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一日中央教育審議会(東京)意見発表者

氏      名 性別 年齢 職  業 住所

青木  茂雄(あおき  しげお) 55 高等学校教員 神奈川
奥平  邦雄(おくだいら  くにお) 53 医師 神奈川
小貫  大輔(おぬき  だいすけ) 41 自由業 東京
兼子  啓子(かねこ  けいこ) 53 塾講師 栃木
河村  ユリ子(かわむら  ゆりこ 52 主婦 東京
高橋  俊雄(たかはし  としお) 39 会社員 東京
田村  治子(たむら  はるこ) 59 元民生委員 千葉
針ヶ谷  勉(はりがや  つとむ) 69 元団体役員 千葉
深澤  直幸(ふかざわ  なおゆき 40 高等学校教員 静岡
古山  明男(ふるやま  あきお) 52 私塾主宰
専門学校講師
千葉


第1回一日中央教育審議会(東京)議事録(抄)

1. 日    時    平成14年11月30日(土)13:30〜16:00

2. 場    所    東京ビッグサイト「国際会議場」(7階)

3. 議    題    新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について

4. 配付資料
「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」
(平成14年11月14日  中央教育審議会中間報告冊子)
「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」
(平成14年11月14日  中央教育審議会中間報告パンフレット)
「21世紀の未来を拓く教育改革−7つの重点戦略−」(パンフレット)

5. 出席者
委      員:鳥居会長,市川委員,梶田委員,田村委員,中村委員、増田委員、山本委員
意見発表者:青木  茂雄(高等学校教員)
奥平  邦雄(医師)
小貫  大輔(自由業)
兼子  啓子(塾講師)
河村ユリ子(主婦)
高橋  俊雄(会社員)
田村  治子(元民生委員)
針ヶ谷  勉(元団体役員)
深澤  直幸(高等学校教員)
古山  明男(私塾主宰、専門学校講師)
事  務  局:遠山文部科学大臣、河村副大臣,布村生涯学習政策局政策課長その他関係官

6. 議    事

(意見発表及び委員からの質疑応答部分のみ掲載。    部分は、当日発表しきれなかった意見について、後日、追加の依頼があったもの。)

布村生涯学習政策局政策課長  それでは、議事に入らせていただきたいと思います。
  本日は、お集まりいただきました10名の意見発表者の方々から、それぞれ8分以内ということで御意見の発表をお願いしたいと思います。
  発表の順番につきましては、五十音順に順番をつけさせていただいております。そして、10名の方々の意見発表が終了した後、中教審の委員から意見発表者の方々に対しまして御質問させていただきながら、少し討論をさせていただこうという流れでございます。
  それでは、まず青木茂雄さんから御意見の発表をお願いしたいと思います。どうぞ壇上でお願いいたします。

青木茂雄(高等学校教員)氏
  青木茂雄です。現在、都立高校の教員をしております。日本教育法学会の会員でもあります。教員歴は間もなく30年になります。
  この30年間、いろんなことがありました。クラブ活動の指導で暗くなるまでグラウンドを駆けめぐったこともありました。学級経営がうまくいかず、悩んだこともありました。授業がうまくいって、大変にうれしかったこともありました。校内暴力にも遭遇しました。この30年間を振り返りながら意見陳述をします。
  最初に、結論から言います。教育基本法は変えるべきではありません。その必要は全くありません。むしろその実現こそが図られるべきです。
  特に第1条「教育の目的」は、非の打ちどころのない文章です。このどこがいけないのでしょうか。人格の完成、真理と正義、個人の価値、自主的精神、心身ともに健康な、まさしくそのとおりではありませんか。
  改定を唱える人は、抽象的だとか、具体性に乏しい、一般的過ぎる、などと言います。しかし、これ以上の内容は、法律の条文に記載すべきではありません。
  あらゆる文化活動がそうであるように、人々の共働によってつくり上げられていく教育が目的とするものは、日々の具体的な活動の中から、その条理に従って生み出されていくもの以外のものではありません。人間誰しも物事を本当に理解したいと思っています。よりよい人間になりたいと願っています。そう思わない人はいないのです。一人一人がより良い人間になることこそが教育の目的なのであって、それは教育自身の中から生まれてくるものなのです。そういう意味で、教育は一つの文化なのです。
  したがって、言葉として表現された教育の目的は、包括的・一般的であらざるを得ません。むしろ目的を掲げて教育の内容に行政権力など政治や経済の様々な力が関与し、それを一つの方向に導こうとすることこそが戒められなければならないのです。中教審の一部の委員によって強く主張された愛国心などがそれに当たります。このような議論があたかも主要な意見のように書かれている中間報告には、問題点が多いと言わざるを得ません。
  戦前、戦中の日本の教育は、国力で欧米の先進国に追いつくために、教育の目的を絶えず教育の外部に設定してきました。教育は絶えず外部から強制されるものでした。教育勅語などがその典型的な例でした。戦場で多数の人間を殺傷し、自らも国のために死ぬことを当然と思うように国民を仕向けていったのは、この教育勅語に象徴される戦前の学校教育の体制でした。アジアで1,000万、日本で300万の犠牲者を出したさきのアジア・太平洋戦争の惨禍を引き起こした原因の一つが、強制されることに慣れ切った、自分の頭で考えようとしない国民を大量につくり出した教育体制にあったという真剣な反省を行いました。そして、平和的で民主的な国家の建設を目指し、日本国憲法を制定し、その理想の実現のために教育基本法を制定したのです。前文がそのことを述べています。もう一度この前文を虚心坦懐に読んでみようではありませんか。
  愛国心を云々する人は、また日本の伝統・文化云々と言います。しかし、何をもって伝統と言い、何をもって文化と言うのでしょう。教育活動をはじめとする私たちの生活、それは文化です。私たちが先人から受け継ぎ、次の世代に伝えていくもの、それが伝統です。文化は行政権力によって強制されるものでは決してありません。文化は国が国民に教え導いてできるようなものでは決してありません。
  明治維新以後の日本の歴史をひもといてみるならば、どういう人たちが、庶民的で多様性に満ちたこの日本の伝統・文化を破壊してきたのかがわかります。教育勅語に代表されるような国家体制をつくってきた人たちこそが、真に伝統・文化を破壊してきたのではないでしょうか。
  また、戦後になって緑豊かなこの日本列島の自然を破壊し、鉄とコンクリートの構築物に置き換え、細やかで情感のあふれた日本の庶民文化を次々に破壊してきたのは、一体どのような人たちなんでしょうか。どういう人たちがこの日本列島からふるさとと呼べるようなものを次々に奪っていったんでしょうか。現在、日本の伝統・文化云々と言っている人たちに、果たしてその資格があるのでしょうか。
  これまでに述べてきたように、教育は文化活動であり、自主的、自律的なものであります。教育の内容や具体的な方法は、可能な限り教育に直接かかわっている教育の専門家としての教師や学習の主体である生徒など、当事者の手にゆだねるべきであります。公権力は、教育の内容や方法にまで関与すべきものではありません。
  教育基本法第10条が規定するように、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」であります。教育行政は同法第2項にあるように、「教育の目的を遂行するに必要」な条件整備を目標として行われるべきであります。公権力が教育内容、方法などの内容面にまで関与すべきではないということは、過去の裁判例においても幾度も指摘されたことであり、旭川学力テスト事件の最高裁判決では、教育基本法第10条に関して、教育に対する行政権の不当、不要の介入は排除すべきであると述べております。
  この第10条について、中間報告では趣旨は生かすと言っていながら、同時に教育振興計画の根拠法として位置づけようとしています。しかし、中間報告に記載された教育振興計画の内容を検討してみるならば、それは条件整備の域を超えて、公権力が教育の内容にまで深く関与するという内容のものになっています。これでは、その趣旨を生かしたことには全くなりません。ですから、中間報告は、ここで大変つじつまの合わないことを言っていることになります。
  例えば、「豊かな心をはぐくむ教育の推進」という項目では、豊かな心の育成、自律心の育成、以下の内容を挙げていますが、これらはいずれも教育の内容と方法に関するものであり、第10条の主旨から言えば、公権力が介入すべきでない領域に深くかかわってきています。教育振興計画に従えば、現在の学習指導要領をはるかに超える内容の強制力を持ったシステムができ上がることになります。計画はさらに、家庭教育の領域にまで踏み込もうとしています。これはきわめておそろしいことではないでしょうか。これは取り越し苦労なのでしょうか。いやそうではありません。そう考えるのは極めて自然なことなのです。公権力が教育の内容にまで深くかかわっていって起こった悲劇を私たちはこれまで数多く見聞きしてき、そして今も見聞きしているではありませんか。
  しかも、教育については戦後は国の手からその多くの部分を地方自治体に権限委譲してきました。今もその流れは基本的に変わっておりません。にもかかわらず、どうしてこの時期に中央集権的な色彩の強い、国民教化(教えるという意味です)策である「教育振興計画」を打ち上げるのでしょうか?私はその方向性が根本的に間違っているとおもいます。このようになってしまうのは、文部科学省の担当者が教育基本法を「環境基本法」やその他のたくさんある「基本法」と同列に考えているという誤りから生じてきています。これは法律学的に言えば極めて初歩的なミスです。教育基本法は行政の行なうあれこれの施策の基本を定めたものではありません。この国の教育というもののありかたの基本を述べたものであります。教育基本法の前文には、日本国憲法の理念の実現は「教育の力にまつ」と書かれ、そしてその終わりに「ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」とあります。その意味で
は教育基本法は準憲法的牲格を持った法律であります。これは北教組学力テスト事件最高裁判決でもすでに承認されています。
  最後に教育基本法の改定や「教育振興計画」の前提になっている中教審や文科省の状況認識について述べます。「中間報告」は書いています。「長引く経済不況から脱却できない日本」「若年層が夢や希望を持ちにくい閉塞感漂う杜会」とあります。こうなったのはあきらかに国の経済政策の失敗からです。そのもとは、国が福祉国家の看板を捨て去り、弱肉強食・優勝劣敗を奨励したことにあります。他人を蹴落とし、自分だけが生き残ることを良しとする経済杜会をもって活力ある杜会と誤認したのです。人々は自分だけの生活防衛に走っています。不況が長引き閉塞感の漂うのはその必然的な緒果です。経済杜会がモラルを失えば、子どもたちも自分だけの生き残りを考えます。青少年のモラルが低下するのもまた必然的な緒果です。では、「中間報告」は青少年にモラルを要求しているのでしょうか?どうやらそうでもないようです。「中間報告」は率直に書いています。「たくましい日本人」、つまり大競争時代を生き残ることのできる「たくましさ」を備えた日本人です。他人を思いやるやさしい日本人は、つまり自分一人だけでなくみんなで良くなろうと考える社会的連帯心の強い、心やさしい日本人は「画一的な平等主義」と言うのです。
  この「中間報告」を読んで限りなく暗い気持ちになるのは私一人でしょうか。

