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中央教育審議会

1999/1 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第2回)議事録

  議  事  録 

平成11年1月13日(水)14:00〜16:00
東海大学校友会館  33階  望星の間

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    小林座長代理、森(隆)委員

専門委員
    安藤専門委員、鈴木(り)専門委員、楢府専門委員、広岡専門委員、牧野専門委員、森(正)専門委員、山口専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、小松幼稚園課長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

意見発表者
  依  田  明  氏(昭和女子大学大学院教授)


○河合座長  それでは、定刻になりましたので、ただいまから中央教育審議会の「少子化と教育に関する小委員会」、第2回会議を開催します。
  皆様方におかれましては、お忙しい中を出席いただきまして、誠にありがとうございました。
  本日は、「少子化が教育に与える影響について」御審議をいただくこととしました。また、これに関連しまして昭和女子大学大学院教授の依田明先生からお話をいただきたいと考えております。
  よろしゅうございますか。
  それでは、本日は依田先生から「少子化が子どもの発達に与える影響」について御説明をいただいた上で、前回同様、自由に意見交換をお願いしたいと思いますが、まずこれに先立ちまして、前回の小委員会において御紹介いただいた少子化への対応を考える有識者会議の提言がまとめられましたので、その内容について事務局から御説明をお願いいたします。
<事務局から説明>

○河合座長  ただいまの説明につきまして、何か御質問ありませんでしょうか。  ―ございませんですか。
  それでは、続きまして依田明先生から、「少子化が子どもの発達に与える影響」についての御説明をお願いしたいと思います。説明に関しましては、依田先生から提出していただきました発表の要旨を記した資料(※1)をお配りしておりますので、適宜御参照ください。
  まず、依田明先生を御紹介いたします。依田明先生は発達心理学を専攻されまして、現在、昭和女子大学大学院の教授でいらっしゃいます。兄弟の数と子どもの発達についての御研究をまとめられた『きょうだいの研究』などの御著書があります。「少子化が子どもの発達に与える影響」についても示唆に富むお話を伺えるものと考えております。
  それでは、依田先生、30分ほどの見当でよろしくお願いいたします。

○依田意見発表者  ただいま御紹介をいただきました依田でございます。こういう立派な審議会で話をさせていただくことを大変光栄に存じております。
  まず、「少子化が子どもの発達に与える影響」を子どもの側から、つまり兄弟関係から見たことと、それから親子関係から見たことをお話しいたします。
  少子化といいますと、何か一人っ子が非常に増えたというふうに思っている方もいらっしゃるんですが、これは間違いであります、私は神奈川県の小田原市の小・中学校の児童生徒が何人兄弟であるかということをずっと前から調べておりまして、1952年生まれから1990年生まれまでの児童生徒の兄弟数を把握しております。地域差がありますけれども、小田原というのは標準的な場所ではないかという感じがいたします。確かに1952年生まれの人から61年生まれぐらいまでの人では、兄弟数は猛烈に減りました。平均兄弟数で申し上げますと、1952年生まれの人は本人を含めて3.24人いたんですが、62年生まれの人になりますと2.31人で0.9人ぐらい減っております。
  この10数年間は猛烈な勢いで減ったのでありますが、その後は平均兄弟数は62年生まれから90年生まれまで大体2.3人台で変化がない。圧倒的多数派を占めるのが2人兄弟でありまして、大ざっぱに言うと6割、一人っ子が1割、そこまでで7割、あと3割が3人以上という感じです。ですから、今や2人兄弟が圧倒的多数派であるということであります。子どもの絶対数は減っているんですから、極端に言えばゼロか2かという感じです。
  兄弟数が減って、2人兄弟になったんですが、最近は特に兄弟関係がいささか希薄になってきているように思います。それぞれが個室を与えられて、個室の中にテレビゲームや漫画やいろいろ積み重ねて、そこでひとりで遊んでいる。相手の部屋は侵略しない。お互いに一見仲良く過ごしているようでありますけれども、昔のような心と心のぶつかり合いというふうなものがなくなってきたように思います。これはだんだん一人っ子化社会になっていくのではないかという気がしております。
  親子関係で申し上げますと、三つの悪いことがありまして、一つは干渉過剰、二つ目が過保護、三つ目が期待過剰であります。干渉過剰というのは、「何々しなさい」「何々してはいけない」、そういう指示命令が非常に多いんです。どういうわけか、これは女の子よりも男の子に強烈な影響を与えるんです。男の子はほんとに指示命令に素直に従うんです。指示命令に従っていれば、しかられないで一日が無事に済んでいくわけです。小学校へ上がっても、先生の指示命令に従っていればこれも無事。中学校、高等学校も大体同じ。
  大学へ入ってきますと、例えば時間割を自分でつくらなくちゃいけない。今まではお仕着せの時間割を与えられてきた。そういう指示命令に慣れ親しんだ男の子ははたと困るわけですね、自分でつくれと言われて。ところが、よくしたものでありまして、大体の大学には生活協同組合なんていうのがあって、「入学のしおり」なんていう立派な冊子を配ってくれるんです。その冊子の中に「標準的な時間割のつくり方」なんていうページがちゃんとあって、それを見て彼らは安心するということでありまして、そういうマニュアルがないと何もできない。
  マニュアルがないと何もできない人間の行き着く先は“コンピュータおたく”であります。つまり、人とつき合うよりコンピュータとつき合っていたほうがはるかに楽だ、面倒くさくない。ますます人間嫌いになりまして  ―“コンピュータおたく”になるのは男の子なんです。女の子はまずなりません。10人男の子がいますと、3人か4人は“コンピュータおたく”になります。人間嫌いになりますから、結婚しないということになっていくわけであります。
  それから、過保護でありますから、大変ひ弱です。例えば大相撲にしても、最近、サポーターだか、ばんそうこうだか何だか知りませんけれども、ベタベタ体じゅうに張りつけてやっている力士が非常に多い。私が子どものころはなかったんじゃないかと思うんです。
  例えば、中学校で何か問題が起こると、校長が体育館にみんなを座らせて、訓示を垂れておりまして、なぜ立たせてやらないのかと聞きましたら、立たせておくと貧血を起こしてバッタリ倒れる生徒が続出して、けがでもされると大変だから座らせているんだという話であります。ひ弱になっております。
  それから、期待過剰。これは小さいうちからお受験などといってやっておりますから、不登校といった問題行動につながっていくものではないかという気がしております。
  このようなことが親の側、子どもの側から見た発達への影響だと思うんでありますが、ではどうしたらいいのかということですが、基本的には安心して子どもを産み育てる社会をつくることだろうと思うんです。そうは言っても、具体的にどうしたらいいのかということはなかなか難しい問題でありまして、私が考えていることで、どうしたらいいかということを幾つか提案させていただきますが、先ほど御説明になった有識者会議の御報告の中にも含まれているんですが、もう少し具体的に申し上げてみたいと思います。
  まず、今の若い女性は赤ちゃんを全然知らないんです。先日、大学院生と、二十三、四でしょうか、雑談をしておりまして、新生児というのはまだ頭蓋骨が完成してないから、頭の一部は骨がなくて、心臓の鼓動と同調してピクピク動いているんだということを申しましたら、「キャーッ、気持ち悪いーッ」て絶叫しました。もっとも、これは無理もない話で、今は2人兄弟が圧倒的多数と申し上げました。ですから、自分のうちで自分の弟妹、赤ん坊を見る機会がまずない。下に生まれた子どもは絶対ないわけであります。つまり、赤ちゃんというのを知らない。
  結婚して妊娠して、赤ちゃん像というのを何かつくるんだろうと思うんですけれども、その赤ちゃん像というのはどこからつくられてくるかというと、例えば粉ミルクの缶に印刷された金髪碧眼のかわいい女の子とか、あるいは童話やテレビで見た赤ちゃん、そういうものからつくられているわけです。それはかなり現実離れをしているわけでありまして、実際に生まれてくるとそんなきれいなもんじゃないし、排泄もするし、泣きわめく。そういう赤ちゃん像と現実の赤ちゃんとのギャップにびっくりしちゃって、育児が嫌いになったり、あるいは虐待したり、子どもを産まなくていいというふうなことで、少子化は悪循環をしているのではないかと思うのであります。
  それではどうしたらいいかということですけれども、中学校の教科に乳幼児との接触の体験学習の時間を入れて必須科目にしたらいいのではないかと思っております。特にこの中央教育審議会は文部省関係の審議会でありますから申し上げておくんですけれども、体験学習の重要性というのはいろいろ言われているんですが、体験学習は自然との接触だけではなくて、人間との接触が当然含まれるわけだろうと思うんです。
  現にやっている幼稚園もありまして、地域の公立中学校の家庭科の時間に、女の子だけですけれども、幼稚園に遊びに来させる。子どもたちと遊ばせる。これは子どもにも、それから中学生にも大変いい影響を与えているようであります。生徒の中には、初めのうちは〈こんな小さな子どもと遊べるか〉というような態度を示している者もいます。そのうちに子どものほうから働きかけて、何とか一緒に遊び始める。結構楽しく遊んでいる。感想文を書かせますと、いつもは1行ぐらいしか書かないその生徒がB5判いっぱいに書いて、「私も将来、幼稚園の先生になりたいわ」なんて書いたりする。そういうことをやっている幼稚園もあるんです。だけど、ごくわずかだろうと思います。これをぜひ中学校の教科に取り入れて必須科目にして、幼稚園や保育園やそういうところへ行かせて、子どもと接触させる機会をぜひつくっていただきたいと思います。
  ついでに、生殖学というのは少し変な名前かもしれませんけれども、そういう講義をやはり中学校で開設して、これも必須科目としてもらいたいんです。そこでは何をやるかというと、例えば大学生に「受精はどこで行われるか」という質問をいたしますと、大体9割の女子学生は「子宮だ」と答えます。セックスに関する断片的な知識はたくさん持っているくせに、基本的な知識が欠落しているんです。「どっかで教わらなかったのか」って追求しますと、「家庭科で教わったような気もするし、生物だったような気もするし、保健体育だった気もする」と。教えられるところが三つあるんですね。三つあるものだから、お互いに押しつけ合って、結局、本質的なことは教えていない。
  あるとき、高等学校の生物の教科書を見る機会がありました。それには「生殖」という立派な章があるんです。ところが、何が書いてあるかといいますと、シダの立派な図が書いてあって、延々とシダの生殖について書いてあるんです。肝心の哺乳類の生殖なんていうのは3行ぐらいしかない。ネズミの生殖器の模型なんていって、丸や三角や四角が書いてあって何のことやらさっぱりわからない。そういう教科書を使って生殖を教えているのは間違いなのではないか。大事なのは哺乳類の生殖、人間の生殖であるべきなんで、新設していただきたい必須科目では、排卵とか、受精とか、妊娠とか、胎児期の問題とか、出産前後、新生児期、乳児期、幼児期などについて、正確な知識を与えるということであります。
  それから、現在の家庭は非常に閉ざされておりまして、1992年に横浜市の子どもで調べたところ、ゼロ歳児の98%、1歳児の95%、2歳児の92%は家庭で暮らしているわけです。つまり、保育園にも、幼稚園にも行っていない。ちなみに、その後、3歳になりますと、幼稚園、保育園に通っている者が33%と増えてくる。4歳児では92%、5歳児では95%と、3、4、5歳は割にうちを出ているわけです。ところが、生まれてからの3年間というのは、狭い家庭の中で、母親と子どもと顔を合わせてずっと暮らしているわけであります。
  昔は、地域社会が生きていた時代には、あるいは親戚づき合いがもっと濃厚であった時代には、私なんかも父親の兄弟は6人おりましたから、おじ、おばがたくさんいまして、そのうちへ泊まりがけて遊びに行ったりします。そうすると、私のうちの風呂場は暗くて五右衛門風呂で、うまくふたを沈めないとひどい目に遭う風呂でありますけれども、いとこのうちは立派なタイル張りで、明るくてすばらしく、「随分違うんもんだな」と思ったりもする。つまり、いとこのうちやなんかへ遊びに行きますと、いろんな暮らし方がたくさんあるんだ、うちはそのうちの一つにすぎないんだということを学習できたわけです。ところが、今はそういうことがまずない。子どものほうは自分のうちの暮らし方が普通な暮らし方で、一般的であり、普遍的であると思ってしまう。母親も自分の子どもしか見ていませんから、自分の子どもが普通の子どもで一般的で普遍的であると思ってしまう。母子関係の在り方も、自分の母子関係が普遍的なものであると思ってしまう。これは非常に危険な考えなのではないかと思うのであります。
  これは有識者の提言の中にも出ておりましたけれども、母と子を集める機会というのを提供していく必要がある。地域によっては既に始まっているようなところもあります。吉祥寺か三鷹ではかなり成功しているようであります。小学校の空き教室がたくさんあるわけですから、そこを提供して、例えば月曜日はゼロ歳児の母と子がおもちゃとかお菓子などを持って集まってくる。火曜日は1歳児、水曜日は2歳児、木曜日は3歳児、金曜日は年齢を問わないでゼロから3歳児まで来てもいいというようなことを、小学校の学区ごとにやっていただきたいんであります。そうすると、そこでほかの子どもたち、いろんな子どもたちを見られますから、必ずしもうちの子が普遍的なものではない、いろんな親子関係もあるんだ、しかり方についてもいろいろあるということを学習できます。また、母親たちが集まってきて、お互いにいろいろ子育てに対する不安について語り合ったりということができるだろう。
  初めのうちはやはり行政が少し指導をしなきゃいけないだろうと思いますけれども、地域には元小学校の先生とか、保健婦さんとか、保母さんとか、幼稚園の先生とか、そういう人たちがかなりいるはずですから、そういう人たちが中心になってボランティアで運営していけばできるのではないかと思っております。中学生の子どもとの接触の機会をつくる、それから出産・育児に関する正確な知識を提供する、それから地域社会には母子の集いみたいなものをつくるということをかねがね考えておりまして、ぜひ文部省で検討をお願いしたいと思っております。

