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資料2

教育振興基本計画に関する委員の意見の概要


1 教育に関する施策の基本的方針について

1. 教育の現状と課題
  (1) 教育の現状
  教育の危機  戦後教育の再検討
  (2) 教育の課題
  今後の社会の大きな変化への対応
  教育、学校教育の意味を明らかにする

2. 21世紀の教育が目指すもの
  (1) これからの教育の目標
一人一人の自己実現と人間能力の多面的発展
社会の持続的で健全な発展の基盤の形成
多様な選択を可能にする教育、生涯にわたる学習機会の充実
  (2) 教育改革の基本的方向性
基礎学力の育成と個性、才能を伸ばす教育の実現
豊かな心と健やかな体の育成
自律心、公共の精神の育成
優れた教員の養成・確保
父母・住民に信頼される学校づくりと柔軟な学校システムの実現
国際競争力のある大学の実現
教育の国際化、情報化の推進
家庭、地域の教育力の向上
生涯学習社会の実現

3. 教育振興のための基本的考え方
  教育振興基本計画の必要性
教育振興基本計画策定に際しての基本的考え方

2 施策を推進するために必要な事項

 



1.教育に関する施策の基本的方針について

1.教育の現状と課題

(1)教育の現状
教育の危機

どもや社会の問題
  人間関係を作る力など社会性の不足、自立が遅い
  権利と責任のバランスが喪失、規範意識の希薄化
  苦しみに耐える力、欲望を抑える力、他人への思いやりが不足
  日常生活での体を動かす機会の減少等による体力の低下
  いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、青少年犯罪の続発等が深刻な状況
  国家の形成者としての自覚、我が国の伝統文化についての正しい認識が不足
  学ぶことの目的意識が見失われ、自ら学ぼうとする意欲に乏しい
  自分自身で考え創造する力が不足
  多様な職業観、人生観を持てない青少年、保護者
  物質的豊かさや、社会経済の急激な変化の中で、社会の目的や目標が失われている
  社会を牽引するリーダーの不足
  家庭や地域の教育力の低下
  社会全体の自信喪失感、閉塞感
  モラルの低下、学びの意欲の低下、人格陶冶能力の低下
校・教育行政機関の問題
  社会の変化に柔軟かつ積極的に対応する姿勢が希薄
  画一的思考の進学競争
  同質志向や横並び意識、過度に年齢にとらわれた価値観が根強く残っている
  教育の成果に関する客観的な実証的データの不足
  改善のための競争を促すシステム、評価システムの不足
  教員の指導力の問題
  大学の閉鎖性、機能の硬直化、社会的国際的養成への対応が不十分
  勉強しない大学生を安易に卒業させている大学
  機会均等について、教育基本法には「能力に応じて」とあるにもかかわらず、結果の平等のみを尊重


戦後教育の再検討
  現行制度は占領政策としての新制度であるという点、義務教育の意味の変化、国公私立の役割、文教政策における国と地方の役割、幼・6・3・3・4・院制の固定化から柔軟化への流れ、教育費用の社会的分担(税・受益者負担・民間支援)などの観点から、現行教育制度の再検討が必要

  教育理念、教育制度、教育に関わる専門家、教育資機材、教育投資と教育資金、教育の場、国公私立学校の社会的責務について改めて問うことが必要

  国家の発展段階と教育制度(戦後、民主化初期と高度経済成長期の教育→文化的爛熟・経済衰退・少子化・大競争時代)

  今の日本は縄文式で行き詰まっており、弥生式アプローチが必要。閉塞感が強いここ2,3年の社会の影響を受けすぎてもいけないが、戦後50年を総括しながら来るべき5年、10年、20年の力点を考えていくべき。

  戦後教育改革の理念は、平和主義、個人主義、国際主義、脱宗教化であるが、教育基本法の一つ一つの言葉じりを捉える議論ではなく、戦後50年を経て、これらの理念が何を生んできたのかを考えるべきである。


(2)教育の課題
今後の社会の大きな変化への対応
  教育基本法制定から54年、中教審創設から49年経ち、歴史の評価に耐える基本計画を作るべき時

  21世紀の最初の10年で日本の将来が決まる。タブー視してきたことを乗り越えるべき

  知の大競争の時代に世界をリードする国となるための教育改革が必要

  児童、青少年の心身の発達の早まり、科学技術の進歩の加速、地球環境の変化の深刻化、少子高齢化社会の到来

  欧米の教育改革は急速、オーソドックスへの回帰、国民の民力を教育に生かす方向が顕著

  企業社会の貢献の潜在的意志を生かすべき時代

  教育に求められるものには不易のものも多く、不易の部分の補完と、新しい時代的要請への対応の二つを考えることが必要。

  雇用構造が大きく変化し、従来のキャリア展望ができない。国民国家がゆらぐ中で国民教育の制度もゆらいでいる。この状況下でどのような教育目標を作るべきか。

  今後、高齢化が進むことも考えると、諮問文にもある「自らの能力を最大限発揮して自己実現を図る」ことを、「学力」「豊かな心」に加えて、三つの柱にする必要があると思う。その上で、初等中等教育とか、社会教育とかでどう実現していくかを書いていくことになると思う。

  地球国家の中で日本はどういう役割をはたすべきかという目的をはっきりさせる必要がある。

  グローバル化した社会にあって、自身の価値観を確立するとともに、異なる価値観を受容していく能力を培うことが求められている。

  国際性と民族性(日本人としてのアイデンティティと民族・文化への理解)をバランスよくどう盛り込むか。

  教育は、参加、参画といった言葉がなく、「学校」という専門領域の中で行われているという感覚があった。参加型の社会が進むことを考えると、地域、家庭そのものが学校に関わることを考えていく必要がある。

  高等教育在学年齢人口の推移のグラフには寒気がする。やりにくいことではあるが、やはり今後は大学院についても規模を考えなければならないのではないか。

  今後の18歳人口の減少や高齢者の増加を踏まえ、今後の大学の方向性を考えていかなければならない。


教育、学校教育の意味を明らかにする
  教育の原点は何か、「教育」の語源にまで遡ってこの点を明確にすべき

  人生の各段階(幼・少・青・壮・老年期)の教育、教えるべきこと(親・家族・社会・学校)と学ぶべきこと、何を如何に教え如何に学ぶかなど、教育とは何かを改めて問うことが必要

  教育理念(建学の精神(人造りの目標、専門教育の目標等))について改めて問う

  計画の基本理念における人間像
      →知徳体の調和的発展(不易(学力低下よりモラル低下を懸念))とIT、国際化対応(流行)