布村生涯学習政策局政策課長  どうもありがとうございました。
  それでは、続きまして、奥平邦雄さんから御意見の発表をお願いいたします。

奥平邦雄(医師)氏
  近年、青少年による非行や暴力行為の多発や教育現場での学級崩壊などが問題となり、子どもたちの道徳観や倫理観の喪失や公共性の欠如が指摘されている。しかし、これらの子どもたちに見られる問題は、大人社会における善悪の価値基準の混乱や人生観の喪失の反映としてあらわれていると考えるのが妥当ではないでしょうか。子どもは親の後ろ姿を見て育つと言いますが、子どもの疑問に答えて、人生の生きる目的や意味について自信を持って子どもに語れる親や教師が少なくなったということが大きな問題となっているのではないでしょうか。
  このような大人社会における価値観や人生観の混乱は、そもそも戦後、国家神道と政治との関係の反省から、あるいは進駐軍の方針から、道徳や倫理観の基礎となる宗教が教育から締め出されたという事実に源を発しているのではないでしょうか。
  さらに、子どもの生きる力の低下が問題となっていますが、これなども最近マスコミなどで取り上げられている中高年の自殺の増加に見られるように、大人社会の人生観の混乱による生きる力の喪失の反映であると考えられます。
  それでは、この生きる力はどのようなときにわいてくるのでしょうか。
  それは第1に人生に目的と意味が見出されること、次に自分自身の存在が周りの人にとって意味があること、そして人生の途上に起こる様々な苦難や困難に対して対応できること、などが大切なのではないでしょうか。
  それでは、最初の人生に目的と意味がが見出されるためには、いかなる人生観が必要でしょうか。例えば、死んでしまえば灰になって、すべてがなくなってしまうとする唯物的な人生観では、人間を物質的な肉体とのみとらえるため、今がよければいいではないか、自分さえよければよいではないかというような刹那的あるいは利己的な傾向に流れやすく、人生の目的を物質的なものの獲得にのみ見出すことになりがちです。
  それに対して、目に見えないもの、例えば愛であるとか、やさしさであるとか、思いやりであるとか、勇気であるとか、そのようなものに価値を見出すことのできる宗教的な人生観を持つ人は、生まれてきた意味と目的に気づくことができます。なぜならば、正しい宗教とは、目に見えない世界との兼ね合いにおいて、人生の目的と意味を提示するものだからです。
  次の自分自身の存在が周囲の人々に認められていること、これは生きていく力として非常に大切なものだと思います。最近はいじめなどで無視されることによって、自殺をする子どもがいるのも事実です。これなどは自分自身の存在が否定されることによって、生きる力を失った結果ではないでしょうか。自分自身の存在が他人とのかかわりで否定されたり肯定されたりする、そのような人生観では、心の安らぎは得られません。そして、自分も他人も肉体的な物質であるとする唯物的な考えでは、自分に対しても、他人に対しても、本質的な意味で尊厳を認めることができず、「人を殺してはなぜいけないのか」というような愚かな質問にまで答えられないという事態になるのではないでしょうか。
  さらに、人生の途上に起こる苦難や困難に対して、それをどのようにとらえ、乗り越えていくかを子どもたちに伝えることはとても大切です。これなども伝える大人の人生観によって大きく異なります。唯物的な価値観を持つ人の場合、物質的な面での挫折が致命的になりかねません。しかし、物質的な面以外に価値を見出すことのできる宗教的な人生観を持つ人にとっては、多様な対応が可能となります。そして、物質的な面では、唯物的な観点からは致命的と見える打撃に対しても、宗教的な素養のある人にとっては、最終的には自分は大いなるものに生かされ、愛されているという確信によって、生きる力を失うことはありません。このように宗教的な人生観は、生きる力を考える上でも非常に大切なものであることがわかります。
  本来、宗教とは根源的なる善悪の価値基準を教え、道徳や倫理の根拠を示し、人生の生きる目的と意味を提示するものであります。それゆえに、宗教的素養というものは人生観を構築する上でも非常に大切なものであり、このような人生観に裏づけられた生きる力というものは、教育現場でも一つの有力な力のある人生観として子どもたちに提示することが必要であると考えます。
  しかし、現実には戦後の教育方針から、学校を含め公共の場で宗教を語ることはほとんどタブーのような状態であり、正しい意味での宗教的教養を獲得することは困難に思われます。そのために、一般的に国民の宗教の正邪を判断する能力は低く、社会的な問題となった一部のカルト宗教が繁殖する結果にもなったのではないでしょうか。そのような観点からも、正しい宗教的な教養は大切であり、教育現場においてもタブー視することなく、その価値を認識し、奨励することが大切なのではないでしょうか。
  結論として、子どもにとって生きる力の育成には、正しい意味での人生観の獲得が大切であり、また、人生における苦難や困難に対する正しい考え方を子どもに伝えることが必要であると考えます。そして、そのためには根源的なる善悪の価値基準を提示し、人生の生きる目的と意味を教え、道徳や倫理観の根拠を示す宗教の大切さを正しく認識し、教育現場で宗教をタブー視することなく、教養の大切な一つとして取り上げ、子どもたちが自分自身の人生観を構築する上での一つの選択肢として提示することが大切なのではないでしょうか。そして、今後、国際的な視点から考えても、宗教的な教養を持つということは、異なる文化、宗教を有する他国の人たちと相互理解と寛容さをもって接する上でも、とても大切であると考えます。
  さらに、宗教的な教養から生まれる宗教の正邪を分かつ価値判断を獲得することは、反社会的な一部のカルト宗教から身を守るという上でも大切なことであると思います。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  どうもありがとうございました。
  続きまして、小貫大輔さんより御意見の発表をお願いいたします。

小貫大輔(自由業)氏
  こんにちは。小貫大輔と申します。私は、教育の多様性の会という会の世話人をしている者です。
  今の日本にあって、この国の教育を再生させなければいけないという気持ちを持たない人がいるでしょうか。その気持ちは、最初に御発表になった青木さんのように、教育基本法改訂に反対される方でも、あるいは教育基本法改訂を推進されている方の中にも、同じように大きな危機感が日本人の中に強く存在すると思います。そのことを今年の初めに文部科学大臣は、自主的・創造的な人間づくりが必要というアピールの形でおっしゃられました。その言葉は正確には、「新しい世紀を迎え、これからの日本と世界は様々な面でこれまで以上に激しい変化に直面することになると予想されます。そのような中で、これからの社会を担う児童生徒が主体的、創造的に生きていくため、一人一人の児童生徒に『確かな学力』を身に付けることが重要となると考えます」という発表でした。
  今の時代、日本人が自主的・創造的な人間づくりをすることが重要なことは言うまでもなく、実際、私たち日本人は今、自主的・創造的に生きることを真に望んでいるのだと思います。それを望んでいる中で、それが事実として許されない。自主的・創造的に生きること、そして自主的・創造的に学ぶことが、現実の問題として困難である学校のあり方が、私たちを苦しませている全くの原因ではないでしょうか。
  それはあたかも社会が豊かになって、かつての経済成長を国民がみんな一緒にやってきた中で、ある豊かな時点にたどりついたときに、初めて思春期に入ったように、自分の生き方を探そうとしたときに、それが何かおっかないお父さんか何かに頭を押さえつけられているような思いが、私たち日本人の中にあるのではないでしょうか。
  というのは、日本の教育は、これは最初に発表された青木さんと私は意見を同じくするんですが、日本の教育は確かに世界の先進国の中でもまれに見る中央政府の統制というか、政府の決めた教育だけが実践されるようになっている大変珍しい形態をとった国だと思います。日本の学校は大部分の学校が政府がつくった学校ではないでしょうか。政府の学校の中で、政府の決めた教育だけが実践を許されている、実践できるようになっている、教育実践の自由度の大変低い国になっているかと思います。
  まさにそのことが問題であるときに、それを改革しようという様々な動きも、現実には中央からの改革の動きになってしまっていて、日本の国家の力で考えたすばらしいアイデアだと思いますが、そのすばらしいアイデアを全員が受け入れて、全員がそれに右へならえをしなければいけない改革になってしまっていると思います。
  今回、中間報告の中で第3条について、「教育を受ける機会」を、そういう表現ではなくて、「教育を受ける権利」と呼びかえたほうがよろしいのではないかということが書かれていますが、「教育を受ける権利」でしょうか。「教育をつくる権利」は私たちには許されないんでしょうか。「教育を受ける権利」ではなくて、「教育への権利」と呼びかえるべきではないでしょうか。
  「教育への権利」と言ったときには、私たちが「教育を受ける権利」を持っているだけでなく、「教育をつくる権利」、そしてそのようにして生まれてきた様々な種類の教育の中から、自分に一番合ったもの、自分の個に合ったものを「選ぶ権利」を含めて、それを「教育への権利」と言うのではないでしょうか。
  そのことは実際は国際的な常識として、随分古くから認められた、受け入れられたものになっています。例えば、世界人権宣言の中では、「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」というふうにはっきりと書いてあります。
  こういうふうに言ったときに、私たち日本人には大変難しいものがあると思います。というのは、これまでの何十年もの間、日本で教育と言ったときには、たった一つの、政府の決めるある教育が、唯一存在し得る教育の形であるとしか思えなかった。それしか経験したことがない、それ以外のものを見たことがないという現実があるかと思います。
  ところが、実際には教育の問題がたくさん噴出して、たくさんの子どもたちがボイコットをするように、その唯一の教育の形から逃げ出していったときに、その人たちに対して、あるいは異なった教育を望む人たちに対して、政府に認められていないにもかかわらず、様々な異なった種類の教育が事実上実践されるようになってきています。
  それは、例えばフリースクールという形であったり、例えばシュタイナー学校という形であったり、あるいはホームスクーリングという形であったり、様々な教育が今実践されています。実践されているにもかかわらず、それはあたかも存在していないかのような扱いを受けているだけです。学校法人になれないために、NPO法人として実践している教育活動がたくさん存在します。その教育活動は、一部の人が心配されるような、何か政府を転覆させるような教育、何か反社会的な教育をしている、そんなことは全くありません。純粋に自分の子のために一番適すると思った教育を実践している活動が存在するわけです。そのような教育が、これから日本の国で実践されることが、主体的で創造的な市民をつくるための唯一の道ではないかと信じます。
  というのは、主体的で、創造的な市民を、非主体的で非創造的な方法によってつくることは不可能だと信じるからです。主体的な市民、創造的な市民を生むためには、私たちが主体的に、創造的に、自分たちの信じる教育をつくり、実践していく、つまり「教育への権利」を得ることが最も大切なことだと信じるものであります。
  私が世話人をしています教育の多様性の会というのは、まさに日本の社会に、今、たった一つしか存在しない教育の種類を多様な種類に変えていく、日本の社会で多様な種類の教育が実践されることが認められるようになることを訴える会であります。どうもありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、兼子啓子さんから御意見の発表をお願いいたします。

