうサイドの工夫も必要です。人口問題というのは、背景がものすごく難しいです。現象はよく見えるけれども、背景が難しい。ですから、学生に対してどのようにアプローチするか難しい問題ですけれども、そういうことも多少考えなければいけないような状況かなと思っております。

○  是非文部省が実施可能な案を出したい。労働省のほうは、男も女も働きという、職場のことを言うと思います。厚生省は、出生率を上げていくということで言うと思います。文部省ができることは、やはり学校教育の場と生涯教育の観点だと思うのです。
  一つには、職場に対して、日本の社会全体で子どもを産み育てていく場としての家庭を大事にしていくという視点を、もう少し大事にしていかないと、結果的に出生率は上がっていかない。ここで「結婚が選択される」と書いてありましたけれども、生涯教育の中で、子どもを産んで育てる人生というのは、親も一緒に育てられるというんですか、そういう豊かさの基本だと思うのです。生産と経済ということを中心に生きてきた中で、私たちは今、経済もストップして、福祉とか、人間の生活とか、そこを考え始めていると思うのですけれども、家庭の価値とか、意義とか、この大切さをもっと社会の中で大事にしないことには、子どもが生まれ育たない。
  ですから、「結婚が選択される」というより、「子どもを産み育てる人生が結果的に選択される」ように、家庭の大切さみたいなものを早くから教育をしていくという点で、これは家庭科教育の中で、家族の理念とか、いろいろあったと思うのです。ただ、それを先に、こういう家族が望ましいものですよと出してしまうことではなくて、他の委員の方もおっしゃっていますように、自立して、自己決定をして自分の人生を決めていくということが先にあって、一人の自立した人間が、頼るのではなくて、大人同士が共に生きるということの楽しさを知ることで、結果的に結婚をしようと。同性で一緒にいるのが楽しい人もいるかもしれないけれども、そういう選択ができる。差別されないで、それが楽しい。
  その中に、弱い者、病気の人、障害のある人と共に暮らして育ち合っていくということを人生の中で経験すると、たった一人でシングルで生きていくよりはずっと豊かになるよということを家庭科を通して考えていける。だから、初めに家庭ありきではなくて、個人があって、結果的に自立をした上で、共に生きるということの豊かさとか、楽しみとか、自分が育てられるという体験をすべての人ができるように、文部省らしい学校教育の中でできること、それから生涯学習を通してやれていくことを中心に書かれることを希望します。

○  今日、学校の家庭科教育の話からずっと話が進んでいるわけですけれども、一つ私が考えますには、やはり「家庭」について一度整理をしておかないと、その都度その都度、皆さんが都合のいい「家庭」という言葉を使いながら議論を進めているような感じがいたします。

○  マズローの欲求五段階説ではないんですけれども、やはり社会が豊かになってくると、当然、人間の自己実現欲求がだんだん高くなる。一方で、豊かな社会の中で、家庭生活を営むことの技術が、要はお金で買えるわけです。昔でしたら、そういうものは自分たちで何とかしないとできなかったことが、生活技術が外在化して、外でサービス産業として産業化されて、それが買える。
  先ほど学校の参観の中で、子どもたちの描いている姿が、コンビニエンスストアが自分の家から5分以内にあるところというのは、まさに生活技術が外で買えるということを前提に未来を描いている。そういう意味で、先ほど皆さんがおっしゃっていたように、家庭科でいくらいろいろなことを学んでも、自分の家に帰ってからの地道な日々の生活は、それを実践していくという行動とはたぶん全くステージの異なることなのだろうなと一つ思います。確かに家庭科を学ぶということは視野が広がるということではあるんですけれども。
  そういう中で、基本的には自己実現の中で女性も働いていく、あるいは社会全体で女性が働くということも必要としてくるということ、それから一方で、生活技術が外で買えてしまうということ。そうすると、残っていく家庭というものは一体何なんだろうかと思います。本当に精神的な癒しということが大きな問題であり、家庭の未来像は、男女共同参画を前提としたときに、希望的観測ではなくて、もう少しシビアに本当にどうなっていくのかなと思います。
  我々がまだ子どものころは、朝、家族で食事をして、みんなが出ていって、夕方になって家族が全員そろって夕飯を食べるということは当たり前だったんですけれども、今、たぶんほとんどの家庭でそうした普通の家庭が果たして存在するのかどうかという状況になっているのではないか。ですから、今後の家庭の未来像を認識し、描きながら、その中で教育ということ、あるいは少子化ということをとらえていかないと、「家庭」という言葉が都合よく使われて、現実にはそういう家庭は存在しないという結果になるような気がいたします。