  学校の5つの使命として、人格形成、能力開発、知識伝授、知的生産、文明の継承があり、3つの国権付託として、学校設置、教育、学位・資格付与がある。

  今後の社会を考えると、保護者の意識が変わり、学校選択、教育選択(ホーム・スタディなど)といった問題は避けて通ることができない。

  学校の権威の重みがなくなってきているのを、取り戻そうとするのか、あるいは軽くなるのもやむを得ないとして他の手段を講ずるのか。

  学校を教育の基軸と捉えるのか、それとももっと広い範囲で捉えるのかについては、やはり学校を基軸に位置づけることが重要ではないか。そして、学校を、喜んで行けるような魅力あるものにすることが重要。

  学校だけが教育する時代ではなくなってきている中で、学校は何を求められているのか、また、文部科学省や地方公共団体がそれぞれどのような役割を果たすべきか、検討する必要があるのではないか。

  変化の激しい社会にあって、知識はどんどん変化するので、学校の役割としてフランス法の「知識と学習の方法を伝授する」という考え方は魅力的である。

  家庭が学校に全てを委ねるという形になってきているが、それを考え直すことが一つの重要なポイントではないか。

  土日は家庭がしっかり子どもの面倒をみるべきで、あとの5日については学校が責任をもって学習を突き詰めることが必要だと思う。少なくとも、その真ん中をとるような選択はすべきではない。

  特に家庭教育や社会教育の分野では、政府は禁欲的になって活動領域を限定していかなければならない。行政が責任を持つべきことと踏み込んではいけない分野を明確にする必要がある。

  学校外でイー・ラーニングなどにより知識を得ることも可能になり、今後の学校教育の役割は社会・集団の中でどのように行動するか等の力を培うことに重点が置かれてくるが、これには学校と家庭、地域との連携が必要である。

  現在、学校の役割を定義するということは、生涯学習社会における学校の役割を定義することになるが、生涯学習の定義がはっきりしていない。

  地域の人々の協力で、大きな責任を担っている学校の教員を支えていくことも必要。

  市民活動の中にも、家庭教育に関する色々な相談に応じるシステムもある。何もかも学校でしようとするのではなく、官民の役割を明確にすることが必要ではないか。

  親と学校は、それぞれが子どもの教育に責任を負うとしても、あまり独立して考えるのはどうか。学校と家庭、学校と親の連携が必要。家庭が教育の権利と責任を持つことをどこかに盛り込むべき。


2.21世紀の教育が目指すもの

(1)これからの教育の目標
一人一人の自己実現と人間能力の多面的発展
18歳までの無償教育の延長、職業への円滑な移行

  教育改革の発想には、社会的システムからの発想が多いが、個人一人一人が充実した人生を送るための視点でも必要。

  一人一人が生涯学習システムの中で充実させていくという生き方、まさにそういう意味での個人を確立するということの大切さがある。基礎的な力はきちんと持っていなければいけないし、公(おおやけ)のこともちゃんと考えなければいけないのだというところへ持っていかなければいけない。

  個人としてのアイデンティティをきちんと自分で築き、それに従い、それぞれの個人の能力を高めるといった考え方を明確にすべき。人が持っているそれぞれの能力に合った形で、教育なり、仕事のチャンスがあるような社会を築き上げるために、どういうことをすればいいのか。

  高等教育は「高度な社会的ニーズに応える」ことも必要だが、「文化・学問の土台を養成し、一人一人を豊かにする」面もあることを明確に打ち出すことが必要。

  子どもそれぞれに個性があるのであり、格差を是正せよというときには、知識水準だけでなく、多様な能力を評価し、伸ばせるような、そういう評価の在り方の検討が必要ではないか。

  格差の存在を、それが全体を高めると捉えるのか、皆平等が大事と考えるのか、根本的なところを議論すべき。

  格差には2種類ある。一つには、クラス内の学力格差という問題であり、その解消のために教員の資質を高める計画、もう一つが、伸びる子を伸ばしてあげられるような計画、その2つが必要だと思う。

  日本の教育は実は多様性があると思うし、特に私立学校では色々な取り組みを行っている。普通の公立の学校に応用できないか考えることは良いことだ。


社会の持続的で健全な発展の基盤の形成
  教育は個人にも社会にも与えられる。個人の次元では、成熟や人格の完成を目指すことが大事。社会の次元では、人的資源が大事。経済的価値と人間的価値のバランスを保つことが必要。

  一人一人が生涯学習システムの中で充実させていくという生き方、まさにそういう意味での個人を確立するということの大切さがある。基礎的な力はきちんと持っていなければいけないし、公(おおやけ)のこともちゃんと考えなければいけないのだというところへ持っていかなければいけない。(再掲)

  21世紀になって、日本人がいかに生くべきかが議論されるなど、基本的な道徳律が見直されるようになった。このようないかに生くべきかといったことについてのガイダンス、方向のようなものも必要になっているのではないか。

  「豊かな人間性と健やかな体の育成」は非常に大事だと思う。豊かな人間性というのは何だということになると、これはまた相当幅の広いとらえ方ができると思うが、「人間として生きるルール」と置き換えてもよいのでないかと思う。

  これまで日本は経済と徳の調和を考えてきた。生産性やものづくりといった経済的な価値と心の豊かさなどの人間的価値の両面から考えていく必要がある。


多様な選択を可能にする教育、生涯にわたる学習機会の充実
  諸外国に比べて、日本は学校制度が単線的であるが、50年を経た今、これをどう考えていくべきか。

  公立学校一辺倒だと、どうしても教育の画一化につながる。

  現行の学制について、例外として色々なパターンを認めるのか、それとも例外についても一定のシステムを構築するのか。制度を複線化すると、混乱するのではないか。

  中等教育学校や高等専門学校、飛び入学などがあり、日本も必ずしも単線型とは言い難いのではないか。むしろ、子どもの発達の現実と学校の年限があっていないのではないか。原理的な議論やデータを添えて検討しないといけない。

  現在は雇用が流動化して個人主導のキャリア形成へ視点が変わり、個人主体の考え方になっているので、社会教育についても、職業能力開発と組み合わせた継続教育の視点を取り入れて教育基本法の規定をを見直す必要がある。


(2)教育改革の基本的方向性
基礎学力の育成と個性、才能を伸ばす教育の実現
  ナショナルミニマムのグレードアップ

  ナショナル・ミニマムとしての教育の徹底(基礎学力未充足児童(成績1)の半減計画)

  才能の発見、育成と才能ある者への機会の確保、才能教育を行う学校の設置、高校・大学等の入学試験のより一層の改善、語学・理科などの傾斜教育の実施等

  暮らしていくために必要な基礎・基本の学力と研究者として学問をするために必要な基礎・基本の学力と整理して考えるべき。

  基礎的な日本語能力(読解力・記述力)、基礎的な算数計算能力、英語等語学能力をきっちり教え込む

  英語と国語の話が出たが、やはり国語が基本であり、最重要である。

  日本語できちんと正確に自分の意見を言うことができる力、自己を表現できる力を身に付けることが重要。

  幼少期には基礎を教え込むことが大切。その上に、「自分で考える力」「自分の考えを伝える力」を育成

  「詰め込み」は個性の無視であり、問題であるが、「教え込み」は徹底しなければならない。柔軟で可能性のある時期に教え込むことは大変重要なことである。

  教えるのが先か、創造性が先かという議論は、文部科学省の審議会以外の場所でも行われている。幼児教育などについても、未だ中教審でしっかり議論されていないが、きちんと結論を得ておかないとまたぐらつくことになる。戦後の文部省は、自由と創造性を強調しすぎ、教育に必要な型をおろそかにしすぎたとの評価もある。