兼子啓子(塾講師)氏
  私は、夫の海外赴任に伴い、1970年代後半から80年代の末まで10年間余りにわたりまして、イギリス、イスラエル、アメリカに滞在する機会を得ました。その間、息子の通う学校のPTA活動にも携わってきました。また、帰国後は大学進学塾にて高校生の受験指導をする傍ら、国連NGOのボランティアとしてポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどで女性の自立を支援してきました。
  このたびの中間報告に目を通し、大いに共感するとともに、学校・家庭・地域社会の連携・協力の推進の参考となればと願い、私の意見を述べさせていただきます。
  私たち家庭は、1984年の夏、エルサレムからニューヨークに移りました。今だからこそニューヨークは見事に復興しましたが、当時は非常に荒れすさんでいて、84年から89年までの5年間にホームレス・ピープルが急増しました。どこの公園に行っても家のない人々がベンチに寝転がっているのです。そして、ごみ箱をあさったり、私たちを見つけるとお金をせびりました。地下鉄に乗っても、紙コップを持った人が車両内を行き来して、乗客にお金を無心するわけです。
  息子が5歳になると、市の小学校に行く準備期間として1年間幼稚園に通うことになるのですが、当時のニューヨークは財政難で、スクールバスも用意できないありさまです。親が幼稚園まで送り迎えしなければならない状態でした。ニューヨークの中流以上の家庭は、1ヵ月500ドル以上も出して子どもをプライベートスクールに通わせるのが普通です。しかし、当時の日本円に換算すると1ヵ月10万円以上の学費となります。私たちの家庭はやむを得ずパブリックスクールに息子を通わせることにしました。
  それで、環境がとても心配なので、毎月PTAの会合には熱心に出席していました。1年して息子が小学校に上がると、私は皆から推薦されてPTA会長になってしまいました。それから日本へ帰国するまでの2年間、PS51校のPTA会長を務めました。1980年代のアメリカでは、レーガン政権が「危機に立つ国家」と題する教育改革案をまとめて具体化し、国家戦略としての教育改革が進行中でした。息子が入学する数年前のPS51校のランクは本当にひどいものでした。80年のニューヨーク市の小学校625校中619位とワーストテンに入っていました。校庭の柵が破られて、夜には売春宿になっていたという話も聞きました。この年に校長が替わり、それ以後の9年間でこの学校の読み書きの能力はぐんぐん、ランキングを上げていきました。
8年後の1988年には何と400位も上がって220位となったのです。さらに、翌年の89年には、特に算数においてニューヨーク市第2地区24校中2位に浮上したのです。この目覚ましい躍進は、市の教育委員会をあっと驚かせ、新聞も大々的に報道しました。
  この新しい校長の名はジョン・エコノミデス、当時43歳、ギリシャ生まれです。11歳のときに、両親とともにアメリカに移民してきました。そのときは全く英語が話せなかったそうです。
  アメリカは、州によって教育制度が少しずつ違います。ニューヨークでは、PTAの役員が校長を選ぶことができます。もしPTAで校長が不適格と判断されますと、市の教育委員会に校長を交代させてほしいと申請できるのです。その手続は、まず校長になるための試験に合格した人をPTAが募集します。次にPTAの複数の役員が応募者を面接し、さらにPTAの役員が選出した候補者を市の教育委員会に推薦し、そして市教委が承認すれば新校長が承認されるという段取りです。
  こうしてエコノミデス氏を我がPS51校に迎えることになりました。それが1980年、息子が入学する数年前のことでした。エコノミデス校長は、母子家庭の子どもが多いPS51校で父親役に徹しました。厳格な愛情を持って児童のしつけに腐心しました。
  一例を挙げますと、全校生徒300人余りがカフェテリアで昼食を摂るわけですが、生徒一人一人が昼食を受け取るには、列をつくって忍耐強く待たなければなりません。その間にふざけ合いが高じてけんかが始まると、校長はその子たちを列からつまみ出し、授業の受講態度が悪かった子に対しても同様に後ろに並ばせます。彼らの昼休みの時間がそれだけ短くなってしまいます。秩序を乱した罰で、自分の自由が制限されてしまうことを、彼らは身をもって学び、公共の精神を養っていくのです。こうして学校には規律が戻ってきました。
  さて、次にすることは、中南米のスペイン語圏からの移民の児童たちに、いかに英語の読み書きの力をつけるかです。そのためにPTAは、校長に協力して図書の充実に努めました。当時、ニューヨーク市625校のうち、まともに本がそろっているのは3分の1の200校、次の3分の1は不足しており、最後の3分の1は全くないというありさまでした。PS51校もその最後の部類でした。
  PTA役員は、ニューヨーク市で毎年6月に行われるフードフェスティバルに売店を出して、ケーキを販売し、その売上金を図書購入費に充てることにしました。母親たちが真心を込めて焼き上げたケーキを毎年つくって出しました。こうして図書はだんだんと充実していきました。
  ニューヨーク市の学校では、児童の教科書は貸与で、図書の中から貸し出され、読み終えたらまた図書室に返さなければなりません。PTAは自分たちの選んだ校長先生を徹底的にサポートし、不足しがちな学校の財政を自らの努力で改善し、周りの住民たちの協力のもとに学校は運営されていくのです。
  私は息子が小学校2年生を終えるまでの3年間、本当に良い経験をさせていただいたと心から感謝しております。
  このたびの中間報告で、「柔軟な教育の仕組みの導入」が提唱され、「地域が学校運営に参加する学校など新しいタイプの学校の設置の検討」がなされることを大いに期待しております。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、河村ユリ子さんより御意見の発表をお願いいたします。

河村ユリ子(主婦)氏
  私は、教育基本法改正の必要性を感じている者として意見を申し述べます。
  教育基本法が制定されました昭和22年は、敗戦の焼け跡が荒涼と広がり、食糧にも事欠き、校舎も教科書もない状況でした。教育基本法の前文の「民主的で文化的な国家の建設」は国民全体の切実な願いであったに違いありません。個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成のために掲げられた11ヵ条が、戦後教育とその復興に寄与したことは疑いのないところです。
  教育基本法の大きな柱の一つであります平和への希求は、日教組のスローガンに象徴されます「子どもたちを再び戦場に送るな」とする反戦平和教育となり、学校教育のベースであり続けました。しかしながら、1960年の安保闘争、65年に始まったベトナム戦争反対運動から、70年安保闘争まで多くの若者が破壊活動に走り、最後には殺戮にまで及んだあの混乱は、反戦平和運動が始まりでした。この事実は当時を知る者として、今も胸痛むものがあります。それは平和への希求が社会の混乱を招いた事実です。こうした破壊活動に走った多くの若者の、心のバランスを失わせたものは何かを考察しながら、その何かが、今、教育問題として懸念されているものの原因ではないかと思うのですが、その問題の本質を見極め、これからの新しい時代に向けた教育の在り方について、時代が求める教育について、意見を申し述べたいと思います。
  まず、平和という国際秩序について考察します。現在、東西冷戦構造が崩壊し、世界各地からかつてないほど多くの情報が寄せられております。グローバル化が進み、流動的で変化の激しい国際社会の中にあります。もはやかつてのパワーバランスや国境線ではとらえられない国家の在り方が求められています。
  そういう状況の中で、我が国はいかに国際交流を発展させ、国際貢献に寄与していくか考えなければなりません。そのための国際状況の判断力、他国への理解・尊重をはぐくむための教育が求められております。冷戦後のグローバルな新しい時代は、それぞれの国が独自に持つ文化が一つの国境線になると思います。ですから、日本国民として共有している我が国の伝統・文化・歴史等を学び、理解を深めることが求められるのであり、その上で、他国の伝統や文化を理解し、互いに尊重し合うことのできる資質、姿勢の育成が必要だと思います。
  戦後、さきの大戦を反省する余り、我が国が長い歳月をかけてはぐくんだ伝統や文化、歴史に対する否定的な見方が広がりました。我々が最も依存し帰属する国家あるいは文化が、どうも疎んじられているように思われてなりません。今もって「愛国心」という言葉がタブーになっている現状は不可解です。自分の国や文化を愛する心を持つ者は、他国民の国や文化を愛する心を尊重し得るものと思いますし、また、そのような教育を行わなければならないと思います。自我が確立し、自立のため、心の葛藤が行われるという思春期において帰属する国家、あるいは文化を否定し、日本民族の不行跡ばかりを強調する教育は、子どもたちの健全な精神の成長を阻むものと思います。
  人格の完成もまた大切な柱です。国民としての誇りは人格の完成に不可欠と考えます。そこで我が国の国土、歴史、伝統、文化に愛着と誇りを育成するための教育振興基本計画を立ち上げていただきますようお願い申し上げます。
  ところで、戦後、半世紀を経て、我が国は経済の発展と高い教育水準を有する国となりました。反面、核家族化、少子高齢化、女性の社会進出が進み、我が国の伝統的な家庭像が失われつつあります。それに相まって、家庭の教育力は低下し、それは学校教育にも影響し、社会全体の精気をも失わせました。家庭教育がいかに重要であるか、ぜひ再認識していただきたいと思います。
  子育てと言われる段階から教育は始まっています。そして家庭教育は人生の一貫教育です。家庭は社会の基盤です。現代の流動する社会にあって、支え合う信頼関係と普遍的な人としての生きる道を教えるには、ここでの教育力に期待するものが大きいと思います。人間関係やマナー、公共心や規範意識、忍耐力や勤勉性を育成するもととなるものとしての家庭教育の位置づけを教育基本法に確立していただきたいと思います。
  そして、教育振興基本計画において新しい時代の家庭像の在り方をぜひ温故知新の精神で示していただきたいと思います。高い教育力があった我が国の伝統的な家庭像を踏まえて、新しい家庭像を考察してください。男女共同参画社会に対応するためとして、父親母親不要論や子どもの成長を祝う伝統的な家庭行事である端午の節句や雛祭りまでも否定する、いわゆるジェンダーフリーの行き過ぎが起こることを危惧するからです。
  新しい時代であっても、人類としての根本的な営みは不変だと思います。小泉八雲は『前世の観念』の中に次の言葉を残しています。「我々の感情のごく深い波は、決して個人的なものではない。必ずそれは、人間が生きてきた祖先以来の生命の海から、澎湃として打ち寄せた波動である。」新しい家庭像を構築するとき、この「祖先以来の生命の海から澎湃と打ち寄せる波動」に耳を傾け、「感情のごく深い波」に棹さして判断していただきたいと思います。
  家庭の秩序がよみがえらなければ、国全体に本当の精気がみなぎることはないと思います。心豊かでたくましい子どもを育成するための教育基本法の改正、発展を切に願うものであります。以上です。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、高橋俊雄さんから御意見の発表をいただきます。お願いします。

