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一日中央教育審議会(福岡)意見発表者

氏      名 性別 年齢 職  業 住所

川上    忍(かわかみ  しのぶ) 39 中学校教員 福岡
近藤  直美(こんどう  なおみ) 39 小学校教員 大分
佐藤  恵子(さとう  けいこ) 44 高等学校教員 福岡
杉本  直樹(すぎもと  なおき) 43 教員 福岡
多田隈誠志(ただくま  せいし) 23 大学生 佐賀
箱田  麗蓉(はこだ  れいよう) 46 パート 福岡
平賀  昌幸(ひらが  まさゆき) 46 会社員 大分
古庄  典子(ふるしょう  のりこ) 50 教員 熊本
松井  圭三(まつい  けいぞう) 41 教員 岡山
三宅  浩正(みやけ  ひろまさ) 37 会社役員 愛媛


第2回一日中央教育審議会(福岡)議事録(抄)

1. 日    時  平成14年12月7日(土)13:30〜16:00

2. 場    所  アクロス福岡「イベントホール」(B2F)

3. 議    題  新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について

4. 配付資料
「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」
(平成14年11月14日  中央教育審議会中間報告冊子)
「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」
(平成14年11月14日  中央教育審議会中間報告パンフレット)
「21世紀の未来を拓く教育改革−7つの重点戦略−」(パンフレット)

5. 出席者
委      員: 鳥居会長,市川委員,梶田委員,佐藤委員、永井委員、中嶋委員
意見発表者: 川上    忍(中学校教員)
近藤  直美(小学校教員)
佐藤  恵子(高等学校教員)
杉本  直樹(教員)
多田隈誠志(大学生)
箱田  麗蓉(パート)
平賀  昌幸(会社員)
古庄  典子(教員)
松井  圭三(教員)
三宅  浩正(会社役員)
事  務  局: 河村副大臣,布村生涯学習政策局政策課長その他関係官

6. 議    事

(意見発表及び委員からの質疑応答部分のみ掲載。    部分は、当日発表しきれなかった意見について、後日、追加の依頼があったもの。)

布村生涯学習政策局政策課長  それでは、議事に入らせていただきます。
  まず、お集まりいただきました10名の方々から意見発表をお願いしたいと思います。お一人8分以内で発表をいただくということでお願いしてございます。少し時間が経過したときには、音でお知らせするような形をとらさせていただいておりますので、あらかじめ御了承いただければと思います。発表の順番につきましは、50音順という形でお願いしてございます。そして、10名の方々の意見発表が終わりました後に、委員から意見発表者の方々に御質問するという形で、意見交換をさせていただこうと思っております。
  それでは、最初に川上忍さんから御意見の発表をお願いいたします。

川上忍(中学校教員)氏
  皆様こんにちは。私は、福岡市の中学校で家庭科の教員をしております川上忍といいます。今日は発言をする機会を与えていただきまして、どうもありがとうございます。
  私は教員であると同時に、中学校3年生、小学校6年生、小学校3年生と、3人の子供の母親でもあります。先ほど文科省のほうからもありました、教育は一人一人の一生にとってかけがえのないものということでの意見は、この会場にいらっしゃる皆さんと私と、皆同じ気持ちだと思います。ただ、そのために何をしていったらいいのかという部分で、それぞれの見方が若干ずれるかなというところを感じております。
  実は先ほどから「新しい、新しい」という言葉が出てきておりますが、私が最初にこの基本法を変えなければという論議が出てきたときに、変える理由として出てきた「伝統、文化の尊重」であるとか、「今までは個が尊重されてきたから、もっと公共の精神を」とかいう言葉に、すごく古いというイメージを覚えました。
  実は私は教員になって19年目なのですけれども、私が教員に採用されたということは、憲法や教育基本法を教育現場でしっかりと生かして、そういう教育をしていきなさいよという条件で採用されたと思っております。しかしながら、学校の現場の中で多忙化に埋没する中で、本当に教育基本法の理念を実現するような教育を私はやってきたのだろうかという自己反省に立たされています。
  基本法のことが論議されるようになって、私は改めて教育基本法を読み直してみました。そうしますと、そこに書かれている理念に私はすごく感動したわけです。実はこれは学生時代に学習したはずではあったのですけれども、改めてこの理念のすばらしさというところに非常に感動を覚えました。
  中身をここで詳しく申し述べる時間はありませんけれども、教育基本法が理念にとどまった理由というのは、一つは準憲法的な性格があるのだということで、時の政治のいろいろな動きで変えるのはよくないのだ、ですから原理原則にとどめているのだという、まず教育基本法の理念というのをもう一度しっかり確認しなければならないと思います。
  私は中学校現場におりますので、学校現場の実態からということで、幾つかお話しさせていただきたいと思います。この間、伝統、文化の尊重や公共の精神が言われる中で、個が大切にされ過ぎてきたのだというような論議が起こってきておりますが、果たして学校現場で一人一人の子ども、個、人権は尊重されてきたのでしょうか。
  例えば、私は中学校現場におりますけれども、40人学級です。私は、一昨年度、中学校2年生でちょうど学級定数が40人ギリギリというクラスを持ったのですが、中学校2年生ともなりますと大きな体格で、教室の中はすごく狭い状況で、子どもたちは授業を受けております。しかも、40人の子どもたちが毎日生活ノートというのを書く中で、子どもたちの実態をつかんでいたのですけれども、それを40人分見るというのはすごい労力なわけです。これが30人学級だったら、あるいは20人台学級だったら、もっと一人一人に行き届いた教育ができるのにというのをつくづく感じております。
  それから、福岡市の中学校の給食の実態です。授業が終わって、黒板のチョークがまだ残っているような中で、子どもたちはバタバタと給食の準備を始めます。そして、給食の回収車が来るから急いで食べなくてはということで、10分足らずでかき込ませて、それで給食を毎日毎日過ごしているわけです。これが個が大切にされてきた公教育の結果でしょうか。私は家庭科という性格もあって、食のことをすごく大事にしたいのですけれども、このごろ文科省からも食の教育が大事だということで、栄養職員さんあたりに食の教育をということも提言されておりますが、この給食の実態をまずはどうにかしてほしいといつも思ってきた次第です。
  私の友人で北欧のほうに視察に行かれた先生が、「どんなに貧しい国でもランチルームが設備されて、子どもたちがゆったりとお昼御飯を食べて、また午後の授業に出かけるということがされているのよ。とてもうらやましかったわ」という声をお聞きしました。
  それから、2点目ですけれども、今言われております伝統とか、日本人としてのアイデンティティという問題ですけれども、福岡には在日外国人の子どもたちがたくさんいます。その中で、皆さん御存じのように、通信表の6年生の評価の問題も非常にホットな話題で上がってきているのですけれども、日本人としてのアイデンティティということで、日本人の育成で教育基本法をくくってしまっていいのかというのがすごくあります。また、ここで言っている日本人というのは、日本国籍のある人のことなのか。あるいは、日本国籍がある人だって、伝統、文化を共有していない人はたくさんいる。私もその一人です。
  それから、もう一つ伝統という言葉ですけれども、伝統という言葉も検証していかなければならないと思います。「伝統というのは何ですか」と言われたときに、ここにいらっしゃる皆さん方の伝統のとらえ方は様々だと思います。一般的には、遠い過去から受け継がれてきたものだというふうな言われ方をしますけれども、伝統というのはいろんな意味で全肯定できないものもある。女性差別や身分支配に伴った伝統、文化もたくさんあるということも、私たちは理解しておかなければいけないと思います。
  最後に、今の教育の閉塞状況というか、例えば私も学校現場におりまして、不登校の問題、いじめの問題、学級の荒れ、子どもたちの学びからの逃避、いろんなことをやはり現場で抱えています。そのことを何とかしなければならないというのは、ここにいらっしゃる皆さんも同じ気持ちだと思います。
  そのためにどうしていったらいいのかということの1つ目ですけれども、基本法の理念が本当に学校現場で生かされてきたのかという検証をきちっともう1回やってみる。公聴会も全国で5ヵ所ですけれども、本当はもっともっと、大人の声もそうですけれども、子どもたちの声について、「学校現場はどうなの?」「学校って楽しい?」という、いろいろな検証を市民レベルでもっともっと話していかなければならない。
  何しろ教育基本法を知らないという保護者が、日本PTA協議会の調査によりますと8割を超えるというふうに言っております。教育現場に勤める私たちですら、教育基本法をきちっと読みこなしていない。その理念をわかっていない中で教育をやっているという実情があるわけですから、もっともっと市民レベルで、一人一人かけがえのない存在なのだという意味での教育基本法の理念を、もう1回学習し直してみる。その上で、変える必要があるのかないのかということをもう1回論ずる必要があると思います。
2点目は、子どもの権利条約や女子差別撤廃条約が教育の現場できちっと生かされてきているのかという検証が必要だと思います。ここにいらっしゃる会場の皆さんは、みんな子ども時代を過ごしてきていらっしゃるし、自分が子ども時代に戻った気持ちになれば、今の子どもたちはどんな学校が楽しいのか、どんな教育が受けられたらもっと自分が豊かになれるのかというのは、それぞれのイメージがあるかと思いますけれども、私は今ここで教育基本法を変えるという論議ではなく、教育基本法の理念が生かされてきたのか、という論議をぜひ巻き起こしていきたいと考えております。以上です。

