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一日中央教育審議会(京都)意見発表者

氏      名 性別 年齢   職  業 住所

石上  智康(いわがみ  ちこう) 66   千葉
太田  利信(おおた  としのぶ) 60 小学校教員 大阪
川本  克己(かわもと  かつみ) 57 県立高校育英会会長 奈良
佐竹  孝夫(さたけ  たかお) 52 会社員 京都
徳原  忠司(とくはら  ただし) 41 飲食店経営 京都
野原  清嗣(のはら  きよし) 46 高等学校教員 岐阜
牧野  雅彦(まきの  まさひこ) 44 小学校教員 京都
山合  健一(やまあい  けんいち 42 高等学校教員 兵庫
四辻    厚(よつつじ  あつし) 47 中学校教員 滋賀
渡辺  邦子(わたなべ  くにこ) 44 主婦 京都


第4回一日中央教育審議会(京都)議事録(抄)

1. 日    時    平成14年12月14日(土)13:30〜16:00

2. 場    所    国立京都国際会館「アネックスホール」

3. 議    題    新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について

4. 配付資料
「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」
(平成14年11月14日  中央教育審議会中間報告冊子)
「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」
(平成14年11月14日  中央教育審議会中間報告パンフレット)
「21世紀の未来を拓く教育改革−7つの重点戦略−」(パンフレット)

5. 出席者
委      員: 鳥居会長,木村副会長,茂木副会長,浅見委員,荒木委員,梶田委員,加藤委員,山下委員
意見発表者: 石上  智康(財団法人全日本仏教会常務理事)
太田  利信(小学校教員)
川本  克己(県立高校育英会会長)
佐竹  孝夫(会社員)
徳原  忠司(飲食店経営)
野原  清嗣(高等学校教員)
牧野  雅彦(小学校教員)
山合  健一(高等学校教員)
四辻    厚(中学校教員)
渡辺  邦子(主婦)
事  務  局: 河村副大臣,池坊政務官,布村生涯学習政策局政策課長その他関係官

6. 議    事

(意見発表及び委員からの質疑応答部分のみ掲載。    部分は、当日発表しきれなかった意見について、後日、追加の依頼があったもの。)

布村生涯学習政策局政策課長  それでは、議事に入らせていただきます。
  まずお集まりいただきました10名の方々から御意見の発表をいただきたいと存じます。お一人8分以内でお願いをしてございます。8分を超えた場合にはチャイムでお知らせしたり、私のほうから、おまとめいただくように発言させていただくことがございますので、御協力方よろしくお願いいたします。
  発表の順番につきましては、五十音順にさせていただいております。
  また、10名の方々の御意見の発表が終了しました後に、中教審委員の方から意見発表者の方々に対しまして御質問、意見交換をさせていただきたいと思います。
  最初は、石上智康さんでございます。それでは、石上さん、御意見の発表をお願いいたします。

石上智康(財団法人全日本仏教会常務理事)氏
  貴重な機会をお与えいただきまして、誠にありがとうございます。
  私は、仏教をよりどころとして生きる仏教者の一人であります。したがいまして、本日これから申し上げることの根底には、仏教全般に対する信頼の念が存していることを、あらかじめお含みをいただきたく存じます。
  そこで、仏教の普遍的真理性に留意しつつ、心豊かでたくましい日本人を育成する教育の場で、仏教の真理観から何らかの貢献が可能ではないかという前提で、愚見を申し上げます。
  あえて仏教の立場からという限定をつけさせていただくのは、他の宗教についての知識、理解が不十分な私が、仏教の考え方を前提に、他の宗教を包含するような立論を行えば、他の宗教を信奉する方々に失礼があるかもしれないと危惧するからであります。
  そこで、まず結論から申し上げます。現行法第九条、宗教教育の項を見直し、「宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」とある部分を改め、「日本の宗教に関する基本的知識及び理解は、教育上これを重視しなければならない」と改正されますよう御提案お願い申し上げます。
  このたびの中間報告に対する根本的な疑問は、適正な宗教教育を行うことなしで、果たして中教審が提唱されている「心豊かな日本人の育成」ができるのかということであります。報告書は、自らのアイデンティティの基礎となる日本の伝統、文化を正しく理解、尊重することが重要だと、しきりに強調されます。にもかかわらず、その根底にある日本の宗教についての学習に関し、中教審は腰が引けておられるようであります。日本の宗教に関する知識や理解があって、初めて日本の伝統、文化の本質を正しく理解する道が開けるのではないでしょうか。
  例えば、我が国の食文化を支える伝統的な礼儀の一つとして、食前に手を合わせ「いただきます」と挨拶する作法があります。これは動物も植物も一切の命を食事としていただいて、自らの命が生かされていることに気づき、そのことに感謝して、「深く御恩を喜び、ありがたくいただきます」と確認する、生きることの基本的作法であります。一食の食事ができるのは、私だけの力によるのではありません。天地自然の恵みをはじめ、多くの人の尽力、様々な物や事が結びつき、関係し合って一食の食事が整う。これらたくさんのおかげさま、御恩に対する感謝と、そうしてできた食事を、今日もまたこうして、無事においしくいただけるというのは実にありがたいことだ。そのおかげで、今、このように命あらしめられている。まさに深く御恩を喜び、ありがたくいただくのであります。
  仏教の縁起観とそこから導き出される命の尊さ、あらゆるものを大切にする心、報恩感謝の思想に基づく、伝統的作法、それが手を合わせ「いただきます」という食前の挨拶であります。ここにこめられている普遍的な真実を、誰にとっても大切な心を、日々の実行を通し、子どもたちに教えること、身に付けさせることを、宗教教育の名のもとに否定することは正しいのでしょうか。
  中教審は、継承すべき教育理念として、「人格の完成」は普遍的なものであるから、今後も大切にしていく必要があると主張されます。しかし、道徳教育どまりで、どのように「人格の完成」を目指すのでしょうか。
  道徳と宗教はおのずから異なる、と言われております。道徳の場では、人間の良心を基礎に考えます。宗教の立場では、特に仏教では、事実を事実として素直に受け入れることのできない人間、むさぼり、怒り、愚痴の心は底が知れず、善と知っても善に赴かず、悪と知っても悪を退け得ない人間の現実を考えます。良心があるとするなら、その良心に沿った生き方をするよう努力すればいいでしょう。親鸞聖人は「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」と、懺悔されました。このように人間の果てしない迷妄を見詰めていくのが宗教的な見方であります。深く自身の眞相に気づいていく、いや、気づかされていく人間洞察なくして、どうして真の自己実現、「人格の完成」に至ることができましょうか。
  宗教学が御専門の東京大学故岸本英夫教授は、宗教というものを次のように定義されました。「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である」と。このように考えれば、人をつくり、その完成を目指す教育において、宗教の役割は不可欠ということになります。
  周知のごとく、仏教では、この世を貫くことわり、真実として、すべての現象世界は変化(無常)し、固定した実体はない、縁起・空というありようで存在している、ととらえます。縁起、すなわち縁によって起こる、すべてのものはつながり、関係し合っているものであり、単独でそのものだけで成り立つものはないのです。すべては何らかの原因や条件によって生じている。変化し、固定した実体がない以上、仏教では、すべての事象に対するとらわれからの完全な解放、自由自在、悟りによる自己実現を目指します。このような人格の完成を成し遂げた人こそ仏陀である。すなわち、目覚めた人、正覚者と呼ばれます。
  肝心なことは、これからの時代と人間が直面する諸課題に挑戦するに際し、仏教の真理観は思想上、根本的、創造的な指針を私たちに与えるものだということであります。
  例えば、平和について。既に見たように、仏教の究極の目標は、この世のすべての事象を縁起・空と悟ることであります。その悟りの世界こそ、究極の平和世界であって、ここから地上の平和の基本が展開します。力の均衡によってではなく、相手と自分に対するとらわれを超え、違ったもの同士が手を取り合って共に生きるように努める。これが仏教によって平和を実現する際の基本理念であります。
  歴史上の仏陀・釈尊は、勝ち負けの世界に縛られているのは、相手と自分に対するとらわれの心を超えられないからで、結局、果てしない対立や苦悩につながるだけであるから、これを捨て、そのような世俗の地平を超克した究極的平和の状態、悟りの世界を専ら志向しようと決意されました。したがって、人を殺すことや武力の否定は言うまでもありません。怨みをいだかず、戦わずという立場は、釈尊にとって当然の選択だったのであります。
  また、仏教の思想は、共存共生の思想と実践にも、根拠を与えます。縁起・空という見方に立てば、お互いに構え、対立する心を限りなく克服し、世界の人々、さらには人間以外の他の命をも含め、すべてが自他の対立のない心で共存共生し合う世界を目指すということになるからであります。平和、共存、共生という人類の理想に、創造的基礎を与えるだけでなく、仏教の真理観は、心豊かな人間の資質や徳性を育てる上でも、貢献することになるでありましょう。
  縁起・空と気付かされる訳ですから、釈尊の臨終の言葉にもあるように、おこたることなく、誠実に努力精進する自立の姿勢が生まれてくるのは、当然です。また、私がさまざまな縁により、こうして、いま在らしめられていることに対する有り難いという感謝の思い、従って、あらゆるものを大切にする心もはぐくまれます。同時に、執着できるものが何一つないにもかかわらず、我がものとしてとらわれ、欲望に際限がなく、常に利己的・自己中心的な見解から自由になれないでいる自分自身の現実が見えてくるのです。そのような姿が自覚され反省される時が、自制の心やこの世の真実にかなった行動に転換努力しなければ、申し訳ない、はずかしいという克己の自発性が生まれて来る時でもあります。奉仕を行うに際しても、それは己を忘れて他者のためにする利他の行為であって、布施の精神に導かれます。つまり、自らのものを他者のために提供し、しかも自分が行う奉仕の行為それ自身に執着することがないので、手柄顔になったり、誇りたかぶることなく、また、みかえりを求めたりする心をも遠ざけるのです。このように、縁起・空観に基づく自他平等のあり方が深まれば、人の喜びを自らのものとし、人の悲しみ苦しみを自らのものとすることが出来る心−慈悲の実践を目標として、その人は努力するようになるでしょう。これは、これからの高齢化社会でますます需要が増大する福祉の営みを、その根本のところで支え、はぐくむ思想でもあるのです。
  中間報告書は「あらゆる世代が深刻化する地球環境問題に責任をもって行動することが重要」と指摘しています。そのためには、新しい技術の開発、財政支出、国際協力の促進、啓発活動など、世界的連帯による総合的な取り組みが不可避です。しかし、人間の欲望は際限がありません。この点にメスを入れる、もう一つ新しい価値観というかライフスタイルの導入がない限り、環境を守るこれからの対応としては、完結しないように思われます。仏教からの応答の一つは、「少欲知足」という生き方です。縁起・空の智慧に導かれる生活においては、我利我欲一辺倒やとめどないむさぼりの心は、自ら制御されます。しかも、心さみしくなく、満ち足りた気持ちの中で、それは達成されるのです。地球的規模で、欲望肯定・大量消費の文明を、安易に、このまま続けていては、人類の将来は、暗いでしょう。どこかで、国民の英知を結集し、少しは今の生き方にブレーキをかけねばなりません。
  教育学では、教育理念と教育実践の選択においては、常に決断と指令に満ちていなければならず、しかし、その指令と決断とを単純に打算や信念や権力の支配にゆだねるのではなく、少しでもより確実な吟味と検証による、確かな知識の上に打ち立てるべく努力するところに、教育思想の良心があると教えております。日本の伝統、文化の根底を支える日本の宗教、中でも、本日は仏教を中心に申し上げましたが、その真理観、生き方は、これからの時代の日本人を育てる教育思想・理念として、大方の国民の皆様方の吟味と検証に十分こたえ得る内容のものであることはこれまで述べてきたところからすでに明らかであると存じます。
  よって、先ほど申し上げましたとおり、現行法第9条を見直し、「日本の宗教に関する基本的知識及び理解は、教育上これを重視しなければならない」と改正するよう御提案お願い申し上げるものであります。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、太田利信さんより御意見の発表をお願いいたします。