高橋俊雄(会社員)氏
  高橋俊雄と申します。私は外資系の企業で働いていまして、仕事は教育ということと直接関係ないんですけれども、今、経済や社会が停滞していて、子どもが夢を持てなくなっているような社会になっている。そういう中で、これからどういうふうに活力を強化していくかということは、自分なりに関心を持っています。そういった中で、今日こういった場を持たせていただきました。
  例えば、日本ということで考えたときに、日本は資源が乏しいですし、人件費を中心とするようなコストが高いです。そういった中で、今後も国際的に協力していかなければいけないと思いますし、継続的にイノベーションをやっていって国際競争力を高めていくことが必要だと思います。
  教育ということで考えたときには、考える力などの人材の質を高めていくとか、コミュニケーションの力を高めていくことが、今後、ますます重要になってくると思います。
  そういったことを考えたときに、教育基本法の関係で言いますと、例えば今規定されているような人格の形成であるとか、自主的精神、能力に応じた機会均等、こういった教育基本法の底流に流れている18世紀の自由主義的な考え方、自立した個人によって社会契約が成立しているという概念が流れていると私は思っているんですけれども、こういった考え方を今後ますます強くしていくことは重要ではないかと思います。こういった自由主義とか、社会契約の考え方というのが、産業革命であり、19世紀、20世紀の社会の発展につながっていったと思います。こういったパワーのいいところを取り入れていくことは重要だと思います。
  もうちょっと具体的に言います。例えば、一つ学校について言いますと、自由主義ということをもうちょっと導入していったらいいのではないかと思います。例えば、今、生徒の能力に応じて力ある分野を伸ばすということが言われていますけれども、逆に遅れている分野については速度も遅らせるという機会の均等を自由にやっていくことが重要だと思います。また、学校自体についても、裁量を拡大するとともに、競争原理を導入して、情報開示も進めていくといった取組が重要だと思います。
  例えば、中学・高校であれば、いろんな教科書を使える。難しい教科書を使いたい学校は使ってもいいし、逆に普通の授業を英語でやる。英語の授業じゃなくて、例えば数学の授業を英語でやるとか、歴史の授業を英語でやるとか、そういった学校もちゃんと認定されていく。そういうような自由化が進んでいってもいいんじゃないかと思っています。
  特に大学以上の高等教育では、こういうことがより重要だと思います。なぜなら、大学が現在の日本の教育のゆがみの大きな要因の一つだと思います。国際的には、日本の大学の付加価値というのは相対的に高くないという意見もある一方で、高校以下の教育というのは大学受験を中心とした教育体制になっているということが言えると思います。大学で学ぶことが社会で役に立たないと、企業の一部や学生の一部の人が思っている一方、そういった大学に入るために小学校からみんな一所懸命勉強する人がいたり、一方で、そんなことはばかばかしいと思って、やる気をなくす人が出てきたりということ。大学の教育というのが一つ大きなボトルネックになっているのではないでしょうか。
  例えば、こういうことに対して、大学及び教授に対して学生も評価する、企業などの社会からも評価する、そして国際的なアカデミックという場での評価、こういったものを積極的に取り入れて、それを開示していく。そして、優秀な教授には高いインセンティブを与えるということで、常に高い教育水準を競争原理の中で維持していくような仕組みを構築していくことが重要ではないでしょうか。また、大学のカリキュラムも自由度を高めていくということが重要だと思います。私が留学していたアメリカの大学院でも、生徒が教授を評価したり、あとは大学院のランキングは、学生の評価や企業の評価に基づいて設定されるという形になっていました。
  また、学級崩壊ということが今かなり問題になっていますけれども、こういった教育の現場の水準を底上げすることについても、自立した個人による社会契約といったような思想は生きてくるのではないかと思います。私が思うには学級崩壊についての一つの要因は、親の世代や子どもの世代が権利や義務、平等について、そもそもの18世紀的な考え方とちょっと違う考え方を持っているというのが一つボトルネックになっているのではないでしょうか。例えば、伸びる子どもを伸ばしたり、遅れている子どもから正対すると、それは差別だと考えたり、あとは教育を受ける権利も、自分たちはお客様で、学校がホストで、ちゃんとした教育をしない学校が悪いんだ。自分たちが、むしろ自立した個人が集まって社会をつくり、学校をつくっていくんだという意識が低いんじゃないかと思います。
  あとは日本人としてのアイデンティティ、公共の概念が議論されていますけれども、こういったことについても、自立した個人による社会契約という考え方が生きていくのではないかと思います。例えば、公共心が大事だとか、国を愛しなさいというふうに教えても、納得できない部分があると思いますし、定着しないのではないでしょうか。むしろ公共とは何なのか、国とは何なのか、社会とはどうなのかということを考える教育が重要じゃないでしょうか。例えば、近代の国家がどういう思想からできてきて、その後、どんな問題が起きて、どういうふうに変遷してきたのか。権利とはどうあるべきなのか、国とは、社会とは、じゃ今どういうふうにあるべきなのかということを考えさせる材料を与えて、生徒たちに考えさせるような教育が重要じゃないでしょうか。
  それと関連して、生涯教育についても、権利ということできて、法律で権利として規定すると、権利という言葉が独り歩きするので、むしろ政策的にやるのであればそれはよいと思いますが、権利として規定することについては若干抵抗があります。
  最後に、教育振興計画について言いますと、市場原理の導入とか、自由化、あと戦略分野を強化していくという視点が重要ではないでしょうか。例えば市場原理の導入と自由化について言いますと、寄附の税額控除であるとか、企業による学校経営の参入であるとか、民間の活力によって良い学校がますます伸びていく仕組みを導入する。戦略分野ということで言えば、例えば初等教育でも、英語、数学、理科を強化していくとか、大学以上の高等教育に対する財政支出をイギリスとか、アメリカとか、シンガポール並みに高めていくことが重要だと思いますし、論理とか、コミュニケーションを考える方法、哲学、こういったことも教育の中に取り入れていく、初等教育にも取り入れていくことが重要でないでしょうか。
  以上、現代の教育基本法の底流にある18世紀の自由主義とか、自立した個人による社会契約といった概念をもうちょっと積極的に取り入れていくことが今後の社会の活力強化につながっていくんではないかと思います。どうもありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、田村治子さんより御意見の発表をお願いいたします。

田村治子(元民生委員)氏
  私は、中教審の中間報告に注目していました。なぜならば、日本は危ない、今のままの教育で大丈夫なのかと憂えていたからです。
  戦後、GHQが日本が二度と立ち上がれないように、教育基本法をつくり、歴史や文化、伝統、宗教を否定し続けてきました。そのために、日本人の心は精神的なものを見失って、荒れ果ててしまいました。泣くにも泣けないのが今の日本です。この日本を再生するには、教育以外にないと思います。
55年ぶりに見直しされた「国や郷土を愛する心」が盛り込まれたことは大変意義深いと思います。しかし、なぜ「愛国心」と堂々と表現しないのでしょうか。
  ここで私の失敗談をお話しいたします。私は2人の男の子を育てました。私の口癖は、大きな地球儀を回しながら「世界に飛んで行きなさい」だったそうです。幸い2人とも英語が大好きでした。今、長男は音響関係のベンチャー企業を起こし、アメリカやヨーロッパに出かけて行き、商談をまとめてきます。しかし、あるときイギリスのお客様が歌舞伎の名作や名場面も話されたときに、自分は日本人としてショックを受け、恥ずかしかったと言って帰ってきました。
  また、次男はフィンランドの国立大学でメディカルの電子工学の研究で教授の助手を務めさせていただきました。その折に教授の家に招かれたとき、リビングルームに教授のお子さんが習字で「日本」と書いた半紙が張ってあったそうです。その字を見たとき、次男は自分が日本人として日本を語れないことに気がついて、私にその写真とともに手紙を送ってきました。日本の国、日本の歴史をあらわす本を送ってほしいと書いてありました。
  私はその中に日本人として欧米に大きな影響を与えた本を送りました。それは新渡戸稲造の『武士道』です。その副題は「日本の魂」です。その内容は八つの徳目に分かれています。義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己の8目でした。日本人の生き方として、新しい時代にふさわしいこの精神的遺産を問い直さなければならないと思います。戦後の愛国心を教えなかった教育を、今、深く反省する時期がきています。