布村生涯学習政策局政策課長  どうもありがとうございました。
  続きまして、近藤直美さんから御意見の発表をいただきます。お願いします。

近藤直美(小学校教員)氏
  こんにちは。私は、大分県津久見市から来ました近藤直美といいます。現在小学校の教員をしています。小学生と保育園の子どもを持つ親としても、子どもたちの将来を大切に思う大人としてこの場に立たせてもらいました。
  教育基本法が今見直しをされようとしていることを知り、とても心配に感じています。教育基本法は、今、本当に見直す必要があるのでしょうか。見直しに当たり、現在の子どもたちをめぐる少年事件やいじめ、不登校といった課題が挙げられている点については、私たち大人が真摯な気持ちで受けとめていかなくてはならないと思います。なぜなら、こうした課題は私たち大人がつくり上げてきた社会、学校の中で、子どもたちが傷つき、疲れて、SOSを発している姿だと思うからです。このことは、個人の価値を大切にし、人格の完成を目的にした現行の教育基本法が、これまで十分に生かされていなかったからではないでしょうか。この問題を教育基本法を変えることで解決しようとするのはおかしいと思います。むしろ、生かし、活用することが解決の糸口につながるのではないかと思います。
  そんな視点から、今回出された中間報告を読ませていただきました。その中で、私が気になった点を三つ挙げたいと思います。
  一つ目は、新しい時代にふさわしい教育ということで、一人一人に合った個人の能力の伸長ということが言われています。一人一人に合った教育というのは、確かに耳に聞こえのいい言葉です。でも、その中でどんなことが書かれていたかというと、知の世紀をリードする人間の育成のための大学改革や学校制度の規制緩和を行って、学校制度の複線化をしようとしています。そのことは、今よりもさらに一層学校間格差を大きくしていくのではないかと思います。そして、競争意識を今よりも一層高めていくのではないかと思います。自分の能力に応じた学校選択を強いられて、その決定は自己の責任に負わされていく。そして、こんな選択や自己責任の論理は、能力主義を生んでいくのではないかと思います。弱者の切り捨てにつながり、差別や選別を生んだり、いわゆる勉強ができない、そういう子どもたちを切り捨てて、基礎学力の低下を生んでいくのではないかと思います。
  二つ目は、国家・社会の構成員として、有為な国民の育成を教育の役割として書いてありました。公共の精神とか、道徳心とか、規範意識、郷土、国を愛する心などがとても強調されています。そして、奉仕活動まで盛り込まれようとしています。このことは、一人一人を大切にする、それよりも個人は公共に仕えるというニュアンスを感じます。まるで国が画一的に望む従順な人間の育成を求めているようで、怖くなりました。一人一人の子どもは、国家のために教育されるのではなく、教育というのは一人一人が受ける権利を持っているのではないかと思います。
  最後に、「国際社会に生きる教養ある日本人の育成」という言葉を見ました。その言葉だけならとてもよいなと思います。でも、自国の価値を一層高めようと努力する心が国を愛する心だという文字も見ました。その考えは、国際性と言いながら、あくまでも日本の国家に有利に働くような、経済競争をにらんだ国際性のような気がしてなりません。世界のいろいろな国において、国家戦略としての教育変革が急速に進行しているということを名目に、エリート教育を進めているのではないでしょうか。
  初めに戻りますが、子どもたちは大人に対してSOSを送っています。そんな子どもたちに、私たち大人が返すものが、追い打ちをかけるような競争社会や強制的に国を愛する心や公共心でしょうか。ある新聞の記事で、すみません、どこの国か忘れましたが、ヨーロッパではいろいろな立場、きつい立場を持つ子どもが、地域の学校に入学したいという意思を示したら、行政はその子のために学校に環境整備や加配教員を配置するそうです。それが行政の仕事だからということです。誰のための教育かはっきりしている国だと私は思いました。決して国家のためではないはずです。一人一人の子どもを見詰めている、すてきな国だなと思います。
  子どもたちに「国を愛せよ」、そう言う前に、国家が一人一人の子どもを愛していってほしいと思います。そうすれば、何が大切なのか見えてくると思います。子どもたちは、大人が自分を大切にしてくれているということを感じたとき、初めて自分が大切だ、そして友達が大切だと思えるようになると思います。その延長に、自分の国やほかの人たちも大切に思えるようになると思うのです。私自身も、我が子を含めて、目の前にいる子どもたちを大切に愛していきたいと思います。私たちが未来を担う子どもたちにしなければならないことは、教育基本法の見直しではなく、積極的に現教育基本法を生かして、活用していくことではないかと私は思います。

布村生涯学習政策局政策課長  どうもありがとうございました。
  引き続きまして、佐藤恵子さんより御意見の発表をいただきます。よろしくお願いいたします。

佐藤恵子(高等学校教員)氏
  こんにちは。私は、福岡県の公立の高等学校に勤めております佐藤と申します。本日はこのような機会を与えていただきまして、本当にありがたく思っております。
  私は、審議会の中間報告で、これからの教育は「新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成を目指す」ものであり、この観点から、現行の教育基本法では不十分であると御指摘の点に、心から賛同いたしております。今こそ制定後半世紀を経過した教育基本法を見直し、教育の基本について、根本について、家庭、学校、地域社会だけでなく、社会全体が考えるべきときだと思います。特に規範意識が低下し、公と私の区別ができない、自国の歴史や文化をあまりにも知らない子どもたちの現状を考えるとき、公共の精神や道徳心、自立心及び日本人としてのアイデンティティの育成が最重要課題であると私は考えます。集団より個人を、責任より自由を優先してきた社会です。今、教育の力でこれを変えなければ、そして一人一人が強くてたくましくて、世界で集団ででも協力してやっていける日本人を育てなければ、我が国の将来はないと考えます。自分たちの祖先が何を思い、何を考えてきたか知らないということは、結局、自分自身を知らないということではないでしょうか。
  ただ、一つお願いしたいのは、このすばらしい教育理念をどう実現していくのかについて、具体的な指針と方策をお示しいただきたいということです。私は、国際的教養人の育成を教育目標とする普通科高校で英語を教えております。生徒一人一人の能力を最大限に生かすために、保護者や地域社会の期待、ニーズにこたえるために、教師たちは朝早くから夜遅くまで家にも仕事を持ち帰りながら指導に当たっております。日々の授業や放課後・休日の部活動指導、学校行事、これらに追われ、教育を熱く語り合う余裕もない職員室です。それでも個に応じた指導、国際人の育成、情報教育、キャリア教育とますます膨らむ学校教育への期待に、何とか精いっぱいこたえたいという願いと熱意は、みんなの先生が持っております。どうぞ学校現場に、日本人としての誇り、社会の一員としての在り方を、どのようにして教えていけばよいのか、私たちに一体何ができるのかをじっくり考えることのできる、ゆとりと学びの機会を与えていただきたいと思います。
  今、国は聖域なき構造改革、行政改革の真っただ中にありますけれども、国家百年の計である教育だけは聖域でなければならないと考えます。人的資源に頼るほかない我が国です。その将来を担う人材の育成こそ、国を挙げて取り組むべき最大の課題だと思います。
  今回示された新しい教育の基本理念が大きな花を咲かせ、立派な実をつけることを、国民の一人として、教育に携わる者として、そして二人の高校生の親として、心から願っております。ぜひ、人材確保、施設設備の充実、財政措置といった人的、物的環境や研修体制など、もろもろの条件整備が行われ、不易を守り、時代の変化に柔軟に対応できる実践的な指導ができますことを本当に心から望みまして、発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、杉本直樹さんから御意見の発表をいただきます。よろしくお願いいたします。

杉本直樹(教員)氏
  御紹介をいただきました杉本でございます。現在、福岡県の田川市の小学校に勤めておりまして、4年生42名の担任をしております。本日、福岡における「一日中央教育審議会」で意見を発表させていただきますことに、お礼を申し上げます。
  さて、早速ですが、先月11月に出されました中間報告に対しまして、若干の意見を発表させていただきます。
  このテーマについて審議がなされるようになった背景には、現在における教育の諸問題や社会を取り巻く情勢の変化、また、長引く不況に基づく将来への不安など、多くの国民が不安としていることを解決していく手だてを考え、緊急に取り組む必要が生じているからだと考えます。しかし、そのことがこと教育基本法の改正に論点が進んでいくことにつきまして、私は大きな懸念を抱いております。
  現行の教育基本法は、かつてない未曾有の犠牲者を出した、1945年に終結した第2次世界大戦での日本の国策の反省のもとに制定された日本国憲法の理念をその根底としております。それは教育の理念や理想を掲げた優れた基本法であると考えます。
  改正の理由の一つとして、世界情勢が変化する中、新しい時代を生き抜くためには、その時代に対応した教育の理念が必要だということですが、現在は果たして新しい時代なのでしょうか。あえて新しい時代ということであれば、これまでにも新しい時代となり得るいくつかの節目があったと考えます。その節目の都度、文部省はいろいろと対策を講じてきています。
  高度経済成長期には、いわゆる先進国に追いつき追い越すための学力の向上を図り、その結果として落ちこぼれが問題となりました。落ちこぼれた人たちの荒れによる校内暴力という課題も生じてきました。これに厳しく対処することで荒れはおさまったかのようでしたけれども、今度はいじめという陰湿な攻撃へと変化していきました。一方で、家庭内暴力という内なる方向へと進み、さらには不登校の子どもたちが増大するなど、問題が子どもたちの内面へ進むというように、常に形を変えながら様々な教育課題が生じてきています。現在は、学校5日制の実施と相まったように学力の低下が問題とされています。
  このような変化の中で、1984年(昭和59年)に臨時教育審議会が教育改革の必要性を指摘し、現在の審議に至っています。私は、「新しい時代を切り拓く」と提言しても、またすぐ新たなる諸課題が生じてくると考えます。今回その解決を目指して教育基本法を改正するようになれば、時代の変化に伴ってその都度改正を迫られるような、場当たり的な方法がとられるのではないかと懸念をします。
  現行の教育基本法は、前文にありますように教育が目指す理念や理想を掲げています。ですから、一見差し迫るような諸問題に対応できるような条文ではありません。だからといって、様々な分野からいろいろな指摘を受けた点について、具体的に判断できるようになってしまっては、法律という遵法と違法を判断するための基準が明確になり、一つ間違えば非常に危険なものとなる可能性があると考えます。
  例えば、心豊かでたくましい日本人を育成する観点からの理念や原則が不十分であるという指摘がありますが、豊かな心やたくましい日本人などということを法律に規定することには無理があるのではないでしょうか。特に心について法律が関与することは、教育において最も尊重されるべき思想信条や学問の自由に枠をはめてしまうことになると考えるわけです。現行では「人格の完成」と、短くも的確な言葉で表現されています。人格には、品性や道徳的行為の主体としての個人があるわけですから、教育の目的そのものでありますし、多様な価値観を持って人間というものを見詰めることができるすぐれた言葉であると考えます。
  さらに、これまでの論議の中で特に注目されているものに、他国の主権を尊重するためのものとしての日本人としてのアイデンティティ、いわゆる国を愛する心があります。これまでの審議の中で、この件に関しては国家至上主義的な考え方や全体主義的な考え方になってはならないとの意見が挙がっています。
  以上のように、法で心を枠づける危険性、ただし書きをつけなければいけないような不完全さ、それからアジア諸国を中心とした諸外国の懸念などもあって、この点については特に慎重にならなければなりません。
  以上幾つか述べた結論として、私は現行の教育基本法は、憲法とあわせてこれまで戦後57年間にわたって、少なくとも武器によって外国の領土及び人命を侵さず平和を維持させたこと一つとっても、法として重要な役割を果たしてきたといえ、今後も改正する必要はないと考えます。
  その基本法ですが、改正を提言している今、どれだけの人がその内容を理解しているでしょうか。現実としては、結果的に平等な教育になったと指摘があるとおり、教育の機会均等が保障されるなど、その理念は生かされています。しかし、条文については十分に知らされているとは思えません。私は、教職員になるために大学は教育学部に進みましたけれども、その講義の中で初めて教育基本法の条文について学びました。このように、教育に直接関係しない限り、ほとんど知られていないのではないかと考えます。その中で論議が進められているという点についても、審議の内容とは別に十分考慮すべきであろうと思います。
  さて、ではこれまでしてきた現在の諸課題を、どのように解決していくかという点です。それはこれまでも多くの人々が努力してきたように、国民一人一人が社会の現状を認識し、相互の努力と実践によって、地道に一つずつ解決していくしかないと考えます。学校だけが抱えがちだった教育の問題点を、広く保護者や地域に投げかける。つまり、開かれた学校づくりをする中で、学校の荒れが少しずつ立ち直っていったという例。近所とのつながりが薄れる中で、子育てネットワークづくりをし、孤立しがちな母親の子育てを支援をしているという例。ティームティーチングの在り方を研究し、子どもたちの実態に応じた丁寧な授業をつくり出すということで、子どもたちの喜びを引き出すなどの実践例が幾つもあります。深刻化する教育の諸課題が山積する一方で、このように明るい将来が展望できるような事例も数多く挙げることができます。そういう一つ一つの事例に学んでいくことこそ大切であり、そのような事例の交流や支援についての具体策をつくり上げていくことが論議に結びつくほうが、より大切ではないかと考えています。
  最後に、繰り返しになりますけれども、いまだ戦争の傷跡がいえてない現状の中で、多大な犠牲の結果として財産となった憲法と教育基本法に手を加えるほど、まだ歴史は新しくなっていないという感想をつけ加えさせていただきまして、私の今テーマに対する意見発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  どうもありがとうございました。
  続きまして、多田隈誠志さんから御意見の発表をいただきます。よろしくお願いいたします。

