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布村生涯学習政策局政策課長 それでは、意見発表者の方々から御意見をいただきたいと思います。お一人8分以内で発表をお願いしてございます。8分を超えるような場合には、司会のほうから手短におまとめいただくようお願い申し上げることがございます。発表の順番につきましては、五十音順にさせていただいております。
そして、御発表いただいた後に、中教審委員から意見発表者の方々に対しまして御質問をさせていただき、意見交換をさせていただく予定でございます。
それでは、最初に阿部和之さんから御意見の発表をお願いいたします。よろしくお願いします。
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阿部和之(自営業)氏
どうもこんにちは。よろしくお願いいたします。こんな壇上でお話しさせていただくのはめったなことではないんですが、突拍子もないことを言ったらば申しわけございません。うろ覚えの部分もあったりとか、しゃべることがあんなことも言おう、こんなことも言おうなんて考えておりますと、すべてがうまく伝わるかどうかわかりませんが、私の思っていることを発表させていただきます。どうぞおつき合いください。
私は、今現在、北海道におります。この4月に北海道に越してまいりました。それ前は東京で教員をしておりました。子どもの教育環境というようなことを考えて、東京の生活―神奈川に住んでおりましたけれども、それから北海道のほうに参りました。学校について、後ほど申しますけれども、そこはNPO法人が運営しております、フリースクールという名称をとっておりますが、学校でございます。基本的には学校といいましても、無認可の学校という形でございますが、皆様御存じだと思いますけれども、今、全国に数ヵ所そういう学校があるということだけ御存じおきください。NPO法人が持っている学校。ただし、学籍の問題がございますが、それは地域の教育委員会の方々との御連絡のもとに、小学校、中学校のお子さんにつきましては、居住地の近くの学校のほうで就学をしているという形でさせていただいております。
また後ほど話しますけれども、本題に入りたいと思います。
先ほども鳥居会長からお話がございましたけれども、今、教育に関しては子どもたちが大変困惑しているのかなと思っております。そもそも義務教育というのは、日本では1868年、今から約130年前に、先ほど出ましたイギリスと歩を同じくするような形で、義務教育制度が始まったと思いますが、130年たっております。130年ですよね。随分昔だと思いますが、その制度をいろいろ教育行政にかかわる方々、私も教員でおりましたので、その中でいろいろな施策とか、方策を考えながら、今度新しい学習指導要領も実施されておりますけれども、そこの部分で、特に今回の学習指導要領については、随分と踏み込んだ内容になっているのではないかと思っております。
ただ、今までの130年の長さの中で、これから21世紀、あと100年もこの子たちを日本の中、もちろん世界に広がっていく中で見ていくのはどうなのかなという現状があるのかなと思っております。
私は、確かに「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」という言葉は大変好きでございます。ただ、私はあえて日本人でなくて、地球人だななんていうふうにも思っておりますが、やはり現行の授業の中で、それを当てはめてやっていくにはちょっと難しいのではないかという感じを持っております。
先ほどの話に戻りたいと思います。私は、法的機関、学校法人が設置する学校ではなくて、いわば市民が自ら、地域が自ら運営にかかわれるような、そういうような学校の認可を強く求めます。もちろん、現在、子どもの環境を見ていただければわかるように、学校にも行きます。塾にも行きます。それから、習い事をする方もいらっしゃるでしょう。子どもの主体は、いろいろな集団にかかわっています。それで本当によいのでしょうか。子どもはその存在となる一つのところにいて、そこの場で信頼された教師並びに大人、子どものことをよく知っている身近な大人、教師に教えられること、指導されること、それをもってお互いの畏敬の念を持つということができれば、まだまだこれからの日本人のたくましさがそこで培われてくるのかなと思っております。
確かに公立学校のほうでも、保護者による学校評価とか、外部の学校評議員制度とか、いろいろなことが進められております。それから、授業についても弾力的な運用とか、総合的な学習とか、学校の現場の先生方も、ある意味では総合的な学習の中で地域のよさを発揮しながら、お力を発揮して、初めて自分がその問題に真摯に向かって授業をする場が広がったのかなとも思っております。
ただ、ある意味では、一方で学習指導要領に規定されているカリキュラムがございますので、そこで指導していかなければならない部分があると思います。今、世界にはそういうような形でなくて、いろいろなカリキュラムがあると思っております。ですから、日本は国が提示しているカリキュラムをすることが基本になっておりますけれども、これからの国際化の中で、いろいろな国々でいろいろな形でのカリキュラムが認められていることを理解していただきながら、そういうことも取り入れていただきたいと思っています。
保護者が子どもの教育の種類を選ぶ権利と責任を保障していただきたい。国任せ、人任せではない。子どもの目の前の保護者一人一人が、これからを切り拓く子どもたちの教育に対して自立することが大切だと思っております。確かにその過程の中で、大変な厳しさとか、自分の人生を見詰めたりとか、そういうことが必要になってくると思います。その人間同士の戦いというものが ―戦いと言ってはいけませんね。結びつきが、これからの21世紀を切り拓いていくような子どもたちを育てていくのではないかと思っています。
もう1回申しますが、今既に、議員さんのほうでもチャーター・スクールに対する研究を進めていらっしゃる方とか、コミュニティ・スクールについて検討を進められている方もいらっしゃいます。ですから、大きな意味で、そういうような形で、もし現行の基本法の中で言わせていただくならば、第六条の「学校教育」、「法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人などが、これを設置することができる。」という形で、広く親の自立を求めたような、子どもの教育を選べるような場について、そういう検討ないしは実質的にそういうものがあるところに法的な予算を出していただくとか、統廃合になった校舎を回していただくとか、そのようなことをぜひ望みたいと思います。
以上で終わらせていただきます。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
続きまして、石井忠彦さんより御意見の発表をお願いいたします。
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石井忠彦(学校事務職員)氏
こんにちは。今日はこの会場で勉強させていただくために来ました。
今日、戦後2番目と言われる教育改革が進められ、家庭、学校、地域社会の在り方について、大幅な見直しが提言されています。この教育改革は、昨今の子どもたちの置かれている状況を見ると、緊急かつ必要不可欠なものと考えます。
21世紀を担う子どもたちを教え導くこと、教育の目的は一つなわけですが、そこに至る過程や手段についは、多種多様であり、より柔軟性を持たせ、発想の転換を図ることが必要と考えます。もちろん、その基幹となるものは親子や家族の関係であり、その基盤をしっかりさせた上で、学校や地域社会の包括した教育があると考えます。