  アメリカでは、1983年、困難なとき、レーガンの政権のもと、「危機に立つ国家」の報告書によって、教育の建て直しが行われました。まさに日本も同様に、危機に立つ今こそ愛国心を回復し、日本人の誇りを取り戻す教育が重要ではないでしょうか。
  次に、「公共心の育成」と打ち出されたことを評価いたします。今までは余りにも「個性の尊重」という美しい言葉の魔力に取りつかれてきてしまいました。公共の精神を失ってきました。子どもは誰のものか、人は何のために生きるのか、どんな人間になるのかを常に考えながら育成することが重要です。日本人を育てる教育を、また、日本の国の伝統を継承し、日本の国を守る公の精神を養う教育を強調してほしいと思います。
  次に、「家庭教育力の回復」が明記されたことは喜ばしいことです。良い家庭から愛情深い一体感が生まれ、家族愛が郷里を愛する心となり、自国を愛してやまない心へと成長するからです。
  次に、教育を受ける権利の中で、男女共同参画社会への寄与が盛り込まれたことは大変危惧を覚えます。11月14日に、内閣府男女共同参画局が12日の国会でのやりとりを自治体に送り、性差の否定ではない主旨を徹底する通知を明らかにしました。まだまだ見直しされるべき男女共同参画社会の文言をなぜ教育基本法に今入れるのでしょうか。今後この文言を盾として、教育現場が混乱すると思います。
  最後に、教育基本法の改正が、日本再生のために大きな転換点となることを切に願ってやみません。時は縮まれり、早く改正がなされるように祈ってやみません。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、針ヶ谷勉さんの御意見の発表をお願いいたします。

針ヶ谷勉(元団体役員)氏
  針ヶ谷でございます。社会は常に動いています。教育の基本もまた社会の動きとともに即応して修正されなければならないものであります。ここに制定から55年、遅ればせながらでありますが、中教審中間報告が発表され、将来に希望が持てる好ましい方向へ動き出したことについて、私は高く評価するものであります。
  資源に乏しく、国土も狭い日本が、ここまで豊かで安全に暮らしていける。これは先人が勤勉で、公徳心が高く、そして何よりも教育水準が高い。これが理由であります。しかし、この20年間は我が国の国際的な相対地位の低下、学力の低下、自己中心主義とか、勤労意欲の退化、こういうものが顕著であります。
  私は子どもを育て、今またその子どもが孫たちを育てています。その教育の過程に高い関心を持って見つめてまいりました。そこで感じましたことを、このたび教育基本法の法案としてまとめるための観点から、幾つかの点を絞ってお話ししてまいります。
  法律とは元来、国家という組織を有効に機能させるための最低限の制約です。したがって、法をもって規定するまでもない法の秩序、社会の風習というような人類が営々と築いてきた自然法がまずあるわけです。その根底には道徳観や勤労というような宗教観、宗教の経典、聖書などに書かれている良俗があるわけです。それを法律の罰則がなければ何をやっても構わないというような誤解が、現在問題になっている道徳心の低下です。それは法治国家の誤った解釈でありまして、罰則がなければ何をしてもいいというようなことではありません。そのような誤解を政府も、議会も、マスコミも、学校までもがその一翼を担っているという印象を深くします。
  神様が見ている、世間が許さないというような素朴な家庭教育の有効性が希薄になった現実には直視すべきですが、同時にそれを補うべく法規の条文にだけ頼ることは禍根を残すことになるでしょうね。例えば、中間報告から引用しますと、国を愛する心を大切としつつ、国家至上主義や全体主義的な考え方の排除を書き込もうとしています。政治の理念としてはまさに正しい表現です。が、もし法としてそのとおりに法律の文章が記述されるならば、本来のあるべき愛国心をとらえて、国家至上主義と誤解してしまう、こう解釈されてしまう可能性が否定できません。
  現行の教育基本法第10条第1項に「教育は不当な支配に服することなく」とあります。法律が言語によって記述される以上、言語の固有の意味は必ずしも固定的、限定的であることは望めません。意図的な曲解や拡大解釈が盛んに行われていることです。本来は教育への介入が不当なのではなく、不当な介入は排除されるべきですが、往々にして言葉の詐術にひっかかっています。
  大切なことは、不当かどうかの判断を誰がどんな基準で行うかを漫然としておくのではなくて、あらかじめきちんと判断するシステムの構築がなされていなければならないわけです。これらの解決を本来主体的に取り組むべき教育委員会―地域によってもまちまちですが、形骸化している点は改善しなければならないテーマであります。
  男女共同参画に言及があります。これは別途、男女共同参画基本法というのが平成11年に制定されているわけですが、これと重複して教育基本法に盛り込むべき必然性はありません。既に男女が法の下に平等であることはもちろん、個別の性別の固定的役割の排除も各種、個別の法律で十分に制度化されています。にもかかわらず、あえてここに言及する所以は、男子高校、女子高校を廃止させましょう。男女別の生徒募集定員、これは禁止しましょう。男女混合名簿を強制。こういう自然発生的な、従来からの特色を踏み込んだ議論も経ることなく、特定の思想に従って排除する根拠として生きてきてしまいます。男女共同参画社会基本法の域を超えて利用され、結果としてこれらが強行するような道を開いてしまうでしょう。法規の文言が独り歩きするのが現実です。その点は特に慎重な表現が望まれると思います。
  では、教育基本法では何を定めなければならないのでしょう。人間は自己を防衛し主張するのは、本能的な行為です。子どもを育成し、教育するのも生物が共有する本能です。大切なことは、国家が教育振興基本計画に盛り込まれた方向で、その養育を補完する行政施策に関し予算をつけて、どこまで施策を運営するのかどうか、行政や社会が何をどのような目的と手段で実行するかが問われているわけです。また、道徳、公共心、これは全面的に人の本性だけに頼っているわけにはいかないものです。ですから、宗教や家庭の指導が重要であったわけなんです。権利ばかりを教え込むのではなく、公共心や勤労の義務、国家国民の安全を担う義務、こういう生まれながらにして取得されていない概念こそ、教育されるべきなのであります。
  中間報告に、「教育は画一的でなく、個々の能力を引き出す」とあります。まさにそのとおりであります。理念として掲げることには異存はないです。能力とは職業能力というような狭義の能力ではなくて、もっと広い意味でチャレンジ精神とか、勇気とか、探究心とか、そういうようなものも能力、才能の一部と見て、家庭でも、あるいは社会でもそういうものも育てていっていただきたい。こういうことをお願いしたいと思います。
  しかし、学校教育がそのとおり、個々の能力を引き出すというような全面的な個別指導を実行できるものではありません。実行不可能な理念を行政の責務とするのではなく、個別の特性を伸ばす教育は主として家庭の責務とすべきであります。その家庭の責務を明確にするための施策を考えることが重要です。教育基本計画ではまさにマスメディアや地域行政、教育機関、企業、住民、家庭、これらに教育の責務を分担するものでなければならないです。今後の法案の作成に関し、格別の御配慮をお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、深澤直幸さんから御意見の発表をお願いいたします。

深澤直幸(高等学校教員)氏
  私は、静岡県で高校教師をしております。私は授業で、「姿形は心をあらわす」ということをよく言います。国語を教えていますので、言葉ですとか、表現にこだわるからです。同時に、生徒の授業態度、姿勢、それから茶髪、化粧、等についてよく注意します。
  そのような外見的な乱れを指導しながら、思うことがあります。この子たちには根本にあるはずの何か大事なものが欠如しているのではないかということです。何かとは、日本人としての精神や文化、伝統を理解しようとする心です。
  教育には人間教育と国民教育の二つの要素があります。人間教育については、教育基本法の理念の「個性尊重」や「個の自立」を今まで実践してきました。私の教育現場にいる先生は皆熱心で、人間的にはとてもいい人が多いです。ホームルーム活動やクラブ活動を通じて心の教育、人権教育、人として何をなすべきか、等については伝える機会は十分あります。しかしながら、国民教育、つまり日本人としての教育については十分であるとは言えません。おろそかにされていると思います。
  本居宣長の言葉に、「姿は似せ難く、意は似せ易し」という言葉があります。言葉では説明できないもの、伝えることのできないものを理解して初めて姿というものを理解し、その姿形になれるという意味です。日本人の感性や美意識、日本文化を理解するとは、そのような姿形を学ぶことにほかなりません。例えば、恥の文化や謙譲の美徳、自然観に根差した情緒や感性、柔道や茶道や華道といった道の文化における型、そういうものがあります。そのような日本の文化の体現者となることを目指す国民教育をもっと考えなければいけないと思います。
  現在、世界はますますグローバリゼーションが進んでいます。一方で、政治、経済、民族、宗教、環境などの問題によって、国際情勢は熾烈を極めています。であるからこそ、私は何者であるかというアイデンティティが要求されます。私たちは日本人になる前に国際人になることはできません。グローバリゼーション、国際化、地球市民ということばかりが先行していますが、一方で日本人の感性や美意識、日本人としての公、日本人としてのアイデンティティという言葉が唐突に響くような空気が、教育現場ばかりではなくて、日本国中に蔓延しているのも事実です。「日本人の感性や美意識」、「日本人としての公」、「日本人としてのアイデンティティ」ということを堂々と言わない教育、言わなくてもよしとする教育制度、システムはおかしいと思います。
  今述べた三つのことについて言います。
  まず一つ目、「日本人の感性や美意識」についてですが、例えば「茶髪はいけない」と指導するときに、校則に反するからと言うだけではなくて、なぜいけないのかを説明する必要があります。与謝野晶子の歌に「その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春の美くしきかな」とあります。雛人形や五月人形に茶髪の例はありません。黒い髪は大事な日本の文化、伝統であるときちんと教えなければいけません。駅や公共の場で座り込んでいるジベタリアン、そういう場所で化粧する者がいますが、彼らには日本人の美しい公共意識である恥の文化だとか、謙譲の美徳を理解できません。長い歴史の中で日本人が培ってきたそういう感性や美意識が心に響かなくなってしまっているのはとても悲しいことです。
  次に、日本人としての公について述べます。「滅私奉公」という言葉がありました。個性尊重の教育によって、現代では「滅公奉私」、公が滅して私に奉ずるという状況にあります。聖徳太子の言葉に「背私向公」という言葉があります。「私に背き公に向かう」と書きます。「私」を滅して「公」に奉ずるという「滅私奉公」ではなくて、「私」を抑えて「公」のために尽くすという意味です。
  誰にでも個人的な感情、欲望、あります。私情というものはあります。しかしながら、一方で国家や世界のために尽くす使命が自分にはあると思うことが大事なことです。日本にはこのような「利他の精神」を尊んできた歴史があります。この「利他の精神」―思いやりの心と言ってもいいんですが―について、個性尊重ということから説明しようとしてもうまくいきません。
  先日、私は生徒に聞きました。「『愛国心』という言葉についていい印象を持つか悪い印象を持つか、どちらかに手を挙げよ」と。ほとんど生徒は「いい印象を持つ」というほうに手を挙げていました。「公」に奉ずる精神ということについてナイーブになることは全くありません。
  三つ目、日本人としてのアイデンティティについてです。ギルバート・ケイス・チェスタトンは『正統とは何か』の中で、伝統とは死者の民主主義であると述べています。伝統を引き継ぐことで、私が何者であるかと認識していくことができるのです。それなのに個性尊重によって、私という存在は一個の独立した私として存在しているかのような錯覚を抱かせてはいないでしょうか。私たちは縦軸と横軸の人間関係があって初めて存在し得るのです。とりわけ縦軸、つまり歴史の流れにつながることによって、自尊感情や誇りが生まれます。誇りは伝統の中にあるということを言わないで、どうして教育ができるのでしょうか。
  最後に、つながるということがいかに大切かということを述べて終わりにしたいと思います。三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、「何かが絶たれている。豊かな音色があふれないのは、どこかで断弦のときがあったからだ」と述べています。戦後教育の不毛の最大要因は、どこかで断たれた歴史によります。どこかとはGHQによる戦後政策、ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムのことです。「精神的武装解除」という極めて政治的な問題が、現代にあっても教育界に大きな影響を与えているのは、遺憾極まりないことです。
  感動は、つながるということから生まれます。人と人とがつながる。生きている人と死んだ人とがつながる。そして歴史という命の流れにつながり、この国の文化、伝統に属していることが幸せであるというところに感動はあります。その感動をもって、日本人としてつながり、さらに世界の人々とつながっていく。そのようにして、世界に貢献できる人材を我々は育てていかなければいけないと私は日頃思っております。
  以上述べたことを、「教育基本法」の中に盛り込んでほしいと思います。教師が変わらなければ、生徒は変わりません。教師を変えるためには、普遍的な理念ばかりではだめです。自らの精神やこの国の精神や文化、伝統を顧みない教育をよしとする国には未来はありません。
  以上、発表を終わります。ありがとうございました。