太田利信(小学校教員)氏
  ただいま御紹介をいただきました太田利信と申します。よろしくお願いしたいと思います。
  私は、今日の教育の深刻な状況に対して、36年間学校教育に携わってきた者として、自らの至らなさを反省しております。しかし、だからといって、現在の教育の問題が教育基本法に原因があったとは決して思いません。むしろ教育基本法の理念をより具体化し、生かしきれてこなかったことにこそ問題があったと考えております。社会や人々の変化に対応する適切な教育改革を怠ってきた結果であると思います。
  そして、今まさに学校5日制が実施され、ゆとりの教育、生きる力をはぐくむ教育を進めようとし、総合的な学習の時間の設定等に見られるカリキュラム編成、学校を地域の中に位置づける地域教育協議会の試みなど、新たな教育改革の端緒についたばかりであります。
  教育基本法の第一条には、「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として」云々とあります。また、第二条には、教育の「目的を達成するためには、……自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」とも記しています。さらに、前文に戻れば、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」との文言もあります。
  これらの内容は、果たして中間報告が指摘する公共の精神や道徳心の視点が欠落しているということになるのでしょうか。「平和的な国家及び社会の形成者」「自他の敬愛と協力」「普遍的にして」と述べている教育基本法の理念には、個人の尊厳を基本に踏まえながら、十分に公の視点をも包含しているものと考えています。教育基本法を生かしきれていない教育実践や実践を保障する教育の条件的整備の不十分さにこそ問題があるのではないでしょうか。
  とはいえ、私たちはあの1995年、阪神淡路大震災の折、誰に指示されたのでもなく、多くの青年たちが支援物資をリュックに背負い、あるいは温かい食べ物の炊き出しに協力しようと、続々と神戸のまちを訪ねていった事実をも知っています。公共や奉仕の精神を言葉で強調しなくとも、この教育基本法で育った青年たちが自発的にボランティア活動を行ったとも言えるのです。個人の内心の自由にかかわる事柄について、あえて法律で規定しなくてもよいという証左であったと思います。
  さて、中間報告では、日本人のアイデンティティと国際性の育成ということにも触れています。「国際社会で共存を図ること、他国を正しく理解し、日本を正しく理解してもらうためには、まず我々自身が生まれ育った郷土や日本について正しく理解し、郷土や国を愛し、よりよいものにしていこうとする姿勢を持つことが必要である」と述べています。
  私は、鶏が先か卵が先かという議論をしようとは思いませんが、文面にある「まず我々自身が」という部分に、何か愛郷心や愛国心を強調するうさんくささを感ぜざるを得ないのです。人間が自らのアイデンティティを自覚するのは、他者の存在価値を認め、その文化を学ぶことによって、自らの文化の尊重の意識を培うときではないでしょうか。それは幕末の偉人たちが鎖国から開国の過程で、他民族の文化を知ることで、国際性豊かな日本人として成長しようと努めたことにうかがわれます。ただし、彼らの場合、あまりにも欧米志向であったために、後にアジアの諸民族をさげすみ、侵略の道を歩むという過ちに陥ってしまったのでありましたが。
  日本政府も批准している子どもの権利に関する条約第8条では、「アイデンティティ保全」について、また、第29条では、「子どもの親、子ども自身の文化的アイデンティティ、言語及び価値の尊重、子どもの居住している国及び子どもの出身国の国民的価値の尊重並びに自己の文明と異なる文明の尊重を発展させること」を、教育の目的として記しています。
  私の勤務する大阪市生野区の小学校には、在日韓国朝鮮人の子どもたちが多数在籍しており、課程外の民族学級において、言葉、歴史、音楽など、自民族の文化を民族講師の指導で学んでいます。これは50年の歴史を持ち、ほかにも大阪市内では1991年の日韓外相会談の覚書を契機に飛躍的に増大し、現在、92の小・中学校に民族学級、民族クラブが設置されています。日本人の子どもたちとともに学ぶ教育課程内の総合的な学習の時間には、地域の生活、文化を学ぶことも取り上げられ、校区近くにあるコリアンタウンの調べ学習なども行われています。子どもたちはまさに自他の文化を相互尊重し合いながら、人格の完成を目指そうとしているのです。
  グローバル化を言うとき、「国際競争力の向上のための国家戦略としての教育」などとおどろおどろしい言葉で位置づけようとすると、えてして偏狭な愛国心やナショナリズムを強調することに陥ってしまい、日本社会においても既に多民族化、多文化化が進行しようとしている現実に、目を背けることになってしまいます。多民族・多文化社会で互いの共生を担う子どもたちをこそ育てる、そのことの大切さを見失ってしまわないでしょうか。今ほど平和や人権、ジェンダーフリーを基調とした共生の視点が大切にされなければならないときはありません。
  教育基本法見直しではなく、守り、生かすこと、そのことを強調して、意見発表を終わりたいと思います。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、川本克己さんからの御意見の発表をいただきます。よろしくお願いいたします。

川本克己(県立高校育英会会長)氏
  奈良県から参りました川本といいます。今現在、県立高校の育英会長をしております。また県の高校PTA協議会の理事もやっておりまして、担当は生徒指導です。11月上旬にありました国立教育政策研究所の生徒指導総合会議にも県代表で参加いたしました。
  それから、昨年は地元の自治会長を務めして、450世帯の自治会なのですが、その経験と今回の高校PTAの経験と、それから私自身の生活経験をもとにして考えを述べたいと思います。
  まず第1番に、中間報告にあります時代認識は、少子高齢化、人口減少、それからデフレ下の不安を述べておりますけれども、これは主要には経済に関わる問題です。それはまた社会基盤の構造転換の問題ですので、教育で解決できる問題ではなかろうと考えております。
  次に、教育の問題は、一人の人間が個性豊かに自己実現を図って、自他共の幸せを追求することのできる人間を養成していくことに目的があるのだろうと考えています。
  それから、教育基本法のかかわりでいけば、キーワードは「人類」と「地球環境」でなければならない。なぜかと申しますと、大気と海水と気象を通じまして、地球環境の相互干渉があります。わが国の雨の酸性化、それから黄砂の問題など、外国の自然環境との問題が既に起きています。ほかには世界中の海を回遊する魚類資源の問題もあります。
  もう一つ、世界経済の一体化に伴って、諸民族の往来が一層激しくなっております。その中で、我が国の教育が足元ばかりを見つめて内にこもるべきではないだろう、それとは逆に外に向かって大きく開いていくことを基調に考えています。
  次に、愛国心について、サッカーのワールドカップとか、国際マラソン、それからオリンピックへの国民の熱気に満ちた応援というのは愛国心の証明ではないだろうかと考えております。殊更に愛国心を持ち出すのは、こういった国民の自然な愛国心の発露を信頼できないということでありまして、このように自国民の愛国心を信頼できない指導者がどんな教育をやろうというのかということがあります。私は戦後第1陣の昭和20年生まれでして、愛国心教育も、進学教育もない時代に中学、高校教育を受けましたけれども、今現在、愛国心についてはほかの人に劣るとは考えておりません。
  次に、伝統についてですが、この伝統についてはいつの時代の伝統をいうのか。私は奈良県ですが、飛鳥時代の朝鮮半島を経由して文化を受け入れた時代の伝統なのか、あるいは平安時代の中国の唐文明を受け入れた時代の伝統なのか、室町時代のポルトガル、その他の西洋文明に接触した時代の伝統なのか、あるいは江戸時代の儒教道徳が重んじられた時代の伝統なのか、あるいは明治時代の天皇中心の伝統なのか。伝統といいましてもたくさんありますので、伝統に余りこだわることはないと考えております。
  1970年代の繁栄した日本におきましては、各地でお祭りが非常に盛んになり、いろいろな復興、御神輿なんかが復興されております。こういうぐあいに、ゆとりある社会では自然に人々が伝統に目を向けて、大切にするものだろうというぐあいに考えます。学校教育では、日本史も、世界史も、既に科目としてありまして、これ以上に歴史とか、日本の伝統をどこで教えるのだろうと考えます。総合学習の一環ならばそれでよいとは思いますけれども、現場に強制すれば総合学習にはならないのではないか。
  もう一つ、伝統の担い手はおおむね家元制度で血統を受け継いでおりますけれども、血統に重きを置くということは、機会を平等に与えないということにもつながるわけでして、これも教育にはなじまないし、憲法第14条にもなじまない。したがって、伝統や文化を尊重するということは、もっと広く世界のフィールドで勝負できる文化なり、芸術一般の振興という大目的の中に消化して、大切にしていくという考え方でなければならないと考えます。
  次に、家庭教育の問題、それから地域社会の連携ですが、これについては非常に切実に経験しておりまして、家庭教育につきましては、国立教育政策研究所の研究発表、調査でも、家庭教育の低下という結果が出ております。これにつきましては、今や増える一方の片親、あるいは共稼ぎの家庭につきましては、必然的に家庭教育の力が落ちるわけでして、こういったものに対して社会としてどのような応援をしていくか。あるいは、激しい問題児童・生徒につきましては、親自身が全くなってないというような家庭もありまして、そのような家庭をどのようにバックアップしていくのか、生徒を守るために。そういうことについては考えていくべきだろう、社会として体制を組むべきだろうと思います。家庭教育に責任を押し付けたところで問題の解決にはなりません。
  これにつきまして、地域社会の連携問題とともに、今現在、国立研究所では既に着手しておりまして、私どもの県でも県教委を中心に既に体制の整備に着手しております。これは教育基本法とかの絡みでするべき問題かどうか、私にはわかりませんけれども、現行法の下で既に着手されておるということをお話しさせていただきます。
  それから、地域社会との連携問題につきましては、自治会長の経験から申し上げますと、地域社会において、土曜・日曜・祝祭日以外について、我々仕事を持っている男の人、あるいはそれと同じように働いている女性が、地域に参加できないという部分があります。参加できるのは日曜日の自治会の大掃除ぐらいのものでして、役所を始めとして催しや会合のほとんどがウィークデーにあるので参加できません。市町村議会の傍聴も同じです。したがって、地域社会との連携問題については、まず土・日中心の受け入れ態勢を準備するべきだろうと考えます。これもまた教育の問題なのかどうかと思います。これは男女共同参画社会にも関係する問題です。
  中学・高校が荒れたという問題につきましては、私自身が京都の朱雀高校に在学しました時代には、制服なし、進学教育なし。朱雀は商業科・普通科併設ということでして、そういう進学教育のない学校でありましても、現役で京大に受かったのがおりますし、一浪まで含めましたら毎年5名前後受かっておったと思います。京都のことですから、同志社、立命に至れば、たくさん受かっておりまして、それから考えましても高校の試験選抜制というのはおかしい。
  今現在、奈良県では選抜制ですが、大学受験のランクによって高校間の序列がありまして、生徒も、親も、学校も、そういうことで自然に自己制限をしまして、伸びる芽を摘んでいるということがあります。一校の中で学力の上下、個性の幅をカバーする100も200もの選択式カリキュラムを組むことで、中下位校の活性化を図れないか。今の制度では中学卒業の時点で子どもの将来の大筋が決められてしまうように思います。
  宗教については結論だけ言いますと、据え置きにしておいた方がいいと思います。宗教の核心は信仰そのものであって、宗教的知識ではありません。したがって信仰者でない人が宗教的情操や宗教心の教育をすることはできない。また、信仰者は特定の宗教を良いと信じているのですから、特定の宗教の価値観を公立学校で教えることになり、これを良いという人はいないでしょう。また宗教教育のテキストを作る場合、キリスト教はどうするのか。一方でテキストに載る宗教と載らない宗教ができる。こう考えていくと、宗教的情操教育あるいは宗教心の教育を公立学校で行うのは適切でないと考えます。これはやはり社会生活の中の切磋琢磨に任せるのが良いのではないか。
  それから、「新しい公共」の問題につきまして、「21世紀の国家・社会の形成」という報告書の言葉は、「21世紀の平和で安全な社会の形成」ということにぜひとも変えていただきたいと思います。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、佐竹孝夫さんより御意見の発表をお願いいたします。