○  私もいろいろ考えることがあるんですが、先ほど自己決定をする流れになっているというお話でしたが、一方、人とのつながりをつけていくとか、人を思いやるというあたりにも焦点があって、その辺が難しくなってきているのでないか。あるいは、自分でしたいことが中断されたときに、それを抱えきれなくて突発的な行動をしてしまう現象も最近見られるということにもスポットが当たっていると思います。子どもを育てる、あるいは家庭を維持することがとても大変になってきているんだけれども、それに対する対策がともすれば保育時間を延長するとか、利便性の追求になっていく方向になりがちなので、このことを、今後審議を進めていく上での基本的な考え方の一つとしていただければと思います。
  自立していく、あるいは自己決定するためには、特に子どもが育っていく過程の中で、自分が人にケアされて、とても大切にされたという経験が大事だと思っておりますので、男も女も働き、男も女も子育てをしていくことが必要です。女性が外で働くということは、いろんな面から見て、これからかなり可能になってくると思うのですが、果たして男性は家庭に帰ってくるのか、この経済状況で子どもを育てられるのかというあたりが心配です。結果として家庭がなおざりにされて、子ども、一番弱い者が都合に振り回されていくということも可能性としてあるのではないかと思います。一昔前から「ゆとりのある教育」ということも言われていますが、家庭にもゆとりをもたらすために、中央教育審議会として何か出せるものがあるのか。男女が働き、男女が子育てをするという中に、男性が帰ってくることのほうを何か入れられるのかどうかということを考えました。
  それから、自己決定をするためには、家庭もそうですが、学校教育もゆとりがある方向で、先日、東京大学教育学部附属高等学校で見学させていただいたように、個人個人が自分が行きたいと思っているほうに即した指導を受けると、18歳でも大変力のある仕事をするというのを見せていただきましたが、そういう指導が学校教育の中で、どこでも行えるようにするために―今、とてもそういう状態になっていない。学校の中をどういう形で変革できるのかというあたりを考えられないかと思いました。

○  具体的に学校の現場がどういうふうにかかわっていくかということを考えてみますと、開かれた学校とかって前から言われていて、全然開かれていないですよね。やはり学校が、今出てきているようなことで、いろいろコーディネートしていく場面がたくさん出てきているのではないかと思います。ですから、そういう分掌の中に位置づけ、さらに教職員といいますか、そういう人たちの研修機会といいましょうか、そういうもので組織的にかかわってもいいのではないかと思います。

○  自ら学び自ら考える力、生きる力という考え方については、「自己決定」という言葉が使われましたけれども、他へ対する思いやりとか、社会的な影響に対する配慮も含めて、自分で考える力が大事であるということ。
  また、男も女も働き男も女も子育てをする、という考え方についてですが、これも100%男も女も働き、子育てもするというふうに解釈されるとちょっとまた困るわけでして、やりたいことを男性も女性もできるというふうに解釈して、この2点は既に日本でも少なくとも建前としては受け入れられていると思いますし、私も基本的に審議の結果として出す答申について大賛成でございます。
  それに関連して、先ほどからいろいろな御意見を伺っておりまして一つ感じましたのは、社会全体の要請という視点と、それから個人の自由、選択という視点とを混同しないで、十分に両方に配慮する必要があるのではないか。社会全体という面から見ますと、出生率が下降して、少子化がどんどん進むことはもちろんマイナスでございますけれども、だからといってすべての人または大多数の人が結婚して子どもを産むべきである、それが正しい姿であるというところへいってしまうことには非常に抵抗を感じます。
  少子化が続いた場合には、プラス面よりもマイナス面が遥かに大きいという考え方についてですが、これはおそらくほとんど御異議がなかったのではないかと思いますが、実際に、現在の日本の社会で、人口が減り始めているんでございますか。

○  まだ日本の人口が減り始めるまではいっていないと思いますし、これはどの程度長期的に見るか、そして日本の社会で見るか、それとも国際的に見るかによっても違ってきますので、注意する必要があると考えたわけです。
  それはそれとしましても、現在の日本の出生率の低下、また、今までの審議をお聞きいたしておりまして、少子化をもたらしている主たる原因は、未婚化・晩婚化の進行にあるという考え方もあるようですが、本来の意図は違うと思いますが、女性が悪いというような、結婚しない、または遅くまで結婚しない、そしてさらに子どもを持たない女性の選択が誤っているという印象を与えるかもしれない。けれども、そういう選択でさえ個人の選択は尊重されるべきであって、さっきもちょっと触れましたように、私はそういう状況の主たる原因は、特に女性にとって社会に出ることと、家庭でちゃんと子どもを持ち、そういう役割を果たすことの両立が非常に難しいという、社会的な制度の問題にあると思います。少なくとも、多くの女性の選択が誤っていたというような印象はぜひ避けたいという気がいたします。