  独創性や創造性ということについて、これまでの研究を踏まえて議論すべきである。

  全国共通学力テストの実施、英検等の各種能力検定、各種資格試験等の活用、学力国際比較における到達目標の設定と結果の検証

  教育・学習成果の評価・認証体系の整備、高校・大学等の入学試験のより一層の改善、入社試験改善の要請等を通じた独創性・創造性を評価できる評価体系の整備

  格差是正といっても、平等主義は無理だと思う。評価に当たって、多様な能力を評価できるように指標を多元化することが必要。

  「学力」とは、カリキュラムに盛り込まれた内容をどれだけ身に付けたかということであるが、「学力とは何か」という、そもそもの議論をせずに学力低下の議論が一人歩きしているのではないか。すなわち、カリキュラムの中身が変わるということは、学力の中身も変わるということ。最近では、「学び方」や「考える方法」もカリキュラムの中身に含まれてきている。

  計画を考える場合、大きな目標の項目とそれを分けたもの、それと診断が必要。こういう観点で、大きな目標としては、「学力の向上」「一人ひとりの能力・才能の伸長」「創造性の育成」があると思う。また、具体的施策として、これからは学び方を学ぶことが非常に重要。

  少人数学級やT・Tなど個に応じたきめ細かな指導が可能となるための教育条件の整備

  教育資機材(テキスト、教材、フィールドワーク、実験、実習、実物と仮想空間、ライブラリー、ミュージアム、情報ネットワーク、生物・地学・物理・化学等の素材・装置)について問う


豊かな心と健やかな体の育成
  「豊かな心」とは具体的にはどういう心か。どこをどうやるのかブレイクダウンする必要があるのではないか。

  教育の場(自然とのふれあい/宗教とのふれあい/異文化とのふれあい)について改めて問う

  人を愛し、親を愛し、兄弟を愛し、隣人を愛し、国を愛する心の育成、公徳心・公共心教育の実施、モラル・規範意識の育成、日本の歴史、伝統、文化を尊重する心の育成、新国民歌の検討、提唱等

  奉仕活動の積極的な奨励による、助け合い、思いやりあふれる社会風土の醸成と、高等教育前の1〜2年間の社会体験(職業体験、ボランティア)への参加促進

  柱として今まで出されていないことで重要なのは、モラルの低下に対する計画がどうあるべきか、ということ。

  「人間として生きるルール」として、「人間を愛し、地球を愛し、国を愛する心」を育てることが最も重要であると思う。そういうことを遠慮せず正面から書く時期に来ている。

  学力サイドの面と、人間性サイドの面と、両方があって、特に人間性サイドの面では、この50数年間あまり踏み込んだ議論を躊躇してきた経緯があるが、今後もタブーとしてオブラートに包むのかどうか、コンセンサスが必要と思う。

  21世紀になって、日本人がいかに生くべきかが議論されるなど、基本的な道徳律が見直されるようになっている。古くさい言葉を使う必要はないが、こうした、いかに生きるべきかといったことについてのガイダンス、方向のようなものも必要になっているのではないか。(再掲)

  心の問題についてはこれまで議論が避けられており、道徳教育の話や、伝統や文化を大切にしようというスローガンで終わってしまっていた。基本計画では、従来以上に心の問題に踏み込むべき。江戸時代や明治時代の日本人と現代人を比べると、平均学力では圧倒的な差があるが、心の問題、アイデンティティ、規律などについては昔の方がきちんとしていたのではないか。むしろ、現在は退化しているのではないかと思う。

  これからの教育の施策として科学技術や社会科学だけでなく、宗教、道徳、芸術、文化なども中心に置くような取り組みも必要であり、このことを国民に分かりやすいかたちで規定し、実践できるかについて議論したい。

  イギリスでは、最近は心の部分を知ってもらおうということで、宗教教育等を随分取り入れて、少なくとも世界の4大宗教についてはきちんと教育するということまでシフトしてきている。

  宗教に基づかない道徳教育や心の教育は、日本独自のものとして、世界に発信できるものである。

  特定の宗教ではなくても、普遍的な宗教心、いろいろな宗教に共通している部分は教えていく必要がある。今の科学技術、科学信奉の考え方、物質主義的な考え方、目に見えないものを大事にしない考え方、こういったものが日本だけではなくて、世界で非常に大きな問題になっているのではないか。宗教、道徳、普遍的な宗教心、こういったものを教えていくべきではないか。

  「伝統文化の尊重」を具体的にどのように実現していくのかが問題である。

  教育の中で重要な役割を担う知・徳・体の「体」の部分についても計画に盛り込むべきではないか。

  スポーツ・体育は、現在の問題を克服するときに有効であると思うが、計画の中のスポーツ・体育の位置付けが軽い。


自律心、公共の精神の育成
  「新しい公共」という考え方が大事である。国家、社会のルールを所与のものとして図式的に学ぶのではなく、法や社会のルールの持つ意味や役割について学び、主体的にどう形成していくかという意識を高める教育が重要である。

  子どもの公共性の感覚が薄れている。これまでの知的理解中心の道徳教育から、問題解決型の、学んでいる者が主体的に学習できるスタイルに変える必要がある。もう一度道徳教育あるいは公共性の感覚の再構築を願いたい。市民教育あるいは一市民としての意識をきちんとつけるような教育を、中等教育あたりで必修にするようなことはできないのだろうか。

  小さい頃から教育の場において、司法や政治など公共的なものへの関わり方を教えることが必要。

  イギリスでは、「心の教育」というものはなかったが、最近では社会に送り出す際に必要とされる知識やマナーについて教育する、citizenship education (市民教育)が重視されてきている。


優れた教員の養成・確保
  養成・採用・研修の改善、強化を通じた教員の力量向上と、使命感に溢れる教員の養成と適格者の確保

  教育に携わる専門家(教員、教育補助技能者、学校設置者と運営者)について改めて問う

  優秀な教員を確保し、その教員にいかにやる気をもってもらうか、そして、適格性を欠く教員に退場してもらうことが重要である。

  教員養成機関の教員の質を向上させることが重要である。これなくして日本の教育は良くならない。

  計画の策定という観点からすると、努力すれば全員が80点をとれるのに、それをしていない教師の怠慢を是正する計画、その上で、そこから先に伸びる子は伸ばすという計画の2つが必要である。