多田隈誠志(大学生)氏
  ただいま御紹介にあずかりました多田隈と申します。ただいま、大学生をやっております。今回は、中教審で出てきた幾つかの論点について、意見を述べたいと思います。
  中教審の答申で、愛国心を導入しようというのが出ていますが、私はこれに賛成です。なぜなら、国というものを考えてみた場合に、それはある一定の共通の基盤を持つ人たちでつくる共同体だと言えると思います。私は、この国で生きてきた先祖たちや郷土、そして歴史といった共通の基盤を背景とする自国民に対しての愛着心や、この国に生まれてよかったというような愛国心を育ててあげるべきだと思います。
  また、愛国心を否定するような人がいますが、そういう人たちは国家と個人を分離して考えていると思われてなりません。国家と個人は互いに独立の存在ではなく、国民や国家から様々な恩恵を受けているし、国家も国民の支えがなくては成り立たず、互いに生かし合っていると言えます。その意味で、共同体の一員として、社会のために積極的に働きかける人間を育てることは、共同体の代表である政府や、その構成員である国民の義務であると思います。
  そして、子どもたちが教育を受けられるのは誰のおかげであるかというのを考えてみた場合に、それは親をはじめとする国民が税金を払っていたり、その税金で国が環境を整備しているからなのです。子どもたちは、そういう国家やその構成員である国民に感謝すべきだと思います。それは、人間として持つべき当然の倫理観であり、道徳心だと思います。
  そう考えるならば、共同体への帰属心や愛着、つまり愛国心を教えることは、思想の押しつけなどではなく、しつけの範囲内のものだと思います。このように、教育の場においても愛国心は否定されるものではなく、その質こそ議論するべきだと思います。
  次に、国際競争についてであります。中教審の答申にあるように、これからの時代も、厳しい国際競争が予想されると思いますが、そのために国家はその荒波に耐えられる人材の育成を推進していくべきだと思います。具体的には、理工系の高等教育の充実などが考えられると思います。また、教育以外にも、国はアメリカのシリコンバレーや台湾のサイエンスパークのように、大学と企業が連携できたり、その敷地内に住宅を整備したりといった先端工業地域を整備するなど、市民がその能力を発揮できる環境を整えるべきだと思います。このように、教育だけでなく、教育を終えた人たちへの対策も考えておくべきだと思います。
  次に、家庭教育について。家庭は教育の場の基本的な単位であるので、親にはしつけなど子どもに相応の教育を施す義務とともに、自分の望むような教育を施す権利があると考えます。そこで、国は、現在は自治体に任されている学生の緩和などの環境整備を、積極的に推進していくべきだと考えます。子どもへの教育権はまず親にあるのであって、そういう親の権利をできる限り保障すべきだと考えます。
  最後に、男女共学について。男女平等意識の育成のために、男女共学を条文で奨励しようとされているが、それは男女共学校に通った人間のほうが男女平等の意識に優れると言っているように聞こえます。でも、それは偏見でしかないと思います。例えば男女別学校は、男子だけ、または女子だけで学校のことをすべてやらなければなりません。このように、むしろ性別を意識せずに行動できる面もあったりし、その意味で男女共学校よりも豊富な経験ができると思います。共学と別学に質の差はあっても優劣はなく、両方からのアプローチがあってよいと思います。教育基本法で片方を奨励する必要はないと考えます。
  また、男女共学については、女子差別撤廃条約を根拠に挙げられていると思いますが、それはちょっと誤解があるかと思います。女子差別撤廃条約にある男女共学というのは、主に発展途上国など女子が十分な教育を受けられない国に対して、女子にも教育を受けさせなさいという意味で使われています。また、この条約で言っている教育における男女平等というのは、性別に関係なく同じ教科書や設備、そして同じ資格を持つ教師からの教育を受ける権利、つまり機会の均等を要求しているのであります。我が国のように義務教育課程で男女の教育の機会均等が達成されている国では、むしろ一歩進んで教育の多様性を確保するために、公立の男女別学校を設置することも考えてよいと思います。
  最後に、男女共同参画社会と関連して、ジェンダーフリーというものを根拠に男女共学をしようという意見もありますが、それは先日の国会で福田官房長官と坂東眞理子男女共同参画局長が、男女共同参画社会は性差を否定するものではなく、ジェンダーフリーとは違うという答弁と矛盾していると思います。具体例を挙げることはしませんが、ジェンダーフリーに基づく常識では考えられない教育が行われていると聞きます。国や文部科学省は、こうした国の方針と異なる現場の実態を調査し、改善していくべきだと考えます。また、教育基本法や教育振興基本計画にはジェンダーフリーととられるような内容を盛り込むべきではないし、ジェンダーフリーを否定する文言を盛り込むべきです。
  最後になりますが、新しい時代に向けてよりよい日本人を育てるという視点で、国、政府の皆さんには政策を立てていただきたいと思います。以上です。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、箱田麗蓉さんから御意見の発表をいただきます。お願いいたします。

箱田麗蓉(パート)氏
  私は、箱田麗蓉と申します。私は、在日中国人です。38年前、小学校3年のときに日本に来ました。当時の台湾の教育のせいか、幼心にも敵国に行くんだという不安を持って来ました。そのときは大牟田というところに来たのですけれども、本当に皆さんやさしくて、17歳のときに日本に帰化しましたけれども、日本で義務教育を受け、高校、大学と進学しましたが、いじめられたりとか、本当に不利益をこうむったという体験がほとんどありません。これも平和憲法を持って、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するという教育基本法の精神が、やはり教育現場で生かそうということがあったのだろうなと今に思います。
  今回の意見発表の応募に当たりまして、憲法と教育基本法を何回も読み返しましたけれども、「平和」という言葉が何回も出てきます。あの悲惨な戦争はもう二度と繰り返したくない。これからは政府のそういう不当な支配に屈することなく、平和な世の中をつくっていくのだ、世界の国と仲良くやっていくのだという強い決意が感じられまして、胸が熱くなるような思いがしました。その理想の実現のためには、教育の力にまつべきものだという理念は、今後とも大切にしてほしいと思います。
  さて、私は日本人の夫と結婚しましたけれども、17年前に初めての子が生まれました。そのときに、この子は日本と中国の両方の血を持っているわけですね。今はハーフでなくてダブルと言うらしいのですけれども、この子がどんな大人になってほしいかなと考えたときに、やはり第一に平和をつくっていける人にということが出てきました。自分を大切にして、自国を愛するように他人やほかの国も愛せるような人になってほしいと思います。世界中のどの国の人とも争わない心を持ってほしいなと思います。私は、子どもたちには自分の国の文化とか伝統を誇るばかりではなくて、自分の国の欠点も素直に認められるような心を持って育ってほしいと思います。他国に対しても、文化の違いに対しても、寛容な心、精神を持ってほしいと思います。これは55年前の新生日本の教育の根本であったと思います。それはこれから先の時代にも共通することだと思います。
  今回の中央教育審議会では、国を愛する心情のことが随分取りざたされていますけれども、パンフレットを読んでみましても、基本理念として追加するべきではないかと書いてあります。でも、今の教育基本法をもう1回読んで思うのですけれども、基本法にはあいまいな概念の言葉がほとんど使われていないと思います。平和、福祉、真理、勤労とか、こういった言葉は国民が大体一致して想像できる言葉ばかりだと思います。ただ、国を愛する心情といったときに、やはり統一した見解というのは、今、会場にもたくさん皆さんいらっしゃっていますけれども、こういうものだという統一見解は難しいのではないかと思います。
  例えば、戦争のときに国のために死んでもいいと思う人がいて、でも本当に国のことを思えば、破滅に導いていくこの戦争には反対しないといけないと思う人と、どちらが愛国者かといったら、それは一概に言えないと思います。また、三味線をやっている人のほうがヴァイオリンを習う人よりも愛国心があるというふうなことも言えないと思いますので、統一した概念が規定されにくい言葉というのは、やはり基本法というところには合わないのではないかと思います。ましてや教育現場のほうに入れ込んでいくと、今、福岡市でも評価のことで通知表に評価の文句が入れられていますけれども、評価というところにはまたもっと合わないものではないかと思います。
  私は、愛国心は教え込むものではなくて、はぐくんでいくものだと思います。私は日本に住んで38年になりますけれども、日本の人はすばらしいですし、日本の文化は本当にすばらしいです。パンフレットに、何か今自信を喪失している日本人と言われますけれども、皆さん自信を喪失しているんですかね。自信喪失というよりも、戦後、国が戦争でゼロの状態になって、やはり豊かになっていこうとしたときに、物の豊かさを追い求めていったと思うのですね。それが今ちょっと不景気だから、お給料前になりますと何となく寂しく、自信がないような状況になっているだけじゃないかと思います。
  そういうすばらしい日本文化というのは、教育現場とか、そういうふうな触れる機会というのはたくさんつくっていいと思います。日本の戦後の生活様式は、本当に激変したと思います。その激変の中で、習慣とともに消えていった文化がたくさんあるのではないのでしょうか。例えば伝統食ですけれども、食欲が大事と言われますが、人間の体は食べ物でできていると思います。食べ物はとても大切です。先日、学校の給食試食会がありまして、参加しました。メニューは、まるてんうどんと野菜ソテーでして、うどんは「うちはだしにこだわっているんです」と言って、昆布とカツオでとっておいしいものだったのですけれども、それをパンと牛乳と一緒に食べるのって、やはりすごく変なものです。今の栄養学はドイツの学問を基本にしていると聞きますけれども、日本人の風土、体質に合ったものを選べるような、そういった学食をしていってほしいと思います。
  また、伝統芸能とか、工芸、技術、日本的な音楽ですね。そういうものがまだ現存して、一所懸命努力している方が元気でいらっしゃるうちに受け継ぐような、バックアップしていくような体制をつくっていってほしいと思います。それは教育の場でたくさん触れられるように、また環境としてホールをつくったり、低料金で質のよい文化に触れていくことが、大事にする心につながっていくと思います。そういうふうに環境整備をしていくのが大事ではないかなと思いますのとともに、学校だけでなくて、生涯学習していくのだというふうなことで、長い目で見ていった教育をつくってほしいと思います。どうもありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、平賀昌幸さんから御意見の発表をいただきます。お願いいたします。