○河合座長  その辺は、適切な表現を考えたいと思います。
一番難しいのは、そういう点で、結婚はどうあるべきかとか、家庭はどうあるべきかとか、価値観にかかわるような問題をどう扱うかであると思います。

○  私も未婚化・晩婚化は何も悪いことだとは言ってないので、それだけちょっと断っておきます。申し上げたいことは、5つか6つぐらいあるんです。
  まず第一は、前に議論されていたのかどうか知りませんが、「家庭」とか、「家族」という言葉があいまいに使われている。確かに他の委員の方のおっしゃるとおりで、私は「家庭教育」と言っていまして、「家族教育」ということはあんまり聞かないんですが、他の会議で、社会学の人ですが、「いや、我々は『家族』と言って、『家庭』とはあんまり言いません」と言われて、幼稚園教育を考えるときに困ったことがあるんです。ですから、この委員会で「家庭教育」と言うのか、「家族教育」と言うのか、はっきりしてもらわないと困ると思うのです。にもかかわらず、法律的には「世帯」と言いますね。「世帯数」とか。たまたまドイツから送られた雑誌を見ていましたら、ドイツの過去、現在、未来における世帯数の推移という非常におもしろい統計がグラフで載っていました。それを見ますと、1人世帯が2010年には30何%と、ものすごく増えるとなっているんです。4人以上がどんどん減っていく。これは家庭教育上、大問題なんです。ですから、シングルマザー、シングルファーザーというと2人だからまだいいんですが、1人世帯が増える。
  第二は、自己決定論は当然なんですが、それは自己責任論だということも忘れないで言っていただきたい。自己決定、自己責任と。自己破産も自己決定ですから、自己破産がどんどん増えては困るから、ここに教育に出番があるので。そういうことを考えると、安易に自己決定と言われると困るんですが、これは非常に意味が重いということ。自己責任。特に外部依存度が高まっている現代社会では、自己決定というのは矛盾した面があるので、こういう点をどう考えるのかということをきちっと押さえておかなければいけないというのが、第二番目に申し上げたかったことです。
  第三は、これは地方へ行くと、私がいつも言われるのですが、「あんた方、東京でいつも勝手なことを言ってるけど、田舎のほうは違うんですよ」と。「いろんな委員会の答申を見てると、中央の発想、都会の発想で、我々はこんな自然豊かなところに住んでいるんで、自然体験のどうのと言われても……」と。ですから、都会的な発想で議論してる面がありはしないか。特に欧米ではシングルマザーとか、表札に斜線を入れて2人の名前を書いたり、そういう形態がどんどん増えているから、日本もそうなっていくんだとか。ああいうのは先行現象なんだ、所与のもので受け入れざるを得ないんだと安易に考えていいのかどうかということです。
  外国の話がこの会議でもよく出ますが、外国の話をするときには、必ずアセスメントをしないといけないのではないか。前にも申し上げましたが、それをやらないで、「外国では」「……では」とやっていると、すべての制度に長所もあれば短所もあるんですから、我々は長所だけ見て、(長所かどうかわかりませんが)目立つところだけ見て言っていますが、外国の話をしていると切りがないので。例えば、アメリカのプロフェッサーと話していましたら、「日本で離婚が増えているそうだけど、アメリカの家庭では離婚したくても、子どもが高校を卒業するまで我慢している」と、こう言うんです。子どもが高校を卒業する40歳前後に急激に離婚が増える。だから、日本の離婚の統計も、何歳ごろが一番多いとか、そういう統計があるのかどうか。
  「それがどうして教育とかかわるんですか」と聞いたら、離婚したら経済的に自立しなければいけないから、そういう人の生涯学習が必要なんだと。だから、コミュニティカレッジで再職業訓練の講座を設けなければいけないとか、いろんなところで教育が結びついてきています。
  要するに、都会型の発想とか、欧米型の発想で日本も推移すると安易に考えていいのかどうか。逆に欧米は日本をまねようとしている面も、教育面ではかなり多いので、そういうことも忘れてはいけないのではないかというのが3番目です。
  第四は、少子化への対応についてですが、私は、少子化への対応と少子化の要因への対応は、明確に整理区分できない面があると思います。対応には「事前の対応」と「事後の対応」があるんですが、原因への対応というのは、事後的な対応なんでしょうね。消火対策と防火対策とあると思うのですが、少子化の原因を究明して、これをなくせば少子化がなくなるというのが、事後的な消火対策的な対応なんです。そうではなくて、防火対策として少子化にならないようにするには、原因を除去するのも必要だけれども、両者は重なりあっていて事実、整理できない面があるんですけれども、概念上は区別しておかないと、混乱してわからなくなる。そういった意味で、非常に大事な点なので、これを教育の面でどう考えるかということを、私もまだよくわからないので、考えていただきたいと思います。
  また、今後、審議をとりまとめていく上で、中央教育審議会としての特色をどのように出していくかということですが、これが一番難しいところだと思うのです。価値観に関わる問題をさっきから考えていたんですが、教育の審議会ですから、人間の教育ですから、人間の尊厳という価値観にかかわる部分を強調すべきなので、今、経済中心にシステムが全部構築されていますが、そういう経済中心のシステムの中で、人間の教育にいくら専念してもだめなんです。ですから、中央教育審議会が本当に特色を出そうとするならば、「暮らしは低く、思いは高く」でもいいから、人間尊厳のシステムで社会を構築するとこういう社会になるんですよということを頭の中で描いてみて、しかしそれは到底実現できるはずがないと思うのです。そうすると、経済中心のシステム、経済価値を優先し、我々は「パンのみで生きるにあらず」と言いながら、パンがなければ生きていけないんですから、経済も大事なんですけれども、そういうシステムの下で人間のことをどう考えるのかということだと思うのです。
  なぜこんなことを言うかといいますと、経済学者が教育をばかにしたことがあるんです。『教育の非生産性』とかってこういう本があったんです。私はその書評を頼まれて、「経済の非教育性」という書評を書いたことがあります。我々は子どもを育てるときに、人間の尊厳の価値ということをどう考えるのか。自己決定の中に、子どもを育てるということが自己決定できるような世の中になればいいなというのは教育関係者の願いであって、これはほかの関係者は「何言ってんだ」と言われるかもしれませんが、一度は言っておく必要があると思います。