○河合座長  ありがとうございました。いろいろヒントになることがたくさんあったと思いますが、それに関連して皆さん質問とか御意見とか、どうぞ御自由にお願いします。

○  ありがとうございました。大変いいお話だなと思ったんですけれども、一つ違和感を感じたのは、子どもを知らないというのは女性だけではないと思うんです。

○依田意見発表者  ええ。もちろんそうです。

○  今の先生のお話をお聞きすると、中学生の女の子の話があって男の子の話はありませんでしたが、いかがですか。

○依田意見発表者  いやいや、中学生は全員必須とすべきです。

○  全員ですよね。それで安心いたしました。

○依田意見発表者  ただ、さっき横浜の幼稚園で、家庭科の時間に来さすというのは、残念ながら女の子だけなんです。

○  あ、そうですか。これはとてもいいお話なので、男の学生たちにもぜひぜひ積極的に参加していただきたいと思います。

○依田意見発表者  もちろんそうです。必須科目と申し上げたのはそういう意味で、男女とも必須。

○  私の住んでいるところは、転入者が最近多くなり非農家の方がだいぶ増えました。近隣の家庭の子どもの数を調べましたら、一人っ子というよりは子どものいる家庭ではやはり2人か3人いました。ただ、働いている女性は仕事を辞めてまで子どもを欲しいとは思わない人が多いようです。また、経済的に教育費の負担が大きいと思っている人は多いです。高学歴化のため大学や大学院にかかる費用以前の問題として幼稚園教育においてもかなりの負担を感じています。幼稚園児2〜3人の子どもをもつ親は20代から30代と考えられますが、家計の収入から試算しても経済的負担は大きいと聞いております。
  次に、ある少年院の統括をしている後輩の話ですが、ある時、少年院に茶色に染髪した先生が来たそうです。入所している子どもたちが非常に親近感を持ってとてもよくその先生と話をするというのです。自分がなぜこういうところに入ったとか、過去にどんなことがあったとか、心の底から信頼して話ができる人がなかなかいなかったということが言えると思います。そういう意味においても大人たちが子どもに近づくというか、信頼される大人になる必要があると思います。私たちは自分自身を振り返って社会全体をとらえ反省する必要があると思います。しかし、茶髪は好ましいとは思えません。やはり親も先生も近隣の大人たちもすべて子どもにとっては手本であり、目標であり、指導者、支援者であると思います。職務を全うするための服務、言葉使い、立ち居振る舞いは、当然要求される要素であると思います。
  また、教育費の公費負担について、私の村の過疎地区では子どもの数が少なくなって学校閉鎖をしました。もともとは分校だったものですが、平成9年度をもって閉鎖となり施設や設備は有効利用のあてがないまま水道光熱費や維持管理費は最低限かかっています。村は少ない児童、生徒の就学対策のため本校への送迎用のバスを新たに購入し二重の経費負担をする羽目になっています。
  さらに、人間関係の希薄から生じている子どもたちの人格形成への悪影響が懸念されます。子どもたちが遊びを通じて学習する機会が減少しているため、人格を形成していくための実体験のプロセスが足りなくなっていると思います。いろいろな子どもが大勢いる中でこそ鍛え合い育てられると思われます。
  最後に、私の地域の子供会活動についてですが、子供会の育成のための大人の組織である「子供会育成会」の会員は地域住民全員(全世帯)であり全員が会費を納めています。これは地域の子どもは地域全体で育てるといった意識の現れであると思います。