佐竹孝夫(会社員)氏
  こんにちは。どんぶり勘定の佐竹でございます。皆さんのように論理的なお話はできませんので、抽象的なといいますか、一社会人としまして、生涯学習について、見たことを話したいと思います。
  その前に、皆さん、中間報告を言われているんですけれども、私、11月の最初の文章に書いたときに、800字というものを忠実に守ったために、その視点が全然抜けていたので、一言触れておきたいと思います。
  非常に格調高い文章になっているんですけれども、21ページあたりですが、日本人としてのアイデンティティですか、こういう横文字というか、片仮名が非常に多いなと思ったんです。でも、本当の教育というのは、論理ではなくて、情緒的なものが高いと思うんです。といいますのは、今、皆さんも注目されていると思うんですが、北朝鮮に拉致されていた皆さんが帰ってこられました。そして、ふるさとへ帰られました。「ああ、山はすばらしい」「川はすばらしい」「お父さん、お母さんのもとで暮らせる」ということが、変な言い方ですけれども、日本に残って北朝鮮と戦うという意識や行動力になっていると思います。これがそのページの上にある、「感性、自然や環境とのかかわり」ということになってくると思うんです。
  教育というのは、本来、論理的なことを学ぶんですけれども、私たちの細胞の記憶の中にある、共生する呼び覚し、共生やないかとふと思ったんです。それを前段としてつけ加えておきたいと思います。
  さて、私は団塊世代なんです。今、何を一番心配しているかというと、年金が本当にもらえるかどうかという問題です。我が国は、誰もまだ体験したことがない高齢化社会になって進んでおります。夫婦お二人の生涯の出生率が原点の2を大きく割り込んで、1.4になっている現状なんです。そういう現状で、私たちの年金は本当に安定してもらえるのかどうかという危機感があるんです。
  皆さんよく御存じとは思うんですけれども、国家というのは領土があって、統治権があって、そして国民がいるということが、国家の三条件と言われています。この人の問題が教育だと思うわけです。義務教育の子どもの問題ではなく、我々の社会人としての教育というのが大事な問題になってくるのではないかと思います。
  鳥居会長からも、教育基本法についていろいろ御説明がりましたけれども、私は5ページの第七条に非常に注目しているんです。社会教育の問題です。その中で、今後の在り方として学校・家庭・地域社会の連携・協力、こういうものが非常に大事だと思う断片を紹介したいと思います。
  最近、私はよく図書館を利用するんですが、若いお母さんがお子さんを連れてよく図書館に来られるんです。お母さんは一所懸命本を読みたいんですが、広いところに来たという喜びで、子どもは走り回ったり大声を出したりしています。もっと小さい歩けないお子さんは、乳母車へ乗せて連れてこれらるんですけれども、乳母車を押したり引いたりしながら資料に目を通されているんです。
  最近、コンサートなんかでは保育つきというのが当たり前になってきているんですけれども、図書館にはこういう配慮がないように思うんです。
  ところが、中京区の東洞院六角下るに京都市女性総合センター・ウイングスという施設があるんですが、ここには授乳室というのが設けられています。こういう施設をどんどん設けてほしいと思うんです。ただ、この授乳室も設計段階にはなくて、女性専門の施設ですので、お母さんがお子さんを連れてこられます。そういう中での要望で生まれたということをお聞きしておるんです。
  お子さんを身ごもって出産されて、育てられるお母さんたちは、その間ずっと社会から切り離されているんです。そして、手を放してもいいようになったので、どこか社会に関係したいということで、図書館なんかよく出かけられると思うんですけれども、そういうときに保育室とか、授乳室の設備をもっとつくっていただきたいと思うんです。
  不況で収入も減ってきているので、これからお父さんと一緒にお母さんも働かれるという場がもっと増えてくると思うんです。ですから、地域社会と国が一丸となって、保育室とか、授乳室を中心として、地域社会、生涯社会を安心して、安全な場で過ごせるように実現していただきたいと思っております。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、徳原忠司さんから御意見の発表をお願いいたします。

徳原忠司(飲食店経営)氏
  こんにちは。徳原といいます。こういう場所でしゃべるのは非常に緊張をします。僕は飲食店を15年経営し、その以前もスタッフをやってきました。
  今ここに見えている方の中で、たぶんかなりの数の方が教員をされていた、学校で教えていたとか、そういう方が多いという感じがするんですが、教員の方は今、どのぐらい見えるんでしょうか。ちょっと手を挙げていただけないですか。教員をやって見える方。ああ、結構いますね。
  親御さん。僕の子どもは今、8歳と5歳なんですが、親御さんというのはどれぐらい見えるんでしょう。ありがとうございます。
  僕は今、あるフリースクールのようなところで、一緒に学校づくりをやっています。そこで、このごろはNGOがすごく注目されていますが、NPOという非営利組織で、現場の待ったなしの状態、危機的な日本の教育現場で、運営のほうをやっています。
  僕自身は飲食店をやる前に、高校のころは柔道部で、今日は山下さんがお見えになっていますね。僕も今年40歳なんですが、柔道の世界で心・技・体というか、礼儀とか、先輩後輩の中で、僕の中ではすごく大事にしていたものを学びました。それをもって僕は飲食店の世界に入って、15年間、数えてみると延べ300人ぐらいの、教員の方々が送り出した、あるいは送り出す前の高校生ぐらいの子どもたちと一緒にずっと仕事をしてくる中で、彼らの中にある非常に大きな心の闇というものと、ずっと一緒に取り組んできたという思いが今すごくあります。本当に日本の危機というものを、自分の子どもを育てる上でも、本当にそれを今感じています。
  今日は何を話そうかなとずっと思っている中で、僕は今日のテーマとして、二つの焼け野原という感じを自分の中ではイメージしています。それは戦後50年以上たちましたが、僕の父親たちが焼け野原から育ち、そのころの教育はどうだったんだと考えます。僕の育った下町なんかでは肩を寄せ合って、地域の人たちが子どもたちを育てた時代があった。そこには今のようなちゃんとした教育があっただろうかというと、そうじゃなくて、当時は荒涼とした荒野があり、荒野という自由があって、その中から、今、日本を支えているパイオニアの人たちが、当時は先駆者と言われて、いろいろな発想、創造力で、それはたぶん突拍子もないことだと当時は思われただろうし、とても異端だと思われたと思います。そういう人たちが今の日本の、例えばこの建物だって、そういう先駆者の努力の結果であるわけです。今、70歳とかなられている方々が僕たちを育ててくれたのです。
  そして、その方々が非常にすばらしい貢献をされて、こういう国をつくった中で、うちの父親も毎日ミシンを踏んで、僕の父親は身障者だったんですが、ミシンを踏んで、日々、いろいろな仕事にトライしながら、貧乏だったけれども頑張って、僕は育ててもらったという気持ちがあるし、その父親の背中の向こうの風景、そのときの土の道とか、僕の好きだった路地にコオロギがいたりとかね。そういう中に、僕は一つの自分の育ってきた郷土に対する愛着。そういうところから、そのとき生きていた人間の懸命さの中に、僕の中にある気持ちが、それが愛国心という言葉で言えるのかどうか、それはまたちょっと違うかもしれませんが、自身はそういうところでずっと長い間暮らしてきたことは事実なのです。
  例えば方程式があって、方程式に数字を入れて解く教育や、記憶力や、僕らが受けてきた年号とか、学力と言われるものをずうっとやってきて、高度成長を支えた時期がありましたが、今は企業の側からすれば、そういうものを実は求めてなくて、誰も考えたことがないようなすばらしいアイデア、それと日本人が得意にしている物づくりというものが求められている。だけど、僕がつき合ってきた若者たちの中には、その何かを、自分から何かをやる冒険心やいろんなものが、非常に途絶えてきているなという印象があります。彼らの中には、子どもも要らない、家庭も要らないというような感覚を今持っています。
  結局、焼け野原から先代の人たちがつくったもの、それを僕たちぼんぼん、2代目が食い尽くして、今、心の焼け野原がこの日本にあるんだなあと、僕は若者たちを見ていてすごく感じます。うちの父親なんかは、本なんか読まずに仕事をしろと言われて、おじいちゃんにいつも怒られて、布団の中で、本当に蛍の光と窓の雪というようなところで、一所懸命いろんな文学を読んで、僕にちっちゃいころに聞かせてくれた思い出がたくさんあります。
  僕がやっているNPOは、本当に僕の中では下町人情がNPOなんだなという思いがとてもしてなりません。今、焼け野原の中の火事場で日々やっているようなところだという感じです。この間のテレビで見ると、NGOに外務省の若手の官僚が行って研修を受けていました。今日は文部科学副大臣がお見えになっているので、NPOの現場にぜひ文部科学省のスタッフの人たちも来てもらって、今、現場がどういう状態になっているか。そして、NPOが主宰するような学校に一つの助成金を実現していただきたい。これはいろいろな考えがあると思います。考えがいろいろあって、それは一つ一つとてもいいことだと、でも、僕は今、親、当事者として、自分の教育に関して、教育の多様化を認めてもらいたい。教育への権利、僕が教育をつくる権利、それから選ぶ権利、そして受ける権利を、今、50年前のパイオニアたちが焼け野原で日々何でもやってみよう、手当たり次第やってみるという自由の中での模索を、僕たちは現場の教育の中で、NPOという営利団体ではないところでやっています。
  ぜひ官僚の方々が、まずNPOを見にきてもらう。それから、海外に一緒に視察に行って、同じ釜の飯を一緒に食って、役所、自治体、NPOのスタッフが一緒に親睦しながら、今ある空き教室とか、廃校を利用させてもらって、一つ実験的にそういう教育の場をつくらせてもらいたいということをお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、野原清嗣さんから御意見の発表をお願いいたします。