○  今、たくさんのお話の中で、「家庭」とか、「世帯」という概念について少しまとめたほうがいいというお話がありました。行政的には「世帯」でしかとらえられなくて、日本でも1990年の国勢調査から、何と北は北海道から南は沖縄まで含めて、1人世帯の比率が一番高いんです。既にそうなってしまいました。それまでは4人世帯の比率が一番高かったんですが、何と23.1%は21%の4人世帯を抜いています。それから、95年の国勢調査では、1人世帯の次が2人世帯が多いというぐらいで、人間が住んでいる単位が小さくなったんです。これは若者が一人ずつ住んでいるということです。
  家族というのは何かというと、これは世帯とやはり違って、今はそれぞれの人が考える範囲が家族だとしか定義ができないという形になっている。一昔前は、夫婦または親子、それから関連する人間が同居をしているものと定義をしていたんですが、今、同居が入らなくなってまいりました。いろいろ考えていくと、ちょうど私の授業で、家族というのがどのように定義されているのか、アメリカの教科書を10冊ぐらい全部読んだりして、みんなくたびれてしまいまして、定義はもうやめようよとなってきたんですが、非常に難しくなっているんです。時代とともに変わってきています。
  ただ、家庭というのは、1人世帯でも自分が生きて暮らしていく上で、食べて、着て、寝てという定住の場所ですから、どの人にも、その人が寝て、食べて、生きて、命をつないでいく再生産の場所として必要になっている。大人にとってはそれでいいかと思うのです。心の中に家族は別なところに住んでいたりと。それもまた一生の間に範囲が変わるんです。老人ホームに入って、いつも来てくれていれば家族と思うけれども、来なくなってしまったら家族と思わなくなる。
  家族の定義は、人によって範囲が違うというか、相手は範囲と思ってくれていないとか、そういうことを学習することが実はとてもおもしろくて、嫁はお姑さんを家族に入れてないけれども、おばあちゃんは入っているとか、こういうことが、実はとても家族を考える上でおもしろい。そこから家族の葛藤とか、トラブルが出てくるということが、家庭科の学習でできるのです。
  ただ、子どもにとっては、やはりだれかの保護がないと生きていけません。家族というのは集団であって、実の血縁関係のある大人であってもなくてもですけれども、子どもには保護される人が必要であるという観点から、まさに他の委員の方のおっしゃった人間の尊厳という意味で、そういう何らかの単位が必要。父親がいても子どもの本当の発達にとっていい環境かというと、もう少し早くから友達も必要だし、マルチペアレンティングと言っていますが、父親も含めて、あるいは外の人たちも、人間にとって必要なんだと。子どもの人権ということを考えていくと、大人はそれを配慮しておかなくてはいけない。ですから、自己決定には当然、簡単に子どもを産めるというのではなくて、産んだ場合には責任も伴い、お金もかかるし、労力もかかるし、時間もかかるんですよということも、ある意味では触れておかなくてはいけない。そういうことが、今、家庭科の中で少しずつ行われています。
  そういう意味で、家庭というのは一体何だろうという、そのこと自体非常におもしろい教育になっているということがあって、ここで定義を一つ決めるとなったら、たぶん半年ぐらいかかるのではないかという気もしているんです。ただ、おっしゃるように子どもの人権を考えていく中で、今まで生産の場でないところがそれを引き受けていた。そういう意味で、家庭、家族というのは社会全体の中で大事な部分を担っているユニットであるということだけは言えると思うのです。そこを強調して、教育の役割は出せるのではないかと思っています。