○依田意見発表者  私は2年ぐらい前から今の大学へ行ったんですが、そこへ行きまして私が非常に感心したのは、授業をするとき男性教師は必ずスーツ、ネクタイを着用するという不文律ができているんです。寮がいろいろありまして、例えば館山にも寮があるんですが、館山の寮に行くときはカジュアルな服装で行っていいのかと言ったら、行きと帰りはいいけれども、おまえは講義をするから講義するときはちゃんとスーツを着てろと言われまして、やはり教える姿勢というのが服装にもあらわれる。
  私の小学校のとき、やはり授業は教師がスーツを着てやっていたのではないかと思うんです。中学校のときは国民服になっていましたけれども。いつのころからかジャージとかで小・中学校の教師が授業をやっている。教えるということは大変大事なことなんで、きちっとした服装で教えるべきなんじゃないかと私は思いますが、どうでしょうか。

○  少子化が教育に与える影響ということを既に若干伺いましたけれども、これは時代あるいは社会の変化によって教育と子どもが変わってきているのか。あるいは、少子化の問題から教育と子どもが変わってきたのかというところを区別いたしまして、少子化のために子どもがこう変わった、あるいは教育がこう変わったということがございましたらもう少し伺いたい。というのは、この小委員会はその問題を議論する委員会でございますから。

○依田意見発表者  なかなか難しい問題でありまして、ニワトリが先かタマゴが先かというような感じですけれども、私は日本の教育が変わったために、いろいろ変わってきたところもあるのではないかという気がいたします。

○  先ほどのお話で、兄弟の数は62年からほとんど変わりがないというお話でした。それでも親子関係、兄弟関係が変わったのは、一つに先生は、個室などが与えられたというような例を挙げられましたけれども、ほかにはどういった要因で、つまり兄弟の数は変わっていないのに、親子関係、兄弟関係が変わっていったと思われておりますか。

○依田意見発表者  特に兄弟関係の変化については、子どもがものすごく忙しくなってしまったことが考えられます。とにかく漫画を読まなくてはいけない、テレビゲームをしなくてはいけない、テレビを見なくてはいけない。とても兄弟で遊ぶなんていう時間はありませんよ。塾へ行ったりおけいこごとをやったり、大変なものだと思います。それも一つの要因ではないでしょうか。

○  少子化ということが直接的でじゃなくて、もっといろいろ時代の変化がたくさんあって、様々な影響もできているというふうに先生はお考えなわけですね。

○依田意見発表者  そうですね。

○  幼稚園の保育に中学生が参加するというのは非常にいいことで、私の勤務する大学の附属幼稚園にも附属中学校の生徒が来て園児とかかわっていますが、案外男の子が頑張ってというか、案外子ども好きです。
  もう一つ、私たちが試みていて、これは非常に効果的だと思うのは、幼稚園の保護者と中学校の保護者の交流会なんです。要するに、幼稚園の保護者は子育ての当事者なんですよね。ですから、子どもが中学生ぐらいになったときに、もう一度幼児期の在り方の反省をふまえて、中学生の保護者の方が幼稚園児の保護者の方と話し合っていただく、バズセッションみたいなグループディスカッションでやることです。先生がおっしゃった子育て支援の試みの中で、子育て真っ最中の若い親たちの集まりもいいけれども、そこに子育てのOBみたいな方が入られることによって、より話し合いが豊かになっていくのではないかと私は考えております。

○依田意見発表者  それはそのとおりだと思います。

○  私は、子育てというのはアメリカでやったものですから、日本の状況をよく知らないんです。私は日本で、私のおふくろから大変過保護で、期待過剰のもとに育ったものですから、それ自身そんなに悪いことじゃないようにも思うんです。アメリカというところは日本と違うのは、自主・独立を割に小さいときから教えるということが決定的に違うと思うんです。例えば、ベビーシッターという職業は、日本ではあるんでしょうけれども、あまり聞かないわけです。

○河合座長  このごろ出てきたんです。

○  日本の設備、その他についてなんですが、私の孫が上海に2人おりまして、向こうのナーサリースクールといいますか、保育園に行っている。実は私の住んでいる隣が保育園になっているんです。どうも上海の保育園のほうが設備が非常に整っておりまして、隣の保育園は大変貧弱な設備です。もっともそこは市立でございまして、上海のものはプライベートで、たぶん高いお金を出しているんだろうと思うんです。しかし、設備というのは、アメリカのナーサリースクールの設備と比べて、日本は甚だ貧弱で、これほどお金がある国が、どうしてあんなに貧弱なのかということが疑問なんです。
  今、依田先生のおっしゃったことは私は全く賛成なんですが、過保護とか、期待過剰というのは、今まで日本でやってきたことでございますよね。日本のマザーの過保護というようなことが、プラスになっている面もあるわけです。アメリカではジューイッシュマザー(ユダヤ人の母:子どもの面倒をよく見る)という表現があるんですが、日本のマザーはジューイッシュマザー的で、それはそれなりに私は価値があるように思うんですよね。
  それから、先ほど態度のことをおっしゃいましたけれども、私の経験で、例えばアメリカ人の学生に講義すると  ―これは大学によって違うんですがね。日本的に言いますと悪い態度で講義を聞くわけです。日本の学生のほうが、まじめそうに聞くわけです。ところが、私はやはりどれほど私のことを聞いてくれるかというほうが大事で、どんな態度で聞いてくれても私は構わないと思うんです。それは二次的な問題なんです。日本の教育というのは割合に形とか、髪を何分に切れとか、そういう形式的なことを強調し過ぎるように思うんです。むしろ内容のほうを重視する必要があるように思うんです。
  もう一つ申し上げますと、アメリカでは小さいときから割に自主・独立ということを教えるんです。これは両親にとって都合のいいためでもあるわけですね、しかし、子どもを早く一人前にするということの真のメリットは。割合に子どもたちの間の交流みたいなものが盛んになる。これはティーンエイジになってからの話かもしれませんが、日本よりは友情が濃厚なように思うんです。子どもたち同士のつき合いというものは、社会性を身につけるなど人格形成上大切です。そういう点が日本とだいぶ違うように思うんです。
  先ほどのことで、少子化ということに直接今の教育が関係する  ―これは先ほどの他の委員の方の話とちょっと結びつくんですが、今おっしゃったことはかなり昔から日本で言われていたような気が私はするんですけれどもね。最近、その状況がどういうふうに変わってきたかということをもし教えていただければと思うんですが。