平賀昌幸(会社員)氏
  紹介いただきました平賀です。私は教育の専門家ではありませんが、企業に働く一サラリーマンでありまして、また3人の子どもの父親であり、PTAの役員などもやって、学校の現場を見てきた者としての率直な意見を述べさせていただきたいと思います。
  今回の教育基本法の改正案に当たってですが、もう一度基本法というものがどういうものかというのを改めて読んでみました。現行の教育基本法が制定されたのが昭和22年、まだ占領下にあって、それまでの我が国の価値観が全く灰塵に帰してみんなが混乱状態の中にあったときに作成されたものと思われます。今回それをもう1回読んでみると、憲法とよく似ていますが、立脚すべき伝統、文化、そういった土台を見失って、人類の普遍的価値観とはというような視点で、一所懸命手探りしているというようなことがうかがわれます。それが見つかっていないといいますか、夢想的なことを模索しながら確信を持てないまま、そういう親から育てられた子どもほど不幸なものはないと思います。
  この半世紀を経てみて、その教育が生み出した結果というのは、目を覆いたくなるような精神的な荒廃です。教育を根本的に変える必要に迫られている、こういう中で、今回中教審の中間報告で示された内容を見て、私は大いに希望を見出しています。
  その第1は、国や郷土を愛する国民の育成ということを初めて教育の目的として正面に掲げていることです。グローバル化というのは新しい時代の代名詞のようにありますが、国境や民族意識が消えることを意味してはいません。むしろどこの国でもその逆が起きているのが実情であります。また、建設的な意味においても、人間一人一人の個性が尊重され、その長所が引き出され生かされてこそ社会の発展があるように、自らを蔑むようないじけた人間には誇りや倫理観が育たず、社会で信頼される社会人とはなり得ません。
これはそのまま国の姿にも当てはまることであって、国にはそれぞれ固有の歴史や文化や国民性があり、その特徴が国際社会で生かされてこそ、真の貢献が可能であると思います。また、そういう貢献こそが、それぞれの国に期待されているものと思います。
  そのためには、まず自分の国のことを肯定的によく知ることが必要不可欠ですのに、この大事なことが、なぜ今までスッポリと抜け落ちていたのかと思います。
  私は住友化学という企業で働いていますが、欧米だけでなく、韓国や東南アジア、またインドにも工場を建設して稼動させる時代になりました。海外派遣ということも、すぐ身近なことになっています。それでみんな熱心に英会話の勉強に取り組んでいますが、さて海外に出て日本のことを聞かれたときに、悲しいぐらいに何も日本のことを紹介できません。言葉については通訳や立派な翻訳機も間もなくできるでしょうし、そういう買えるものがありますが、語るべき内容を持っていないということは致命的であり、相手には大きな失望を与えてしまいます。
  そこで、昨年、海外駐在員への研修には、歴史観や国益についてもちゃんと教育するようにと会社に提言しました。あの同時多発テロに遭遇したアメリカ駐在の部長がおりまして、即座にその必要性を認めて関係者に伝えてくれました。今回、中教審の中間報告では、愛国心という言葉すら使えないと聞いて、いささか病的であると思っています。この際はっきりと明記していただきたいと思います。
  次に、教育を受ける権利の中で、男女共同参画社会への寄与ということが盛り込まれておりますが、これには絶対反対です。現在でも、教育現場で性差の区別までが差別とされて、父兄からは疑問の声が多々挙がっています。私の友人が通っている熊本の八代の中学では、体育の時間に男女を同じ教室で着替えさせています。そのお父さんは大変怒っております。今回もこの中間報告の文言の中に、「教育のあらゆる機会でこれを推進する」とうたわれていますが、このような言葉を後ろ盾にすれば、必ず現場の混乱に拍車をかけることになると思います。
  次に、具体的な教育振興の在り方について、3点ほど提案したいと思います。
  一つは、義務教育における学校選択をある程度自由にするということです。私も含めて、父兄の多くは、ゆとり教育に疑問を抱いていますが、総合的学習という名で学校の裁量範囲が広がっていく中で、学校も教師も、より魅力あるものを目指してはどうでしょうか。魅力のない学校はさびれていくので、自己研鑽や個性を伸ばす工夫が必要となって、必然的に質が向上すると思います。また、いじめや不登校の対策にも大きな効果を発揮すると思います。
2番目は、教師の資質の向上です。教育は、師に対する尊敬と信頼があって初めて成功するものだと思いますが、いつからか学校には教壇が消えています。先生の側は生徒と平等と言いますが、子どもにとっては先生は絶対であり、本やコンピューターから習うのではなくて、人格を通して学ぶものは、よきにつけあしきにつけ心に深く刻まれることを自覚すべきです。今までのような無責任な自由と権利だけの主張では立ち行かなくなっていく時代に、弱いものも抱きかかえていくようなたくましい人間に子どもを育てるためには、自己犠牲の尊さも教える必要があると思います。それゆえに、教師は労働者でなくて、聖職意識を復活させてほしいと思います。
  三つ目は、エリート教育の必要性です。東大の学力は世界でも、この間までは40位と言っていましたが、今は120位まで落ちたという話も聞きます。学力だけのことではなくて、最近、企業に入社してくる一流大学の学卒の新人に、エリート意識というものがありません。これは何も差別とかいう問題ではありません。「大した大学ではありませんよ」と言って媚びる者が多いのです。「しっかり勉強してきました」と言って、「将来、大事なところを担っていきます」というような気概がないのが心配だと言っているのです。これまでのエゴイズムの教育や悪平等の教育が、リーダーシップや責任を引き受けていく精神を蝕んでいるとすれば、これからの将来を大変憂慮する次第です。
  最後に、教育は成果があらわれるまでに時間がかかります。一刻も早くこの基本法の改正がなされるように願っています。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、古庄典子さんから御意見の発表をいただきます。お願いいたします。

古庄典子(教員)氏
  皆さんこんにちは。よろしくお願いします。私は、福岡県の南のほうの大和、のりの大和ですが、大和町の大和中学校で音楽の教員をしております古庄と申します。よろしくお願いいたします。
  もういろいろ意見が出ましたので、若干ダブるところもありますけれども、一応8分以内ということで考えてきましたので、意見を言わせていただきます。
  まず、教育基本法ができるまでを考えてみます。日本は、さきのアジア太平洋戦争で多くの人々を亡くし、また、アジアの人々を中心に他国の人々を殺しました。敗戦後、天皇制国家主義や戦争の反省に立って、「もう二度と戦争はしない」と平和主義を貫く日本国憲法をつくりました。教育基本法は、この新憲法の理念に沿ってつくられた準憲法的な性格であり、教育根本法―先ほども言っていただきましたが―とも言うべきものです。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」と前文にあるように、教育の理想として光り輝いています。それは、近代社会になって人類が到達した「人権思想」を高らかにうたっています。
  中間報告にあるように、法全体の見直しの考え方が決まった後で改めて検討するというのは、道理に合わないのではないでしょうか。初めに改革ありきという考え方は、誤っています。前文があって、そしてその後に条文の数々が来るのではないでしょうか。各条文では、教育の目的、方針、そして憲法の25条、26条にあるように、人間として文化的に生きる権利、その権利としての子ども、青年の学習権の保障などについて触れています。
  教育基本法は、短い文章で簡潔に、そして極めて最も大切なことが書かれていますが、その背面や行間には、過去の反省に基づいて国家や支配権力者によって再び教育が侵されてはならないという思いが込められています。そのことを第10条では、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」としています。50年以上も経ち、新しい時代にふさわしい基本法の見直しをということですが、第1条から第10条まで、どこを読んでも教育基本法の理念が古くなった、現代に合わなくなったということはありません。時代を超えても変わらない価値のあるものだと言えます。これは「教育基本法をもう1回勉強しようや」と言って集まった仲間の中で、一致した意見でした。むしろ、今まで50年以上の中で、教育行政や施策について反省や総括が全然なされていなかったということが問題だと思います。
  さて、11月14日に出されました中間報告の中から、3点に絞って話をさせていただきます。
  先ほどから意見がどんどん出ていますが、まず愛国心についてです。これは「国を愛する心」と修正されましたが、愛国心は1966年の中教審答申の中の「期待される人間像」、それから臨教審答申などでも触れられてきました。1975年の自民党文教部会は、「高等学校制度及び教育内容に関する改革案(中間まとめ)」の中で、「教育基本法では『個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する』……」云々ですね、ここの部分のところですが、「……と述べているけれども、祖国を愛し、祖国に尽くし、国家を通して世界人類に寄与するという順序的な発想をさらに強く表現すべきであった」という部分と、今度出された「日本人としてのアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)」と「国際性」のところですが、その部分が通ずるところがあります。一方では個人の尊厳をうたい、個人が大事なんだと言いながら、他方では国家主義的な発想で国際化を唱えるという考え方に、両者は共通点があるように思います。
  ちょっとそれるかもしれませんが、私たちがやっていることをちょっと紹介します。以前、日本が倭国と言っていた時代がありました。もちろん、半島にも大陸にも倭の国がありました。その時代は、海峡国家でした。ですから、国というものがまだ存在していなくて、周りの地域と自由に交流をやっていました。まず国ありきということではなくて、個々を生かし、人々が互いの違いを認めながら、東アジアの仲間とのつながりをつくっていくということから始まるのではないでしょうか?
  そこから、世界にもつながる地球規模の社会ができると思います。私たちは、東アジア交流学院というものもやっておりますが、1990年から10回にわたり韓国や中国、中国が主ですが、小・中・高校生、延べ人数にすると200名以上の子どもたちを毎年中国の子ども、青年たちと交流させてきました。そして、個と個のつながりをつくってきました。今も北京や上海、青島などで私たちの教え子や仲間が活躍しています。そのようなことから、21世紀は日本という国、枠にとらわれることなく、まずアジアとの連帯からグローバルな社会を築いていけると思って地道に活動しているところです。
  次に、中間報告は、「知の世紀をリードする大学教育の推進」を挙げています。ことさらに大学教育を持ち出すことは、今まで以上に―もうかなり進んでいます。エリート教育を重視していくことを示しています。能力主義、競争主義がこれ以上に進めば、「できる者」と「できない者」の階層分化が一段と進み、教育はさらに荒廃します。子ども同士で協力したり連帯していくということがなくなっていきます。それを、前に述べた「国を愛する心」という道徳教育の強化で乗り切ろうとするのでしょうか。
  また、家庭教育についても述べてありますが、「家庭教育力の崩壊」は、多分に生活基盤からきています。失業、単身赴任、深夜労働などなどがあります。ですから、家庭の教育力を育てるためには、多くの人々の生活基盤を安定させることが重要です。
  今、若者のフリーターは194万人、無業者は28万人、引きこもりを含めると300〜400万人の若者が安定した職業に就いていない状況があります。若者や子どもたちの夢を奪っている現実があります。これは子どもたちの問題ではなくて、大人の問題であり、社会病理です。
  家庭教育の在り方について法律で規定することは、プライバシーを公権力が侵害し、思想統制への道を進むことになります。
  以上のことから、教育基本法改正見直しには反対です。初めに述べましたが、憲法と教育基本法があったからこそ戦争への道の歯どめになった55年があります。今、私たちは教育基本法の崇高な理想をもとに、平和な社会を築くために教育実践をしていくべきだと思います。
  教育基本法は改正する必要はありません。どうもありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、松井圭三さんから御意見の発表をいただきます。お願いいたします。