戦後の教育を評する際、〈義務教育〉=〈画一化〉という言葉がよく用いられています。批判的な見方もあると思いますが、我が国の教育を世界最高の水準に高め、発展の源となったことは事実です。世界に誇るべく教育制度だと思います。
しかし、昨今、社会状況の変化に伴い、教育を取り巻く環境にもゆがみが生じつつあります。そういう意味で、教育基本法の個人の尊重、真理と平和、人格の完成の精神を尊重しつつも、国際化やグローバル化への対応など、発展的に見直す必要もあると思います。
まずは義務教育制度について考えてみましょう。義務教育は、近代国家における基本的な教育制度として、憲法に基づいて設けられた制度であり、教育が民主国家存続のための大前提となることは言うまでもありません。ですが、現在、社会の変化や家庭の意識の変化に対応して、より弾力的な運用が求められています。具体的に、一定の水準までは教育の機会均等を軸に、行政が介在しつつも、そこから先は個々の家庭の責任で、より高度な教育や別の分野での特性を発揮しようとする者の自主性に任せるべきと考えます。決して平等という名目で鎖をはめることはないと思います。
平成10年度の中教審答申で提言された、小・中あるいは中・高の一貫校の設立など、いわゆる学校区分の多様化、飛び級など就学年齢の弾力化、都立高校を皮切りに小・中にも浸透しつつある学区制度の見直しなど、大いに進めていただき、教育の選択肢を増やしてほしいと考えます。
また、教育にかかる費用の在り方についても見直しが必要と考えます。来年度分の文部科学省の予算要求は6兆8,000億に上るとのことですが、その中でも教育費は大きなウエートを占めています。教育は国家百年の計と言われていますが、現在の厳しい財政事情のもとで、教育という未来への先行投資をするわけですので、より以上に教育の質の向上を図り、投資効果を高めることによって、その充実を図るべきで、それが責務と考えます。
そういう意味で、もう一度洗い直し、例えば教科書無償制度など、義務教育すべてが行政の責任というよりは、むしろ個々の家庭に託すことも有効と考えます。そうして、経済的理由など特殊な事情ある場合のみ、行政が介在すべきではないかと考えます。
次に、家庭の教育力について述べさせていただきます。教育改革は学校、行政、地域社会の連携や意識改革を図ることが必要です。それと同時に、教育の原点であり、最も基幹となる家庭の教育力の回復を図ることが大切と考えます。そのためには、家庭が子どもの教育について、自らの果たすべき役割を認識して、子どもの教育が個々の家庭の責任との自覚を持つことが重要だと考えます。
今回の中間報告にある、家庭は教育の原点であり、すべての教育の出発点である。教育改革にはぜひこの精神を取り上げていただきたいと思います。
最後に一つ、教育の現場、学校について述べさせていただきます。学校は、教育の目指す心身ともに健康な国民の育成を実現するために、今後とも中心的な役割を果たすことが期待されています。今、学校は、教育改革の流れを受けて、家庭や地域社会との連携、そして信頼される学校づくりに向けて、いろいろな試みを行っています。教育目標、活動状況、成果などを学校の情報として積極的に公開して、学校評議員会制度の導入などを通じて、外部の意見や評価を取り入れるなど自ら変わろうとしています。
私自身、学校という教育現場に勤務する者として、学校事務の特殊性を生かし、組織の教育的、行政的、財政的バランスをとることで、学校運営に貢献していきたいと思います。ありがとうございました。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
続きまして、大友武夫さんより御意見の発表をお願いいたします。
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大友武夫(団体役員)氏
ただいま紹介いただきました大友です。時間が少ない中で、まとまった話ができるかどうか、原稿を読みながら私の意見を発表したいと思います。
18年間、教員生活を送った者として、中教審の審議状況を伝える報道や今回の中間報告を読んで見ても、何かストンと気持ちに落ちないものがあります。それは、教育基本法に足りないところがあったから、今日の学校荒廃を招いたとするような記述の多いところにあります。この気持ちが、今日の意見発表に応募させたと言っていいと思います。
結論を先に述べます。なぜ今、教育基本法の見直しなのか、取り立てて今、見直しの必要はないとするのが私の意見であります。
本報告が見直しの視点として挙げている事柄の大半は、現在、既に学校教育の中で取り組まれているか、現行法の中でも推進可能なものだと私は受けとめました。確かに現在の学校教育には課題が山積しております。いじめ、不登校、中退、学習意欲の低下、喫煙、性非行、秋田県においても数に違いはあれ、他県と変わらない事例は出ていると思います。しかし、こうした事例や学校の抱えている課題の原因が、教育基本法にもあるとする指摘に、私はうなずくことができません。
1970年代以降、日本が高度成長経済の道を走って以来、大きく変容し続けてきたライフスタイル、そこから生まれ出る多様な価値観、生き方に、また、そのスピードに学校教育はついていくことができなかったのだ、そう思います。その結果のあらわれが、子どもも、親も、教職員も悩んでいる課題にあるだろうと思います。
便利で経済効率がよく、快適な生活を追い求めてきた陰で、こうした生き方が子どもたちにどんな影響を与えるのか、その問いかけを私たち大人が忘れてきてしまった。その結果のツケを今負っているのではないかと思うからであります。
ポストの数より多いたばこの自販機が、喫煙の低年齢化に果たしている側面は大きいと思います。経済成長に伴い生じた産業構造の変化と生活は、地域から農業、漁業、林業、職人の生活をつぶしていきました。よく言われるように、親の背中を見て育つ機会はめっきりと減りました。また、現在、携帯電話やインターネットの普及は、匿名性を武器に、子どもたちを性風俗産業や手軽な金もうけ、オークション等へ引き込み始めました。
もう1点、触れておきたいことがあります。それは見直しの視点、「 『公共』に関する国民共通の規範の再構築」で挙げられている、公共に主体的に参画する意識、日本人のアイデンティティ、国を愛する心の視点についてであります。
この視点と次に出てくる「具体的な見直しの方向」の「(4) 学校、家庭、地域社会の役割等」のところに出てくる記述をあわせ読むとき、私はある種の危惧の念を持たざるを得ません。こう書かれております。教員については「使命感や責務を明確にする規定」、子どもについては「教員その他の指導に従って、規律を守り、真摯に学習に取り組む責務の規定」、家庭については「家庭、保護者の果たすべき役割や責任についての規定」、そして、学校、家庭、地域社会の三者が緊密に連携・協力して、子どもの育成に取り組む規定の盛り込みを検討するとあります。
国が子ども、親・保護者、教職員、地域社会のありように、一つの物差しを持ち込み、それによって規制された生き方を求めるのであれば、自らの頭で考え、自らの足で歩いていく人生の喜び、生きがいは失われていくのではないでしょうか。
また、抽象的にならざるを得ない「公共」「国を愛する心」といった内面的価値観と深くかかわるものを視点として盛り込み、それを正しく理解し、愛着を持つことが重要なのだと規定されてしまうと、国民の価値観の一元化を図ることにつながりかねません。その時々の国家の責任者、政権の思惑が学校教育を通し、子ども、親・保護者、教職員、地域社会のありようを一気にからめ捕る可能性すら生じると考えます。時代や人が変わると解釈に違いや変化の出やすい抽象的、内面的価値観には触れるべきではないと考えます。
個人の尊厳尊重より、国家、国体護持の価値観を上に置いた学校教育が、いかに個人の尊厳を傷つけ、生命さえ奪っていったか、その反省の上に立ち、今の教育基本法が生まれたものだと認識しております。教育基本法の前文を読むと、本当にそう思います。
