○ |
部会長 資料1の1つ目の○に、審議していただきたい4点を整理した。そのうち、 宗教に関する寛容の態度の育成については、憲法20条との関連でこの書き方でよいか、 宗教に関する知識の教育については、従来の条文にはないが、どう書き込んでいくか、また、宗教の社会生活における意義を理解させる教育についてどうするか、 宗教的情操の涵養について、現行法には明示的にはないものの意味としてはその意味を持っていると思うが、それをどのような表現で答申に盛り込むか、が主な論点である。「宗教に関する寛容の態度」については、これに代えて日本語4〜5文字程度で表せるよい言葉はないだろうか。
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○ |
「宗教に関する寛容の態度」は、現行法では許し、容認するという意味と思うが、もう少し前向きな表現、すなわち「宗教の持つ意義、宗教を大事にする気持ち」といったものがあってよいのではないか。憲法20条があるので「無信教の自由」も尊重しなければならないが、世界では多くの人が多様な宗教的な考えを持っており、宗教の持つ意義を理解することは大事である。
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○ |
部会長 資料1の○に続く数行の文章は、中間報告から引いた文章、あるいは最終答申に近いものと考えてよいか。
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○ |
事務局 ○以下の数行は、これまでの中教審における委員の意見、ヒアリングでの意見、制定時の趣旨についての資料等を踏まえて整理したもの。答申に向けてここで議論いただきたい。
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○ |
部会長 資料1の○に続く「…についてどう考えるか」につながる文章について、抜本的な推敲が必要なところがあれば、今日この場で意見を述べてほしい。
私見では、3つ目の○はもう少し踏み込んでいいと思う。1つ目の・は、「グローバル化を背景に」は削除して「日本では国教がなく」とするとともに、「厚い宗教心を持つ国民の割合が低いと言われるが、緊密化・複雑化する国際関係の中で」とし、「異文化理解は不可欠」ということや「日本や世界の宗教についての様々な教義を理解することが必要」といったことを言うべき。
2つ目の・は、「特定の教義を論拠として(過激な)違法な行為など公共の福祉に反する行為を行う教義集団から自分自身と(家族や)社会を守るために、・・・」とするのはどうか。
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○ |
全体として今ある条文をパラフレーズして具体化しようということか。また、この資料にある内容がいずれ答申として現れるという趣旨か。
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○ |
部会長 その趣旨である。
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○ |
宗教に関する寛容の態度について、日本は、信仰を持つ者への寛容が少ない社会だと思う。宗教についての正しい知識と理解を教えることが、寛容の態度を養うことの前提でないといけない。教員の中には、無信教であることをもって信仰を持つ人に対して優越的な態度をとるということがあるが、これは寛容さがないことである。日本では、同一人が七五三を祝い、キリスト教式結婚をし、仏教的な葬式をすることに何ら負い目は感じないが、特定の宗教から見ればこれは不条理なことであるように、この裏返しとしての寛容さは大事。要するに、宗教への寛容と正しい知識の尊重が大事。現行9条第1項は担保されるべきである。
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○ |
部会長 宗教に対する寛容の態度は必要ということか。冒頭に、自分はそれについて「よい表現がないか」と言ったわけだが、確かにその趣旨は必要だと思う。
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○ |
書いてある内容はよいと思うが、現行9条は、信じないことについては尊重されているようには思えない。「個人の宗教観に対する寛容の態度」という表現の方が明確である。
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○ |
日本人には、宗教心が希薄だったりない人が多い。それを今更、基本法で「宗教心を持て」とは言えない。今までの伝統を受け継いでいくという意味で、個人個人の宗教に対する考え方を尊重するしかない。そういう意味で、「寛容」はいちばんよい言葉。「個人の寛容」か「社会全体の寛容」かという議論はあるだろうが、宗教に対して自由な態度を持つということで個の存在は強調してよいと思う。漠と書いて、それぞれで解釈するやり方もあるが。
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○ |
宗教は1つの実践哲学だが、宗教観は考え方であり、両者は異なる。
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○ |
教育の中のことなのだから、「宗教観」の方が明確ではないか。また、むしろ9条2項をどうするかの方が問題。
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○ |