  「優れた教員の養成・確保」の施策例の最初に教員養成学部等の再編・統合とあるが、その際の大学教員の失業対策はどうするか考える必要があるのではないか。

  雇用対策にもなるからというので、少人数学級が流行だが、教員の量的な側面だけを考えて、質的な面は考えていないのではないか。教員の質をどうするのかということを視野に入れて考えていくべきである。

  公立学校教職員を第3者が評価する制度の確立

  教員の第三者評価が重要である。また、研修機会の促進についても、単に参加を促進するだけでなく、参加した後の成果の評価を重視すべきである。

  基本法レベルの事項ではないが、親が良いと思う教員を他校からスカウトできるような制度を作ることはどうか。

  頑張る教員を優遇する仕組みは大切。教育改革国民会議でも議論されたし、21世紀教育新生プランでは、平成14年度中に具体化すると書いてある。

  優秀な人材を確保できるよう、教員の給与をあげてはどうか。

  公的機関・民間機関が提供する研修機会への参加促進

  小・中・高校のみならず大学も含め、教員の質を高めることが大切。子どものために頑張る先生を評価して処遇することが必要。研修のプログラムだけがあっても、評価のシステムが伴わないと意味がない。

  教員は養成・採用段階がタイトで「当たり外れ」は他業種と比べれば少ないのではないか。教員は研修が大切であり、海外や国内での長期研修や大学院で学んだ後にも、現場復帰できることを保障すべき。最初から質を問うのではなく、就職してから研修で質を保障すべき。

  特別免許の議論の際に、教員の側に、教職の専門性を理由にして、外に向かって開くことへの大きな抵抗を感じた。日本の学校をもっと開いていくことが必要ではないか。

  例えば、大学院などの専門教育を通じて教員の質を上げることと民間人の登用などの開かれた教員組織づくりとは、方向としては180度違う。どちらがより効率的でよい方法かを考える必要がある。


父母・住民に信頼される学校づくりと柔軟な学校システムの実現
  教育制度(教育関係法令の整備/スクールガバナンスの確立/学校制度(国公私立)(国と地方の分権))について改めて問う

  学校評議員制度について、中途半端に感じる。スクール・ガバナンスという観点からみると逆にマイナスではないか。

  実態をみると、学校にあまり踏み込まれては困るという意識が校長にあるようだ。学校は閉鎖的と言われるが、同情せざるを得ないところもある。教師が一人で大きな責任を負わされており、不安を抱えている。地域の人たちが応援団を作って関わるとガラリと変わる。

  教育委員会は、教育的配慮を理由に、情報公開に拒否的である。学校の情報公開として、どの程度のことを考えているのか。

  学校から情報を外に公開し、地域やPTAと一緒になって考えることがよい。

  教育振興基本計画の中で学校の情報公開を扱うことは、これまでの取り組みをさらに一歩進めることとなる。

  各国の学校制度は複線化されているが日本は単線的なまま50年来た。ここのところはどう考えていけばよいか。

  柔軟な学校システムや才能教育に対応した私立学校の設置促進

  例えば幼小一貫が必要ならば、現行の制度下でいろいろ実験してみてはどうか。

  当面は現行の制度を変更せずに、小中一貫、中高一貫、幼小一貫、あるいは高大一貫など、様々な学校運営の形態を支援するような仕組みを作ってはどうか。

  6・3・3・4を維持するという立場にたつなら、小中一貫校も例外になる。なし崩し的に小中一貫を導入するというのはよくないので、しっかりとした展望をもって行うべきだ。

  幼保一元については、幼稚園と保育園の目的の違いもあり、困難とする意見にも十分理由があると思うが、他方でこれを求める考え方があるのも事実である。積極的に一元化を求める必要もないかもしれないが、可能性は否定されないようにすべき。

  学校制度の弾力化は、基本法改正事項ではないが、引き続き検討した上で、将来閣議決定される教育振興基本計画に位置づけ、学校教育法等の改正に結びつけていけばよい。

  教育基本法に義務教育は9年という規定があったので、今まで議論が進まなかった。学制をどうするかはともかく、議論をそこでストップさせるような規定は考えた方がいい。義務教育の複線化については、人によって違ってよいという考え方もあり得るし、固定して考えるのはどうか。

  「柔軟な学校システム」という場合、現行制度を変えていくのか、現行制度の運用を弾力化するのか、それともその両方か、ということもあると思う。

  柔軟な学校システムの実現というが、9割が高校、5割が大学に行く前提が崩れるのかどうか。学校システムの複線化、選抜や原級留置の厳格化などの前提条件の変更がない限り、理想論にすぎなくなる。

  学校制度の柔軟化について、子どもの現実の発達段階に合わせるべきである。発達の前傾現象により、今の子どもが3年ほど発育が早まっていることや、5歳からの義務教育についても、既に46答申で指摘されている。

  日本の風土に合うかどうかは別であるが、フランスなどでは、校長と親が話し合って就学時期や落第の当否を判断するなど、柔軟な運用をしていた。

  就学年齢の問題については、一律に適用しようとするならば、相当の時間をかけて検討することが必要。むしろ、ある子どもは5歳がベターというように、適当な年齢に達したら就学するような弾力的な制度が可能かどうか考えてみるのも一つの方法ではないか。

  基本的な枠組みを破壊することは考えていない。学制について様々な議論があることは承知しているが、これを変更する必然性はない。むしろ、進学年齢の弾力化等を考えてはどうだろうか。

  早く進学すればいいというものでもなく、子どもの成長スピードに合った進学のペースが重要であると思う。例えば、4月1日生まれと2日生まれでは学年が異なることになるが、一律に決めるのではなく、親と教員が子どもの様子をみて判断してもいいのではないか。

  今の幼稚園の年長児はかつての小学校1年生と同じことができるという研究成果があるので、5歳児の就学もおかしくないが、個人差が大きいので、1年程度であれば親や社会の判断で弾力的に運用できるようにするという政策判断もあり得るのではないか。

  飛び級や飛び入学の議論などを聞いていると、急がすような制度や仕組みが子どもたちにどういう影響を与えるのか不安である。じっくり丁寧に慈しんで育てられるという感覚を子どもたちが持てるような教育が重要ではないか。

  飛び級、飛び入学、編入学は、個性に応じた教育の一つといえるのではないか。

  1年で1学年進むのが原則であり、飛び級は例外であるということをきちんと押さえておく必要がある。

  飛び級・飛び入学については、外国でも成功例とそうでないものがあるので慎重に議論すべき。

  教育の多様化、自由化によって生じる格差をどう是正するのか、ということについても考えなければならない。多様化のためには、多元的な尺度が必要である。

  例えば義務教育期間を1年延長することを含め、青少年の社会化を促進するために、高等教育に進学する前に「将来やりたいこと」を固めるために一度社会に出るという仕組みを提案した。制度を柔軟にすると制度の多様性を生じることになるが、これにより国民の混乱を招かぬようにすることが重要である。