最後に、教育行政に今何が必要かに触れて、終わりたいと思います。
明日の時代を担う子どもたちの育成には、私たち大人がもっともっと手間と暇をかけることだと考えます。今、学校からゆとりが失われております。子どもにとっても、教職員にとっても同様に受けとめております。学校が、家庭が、地域社会が、子育ての手を惜しんでいるとの分析がもしあるとしたら、国が率先して教育行政を通して、もっと教育にお金をかけるべきだと思います。手間暇をかけるということは、人手と時間と労力をかけることになるからです。お金はかかるのです。
以上で、私の発言を終わります。ありがとうございました。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
続きまして、後藤則男さんより御意見の発表をお願いいたします。
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後藤則男(国家公務員)氏
ただいま御紹介いただきました後藤でございます。私は、労働行政、詳しくは職業安定行政に在職する者ですけれども、障害者の職業リハビリテーション業務に携わった経験を踏まえながら、親の立場も含めまして、少し意見を述べさせていただきます。
子どもは国の宝であるとよく言われますが、よりよい人材を育てるという大きな目標からしますと、非常に残念なことですが、最近、求人開拓で企業を訪問した場合、「高卒は戦力にならない」「定着しないので必要ない」というような厳しい答えが数多く聞かれるようになってきております。
今回の見直しの理念の最後のほうに、職業生活との関連の明確化について記述されておりますが、健常者や障害者を問わず、子どもたちからは社会に出て、すぐにでも働きたいという強い意志がうかがえます。私の立場から言わせてもらえれば、今回の見直しの大前提にしていただきたいという願いを込めて、一番前にしていただきたいという考えでおります。
特に特殊教育諸学校の子どもたちは、働きたいという強い意志を持ち、やる気で目が最も輝いており、定着率が非常に高いのですが、地域や企業からは彼らの長所に対する理解がなかなか進んでおりません。このことから、普通学校や地域との交流は最も大切なことだと思いますが、いきなり普通学校で机を並べるとなると、いじめのターゲットか邪魔者扱いにされかねず、彼らが持っている素直さやまじめさ、一所懸命さ等の雇用につながる個人の特性が育たない可能性が大であると思います。
特殊教育諸学校の子どもたちには、人間としての思いやり、温かさ、連帯感が感じられますが、いきなり普通学校ではなく、本人の成長や特性に合わせた交流が望まれると思います。特殊教育諸学校制度の見直し論がありますが、本人の学歴等に限定せず、障害者やその家族が生涯にわたり、医療、福祉、教育、労働等の総合的な相談ができる機能を持った機関の早急な設置が最も必要ではないかと思います。
少し話が変わりますが、子どもを持つ親の立場も含めて、あえてお話をさせていただきたいと思います。子どもをしつける立場である親の責任の重さは、十分認識しているつもりですが、病院とか、医師の場合は選ばれる立場にあります。いろいろな資格を持った方たちは、どちらかというとそういう立場にあろうかと思います。しかし、親や子どもは学校とか、クラス担任とか、教科担任は選べません。任用されるとやめるまで学校の先生であるということを考えますと、新任の教師は、教師という資格は持っていても、いわゆる先生としては未熟な点が多いと思います。任用後であっても、1年程度または随時インターン制度的制度の導入が必要ではないかと思います。
ただ、本県のように、1市町村当たり小・中・高合わせても、2名に満たない採用枠、69市町村で100名ちょっとぐらいの採用枠では、地域の教師が生まれませんし、育ちません。1市町村、たぶんここ数年、「うちの町村に先生がいないな」という町村は、周りを見渡すと結構あるのではないでしょうか。教師の定数枠を見直し、採用枠を、自治体の経営、運営方針に任せ、フリーにしていただきたいと思います。
先般、地元の新聞に、退職金の話が載っていましたが、県職員の皆さんもおられますが、私は国の職員でもありますが、事務方は減らしていただいても、学校の先生はもっと増やしたほうが私はいいと思います。クラスは、もっともっと人数も減らしたほうがいいと思います。一人一人に目が届くようにしていただきたいと思います。
また、子どもは国の宝と認識しているならば、学校を補完する機関として、中国にある少年宮のような施設を地域に設置して、地域と学校が両輪で子どもたちを育てていくことはいかがでしょうか。20年前、秋田県と上海市スポーツ文化交流団の一員として、私は上海と蘇州に行ってきました。そのときに、少年宮で活動している小学校高学年の子どもたちの目の輝きは忘れられません。10年で日本は越されると思いました。今、20年たってみて、どうでしょうか。
私は仕事柄、教育を終わった方たちと、一生、職業生活を通しておつき合いすることになりますけれども、これから多くの子どもたちの目に輝きを取り戻せるような答申を出していただくことを御祈念申し上げまして、御意見とさせていただきます。御清聴ありがとうございました。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
続きまして、佐々木元さんより御意見の発表をお願いいたします。
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佐々木元(無職)氏
話をしますと、脱線したり時間をオーバーする危険がありますので、最初にお許し願いたいと思います。書いてあるものを中心に、朗読口調で申し上げますので、お聞きづらいとは思いますが、何とぞお許しください。
先ほども会長さんからも、その他の方からもお話がありましたように、あえて申し上げることもないと思うんですが、まず序論として、対処すべき現状を把握するために、多岐にわたる教育上の問題の中から、幾つか挙げてみます。
物質的には豊かになったが、心は貧しくなった。いじめ、不登校、校内暴力なども同一線上にあると言われて久しい。その間、「心の教育」が唱えられたり、今も「心豊かでたくましい人間を」と力説しています。それに犯罪の低年齢化なども、マスコミの取材、編集、報道によって、これらの問題はさらに伝染、伝播していく。これらの教育問題、社会問題と、マスコミの教育力、影響力、威力との関係は見逃せない重要問題だけれども、それだけで時間オーバーになりそうですので、もし後の話し合いの時間で取り上げていただければ、そちらに譲りたいと思います。
もう一つ、学校の使命、至上命題とも言える学力の問題。小・中・高・大学と進むにつれて、積み残しとか、学力低下の度合いがひどくなる等々、まだまだ問題はありますが、ここら辺にして、さて、本論部分に入ります。
それぞれみんな関連しますけれども、便宜上一応区切りをつけて、番号で言っていきます。五つばかりあります。
1番目。以上のような教育問題は、現在の法の精神に沿った実践が行われていないことが原因の場合が多い。現在の法、あるいは法の不備があったとしても、それが原因ではなくて、それ以上に法の解釈、受けとめ方、簡単に言えば大人たちの考え方、構え方、対処の仕方が問題で、それによって醸成される社会風潮が大きなバックになっていると私は考えてきましたし、現在もそう思っています。
2番目。教育基本法は憲法に次ぐ基本法なので、具体的なことは学校教育法以下の法律、施行令や施行規則等で規定すればよい。基本法を見直したり、特に強調すべきことなどは、教育振興基本計画に取り上げればよいと思っています。