○依田意見発表者  昔から過保護、期待過剰というのはあったと思うんです。私は過保護はそれほど悪いことではなくて、特にゼロ歳児期、1歳児期、2歳児期はなるべく過保護に育てたほうがむしろ望ましいと思います。しかし、期待過剰というのはなかなか大変なことでありまして、私自身は長男の長男でありまして、親の家に小じゅうと、しゅうとめ、しゅうと、大勢住んでおりました。嫁に来た私の母親は猛烈な期待を私にかけたわけでありますが、私はとてもその期待にこたえられなかった。弱くて泣き虫で、どうしようもないだらしのない子どもだった。その結果、私は幼稚園に入れられたんですけれども、幼稚園はついに1日も行かなかった。登園拒否みたいなもんですね。小学校に入っても学校にうまく行かれなかった。そのうちに戦争が始まってめちゃくちゃになったので、どうやら一人前になったのではないかと思っていまして、期待過剰というのはやっぱりつらいですね、子どもにとっては。
  それから、過保護はある程度の年齢まででありまして、さっき中国のお話が出ましたけれども、中国は一人っ子政策で、一人っ子が大学に入ってくる。大学受験というのは、中国の入試戦争というのはめちゃくちゃ厳しいものでありまして、日本の比じゃないわけです。とにかく大学へ入るためには重点中・高へ入らなくちゃいけない。重点中・高に入るためには重点小学校に入らなくちゃいけない。重点小学校に入るためには重点幼稚園に入らなくちゃいけない。ですから、小さいときから猛烈な勢いでいろいろ教えているわけです。
  私の聞いた話で、これが一般的なのかどうかはわかりませんが、中国の大学は1年生は大体全寮制で、8人部屋に住んでいるそうであります、新入生がやってくると、例えば女子寮に、男子禁制なのに父親が娘のかばんを持ってのそのそ上がってくる。「入っちゃいけない」と言うと、「こんな重たいかばんを娘に持たせるわけにいかない」と。それから、男子寮にも母親がのそのそやってきて、「うちの息子は快活でないから、私がちょっとだけやらしてもらいます」と言うぐらい、大学生になっても手をかけている。
  いよいよ学生だけになりまして、8人部屋ですから、いろんな当番を決めなくちゃいけない。そうすると、新入生たちは自分の言いたいことだけは言うけれども、人の言うことを全然聞かないから、いつまでたっても当番が決まらないということのようでありまして、これは過保護の行き過ぎみたいな感じがします。

○  今の発表をお伺いしていまして、体験学習が大事だというのは本当にそのとおりだなという気がいたしましたので、少し私の考えを述べさせていただきたいと思います。
  少子化で自分の子ども時代と今の子どもたちとどんなふうに違うのだろうかと考えてみますと、例えば幼稚園に上がる前後から隣近所にいっぱい友達がいました。しかも、年齢の違う友達でした。上は中学校か高等学校へ行くくらいの子、下はそれこそ三つ四つの子がみんな一緒になって町の中を走り回って、駄菓子屋へ行ったりなんかしてたわけですが、それが今、全くなくなってしまったですね。大体同じ年齢の子同士が町の中ではなくて、自分の家でファミコンなんかをやって遊ぶというケースで、私の子どもを見ていても圧倒的にそうなってしまって、年の違う子が町で遊んでいるという姿は見られなくなったような気がします。
  同時に、駄菓子屋へ行くばかりではなくて、近所には学校の帰りに寄る何だか関係のない町内のおじさん、おばさんの家があったりなんかしまして、そこへ寄ってお菓子をもらって遊んだりなんかしたことがあったと思うんですが、それもなくなりました。そういったことがなくなってしまって、家庭と学校の間を往復して、その間は何かジャングルみたいな。小さい子どもたちはとりわけそうかと思います。
  そんな面から考えても、今、地域で体験をしたり行動したりすることが欠けた分、学校で体験学習が必要なのではないかと思うんです。それだけまた学校にかかる負担が重くなってしまうのかもしれませんけれども、教室の中でなくても、教室の外でも構いませんから、何か学校がそういう機会を提供することが大事なのかなという気がします。
  幾つか聞いたことがある事例をちょっと申し上げますと、一つは石川県のある地域の高等学校ですが、福祉コースがありまして、その福祉コースの子たちが老人ホームなどへ体験学習に行きますと、みんな猛烈に感激するんだそうです。どんなもんだかわかりませんけれども、女の子の多い学校ですが、女の子も男の子も非常に感激をするんだそうです。
  それから、似たような話で、これは別の地域のデイケアハウスですが、あるとき職場体験のプログラムで女子の中学生が2人来て、その子たちは不登校の子でほとんど学校に来なかった子らしいんですが、帰ってから校長先生に対して目を輝かすようにして、きょうあったことを一所懸命しゃべったんだそうです。そういう面で、地域の体験学習は大事だなという感じがいたします。
  地域の人との触れ合いという面では、これは石川県のある市で聞いた話ですが、ある女性たちが絵本の読み聞かせをやっておりまして、読み聞かせというのは私はよくわかりませんが、小学生や、それから中学生にも結構感動を与えるんだそうです。ある小学校で読み聞かせをやったところが引く手あまたになりまして、いろんなところへそのグループが授業の間に読み聞かせに行っているんだそうです。その方と話をしていておもしろかったんですが、最初1回、2回読み聞かせをしていたときにはボランティアでよかったと言うんですが、毎週何日も出かけるようになると生活に支障が出たりなんかして、ボランティアではとてもできなくなった。やはり全くの無償というよりも、ある程度の報酬がないとこういう活動もなかなか活発にならない時代なのかなという気がいたしました。
  いずれにいたしましても、これまで我々の学校での体験というと、まさしく知育偏重という感じがしたんですが、学校の教科でいろんなことを知識として学ぶということが多かったと思うんですけれども、これからの学校ではむしろ積極的に地域へ出たりして、人間と人間の交わりを実践的に体で獲得をする。それは従来の我々の教育というイメージとはだいぶ違うのかもしれませんけれども、経験ということが教育の一環の中に入ってこなければいけない時代なのかなという気がしました。それがひいては少子化の問題ということでは、家庭の子育てに対する負担を大きく軽減していくことになるのではないかと思います。いかがでございましょうか。

○  一つは、今、幼児期の話が出ているんですけれども、保育園という問題です。幼稚園ということは随分語られているんですけれども。只今のお話しではゼロ歳児の98%という形で、かなりのお子さんが家庭で育つということですが、私自身の体験からいうと、周りの女性も含めて、働く母親の子どもはゼロ歳児あるいは1歳から保育園に行っています。そしてゼロ歳から6歳という間に自分の家では体験のできないいろいろな体験を保育園という中でしていています。幼稚園がどちらかというと教育の場、保育園というのはむしろ生活の場と捉えられていると思います。私自身は自分の子どもが一人っ子だったんですけれども、保育園に行ったということは子どもの成長にとって非常によかったのではないかと思っています。
  それから、昔、女が働くということは、家計が成り立たないという背景の下に捉えられ、保育園というのはどちらかというと、福利厚生的な意味合いが強かったと思います。ところが働く母親の増加、女性の高学歴化の中で、保育園の背景もだいぶ変わってきているのではないかと思っております。一方、幼稚園というと専業主婦のお子さんが多い。どうも保育園での子どもの育ち方と幼稚園での子どもの育ち方というのが、親の背景も含めてだいぶ変わってきているのではないでしょうか。たぶん行政的にもこれは違いがあるんだろうと思いますので、このあたりもう1回、保育園というものの少子化における教育的有効性の視点からの見直しが必要ではないかと思います。
  依田先生の御説明の中で、学校施設の余剰部分を学区の母子に開放し、月曜日はゼロ歳児というような御提案があるんですけれども、これもなかなか女性が働くということを考えると成立しにくいということもございます。このあたり、保育園あるいは幼稚園という中での子どもの育ち方という部分で、専門家のお立場からどういうふうに違うのかということをお聞かせいただければと思います。
  それから、過保護の問題というので、私は女の子しかいないんですけれども、どうも見ておりますと、女親は割と強い女の子を育てて、やさしい男の子を育てているような気がするんです。女の子は自分と同じですから大体わかるということで、それほどいろいろ思わないんですけれども、どうもよそ様を見ていると、男の子に対してはお母さんが非常に気を遣って育てているような気がいたします。男親だと逆に女の子にやさしくて、男の子に厳しいのかなという気もするんですけれども、今の日本の育て方が母親中心に子どもを育てているということも過保護の問題にかかわってくる部分もあるような気がし、男と女の子どもの育て方の違いみたいなことも一つポイントとしてあるのではないかと思うんですけれども、いかがでしょうか。