「宗教に関する寛容の態度」を他に変えるのは難しい。憲法20条の信教の自由の尊重があって「寛容」が出てきていると思う。「他人の宗教や宗教観を尊重する」と書いていないのは、そうすることによって相手を規定することになるのを恐れてだと思う。「寛容」に何を込めているか、これにどんな言葉を使うかは、この言葉についてだけ議論をすると難しいところ。教育の世界では教える教師の限界があるとともに、国公立学校では制約があり、「宗教に関する知識」と「教義」の境目が難しい。公教育においてどこまで宗教について触れてよいかをまず議論し、その後に「寛容の態度」について議論した方がよいのではないか。
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○ |
部会長 憲法20条の解釈は、実際の場面では難しい問題を提起する。墓は何らかの宗教に基づくので、例えば、国葬では、墓に入る直前まで無宗教で行い、入る直前にその人個人の宗教に基づく葬儀を国葬ではなく行う。同様に、教育の場面でもいろいろな問題が出てくると思う。その意味で、先ほどの委員の意見のように、先に次の項目(○)を固めた方が議論しやすいかもしれない。「日本には国教がなく、厚い宗教心を持つ人も比較的少ないが、世界は一層緊密になっており、国際社会の中で異文化理解は重要であり、日本と世界の宗教についての深い理解と教養が大事」ということに踏み切っておくと、いろいろな問題を考えやすいのではないか。
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○ |
「教養」がどこまでを指すのかは難しいが、世界情勢を考えると、宗教が引き起こす紛争に日本も巻き込まれており、国民としてどのような位置付けで考えるかの第一歩として、宗教の中身を知らないといけないという意味で、部会長に賛成する。
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○ |
賛成である。宗教に関する知識の検討が必要。宗教に対する偏見を持たずに広く知識を持つことが大事であり、その際、発達段階に応じることが大事。善・悪、正・邪、利・害などはある程度判断力が働かないと「教化」(あるひとつのものがよい)になってしまうため、どれをとるかを判断できる段階で教えるという配慮が必要。それを背景に置きつつ、宗教に対する知識を深く、幅広く持つことが大事であり、それがあっての寛容である。そういった「知識」について触れてもよい。
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○ |
部会長 「教化」は大久保利通、「教育」は森有礼、「心の中に引き出す何か(能力開発)」は福澤諭吉が言った言葉だが、今の議論はこのうち3つ目に近い。すなわち、引き出してやって、あとは自分で考えることである。
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○ |
「教化」は、江戸時代には「教化」(きょうげ)として使ってきたが、確かに引き出して自分で考えさせるという点は大事。
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○ |
オルテガは、教育の役割として、 文化の伝達、 専門的教育、 科学研究と若い科学者の養成、を挙げたが、その「文化の伝達」の中で宗教が大きな要素を占めている。日本の学校教育が文化の伝達を重視するのであれば、文化の中に宗教もあることを学校教育の中で教えなければいけない。レヴィ・ストロースの「文化」の定義でも、「宗教的信条」が重きを置かれている。宗教を「寛容」という形で取り上げることも大事だが、文化の中で宗教が重みを持っているということをまず伝えなければならない。教育基本法の制定時には、国家神道があったために、その部分で腰が退けていたのではないか。それで「寛容」が前面に出ているが、「ごちそうさま」と手を合わせることなど、宗教から出て文化を形成しているものはたくさんある。宗教について、「寛容」や「社会的役割」にとどまらず、文化の伝達の重要な要素を占めることをこの文章の中に入れておくべき。押しつけはいけないが、さきほど委員が「もう少し前向きに規定すべき」と言ったのはその趣旨だと思う。
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○ |
部会長 その趣旨を圧縮してどこに入れるかだが、2つ目の論点の「宗教に関する知識、…」のところに入れるのだろう。下段の下から2番目の○を「日本と世界の様々な宗教及び社会(または、宗教及び文化)についての教養が求められる」とでもして入れられないか。
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○ |
それぞれもっともな意見だが、国際社会の中で宗教は民族的なアイデンティティと一緒になって出てきているもの。先ほどの話のように日本のセレモニーとしての宗教はおかしい面もあるが、そのいいかげんなところが日本のある種の伝統を作っている。日本の社会の底辺には儒教があるが、儒教はethics(徳目)であり、同時に他に対して寛容であって他の宗教と共存できる。日本人に宗教心がないことを一概に否定して、もっと宗教的信仰心を持つように強調してみても、日本の伝統・文化と乖離してしまう。その点はもっと議論が必要。イスラム世界やイラクなどを理解するためには異文化理解としての宗教理解が大切だが、今している議論は、日本の伝統・文化とは何かに踏み込まざるを得ない難しい問題である。
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○ |