3番目。学校教育の場合、義務教育とそれ以外の教育とをはっきり区別して考えるべきだと思います。義務教育の徹底、これが大事だと思います。義務としてやるべきことはきちんとやる、やらせる。国民として為さねばならぬのが義務のはずです。教えられる側も教える側も好き嫌い、好みによる選択が許されない、強制力を伴うのが義務と心得てきました。今もそう思っています。
明治憲法時代なら、兵役、納税、教育を3大義務と教え、徹底してきました。現憲法では、兵役の義務はないが、納税と教育の義務はきちんと果たすべきであると思います。明治憲法への反動か、あるいは現在の民主憲法への解放感からか、義務よりもプライバシーだ、プライベートだと、権利の主張が盛んになり、不都合、不便なことは、学校や行政の責任だと追及したり、難儀なこと、苦しいことから、楽な快適なほうへと心を向けるようになった。大人のこのような傾向が子どもの過保護や甘やかしとなり、それが教育のみならず、いろいろな問題を生み出すことになってしまったと思います。
難儀、苦労して勉強するものだという心構えよりも、楽しくなければ学校じゃないといったような考え方。勉強しないから学力が低下するのは当たり前のことだと思います。嫌だから学校へ行かない登校拒否から不登校へと、嫌なら無理に学校へ行かせなくてもいいというような空気、風潮となってきている。不登校には複雑な絡み合った事情があるなどと、「理解は愛の別名」を実践しているような人もいるようですが、すべての事象に事情、理由、原因があるのは当たり前のことであって、その一人一人に快適な環境、条件を整えてやることには限界があろうと思います。
4番目。宗教教育の重視、尊重をという願いです。先ほどの会長さんのお話の中でも、宗教教育とか、政治教育についてはほとんど触れられませんでした。
結局、教育基本法の第八条では政治教育、第九条では宗教教育の尊重をうたっていますが、どちらも第2項の、ある特定の宗教、あるいは特定の政党のための教育、その他の活動の規制を、拡大解釈あるいは誤解からか、「さわらぬ神にたたりなし」とタブー視の現状です。今、選挙権年齢を若くしてはどうかなどと話題になっている時代です。また、不遜にも人知が世界を、科学が自然を制覇、征服するなどという時代であれば、なおさら人知を超えた偉大なものへの畏敬の念を抱くことを大事にしたい。宗教的な心情が、哲学、芸術、科学等、人間文化の根源にあることに自然な形で気づかせたい。取ってつけたような心の教育ではない無意識の感化も見逃せない。(いかがわしい宗教?などに冒されないためにも)正統な教育が大事だと思います。
最後は、25年前にフランスで見て、聞いてきたことですが、(念のために聞いてみましたら、現在もそれをやっているそうです。)フランス式の「繰り返し学習」「反復学習」。これはできたら次の段階に進むという方式。私は帰ってきてから、これを「自動車学校方式」だといって、PTAでもお話ししましたし、子どもたちにも言ったものでした。今やっていることがちゃんとできなければ次の段階に進まないということです。
日本のように、4月になれば全員そろって進級ということはありませんでした、フランスでは、約半数がもう1年繰り返し学習。1〜2年間の差は社会に出ての問題にはならないと、日本ならば「留年」、「落第」を、フランスではあたりまえと考え、保護者もそれを望むということです。
日本の画一的な教育が、全体のレベルをアップさせた実績を見習おうとしている国もありますが、ほんとうに「個」を尊重し、重視するならば、一人一人の歩幅とスピードに合わせ、応じたシステムも一考に値するのではないでしょうか。そこにはついていけないという悲鳴や落ちこぼれはなく、学校嫌いや、そこから派生するいろいろな問題もなくなるのではないでしょうか。
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布村生涯学習政策局政策課長 どうもありがとうございました。
続きまして、佐藤重義さんより御意見の発表をお願いいたします。
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佐藤重義(幼稚園長)氏
佐藤重義です。私は30数年間、中学校の教員をやって、60歳過ぎてから幼稚園の教育に携わっている者として、今日、この場で意見を述べさせてもらえる機会を与えていただいたことを大変うれしく思っております。ありがとうございます。
中教審の審議状況といいますか、内容につきましては、先月の18日、鳥居会長先生から1時間半か2時間ぐらいにわたって、ある会で御丁寧にお話を聞く機会がありました。私の意見の要旨はその前にでき上がってしまっておったのですが、私は今置かれている自分の立場から、家庭教育と幼児教育の大切さを皆さんに認識していただき、この精神の中に強く盛り込んでいただきたい、その趣旨でお話を申し上げたいと思っております。
幼稚園へ行って一番びっくりしたのは、先生達の笑顔が実にきれいだということです。あるものにも書かせていただきました。それから、やさしいです。子どもたちは非常に元気です。どうしてだんだんなよなよっとなったり、あるいは私も中学校で、いろいろ心の乱れる、あるいは体まで乱れる子どもと対応してきましたけれども、どこに原因があるのだろう。それを強く感じていましたので、この場面に当たって、(今の園長という仕事に当たって)、実に幼児教育の大切さを痛感させられております。
私は昭和10年生まれ。私は昭和2桁だと言っていますが、うちのワイフは「いや、1桁だ」と。まあいろいろあって1桁なのですが。私のおふくろがよく私に小さいときから言っておったのは、「おまえは田んぼのくろで育った」、秋田弁で「くろ」というのは狭い畦道のことです。働く場面へ子どもを連れていって、そこで子守歌を歌ったり、何か独り言のような親の言葉を聞いたり、仕事を見ながら育ったというのが当たり前だったはずなんです。これは役場の片隅でもあったはずですし、学校でもあったし、町工場はもちろんのこと、いろいろな場面でそういうことがあったはずだったんです。それが私ども秋田では、記憶によると昭和40年代ぐらいまではあったような気がします。ところが、それがなくなって、しばらくたってから、いじめだとか暴力、虐待という形にも言えるんでしょうか、そんなものがあらわれてきたような感じがしてなりません。
これは急激な社会の変化も要因だとよく言われます。そうでしょう。一方で、家庭の教育力の低下とも言っていますけれども、逆に言うと、親の子どもに対する愛情とか、あるいはこんな子にしなければいけないという親の義務感みたいなものがいつの間にか薄れていって、仕事、収入、あるいはいい立場、いい地位とか、いい家へ住みたいとか、そういう物質的なものになったというのは、皆さんが指摘しているとおりですけれども、そんな感じでとらえております。
一方では、そう言いながら、三つ子の魂なんてよく言いますよね。本当にそう言いながら、そのことがうまく機能しているのだろうかということを考えますと、ここにきて就学前、簡単に言いますと、小学校へ入る前の小さい子どもたちの「育ち方」、「育て方」が、本当に実をなすような状況にあるのだろうかということに視点が当てられなければいけないのではないかと思います。
政府は、例えば企業参入の保育園とか、駅前型保育園ということを提唱しています。これはね、子どもは物ではないんです。預かる物ではないはずなんです。そういうことを堂々と述べられ、そして、そういうふうなチャンスがあれば、それは子育てに支援していることであるという言い方もしているわけです。皆さん、この映画を見ましたか。「モンスターズ・インク」という、私は好きでDVDを買ったんですけれども、何回か見ました。御覧になられた方はわかると思います。おっかないモンスターが個別に子どもの部屋を訪れて、「キャーッ」という叫び声を集めて、それをエネルギーにして売るという発想なんです。まさに、今、日本の子どもたちが、私ども大人に聞こえないすごい叫び声を上げているのを、耳にできないのでしょうか、というのが私の主張なんです。