布村生涯学習政策局政策課長  ありがとうございました。
  続きまして、古山明男さんから御意見の発表をいただきます。お願いいたします。

古山明男(私塾主宰、専門学校講師)氏
  中教審で教育基本法をいじるというので、じゃあってんで、とにかく田中耕太郎に当たらなきゃならない。しばらく当たったんです。
  田中耕太郎という人は、昭和21年の文部大臣で、教育基本法の生みの親です。アメリカが教育勅語はどうしてもだめだというので、田中耕太郎はじめ日本側が、じゃその後の精神的空白をどうするんだ、何か必要じゃないか、それで作ったのが教育基本法です。
  田中耕太郎さんは、教育基本法を大体作ったあと、吉田茂に突然パーンとクビ切られちゃって、自分はそのあと最高裁のほうに行っちゃうんですよ。それから10年間、この人教育に対して全く発言してないんです。最高裁長官が政治に何か言っちゃまずいですよね。
  ところがこの人、その間にね、延々と教育の理論書いてるんですよ。
『教育基本法の理論』ていうこんな、ものすごい本があるんです。もし教育基本法をいじるんでしたら、是非これ読んでいただきたいと思うんです。とてつもない優れた内容の本でしてね。単なる法律の条文解釈ってことじゃなくて、ほとんど哲学、それから教育の歴史に3分の1当てているという、とんでもない深い本なんです。
  これ一言でまとめるのは非常に難しいんですけども、あえてまとめますとね、「教育は文化現象である」。精神領域に属するものである。法によって規定していくもんじゃないと。実は教育基本法は、これが底に流れている。
  ただ、さりとて、田中さんはやはりバランス感覚がある人で、「ここはどうしても法律でやらなきゃならない」という部分はあるわけですね。そこは、ちゃんと「それはかくかくしかじかだ」と明確な理由をつけてやっているんです。
  教育基本法を変えるか変えないかのどういう結論出すか、それはもう我々がやっていくことなんですけどね、田中耕太郎の枠組みの捉え方は非常にすばらしいので、もし教育基本法を検討するのでしたら、『教育基本法の理論』という本です。もう絶版になってるんですけど、探せばどこかで見つかると思います。
  子どもの公共意識とか、規範という話が出ています。私ね、千葉市で私塾をやってまして、補習もやってる、受験指導もやってる、それからフリースクールでもって不登校の子どもらもやっている。あと専門学校で教壇に立ったりもしてんです。
  子どもが嫌なものに出会うと、それはもう、ガチャガチャしててねえ。子どもが授業聞いてないのは、これはすごいもんでしてね。学校の先生方の悩みわかるんですよ。どうしたらいいか。いろんな方法があります。ほんとにいろんな方法があります。
  一つの方法は、やっぱり規範をうち立てることです。
  (まじめな先生の真似。)
  「ああ、じゃね、3ページ。開けてある?うん、そこの最初の文字、大事ね。」
  「あ、こっち見てくださいね」
  「あ、寝ちゃだめ」  こういう方法もあります。
  生徒と友達になっていく方法もあります。
  (くだけた、友好的な先生の真似)
  「おはよ。3ページよ。今日はそっからやっからよ。いい。あけて」
  「うむ、おまえ眠い?  あ、いいから、いいから、寝てな、寝てな。」
  (まわりの生徒に対して、寝ている生徒のことを)「覚まさせなくていいからな」
  「じゃ、いこうか」。こういう方法もあります。
  特に小学校の低学年になると、これはもう、一言でいって、馬耳東風です。規範意識を立てればなんとかなるっていう人たちいるんだけど、叱ってなんとかなるんだったら、とっくになんとかなってます。
  馬耳東風も、これもやはり大別して二つ原因ありましてね。
  一つは、ご家庭とか、学校できちんと規範意識が成り立ってない場合です。やっぱり、「やっぱり先生の言うことをきいてるもんだよ」とか、「ちゃんと言うもんだよ」とか、こういうのが成り立ってないと授業はできないです。
  もう一つは、叱られすぎちゃって、言われすぎちゃってこう・・(手で、右の耳から左に抜けるジェスチャー)。いちばん手を焼く子どもたちは、この叱られすぎちゃってる子たちなんですよ。こんなのをパーッと持って・・・(と、子どもの真似をして、手元の紙を高くかざし、走り回る)。(先生の真似)「きみ、だめだよ」
「ウワァァーン」(と、子どもは聞く耳を持たず、騒ぐだけ)
そうすると、親御さんが来まして、「いや、うちの子がまた御迷惑申し上げまして、ほんとに申しわけございません。ほんとうちの子ときたらいつもこうなって、私、いつも厳しく言って聞かせてるんですけど・・・。トシオ、トシオったら、コラッ、ちゃんとご挨拶なさいッ。アアーッ、またもう・・・。」。こういうふうに叱ってるから、お子さんが馬耳東風になっちゃってるわけ。
  こういうお子さんの場合にはね、馬耳東風のこと問題にして向かってくんじゃなくて、別な次元から人間関係を作ってくわけです。これ、ほんの一例です。まだまだいくらでも方法あります。それから、話が通じない原因は子どもをじいっと見ない限りわからないです。
  私、中教審のこと新聞読みましてね、自主性を育てろだの、愛国心だの、公共心だのね。なんでもいいよ、それどころじゃないよ。
  要するにね、小学生あたりでは、うまくいかない原因は、大人の頭でっかち。どのような理論もってきましてもね、頭でっかちの人はだめです。
  今、チョット動いて見せましたけどもね、こんな次元だということを言いたかったんです。
  動かない方法もあります。私のほうがじいっとして、何も言わないでじいっとして、四、五十分後には静かな雰囲気を漂わせる方法もあります。
  それから、高校生ぐらいの年齢になりましたら、「大人の頭でっかちはいけない」の反対です。精神のきらめきみたいなのを見せなきゃいけない。
  (静かに立ち、じゅうぶんな間を置く)
  「君たち」
  (間)
  「人間だよ」
  (間)
  これで、何を説明してもいないんだけどさ、このとき、僕がこの一言の中に自分なりの思いを十分込めていると、何か伝わるんです。これを誰かのマネをした言葉でやったら、ダメなんです。その先生が生きている本当の精神というものが、大事です。
  こういうものを法律でやられると、ちょっと……。
  私なんか塾だから、なんでも勝手にできるんですよ。法律で決められたら、大事なものを伝えられない。私の上に、教育委員会がいない、校長先生がいない。私は子どもだけに責任をとる、親御さんだけに責任をとる。私が失敗すれば、むこうがやめてくれるから、大怪我負わすこともない。  これが、法律で決められる立場だったら、私にはとてもまともなことはできない。
  だから先生方を見て、ほんとに可哀相だと思う。あらゆる要求、中教審から、文部省から、教育委員会から、校長さんから、親から何から全部、現場の先生に要求されてる。現場の先生は正反対のことが要求されているんです。「優しくて、厳しい」。あれじゃあね、先生たちまいっちゃう。
  すみません、これ読んどいてください。説明が全部いきませんでしたから。
  「教育を受ける権利」じゃなくて、「教育への権利」だというのは国連で言ってまして、世界的にその流れなんですよ。
  私、こういう冊子をつくりました。これ法的拘束力のあるものです。「教育を受ける権利」じゃなくて、子どもを主体としなきゃいけないというものです。これは、国連の人権委員会のほうから、出ています。ちょっと後でお渡ししますので、ひとつ読んでください。どうもありがとうございました。
  子どもの公共意識が発達していないことがよく問題として取り上げられます。この原因は大別して二つに分けられます。
  一つは、家庭や学校において、十分に規範とモデルが示されない場合です。もう一つは、子どもに守らせようとすることが多すぎて、子どもが受け付けなくなっている場合です。この両者に対する対応は180度違ったものになります。
  教育には「子どもに対する規範を確立せよ」という潮流と「規範を緩めよ」という潮流の二つがあり、どちらもかなりの成功をおさめますが、どちらも万能ではありません。これらは、実際のそれぞれのケースでの状況判断と組み合わせなければ、使いこなすことができないものです。
  公共意識の発達は、いかなる社会も当然に教育目的とし、そのための知恵を持っているものです。法律の扱う領域ではありません。
  教育は、人間の知恵の結晶であり、人間の知恵を活かすためには、社会における教育の自律性がきわめて重要です。昭和22年には、文部省の指導なしに学校を運営することは困難でしたが、今日では、きわめて高度な教育理念、方法もたちまち社会に普及します。文化水準の高い国々では、学校によらない教育法すら確立されています。
  いかなる人間をいかに育てるかは、社会そのものが内蔵することであり法律となじみません。教育がまず人格を作り、その人格が国家を作ります。教育の目的と方法はあまりに多様です。教育に関連する法律は、権利・義務関係、人権擁護、財政関係だけに留めるべきです。教育の目的を定め、方法と内容を改良・発展させることは、教育運動としてなされるべきです。法律によらないことが、時代に適合する最善の方法です。
  「決められたことだから」ではなく、教育が行われるようになったとき、人間と社会の本当の力が引き出されます。時代は、それが可能なところに来ています。
  田中耕太郎(東大法学部教授、文部大臣、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事)は、教育基本法の生みの親と言うべき人です。田中耕太郎は、自らが関わった教育基本法を解説した「教育基本法の理論」(1961  有斐閣)の緒論において、教育の目的について、次のように結論しています。
  「私は個人的には、国家が法律を以て間然することない教育の目的を明示することは不可能に近いことと考えるものである。それは国家の目的を法律学的に示すことが不可能なのと同様である。憲法が国家目的を条文中に明示することをせず、ただ前文において民主憲法の政治理念を宣明しているにとどめているごとく、教育基本法も第1条と第2条は前文的のもととし、第3条からはじまるものとする方がよかったのではあるまいか。」
  しかし、第1条と第2条が作られた理由について、田中は次のように述べます。
  「法が教育の目的やその方針に立ち入ったのは、過去において教育勅語が教育の目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果として、それに代わるべきものを制定し以て教育者に拠りどころを与える主旨に出ていたのである。」
  つまり、教育基本法の草案が練られていた昭和21年には、学校も教育者も、教育勅語に基づいた国家主義教育以外はまったく知らず、教育勅語を単に廃止することは、混乱をもたらすことが予想されました。そのため、教育勅語廃止後の精神的空白を埋めようとして、教育基本法が作られました。それが、歴史的事実です。
  しかし、教育基本法で、教育の目的と方針を定めたことは、その時代の必要に応じた過渡期的性格のものであり、本来、法律が教育の目的や方針に立ち入るべきでないことを田中は主張しています。
  田中は、教育がどのような目的で行われるか、あらゆる考察を重ねます。そして、いろいろな価値や規範が衝突するとき、どのように解決するかの問題を提示します。「精神と肉体、個人と社会、道徳と芸術、民族主義と世界主義」というような根本問題から、「ヒューマニスティックな教養と職業教育、自由と規律、智育、徳育、体育」など具体的な問題まで、価値が衝突する場合に調和は可能か。価値の間の序列は定められるのか。
  そして田中は次のように序説を終えます。
「これらの諸問題の解決を法に求めることは期待できない。のみならずそれは法の使命の範囲外の事柄である。我々はそれを教育哲学に求めなければならない。そうしていかなる教育哲学を我々が採用するかは、我々の哲学的立場、宗教、世界観等をはなれては決定できないのである。教育基本法がきわめて漠然と抽象的に「人格の完成」といっているものに、教育者は教育哲学と自己の識見によって解釈をあたえなければならない」。
  つまり、「人格の完成」の内容に関しては、法律の立ち入るべき領域ではなく、それは教育哲学と教育者に任されることであるとしているのです。
  このことは、世界人権宣言における「人格の完全な発展」、社会権規約における「人格の完成」、児童の権利条約における「児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発展させること」についても同様であり、その内容に関しては、法律が立ち入るべきではありません。
  どのような人格の完成を目指すかは、哲学、宗教、社会習俗、民族的文化的伝統、芸術、思想、教育などの領域から立ち現れて来るものです。またそれが、文化的な伝播によらず、法によって定められるなら、たちまちに形骸化します。たとえば、戦前の「愛国心」は法律によって教えられたために、敗戦による政体変化だけで、消滅してしまいました。