野原清嗣(高等学校教員)氏
  私は現在、岐阜県の公立高等学校に勤務して、地歴・公民を担当しておりす野原と申します。今回、中央教育審議会がまとめられた中間報告に対しまして、現場の一教員として、また、3人の子を持つ父親として意見を申し述べたいと思います。
  私が勤務しております高校は、職業科の高校で、いわゆる進学校ではありませんけれども、まじめな生徒も多く、落ちついた学校です。まあまあ普通の高校と考えていただいてよろしいのではないかと思います。今年9月のまだ残暑の続くある日です。1年生の授業の中で、「もうすぐ涼しくなるね」という話題の中から、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉を紹介しました。黒板にこの言葉を書いて、「彼岸って知ってる」と生徒たちに聞いてみました。ふだんは何かの反応が返ってくるんですけれども、彼らはまるでキツネにつままれたように、黙ってるんですね。そういう沈黙が続いた後、一人の生徒が辛うじて「ヒガンバナ」とつぶやきました。
  私の勤務している高校は小さな町にありまして、周囲には田畑も多くあります。にもかかわらず、青少年の多くは、私たちの父母や祖先が大切にしてきた伝統、文化とは大変に縁が薄くなってしまっているというのが現状です。祖先を大切にしてきた日本人は、もともと皇室のお祭りでありました彼岸会を民間に取り入れまして、祖先の霊をしのぶ行事として行ってきました。私の幼いころ、お彼岸の時期に母の実家に行きますと、祖母が大きなおはぎをつくってくれたことを、その甘い味とともに思い出します。
  そこで別にお彼岸の意味について説教を受けたわけでもありませんけれども、御先祖様があって、祖母があって、そして母があって、自分があるのだということを、自然のうちに教えてもらったような気がします。現在でいうなら何とか体験ということになるんでしょうけれども、そんな教育を孫にしてやろうと思って祖母はいたわけではありません。ただ昔から家の中で大切にしてきたことをそのままやってくれただけです。
  しかし、今改めて考えてみると、自分が体験した祖先を大切にする、そういう伝統的な生活文化に触れるという経験が自分のバックボーンになっています。伝統というものはそういうものではないかと思います。
  先ほど伝統について、ある家元のようなものが伝統だというような御発言が少しあったんですけれども、私は伝統というのはそういう狭いものではないと思います。それは言葉だけでなかなか伝えられない世界でもありますし、先人の知恵とか、願いとかが詰まった世界でもあります。それに触れることは人間の成長にとってとても重要ではないかと思います。
  教育基本法が制定される過程で、草案には当初盛り込まれておりました「伝統を尊重し」という文言が、占領軍の圧力で削除されました。占領軍は、伝統を尊重するということは、これは封建社会に戻ると考えていたようですけれども、このような伝統に対する大変に単純な見方が長く日本の教育界を支配してきました。確かに社会というのは時代とともに変化していきますし、最近の情報化、国際化の波は、私たちの生活にも大きな変化をもたらしております。とはいうものの、時代によって変わらない、不易のものというのは厳としてあります。それを伝えていくことが教育の大きな役割ではないかと思います。
  その意味で、近来、学習指導要領改訂の中で、我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成という文言が取り入れられるようになったことは大きな意義があるものと思います。ところが、その上位の法律であります教育基本法の中に、伝統、文化の尊重という趣旨が明確に示されていなかったために、教育現場では混迷を続けているというのが現状です。入学式、卒業式に国旗掲揚、国歌斉唱を行うというごく当たり前のことが、イデオロギー体質の道具とされて、ために長い間、子どもたちは自国の国旗や国歌について正しく学ぶ機会を奪われてきました。
  私が以前勤務しておりました高校のことでありますが、夏の甲子園地区予選の応援に生徒とともに参加をしたわけです。会場となりました市の最初大会でありましたので、セレモニーがありまして、国旗掲揚、国歌斉唱が行われました。ところが、生徒たちはきちんと起立しない者や帽子をかぶったままの者、隣としゃべっているというさんざんな有様でした。念のために申し上げますけれども、この高校も決して荒れているところではなくて、むしろきちんとした生徒が多い学校でした。
  開会式の挨拶の中で立った市長さんが、「君たち、いいかげんにしなさい」としかられました。私は大変恥ずかしい思いをしました。そして、同時に考えました。では自分は彼らのためにどれだけ国旗や国歌について教えてきたのだろうか。そこで、国旗や国歌について生徒に教えようと、いろいろ調べました。国旗「日の丸」、国歌「君が代」が制定されたそのいきさつについて、なぜそうなったかについて、これを調べてみました。
  「日の丸」が太陽をあわらして、自然を大切にしてきた日本人の気持ちがあらわれていること。それから、「君が代」というものは、やはり日本人が大切にしてきた文芸である和歌のスタイルをとっていること、古今集の最初の本歌から、今様とか、謡曲とか、いろいろな時代に親しまれてきたこと。こういうことを調べていくと、「日の丸」「君が代」というのは、それだけで日本の歴史が語れるくらいに、日本の伝統、文化のエッセンスが含まれていることを知りました。だからこそ国旗や国歌に選ばれたのだということがわかりました。
  授業でこのことを生徒に話してみました。「アメリカの国旗の意味は」と聞くと、大抵何人かの生徒が「知っている」と手が挙がります。ところが、「『日の丸』の意味は」と聞きますと、何人かが「日の丸弁当だ」とか、「血の色だ」ということを言うわけです。そこで、国旗や国歌の意味をきちんと生徒たちに語ってあげました。そうすると、多くの生徒は、生まれて初めて聞いたという発見と、単なる記しだと思っていたけれども、深い意味があることがわかったという感動、そして、「今までは小さな声で歌っていたけれど、これからは大きな声で歌います」という自信を書いてくれました。
  私はこのような自分自身の生まれてきた祖国、国の伝統、文化について発見する、そしてそれが自分自身の自信にもつながるし、これが21世紀の日本の活力にもつながってくるのではないかと思います。
  最後に一言だけ、中間報告の中で一つ懸念を感じる部分がございます。それは男女共同参画社会への寄与という部分ですけれども、審議会委員の間でも議論があったと聞いております。現在、教育現場では、男女共同参画というのは、これは男女の区別をごちゃまぜにすることだという誤った解釈がなされております。先ほど国会のほうで、福田官房長官は政府見解として、男女共同参画の趣旨はそのようなものではないということを表明されました。ですから、教育基本法の検討に当たっては、このことをきちんと踏まえた上で検討していただきたいと思います。失礼しました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、牧野雅彦さんから御意見の発表をお願いいたします。

牧野雅彦(小学校教員)氏
  失礼します。京都市の牧野といいます。私は小学校の教諭です。校区には銀閣寺、南禅寺、大文字山という名所、そして自然に恵まれた学校で勤務させていただいています。
  教育現場といいましても、小学校という限られた視点の話になるかもしれません。また、個人的には中学生と高校生の2人の娘を持つ父親でもあります。親としての願いというものが重なるかもしれませんが、非常に限られた時間ですが、今の自分の考えを述べさせていただきます。
  まず、教育基本法というものは、日本国憲法の精神を土台に、教育のあるべき姿とか、進むべき姿を示しているものであると私はとらえています。今この時点で、この教育基本法を本当に改正する必要があるのかなと私は考えています。新聞などで、いろいろな立場の方の御意見を読ませていただきますと、それぞれになるほどとうなずく部分はあります。しかし、その見解には隔たりがありますし、中央教育審議会の内部においてさえ必ずしも一致した意見が見られないと私は感じております。現場の実情を踏まえて、もっと時間をかけて論議していただきたい。特に内部での論議をお願いしたいと思います。
  私が勤務している京都市は、教育基本法の理念を実際に具現化するために、先進的な取組をしてきた地域の一つであると私は考えています。その大きな柱は、同和教育を核として、一人一人の子どもを大切にするという人権教育です。多くの教職員の先輩方が、行政、地域、家庭とともに、学校が核となって、目の前にいる子どもたちの教育を保障するだけではなくて、結果としての教育の機会均等の保障、つまり、教育的成果の平等を目指してきました。その一つとして、社会的、経済的に様々な課題をもたらされた子どもたちの進路を保障する上で、幾つかの成果があったと言えます。しかし、その成果は、かつて学校教育が社会的に厳しい状況に置かれた子どもたちの教育を受けることを保障できなかったという厳しい事実を認め、その反省に立った教育理念に支えられたものです。この理念と方法は、現在、生命の大切さや人のぬくもりを見出す取り組み、また、豊かな心を耕す取り組み、民族や国籍を超えてお互いを尊重し合う取り組み、地域に誇りを持って地域の一員としての自覚を持つための取り組みなど、そのような取組に発展しています。
  確かに今の世の中を見たときに、たくさんの教育課題はあります。不登校問題、学力問題、家庭の教育力の低下。しかし、その原因が教育基本法そのものにあるのかと考えてみたときに、むしろ教育基本法の理念を教育の実際に生かしきれなかったと言うべきではないかと考えています。
  今、求められているのは、教育基本法の理念を踏まえた教育振興基本計画の充実ではないかと考えます。その充実を目指すときに大切にしたい二つの点を挙げるとすれば、一つ目は、人権の世紀として、本当に人権教育が保障されているのかということ、二つ目は、今の子どもたちが親となったときの子育てを視野に入れていること、つまり、次世代の教育力を視野に入れているかということだと考えています。
  教育振興基本計画の中で、5年間という計画期間があって、それを確認しながら修正していくという非常に具体的で、優れた視点が述べられていますが、そのような短期的視点とともに、長期的な視点を持って進むことが、今、重要ではないかと考えています。そのために、地方と現場の実態を踏まえた計画と、規制緩和によって学校の主体性をこれまで以上に認めていただければありがたいと思います。
  政策目標の例にも挙げられていますが、私はこれから三つのお願いをしたいと思います。
  そのお願いをするのは、私も含めて、教員自ら個々の力量を高めて、子どもたちを豊かな人間にし、将来、幸せいっぱいの世の中にしてほしいという願いからです。
  一つ目は、私たち教職員の研修の機会、そしてそのシステムづくりについてです。私たち自身が、まず専門的な学習指導力をつけることはもちろんですが、豊かな人間性、そして教育哲学を一人一人が持てるように研修をしたいと願います。そのための機会とシステムづくりをぜひお願いしたいと思います。今、私はこの場に立っていますが、このことも私自身にとっては大きな研修の一つであるととらえています。
  二つ目は、教員の加配教員としての増員です。私の勤務する学校にも特別な支援を必要とする子どもたちが学んでいます。社会的、経済的な理由により、課題を持たされている子どももいます。また、心理的、社会的発達の上で課題を持たされている子どもたちもいます。校内事情的には非常に厳しいのですが、いろいろ工夫し、そして協力し合う中で、人数的には厳しい中で、細やかな指導体制をある部分組むことができました。そうすることによって、ある子どもの表情が変わりました。笑顔が生まれました。そして、集中して学習するようになりました。そのときの担任の喜び、そして保護者の喜びは今でも忘れません。そのような事実がこれまでもありましたし、昨日もありました。このように教員の加配によって、さらに多くの子どもたちに笑顔を生まれさせたいと私たちは願っております。
  三つ目は、学級定員の見直しです。すべての子どもたちの教育を目指すために、より少人数での教育を実現させたいと願います。そうすることによって、一人一人の子どもたちに直接指導、そして、触れ合える時間が生まれると思います。
  教育基本法の理念を大切にし、教育振興基本計画の充実こそ、今、求められるべきではないかというのが私の今の意見です。これで終わりたいと思います。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、山合健一さんからの御意見の発表をお願いいたします。