こういう中で、今回の提案の中に、家庭教育を大事にしていきたいということが取り上げられたことは、すごくいいことであります。ただ、その末尾のほうに、「このことについては最小限の範囲で規定することが適当と考える」と述べていますが、何となく、あまり深入りしないでおこうかという程度のことがうかがえてしまって、情けないような気がします。ここのところは、どうぞ法律で決めるとかというのではなくても、こんな考え方ですということは強く述べてもいいのではないかと思います。
考えてみますと、今急に、何々を何々しなければいけないというような、もちろん計画は大切です。でも、今の子どもたち、小さい幼児を本当に10年後、20年後、30年後にすごくいい日本人に育てていくということが一番大事なのです。幼児期に感性とか、意欲が育たない場合に、これは大人になってからはできないことなんですね。そういうことをうんと大事にしていこうという精神を、私はこの中にうんと盛り込んでおく必要があると思います。
話が戻りますが、「モンスターズ・インク」のエンドは、子どもの笑い声のほうが大きなエネルギーになるというので、会社が大もうけをするという話で終わるんです。どうぞ教育基本法は、難しい言葉を並べても、国民は理解できません。例えば、「笑い声がいっぱい、元気で遊びが大好きな子どもに育てよう」などというやさしい語りかけで、そして、それらがどのように具現されていくかというのは、これはプロの問題ですから、現場の先生や行政やその立場の人たちがやるべきではないかと思っております。
私が園長をして、第1番に保護者に申し上げたことは、皆さんから保育料をいただいてできている私立の幼稚園です、私は教育がサービスだと思っています。お金をもらっていますから、口も出してください、手も出してください。つまり、意見も言ってください、お手伝いもお願いしますと言っております。どうぞ、こういうふうな形で、ある面での幼児教育の大切さ、乳児も含めてですが、お願いできればということで申し上げました。ありがとうございます。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
続きまして、畠山文雄さんより御意見の発表をお願いいたします。
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畠山文雄(小学校教頭)氏
ただいま御紹介いただきました畠山文雄です。私は岩手県で道徳教育研究会のほうに携わっておりますので、心の教育という点から私の意見を発表させていただきます。
今回の教育基本法見直しの視点や方向については、伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心の重視や家庭の教育力の回復など、共感できるものが多く見られます。ただし、宗教に関する教育については、より重視する方向で見直していただきたいと思います。
教育基本法の第九条は、第1項で、宗教について教える必要性を示し、第2項で、特定の宗教のための教育が禁じられています。特定の宗教、すなわち、宗派宗教ではない、宗教的な情操の涵養や生命に対する畏敬の念の育成は、人格の形成に欠かせません。人間が宗教や道徳から解放されたら、人間性の崩壊を招きます。それにもかかわらず、公立学校では第1項がおろそかにされ、第2項が特定の宗教教育だけでなく、すべての宗教教育を禁じていると受けとめられているのが実態です。先ほど佐々木さんがおっしゃっているとおりでございます。
例えば、給食前に、合掌して「いただきます」と唱和していた富山県の小・中学校では、保護者から「合掌という言葉は宗教的な色彩があり、強制されるのは苦痛」という指摘を受けて、結局、合掌を取りやめました。そのため、平成8年以降は、「気をつけ。いただきます」にかえたと言われております。
また、かつて近畿地方では、多くの小学校で伊勢神宮を修学旅行のコースに入れていましたが、最近は激減しているということです。伝統、文化の尊重の視点からも残念なことです。
そのほか、ゆとりの時間に家庭で神棚、仏壇、墓地を清掃し、花を献じるよう指導した校長に対して、教育委員会は中止の指導を行いました。
このように、戦後の宗教教育の軽視は甚だしく、第1項の宗教に関する涵養の態度の尊重はなおざりにされています。戦後の教育は、宗教教育の重視を確認して出発しました。昭和21年8月、憲法20条の草案に対し、当時の田中耕太郎文部大臣は、自ら起草した宗教的情操教育に関する決議が帝国議会で採択されました。昭和21年、教育基本法第九条の原案は、「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視しなければならない」と明記されていました。この条文案は、占領軍民間情報教育局の圧力により、今の条文に変更されたことが、杉原誠四郎らの調査によって明らかになっています。昭和23年、教育刷新委員会は「学校教育と宗教との関係」という建議で、宗教心に基づく敬虔な情操の涵養は、平和的、文化的な民主国家の建設に欠かせない精神的基礎の一つであり、殊に宗教的欲求を正しく育成することは、教育本来の使命にも沿うとうたっております。
また、昭和46年、中教審のいわゆる四六答申では、生命と自然に対する愛と畏敬の念に支えられて、統一的に働くところに人間形成の真の姿があると、教育の根幹に宗教教育があることを明示しています。
かつて、昭和38年から国立教育研究所所長を15年間も務めた平塚益徳先生は、宗教的情操を人格形成の上で中核体をなすものという信念のもと、教育課程審議会や中央教育審議会委員として畏敬の念を教育課程に位置づけるよう主張しました。
このように、戦後教育改革において宗教を強調したのは、教育理念としての人間性の尊厳の確立は、内面的な信仰にまたなければならず、人格の核は宗教心であるとの共通認識があったからだと私は思います。今日、この宗教的な情操は、学習指導要領の生命に対する畏敬の念に受け継がれて記されております。
私は、学習指導要領の道徳の目標に掲げられた生命に対する畏敬の念という宗教的な情操を、教育基本法に位置づけることで、学習指導要領に記された内容の習得の根拠が明確になると思っております。なぜなら、平成元年に告示されました学習指導要領に国旗・国歌の指導の義務が明示されたものの、それが徹底されず、平成11年に法律として明文化されて、初めて指導の徹底が図られたように思われるからです。同じように、教育の根本法である教育基本法に宗教的な情操の育成を位置づければ、先ほどお話ししましたように、指導の根拠が明確になると思っております。
私は、休日、ボーイスカウト運動にかかわっております。ボーイスカウトの三つの誓いの第1は、このようになっております。「神、仏と国に誠を尽くし、掟を守ります」、これは子どもの健全育成に宗教心が欠かせないことを教えております。豊かな心をはぐくむためにも、教育基本法第九条は、宗教的な情操を重視する方向で改正することを切に希望します。
最後に、男女共同参画社会の寄与について、一言お願いがあります。このことがジェンダーフリーという極端な男女平等イデオロギーに加担することのないよう、良識的な答申をお願いします。
先月12日、参議院の内閣委員会で、福田官房長官が男女共同参画社会基本法の精神は、性差、いわゆる男らしさ、女らしさを否定するものではない。その目標は結果の平等ではなくて、機会の均等にあると明確に答弁しているからです。
以上で、私の意見発表を終わります。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
続きまして、松岡正樹さんより御意見の発表をお願いいたします。
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松岡正樹(大潟村教育長)氏