松井圭三(教員)氏
  皆さんこんにちは。私は中国短期大学幼児教育科の福祉教員をしております松井と申します。よろしくお願いいたします。
  最初に、戦後の焼け野原の中で、我が国の教育の在り方を示した基本法ですが、非常に格調高く、また理念そのものについて言えばすばらしい内容だと感じております。
  さて、このたび11月14日に中教審の中間報告が発表されまして、基本法そのものの見直しがうたわれておりますが、この場ではまず基本法と教育振興計画についての私見を述べさせていただきます。
  まず教育基本法ですが、正直言いまして私自身、最近まで全文に目を通すことはありませんでした。つまり、ほとんど基本法については知らないまま今日まで生きてきたと言えます。私自身、小学校4年の男子、小3の女の子、4歳の男の子を持つ親ですが、私自身が学校教育や社会教育の中で教育基本法について学ぶ機会はありませんでした。また、子どもが通っている小学校でも、基本法についての言及を聞いたことがありません。
  何が言いたいかといいますと、まず教育基本法を改正する前に、一定期間、具体的には2〜3年間、国民に対して同法の理念を普及または啓発してはいかがでしょうか。その根拠は、先ほどもありましたが、この春の日本PTAの全国協議会で、小中学生の保護者を相手に調査しますと、4,800人の回答のうち85%の方が基本法を知らないということがありました。ゆえに、国民に対して周知の上、国民的議論を経てからでも、基本法の改正は決して遅くないのではないかと私自身考えております。
  そのことを前提といたしまして、私自身が教育に関しまして将来的に見直していただきたい点を数点挙げたいと思います。
  まず一つは、政治教育の在り方について言及したいです。基本的に、一党一派に偏った政治教育はもちろんだめであります。しかし、若者の政治離れが進んでおります今日、教育の中で、民主主義とは何なのか、自分たちの権利と義務を子どもたちに対して明確に学ばせる必要があります。また、自分たちが社会の担い手になる。また、自分たちが有権者として一票を投じ、自分たちが主体的となり、また自分たちの意思と行動で社会を形成できる市民であるということを、もっと子どもたちに知っていただきたいのです。ゆえに、一人一人の有権者の判断で私たちの生活が決まるということを、もっと子どもたちに教える必要があるのではないでしょうか。しかし、現実は、基本法の政治教育の条項に遠慮して、学校現場では一般的な政治教育がややおろそかになっているのではないかというのが、私の考えであります。
  次に、宗教教育ですけれども、「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」という規定がありますが、これは確かに重要なことであり、これからも存続させるべきだと思います。しかし、宗教の持つヒューマニズムの精神、生命の慈しみ、他者へ奉仕する理念は重要なのではないでしょうか。これらのものは、一般的価値のものとしまして学校教育、社会教育の中でもっと展開をされてもいいのではないでしょうか。
  その理由といたしまして、今日、私たちの社会は殺伐としておりまして、自分さえよければいいという社会が蔓延しています。ゆえに、一人一人のちょっとした配慮ややさしい気持ちが重要です。私自身、社会福祉を勉強している者ですが,社会福祉の歴史も、制度、サービス体系ができる前は、博愛事業とか、慈善事業が欧米、日本におきまして顕著に展開されてきました。その動機は宗教的動機でなされたものでありまして、私自身はクリスチャンではありませんが、キリスト教の果たした役割は重要だと思います。私が言いたいのは、一つの宗教に肩入れするのではなく、宗教の普遍的価値をもっと子どもたちに教えることが重要だと考えています。ただし、戦前の日本のような国家神道に戻れということでないことを、あえて申し上げたいと思います。
  次に、第6条「学校教育」についてですが、教員についてですけれども、まず教員は学校におきましては非常に重要な存在であると思っておりますが、中間報告にも、使命感や責務を明確にし、資質の向上、研修の重要性について触れております。それは全く異論はありませんが、高等教育の教育上の専門性について言及させていただきます。
  今のところ、幼稚園から高校まで教員免許がありまして、教育者としての知識や技術を学んで、先生方は教壇に立っております。しかし、高等教育は研究重視、教育は付随的業務として考えられまして、教員採用におきましてもいわゆる研究業績が第一義として考えられてきました。ゆえに、教員免許は不要でありまして、また採用された後も、小学、中・高の教員なら、ベテランの教員の指導を受けながら教える技術を学んでいくのですが、大学等の教員は何の研修すらなく、独断で講義が展開されております。
  そして、今までのように、子どもがたくさんいまして、高等教育機関の進学率が低い時代ならまだしも、これからますます少子化が進展します。2007〜2008年には、高校生全部が大学に全入する時代を迎える高等教育ですが、これからやはり大きく変化をせざるを得ないと思います。ゆえに、教育を重視し、一人一人の学生の個性を伸ばしながら、よき社会人、職業人を輩出する高等教育機関であるためにも、ある種の教員免許とか、一定の研修制度が必要であると私自身思う次第であります。
  次に指摘しておきたいことは、「歴史的変動の時代への挑戦」の中で、「高度情報化の進展と知識社会への移行」があります。これからITの進展によりまして、目まぐるしい大量の情報が子どもたちに降りかかってきます。つまり、新聞やテレビ、雑誌、インターネット等の多くのメディアが存在し、ありとあらゆる情報が錯綜する中で、学校教育の役割は重要です。このような状況の中で、メディア・リテラシーという概念が存在しており、情報を主体的、批判的に読み解く能力が今こそ問われております。学校教育におきましても、情報を読み解く力を養う必要があると思います。
  加えて、これからの教育の目標に関しましてつけ加えさせてもらいたいのですが、人権感覚を培い、他者を認め、あらゆる人々とともに生きることのできる社会、これにこれから手をつけていただきたいと思います。いずれにしましても、これから国際化の中で、文化や言語、肌の違う方と共生し、障害者、高齢者等社会的背景が異なった者同士がともに生きる社会の構築が期待されております。ノーマライゼーションという言葉がありますとおり、地域社会で誰もが社会参加し、そして地域の中で思い思いの生活を誰もが送っていく社会の到来を一日も早く実現しなければなりません。ゆえに、人権思想を持った市民の育成をすることが必要であると私は考えております。
  次に、教育振興基本計画においてですが、計画策定そのものは異論ありませんが、この計画は教育基本法と切り離して、個別法として策定してはどうでしょうか。その理由は、教育の基本方針が明確であるならば、教育方針以内で地方独自の教育振興計画の策定を認めるべきであると考えます。
  例えば、社会福祉を例にとりますと、以前は中央集権、機関委任事務の福祉事業が中心になりまして、地方におきまして地域独自のニーズに対応したサービスの構築は困難でしたが、しかし今や市町村が主体となり、在宅施設サービスの政策決定がなされております。ゆえに、教育のほうも基本方針の枠内で地域の個性をある程度お認めになっていただきたいと思います。
  ゆえに、教育基本法に関しては、とりあえず国民に周知、普及、啓発し、その後考えるということをお願いしたいと思います。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  最後に、三宅浩正さんから御意見の発表をいただきます。お願いいたします。

三宅浩正(会社役員)氏
  三宅でございます。このような場に立たせていただきますことを心より感謝申し上げます。
  私の所属をしております社団法人松山青年会議所というところがありますが、こちらが本年度50周年を迎えまして、その記念事業としまして「教育改革フォーラム21」といった取組をしております。地元の教員の皆さんやPTAの皆さんとか、市民の皆さんをお招きして、今の教育の一体何が問題なのか、どこが問題なのかといったような議論を積み重ねてまいりました。
  その中でも、たびたび教育基本法の改正という話が出ておりまして、特に改正の前提として重要なポイントとして、愛国心の欠如といったものを認識する必要があるという意見が非常に強く出ておりました。この取組は報告書にまとめられ、協賛、後援をいただいた自治体はじめ地元の様々な団体に年末までに提出されることになっております。
  また、松山青年会議所は、日本青年会議所が開催した教育改革地域会議にエントリーすることで、全国の133もの各地の青年会議所がエントリーしておるのですけれども、それぞれの会議所が地域、地域で独自の取り組みで教育関係の事業を行い、それを通して教育における個と公の調和とは何かといったものを導き出そうといった事業でございますが、そこで導き出されたのは、個の確立というのは公の確立につながるのだということ。そして、すばらしい公がすばらしい個をはぐくむ。こういった循環の関係がある、相互関係があるということでございました。
  現在の日本の教育に対する強い危機感、そして子を持つ親としての当事者意識、これが全国の青年会議所の恐らく共通認識と言っても過言ではないと私は思っております。日本青年会議所の取組は、「『愛国』のすすめ」と題する提言書にまとめられ、ここには教育基本法改正のJC私案が盛り込まれておりますが、そういったものを先月、小泉内閣総理大臣や全国都道府県知事はじめ関係の諸機関、諸団体に配布されたところであります。
  以上のような形で、本年、私の所属している松山青年会議所は、地元での議論を重ねつつ、全国の動向にも触れつつやってまいったわけですけれども、そんな中で思うに至ったところを、本日はたくさん御紹介申し上げたいわけですが、時間の制約もあるということで、なぜ愛国心をはぐくむ教育が必要かといったところを主に述べてみたいと思います。
  教育基本法は、戦後の占領下に制定されておりますが、当時の立法者たちの意志というのは、教育勅語と教育基本法は一体であるということでございます。両輪の関係にある。これは当時の委員会や議会の議事録を見れば一目瞭然でございます。1年3ヵ月はこの二つは同居しておったということです。その1年3ヵ月後に、GHQによって片方の車輪、教育勅語が外されるわけでございます。
  道徳教育は、教育勅語におんぶにだっこであった、完全にお任せであった。しかし、その部分がスッポリ抜かれたわけです。そういった片輪走行の状態で、我々は半世紀以上やってきたわけです。個の尊厳をうたうばかりで、公の意識について触れることができないとの指摘があるわけですが、これはいたし方がない。こんな大事なものを欠いたまま我々は片輪走行教育をやってきたのですが、これはそろそろ子孫たちのためにも我々はやめなければならないのではないか、このように思うわけです。
  昨今、自分だけがよければいい、そういった風潮が感じられる状況にあるのですが、これを打開するためには公に裏づけられた個の確立、内在する個を高め、はぐくみ、指標となるべき公の確立、これが急務でございます。
  また、我が国は民主主義国家と呼ばれておりますが、民主主義の国では、どこでもそうですが、国民一人一人が義務を果たすことで国が支えられています。民主主義というのは、国民に義務の履行を要求するシステムであります。自国を愛し誇れる気持ちがなければ、義務も真心を持っては履行し得ない、そういうものだろうと思われます。したがって、愛国心を育む教育こそが民主主義的教育であると、私はこのように思います。
  また、その民主主義の大切な柱の一つである機会の平等というものがありますが、これは教育基本法第3条でうたわれてはおりますが、どうやら教育の現場の状況を見ると、結果の平等を重視するといったような現状にあるのではないかと懸念をしております。例えば男女の性差というのは、最も尊重されるべき個性であると私は思うのですが、これが尊重されるどころか平らにされることで、なくすることで平等とするような、そんなようなことが起こっているのではないでしょうか。ひな祭りやこいのぼりが男女差別であるというような、区別と差別を混同した明らかに偏向した指導、こういったものが行われております。このような原理主義的な誤った民主主義を子どもたちに植え込み、例えば生活面での規範をゆがめてきてしまったのが、俗に言う戦後民主主義教育というものではないでしょうか。
  例えば、生活面での重要なものというのは、やはり道徳教育ですし、またこれはそれぞれの国で、それぞれの民族がその歴史と伝統文化をよすがにこそ見出していくべきものであるがゆえに、やはり愛国心というものをはぐくむ教育は必要であります。
  新聞報道によりますと、この中間報告の素案において、「愛国心」という文言を「国を愛する心」という表現に変更されたということでありますが、例えば「公共心」とか、「愛国心」という言葉は、普通の国であれば変な注釈つけずに、堂々と簡潔明瞭に表現されてしかるべき言葉であります。こういったことを変に遠慮しているところに、我が国の民主主義の未熟さがある、私はそのように思うわけです。
  最後に、森信三の言葉を紹介させていただきます。すなわち教育とは、次の時代に我々にかわってこの国家を双肩に担える力強い国民をつくり出すことなのです。
  中教審の皆様の高い見識をもちまして、古今に通じた誤りのない、中外に施して悖ることのない、立派な国家百年の大計が打ち立てられることを心より願うものであります。
  御清聴ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  以上、10名の意見発表者の方々から、貴重な多様な御意見をいただきました。本当に10名の方々、ありがとうございました。
  これからは中教審の委員の方々と御意見を発表をいただいた方々との意見交換の場とさせていただきます。ここでの司会は中央教育審議会の鳥居会長にお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