部会長 資料1の3つ目の○の2つ目の・で、先ほど1つの例として、「特定の教義を論拠として(過激な)違法な行為など公共の福祉に反する行為を行う…」という修文を出したが、どうか。また、「疑似宗教団体」という言葉を維持するか、「教義集団」という言葉に変えるか。また、「身を守る」のは自分自身の身だけではなく、家族や社会も含めるべきではないか。
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○ |
一日中教審の福岡か京都の会場で、「食事後に手を合わせるよう指導したら他の教員に批判されたがどう思うか」との意見があり、私は、ありがたい時に手を合わせるのは当たり前で、それはおかしいと答えた。同時に、この問題は中教審でもしっかり議論しないといけないと言ってきたので、今日議論できてよかった。
カルト集団についてだが、ある論者は、例えばヨガや仏教なども含め、身体を動かし、エロスと結びついたところに宗教の根源があると言われる。中国で問題の法輪功も、身体鍛錬法である気功集団にある種の解釈が加わったもので、これをカルト・疑似宗教集団と言えるのか難しい。この団体を抑える側からは批判するが、法輪功の側からすれば、精神と身体の結びついた一つの新しい社会集団であるとの位置付けであり、国際的にも難しい問題である。
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○ |
部会長 歴史を遡って、特定の宗教が貧困、圧政などから逃れることを祈りや活動の対象としていたり、時代と共に宗教の性格が変わってしまったということを言い出したらきりがないので、すべて包み込んだ言葉にしないといけない。そういう意味で、「違法な行為など」には説明が必要であって、「特定の教義を論拠として、その行動が過激であり、公共の福祉に反するもの」(「繰り返して」はなくてもよい)、とし、「疑似宗教団体」を「教義団体」、「身を守る」を「自分自身と社会を守る」とするあたりがポイント。
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○ |
疑似宗教団体というと、また論争・憲法上の問題になる。冒頭部分は生かして、広義の「違法な行為や公共の福祉に反すること」に対して知識を持つことと、奇跡体験に簡単に引っかからない耐性を作ることを、幅広い学習の中で行っていくということが大事。宗教教育の中に閉じこめて教えるわけにはいかないのではないか。特に奇跡体験は今後増えると思われるので、そのことについて一言触れた方がよいのではないか。
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○ |
資料1の趣旨は理解するが、「違法な行為」は、法律上の判断であり、宗教団体が真か偽かは別の判断基準が必要。戦前の内務省は「本物の宗教団体」と「そうでないもの」の区別をしていたが、それが正しかったか否かはいろいろな意見がある。「宗教に関する正しい知識」も、誰が「正しい」と判断するのか。宗教とは何か、イスラム教、仏教とは何かでも諸説があり、だからこそいろいろな宗派に分かれている。簡単には判定できない問題であり、「正しい」は不要。宗教団体に対する判定は、知識を教えた上で各人に判断させるしかないと思う。
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○ |
宗教は基本的には家庭や個人に属するもので、家庭において教えられるべきもの。したがって、法律に規定するに当たっては慎重である必要がある。有識者として意見を述べた京都大学の上田名誉教授も、宗教には危険性があると語った。事実、宗教対立の中で戦争が起きており、我々はこのことに目をつぶれない。日本においては宗教対立はなかったといわれているが、見方によっては、日本の社会は、それと異なる信仰を持つ者にとってはある種の生きにくさが存在する社会である。また、危険性を持ったカルト集団で「宗教集団」として存在するものもある。第9条第2項を積極的に変えなければならない必然性は真剣に考えなければならない。御意見のように、日本ではある種の宗教的状況の中に生活がされているが、その宗教とは全く違う信仰を持つ人間にとっては、非常に生きにくい社会でもある。例えば、もはや習慣化した仏教儀式・儀礼を行わない人間が異端視されることもありうる。そのような状況も考えながら、一定の信仰を持つ者への寛容を考える必要があるが、宗教への寛容というのは個人的なものであるし、基本的に家庭において培われるべきものである。
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○ |
建物を建てる際に、建設会社は必ず地鎮祭を挙行するが、本当に熱心なキリスト教者はこれに同席しない。このような側面を持つ宗教は文化と大きな関わりを持っており、それを個人のレベルにまで還元することは困難である。例えば韓国では教会が増えているが、それは教会コミュニティに属することが成功への道であるという認識からである。宗教観という言葉を使うと、それが個人にとっての宗教観か社会にとってのそれかが不明瞭になるので、広く「宗教に関する寛容」という従来の表現を使うのがよい。商法改正の時に「総会屋」については、こういう行為があったら総会屋である、という定義をした。宗教に関しても「宗教に関する寛容の態度」と一般的に言っておいて、その次の「宗教に関する知識」のところで「疑似宗教団体」などを固めていくのが正しい定義の仕方ではないか。宗教に関しては、まず広やかにとっておいて、その後で具体的な詰めをするしかないとすると、資料1で挙げられている論点はよくできている。