○  一言だけ申し上げます。先ほど高等教育との関連について、大きく二つに分けて申しましたが、教育をする方の問題を出しました。ただ、教育を受ける方の学生側の持っている問題としては、中央教育審議会の別の小委員会で2月にヒアリングをしたときにも申し上げたんですが、積極的学習意欲と自主的判断力の欠如ということを、私がインタビューした多くのまじめな大学の教師は考えております。そのことと、今日ここで皆さんが強調されました「自ら学び自ら考える力」といった「生きる力」を育てることの重要性とは関連しておりまして、高等教育においてもこの面でどうするかということは、やはり学生の状況を見ると課題であろう。
  だから、今後審議をとりまとめていく上で、高等教育の課題をも包含していると思っておりますので、一言つけ加えさせていただきます。

○  最後に申しわけありません。家庭科教育の根本のところにもう一度戻りたいと思うのですが、私は自己の自立、確立が大事だと思います。ですが、それは一つ間違えれば、口ばかり、権利だけを主張するようになるので、権利の裏側の義務もきちんと理解すること。それから、もう一つ、他人の多様性を認めることも重要ではないかと思います。それも一つ間違うと無関心になって、見て見ぬふり、他人のことだから知らないということになります。
  その2点をまず押さえた上でどうするか。私は、自分が子どもを産み育てるのに値する人間になることが必要で、また相手として選ばれる人間になることが必要だと思います。ではそれはどういう人かというと、家庭を考えることができる人で、家庭科教育というのはそのきっかけを実習や授業を通して教える場であるかなと思います。生徒や周りの独身の方の話を聞きましても、パートナーがいれば結婚する。結婚してよければ子どももつくるということではないかと思います。
  そういう個人的な問題を、今度は社会的な支援でどのようにしていくかと考えた場合、今、3つほど考えたんですが、まずシングルマザーなどでもやっていける環境をつくる。それから、企業に勤めても働けるような環境をつくる。また、地域で子育てを支援する体制をつくる。これらの根本にあるところが意識改革でして、その意識改革をするのが学校教育、家庭科教育というところで、全体がリンクするような気がいたします。
ただ、最後にちょっと現実を言いますと、これから学習指導要領が変わったりしますと、3年間で2単位ということは、少ない学校は60時間ほどで人生のすべてを教えてくれというふうに私たちは要求されているわけで、そういう現実の問題と大きな課題というところのギャップも、最後はどこかで兼ね合いが必要ではないかと思います。

○河合座長  ほかの皆さんもまだまだ言いたいことがあると思いますので、欲求不満で申しわけありませんが、この問題自体がそういうものでして、非常に大切で、しかも多様ですから、いろんな考えが入って、私は多様な意見を言っていただいてありがたかったんですが、まとめられないなあという、その心配もしておりますけれども、こういう調子でどんどん多様にやっていけば、またかえってまとまるところも出てくるのではないかと思います。ただ、表現は非常に難しいものですから、皆さんの言ってくださったことを考えながら、誤解の生じないような表現を考えていきたいと思っております。どうも今日はありがとうございました。
 
(大臣官房政策課)

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