国際競争力のある大学の実現
  大学・大学院の抑制を国として考えなくてはならないのではないか。

  大学の設置に当たり自己責任という原則ではあっても一定のハードルを大学に課して、5年や10年は持続するという担保の条件を付けて認可することも必要ではないか。

  18歳人口関連の問題は深刻であり、検討が必要。議論することを決めて適当な場で具体的に検討してはどうか。更新制も一つの可能性であると思う。大学への支援だけではなく、安楽死の検討も必要かもしれない。

  学生の流動性については、分野によっては専門家となるために長期間を要し、同一大学の学部から大学院に進学する必要があることも考慮すべき。

  日本社会がダイナミズムを失っている状況で、数値目標が妥当かどうかはわからないが、教員・学生の流動化は必要。

  人文系の学問は競争力がない。志願者減、若い人に人気がない他、ポスドク後のポストがないことが問題。ただ、1人文科学の大学院生に社会人が多く、「社会人の再教育」の内容に教養的面を加えポストを増やす、2地方公共団体と大学の連携による大学を核とした知的クラスターといった中に、文化のような領域も含めポストを作るといった取り組みにより、文系のポスドクのポストをつくることが可能。

  社会の要請に応えず、産業にも貢献しない学問分野を高等教育の中に確保するのもこれからの重要な課題。

  各大学で希少価値のある研究をしても、国際的にまで評価されるかは難しい。フランスでは、国が資金を投入して人文社会の研究所を作っている。沖縄に理工系の高等教育機関を開設する計画があるようだが、国の大学や研究所を再編して人文系の殿堂を作るというのも一つの考え方。コストもそんなにかからない。

  フランスの日本研究は、国が集中的に金を出してやらせている。学内分野を絶やさないために国で研究所をつくるということも有り得る。18歳人口減少の問題が一方にあり、他方で大学教育の質を上げるためには金がかかるというメッセージを国民にどう出すかという問題があり、分けて考えなければならない。これまで大学教育を安上がりでやってきたが、質を高めるためには金がかかる。この点覚悟をもって、大学教育の質を上げるため、国として何をするのかを明確に打ち出す必要がある。

  評価によるファンディングでは食べて行けない学問分野を文部科学省に政策誘導的に何とかしろ、と言っても長続きしない。各大学が主体性を持って、独自に重点配分するなどして支えていくしかない。  

  文理を問わず、基礎的な分野は縮小に追い込まれていく傾向がある。国や地方が手を打つ必要があるのではないか。例えば、国で研究所をつくることも考えられるのではないか。

  高等教育は、「高度な社会的ニーズに応える」ことも必要だが、「文化・学問の土台を養成し、一人一人を豊かにする」面もある。評価に基づいた国全体の予算配分の際には、社会的ニーズの部分だけではなく、後者的なものにも政策誘導的に配分すべきである。(再掲)

  能力、知識、スキルが確実にアップした学生のみが進級できるような「卒業重視」の制度の導入等による大学卒業者の国際競争力低下の歯止め

  これまでは、大学の人文系を出た学生の付加価値に対する期待が低く、企業はいい大学を出た者を早く採用して企業内で教育する傾向が強かったが、今後は、社会の在り方全体について、クリエイティブかつ批判的な発想が出来る人材を育成しなければならない。

  大学には研究・教育の両機能がある。その2つの関わり、比重、ローテ−ションをはっきりさせる必要があるのではないか。研究については、学生に対するアウトプットについて運営の工夫の余地があると思う。たこつぼではなく、他の講座を聞いて横断的な研究ができるような環境の整備が必要である。

  大学の教育と研究のバランスがとれていない。教えることがおろそかになっている大学に卒業を難しくせよと言っても無理である。教育は大学における第1の責務ではないのか。

  大学もこの10年間に教育面の充実に努めてきた。このような大学の努力をサポートするための施策を検討する必要があるのではないか。

  大学評価の中に教育の視点を入れてほしい。授業評価だけでなく、カリキュラム評価など。個別大学の立場からは、教育と研究を分けて教育で新しい試みをしている努力をわかってほしい。

  日本の大学は以前からゆとりがあり過ぎるから、もっと厳しくする必要がある。

  遠隔教育にはe-learningの他に、アジア諸国との遠隔教育もあるのではないか。日本で学習した後、本国でも学習を続けて学位を取れるということになれば、留学生も呼びやすくなる。地方の大学についても、サテライト教室、社会人教室など遠隔教育の場として残すことも必要ではないか。

  研究者養成の大学院の設置の厳格化、教育機能の充実と厳格な修了判定、博士号の国際的信頼性の確保等による大学院博士課程の質の確保

  専門職大学院が、テクニカルなものを教えることになる一方、本来の学問を教えるようなアカデミックな大学院も必要である。この場合、アカデミックな大学院も、古色蒼然たる従来の大学院ではなく、外部評価を導入するなど透明性を高め、開放的な仕組みを作らなければならない。また、安全保障、人口学といった新しい分野の学問も必要。

  法科大学院では、教えることに専念してもらうことにしている。研究については6〜7年に一回サバティカルイヤーとしてその機会を与える。また、第3者評価を取り入れ、成果が出ない場合は閉鎖や認可の取り消しなど、退場してもらう仕組みを導入したい。

  法科大学院でも、大学の伝統的な知的雰囲気の中で、異なった専門分野の教官等と接しつつ、教養豊かな知的人材を養成することが重要。大学の知的雰囲気を守っていくためには、放っておけば消えてしまうような学問分野をしっかりと残すことが重要。

  まず、研究を中心とした大学院を強化すること。また、専門職大学院については、国家試験に関係する専門職大学院、または明らかに必要な専門職大学院を強化していくことが必要。

  経済的サポートも含め大学院が体制を整えることができれば、学生の流動性は高まると思う。

  自己点検評価及び外部機関による評価と評価結果の情報開示

  評価に基づく効率的・重点的な資源配分

  個々の大学が独自の教育、研究プログラムを提示し、消費者に判断を仰ぐ「競争原理」の導入

  国公私立大学共通の問題として、校舎の老朽化問題があり、計画を策定して財源を確保する必要に迫られている。

  現在の学部を卒業しても、付加価値がついて社会で評価されるわけではない。このような状態では、国費を学部に投入する必要はなく大学院に投資しろという話になる。また、18歳人口が減少する中、大学の倒産をどうするかという問題も出てくることになり、ソフトランディングの方策も重要な課題。

  バウチャーシステムをとることに一概に賛成するわけではないが、今の私立に子どもを通わせるにはかなりのお金がかかる。私立と公立が競い合って、質を高めるようなプランができないか。