山合健一(高等学校教員)氏
  山合と申します。よろしくお願いします。
  私は高校の教員生活18年目なんですけれども、17年目までは全日制の高校で、昼間の高校で教鞭をとっておりまして、問題がいろいろ出てくるんですね。頭髪指導があったりとか、遅刻指導があったりとか、いろいろ苦しい問題が出てきて、ちょっと人生変えたろと思って、定時制の学校へかわったんです。定時制へ行ったら、頭髪指導もないだろうし、遅刻指導もないんじゃないかと思ったら、確かにないんですが、頭髪あるいは遅刻指導以外の、ものすごく様々な生徒が集まってきているということで、ある意味でいうたら、昼間は経験できなかった経験をさしてもらっているんです、今現在。
  実を言いますと、元暴走族で鳴らした子がうちのクラスにおりまして、たばこ吸ったりとか、そんなことでいろいろけんかもしました。あるときね、その子とじっくり1時間以上話し合ったときに、「暴走族に入ってたんやけども、今やめてる」と。「何でやめたんや」いうたら、「家族のみんなが自分から離れていって……」、施設で育ったみたいですけれども、「おばあちゃんだけが自分を信じて、案じててくれた。おばあちゃんが死んだときに、ものすごく悲しくて、何か祈る気持ちを少し覚えた」という。祈る気持ちを覚えたということを聞いたんで、「いや、実は僕も毎朝、お地蔵さんとか、お不動さんへ行って、手を合わせておがんでますよ」と言うたら、何かそこから話のきっかけがつかめて、「あ、先生もそう思うてんのか。僕もそう思うてる」という感じで、話ができるようになった子もいてます。
  もう一人、定時制ですから、定員割れでいろいろな子が入ってきます。成人で27歳になる子やったと思うんですけれども、知的な障害があって、その子も入ってきてるんです。その子は授業へ出たりとか出んかったり、合間ごとに話をしながら、「君、一体何をしたいんや」ということを何度も何度も問いかけたら、知的障害でいろいろあるんやけども、自動車が大好きで、運転免許を持ってる。運転免許を持ってて、スピード違反を何回もやってる。だから、免許書き換えに行ったらゴールドカードになれへんのやという感じで、そんな話をする子がいて、何時間も話してたら、やっぱり自動車だということで、私の勤めてる定時制の商業科をやめてしまって、来年、新しく工業のほうへかわるという生徒も目のあたりにして、教育とは一体何やろうということを考えるようになってきたんです。
  皆さんにちょっと質問しますけれども、皆さん「教育とは」って言われたときに、何を思い浮かべますかね。「教育とは」と言われたときに。
  違うかもしれませんけれども、僕は、学校教育を想像する人が多いと思うんです。「教育とは」と言われたときに、テストの点が悪くなった、今日も新聞を見てたら、学力低下のデータが出てきたどうのこうのという新聞があったと思うんです。僕は、〈教育〉=〈学校教育〉ではなしに、「教育とは」いうたら、学校教育もあるけれども、家庭教育とか、地域教育というのが大切やと思ってるんです。
  話がいろいろ飛ぶんですけれども、11月14日に中央教育審議会から出された中間報告を見ていて、こんな文章がありましてね。「教育の在り方を根本にまでさかのぼって見直す」という文章があるんです。これを読んだときに僕はものすごく感動して、そうだと。教育を根本から考え直したら、学校教育だけじゃなしに、家庭教育、地域教育が非常に大切なことだ。教育の本質を本当に突き詰めて考えていってもらいたいと考えているんです。
  教育基本法をもし変えるのであるならば、少なくとも50年、あるいは100年ぐらい持つような教育基本法にしてもらいたいと思っているんです。50数年前、この教育基本法をつくられた方々の頭の中には、たぶん学校教育というのが頭にあって、地域とか、家庭教育というのは頭になかったんちがうかなと思っているんです。なぜかというと、そのころは、たぶん家庭とか、地域がしっかりしていて、さほど頭に入れる必要はなかったと思うんです。だけれども、今現在は違いますよね。
  僕がここで、家庭教育と地域教育が大切やと叫んだときに、こんな反応が返ってくると思うんです。「家庭で教育力がもうなくなってるで」「地域で教育力なくなってるで」という話が返ってくると思うんです。だけど、教育基本法ですから、100年持つような、あるいはもっと持つような基本法にしてもらいたいと思うんで、そこを入れてほしいと思うんです。
  お願いですけど、もし教育基本法をいらって、変えるんであるならば、第一条に「教育の目的」、第二条に「教育の方針」があったら、第三条に「家庭教育」、第四条に「地域教育」という感じで、家庭教育、地域教育を学校教育の上位に持ってきてもらって、その大切さを訴えてもらいたい。家庭教育、地域教育、学校教育の三位一体として教育というものをとらえていって、家庭とか、地域が壊れてきたから、学校教育で代替させようと考えておるのは間違いだと思うんです。バランスを欠いたやり方であると、今のように学校教育が苦しくなってきた状態が見受けられると思います。
  繰り返しになるかもしれませんけれども、教育とは  ―僕の名前が健一ということで、親が「健康一番」という形でつけてくれたんです。生徒にもいつも言うんです。「健康一番、健康一番」。たぶん私が生まれたときに、親は、健康であってくれたらいい、と。たぶん皆さんもそうやと思うんです。ところが、何年かたって成長していったら、ちょっとええ学校へ入ってほしいな、とか、ちょっとええ就職してほしいな、とか、欲が出ていって、その欲が子どもを何か迷わしてしまっているんちがうかなと思うんです。
  最初にちらっと話をしましたけれども、僕の勤めている学校の中に、有名私学を途中でやめた子がまた入ってきてるんです。高校を中退した子がどんどん入ってきているんです。つまり、なじまなかったんでしょうね。そんな子どもたちを助けるのに、家庭とか、地域の力が必要だと思っています。
  第九条の問題について、今は国公立の学校では宗教教育はやってはいけないというふうに書いてあるんやけれども、例えばキリスト教とか、あるいは仏教とか、全部まぜて、宗教概論的なことを子どもたちに教えてあげたらどうかなという気がしているんです。
  できるならば教育というのは、家庭教育、地域教育、学校教育というバランスを保ったまま、バランスのあるまま教育基本法をいらってほしい。教育基本法をいらうならば、できるだけスリムにした形で、50年も100年も持つような形のものをつくってほしいと思っています。どうもすみませんでした。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、四辻厚さんより御意見の発表をお願いいたします。

四辻厚(中学校教員)氏
  こんにちは。四辻といいます。隣の滋賀県から来ました。私は中学校の職場で勤めています。社会科の教員です。自分の勤めている学校の様子を見ながら、教育基本法とか、教育改革についてお話ししたいと思います。
  さっき手を挙げていただいたら、たくさんの先生方がおられたんですが、多くの子どもたちは学校でまじめに一所懸命勉強しています。でも、そうでない子たち、荒れていく子たちとか、それから体とか、心に変調を来す子たちが増えてきているのも事実です。
  僕は思うんですが、教育基本法とか、教育の内容を幾ら変えても、子どもたちが教室にいない、学校にいないと何にもならない。私の現場でもそうです。子どもたちが授業に入らないです。我々職員はそのそばに行って、「授業へ入れ、授業へ入れ」と話をします。強く言いますと、暴力が飛んできます。たむろしてたばこを吸うています。夜になりますと、友達と一緒に、中学生ですからバイクなんて乗れるはずがないんですけれども、2人乗り、3人乗りで街の中を走り回ります。時には女の子の家に夜中にひそかに忍び込んで、男の子が女の子の横に寝ているとかね。女の子もそれを受け入れているとか。親はそれを知らない。なぜ知らないかいうたら、親が夜おられないんです。夜のお仕事をされてたりとか、深夜まで働いておられたりとか、そういう現状もあります。そういう子たちがとても増えてきたなという気がします。
  一方で、学校に来ない子たち、来にくい子たち、いわゆる世間でいう不登校という子が増えてきています。ある学級ですと、5人ぐらい不登校がいます。担任は毎日のように、それぞれの家に家庭訪問しています。心理的な圧力で来れない子もいます。育ちの中でいろいろ課題を抱えて来られない子もいます。それから、ひどいいじめに遭って来られない子もいます。いろいろな要因で子どもたちが学校に来れない。この子たちがとても増えているのも現状です。
  それから、学習について意欲を失っている子も多いです。僕は20年ぐらい教師をしてるんですが、15〜16年ぐらい前までは、1年生の1学期いうと、ニコニコ元気に、「先生、はい」と手を挙げる子が多かったんですが、最近は、僕の教え方が悪いのかなと反省もするんですが、1年生の1学期の4月ごろ、教室で頭を抱えて寝込んでしまう子もたくさんいます。そういう子たちに「何でや」と聞くと、「夜寝てへんからや」「ゆうべ何してたん」「夜中じゅう遊んでた」とか、そういう子も増えてきて、わからないから学ぶ意欲をなくしてしまう子も多くなってきています。
  一体何でこうなったのかなと。いろいろ理由はあるんです。いろいろ理由はあると思うんですが、二つ。やはり育ちの中にいろいろ困難を抱えてきた。家庭がうまいこといってなかった。お父さん、お母さんが自分のことをきちんと育ててくれなかった。そういうことが大きな原因かなというふうに一つ思います。
  例えば、夜寝ないんですよ。一晩じゅう遊んでしまいます。夜寝るということを教えられていない。さっき、手を合わせて御飯を食べるということをおっしゃっていましたが、そういうことすら教えられていない。好きなもんだけ食べてしまう。夜中にパクパクパクパク、ビール飲む子もあるんですが、ポテトチップス食べながらとかね。そういうのが当たり前のように親の前で行われている。たばこ吸う、お酒飲むのも、親も「まあ、ええんやんか」ということで飲ましてはる家もあります。そういうふうな育ちの中に、家庭の中にいろいろ課題があって、荒れてしまったり、学校へ来れなかったりするのも一つの原因です。それだけではないと思いますが、一つの原因かなと思います。
  もう一つ、やはり受験かなと思います。受験教育は教育を画一化します。何日までにどこそこまで進まんなん。わかっていないけれども、先へ進まんと、保護者から「先生、授業遅れてんのちがうか」という要望があります。「塾で、もうそんなん習ったで」というのがあります。しかし、現実に受験があって、受験までに終わってしまわんことには、もし教えてないとこが出たらどうしようという不安が我々もあります。そういうので、とにかく先へ先へ先へといかなあかんという現実があります。
  しかも、受験の心理的プレッシャーで、子どもたちは〈もういいや。わからへんのやから〉ということであきらめてしまう。いわゆる学習から逃げてしまう子たちも増えてきています。受験が子どもたちの大きな負担になっているのも事実です。
  中高一貫教育とうのが始まっていますが、私はそこで研究してみました。いろいろな学校を見させていただいて、中高一貫教育で受験がない、子どもたちがとても伸び伸びと学習している姿を聞かしていただきました。受験がないから勉強しないではなくて、本当の意味での勉強を一所懸命するということも聞かしていただきました。そういうふうなことをやると、〈じゃ中高一貫校だけじゃなくて、全部受験なくしたらええやんか〉と思ったりもします。
  そういう子どもたちを抱えながら、我々教師はほんまに夜も寝んと、ほんまに仕事をしてます。自分の子をほったらかしです。ほんまにええのかな。学校で人の子に一所懸命になって、自分の子が自分の地域の学校で迷惑かけてると、これはあかんと思うんですが、そういうふうなことが起こっているのも現実です。苦しい立場です。
  どんだけ仕事をしてるかについては、もう時間がありませんので、言いませんけれども、とにかく寝る時間もないほど仕事をしてるのが現実です。
  こういうふうな現場から見て、教育について課題をどう解決するのかということですが、先ほどから何人かの方がおっしゃってたんですが、教育基本法の理念が我々の現場の中で、例えば学校の中できちんと生かしきれてへんとちがうかなという立場で、六つのことを提案させてもらいたいと思います。
  まず一つは、高校受験、大学受験もあるかもしれません。ひょっとしたら小学校の受験があると思います。受験について、やっぱり考え直すべきやなと思います。
  二つ目は、家庭教育です。重要やと言われてます。教育基本法に家庭教育は重要やと書いたところで、地域が、社会が、国が、家庭を支える  ―例えば子育に悩んでいる親に、カウンセラーとしてきちんと相談に乗ってくれはる人がいやはるとか、そういうことがない限り、何ぼ家庭教育いうてもどうしようもないです。そういうふうなシステムをきちんとつくることが、国の第1の課題かなと思っています。
  三つ目は、地域の教育力です。子どもたちは中学になると、地域の行事に参加しなくなります。皆様御存じやと思います。受験があるからです。部活動もあるからです。行ってられへんわけです。でも、地域では既に地域の伝統や文化を継承していく取組が、皆さん御存じやと思います、各地で行われています。そういうこときちんとやっていけば、子どもたちは地域の中できちんと育てられていくのではないか。そのようなシステムづくり、地域の力になる大人たちを育てる生涯学習がもっとされていくべきではないかと思います。家庭教育や、地域の教育力を高めるためには企業の理解と協力がぜひ必要です。企業に勤める大人がリストラにおびえ、サービス残業に追いまくられる状況があるなら、家庭や地域の活動に、心から打ち込めなくなります。家庭や地域のために、ゆとりを持って休みを取れる体制を企業が、ぜひ作っていただくことが、重要になると思います。
  四つ目は、やはり教師が足りません。1クラス5人も不登校の子がいれば、毎日、毎日、家庭訪問せななりません。それ以外に、万引したか、誰かとけんかしたとか、対応せんなんです。教師がほんまに足りません。何とか教員を増やしてほしい。1学級40人ではどうしようもないというのが現実です。
  五つ目は、教育行政と学校との関係。文部科学省の皆さんがいろいろいいことを、例えば総合学習とかもいろいろ提案していただきます。我々も〈それはいいな〉と思います。でも、申しわけないんですが、県の教育委員会とか、地域の教育委員会はとても官僚的で、細かい細かいとこまで指図をしてきます。我々がしたいことができない。総合学習はこうあるべきやとか、細かいことまで言ってきて、学校の現場の意見が組み入れられないです。教育行政は予算をとってきて、条件整備をする、それに専念していただきたいと思います。
  最後、教員制度。教員採用制度を変えてほしいと思います。申しわけないんですが、〈この人、何で教師になったんやろ〉という人が採用されてきます。これは採用する側、それから資格を与える大学側に問題があるんではないかと思います。その辺を変えていただければ、何も今、教育基本法を変えなくても、きちんと教育の課題は解決するのではないかと思います。
  最後に、ビクトル・ユゴーという方がおられます。『レ・ミゼラブル』というのを書かれた人です。「ああ無情」とか日本語で訳されています。彼の書いた本の中に、こういうのがあります。「国を愛せ」ということを言う政治家が多い国は、決していい国ではない。本当にいい国は、何も政治家が「国を愛せ」と言わなくても、自然とみんなその国のことが好きになると言うております。そのとおりやなと僕は思います。今、なぜか知らんけど、「国を愛せ」「国を愛せ」という言葉がひっきりなしに飛んでいます。大切やと思います。日本の文化、伝統は大切やと思いますが、それは教育の課題ではなくて、政治をやっておられる方の大きな課題ではないかと思います。
  以上です。終わらせていただきます。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、渡辺邦子さんより御意見の発表をお願いいたします。