布村生涯学習政策局政策課長  どうも10人の意見発表者の方々、本当にありがとうございました。多様な御意見をいただけたものと思います。
  これから意見発表者の方々に対しまして、中央教育審議会の委員から御質問させていただきながら意見交換を重ねていただきたいと思います。これからの司会は中央教育審議会の鳥居会長にお渡ししたいと思います。それでは、お願いいたします。

鳥居会長  意見発表者の皆様、本当にありがとうございました。
  今日は「一日中教審」ということで、中央教育審議会の委員の方々にもおいでをいただいております。全員ではなくて大変恐縮でございますが、いつもの中教審のように御意見を出していただくというようにしたいと思います。委員の皆さんから御意見がありましたらどうぞ。また、今御発表いただいた御意見に対する御質問とか、そういったことでもございましたらいただきたいと思います。いかがでしょうか。
  はい。増田委員、どうぞ。

増田委員  失礼いたします。田村さんにお聞きしたいと思います。
  先ほどの貴重な意見、ありがとうございました。2人のお子さんに、大きな地球儀を回しながら、世界を飛び回るような人間になりなさいと言われたことで、私はとても感動いたしました。
  後半のほうのお話の中で、男女共同参画社会実現に寄与するということを教育基本法の中に盛り込むということに対しては反対だということを言われましたけれども、その辺のお考えについて具体的にお話しいただきたいと思います。

鳥居会長  田村さん、どうぞ。

田村氏  私、千葉県に住んでおりまして、このたびの夏から千葉市の条例案と千葉県の条例案が公表され、勉強させていただきました。堂本知事が、日本一の条例をつくるとおっしゃっておられるのですが、普通の主婦が見てもとても行き過ぎた文言が盛り込まれていたことを知って危惧しております。私たちは、サイレントマジョリティーでしたけれども、みんな立ち上がったという段階でございます。9月県議会で継続審議になり、今は渦中にあります。まだ国の男女共同参画社会基本法が出来上がって3年しかたっていません。そして県では37番目の条例です。これからは市町村で何千もの条例が出来ると思います。良識的な健全な条例ならばいいのですが、まだまだ途上であり、国民も知らないプロセスにあります。従って、憂慮し、危惧して、今は教育基本法に入れるべきではないと痛感した次第でございます。

鳥居会長  ありがとうございました。
  今の問題は、会場の皆様、御存じだと思いますが、現行の教育基本法ができたときは、男女七歳にして席を同じゅうせずという考え方がずうっときた。そして、原則的に男女は別学であった時代を、どのように改善していくかという発想から書かれたものと思われるんですけど、こんなふうに書いてあります。第5条の名称自体が「男女共学」という名称でございまして、こう書いてあります。
  「第5条(男女共学)  男女は、互いに敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上」、ここから先が大事なところですが、「教育上男女の共学は、認められなければならない。」というのが、55年前に書かれた男女共学条項です。
  私どもは中教審の審議の中で、男女共学を否定している何かがあって、「男女共学は認められなければならない」と言わなければならないような状況は、現実には存在しないねという話し合いをしています。むしろ現在の男女共同参画社会という考え方に沿って、我々が物を考えていくときにどうすればいいかという視点て考え直そうということです。
  それから、先ほど田村さんのお話の中にたしか出てきたと思いますが、男子校、あるいは女子校というものについてどう考えたらいいかということも、それぞれの国がみんな考えている問題です。
  先ほど冒頭に私が御紹介した1980年から88年にかけてのサッチャーさんの教育改革の中で、年度は正確に覚えてないんですが、確か1983年だったと思いますが、サッチャーさんのもとに特別委員会がつくられました。その特別委員会の名称は「コミッティ・オン・ガールズ・アンド・ガールズ・オンリー・スクールズ」という委員会なのです。つまり、女子学生と女子学生だけの学校の問題についてという委員会です。そして、女子だけの教育をする学校の持つ意味と重要性、そしてそれはその裏側として男子だけの学校を置くことの意味と重要性、そして男女共学と共存していくことの重要性を改めて検証したんです。これは我々にとっても、また新しい考えるべき課題だと思います。
  そのほかに何か御意見はございませんか。
  田村委員、どうぞ。

田村委員  大変いいお話をお伺いさせていただいてありがとうございました。
  一つ、私自身、大変興味を持っているテーマで、御意見をおっしゃられた奥平さんにお伺いしたいんですが、実は委員の中でも、御指摘になられた宗教教育はいろんな意見が出て、まだまだまとまってないんですけれども、宗教教育の指摘の中で、具体的に、では学校でどういうことができるんだろうか、あるいは家庭の問題なのか、あるいは社会として取り上げるというお考えなのか。その辺のところ、もし御意見がございましたらお教えいただければと思います。

鳥居会長  奥平さん、どうぞ。

奥平氏  宗教教育と言いましても、例えば先ほども話したんですけれども、宗教的素養、教養という意味と、宗教的な情緒といいますか、内容的なものと分けて考えないと混乱してくるんだろうと思うんです。
  ですけど、まず第1に、教養的な意味では大きな世界宗教がありますけれど、そういうものの内容的なものを知識的に理解するというのも一つの方法ですし、あと大きな意味で、道徳観、あるいは倫理観の根拠を示すという意味での宗教的な価値は、各宗教、各宗派を超えて普遍的なものが共通項としてあるように思うんです。そういうものはそういうもので、押しつけるというわけではなく、一つの大切な考えとして、タブー視することなく提示して、オープンにしていったほうがいいんじゃないかと思うんです。
  今は非常に閉鎖された空間で宗教が語られるので、何かタブー視されたようなイメージが強いんですけれども、本来の宗教というものは公共的なものでありますし、社会的なものでありますので、そういう宗教の役割に対しては正当に評価して、寛容と理解力を持って接する雰囲気というのがこれからは大事ではないかと思うんです。
  そういう意味で、今の条文の中での文言なり何なりを少し考えていただきたいなと、そんなふうに考えております。