  今の日本は、財政赤字などでとても教育に金をかけられる状況ではない。ただ、一方で高等教育等については、諸外国と比べても明らかに不十分な状況であり、これを何もやらずに放置しておくわけにはいかない。

  公財政支出学校教育費の国際比較によると、日本はGDPに占める教育費が3.6%、アメリカが5.0%、イギリスが4.6%、フランスが5.6%、ドイツが4.6%である。特に、高等教育が諸外国に比べて低いことは歴然とした事実である。初中教育に比べて高等教育のGDPに占める予算の比率が極端に低いのは一目瞭然であるから、高等教育の整備充実という問題も十分議論する必要があるのではないかと考えている。

  国立大学への寄付、私学の税制、会計基準などを計画の中にどう取り入れるか考えなければならない。

  アメリカの私学にはファンドがあり財政的にしっかりしている。日本の大学も、国公私立を含め財政基盤の確立が重要。そのためには、寄付の手続きの簡素化、大学に寄付すると相続税から控除等、税制の改革が必要。

  日本の高等教育政策においても、財政的な土台をいかにして確立するかが重要であり、税制上の優遇措置や、寄附手続きの簡略化などが必要である。

  税で集めた金を政府が配分するという方向から、例えば減税を通じて寄付などの形で各個人が選択して参画することを進めるという方向といったことが議論されている。教育においても個人の参画ということを考えていく必要がある。

  国立大学の独法化と地方分権の関係はどうなるのか。国が支える大学、地方公共団体が支える大学のビジョンはあるのか。


教育の国際化、情報化の推進
  教育の場(宗教とのふれあい/異文化とのふれあい)について改めて問う

  グローバリゼーションの中で生きていくためには、国語の基礎基本を徹底させた上で、国際語である英語や異文化への適応性を身に付ける必要がある。

  英語教育について、中学卒業で日常会話を、高校卒業で仕事上使えるレベル程度を目指すべきではないか。

  アメリカでも国民の10%は英語ができないと言われており、英語教育に力を入れているが、それでも高卒の2,3割は社会生活上必要な英語力がないと言われている。英語教育の目標を掲げるのは必要だが、それを裏付ける具体策が必要。

  英語を12年学んでも話せないというのはやはり指導方法に問題がある。これを解決しなければならない。

  外国人はディベートに長けているが、日本人は人前で話す訓練をしていない。英語教育以前に、日本語での自己発言能力の育成が重要。

  日本の若者の自己表現能力は弱いが、今、小・中学校ではディベートや発表練習もしている。これをもっと進めるべきだということなら、抜本的に前進させるための手法なり、時間数なり、何が必要なのかを考えるべき。欧米やインド、中国の外の人に自分の意見を押しつける文化と違い、日本の文化は内側で受け止め咀嚼するものであるという、文化の問題も踏まえなければならない。日本人としての自己主張の仕方もある。

  国民性の問題はあるが、グローバル化が進む中で、黙っていても分かってくれるというものではないと思う。堂々と自分の意見を言う姿勢を小さい頃から備え付けるという目標も持っていいのではないか。

  グローバルスタンダードは欧米の行動様式である。そのまま当てはめるのがいいことか。欧米と同じでなく、日本の文化を生かした形で国際社会での貢献をするにはどうしたらいいかを考えることが必要。

  しゃべる、発信する、自己表現するためには中身が必要。先日の教養についての答申や英語指導方法の改善の議論においてもそういう話をしている。答申を出すだけではなく、そのフォローアップが必要。

  シンガポールのリー・ユアンユーは、日本という国は英語力と自己表現力の欠如のために当分国際社会でリーダーシップはとれないと言っていた。しかし、韓国人は日本人と似たメンタリティを持っているが、経済危機を体験してからは会議での態度を見ても全く変わり、積極的に最前列に出て発言している。やり方次第で日本人も変わることができる。その体験をどういう形で持たせるかというのが教育の一つの側面ではないか。

  ディスカッションの場で、イギリスの子どもと比べると、日本の子どもは、会議のルールなどは学んでいるが、賛否を言うのみで、自分の意見を言うことが少ない。実体験が少ないために、具体的に議論できないことが原因ではないか。

  小学校1クラスか1学年に1人ネイティブの若い先生を置けばそんなにお金もかからないし、逆に彼らに日本文化を学んでもらうこともできる。このような方法も授業法の教育原理などを考えるよりもインパクトがあるのではないか。

  コンピュータの活用について、中学卒業で情報を適切に活用することができることを目指すなど、社会の科学技術の進歩のスピードにあわせて早めた方がいいのではないか。

  コンピュータについては、ハード面だけではなく、その使い方についても、併せて基本計画の中で考えるべき。コンクールを実施するなど奨励の仕方を含めて検討すべき。

  新しい時代に対応した学校の施設・設備の整備及び老朽化校舎への対応が必要。

  施設、設備の充実として、例えば、「生涯学習」と「情報化」を最初から組み込んだ形で学校施設を作ることなども大事。予算の話、あるいは、その国・地方の分担の問題もあるだろうが、情報化等の技術革新が非常に早い今日、さらに充実していかないと世界に遅れてしまう。


家庭、地域の教育力の向上
  しつけの重要性についての親の認識の向上、家庭・地域、幼稚園・保育所・小・中学校の連携による健全な倫理観の育成等を通じた、家庭教育を原点とする地球市民としての社会性・人間性の涵養

  親(人生最初の教師)の自己教育支援、社会人(親代わり)支援

  家庭が原点であり、親が教育基本法を読めば、自分たちの責任を自覚できるようなものがよい。

  日本の教育は学校教育中心で進んできたので、学校を通じて家庭教育に取り組むこともありうるのではないか。

  18歳を過ぎたら、教育についての教育をすることも必要ではないか。いきなり親になっても何をしたらいいのかわからない人も多い。

  「父母や地域に信頼される学校」ではなく、「子どもや学校に信頼される父母・地域」が重要な問題。教育制度をいくら変えても、父母や地域が変わらない限り、何も変わらない。

  家庭、親については、単に学校と役割を分担するのではなく、それぞれが責任を負うことを明確にすべきである。

  教育の原点は家庭であることを確認し、家庭教育支援の方策も家庭の多様化に対応したものとすべきである。育児と仕事の両立には大変な努力が必要だということを認識すべき。

  教育には、学校だけでなく家庭や地域社会の民力を使う必要があり、民を支援する施策が国、地方公共団体レベルで必要。学校も、もっと地域に開いていくべきであり、評価することが必要。評価することは支援することでもあり、支援する家庭や地域社会は学校とともに子育てに責任をとるということでもあると思う。

  欧米で大学生が在学中の1年間程度、海外に行ったり会社で働いたりする慣行であるギャップイヤーや、子どもを周りの大人もしつけるような、社会が教育に参加するという面も、制度的に、あるいは慣行が自ずから出てくるような雰囲気をつくっていくような努力が必要ではないか。