渡辺邦子(主婦)氏
  皆様こんにちは。渡辺邦子と申します。大学生と高校生の子どもを持つ母親です。今朝も子どもたちから、「頑張ってやってきいや」と励まされてやってまいりました。あわせて、PTA活動やガールスカウト、そして地域の子どもたちとバレーボールやダンスなどを一緒に楽しみながら、我が子も近所の子どたちも大好きでたまらない、おせっかいなおばちゃんの一人として、少し思いや願いをお話しさせていただきたいと思います。
  先日、PTAの運営委員会がございまして、そのときに、今、こうして教育基本法が見直されていることについて、皆さんに尋ねてみました。すると、残念ななことに、ほとんどの方が知らないということが現状でした。正直なところ、私自身も本当はあまり詳しく知らなかったのですが、今回少し勉強してみて感じたことは、実際に子どもを育て、地域の中で生きている私たちが全くわからないまま、幾ら立派な法律ができても、それは決して生きたものにはならないということです。ぜひ私たち国民一人一人が関心を持って、自分の問題として考えていくことが必要だと思いました。
  その中でも、特に私は先ほどから皆さんがおっしゃっていますように、家庭教育の重要性と学校・家庭・地域の連携・協力について、新しい基本法の中に新たに明確に規定していただくようにお願いしたいと思います。
  我が子が生まれたとき、親はみんなその幸せな人生を願わずにはいられなかったことでしょう。でも、皆様もよく御存じのとおり、今日、子どもたちやその取り巻く社会の中には様々な問題があります。その大きな原因として、家庭の教育力の低下が指摘されているところではございますが、私もまさにそのとおりだと思います。親が自分の子どもを責任を持って育てるということは当然のことであり、現教育基本法の中には、あえて明記されていないのかと思いますが、今一度その重要性を確認し合い、いつまでも変わらない普遍的な原理として新しい教育基本法の中に盛り込んでいただきたいと思います。
  私自身の子育ての基本は、深い愛情だと思っているのですが、それは単にかわいがるということだけではありません。真にその子の将来を見据えて、そのとき、そのときに必要なことを時には厳しく、しっかり教えていく必要があるかと思います。
  先日、うちの息子に「家庭教育の基本てなんやと思う」と尋ねてみました。すると、「うーん。いろんな人があると思うけれども、僕の場合は、いい意味で干渉し続けることかなあ」という返事が返ってきました。一瞬、エッ?、と思ったのですが、しばらく話していく中で、やはり子どもは親の愛情を必要とし、また、その「いい意味で」というのが大切なんやなと思いました。
  でも、子育ての不安は誰にもあります。核家族化が進み、また、地域とのつき合いも希薄になる中で、どのように子どもを育てたらいいのか相談もできず、悩んでいる親もいっぱいいるかと思います。私自身も子育てに戸惑いを感じたとき、いろいろな人と話すだけで助けてもらったこともいっぱいあります。子育て支援や子育て語り合いサロンなど、親も支え合い学び合いながら、共に子どもたちを育てていけるよう、ぜひこれからも御支援、お取組をお願いいたします。
  また、私たち自身ももっと地域の中で、学校や多くの人々と一緒に協力していくよう努力をする必要があります。中でもその中心的な役割を、本来ならば子どもたちの保護者であるPTAがもっと積極的に働きかけていくべきだと思うのですが、現状としては毎日の生活に追われ、また、自分の子どもの成績やいじめられていないかなど、個人的なことばかりに気をとられて、PTAは好きな人が勝手でやっているという印象をぬぐえないでいます。でも、頑張ってやった人は、ほとんどが自分の子どもだけでなく、視野が広がったので、本当にやってよかったともおっしゃいます。
  昨今、地域の教育力が低下したと言われますが、まだまだ声をかけ合えば、何かできることをしようと思っておられる方がいっぱいいると思います。しかし、従来からのいろいろなしがらみや複雑な大人同士の人間関係などのために、十分その力を発揮できないこともあるのがとても残念です。私自身も下の子どもが高校3年生になり、長年頑張ってやってきたPTA活動も残りあとわずかとなった今、改めてその活動の大切さを感じ、その中で学んだことや多くの人々とのつながりを、今後、どうにか社会の中で生かしていけたらと思っていますが、ぜひいろいろな施策の中でも御支援をお願いしたいと思います。
  また、大人が子どもたちに教えるだけでなく、様々な体験を通して子ども同士が磨き合い、育ち合っていくことが大切だと思っています。ちょうどつい先ほど隣のイベントホールでPTAフェスティバルというのがございまして、そこで私たちのダンスサークルの子どもたちが40人ほど踊ってくれました。本当に頑張りました。大人から子どもまで異年齢の人たちがいつもワイワイガヤガヤ、時には小さい子どもがけんかをして、泣きながらも楽しくやっています。子ども同士で学び合うことも多く、私たち大人が子どもたちから教えられることもたくさんあります。
  また、高校生たちが小学校でバレーボールを教えてくれたときには、みんなお姉さんたちにあこがれて、「私も頑張ってあの高校へ行く」と張り切って勉強しています。そして、高校生たちにとっても、人に教えることによって自らが学び、照れながらも子どもたちに囲まれて、とてもうれしそうな顔をしていました。中・高生のボランティアや地域の中での体験学習など、今後、より一層子どもたちが主体的に活動していくことを望んでいます。
  そして、いつも私が忘れてはいけないと思っていることは、子どもたちに望むだけでなく、自分自身も心豊かにたくましく、魅力ある人間になるよう努力をしていきたいということです。
  以上のような理由から、今、学校・家庭・地域社会が連携・協力していくことがとても大切であることを、新しい教育基本法の中に明記し、その具体的な実現に向けて、教育振興基本計画をぜひとも策定していただきたいと思います。また、各自治体ごとに限られた予算の中で、様々な取組を熱心にしていただいているところではございますが、ぜひとも国を挙げて教育行政のため、予算面でも多大な御支援をちょうだいいたしますことを、そして、それが私たちの活動の追い風になりますことを願っております。
  最後に、今回の見直しにつきましては、いろいろな御意見があるかと思いますが、どうか皆様、御自身のかけがえのない子どもたち、そして学校や地域の中で輝く子どもたちの笑顔をこの胸に置きながら、ぜひとも論議を進めていっていただきたいと心から祈念いたしまして、私の意見発表を終わらせていただきます。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  以上で、10名の方々から貴重な御意見の発表をいただきました。誠にありがとうございました。
  これから意見発表者の方々と中央教育審議会の委員との意見交換をさせていただきたいと思います。意見交換の司会は、中央教育審議会の鳥居会長にお願いいたします。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、これから「一日中教審」ということでございますので、中教審の委員の皆さんと、そして今日意見発表してくださった10名の皆さんとで、意見交換をしたいと思います。
  最初に委員の皆様の中から、御発言について御質問とか、あるいはこの際もう少し詳しく伺いたいということがありましたらお願いしたいと思います。
  どうぞ、荒木委員。

荒木委員  荒木と申します。よろしくお願いします。
  2番目に御発表いただきました太田先生に。現在の教育基本法は理念が盛り込まれておりまして、それが生かし切れなかったところに問題があるのだという御発言でございましたけれども、その生かし切れなかった理由についてちょっと触れられたと思います。生かし切れなかった理由について、もう少し御説明いただけたらと思いました。

鳥居会長  ありがとうございました。
  太田さん、どうぞお願いします。

太田氏  何人かの方がやはり触れておられたと思うんですけれども、実際に教育現場の諸条件ということで言えば、理念を生かしていくための条件の不備ということがあっただろうと、学校現場にいて思います。
  もう一つは、それを取り巻く状況ということでいえば、受験社会というか、受験競争、受験戦争という今の社会の状況もあるのではないか。
  それから、人権教育、同和教育についてですが、僕自身は先ほども話をしましたように、生野区という日本で最大の在日韓国朝鮮人が共生しているという、4人に1人という区ですけれども、学校の中では30%の外国人が在籍している。そういう在日外国人教育であるとか、同和教育、人権教育であるとか、障害児教育であるとか、あるいは男女共生の教育というふうなことが、もっと具体的に学校現場で行われるような行政的支援が欲しかったなと思いますし、僕ら自身の力量不足もあったかなと思っています。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、梶田委員、どうぞ。