冒頭申し上げておきますが、私は現在大潟村教育長であります。今回の発言は大潟村教育長として申し上げるのではなく、長年教育にたずさわって来た松岡個人、また歴史教師であった一個人の考えであることをお断りしておきたいと思います。
私たちに意見を求められているのは、二つあると思います。一つは、教育基本法の改正についてであり、一つは、教育振興基本計画についてであると理解しております。
まず、教育基本法の改正についてでありますが結論から申しますと、「中教審のまとめられた中間報告の素案は大筋理解できる。」ということであります。
なぜならば、その前提に「個人の尊厳」「真理と平和」「人格の完成」などの基本的な理念は、普遍的なものであり、大切にしていく必要がある。と明言したうえでの改訂であるからであります。
私は、長年、高校で歴史を教えてきたものでありますが、歴史は生きものであり、時代の変化に即応しないものは取り残される。これが歴史の原則であります。普遍を貫き、時代の変化に即応した改正は、歴史の原則からしても理解できるのであります。
例えば、戦後を支えてきた農業基本法が40数年ぶりに改正されました。今、大潟村は新しい農業基本法でいきいきと農業を営んでおります。また、一昨日の村の議会では、市町村合併について熱心な議論が交わされておりました。行政区としても現在の枠組みでは生き残ることができない、時代の変化に即して再構築しようとしています。
このような動きは、教育基本法においても同じであろうと思います。普遍的なものは堅持しながら、時代の変化に即して、よりよい教育のために教育基本法を改正しようとしているのであれば、それは理解できることであります。
今日は私個人の意見のほかに、より多くの人の意見を反映させたいと思い、過日12月2日に行われました秋田県大潟村教育振興大会において教育基本法改正に関するアンケートをとってきております。
大潟村というのは、38年前に八郎潟を干拓し、全国から入植して出来た村でありますから、全国の国民の意見を反映していると申し上げてもよろしいかと思います。そのような性格をこのアンケートは持っていると思います。ご希望であればのちほど差し上げたいと思います。
このアンケートからわかることは、「国民は教育基本法の存在とその改正の動きがあることは知っているが、今なぜ改正なのかについてわかっていない。」「国民は教育基本法改正の効果について明確な期待を抱いていない、教育基本法を改正すれば、教育がよくなるのかどうかについてわかっていない。」ということであります。
また、このアンケートの自由な書き込み欄にはいろいろな意見があります。
例えば、「本気で教育を良くしようとするのであれば、教育振興基本計画と連動する法整備がより重要である。教育基本法の改正に即効薬的な効果を期待しようとしているとすれば、それは幻想である。」という意見があります。
その他、たくさんありますが、時間の関係上省略させていただきます。
鳥居会長が、いみじくも挨拶で申されました。「(教育を良くするとすれば)教育振興基本計画の改正が必要である。そのためにも教育基本法を改正する必要がある。」
私はこの言葉は大変説得力があると思います。
時間も過ぎましたから、次に教育振興基本計画について、申し述べます。
三つ提案いたします。
提案1 地方自治体(市町村)の教育長公募制の導入
地方分権化が進む中で、魅力ある個性的な教育の実現は教育長の力量に大きくかかっております。 教育長の公募は、地方教育委員会の活性化と教育の新しい芽生えを期待させます。
ぜひ、「地域の教育力の向上」の中に織り込んでいただき、法整備をお願いしたい。
これをやるだけでも、我が国の教育は確実に変わる。しかも、地方から変わっていきます。
提案2 自然体験基地の設置
「自然体験の機会を充実し、小・中学校で全員体験することを目指す」という基本的な方向をぜひ強力に推進してほしい。文部科学省の調査に【自然体験の豊かな子どもは正義感が強く、道徳心が高い】というデータがあります。大潟村教育委員会は<自然体験基地構想>をベースに【教育グリーンツーリズム】【インターネット学校菜園】を4年間実施し、文部科学省のデータを実証しております。
ビオトープ―動植物の生息空間でありますが―などを核とした自然体験基地をぜひ全国各地に設置していただきたい。
提案3 人間としての尊厳を持って生きる障害者の社会自立を目指した構想
このことは、先ほど後藤さんから提案があったことと関連することでもあります。
現在特殊学校における教育は充実していると思います。しかし、今、わが国の障害者教育で最も悩んでいることは、人生80年としますと、特殊学校などを卒業してからの60年間をどう生きるか、障害者が人間として尊厳を持って自立して生涯を生きる、障害者が社会自立を目指して生きる、そのような構想を生涯学習のなかにぜひ織り込んでいただきたい。
これは、文部科学省のみの問題ではありませんから、厚生労働省とも連携しながら、障害を持っている子どもたちが自分の力で、しかもあまり税金をかけないで自立して生きる、それは斬新なアイディア次第で実現できると思っております。ぜひそのような施策を織り込んでいただきたい。そのことを最後にお願いして終わります。
鳥居会長は今日の意見は後半の審議において必ず役立てるとおっしゃっいました。
よろしくお願い申し上げます。
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布村生涯学習政策局政策課長 ありがとうございました。
すべての意見発表者の方々から貴重な御意見をいただくことができました。誠にありがとうございました。
これからの意見発表者の方々と中教審委員との意見交換につきましては、鳥居会長の進行をお願い申し上げます。
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鳥居会長 ありがとうございました。
大変貴重な御意見を皆様からちょうだいいたしました。また、時間の関係で、私が説明を省いたところについても、随分補っていただきましてありがとうございました。
それでは、これより、中央教育審議会の委員の方々と意見発表者の方々とで意見交換をさせていただきたいと思います。
早速ですが、まず委員の方々のほうでもし御質問、あるいはこういうところをもう少し語ってほしい、聞かしてほしいということがございましたら、よろしくお願いします。
千田委員、どうぞ。
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千田委員 それでは、畠山さんに御質問させていただきたいんですが、畠山さんのお話の中に、私の印象としては、宗教教育と宗教的情操の涵養と道徳心とか、いろいろな言葉が少しあいまいに語られているような印象を持ちました。
さて、特に公立学校における宗教教育については、現行の基本法で禁じておるわけです。畠山さんのお考えとしては、公立学校においても宗教教育はなされるべきだというお考えでしょうか。もしそうだとしますと、いろいろな生徒が公立学校には入学してまいりますけれども、特定の宗教が強調されて教育されますと、その宗教以外の信仰をもっている子どもにとっては非常に居心地の悪い学校になるわけです。公立学校というのはそういう意味では、宗教的な中立性をきちんと守らないと、子どもたちの教育が公正にできないという問題がありますが、その辺はいかがなんでしょうか。
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鳥居会長 それでは、畠山さん、どうぞお願いいたします。
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畠山氏
今のことについて私がお話ししましたのは、特定の宗教教育、つまり宗派宗教ということでございまして、宗教的な情操というのは、特定の宗教の教育ではなくて、例えば私が考えておりますのは、先ほどの給食前の合掌をして「いただきます」ということについての合掌は、特定の宗教でしょうか。