生涯学習社会の実現
  中学校以降の進路指導・相談体制の充実、生涯学習パスポート(ポートフォリオ)の作成・活用の奨励等を通じた、生涯設計を導入した教育・学習体制の整備

  施設、設備の充実として、例えば、「生涯学習」と「情報化」を最初から組み込んだ形で学校施設を作ることなども大事。予算の話、あるいは、その国・地方の分担の問題もあるだろうが、情報化等の技術革新が非常に早い今日、さらに充実していかないと世界に遅れてしまう。(再掲)

  800万人増える高齢者をどうするのか、また終身雇用が崩れた後の評価体系をどうするのかが課題。

  奉仕活動の積極的な奨励による、助け合い、思いやりあふれる社会風土の醸成と、高等教育前の1〜2年間の社会体験(職業体験、ボランティア)への参加促進(再掲)

3.教育振興のための基本的考え方

教育振興基本計画の必要性
  教育基本法を教育現場で存在感のあるものにするためにも、教育振興基本計画を盛り込み、教育現場との橋渡しをすることが必要。

  教育には理念と、どう現状に対応するかという技術論の2つの側面がある。教育基本法は主に前者に、振興計画は後者にかかわるもの。振興計画では10年程度を見通せば良いが、教育の目標はもっと長期的に考えなければいけない。

  これまで、教育については、「そもそも」と「だった」の議論、つまり理念や結果に対する議論しかせず、その間をつなぐ具体的な方策についての議論に乏しい。この間をつなぐのが基本計画であり、しっかりと具体性をもって議論する必要がある。

  基本計画は、教育に対する投資をしっかり行うためにも基本法にきちんと位置付ける必要がある。

  基本法の理念法としての性格を大事にすべきであり、あまり振興基本計画についての具体的な規定を盛り込んでそれを損なうのはいかがなものか。

  教育基本法は基本設計、教育振興基本計画は詳細な設計。教育基本法が昭和22年にできて以来、ずっと長期的な計画がなく、場当たり的な対策でここまでやってきた。しかし、それではいよいよ立ちゆかなくなって、教育振興基本計画を作ろうというのが、今の状況。

  科学技術基本計画の策定の背後には、場当たり的政策が失敗したという反省があったと思う。教育も一生懸命やってきたが、脈絡なくやってきたことが現在の問題につながっているという反省があるのではないか。

  効率的にお金を使うための計画を示すことが必要になってきたことが、平成に入ってから基本計画が増えた理由ではないか。


教育振興基本計画策定に際しての基本的考え方
  我が国の全体の共通目標、国家目標を教育基本法、教育振興基本計画にどのように盛り込んでいくか検討が必要。

  社会との関わりで教育をどうするのかの視点が大切。

  教育振興基本計画はどんなタイムスパンで作成するのかが重要。目標を数値化すると寿命が短くなり、定性化するとタイムスパンが長くなる。

  5年や10年先の社会を見据えるという視点も必要であるが、今の子どもが大丈夫かという視点から、今どういう手を打たなければならないかという議論が必要。今の現状を何とかして食い止める視点から、危機意識を持って考えるべき。

  検討する事項を、変化に対応するもの、普遍的なものに仕分けつつ、柔軟に議論すべき。

  計画となると文部科学省の所掌事務全てを盛り込もうとするが、自分としては「学校教育の再建」という切り口を作り、その中に基礎学力の向上や心の教育の推進、社会に理解してもらえる学校の在り方(評価)を入れて、その後でそういうものをうまく実現するための家庭教育や企業と教育の関わりなどを考えたらどうかと思う。

  制度を検討するにあたっては、「発達段階」と合わせ「学ぶ内容」も考慮することが大切。今言われているのは、「今後目指すべき教育の姿がぐらついている」ということ。例えば、昭和51年の教育課程審議会答申は、今と同じようなことを述べているが、それは当時の提言が25年経っても実現していないということである。10年後、20年後をにらんで、内容をどうするか、腹を据えて具体的に決めなければならない。これまではスローガンのみで具体的な方法論に触れられていないが、情報化などの社会変化を踏まえ、これまでの方針の再確認をする必要がある。

  計画では、項目ごとにベンチマークを設定し、達成度を評価するなど、かなり具体的なものにして、世の中にアピールすべき。    

  中教審にはさまざまな部会があり、色々な議論がなされている。それらの今まで積み上げられた方針や成果をまとめて計画的に位置付けることが必要ではないか。

  議論は出尽くしているので、それを洗いなおすとともに、10年後の社会を想定した施策を考えて、足りない部分を議論していくのがいいのではないか。

  10年タームでやるのなら何ができるかを色々な分野で出していって、この中からプライオリティをつけて絞り込んでいく、という議論の進め方が良いと思う。

  振興計画では目標にプライオリティーをつけて、具体的にどう施策を行っていくかを明らかにする必要がある。

  あらゆるアイディアは出ている。時代の変化をみつつ、プライオリティーをつけてそれらを体系化していく必要がある。

  答申等で指摘されていて、まだ取り組んでいないもの、あるいは取り組んでいるけれども抜本的に変えるべきものについて、議論が必要である。

  日本では、「人格」や「心」がすぐに出てくる。“人格の完成”、“心の教育”と言葉で表したところで、政策論にはつながらない。教育振興基本計画では理念ではなく、数値目標を立てるなどして具体的に示すべき。

  計画では、何をやろうとしているのか具体的なものを示さないと意味のないものになる。全体の姿を描いた上で、何をどういう順番で、どうやるのか、具体的に示さなければならない。

  政策目標と取り組む施策とは対応している必要がある。むしろ、具体的な施策の実現性を考えて、具体的な目標を考える方がいい。

  諮問理由にあるように基本計画はわかりやすい具体的な政策目標、政策を盛り込むことが重要。子どもがどんな人になって欲しいのか目標を明確に出すことが必要。5年ぐらい先の社会がどのようなものになるのか、どういう社会の担い手が必要か予想しながら策定することが必要。

  教育目標を誰が達成するのか明らかにすることが必要。また、文科省と地方のどちらがイニシアティブをとるのか、といったことも議論すべき。

  政策目標については、何のために何をしようとしているのかをはっきりさせたほうが良い。

  教育振興基本計画における教育の目標については、21世紀全体に関わる目標と、この先10年程度を想定した目標とをしっかり区別しなければ、抽象的なものになってしまう。

  教育振興基本計画の具体的目標は、数値化できるものは数値化したほうが良い。目標を数量化することにより、後で投資の効果をチェックをすることが可能になり、教育予算が効率的に使用されることにもつながる。

  基礎的な部分は数値化になじむと思う。ただ、数値目標にすると、同じ方向に向いてしまう恐れもあり、どの事項について数値目標化するかを考える必要がある。

  学力の向上と人間性の発達については、いずれも望ましいことが書かれているが、到達目標を作ってそれがどれだけ達成されたか測定するという場合、どこまで達成できるのか。もう少し、結果を予測して政策目標を立てるべきではないか。