梶田委員  宗教教育についてもう少し伺いたいんですが、石上さんはそれをまさにお触れになりましたし、それから野原さんがお彼岸との関係でちょっとお触れになりました。それから、山合さんが宗教概論というようなことをおっしゃってくださいました。
  これは中教審の中でもいろいろと論議があったんですが、二つぐらいは皆さん一致していると思うんです。一つは、戦前の国家神道的な一つの宗教教育で全部を覆ってしまうのは困ったことだと。これは避けなければいけないだろう。信教の自由という意味もあって、それが一つあります。
  もう一つは、しかし宗教というものは、人間の在り方、生き方をずっと深く追求してきた非常に重要な人類の文化現象といいますか、今日もお触れになりましたが、文化の問題は非常に大事だから、これは何かの形で本当のものを教育の中で大事にしなければいけないだろうということです。この辺はみんな一致しているだろうと思います。
  ここからが難しいのですね。一つは、今、宗教という名のもとに、オウム真理教に代表されるああいうカルトがあって、カルトに入らないようにするための教育もせんといかん。これはカリフォルニア州なんかよくやっています。こういうことがあるけれども、こういうことについてどう考えたらいいかということが一つ。
  もう一つ、宗教というけれども、現実にはいろいろな宗派に分かれていますね。今日、石上さんが親鸞をお引きになりましたけれども、親鸞と道元では若干違うところもあるだろうし、イエスだとまた違っていたり、マホメットと違うところもあるだろうし。そういう違うものをどういうふうに考えたらいいか。もっと言うと、そういうことを踏まえて、教えられる先生というのはいろんだろうかということがよく問題になったわけです。
  ちょっと長くなりましたが、その辺について何かお考えがあれば、今の3人の方に一言ずつでも触れていただければありがたいと思います。

鳥居会長  ありがとうございました。
  今、梶田委員から御質問があったのに関連して、実は先ほど御紹介したイギリスのサッチャー改革の後、ずうっといろいろな改革が行われてきて、ここ一、二年の間に、ブレア内閣の下で、宗教の教え方についてさらに進んだ改革が行われているんですが、これは木村副会長が一番お詳しいと思うので、一言だけ解説していただけますか。

木村副会長  私が英国に住んでおりましたのはかなり前ですので、最近の状況に関してはそれ程詳しくはありませんが、私が感じておりますのは、英国は日本と同じように、ヨーロッパにありながら島国だということです。大陸から隔絶しているために、英国独自の教育路線をとってきたのですが、EUに加わるということになりまして、自分たちもヨーロッパの一員としてやっていかなければいけないといったときに、−今日もニュースに出ておりましたが、2004年にポーランドまで拡充していくということになりそうですが−確かに宗教の問題は大変大きな問題であるという認識が生まれた。私も内容まで調べておりませんけれども、そういうことで5大宗教については、少なくともイギリスの子どもたちに正確な知識を持ってもらいたいということで、それを組み込んだ新しいカリキュラムを組んだと聞いております。

鳥居会長  ありがとうございました。では関連質問を。

茂木副会長  関連質問でございますが、石上さんに伺いたいと思います。先ほど梶田さんもおっしゃったのですが、ほかの野原さん、山合さんからも御指摘がございましたが、私は宗教教育は家庭の役割が非常に大きいのではないかと思うのです。野原さんがおっしゃったような形で、自然に、家庭の中で何となく身に付いていくことが重要なのではないかと思うのです。
  私自身も、おやじが信心深い人でして、毎日、仏壇で手を合わせているので、子どものときから何となく自然に身に付いてしまっておるわけですね。そうすると、私の1歳半の孫がおりますが、これがやはり、私が仏壇でやっておりますと、もちろん意識はなく、まだ物心もついてないわけですけれども、一緒に並んで「ナムナム」なんていうことを言ってるわけでございまして、家庭で何となく身に付けるというのが一番よろしいのではないでしょうか。先ほど野原さんの御指摘がありましたが、その辺は御専門のお立場で、石上さんはどうお考えになるのかということを伺いたいと思います。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、早速、石上さんからお願いいたします。続いて、野原さん、山合さんにも後ほどお願いいたします。

石上氏  一口に宗教教育と申しましても、いろいろな分野があると思います。それは例えば御指摘のように、オウム真理教に代表されるようなカルトに安易に入らないようにする、おかされないようにする、いわゆる宗教安全教育の分野がある。それから、宗教に関する公平な知識を学校で教える、宗教知識・理解教育というものがあると思います。あるいは、もう一歩進むと申しましょうか、宗教情操教育というような分野、さらにいけば、特定の宗派の教義に基づく教育と申しましょうか、それぞれの教義に基づき、本格的に信仰者・同調者を養成する、修行を深める宗教教育など、いろいろあると思います。
  ここでは国の公の機関における教育のありよう、教育基本法の理念設定でありますから、おのずから憲法の制約等もございましょう。また、戦前・戦中の歴史上の苦い教訓等もありましょうから、やはり憲法の原則はきちんと踏まえなければならない。しかし、現在の日本における宗教教育は、過度に軽視されているのではないか。宗教における普遍的な真理性などという言い方は、私は厳密を欠くと思いますけれども。
  日本の公教育でありますから、私が先ほど申しましたとおり、基本的な知識、理解を教えるということは最低限、必要ではないかと。今のように、ほとんど何も教えないような教育では、中教審が掲げられていらっしゃる「心豊かでたくましい日本人の育成」という大方針は、論理的整合性を持ち得ないのではないか。宗教教育は家庭の役割、と丸投げすればいいとは思えません。世界に貢献できる日本人というものの形成もおぼつかないのではないかと考えます。日本の国には、こんな尊いものがありますよという、少なくとも知識理解上の種まきぐらいするのは、人づくりのためにも、これからの世界のためにも必要なことと考えます。
  基本的には、宗教教育は仰せのとおり、家庭ないしは人生の先達との出会い、寺参りとか修業などそういう場面で完結していくものであろう。したがいまして、公教育の場にそれだけ濃密な、本質的なものを期待してはいけないし、また、できるものでもないし、そこまで入ってはかえっていけないということであります。
  しかしながら、我が国の歴史の中で、貴重なものとして宗教というものがあるわけでありますから、それに関する基本的知識を最低限、公教育の中できちんと教えていくということ。ただし、中間報告の中でも御指摘がありますが、様々な宗教について教えるといっても、先生がいるのかどうかという、非常に率直な御指摘がございます。ごもっともだと思います。この点は知恵を出せばいい。例えば対象別に適切な教材、副読本をつくるとか、あるいは正確、丁寧な学習指導要領等々で努力をしていくということで、あるいは先生方の研修をしていただくということで、チャレンジしていくということではないかと思います。
  国際化時代にあって、異文化理解の観点から、様々な宗教について学ぶことは大切という指摘もありました。しかし、現実問題として、様々な世界の宗教を正しく教える困難さを思う時、まず、我が国の宗教についてしっかり教えるのが、日本の教育改革としては順当といえましょう。なぜなら、特に中高段階までは、日本の宗教について基礎的知識と理解を与え、その上に立って、人格形成上有効と思われる宗教的情操の涵養に教育努力を傾注することの方が、はるかに建設的であり、時宜にかなった選択と考えるからです。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、野原さん、お願いいたします。

野原氏  先ほど、宗教教育は家庭でという御指摘がございましたが、家庭の役割は大変に大事なことで、私自身もそういう形で、もしそういう家庭の教育がなければ、恐らく今の自分はなかったのではないかというぐらいに、貴重な体験をしてきたなと思っております。
  とはいうものの、では学校は何もしなくてもいいのかと言われますと、先ほどから多くの方々が言っておられますように、家庭の役割、学校の役割、地域の役割、それぞれが大事でありまして、子どもたちが宗教的な体験、経験をするチャンスを保障してやるというか、与えてやるというか。それは特定のどこの宗派とか、あるいはどこの教義ということではなくて、身近なところに幾らでもあると思うんです。お彼岸というのは一つの例ですけれども、地域のお祭りでもそうですし。そういうことに我々教師もそうですし、家庭も、地域もかかわっていく中で、日本の文化とか、伝統を、子どもたちが自分で築いていくことが必要なのではないかと思います。
  私個人の考え方をを言いますと、日本の一つの伝統的な信仰といいますか、これは祖先をお祭りするということではないかと思っているんですが、これはいろいろなお考えがあるかと思いますが、祖先を大事にするということが、ある意味の一つの日本の宗教心のベースになるのではないか。そのベースの信仰というか、ベースの考え方は必要なのではないか。それは決して宗教的な寛容さとは矛盾しないと思います。アメリカにおいても、イギリスにおいても、教育のベースにあるのは、アメリカもイギリスも恐らくキリスト教だと思いますが、それぞれの国にベースとなるべき信仰があって、そういうのがあるから、ほかの宗教を排除しているということは決してないと思います。そういう形で、宗教的な体験をする  ―先ほどの方も言われましたが、学校でやるようなプログラム、地域でやるようなプログラム、こういったものをつくっていく必要があるのではないかと思います。以上です。

鳥居会長  ありがとうございました。
  山合さん、お願いいたします。

山合氏  私も、宗教教育というのは家庭が一番いいと思うんです。何でかといいますと、学校の中で多様な教育、多様な教育と言われても、たぶん学校教育というのは多様な教育を持たんと思うんです。画一的な教育に一番向いているのが学校教育であって、多様な教育というのは1番は家庭であって、2番はたぶん地域だと思います。
  今言われていましたように、僕自身も体験しているんですけれども、毎朝、お地蔵さんにお参りに行ったら、おばあちゃんがお孫さんを連れてきはって、ほんでこうすんやこうすんやと教えてて、ずうっと見てたら、いつの間にか般若心経の一部をちっちゃい子どもさんが唱えてるんですね。ほんでおがんでる。その横でたまたま小学生が、集まって集団登校するんだと思うんですけど、あまり宗教心に関心のないお母さん方がおられて、(子どもが)缶をけって川の中へほうり込んでたりとかするのを、怒ってるんですが、さほどきつく怒らないような場面もあります。だから、家庭教育がやはり宗教教育には一番向いているとは思うんです。
  ただ、現実的に見ますと、なかなかうまく家庭教育が機能し得なくて、あんまり学校教育が深入りしたらあかんとは思うんですけれども、例えば小学校の総合的な学習の時間で、いい先生がおられんかったら、地域で例えば神社があったりとか、私の近くではカトリック教会がたくさんありますんで、神父さんを呼んできたりとか、あるいはカトリックのほんまにそこへ行ってみたりというふうな体験的な学習をさせてあげたら……。小さいときに、なんや、こんな辛気臭いな、と思うてても、何かでつまずいたときに……

鳥居会長  牧野さん、お願いいたします。

牧野氏  加配教員のことについての御意見だと思うんですけれども、将来的にはそれも一つの方向であると私も思いますが、現在、地域の方とか、教員以外の方でお世話になるのであれば、どの学校もやられていますが、総合学習の中でのコミュニティ・ティーチャーであるとか、ゲスト・ティーチャーであれば、現在では可能だと思います。例えば、教科、算数とか、国語ですね。特に算数という教科は習熟度別という話が出ていますが、そのことを考えてみたときには、やはり専門的な力量と教育哲学を持った者が子どもに当たるほうが、現在においてはよりよいのではないかと考えます。
  私しては今は、教科によりますが、やはり教員の資格を持った者が当たるべきではないかと考えています。