鳥居会長  それでは、意見発表者の方々にまず最初に、貴重な御意見を賜りましたことを心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。
  これから、意見交換を行いたいと思います。そして、今日いただきました御意見、それからこれから行います意見交換を持ち帰りまして、中央教育審議会のこれからの審議の重要な参考にさせていただきたい、こんなふうに思っております。
  それでは今日おいでくださった委員の皆様の中から、まず意見発表者に対して質疑が何かございましたら、お出しをいただきたいと思います。
  では、梶田委員、どうぞ。

梶田委員  いろいろと貴重な御意見ありがとうございました。
  皆さんにいろいろと伺いたいところはあるのですけれども、6番目に御意見いただきました箱田さんに、ちょっとだけ教えていただきたいのですが、お子さんをお育てになっていて、日本と中国のダブルという言い方をなさいましたが、やはり中国人としての自覚と、日本人としての自覚、「人」と言うのはおかしいかもしれませんけれども、中国の文化を引き継いでいる人としての自覚と、日本の文化を引き継いでいる人としての自覚ということを、両方ともたぶんお子さんにおっしゃってきたのではないかという気がいたします。そういう中で、もし中国のことを、こういう点は親として少し言ってきたよとか、あるいは日本のことはこういう点は言ってきたよというようなことがもしあれば、教えてください。

箱田氏  日本がどう、中国がどうというのは、私も8歳のときに日本に来てるから、それほどは言ってないのです。子どもたちはやはり日本で生まれて、日本で生きていく子どもだから、先祖に中国の血が入った日本人というふうな感じで話をしています。何をどうというはっきりしたものは、本当に普通の子どもさんとそれほど変わったことはしてないです。ただ、近所に朝鮮学校があるのですけれども、そことの交流をしたときに、朝鮮学校の子は本当の伝統芸能、歌とか、踊りを小さいときから知っていて、できるのですね。そのときに、私は、あ、この子たちに日本というものを教えてないな、ということは思いました。日本に住んでいるから中国のことは教えなきゃという意識は結構あるのですけれども、もう日本に住んでいるのが当たり前で、日本のことを教えてないなというような程度の子育てです。

鳥居会長  どうもありがとうございました。
  中嶋委員、どうぞ。

中嶋委員  今、箱田さんの大変貴重な御意見伺ったのですけれども、箱田さんの場合は台湾で生まれたとおっしゃいましたですね。日本に来て、今、日本国籍、日本人として生活される。その場合のアイデンティティですね。それは台湾の場合、中国とおっしゃるけれども、今の台湾の人たちはさらにそれを超えて台湾人意識、アイデンティティという言葉さえも台湾の人たちは新しい言葉を見つけて、ミ ン ド レ ン ト ン という、自分たちが同一の集団であるということを認めようという言葉をつくっているのですね。大陸中国のほうはそういうアイデンティティを持つことを逆に否定していますから。つまり、国家としての愛国心をものすごく強調しているわけです。愛国心とか、国家って、やがてオリンピックがあるけれども、中華人民共和国ほどそれを強調することはない。にもかかわらず、台湾の人たちはそういう中国意識ではなくて、自分たちが台湾という一つのまさに地域に根づいたアイデンティティを大事にしようという意識が出てきていると思うのですけれども、あなたの場合はあくまでもアイデンティティは中国なのでしょうか。台湾ではないのでしょうか。ちょっとそれを質問させていただきます。

箱田氏  ありがとうございます、中嶋先生。前提が違うのですけれども、私は台湾で生まれた中国人なのです。

中嶋委員  いわゆる外省人ということですね。

箱田氏  両親は中国の山東省の出身で、内戦のときに中国から台湾のほうに逃れたものですので、台湾人のアイデンティティというのは答えようがないですね。アイデンティティという言葉は、私は日本で住んでいる中国人ということで、やはりたくさん考えてきました。自分が一体何者で、どうしてここに住んで、これから何をしたらいいのだろうというのは、はっきりわからないのです。小さいときにとにかく親についてきただけだから。だから、アイデンティティの確立ということでは、本当にいろいろ思い悩みました。でも、もう住んで38年。台湾の人も、台湾ができてやはり50何年という経過の中で、もう台湾人なのだと思うのです。だから、私も今は、最初に在日中国人ですと言いましたけれども、それが自分のアイデンティティかなと思います。日本人と言われたら、日本人じゃないものなあ、と。中国人と言われても、でも私は日本国民だし・・・、ということで思い悩みましたけれども、やはり新しい、私は日本国民だと。

中嶋委員  質問したついでに私なりのアイデンティティについての考え方を申し上げたいと思いますけれども、よろしいでしょうか。
  私自身は今回の中教審の中間報告の中で、いわゆる国際社会に生きる日本人、つまり新しい公共とか、こういう問題が取り上げられたことは非常に重要なことだと思うのです。ただ、問題は、箱田さんがおっしゃったように、それを国家という枠でくくってしまうと、あなたのような場合がそこから抜け落ちてしまう。つまり、いわば日本人としてのアイデンティティということだけで、グローバル化とか、国際化ということを考えることには、私自身かなり批判的で、問題を提起しているわけです。
  今の国際社会というのは、もうちょっとそれを超えた……。たまたま日本というのは、幸いにして国家もあります。だけど、この社会の中には、すぐ我々の近くにもいわば国家の体をなしてないような、まだ国家の形成過程にもない、例えばアフガンなんかの問題は、あそこには地方自治もなければいわゆる国家もなかったわけですね。そういうグローバルな時代の中で、日本がどういうふうに国際社会の中で生きていくかという、両方をきちんととらえていかないと。
  たまたま我々は非常に歴史も伝統もある国家の中に、ある意味では安住しているわけですから。そして、国家にある意味ではいろいろ問題をぶつけて、その中で生きているわけですね。そのことをやはりきちんとわきまえた上で、同時にグローバルな、あるいはアジア全体を見ても、例えば人権といってもその人権がほとんど保障されてないようなアジアもすぐ近くにあるわけです、皆さん御承知のように。ですから、そういうところの全体を把握するような視野を持っていかないと、これからの日本の国際社会における役割というのは十分発揮できないだろう。そういうふうに我々は考えて議論しているわけですから、そこをぜひ御理解いただきたいと思います。

鳥居会長  ありがとうございました。
  では、佐藤委員どうぞ。

佐藤委員  公共の精神、公共の問題について、いろいろなお考え方を今日うかがい知ることができて、大変参考になりましたのですけれども、我々はこの社会の在り方について、従来あまりにもお役所といいますか、人に任せ過ぎてきたところがあるのではないか、そういう思いも私自身は持っております。
  実は数年前、司法制度改革で博多で公聴会がありまして、そのときに高校生の方が陪審制を導入すべきであるということを非常に熱っぽく語られて感銘を受けたことがあります。司法制度改革として、これから裁判員制度、陪審と基本的に同じだというように理解していただいて結構かと思いますけれども、これをいよいよ導入しようとしております。社会の秩序の在り方というのは、必ずしもすべて人任せ、あるいは裁判所やそういう人に任せるだけではなくて、国民みずからが参加しないとだめなのだという発想に立っております。
  今日、公共的なものについて非常に警戒心を持つべきだというお説については、私も一面共感するところがありますけれども、今申し上げたようなこととの関連で、公共というものに対して我々がこれからどういうようにかかわっていくべきなのか。この辺についていろいろな方に伺いたいのですけれども、最初におっしゃった川上さんにちょっと伺いたいのですが、これからの日本は公共性なしには、健全な社会、いい社会というのは築けません。公共的なるものをどのように築いていくべきなのか、どういうように我々はかかわっていくべきなのか、教育の場でどういうように我々が注意していくべきなのか、その辺についてちょっとお考えをいただきたいと思うのですけれども。

鳥居会長  それでは、どうぞお願いします。

川上氏  十分なお答えができるかどうかわかりませんけれども、私が意見の中で公共のことを批判をしたのは、非常に偏狭なナショナリズム、愛国心という、私たちが今まで築き上げてきたものがガタガタとこれで崩れていくのではないかというようなことで不安を持っているということで、公共の中に個が埋没していくのではないか、一人一人の存在が否定されていくのではないかというような今回の基本法の論議の在り方ですね、そこで批判の意見を述べたわけです。
  私自身、地域社会で生活しておりまして、一番危惧しておりますのは、子どもたちが遊びの時代を育ってないというか、いろいろな意味で小さいころから習い事であるとか、スポーツであれば大人がかかわる少年ソフトボールであるとか、うちの娘もバレーボールやっていますけれども、そういう中で子どもたちが地域社会で育っていない。近所の人が「おはよう、誰々ちゃん」と声をかけたときにも、誰、このおばさん、という中で子どもたちが毎日生活をしていて、公共というのは非常に大事なのだけれども、それは国がこういうふうにしなさいというものではなくて、一人一人が地域で生きて暮らす中で、いろいろな人とのかかわりや、それからもちろん家庭の中でも、例えば単純なことを言えば道にごみを捨てないようにするとか、近所の人に会ったら挨拶をするようにしようとか、私たちのいろいろな意味での地域社会が崩れてきているのではないか。そういう中で、公共というものも崩れてきているから、上からおっかぶせて公共の精神というのが今言われているような感じがしてなりません。私の感想です。

鳥居会長  それでは、市川委員、どうぞ。

市川委員  ほかに御質問がないようですからお伺いしますが、何人かの方にお伺いしたいのですが、一番最後に御意見をお述べになった三宅さんにお答えいただきたいと思います。教育勅語が廃止されたので、公共の精神とか、愛国心がなくなったというふうにおっしゃいましたが、しからば教育基本法に愛国心や公共の精神がうたわれてないかというと、私はうたわれていると思うのであります。今の教育基本法の第1条には、国家及び社会の形成者として育成を目指すと、こう書いてあります。国家、社会の形成者というのは、当然公共の精神を持ち、愛国心を持っているはずであります。そういうものを現在の基本法は目指しているわけでございまして、決して愛国心や公共の精神を否定していると私は思っていないのであります。
  三宅さんは、そうであってもそれが不徹底であるとおっしゃるのかもしれませんが、教育勅語には15の徳目が書いてありまして、最後に一旦緩急ある場合には国家及び天皇のためにすべてを捧げるということになっているわけでございますが、私は小学校時代は、校長先生が教育勅語を式のたびにお読みになって、それを聞いて育ちましたけれども、あまりそれによって愛国心や公共の精神が生まれたという自覚はないのであります。小学生でしたから、意味がわからなかったのですね。修身教育のほうが影響力があったと思いますが、現在は道徳教育をやっているわけでございまして、別段そういったものが否定されていると思いませんけれども。
  教育基本法により明確に公共の精神とか愛国心というものを書き込めば、それで日本国民に強烈な愛国心や大変すばらしい公共の精神が生まれることになるのでしょうか。この中間報告ははっきりそう書いてありませんけれども、何となくそうなるような印象を与えるような書き方、非常にぼかした書き方をしておりますが、はっきりそういうことが言えるのでしょうか。その点を三宅さんにお伺いしたいと思います。