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○ |
部会長 資料1の下から2番目の○の最後の・(下から3行目と4行目)については、上に書いてあることと重複しているようにも思えるが、最終答申ではどうするか。
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○ |
いちばん重要なのは「教養」について。「異文化」というときの「文化」を広くとれば、ここに多くのことが包含される。それを正しく教えれば、宗教に対する寛容の態度というのも当然出てくるし、「疑似宗教団体」等の問題もクリアになるのではないか。また、3つ目の・についてもカバーできるのではないか。そういう意味では、資料1の1頁3つ目の○の最初の・の部分をしっかり書き込んではどうかと考える。
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○ |
ある宗教団体の行為が違法かどうかは社会体制によって判断が異なる。2つ目の・は削除し、3つ目の・の表現を生かしてはどうか。一番下の・の2行の方がすっきりしている。
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○ |
3つ目の・について、「意義」ではなく「意味」を理解させると言った方がいいのではないか。「意義」には積極的な肯定のイメージがある。教育基本法の立場からは、どの宗教が正しく、どれがそうでないかを語るのは避けるべきだ。
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○ |
最初の・と3つ目の・を一緒に書くのはどうか。日本人は、宗教が歴史上、また現在においてどれだけ重要な意味を持っているか理解していない。
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○ |
部会長 「国際関係が緊密かつ複雑化する現代にあって、グローバル化を背景に、国教がなく、国民の多くが宗教に無関心といわれる我が国において、宗教に根ざす文化を持つ異文化理解の観点から、日本と世界の様々な宗教についての知識の教育と、それを踏まえて宗教が社会生活において持つ意味を理解する教育を行う」という修文はどうだろうか。
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○ |
教育基本法第9条が第1項・第2項だけでは不十分という認識に立つならば、法にどのように規定するかは今後の議論として、3つ目の・の内容を前に出すべきだと思う。核となる部分は「寛容」と「自由」として今の教育基本法・憲法の精神を生かし、あとは範囲を狭めるという書き方がやりやすいのではないか。
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○ |
総論的表現と各論的表現が入り交じっている。ここは基本的に総論的事項を扱う部分だが、2つ目の・は各論的な事項についてはっきりと書きすぎている。自分も、最初の・と3つ目の・で十分だと思う。
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○ |
部会長 2番目の・の取扱いについてはお預かりして検討したい。次に、宗教的情操についてご意見を賜りたい。
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○ |
事務局 「宗教的情操」という用語は、現行憲法や教育基本法には登場しない。教育基本法の起草段階で議論されていたものの、条文からは落とされている。一方で、一日中教審などの過程で、宗教的情操を一般的宗教心と捉え、これを教育上重視せよとする意見もあった。
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○ |
部会長 資料1の2頁の2行目には、難しいことが書いてある。ヒアリングで、現行の9条第2項は「宗派教育」という文言にすべきという意見があった。しかし、「宗派教育」という用語も実は多義的である。これが「特定の宗教に関する教義の教育」ということなら、憲法との整合性が取れなくなるおそれがある。そういうことを考えた上で、「宗教的情操の涵養」という言葉を答申に入れてよいか。
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○ |
「宗教的情操の涵養」について、一般的に各宗教を貫くものとして使えるなら有力な概念であるが、むしろ基本法第9条第2項との関係が気にかかる。今後、法人化された国立大学と私学との違いが小さくなることが予想される。そのとき、ある国立大学が「宗教的情操の涵養」を盾として一定の宗教を看板にした教育を行ってしまっても、国立大学がそういう教育を行ってはいけないということについてディフェンスしにくくなる。「宗教的情操」という用語の定義をしっかりしておかないと、基本法第9条第2項に響いてくる可能性があるという問題意識を持つべきである。
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○ |
部会長 宗教団体が大学に所有物を寄付するといったときに、現行法下では、国公立大学では大学博物館を作って保管することができない。
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そういうことを可能にしてもよい、という議論が起こる余地があるという意識を持つべきである。