鳥居会長  ありがとうございました。
  牧野さんは小学校の先生をしていらっしゃいますが、中学校の先生をしていらっしゃる四辻さん、どうぞ。

四辻氏  確かに地域の方の協力とか、教員以外の方に御厄介になるという部分は現実にあります。例えば、私の学校でも、やんちゃな子が外で悪いことをいっぱい重ねてきて、学校ではどうしようもないからということで、ボランティアで夜の時間を割いて、子どもらを集めていただいて、そこに我々も行くんですが、一緒になって勉強をやったり御飯を食べさせたりしながら、何とか地域につなぎとめていこうという努力はしています。でも、それは時間帯としては夜なんです。問題が発生してから後なんです。
  昼間、我々が子どもを預かっている朝の8時ごろから夕方の6時ごろまでの間に、地域の方で来ていただける方って果たしていやはんのか。みんなお仕事を持っておられるでしょう。そうすると、お仕事を一旦終わられた御高齢の方にどうしてもならざるを得んですね。
  やっぱり勉強がわからへんというのが大きいと思うんです。勉強がわからへんときに、一人の教師が教壇に立って、30何人、40人近い子をずうっと回っていくと、どうしても見切れへん部分があります。そういう部分では、やはり教員の資格を持った教師が、少ない人数の子どもを相手に教えていくことが重要ではないかと思います。
  地域の力は大切やと思うし、地域の方にどうしても入ってきてほしいとは思います。でも、現実にそれがどこまでできるのかいうたら、我々が誰か産休に入られて、代わりの先生を探すいうそれだけでもとても大変やし、カウンセラーの方も来ていただいていますが、カウンセラー不足で困っているのが現実ですので、教員以外の方を呼んでくるのは現実にはかなり厳しいのではないか。よっぽど地域社会がそういうシステムをつくらんことには無理ではないかという気がします。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、浅見委員、どうぞ。

浅見委員  徳原さんにお伺いしたいんですが、どうしても公教育というと、知、学力というほうに中心が行きがちなんですけれども、あなた自身も飲食店をされているということで、職業教育に対する徳原さんのお考え方と、もう一つ、今、NPOで学校をやっていらっしゃるということですが、具体的にどんなことをやっていらっしゃるのか。それとある程度枠にはまった公教育と、あなたがねらっているような自由な教育との関係性をどうお考えなのか、ちょっとお聞かせいただければと思います。

鳥居会長  では、徳原さん、お願いいたします。

徳原氏  私は、未来を考えるときに、これからの日本が今非常に不景気の中で、復興していくことを考えるときに、私は飲食店をやっていましたが、原材料費の関係で、長い間、中国との貿易にもかかわっていました。中国の現状の成長、それから人件費の安さ、そして中国は何十年もかかって日本のノウハウをすべて吸収したような状態の中で、今、爆発的な力を持っていて、例えば皆さんが今日着ている服のどれだけのパーセンテージがチャイニーズになっているかということを見たときに、日本の役割というのは、現場を見ると、今までに全くない価値観が求められていて、今の子どもたちは今までの教育をずっと受けてきた中で、自分の中で、自分はこういうものをやりたい、とか、あるいは、今までにないこういうものをつくってみたい、という部分にとても欠けてしまっている。そういうときに、僕たち親も現場で、地域社会で、その危機感はすごく感じていて、さっきから話が出ているように、地域の大人たちが子どもたちと一緒に何かを考えたり、つくったり、その中での地域の文化であったり、今までの日本の文化も、地域の現場でやっぱりつくっていかなければいけないととても思います。
  僕が今かかわっているNPOでサポートしているのは、京都のほうのNPOの学校と、それから北海道のほうにあります。北海道がすごく面白いなと思いますのは、北海道の伊達市という都市で、どうしても学校に行けない子どもたちやいろいろな問題を持っている子どもたち、あるいは自分の子どもたちを自然の中で育てたいという人たちが、地方都市がどんどん過疎化、少子高齢化になっていく中で、その地域に密着して、伊達市は去年、人口が500人増えました。その中の100人がNPOにかかわる人たちで、例えば都会でリストラに遭って、僕らは40代というとほとんど就職がない。都会でリストラに遭って、仕事をやめて、よく言われる田舎暮らしという形のもとに地方都市に移って、地方都市は一次産業の後継者が非常にいない。つまり、教育が村おこしになっています。
  子どもたちの悩みについても、自然の中で、自然の成り立ち、例えばこれはどうしてできたのか。すべてのものが長い歴史の中で、人間の営みの中でつくられてきた。僕たちは実は自然の一部なんだという発想のもとの環境教育と言われるところを、今、一番メインにしながら僕はかかわっている。今、テレビゲームでずっと動かなくなって、引きこもってしまうと言えるような環境が部屋の中にあるんだけれども、それを取っ払って、核家族の限界みたいなものをやめて、地域でのコミュニティを大胆にやるためには、田舎の都市というのはとても大きな可能を持っていると考えて、今、そこのNPOのサポートをメインに動いています。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、次は山下委員、どうぞ。

山下委員  では、牧野さんにお聞きしたいと思います。
  牧野さんの発言の中で、今の教育基本法には教育のあるべき姿、あるいは進むべき道が示されている、改訂する必要はないんじゃないかという意見がありましたけれども、これがどのようにとらえられてきたかという見方も必要かなという気がするんです。
  先ほどどなたか、国旗・国歌の話をされましたけれども、国旗・国歌にそんな強烈なイデオロギーはないと思うんですが、それが戦争に向けての全体主義、あるいは国体の集結に利用されたと同じように、これがどういうふうにとらえられてきたのかという視点はどうなのか。
  そういう点でいうと、これが我が国の伝統や文化の尊重じゃなくて、欠落のほう。それから、今、非常に大きな問題になっている公共の精神、これを著しく欠いていると思うんです。ここにやはり、とらえられ方が何らか関係してきたのではないかという思いがあるんですけれども、その辺、どのように考えられますか。

鳥居会長  これは本当は全部の方にお答えいただいたほうがいいように思うんですが、時間の関係でそうもいかないので、今御指名のありました牧野さんからまずお願いいたします。

牧野氏  すみません、個人的なことになると思いますが。今、山下さんから言われたとおりだと思います。しかし、私も最初に言いましたが、今の時点で不十分な点、現状の子どもたちの姿を見て不十分な点を、教育基本法を変えることによって可能にする方法もあるでしょうし、今の教育基本法をもとにしながら、より実践的な部分、つまり教育振興基本計画ができたのは、教育基本法と現場とのつながりが不十分であった、理念が具体化したものが下へおりてこなかったという発想だと思うんです。そう考えてみたときに、先ほども私は言いましたが、教育振興基本計画の中で、山下さんが言われた今の子どもたちとか、教育の課題について、実際に具現化すべき内容を盛り込めばいいのではないかと私は考えているわけです。

鳥居会長  ありがとうございました。
  最後に木村副会長、御質問がありましたら。

木村副会長  まだ佐竹さんと渡辺さんに対して質問がいっておりませんので、私のほうでお願いしたいと思います。
  佐竹さんが生涯学習のことを御指摘になりましたが、私も全く同感です。御指摘になりましたように、例えば図書館に、子どもを連れて行けるようなスペースをつくることも重要ですね。そのような配慮が日本では欠けていると思います。皆様方も御存知だと思いますが、劇団四季の浅利慶太さんが、日本で唯一そのような工夫をされて成功されていますね。浅利さんがつくる劇場は、どこも子どもを連れて行けるのです。乳幼児でも、いたずら盛りの子どもでも、特別に部屋をつくって、そこでお母様方と一緒に観劇していただけるというシステムをつくっている。そういう工夫をすることによって、演劇に対する国民のインテリジェンスが上がるんですね。御指摘にありましたが、そういうふうな努力は非常に大切だと思います。
  私はもともとはエンジニアですから、日本の大人の科学技術に対する好奇心が、今、どんどん減っていることを非常に心配しています。殊に女性の好奇心が減っているのです。ですから、私も国として、先ほど佐竹さんがおっしゃったようなシステムをつくっていく必要性は非常に高いと思います。
  それから、一番最後の渡辺さんは、家庭教育の基本は干渉し続けることだとおっしゃいました。全く同感です。しかし干渉できない親もいる。つまり、これからはどんどん増えると思います。夫婦両方が社会に出るということになると、干渉している暇がない。私はそういう家庭に対しては国が支援していく必要があると思っているのですが、その辺について、何か具体的な御意見がございましたら伺いたいと思います。

鳥居会長  それでは、佐竹さんからまずお願いいたします。

佐竹氏  どうもありがとうございます。私は一面だけしかとらえてなかったんですが、あえてほかのことを言わせていただきたいんですが、問題になっている宗教の面ですが、ここでも随分出てきていると思うんです。中間報告の中で、一番気になるのは38ページなんです。「日本人のアイデンティティと国際性の育成」というのが出ているんですが、「国際性」ということと「アイデンティティ」というのはものすごく大きな問題やと思うんです。一番欠けていると思うんです。
  それが何で欠けてるかいったら、たぶん宗教心。それは何かいうたら、自分の背骨やないかと思うんです。
  例えば、祇園祭りはものすごく町としてわくんですけれども、お客さんがものすごく多いんですが、携わっている人は少ないんです。住んでいる人が少ないんです。それは何かといったら、皆さん先生方がおっしゃってくださったように、家庭教育、地域教育ができてないからやと思うんです。そういう意味で、宗教教育はほんまは必要なんです。でも、どこでとらえられるかということで、国際協調というか、国際理解というのは50年遅れていると思うんです。だから、これからみんなで論議して、どこで情熱を合わせられるかということは重要な問題と思います。こんなことでよろしいでしょうか。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、渡辺さん、よろしくお願いします。

渡辺氏  私も、子どもの口から「干渉し続ける」という言葉が出てくるとはすごく意外でした。と申しますのは、私、ほとんど家にいないことが多くて、子どもの実態は正直なところ見てないんですけれども、気持ちはいつも子どものことを見ている気持ちでいます。子どもと接する時間がなくても、子どもに対しての気持ちがあると、それを子どもは感じてくれるのではないかと思います。私も外に行って吸収してきたものを、子どもとの短い間ですけれども、こんなことがあった、あんなことがあったということを、できるだけ話すようにしています。ずうっと子どもを見続けるのが干渉ではなくて、子どものことを心にとめると申しますか、そういうふうな気持ちがどのようにして子どもに伝わるか、そういうことだと思います。
  でも、本当に時間がない中、私がいない間の自分の子どものことを、よその方から聞いて、「あ、こんなことがあったのか」とか、また反対に私が近所で見た子どもさんの気になることについては、その家庭の方に「こんなことがあったよ」とか、そういうことを言うようにしています。でも、それは突然にはできないので、やはり人とのつながりの基本的なものがある中でできると思いますので、日ごろからの、短い間ですけれども子どもたちとの触れ合いや地域の人のつながりを大切にしていくことが大切なのではないかと思っております。

鳥居会長  ありがとうございました。
  予定の4時を5分過ぎました。大変申しわけありませんが、これで私が司会する分は終わりにさせていただきます。
  意見発表に立たれた10名の方々に、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。



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