という方もいらっしゃいますけれども、大方の方はそうではないと思います。日本人は天地自然に神を見出すというか、アニミズムの宗教心というか、あと先祖を供養するという、そのような宗教性というのがあります。ですから、私はあえて宗教的な情操の涵養と言いましたが、今は宗教的という言葉は誤解されるから、宗教性、いわゆるスピチュアリティということで、そのスピチュアリティを涵養することが大事だと言われております。
ですから、人間の存在を意識するとかというのは、例えば学校行事での林間学校で夕日を見たり、真っ暗な夜を体験したり、星を見て、自分の命について考えるとか、そういうきっかけがあると思います。例えば、道徳でも生とか死を考える。そこで、どうしてもその中で生命に対する畏敬の念が、いわゆる宗教的な情操と言われておりますので、それを涵養するという意味でも、誤解を招かないためにも、特定の宗教でない、一般的な宗教心を涵養するというのは、教育基本法の第1項をよく読んでいただければわかるとおり、寛容の精神の中に含まれれると思っております。
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鳥居会長 ありがとうございました。
今の問題は、実は昨日も京都の公聴会で大変熱心な議論をいただいたところでございます。
そのときのことをちょっとだけ御紹介申し上げますが、イギリスが一番いい例ですが、イギリスは教育法の中で、これはあの国の事情からして当然なのですが、イギリス国教会の宗教であるキリスト教を礼拝することが、ごく当たり前のこととして位置づけられているのです。それとは全然別に、現在のブレア内閣のもとで、世界の5大宗教について、畠山さんやその前に佐々木さんの話にも出てきましたが、宗教的な基礎的な知識ということだと理解していただいてよろしいと思いますが、5大宗教について、宗教的な基礎的な知識を持つことを義務教育の中に取り入れたのです。去年から取り入れました。そういうようなことも含めて考えていく必要があるのではないかという意味でありまして、特定の宗教について、特に公立学校での教育でそれを教えることを禁じている第9条2項、これは私たちはこのまま残すべきではないかという審議をしているわけです。
そのほかに何かございましたら。委員の方々、よろしいですか。
中嶋委員、どうぞ。
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中嶋委員 今の議論は大変貴重な議論として受けとめたいと思うんです。教育基本法というのは、何となくいろいろのことをあちこち配慮するあまり、蒸溜水の水のようになってしまって、教育というのは人間の原点に触れるところですから、そこが欠如してしまうことは、ある意味では問題かもしれない。だから、私はこの問題について特に専門ではありませんけれども、もうちょっと中教審でも議論を深める必要があろうかという印象を受けました。
ちょっと話題が変わりますけれども、幼児教育にことについて、幼稚園の園長でいらっしゃる佐藤さんから大変貴重な提言をいただきました。それから、もうお一方、フランス式の反復教育に触れられた、佐々木さん。幼児教育については佐藤さんからいただきました。若干それに触れるかもしれませんけれども、今回の中教審が幼児教育にかなり踏み込んだというのは、まだ不十分かもしれませんけれども、画期的なことだと思うんです。皆さん、39ページをお開きいただくとわかるんですが、従来、文部科学省は、例えば幼稚園課というのも現にありますけれども、やはり初中教育から始まっていたと思うんです。ところが、今、世界の潮流はブッシュ・アメリカ大統領がこの1月に制定した法案でも、落ちこぼれをつくらないための法案自体が、幼児教育あるいは才能教育に触れているんです。そういうことからしましても、幼児教育まで視野に入れたということで、ここにもかなりいろいろ踏み込んだ記述がありますので、そこはぜひ御理解いただきたいと思います。
同じようなことが38ページにも、子どものうちから豊かな感性や創造性をはぐくむ、文化、芸術、言ってみれば感性教育にも触れてあるわけです。
私は若干我田引水なんですが、この間ベルリンで子どもと音楽という国際シンポジウムがありまして―というのは、私自身、才能教育、鈴木メソッドのヴァイオリンを中心とする才能教育に自分も携わってきたんですが、それなんかも基礎・基本を反復するんです。それから暗記をする。この反復・暗記という教育の原点は、小学校からでは遅いんですね。できれば9歳以前から。これは大脳生理学の発達によっても実証されているわけで、もうちょっと幼児の段階から基礎・基本をというのを今度考え始めているということは、ぜひ御理解いただきたいと思います。
それから、若干私のところにまた我田引水で恐縮ですけれども、これは単に感性教育だけではなくて、外国語教育ですね。今度の教育振興基本計画にも外国語、特に英語教育についてかなり踏み込んであります。それも今、小学校から英語教育が入ってきますけれども、アーリー・エデュケーションが見直されつつあるということ、ここをぜひ御理解いただきまして。実は秋田県にも英語教育ということで、私自身も国際教養大学を秋田県がつくることで携わっているんですが、それを含めて教育が単なる書いたものの教育ではなくて、耳から聞いたり、自然に覚えるという教育にまで幅を広げているという最近の文教政策の一つの方向性はぜひ御理解いただけたらと思いまして、それについてもし何かお立場上御発言があればお願いしたいと思います。
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鳥居会長 佐藤さん、いかがでしょうか。
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佐藤氏 さっき時間以内にと思って、確かにそういうふうなので、文科省でいう幼児教育というのはわかるんです。だけれども、一方では、保育所という膨大な数の幼児を預かる施設があるわけです。これは教育内容については、教育要領に準拠するとは言っていますけれども、設置目的が違うわけです。そういうふうな中から、今、一元化とか、一体化という問題が出てきておりますけれども、行政の中で二分されて、親の都合でこっちがいいとか、あっちがいいとか。あるいは、最近は主婦まで悪口を言われて、「あなた、うちでぜいたくに子どもを育てるなよ」なんていうふうな形まで出てきてしまうような、そういう幼児にかかわる教育現状は好ましいものでない。そういうふぞろいが今のようないろいろな問題を生み出してきている、一つの発端のというか、病気でいうと発病する何かの要因になっていると思っております。
ですから、ここに載せていただいたことはすばらしいことです。どうぞ、それがすべての子ども、さっき言ったように叫びでなくて、笑い声に置き換えられるような、笑顔に置き換えられるようなシステムにしていただきたい。国民の理解にしていただきたいと思います。ありがとうございました。
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鳥居会長 ありがとうございました。これは会場の皆様、御存じだとは思いますが、今、日本には国公私立合わせて約2万4,000弱の小学校があります。ところが、幼稚園は全部で1万4,000なんです。そのうちの8,000が私立、そして約6,000が公立なんす。小学校の数より幼稚園の数が少ないんです。それは今おっしゃったように保育所が存在していますから、それを合わせると小学校の数とバランスがとれるということになっています。