○依田意見発表者  最後のところから、私の考えを申しますと、どういうわけか日本の文化では、「母子一体感」と言うんですけれども、そこでイメージされている子どもは男の子なんです。母親と男の子にものすごく強烈な一体感を持っている母子がたくさんいるんです。なぜ男の子かというと、やっぱり夫の方にも責任があって、結婚して子どもでも産むと、もう妻を愛情の対象としては見なくなっちゃうんですね。その結果、本来、夫に向かうべき愛情が男の子に向くんじゃないかという面もあると思うんです。とにかく男の子と母親のつながりというのは強烈ですよね。これがずうっと続いていって、大学生になっても、あるいは大学を卒業して就職しても続いているのがいるんですね。
  それから、幼稚園と保育園ですが、幼稚園というのは3年保育が今のところ最大で、延ばそうという話があるようですけれども、今、こういう世の中ですから、幼稚園のほうはやはり教育に重点が置かれているようで、保育園の場合はそれ以下のゼロ歳、1歳、2歳なんていうのは、どうしても生活が重点ですよね。私は別に3歳児神話に賛成しているわけではないんでありまして、90何%がうちにいるというのは、横浜市のデータを調べたらばそういう結果であった。それが現実であるという話であります。
  それから、保育所にしても、地域によって非常に入りやすいところと入りにくいところと、さらに子どもがいなくなっちゃってつぶれそうなところと、横浜市を見ましてもいろいろなんですね。新しい住民が増えている周辺部は、保育所はものすごく不足しています。ところが、中心部は子どもがいないから、青息吐息という感じであります。どうもあまり適切な返事ではないかもしれませんが。

○  保育園の保育に関する予算を見直すというか、もう少し前向きに考えていくことが少子化の中では大切なことではないかという気がしているんです。

○依田意見発表者  数年前から厚生省が始めた駅前保育所、あれはものすごく審査が厳しくて、全国でも今、幾つぐらいあるんでしょうか、20か30しかないんじゃないかと思いますけれども、そういうところは猛烈に頑張ってやっているところが多いですね、普通の保育所よりは。ただ、補助金が今どうなるのかって心配していましたけれども。

○  いろいろ貴重なお話を伺わせていただきました。私は各国の教育の比較研究を行っています。その点で、少子化という問題に関した資料を持ってきました。
  まず、中国では70年代の初めから政府の人口制限政策が実施されてきたことは、ご承知のとおりであります。それ以来、少子化のスピードがかなり進んでいるようであります。現在の中国の都会を例にとりますと、一人っ子の家庭が大多数であり、農村においても出生率が下がっているため、一人っ子か二人っ子になっています。また、フランスでは少なくとも18世紀以来、人口が減っているそうですが、人口問題について長い歴史を持っているフランスが、こうした状況に対してどのように対応しているか、ということは参考になると思います。
  少子化問題についてこれから取り組んでいく場合には、諸外国もいろいろな問題を抱えているので、それについての考えなり、それをどう解決しようとしているか、ということを参考にすることも大切ではないかと思われます。

○河合座長  そういう点で、依田先生、今、少子化ということが、家庭の教育もそうですが、学校の教育に何か影響を与えているということがあるでしょうか、そういうことは言えるでしょうか。

○依田意見発表者  わがままに育った親のせいで、学校に対する注文が非常に増えてきたということは言えるのではないでしょうか。だから、ますます学校の先生は自信を失って、相談すると「おまえの指導力が悪い」と言われるから、大変ですよね。

○河合座長  要するにさっきから出ている過保護にしろ、期待にしろ、これはある程度母親にあってはあたりまえで、当然なんだけれども、子どもが少ない分だけ1人にかけるものが多くなったということでしょうかね。それがいろいろなところへ出てくると。

○依田意見発表者  とにかく昔と違って、母親の家事労働は随分楽になったと思うんです。例えばおむつにしても、私が子どもを育てたころは布のおむつですから、梅雨のころなんていうのは大変だったんですよ。離乳食だって、今、薬屋へ行って買ってくれば、お湯を入れればビーフシチューなんていうのができるわけですよね。かなり楽になっているから、ますます子どもに注目しているのではないでしょうか。

○  一つは質問で、今、家庭の問題が出ているんですが、先生のお話の中で、自分の家庭が普遍的、一般的なものと考えている母親や子どもが多いという点で、子ども自身は割と自分の家庭がこんなものだと思い込んでいる部分があると思うんですが、母親の方は自分の家庭が本当に実体のあるものだろうかというようなことで、逆に悩みを持って周りを見て、周りが受験に走れば私も行かなくちゃとか、塾に行くなら塾に行かなくちゃというように、母親自身がどのような家庭を持ったらいいかという家庭観みたいなものをつくり得ていないのではないか。
  あとそれを母親が一人でやらなくてはいけないというようなところで、昔はおじいちゃん、おばあちゃんがうるさいと言われても、あるところでは息抜き、目が分散するとか、力が分散するようなところがあったのではないかと思うので、その辺をちょっとお伺いしたいと思います。
  私自身は中学生と高校生を教えておりまして、今、体験学習の話がいっぱい出ましたが、実際にやっているので、幾つかお話ししたい点があるんですが、まず保育の時間を使って一度だけ保育園に連れて行っています。いろいろよい点は話されたので、そのとおりだと思います。ふだんはあまり目立たない子が一生所懸命やって、男の子が肩車をしてくれる、サッカーをしてくれるというので大人気になってしまったり、おとなしいんだけれども、その子は割りばし鉄砲ができたために、何十個とつくって、保育園児が一列に並んで彼を待っていたり、ふだんはできないような体験をいろいろしてきて、もう一度行きたいとか、それからこれだったらもっと続けてもいいということを言ってくれるんです。
  あえて問題点をいろいろと申し上げますと、その時間をどうやって編み出すかということで、学校の授業の中で連れて行くということを考えますと、時間割変更などは現実的にとても難しいので、その時間に行くとして、そのクラスが例えば1、2時間目ですと、朝の8時半に保育園側はまだ来ていません。ちょっと時間をつぶして9時ぐらいに伺って、園長先生にいろいろお話をしていただいたり、園の中を見せてもらったりして時間をうまく使いながら、やっと1時間遊んで急いで帰ってくる。また、午後のクラスであると、お昼寝をしているので、それは困りますとの反応もあります。「寝ているところから保育なんですよ」というふうに園長先生がおっしゃって対応してただければありがたいですし、「その日は10分早目に起きてもいいよ」というようなことを言っていただける場合もあるんですが、その辺の園との対応がかなり難しいということがあります。また、一度に行く人数は20人が限度ぐらいなので、400人の学校であれば20回連れて行かなくてはいけないということもあります。
  また、乳幼児の発達、子どもの様子など、子どもたちが自分で見てきたことを使って授業をやっていくので、その余韻でかなり授業を引っ張れるなという感じはあるんですが、その後の継続がやはり問題だと思っております。今、文部省のほうで総合学習のような時間を設けていただいているので、そういうところでという話もいいのではないかと思っております。現実に私たちの学校では保育の時間では一度だけですが、総合学習というのが中3にやはり週に1時間ありまして、後期になると老人ホームに行くコースや、点字を習って目の不自由な方と交流を持つクラス、それから幼稚園児に触れ合うクラス、ほかに環境整備とか、いろいろコースがあるんですが、そのような形でやっていて、それは継続的には行けるんですが、全部は行けない。どれか一つを選ぶということをしております。
  今、少子化に与える影響ということで、かなり幼児に話の中心がいってしまっているんですが、人間というものを理解させるような場面がないといけないと思いますので、人間は幼児から始まって、今自分があって、これから大人になって、いつかは老人になっていく、その全体の中の一過程として少子化をぜひとらえてほしいと思っております。
  話が戻るんですが、その辺の母親の価値観というか、家庭の一般的なスタイルに関してお教えください。

○依田意見発表者  母親が一般的な家庭のスタイル、あるいは自分との違いなんかを比較するときに使っている情報というのは、全部、テレビとか、ラジオとか、雑誌とか、そういう情報なんですよ。そういう情報で尺度をつくって、「違っている、違っている」って騒いでいるんで、やっぱり生きた家庭との接触というのは非常に大事になるんじゃないかという気がいたします。

○  そうした場合は、広く浅くつき合うような関係がかなり大切かなという気がするんです。子育てのために家にこもってしまうというよりは、個人レベルに対応した社会参画ができるような仕組み。退職をしてしまうというのは一線を下がってしまうんですけれども、あと1年したら仕事に戻れるとか、そういうようなつながりですね。それから、最初の1年は半分の時間で子どもと残りの時間を接触させてもらえるとか、そういう形の開かれた考えが……。