三宅氏  ありがとうございます。ちょっと確認をしたいのですけれども、私が言いたかったことは、教育基本法を見直そうというのであれば、制定された当時のことを、どういういきさつであったかということはちゃんと理解する必要があるということで、1年3ヵ月のことを申し上げたのであって、これからそれを入れればどうなるかといったようなことは……ということがお聞きになられたいのですよね。
  私はそれは、正直申しましてわかるものではない。その足元をちゃんと見据えた上での議論が必要であるのに、何だか教育基本法というのは教育勅語が否定されて生まれてきたのだよというような、一般的なこれは誤解だと私は思っていますけれども、そういった理解の中でもし議論が中教審の中で進められておるのであれば、これはいけないなと、そんな思いで申し上げたことでございます。これでお答えになっておるでしょうか。

鳥居会長  今のことについては私からもちょっと解説をしなければいけないと思いますが、御指摘のとおり昭和22年の3月31日に教育基本法が制定されて、それから1年3ヵ月後まで実は教育勅語は生きていた。かつ記録によりますと、GHQの中に、これは現在でも存在しているものでありますけれども、教育勅語の英語とフランス語とドイツ語と中国語訳、4ヵ国語訳を1冊にしたものがあって、それを丹念にGHQの人たちが読んでいたという文献が残っています。その上で、1年3ヵ月後に教育勅語が廃止されたのではなくて、教育勅語はもともと法律でないことは最初からはっきりしていますので、教育勅語なるものの効果を停止するという決議を、参議院とそれから衆議院において行ったというのが、今おっしゃっている1年3ヵ月後なのです。
  このことについての詳細な議論といいますか、紹介をして、中央教育審議会の委員一人一人に対して事実認識を喚起するということをしたかと言われると、これは私は当然知っているものと思って、今申し上げたほど詳しくしておりませんでした。そこははっきりと申し上げておかなければいけないと思います。三宅さんの御指摘のとおり、そのような歴史的な事実についての認識をちゃんとした上で、それぞれの委員の方に、ではどう考えるかということで考えていただく必要があるということを今強く御指摘されたのだと思います。
  佐藤委員、どうぞ。

佐藤委員  一つ、大学、高等教育のことについてお伺いしたいと思いますけれども、高等教育を強調しているのは、エリート教育につながるのではないかという御意見もございましたけれども、現在の大学の現状、高等教育の状況をどのように御理解なさっておるのか。
  特に大学生である多田隈さん、多田隈さんは特に理系のほうが重要だということを御指摘になりましたけれども、理系の方なのか、文系なのかよくわかりませんが、特に理系のほうは結構お金がついているのです、実は。科学技術立国というようなことでですね。しかし、日本の高等教育の文系は、世界的に見ても相当問題のある状況ではないかと私個人は思っていて、中教審でも高等教育の重要性を強調してきた一人でありますけれども、多田隈さん、それから今短大講師をなさっている松井さん、お二人は現在の大学における高等教育の実情をどのように御理解なさっているか。簡単で結構でございますけれども、お聞かせ願えればと思います。

鳥居会長  先に多田隈さんからお願いいたします。

多田隈氏  ありがとうございます。僕は今、大学で理系を専攻しています。周りの友達とかを見て、自分もそうなのですけれども、あまり勉強というものをまじめにしてないような感じがします。文系についてなのですけれども、例えばうちの大学では、ある文系の学部では3年生のときに卒業論文を書いてしまって、4年生では1年遊んでいる、そういう状況もあるわけなのです。今、大学を第三者が評価するというのもありますけれども、個人的には出口をもっと狭めるべきではないかと思います。

鳥居会長  ありがとうございました。それでは、松井さん、お願いいたします。

松井氏
  端的に言いますと、大学の現状は基本的に競争がない、中に。何十人の教員がいますけれども、中で教員同士の競争がない。それから、一度採用されると終身雇用ということですので、非常に安定した職場ですね。しかし、現実は少子化で学生さんがどんどん減っていまして、入学定員も満たない学科がかなりあります。しかし、教員は現状についての認識がなく、従来の学校ということでずっと仕事をしてきておりますので、危機感もない方が多いということでして、中身は公務的な職場なのですが、しかし現実は変化しないと、今のままでは改革しないとつぶれてしまうというのが大学の現状ではないかと思っています。以上です。

鳥居会長  ありがとうございました。
  今の件は、これからますます同じ世代の方々の中で、いわゆる高等教育、これは我々の言葉で言うと大学教育、あるいは大学・短大教育と言ってもいいと思いますが、その段階に進む人の割合が、今から50年前にはほんのわずかであったものが既に50%近くなっている。もう間もなくそれが、世界の一番高い水準を超えて、50%をはるかに超えていく可能性が濃厚である、そういう時代に入っています。極端なことを言う人は全入ということを言う人もいるぐらいです。
  そんな状況の中で、教育基本法をずっと精査してきた中央教育審議会では、第1条から第11条までの、どこにも高等教育についての言及がないことについていろいろと審議をしてきた。その結果として、御指摘をいただいたようなところが書き込まれたと理解していただきたいと思います。

中嶋委員  今日は発表者と我々との意見交換という形でルールを設定していますので、その範囲でできるだけ私なりの意見も言いながら、意見発表者の方にもうちょっと伺いたいと思います。よろしいでしょうか。

鳥居会長  どうぞ。

中嶋委員  今日、いろいろ私どもの参考になった意見が非常に多かったのですけれども、一つは学校から教壇が消えているという言葉をどなたか吐いていらっしゃって、これは私も非常にショックを受けたわけですが。平賀さん。むしろここに一つの戦後の教育の混乱があるのではないかと思います。
  というのは、教育という言葉の原点は孟子にあるのですが、教える者がもっと自信を持って、基礎・基本を教えるという、ここが乱れると、教育の原点が非常にぼやけてしまう。
  そこで教育基本法を見ていただきたいのですが、教育基本法には、教育の機会均等というところに、第3条です、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」と書いてありますよね。ここはある意味で、教育ということに特化して考えますと、非常に重要で、教育というのは人格形成もあるけれども、やはり教えるということ、基礎・基本、それには学識や知識も入りますし、広い意味での教養も入るわけで、この教えるということの原点がぼけている一つの原因として、いわば能力に応ずる教育というものを否定してきた。能力に応ずる教育というのは、別に人格において違うわけではないわけですから、一所懸命努力して進んだ者には、それなりのいわば褒めた言葉が必要であるとか、それなりのクラス編制が必要であるとか。
  先ほど英語教育のことで私は非常に参考になったのですけれども、日本の戦後の英語教育は、非常に長い間英語教育をやっていても、ほとんど表現能力がつかない英語教育であった。そこで私どもも英語教育の指導方法改善といういわば大きな提言をしまして、今、文部科学省中心に英語教育のやり方を根本的に変えないと、日本人は国際社会の中からコミュニケーション能力を失ってしまうという危機意識を持っているわけですが、英語教育の佐藤さん、その辺のところをどういうふうに現場ではやれるのか。つまり、進んだ者には進んだもの、あるいは目的別に、例えば大学ですと、私はよく言う例ですけれども、ジャーナリストを目指すものはCNNのニュースを毎時間聞かせれば、すぐにコミュニケーション能力がつくわけで、そういう教育ができるのかどうか。その辺のところを含めてちょっと教えてください。

鳥居会長  どうぞ。

佐藤氏  失礼します。私の高校はほとんどの子が大学に進学するような高校なのですけれども、地域にありまして能力差が非常に激しい、大きいものですから、習熟度別の授業をやっております。ただ、今年、A、B、Cと、生徒の希望を入れながら、生徒が自分では力があると思っていても、Cでやりたいという子もいろいろいるのですけれども、3クラスに分ける授業にしてみて、非常に効果があるなと思っておりますが、実際問題として教室が足りない。それから、LL教室もいただいておりますけれども、教員の指導能力もうまく使いこなせるところまでいっていないというところもあります。
  それで、先ほど言いました、具体的にこういうことを教育振興計画のほうに挙げていらっしゃる中に、英語教育がありましたけれども、教員の研修もしていただいて、いいのですけれども、先ほど言いました条件整備をもっとお願いしたいなと言っておりました。
  あと、大学の入試のほうが変われば、高校のほうも変わってくるというところも確かにあると思います。表現能力までいっていない、あとは個人的な指導、自分でこういうことをやりなさいと個人指導をする、そこに終わっておると思います。

鳥居会長  ありがとうございました。
  そのほかには。永井委員、どうぞ。

永井委員  私のほうからは、第5条の、今の教育基本法でございますけれども、男女共学というところがあるのですが、これについてお二人の方から意見が述べられました。お一人は平賀さんですね、平賀昌幸さん。男女共同参画ということを今度見直しの方向で出してきております。中央教育審議会には8人の女性の委員が入っておりまして、これは委員全体の3分の1を占めるという大変な数でございますので、共同提案というふうな形で出させていただいたことの一つでございますけれども、これが現在の混乱に拍車をかけかねないというのは、もう少しこれを御説明いただけますでしょうか。
  人間は男と女がございまして、それぞれの個性でいろいろな社会に参画するチャンスが設けられるべきだと考えております。どういうチャンスを生かすかということは、個人の自由だと私どもは考えているわけでございますけれども、その辺もう少し、なぜ現在の混乱の原因になり得るのかということをちょっと御説明いただけますでしょうか。

鳥居会長  平賀さん、お願いします。

平賀意見発表者
  さっき一つ例を申し上げましたけれども、この理念が悪いということはないと思います。ただ、それを教育現場でどういうふうに実行されるか。しかも、中間報告の言葉の中に、「あらゆる機会でこれを推進する」というのが、私はとても気になったところです。
  さっきも言いましたけれども、中学2年生の男女が同じ教室で着がえるとか、男子は君呼びとか、さん呼びとかありますね、あれをもうやめるとか。そのこと自体が何で差別していることになるのかとも思うのですけれどもね。私のところの学校では男子も女子も同じ場所で騎馬戦をこの間やりました。子どもだからいいと言えばそうですけれども、それだったら国際マラソンだ、オリンピックでも、なぜ男女は一緒に競技しないのか。やはり体力差とか、性の区別というのはあると思うのです。それをどこまでかという線引きができなくなると思うのです、あらゆる機会でという言い方をすると。それはまたここにいる人でも随分感覚は違うと思いますけれども、この言葉を盾にしてどんどんすべてがこれでやっていかれると歯どめがきかない。そういう意味で危惧を申し上げました。