一方、日本の学校教育法の第1条に、学校とは何者かということを定義してあります。その中に、大学から始まって、専門学校、中学校、小学校、全部列挙してあって、一番最後に幼稚園も入っています。幼稚園は学校教育法第1条が定める学校なんです。ですから、私たちはそのことを頭に置いて、幼稚園教育、幼児教育を、これから教育振興基本計画の中で考えていく必要があります。
例えば、ついでですけれども、フランスの場合には、フランスの教育法の第2条に、家庭が申請すれば、すべての子どもは3歳で、住居に最も近い幼稚園、あるいは小学校付設の幼児学級に受け入れなければならないとなっています。これは公側の義務です。それから、韓国では第9条、学校教育のところで、幼児教育、初等教育、中等教育及び高等教育を実施するために学校を設けなければならないと、国の使命が書いてあるわけです。ですから、大体みんな平仄は合っていますから、あとは内容をどうやって充実するか、今おっしゃった問題を解決することだと思います。
それでは、ほかに何かございましたら。
佐藤委員、どうぞ。
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佐藤委員 最後に、松岡さんがおっしゃった歴史は生き物であって、何もしなければ、言ってみれば社会が化石化するのではないかと。化石化という言葉は使っていらっしゃいませんけれども、そんなことをおっしゃって、いろいろ御指摘なさって、非常に感銘深く聞いたわけであります。
日本の憲法と並んで教育基本法の問題がよく挙げられますけれども、私自身はいずれもその基本的な考え方というのは、基本的に正しいものだと私は考えております。考えておりますけれども、問題は、それをいかに現実化、具体化するかというところに我々の努力が少し欠けてきたのではないかという気がしているわけです。それは政治改革であれ、行政改革であれ、司法改革であれ、今度の問題であれ、みんな基本的には共通した問題ではないかという気がいたします。
大友さんが、1970年代が日本の分岐点であったと。多様な価値観、ライフスタイルが変わってきている。それに対して学校が追いついていかなかったという御指摘をされました。私も基本的には全くそのとおりだと思います。私の同僚で、3年上で、残念ながら亡くなられた高坂正尭さんという方がおられますけれども、彼が1975年に、さる雑誌に「通商国家日本の運命」という論文を書かれました。そのときに、日本は高度経済成長がまだ可能だけれども、ここで一遍立ちどまって、社会、教育、政治の基盤的整備に取り組むべきではないか。しんどいけれども、それに取り組むべきだということを御指摘なさいました。けれども、御承知のように、むしろ我々は1980年代に、バブルの経済に入っていったわけでありまして、今、既にそのときやるべき事柄、そのツケを我々は払わされているんだと、むしろそのように考えるべきではないかと思っております。
先ほど大友さんから、公共的なことに触れていることについて危惧を感ずるという御指摘がございました。私もそれは一面、全くそのとおりだと思っております。従来、日本は「公」と言いますと、これは官のことだ、中央官庁の役所のことだ、そういう理解があって、いろいろな問題を引き起こしてきたというのは、私もそのとおりだと思っております。ですから、中間報告も、「公」という言葉はできるだけ使わなくて、一、二ヵ所出てきますけれども、「公共」という言葉、「公共性」という言葉は、非常に広がりのある言葉です。「公共性の精神」とか、「公共」ということを言っているのは、自律的な人間かいかにして共生するか。共生するためには、お互いに議論したり、いろいろ参加したり、いろいろなことをやっていかなければならないのではないか。それをどうやってつくるのか。
これは実は、あまり長くなるからやめますけれども、戦前、和辻哲郎という哲学の先生がおられましたが、彼は、日本人は社会の秩序とかそういうものは、日本人はどうも他人事と考えがちだ、誰かがつくってくれるというように考えがちだ、それが議院内閣制にせよ、何にせよ、うまくいかない原因なのではないかという指摘をされました。その点、戦後、我々はどれだけそこを変えようとしてきたのか、その問題が今問われているのではないかという気がいたします。
もう最後にしますけれども、司法改革で、これから来年、本格的な議論になると思いますが、裁判員制度、刑事裁判に一般の国民が裁判官とともに判断をするという仕組みを導入しようとしてきております。これは社会秩序の在り方が人任せではない、裁判官任せではだめで、国民がもっと裁判、あるいは秩序の在り方について、主体的に取り組まなければいけないという考え方を打ち出そう。で、現実化しようとしているわけです。
そういうわけで、特に大友さんに伺いたいんですけれども、公共的なるものについての警戒心を持たれるのは、私も反面よくわかります。わかりますけれども、今申しましたような文脈で、これから日本の社会の在り方に、国民がもっと主体的にかかわっていかざるを得ないのではないか。そういう観点から見たときに、どのような具体的な案を大友さんはお持ちなのか、その辺を少し開陳していただければありがたく思います。
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鳥居会長 しかし、大友さん、どうぞよろしくお願いします。
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大友氏 今のお話を聞いて非常に難しいなと思ったけれども、幸いというか、私が経験したことで、四、五年前に町内にこういうことがありましたので、お話しします。町内のごみをどこの場所に集めるかということなんです。
私どもの団地は、最初は50戸の団地だったんですが、だんだん周囲に家が増えて、100世帯を超えるようになったんです。20年前置いたごみのところにも人が住むようになって、そこに面している家は町内会に入っていなかったんですが、その道路向かいの方々が、うちのところだけ臭いごみを置かれて10年以上もなるんだ。これを何とせよと、町内に異議申し立てがあったわけです。
最初はルールどおり、「いや、これはおれ方で決められねがら、市役所に相談するか」と。市役所からは「いや、それは町内で決めてください。町内で決めれば、私どもはいつでも集めに行くので」と。返されたから、「どうするべ」って役員だけで相談したんですけれども、なかなか決まらなくて、最後、全世帯にアンケートをとったんです。
そこまでいったら、やっぱり今度は人任せにならなくて、どこかで多数決で自分の前に決められたら大変だという意識になってくるわけですね。そうすると、話がみんな真剣になるんです。誰かに任せるんじゃなくて。
最後どうしたかというと、これも私が今言ったところからいけば、非常に踏ん切りが悪いんですが、個々一軒建てのあるところで順番でいくしかないかなと私は思ったんですが、そこは先輩方の知恵がありまして、一戸建ての集落のところはどこへ持っていってもまずいと。一つはあるんですよ。ごみ捨て場を置いていたんですが、私どもの置くところは別だったんです。そしたら、アパートがいっぱいあって、駐車場もいっぱいあって、個の家に面していないところまで約80メートルぐらい先へ持っていったんです。そうすると、アパートに住んでいる人って、割と無頓着で誰も責任を持たない。だけども、我々の捨てるグループが当番表をつくって、そこは掃除しましょうということで、今、落ちついています。
そういう試行錯誤の積み重ねが、公共にかかわること、そして、それを積み重ねていくことが、私自身のルールづくりにつながっていくのではないか。今、瞬時に思っただけです。以上です。
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鳥居会長 ありがとうございました。
大変恐縮でございますが、予定した時間を少し過ぎました。大変申しわけありませんが、これで今日の「一日中央教育審議会」の壇上での意見交換は終わりにさせていただきます。
どうもありがとうございました。 |