○依田意見発表者  そうですね。

○  少し話が戻ってしまうんですけれども、過保護と過剰期待ということに関し、先ほどの依田先生と他の委員の方のお話を聞いておりまして私が感じましたのは、期待を上回るような能力のあるお子さんである場合は非常にうまくいくと思うんですけれども、問題は子どものほうの能力が母親や父親の期待に沿えない場合が今一般だと思うんです。

○依田意見発表者  私もそうです。

○  失礼しました。依田先生もお母様の期待を上回った成果を上げられたと思っておりますが……
○依田意見発表者  いえいえ、とんでもありません。

○  日本の統計をみますと、三〇代後半から五〇代前半まで大学を出た女性のほうが高卒の女性よりも専業主婦になっている率が高いのです。それはなぜかと考えますと、大学を出た女性ほど条件の良い男性を夫することができる、夫の収入が多いから妻は働かなくても済むということではないでしょうか。
  豊かな社会の至上の価値観は「自己実現」と言われています。女性は自己実現というものが頭の隅にありながら専業主婦になるので、葛藤しているのではないかと思います。自分の能力を子育てにかけてしまい、また、自分の評価を高める手段が子どもを良い大学へ行かせて良い企業へ入れることしかない。それが問題です。
  大学の同級生の子どもが今年は東京大学受験なので、話を聞きに行きました。他の同級生たちも子どもを有名な私立高等学校に入れていて、皆受験でたいへんなのだそうです。彼女たちは40代前半くらいで「子どもを東大に入れてしまったら自分にはすることがなくなる。第一の人生が終わった」と言っています。
  文部省は生涯学習に力を入れているということですが、母親が子育て以外に生きがいを見つけるような学習システムをつくっていただきたいと思います。政府は男女共同参画社会を推し進めようとしています。男女の役割分担を超えて、女性にも社会的な責任を負っていただいて、子どもや家族以外のことに興味が持てるような社会を形成するために、文部省も積極的に働いていただきたいと思います。
  昨年10月にウィーンへ視察に行きました。ウィーン市役所は市民が妊娠したときから担当者が決まり、子どもが乳幼児期になってもその担当者が一人一人の家を回って「何か問題はないか」と聞いているのだそうです。今の日本社会は母親が閉ざされた箱の中で一人で育児をしていることが問題なので、相談相手がいることは非常に良いことです。これは厚生省の管轄かもしれませんが、文部省もそのような母親支援システムを考えていけないのでしょうか。

○依田意見発表者  私もいろいろやっております。生涯学習は。例えばオープンカレッジというのがあって、いろいろやっているんだけれども、集まらないですね。私の講義は3回続けてつぶれました。だから、そういうのは提供しても来ないということもあるわけです。

○  私が質問したかったことを、今、他の委員の方がおっしゃっていただいたんですけれども、別の表現でよろしゅうございますでしょうか。たまたま私がおります県の企画部でつくった一番新しいデータを見ますと、平成10年の統計ですけれども、大学・短大等への進学率が、女性が55.4%、男性はそれを下回って49.4%になっているんです。今や大学の中での女性の比率はどの県でも高くなっているし、学部によりましては女性が76%という学部も少なくない。私のおります大学の文学部や外国語学部はそうでありますし、また最近までおりました大学の文学部や教育学部もそうであります。そういう例が示すように、実際上はこれから結婚するという女性の相当部分が大学に行っている。
  そこで、きょうの依田先生のお話のテーマや依田先生の御専攻とは少しずれるかもしれませんが、今後のこの場の議論のために伺っておきたいと思いますのは、少子化というのが、高等教育あるいは大学の場にどういう影響を与えているか。逆に、高等教育あるいは大学の教育で、少子化に対してどういう影響なり問題を提起できるのか。これらの点です。先ほど大学院在学の女性の赤ちゃんへの対応を例として出されましたけれども、もしお気づきの点がありましたらお聞かせいただきたいと思います。

○依田意見発表者  私立大学にとっては、この少子化というのは重大な問題でありまして、これは大学の死活問題で、女子短大は定員と志願者がイコールになったし、4年制大学でもあと何年かすればイコールになると思います。そうすると、生き残りをかけなくちゃいけない。国立から私立へ移りまして感じましたのは、先生たちの学生の面倒見がいいんですね。国立だったら「おまえ自分でやれ」って突っぱねるのが、先生がやってくれちゃっているようなところがあって、そういうのがだんだん学生を、甘やかす方向に行くとするとこれは大変なことになるなという気がしております。

○  結婚とか出産というのは個人の自由ではあるんですけれども、なぜ、結婚や出産をしているかという理由の中で現代人に多いのは、お金がかかるとか、体力的に大変だとか、自分の思うような時間の使い方ができないとか、非常に自我、個人というのが狭く、浅くて、現代人というのは自分を薄っぺらにとらえているんだと思うんです。一昔前は地域社会があったから、この子というのは我が家の子でありながら、地域の子みたいな部分もあったし、それから時間の流れも儒教的生命観で、御先祖様から、そして未来につないでいくんだというような、つまり空間軸と時間軸が非常に大きかったのではないかと思うんです。ただ、それが日本社会の中で、ムラ社会とか、個人を抑圧するような形にも作用していたので、西洋的な近代主義で自己表現、自己実現という言葉に変わってしまって、それと同時に深さもなくしてしまったのが今ではないかと思うんです。
  体験学習とか、異世代交流を通して、人々は少しずつ空間軸とか、時間軸を大きくしていくことができると思うんですが、それは例えば自分が子どもを産まなくても、例えばマザー・テレサなんていうのはものすごくたくさんの人の命を育てて、そういう意味では、生殖作業を彼女はものすごいパワーでやったんではないかと思うんです。時間感覚と空間感覚が限りなく狭く狭くなっていく中で、自分の子どもなんか産まなくていい、あるいはどの子も我が子と思えないという中で、どんどん砂粒のようにみんながサラサラになって連帯感を持てなくなっていったという感じもするんです。発達心理学者として、時間感覚、空間感覚を広くするようなプログラム、空き教室を使っての交流もその一つなんだと思うんですが、カリキュラムとか、地域プログラムの中ではどういうような提言がございますでしょうか。

○依田意見発表者  大変難しいお話しですが、もう少し身近なレベルで言いますと、今の若い女性は物質的に非常に豊かに暮らしているんです。そのために、結婚すれば今の生活レベルが下がるんですね。だからしないというのがかなりおります。ですから、「惚れる」という言葉が今や死語になったと思っているんです。つまり、惚れたら一緒に暮らしたいから、四畳半一間で共同便所で、共同炊事場でも暮らしたかった。そういう気持ちは今の若い女性は持っていないのではないか。だから、“神田川”の世界なんていうのははるかかなた、はるか時間のずうっと昔になってしまったような気がします。

○河合座長  まだいろいろあると思いますが、先生のおかげで議論が活発になりまして、どうもありがとうございました。
  それでは、依田先生のお話と質疑はこれまでにさせていただきまして、これからもう少し自由討議を続けたいと思います。これまでも自由討議的にいろいろお話が出ておりましたが、どうしても教育のことというと、話がどこまで広がるかわからないところがあるんですが、少子化というところに少し焦点を当てて考えてくださいますようにお願いいたします。
  先ほど、少子化ということが大学教育にまで影響しているということも出てきましたですね。どなたかございませんか。