鳥居会長  ありがとうございました。永井委員、どうぞ。

永井委員  ありがとうございました。確かに男女の間は性の差というのがございまして、体力的にももちろん、それが一番端的な例ですけれども、あると思います。ただ、女性の中にも非常に優れた体力のある人は男性を超えるわけですね。その個性をどうするかという、そういう問題で……。

平賀氏  それがいつも気になっているところなのですけれども、それは確かにあるのですが、一部だと思うのですよ。一般的なことと一部のこと、いつも学校の中で問題だと思うのは、その一部のことに焦点を当てて、その一部を全体に当てはめようとするのがおかしいのだと思うのです。

永井委員  そうでもないと思いますが。それぞれ個性ですので、その個性をむしろ抹殺してしまうという方向に、今までのジェンダーというのは、文化のことなのですけれども、社会の文化がそうあったのではないか。そのことに反対しているのだということを御理解いただきたいと思います。
  もう一人、多田隈さんですが、確かに今の第5条は男女共学というふうになっているわけです。このことについては、私のこれは意見なのですけれども、必ずしも男女共学でなくても、別学というふうなやり方でもいいのではないか。いずれにしろ、やり方としては男女共同参画というやり方でやるほうがいいのではないかという意見を持っております。ですから、多田隈さんの御意見、補足していただけますでしょうか。
  私は割合その意見をとるものでございまして、改革の方向も男女共学と規定するよりは、男女共同参画という。教育というのは、男女が機会均等に働いていくのについて、非常に影響力が大きいのですね。先生方の指導、つまり職業選択のときの指導、「あなたはこっちのほうがいいのではないの」という、その一言が随分その人の将来を決めていく場面が多いのですね。そういう意味から、第5条の前段の部分、男女が互いに尊重し合いというところは生かしながら、必ずしも男女共学でなくてもいいかもしれないという意見を持っておりますが、補足していただけますでしょうか。

鳥居会長  多田隈さん、どうぞ。

多田隈氏  学校に通う時期というのは、中学校とか、高校というのは思春期で、自分も経験したのですけれども、非常に異性の目が気になるのですね。たまに女子高の体育祭とかを見に行ったりしたのですけれども、そのときに女の子の応援団が非常に生き生きしていたのが印象的だったのですね。これは共学ではちょっと難しいのではないか、そういうふうに思ったわけです。
  もうちょっと説明すると、応援団といった場合に、共学だと男女半分ずついても、男子が主な役割を得たりだとか、やはり男のほうがパワーがあるし体格も大きいし、そういうところがあるから、そういう意味で男女別学のほうが自分を発揮できるだとか、思い切り個性を発揮できるのではないかと、そう思っています。
  男女が共に個性を生かし合い、社会に参加する、という理念には賛成します。
  しかし、文部科学省の委嘱で作られた「未来を育てる基本のき」という冊子に書いてあるような、人が生まれ持った「性別」という個性を、「ジェンダー」だとして全て否定するのは、「個性を生かし合う」という男女共同参画の理念に反すると思います。
  「性別」という個性を、教育の場でどう生かし、育んでいくか、という議論をすべきだし、共学か、別学かは、そのための方法論として議論すべきで、それ自体が目的となってはいけないと思う。当然ながら、「ジェンダーフリー」のための共学はすべきではないと思います。

川上氏    今、女子高でのということがちょっと出たので、ちょっとだけ言わせてください。私は公立の中学校の教員をしていまして、男子、女子、両方ともおります。今、生徒会長も女の子が結構出ていますし、体育祭の応援のリーダー、必ずしも男子がやっているわけではなく、男子も女子もリーダー、「ブロック長」といいますけれども、生き生きとやっています。男子も女子も、男子のほうを女子が上にやるとかいうところではないです。今かなり混合名簿も進んでいますし、そういった状態です。

鳥居会長  ありがとうございました。

永井委員  はい、よくわかりました。

鳥居会長  それでは、先ほど手を挙げられた梶田委員、どうぞ。

梶田委員  時間がありませんので、別の問題にまいりますが、第9条の宗教教育について、中教審で随分論議があったのですけれども、なかなかこれが意見集約に至らないということがあります。これは御存じのように、今若い人が随分、いわゆるカルトというのですが、オウム真理教みたいなそういうのにいろいろと引きずられていくという実態があるわけです。こういうことを、そのまま教育の中で黙って見ていていいのだろうかということが一つあります。
  もう一つは、道徳教育の中で在り方、生き方、人としての在り方は考えていかなければいけないのだけれども、宗教というのは、仏教であろうと何であろうと、やはり在り方、生き方、この問題を長い時間かけていろいろと考えてきた。そういう文化的な一つの大事な伝統である。これも何かの形で伝えていかなければいけないのではないか。しかし、戦前の国家神道みたいになっては困るわけだし、一面的になったら困るわけだし、また、今現実にはいろいろと宗派が分かれているわけです。分かれているわけだから、一体普遍的な宗教心といったって、具体的にどうやったら普遍的なと言えるのだろうかというところで、なかなか今まとまらないのですが。
  いろいろと皆さんお考えあると思いますが、三宅さんと松井さんに、もしこれから宗教教育というのはこうあったらいいではないかというお考えがあれば。もちろん、いやいや、宗教教育のそういうことはあまり考えなくていいよということも一つ考え方としてあっていいと思うのですけれども。私が申し上げたような論議が非常にあるということをちょっと念頭に置いていただきまして、もし三宅さん、松井さんにお考えがあれば教えていただきたい。

鳥居会長  それでは、三宅さんからどうぞ。

三宅氏  私、本日は宗教教育の件には触れてはおらなかったのですけれども、私見でございますけれども、例えば米国の大統領が聖書に手を置いて就任の宣誓演説をされるということでございます。しかし、その国では、政教の分離というのはちゃんとうたわれている。我が国はどうか。こういったところは、考える力を持てるような教育を、私は受けてなかったなと。私が勉強してないだけかもしれませんけれども、そういった思いがいたしております。
  日本というのは、特定の宗教を持たない。例えばキリスト教にしても、イスラム教にしても、一神教であるということで、それを彼らは生活の規範にまで、民族によっては取り入れてやっておるわけですから、我々の知るよしのないほどの重い重い気持ち、深い気持ちというのがあるのだろうと思うのです。ただ、我々には現時点でそれが理解できない。ただ、理解するからやるのかというのは、これは別問題ですよね。やるかどうかは別として、まずは理解できる教育が必要だろうとは思います。
  結局、日本人の宗教の意識というのは、宗教って何なのかというところから始めないといけないと思うのです。一神教の何かに帰依することだとばかりは言えないと思うのです。例えば、正月元旦に神社に行って手を合わせることだって、宗教心というのが背景にあるはずなのですね。お墓参りだってそうです。でも何の宗教にも入ってないというのが日本人なのです。それをまずは理屈立てて、他国のしっかりとした宗教を持った人に説明できるだけの何かを、しっかりと自分の中に持てるような教育、これが必要なのではないかなと私は思う次第でございます。以上です。

鳥居会長  それでは松井さん、どうぞ。

松井氏  先ほど申しましたとおり、一つはヒューマニズムの精神ですね。人としての振る舞い、生き方、また他人のことを思う思いやりとか、慈悲の心とか、いろいろな宗教がありますけれども、普遍的なものですね。別に宗教を教育してというのではなくて、宗教の中にある先ほど言いましたような価値、そういったものを教育の中にもっとしていくことによって、潤いのある社会が築けるのではないかという感じで提言させていただきました。ですから、宗教的価値のところ、ここは一般的なものとして考えておいてください。以上です。

鳥居会長  ありがとうございました。
  それでは、時間がありませんので、最後に。中嶋委員、どうぞ。

中嶋委員  皆さん方のいろいろな意見は、我々は真剣に検討するわけですが、先ほどの最後の時間に杉本さんに質問が出ていませんでしたので、私から。
  杉本さんのおっしゃっていることはよくわかるのですが、他国の主権を尊重ということについても大事な概念だとは思うのですけれども、実は国家という中でくくり切れない、いわばグローバルな様々な問題が今出ているということはおわかりですよね。そうすると、主権ということの中においては、市民とか、そういう人たちの自由とか、人権ということが、他国の主権という中でくくられている場合に、それを尊重するということを超えた新しい公共とか、グローバリズムとか、パブリックな公共心とか、そういうものがこれからの時代は必要なのですね。
  恐らくその辺のところが、今回の教育基本法の検討する一つの問題点だと思うのです。つまり、自分たちのアイデンティティとともに、アジアのすぐ近くにも、主権と言うけれども、その主権の中で一人一人の人権が全くない国もあるわけですから、それを丸ごと尊重してしまうというところを超えたグローバルな視点が必要だと私は考えるのですけれども、その辺はいかがでしょうか。

鳥居会長  杉本さん、何か御意見がありましたらどうぞ。

杉本氏  私も勉強不足で、十分に急な質問というか、それに答えることはちょっと難しいのですけれども、私が主張したかったのは、日本の中での諸問題に対して、皆さんが心配しているという現状については、私たちも思うわけです。地下鉄に乗っていても、席があいているのに入口に座るとか、いわゆるジベタリアンと言われるそういった子どもたちがおるわけです。そういう現状を見ると、一体日本の若者がこれからどうなっていくのかという心配を、現在の日本を築いてこられた方が憂うというか、心配するという気持ちはよくわかるのです。だから、そのことについて、現状についてやはり何とかしていかなくてはいけないという認識については、私も教育に携わる者としてこのままでいいのかという危惧はあるのですけれども、いわゆる基本法を変えるという出発点に今あるのかという、ものすごく大きなものを変えるという段階に果たしてあるのかということが、ちょっと私にもわからないのです。
  というのは、最近、創立100周年とか、120周年でよくお祝いをする学校というのがあるわけです。先ほど言った教育勅語が失効というか、あまり意味をなさないものとしていますけれども、そこの学校で育った方は、いわゆる戦前の教育を受けた方もその学校の卒業生であるわけですね。そういった方が、今、学校は新しくなったのだからということで、その学校の以前の伝統であるとか、そういったものを一切新しくしてしまおうという考えを持った学校というのはほとんどないと思います。ですから、例えば学校の考え方が変わるからといって、よく体育館の前に掲げられているそういった学校の教訓などを変えようという話になると、これはものすごく重要なことになるのではないかと思うのですね。ちょっと例えが悪いかもしれないのですけれども。
  ですから、そういった重要なもの、それからさっきも言いましたけれども歴史の転換期にあったときにつくられたものについて、現状がこうだからといって、一番大きなもとになるものを変えることについて、私も判断がつかないし、私はむしろさっきも主張しましたように、懸念をしているということなのです。
  尊重については、第1条にもありますし、真理と正義を愛しとか、平和的国家ということですから、その行間に、もちろん平和的国家ということは他国を尊重せずに平和的国家はないわけですから、そういったことで一人一人が条文についてもっと理解をして、具体的なことを考えていくほうが、より一人一人のこれからの勉強になるというか、そういうふうに考えるわけです。

鳥居会長  ありがとうございました。
  時間がちょっと経過いたしましたので、大変残念ですけれども、これで質疑を打ち切りたいと思います。どうもありがとうございました。

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