鳥居会長  ありがとうございました。
  この問題については、話を三つぐらいにはっきり分けて議論をしないといけないということを心に置きながら私たちは議論をしてきました。
  宗教については、現行の教育基本法の第9条に書かれていますが、これは後で御説明しますけれども、それが出てくる経緯として、先ほど来いろいろ御意見があった中にも出てきましたが、戦前というか戦中ですね、特定の宗教がいわゆる軍国主義的な考え方の一つの柱として使われた。それに対する強い反省と、それがさらに継続して日本の学校教育の中で、終戦後の日本の学校教育の中で生き続けることに対する警戒、自戒、そしてまたGHQ側の警戒心というものがあったということ。そして、それを今、私たちはどう受け継ぐべきかという問題、これがまず第1の問題です。
  それから、第2の問題は、宗教そのもの、本当に人間の存在として、宗教というものを心の中でどういうふうに考えていくのかという問題を考えておかなければいけない。完全無宗教人間もいても構わないけれども、宗教というものが心の中で大きな部分を占める、そういう人間存在はやはり認めなければいけない。これが2番目の問題です。
3番目は、自分以外の人たちの持っている宗教、あるいは自分が持っている宗教以外の宗教、そういうものについて、学校の中で、あるいは学校以外の教育の中でどのように扱うかという問題。これが3番目の問題です。
  これをごちゃまぜにして議論すると収拾がつかなくなるということを、我々は心の中でしっかり分けながら議論をしてきました。
  ちなみに、その最もよきエクザンプルがやはりイギリスの例だと思いますが、イギリスはサッチャーさんの1988年の教育改革で、今から申し上げるようになりました。
  まず、イギリス国教会を中心とするキリスト教ですね、これは基本的な宗教で、多くの学校がこれをごく自然に教えたり、あるいは学校の中での礼拝も行われています。それとは別に、サッチャー改革ではコア科目という科目が4科目設定されました。その4科目は、宗教、数学、英語、理科なんです。日本語に置き換えるというと、宗教と国語と数学と理科なんです。これがコア科目です。この宗教は、宗教一般についての教育をする科目だったんです。
  この科目をずっとやってきましたが、最近になりましてブレア内閣になって、ブレアさんがこの考え方をさらに引き継ぎまして、ブレアさんはご存じのとおり、第2期目の就任に当たって、イギリスは改革しなきゃならない、改革の第1はエデュケーション、教育だと。第2は教育だ、第3は教育だと言ったんです。
  その一環として、宗教教育についてどういうことになったかといいますと、ブレア内閣が打ち出した方針で、既に採用されて実行されているのですが、学校では宗教については世界の五つの主要な宗教、それは何でもいいんですけれども、主要な五つの宗教について学ぶことを実際に実行しているんです。ですから、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、中にはヒンズー教を学んでいる学生もいる。そういうふうにして、他の宗教についても理解をする。私が最初に三つに分けたうちの3番目です。それを現実に重視して学校教育が行われているんです。
  私たちはそのことを考えながら、現行の教育基本法第9条というものをもう1回見直してみる必要があると思っています。結論はまだ何も出ていないんですが、第9条はこんなふうに書いてあります。
  第9条。「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」、これが第9条の第1項です。
  そして、第2項に、先ほど三つ挙げたうちの1番目の問題にかかわることが書いてあって、第2項「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」と書いてあるわけですね。
  この二つの条項を、私がさっき解説した三つの宗教に対する我々の考え方の中で、もう1回掘り下げて考えようというのが私たちの考えです、現状です、ということを皆さんに御報告したわけです。
  それでは、梶田委員、それから次は中村委員。

梶田委員  兼子啓子さんにちょっとお伺いしたいんですが、学校と家庭と地域ですね、これをどういうふうにうまく手をつないでいくかというのはこれからの大きな課題だろうと思います。今、アメリカのいい例を、実際におやりになった事例を御報告いただきましたけれども、ちょっとジレンマもあるんですね。というのは、親があまり学校に言うと、また先生たちが大変になっちゃうとかね。特に校長先生が大変になるとか。といって、学校と親が一緒になって、あるいは地域も一緒になってやっていかなきゃいけないとかというような、このジレンマをどういうような形で……。日本の場合ですね。アメリカと少し違うとこがありますから。というようなことをもし何かお考えになっていることがありましたら、もう少しお聞かせいただければと思います。

鳥居会長  兼子さんどうぞお願いします。

兼子氏  アメリカの場合、校長先生になるための資格を取った方たちの中から、自由にPTAの方で公募できるというシステムがあります。もしそういうシステムを日本でも義務教育に確立できればいいのですが。日本でも、ある東京都立高校では、現在民間から公募した方が、校長先生になっておられると聞いています。そういう形で一つのモデルスクールができていって他府県でもしていけるようになればいいのではないかと思っております。

鳥居会長  では、中村委員、どうぞ。

中村委員  いろいろな御意見をありがとうございました。
  私が関心を持ちましたのは、「教育への権利」という言葉を何人かの方がおっしゃったことです。「教育を受ける権利」ではなくて、教育を自分たちでつくっていく権利も持とうということでしょうか。これは小貫さんや、古山さん。兼子さんも地域で実際になさっている内容はそういうことなのではないかと思いました。それから、私は青木先生のお気持ちもとてもよくわかります。法律をどうするかということよりは、むしろこれからの子どもたちのことを考えたときに、どういう教育をつくっていくかということが重要で、小貫さんや古山さんたちとも同じお気持ちがあるのではないかと思ったのです。私、ここで、短い時間伺っただけで、勝手にこうまとめていいかどうかわかりませんけれども、私なりにそう受けとめさせていただきました。
  みんなで、ただ「教育を受ける権利」だけではなくて、様々な形での教育をつくっていくという姿を日本の教育の中につくる。私は教育基本法を今変えるということと、それとは決して齟齬しないと思っているのです。例えば小貫さんが、今、多様な教育をやろうと思うと、改革も中央でやったのでは難しいということをおっしゃいましたけれども、今の日本の形ですと、どうしても今進めているように中央で変えていくことになっていきますね。仕組みがそうなっているのですから、この仕組みを生かしながら、何か具体的にうまくやる方法はないだろうかと、私も悩んでおりますものですから、「教育への権利」ということをお考えの方に、具体的な方法に対するお考えを教えていただきたいと思います。

小貫氏  今の会場の雰囲気を見ても明らかなことだと思いますが、中教審が出したたった一つの回答が、日本の国民全員に受け入れられるということは不可能だと思います。

中村委員  多様な形は出せないだろうかと思いますが、そこが難しいですね。

小貫氏  私が申し上げたいのは、私も親として自分の子どもを育てていく中で、自分の考え方があります。自分の選んだ教育を子どもに施したい。右の考え方だろうが、左の考え方だろうが、それしか受けられない教育を子どもに受けさせなければいけないのでしたら、私はそれは望みません。私は実はブラジル人と結婚しているんですけれど、子どもたちには日本の国を愛してもらいたいと願っています。しかし、そのことを学校で「愛しなさい」という形で何かルールのように押しつけられたら、私ははっきりと思いますが、子どもは私の国を愛してくれるようにならないと思うんです。
  私は、教育が改善されるためには、親たちが本当に望んだ教育を自分が選んで、それに自分も参加して、自分も協力している学校があって初めて、日本の中で莫大な力で、大勢の人たちが今こんなに苦しんでいて、大勢の人たちがこんなに問題意識を持っているときに、その人たちみんながエネルギーをそこに注ぎ込んで、自分の考える新しい教育を実践することが一番の教育の改革への近道だと思います。それがもしたった一つの回答をすべての国民に押しつけることになったら、それは全くソビエト連邦が崩壊したのと同じ理由で、日本の教育の崩壊の道だと思います。
  ただ、最後に一言だけ申し上げますと、今、イギリスとアメリカの例が随分とられましたが、イギリスとアメリカで行われたようにただ単純に市場に開放する、マーケットに開放するということを行ったときに、実際それは逆の意味で教育の崩壊につながりました。そのことをよく反省した上で、そうでない形、日本の新しい道というのをみつけなければいけない。私は「自由化」という言葉は間違っていると実は思っていて、「多様化」という観点から実現させていただきたいと思います。

中村委員  おっしゃることはよくわかるのですが、ただ一つのものを与えるというより、何かみんなで共通理念を持たなければいけませんね。それを考えたいと思っているのですが、それも無理ですか。今までも基本法はあったわけですから、現時点で大事と思う理念を考えたいのですが・・。

小貫氏  実はそのことは、国際法の上では随分はっきりと出されている部分かと思います。というのは、まず子どもの人権が侵害されてはいけないということは、はっきりと法律で明記されなければいけない。教育の中で行われることが、公共の福祉に反することであってはいけない。それも明記されることだと思います。
  ただ、その中で、どういう考え方の教育を実践するか、そこを細かく規定してしまったら、それは最初に田中耕太郎という文部大臣が教育基本法をつくったときに、一番避けたかったこと、つまり政府による教育の統制ということに結びつくものだと思います。私は戦前の教育と戦後の教育がどんなに違うといっても、それが根本的に同じなのは、どちらも政府の考えた唯一の教育しか許されなかったことだと思っています。そうではなくて、今求められているのは、様々な人がみんな参加できて、親たちが自分たちが選べる教育への道ではないでしょうか。

鳥居会長  では、古山さんどうぞ。

古山氏  「教育への権利」というのは、「ライト・トゥ・エデュケーション」の訳語で、今まで人権が教育の手に及んでいないじゃないか、教育が一方通行過ぎるじゃないかと、国連が言い出しまして、古い文言に新しい意味を込めたんです。最初は単純な意味だったのを、「受ける側の権利だ」と言いまして、「教育への権利」についてまとめた声明文が国連から出ています。その中から2ヵ所ばかり、私の記憶の中からなんですけど、挙げます。一つは、子どもが学校に行っているからといって、子どもの「教育への権利」が保障されたわけではない。本当にその子が自分に合った教育を手に入れてこそ、「教育への権利」が満たされたのであるとしています。
  もう一つは、国家が義務教育が行われるようにする責務を負っているんですけれども、これは往々にして国が全部運営することだというふうに誤ってとられている。そうじゃなくて、全体として国民が本当に満足いく教育が行き渡ること、これが大事だ。そういうふうに見るのが国家の仕事なんだということです。

鳥居会長  ありがとうございました。
  予定した時間がきましたので、このあたりで、委員と説明を今日してくださった方々との質疑応答を終わりにしたいと思います。大変ありがとうございました。


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