○  2度目の発言で申しわけありませんが、今お話を伺って、私の意見を述べたいと思います。
  いろいろな問題がありまして、先ほど私は質問でも申しましたが、少子化の結果なのか、時代社会の変化の結果なのか。伺っていますと、もう一つ核家族の結果なのかという問題もあるのではないかと思います。私自身は子どものとき4人兄弟で、父母がいて、祖父と祖母がいて、つまり夜になると8人の人がいっしょにいたわけです。今、そういう家族が非常に少ないか、2世帯住宅で上と下に住んでいるというのはまだましのほうで、離れて住みたがるということもある。少子化の問題と核家族の問題とどれがどれだかはっきり言えないのですが、しかし絡まっているような気がいたします。ですから、その問題を一つ押さえて、多少触れるのもやむを得ないと思います。この核家族問題、時代社会の変化の問題。
  もう一つは、この前の会議で会長が、教育について価値観を考えろということをおっしゃったわけです。私はあれ以来考えたわけですけれども、教育というのは価値を教えるので、物事を暗記させるのでないということをおっしゃったような気がする。私、考えてみまして、先ほど他の委員の方が過保護に育ったとおっしゃいました。私も実は4人兄弟の長男で、幼いときから親の相談に乗ったわけですね、こと家庭に関しては。ただ、そういうことを考えますと、過保護だったというのが弱みもつくったと思いますけれども、長所もあったような気がするんで、考えさせられた。
  さらにもう少し先へいきますと、私、たまたまヨーロッパ人が日本へ来て、戦国時代から鎖国時代に日本人をどう見ていたかということを今調べておりますが、それをちょっと御紹介いたしますと、例えばフランシスコ・ザビエル、あるいはそのころの人が日本に来て、「日本人は子どもをかわいがる」と言っているんです。なるほどザビエルはバスクの人ですけれども、ポルトガル人の宣教師なんか、「我が国では子どもをむちでひっぱたくのに、日本の父親、母親は手でもなぐらない」と言っているくらい。ですから、これを過保護と仮に言うならば、甘やかしという言うならば、戦国時代から400年続いているわけなので、いいか悪いかは別として、今始まったわけではないです。
  しかし、もう一つ、この宣教師たちが言っていることは、日本人は名誉を重んじる。そして、非常に貧しいと言うんです。しかし、貧しいことは恥辱でないと言っています。これが失われたんではないかという気が、私は価値観としてあるんですね。現在の社会では、みずからの名誉を重んじない、あるいは名誉とお金と地位というのは争って目の色を変えて奪い合うことで、ますます人間が醜くなってしまった。もう一つは、貧しいことが何か恥ずかしいみたいで、金銭万能になってきた。どうもそういうような気がする。
  貧しくても学ぶということですね。昔は侍がそうだったので。侍は非常に貧しかったわけですね。貧しいけれども、書を読み文をよくしたということは、きちんと家庭でもやったし、寺子屋でもやっていた。こういうことを少し教育で、少子化になったときに、手がかかるならどういうことに手をかけるのかというときに、価値観として親は考えてほしいということを言うべきではないかと思います。
  最後に、自主・独立というものをどう立てるかというときに、過保護だから自主・独立ができないという面が確かに一方あるんですが、子どもに対する姿勢がアメリカあるいはヨーロッパと日本とは違って、これは前の答申のときに私は一度申し上げたんですが、ヨーロッパの人というのは、世の中の波風は荒いから、早く波風に当ててしまえという考え。日本の場合は、世の中の波風は荒いから、なるべく長く子どもを保護してやろうという考えで、子どもの育て方が違います。私の場合を考えますと、昔の人は早く大人になったような気がする。というのは、早くから大人になることを仕込まれていたような気がする。なぜかというと、高学歴時代でありませんから、早くから働き出しますから。それが一つあるので、この問題、少子化が高学歴時代を生んで、その結果がどうなったかということを考えたほうがいいと思います。結論がないんですけれども、そういうことを考えました。

○  少子化で子どもの数が少ないということで、異年齢集団がないというお話が先ほど来出ておりますが、今、文部省の関係しているところで異年齢集団が形成されているのは、学童保育が一つ大きいのではないかと思います。3年生くらいまでで定員いっぱいになって、中には4年生まで入っているところもありますが、先生ではない、2人ほどの大人の方が入りますが、異年齢が狭い児童館や学校の校庭などを使って、割と生き生きとそれほど大人の手が入らないで、仲良く、あるいはけんかをしながら遊べているのが学童保育だと思うので、学童保育の組織の運用の仕方を考えるというのが、一つ既存の組織を利用してということにつながるかと思います。
  同じように低年齢に関しては保育園が、文部省ではありませんが、あると思いますが、同じように乳幼児に関して幼稚園が文部省の管轄でありますけれども、保育園の保育の仕方と異なりまして、どこか学校の教室を思わせるような、先生が前に座って、子どもたちがいすに座って、同じ画用紙を与えられて絵を描くというような  ―最近はいろいろ研究している園が多いですが  ―まだまだそういう園が多いです。親のほうからの要望もあって、預かり保育ということで、夕方の4時ぐらいまでさらに保育時間を延長していますが、中身は外から先生を連れてきて体操をしたりとかいうことで、保育園で行われているような異年齢集団で自由に経験を深めていくというものとはまたちょっと違う、大人がある程度管理した中でやっていくという、学校での授業のような形が多く行われているかなということで、小学校に入ったときに、保育園から来たお子さんと幼稚園から上がってきたお子さんで、それまでの経験が随分違うのではないかと思っています。
  それから、話が変わりますが、私の知っているある専門学校の話をしますと、専門学校に来る学生さんは、学校教育の中で、大学・短大に行かずに専門学校に来てる。もうちょっと積極的に専門学校を選んでいる方もいらっしゃいますが、割と学校の教室で目立たないようなところにいた方が多くて、その方たちと一緒にいると感じるんですが、何かを話そうとするとき、周りをよく見るんです。自分が話すことがほかの人に受け入れられるだろうかということをとても気になさります。先ほど子育ても周りのお母さんがとても気になるというお話もありましたが、これは学校教育の中で自然に周りを見るということが身についてきたのかなという気がするんですが、正解が一つあって、先生の要求している答えを学生が出していくという教育はちょっと限界にきているのではないか。
  今、いろいろ変わっていると思いますが、子どもが減ってきているのですから、1学級の定員を減らして、先生が前に立って、子どもたちが先生に向かって座るという形ではない、先ほど来、出ている体験学習なりグループ学習なりがもっともっとたくさん入ってくると、自分は自分であっていいんだという経験がたくさんできるのではないかと思います。日本の教育だと先生の負担が大きいという話が出ていますが、一つの学級で幾つかのグループをつくって、それぞれに何人かの先生がつくほうがきめ細やかな対応ができますし、先生になりたい方も多いわけですから、そうすることで、学生さん一人一人が尊重された感じをそれぞれ持ちやすくなると思います。
  イギリスの小学校を見学に行ったことがありますが、イギリスは5歳から小学校へ入りますが、5歳児クラスには保母さんも入っていました。日本の1年生もまだお漏らしをしたりという状態のお子さんもおりますから、一人の生徒に先生がとられるとクラスのほうが大変になってしまうということもありますので、複数の先生が入っていくのも一つの手ではないかと思います。
  あまり勉強が得意でなかった学生さんたちの話を聞きますと、何が嫌だったって、先生がわからない自分のところに来て教えるのが、すごく嫌だったという方が割といます。先生はわからない子に合わせて教えようとしてくださったみたいなんですが、それは割と自尊心を傷つけているということがあって、理解度別のグループをつくって、そこの中で何でもわかる子が偉い子だという輪切りの価値観ではなくて、理科が得意な人もいれば国語が得意な人もいるという価値観を大人が持てれば、理解度別のグループをつくって、きめ細かな指導をすることも可能ではないか。そうすることで、依田先生がいらっしゃいますが、発達心理学などでも効力感、自分で何かをやれるという感覚、自己効力感を持てるということが、自分自身で何かをやっていくという原動力になるのではないか。それで子育てに対してもだんだん自信を持って向かえる方が増えていくのではないかと思います。

○  私が勤めているところは生涯学習センターと女性センターと芸術文化センター、それから環境学習の機能を備えているそういう施設です。電話相談のコーナーということで相談室を設けておりまして、極端な例ですけれども、「青いおしっこ事件」というのがございました。「私の子どもはまだ青いおしっこをしないんだけれども、いつになったらするんでしょうか」と、若い母親からの質問なんです。おむつのコマーシャルで、青い水を流しているのを見た母親がそう思った。「大変な時代なんだな」ということを思いました。
  学校教育の現場では、まだ家庭訪問が行われていますけれども、一人で行けないので、お母さんについてもらって家庭訪問をする教師があらわれたということもございます。これは大学の学生の報告ですけれども、教育学部の先生からのお話です。
  遊びが幼稚で、ババ抜きなんかが大好きだ。ババが手元にくると、男の子はすぐ見破られてしまう。女の子に「あなた、ババがきたでしょう」と言われる。「どうして?」って聞くと、「あなた、頬がけいれんしたもん」と言う。そのぐらいの様子なんですね。
  実は私が住んでいる県というのは80市町村ございまして、21世紀の行政課題として快適さをどう実現できるかということを競い合っている時代だと思うんですが、住んでいいまち、訪ねていいまちのポイントとなるところは、外観というよりも、人と人とのかかわり合いといいましょうか、コミュニティの形成なわけです。いろんな事業で、遊び心豊かにそういうものを形成できたまちが、住んでみたいなというまちになっていくんだと思いますが、行政として一番苦しんでいるのは、人と人とのかかわりをつくっていくというところで苦しんでいるわけです。見る人は見てくれるけれども、向かない人は全然こっちを向いてくれないということがございます。
  先ほどの依田先生の話にもございましたけれども、すごく身近なところに人が集う場所を用意することが必要だな、学校の余裕教室もいいだろう。あるいは、あるまちはお年寄りのために憩いの湯を整備したんですが、お年寄りは朝からお弁当、お酒を持って来るんですけれども、もっとよかったことは、幼稚園なり子どもを送り出した若い母親たちが集まってきて、情報交換の場になっている。そういうものも必要だろう。学校の余裕教室がボランティアセンターみたいな機能を持って、人がどんどん交流できる場になっていくことが、少子化に伴ういろいろな教育課題が発生することに対して有効な策を講じていくことにつながっていくのではないかということを考えます。