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学習指導要領には音楽や美術の項に「豊かな情操」を養うことが目標として掲げられているが、「情操教育」一般については教育基本法で何も触れられていない。その一方で宗教的情操についてのみ新たに教育基本法に書き込むのは、バランスを失する。
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○ |
部会長 さきほど委員が学習指導要領から「宗教的情操教育」としてイメージしているものは、例えば、賛美歌ではないがそれに近いものではないか。ここで考えている「宗教的情操の涵養」とは、宗教の存在そのものを許せるかどうか、ということ。それは学習指導要領には書いてはいないと思う。
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○ |
教育の1つの目標として豊かな情操を養うということはあると思うが、その一般的情操が教育基本法に書かれていないのに、宗教的情操教育だけ書くのはいかがなものか。
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辞書では、情操とは「感情のうち、道徳的、芸術的、宗教的など、文化的・社会的価値を具えた複雑で高次なもの」とされている。「情操」という言葉の中に宗教的なものが含まれている。
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道徳の学習指導要領には「自然や崇高なものへの関わり」「畏敬の念」についての記述があるが、これらについてはむしろ道徳教育として触れるべきものではないか。教育基本法には、道徳については触れられていない。儀礼の中には、道徳律として機能してきたものもある。
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部会長 今の議論には、 現行基本法には情操教育についての規定がないがどうするか、 宗教に関する宗教的情操の提案をどう扱うか、の2つの問題がある。
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情操の中には宗教的なものも美的価値観も含まれるので、宗教と情操を切り離して書き込むことも可能であるのではないか。
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○ |
法律的な見方をすれば、「宗教的情操教育はやりなさい、しかし特定宗派のための教育はやってはいけない」という旨を法律に書き込むことは可能である。しかし、例えばバッハの音楽がキリスト教文化と完全に切り離せないということを考えると、1つ1つの芸術が宗派教育なのかどうかの論争の種を残す条文を書いても仕方がない。また、宗教団体であってもなくても、違法な行為というのはしてはいけないことであって、わざわざ条文に書かなくてもよい。宗教的情操という言葉は、法律の定義には馴染まない。自分は、教育基本法の第9条第2項は現行のままでいいと考えている。
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信仰や宗教的情操については個人や家庭に委ねるべき事項である。家庭教育に関する記述を見ると、そこには宗教的なものを含む情操教育のことが書かれており、宗教教育の文脈で宗教的情操について取りあげる必要はないと考えるし、家庭教育のところでもあえて特出しする必要はないと考える。議論をしたという事実だけでよいのではないか。
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宗教を教えることの効用として、異文化への理解とともに情操の涵養が挙げられるが、どうやってそれを教えるかが難しい。教育の基本は家庭にあり、その中でも最も重要なのは情操教育であるが、それは宗教を通した方が教えやすいことも事実であろう。その一方で、宗教について、教え方は難しいが学校でも触れて欲しい気がする。これについては、3つ目の・の異文化理解を上手に教えられれば、自然に宗教的情操についても教えられるのではないかと考えている。
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現行教育基本法の第9条の規定を積極的に変えるべき理由があるのだろうか。現行第9条が存在することによる具体的な障害が生じているとは思えないし、全員が一致して「これが足りない」と合意形成できるものがあるとも思えない。多少の字句修正はあるにしても、基本的な部分は改正不要だと考える。資料1の「宗教と教育のかかわりについて」の4つの観点はよく整理されている。 については引き続き積極的にやるべきで、 については今後とも禁止すべき事項。 は に近く、 は に近いので、あえて規定しなくてもよい。 の宗教に関する知識等は教える必要はあるが、基本法に書き込むほどのことではない。 の宗教的情操については、多義的で定義が難しい言葉であり、積極的に禁止する必要はなくても規定する必要もない。
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部会長 第9条については、「宗教に関する基礎的な教育」をぜひ付け加えるべきという強い意見があり、そのあたりを勘案しながら事務局と検討することとする。また、資料1の討議していない残りの2つだが、「特定の宗教のための宗教教育の禁止」の読み方に誤解がないように、最終答申では審議会として明確にすべきところははっきりさせる必要がある、ということについても次回までに検討させていただく。2頁の最後は学習指導要領の問題であり、今日議論しなくてもよい。 |