○  少子化という問題とここの場所が文部省ということと重ね合わせて考えてみたいと思うんですけれども、どうして少子化というふうな風潮が高まってくるかという中に、先ほどの依田先生のお話の中にもありましたが、3人兄弟がほぼ2人兄弟に減っているという数の減少以外に、女性が結婚をしたがらなくなった、こういった風潮がかなり大きく響いているのではないか。これは通説になっておりますけれども。
  女性がなぜ結婚したがらなくなったのかと考えますと、例えば結婚するに当たってはメリット、デメリットといろいろ頭の中に思い浮かべると思います。昔のように女性が結婚するしかないという選択しか残されていない場合は、こういったメリットとかデメリットは浮かばなかったと思うんですけれども、女性がいろいろと自立してきて、結婚しなくても生活できるという選択肢が出てきますと、やっぱりメリットとデメリットを思い浮かべるでしょう。その中で、メリットよりもデメリットのほうがはるかに多かったとしたら、これは女性は結婚したがらないのは当然のことだと思います。
  要するに、男が結婚するときに、おれと結婚したらこんなにすばらしいぞというメリットをドンと提示できるかどうかというのは、ものすごく大きなことだと思う。ですから、学校教育の場で、きちっと女性にメリットを提示できるような男をどうやって育て上げるか、大きなテーマだと思うんです。
  デメリットだけもたらす男というのはどういう男かといいますと、やっぱりこれは過保護ということと関係してくると思う。母親が「さあ、何々ちゃん、お夜食ができましたよ」っていう感じでずうっと育て上げてきてしまう。さあ、結婚しました。子どもが生まれました。「私も仕事を持つから、あなたも手伝って」と言われたときに、頭ではわかっていても、そうやって育てられてしまうと、ただ妻の負担になるだけの夫になってしまうわけです。そうすると、妻は子どもの面倒は見なくちゃいけない、夫の面倒も見なくちゃいけない、それに加えて夫の両親の面倒も見なくちゃいけないということになると、人生これでほかに過ごしようがなくなっちゃうわけです。この状態は絶対に私はよくないと思います。
  じゃ、どうすればいいのか。私自身は妻が高等学校の先生をやっていたおかげで、これは本当におかげなんですけれども、子育てに参加することができて、非常にラッキーだったと思っているんです。いいことをいろいろ発見できた。小説を書くテーマなんかも発見できたし、非常にいい勉強になった。これは妻が働いていたおかげなんです。
  具体的に、ではどうすればいいのか。これまでの過保護も解決する、いろんな問題も解決する、一番いい方法は、私は簡単だと思う。なるべく女性に外で働いてもらうということ。そのためには、どうするのか。女性が外で働けるような環境をきちっと整備すること。これは具体的に提示できると思うんです。そうしますと、結局、女性は子どものため、夫のため、あるいは夫の両親のために血眼になって無償の労働をするのではなくて、自分がちゃんと生きている実感を得る仕事に就き、子どもに余計なエネルギーを  ―かわいがることは大事ですけれども、余計なエネルギーは注がないほうが私はいいと思います。これは子どもにとって負担になりますから。女性もきちっと経済的に自立してもらいます。そうすると、男にとって非常にトレーニングの場が多くなる。女性が自立してくれると、男はいつ捨てられるかわからないわけですから、いつでも男は男の魅力を高めなくちゃいけない。
  日本の社会というのは伝統的に母性社会だと思っています。男がトレーニングする場というものが昔から非常に奪われてきた母性社会です。この中では、自立できている男というのは非常に少なくなっちゃうんです。ですから、女性が外でなるべく働いてもらいたいという中にあるのは、そのことによって男が常に女性から捨てられないように自分自身を高める、こういったチャンスを生む社会でもあると思うんです。
  少子化と、どのような男を育てたら楽しい男ができるかということを話してみたんですけれども、こんなことも私は小説のテーマとして書いておりますので、興味のある方はどうぞ。

○  核家族で家庭の懐が薄くなった分、地域の懐を家族のように考えて、いろんなところでたまり場とか、交流ができる場所をつくるのが大事だと思います。さっき学童保育の例が出ましたが、私の住んでいるところについていいますと、小学校の子どもが2万8,000人います。学童に入っている子が2,000人ぐらいで、これで予算が10数億円使われているんです。今、小学校のお母さんの半分以上が働いているんです。そうしますと、コストと人数を考えると、とても見合わないプログラムになっているのではないかと思います。
  そこで、「BOP(ボップ)」といって、「ベース・オブ・プレーイング」といいまして、1年生から6年生まで、それは働いている親の子どもであろうが、専業主婦の子どもであろうが、すべての子が放課後、自由に夕方まで遊べるようなプログラムにしたんです。そうしましたら、2万人ぐらいの子どもたちが3億円の予算て自由に遊べているんです。うちの子たちは非常に楽しく遊ばせてもらいました。
  放課後ですから、学校は引いて、地域のおじちゃんとか、おばちゃんとか、あるいは地域の専門学校が「私のところへいらっしゃい」と言ってくれたり、地域のお寺さんが「じゃ命の話をしてやるから、来い」と言ってくれたり、おばあちゃんが「お茶のおてまえしてあげるからうちにいらっしゃい」って呼んでくれたり、地域の人がいろいろなプログラムを手を挙げてやっているんです。そういう形の、コスト少なく、しかも一人一人が個性を見せながら、楽しくというプログラムをこれからやっていく必要があるのではないかと思います。
  私、小学校でPTAの会長をやったときに、「日本のPTAとかけて何と解く」「破れたブラジャーと解く」と友達が言うから、「その心は」と言ったら、「たまにチチが出る」と。日本のPTAはお父さんが出てこない。「じゃあ、おやじの会をつくろう」というので、世田谷区でいっぱいPTAのおやじの会をつくりまして、校庭でキャンプを張ったりとかですね。お父さんも先ほどの他の委員の方のようにふだんやっていらっしゃる方はいいんですが、そういう場所をつくってやると、「オオーッ」てわかってくるんです。まずいろんな場所を、それも一つじゃなくて、いろんなプログラムを各所いろいろつくっていくことが大事なのではないかと思います。
  そこでネックになるのが、ここは文部省だから言うんですが、学校の先生たちなんですよね。BOPをつくるときにも冷ややかな先生がおられる。「放課後まで子どもにいられたら嫌だ」「事故が起きたらどうするんだ」みたいなですね。体験学習でも「いや、大変だ」とか、地域に開いて学校協議会をつくろうと言っても、後ろ向きの反応をする人もいないわけじゃない。自分たちがクローズドな空間でやっていきたいという、その意識をどうやって変えていくかというのを、答申をつくるときにまず第1に強調していただきたいと思います。

○河合座長  ありがとうございました。
  教育のことは、話がどんどん広がりますが、少子化ということになってくるとまた難しいところがあるように思いますね。
  それでは、本日の会議を終了します。
  次は2月5日、金曜日、13時からですが、今度はゴールドスタールーム、35階ですので、間違われないようにしてください。ヒアリングなどを踏まえ討議を行う予定としておりますので、よろしくお願いいたします。
  どうもきょうはありがとうございました。


※1  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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