  子どもの成長には、基礎基本や勤勉性をしっかり教え込む時期と、これに基づき、自らの意欲や個性を伸ばしていく時期がある。この以降の時期は、子どもにより異なり、すべての子どもを一斉に扱うべきではない。個々に対応して行くには金がかかるため教育振興基本計画が必要である。

  計画には裏付けとしての財政基盤が必要であり、どの程度投資するかが決め手。そのためには国民的な世論の結集が必要であり、これなくしては実現できない。基本法に基づいて計画を立てる場合、一般法で計画を立てる場合、単年度ごとの予算で対応する場合、特定財源を持っている場合等、いろいろあるが、教育に先行的に投資するという大きな世論形成が必要。

  科学技術基本計画の例があったが、教育振興基本計画が国民の支持を得て成功するためにはどうすればよいか、相当真剣に考えることが必要。大学での文系の予算は非常に少なく、文系の意義が社会的に理解されていないと感じる。

  いまの経済・財政の状況では、振興基本計画に対する国民全体の支援がないと、必要な財政的裏打ちを得るのは難しい。

  今のような財政難の状況の中で、基本計画を作って日の目を見るのかどうか心配。慎重な審議を行い、ヒアリングや公聴会で、教育に金を注ぎ込むことについて国民の強いコンセンサスを作る努力をしなければならない。

  教育振興基本計画は、5年、10年のパースペクティブで何をするかというもの。しかも、財政的見込みも含んだものになると思う。

  財政的に厳しい中でも教育について優先的に取り組むべき課題があることを打ち出すべき。

  単年度予算主義は非効率という国民の声に対して、効率的にお金を使うためには計画を示すことである程度先行きを見て単年度の予算に反映させることが必要になってきたのではないか。

  基本計画の中で、財政がすべてではないが、財政がある程度ウエイトを占めないと、絵に描いた餅になる。単年度主義の中でどこまで踏み込めるか。科学技術基本計画のような閣議決定をするというのかという問題がある。

  基本計画をつくったときにどのぐらいの金額、つまり財政的なものを考えるのかがポイント。科学技術基本計画は、苦労して24兆円を決めたことで、関連セクターの元気が出てきた。多くの省庁が関係した新しい科学技術基本計画のようなやり方ができるかどうかわからないが、そういったやり方をしないと実効が上がっていかないのではないかという気がする。

  現在の法律の10条1項なり2項を補強して、科学技術振興法や食料・農業・農村基本法のように財政面の根拠を充実させることが、基本法見直しの理由の一つではないのか。

  科学技術基本計画と同様に、我々が気合いを入れて振興基本計画をつくり、予算措置を含んだ新しい仕組みになって実現していくことが望ましいと思う。

  予算の裏付けがないとせっかく計画を作っても、施策を実現することは難しい。財政状況が厳しい中、どう効率的に使うかを含めて考える必要がある。

  教育政策の在り方、教育財政基盤の充実について積極的に取り組むべき。また、教育費の負担区分をどう考えるのか、地方交付税の問題ともからめて積極的に検討していくべき。

  税で集めた金を政府が配分するという方向から、例えば減税を通じて寄付などの形で各個人が選択して参画することを進めるという方向といったことが議論されている。教育においても個人の参画ということを考えていく必要がある。(再掲)

  日本は、社会が豊かになり、教育に対するニーズも多様化し、これまでの制度では支えられない面も出てきている。機関補助から個人補助へ、教育費の問題、私学の扱い、学校の位置付け、ということも含めて、教育振興基本計画との関連で視野に入れて考えていかなければならない。


2.施策を推進するために必要な事項

  地方分権の施策と国と地方の財政負担の在り方を踏まえることが重要である。教育振興基本計画は地方が協力しないと実効性があがらない。地方財政が窮迫している中で、日の目を見る計画になるのは難しい。官と民の棲み分けも考えていかなければならない。高等教育や就学前教育は私立学校に依存しており、今後どのように考えていくか。振興基本計画に国民全体のプライオリティがおかれ、うねりがないと実現可能性は乏しい。

  基本計画の中で、財政がすべてではないが、財政がある程度ウエイトを占めないと、絵に描いた餅になる。単年度主義の中でどこまで踏み込めるか。科学技術基本計画のような閣議決定をするのか、いまのシーリングの中でやりくりすることになるのかという問題がある。また、教育財政では都道府県、市町村の占めるウェイトが大きい。特に生涯学習・文化・スポーツは主に地方自治体がやっており、計画の中に地方自治体の役割を積極的に書く必要がある。(再掲)                                            

  義務教育費国庫負担制度など義務教育のナショナル・ミニマムの在り方については、中央教育審議会で危機感をもって議論する必要がある。

  国立大学の独法化と地方分権の関係はどうなるのか。国が支える大学、地方公共団体が支える大学のビジョンはあるのか。(再掲)

  官と民の棲み分けも考えていかなければならない。高等教育や就学前教育は私立学校に依存しており、今後どのように考えていくか検討が必要。

資源、原資の効率化という意味も含めて、優先順位をギリギリ詰めて、そこに原資を投入するというその発想は重要。

  限られた教育予算の中では、優先順位についても議論しなければならない。20人授業は、ベターとしてもマストなのか。個人的には、社会貢献を定着させるためにお金を使うことや科学技術教育への投資がマストだと思うが、そのあたりをしっかり議論することが必要。

  文部省はほとんどの施策に手をつけているが、いかに実施のスピードを早めるかの問題がある。そのためには、重点的に投資して早めることも必要。

  日本ではどの分野でもいろいろ入っているが、一つ一つはシャビイという幕の内弁当。優先順位をつけて投資するという発想が必要。こういうことも総合的に議論して、振興計画を詰めるべき。

  教育振興基本計画の具体的目標は、数値化できるものは数値化したほうが良い。目標を数量化することにより、後で投資の効果をチェックをすることが可能になり、教育予算が効率的に使用されることにもつながる。(再掲)

  政策目標には、1数値の目標値を出せるもの、2経年変化などの指数で表現できるもの、3アンケートや意識調査などのデータが取れるもの、4まったく数量化できないもの、があり、それらを診断項目として念頭に置いて考えることが重要。また、資料2の政策目標と施策の対応関係を明らかにさせる必要がある。こういう枠組みをしっかり考えて、議論すべき。

  数値目標を入れるならば、3年ごとに見直すなど定期的に見直さないと硬直化する。見直しの規定を教育振興基本計画に位置づけることが必要。

  金を注ぎ込むのであれば国民への説明責任に答えられる仕組みが必要。今まで通りのやり方で金を増やせといっても通らない。基本法、基本計画を議論する際はアカウンタビリティに触れるべき。

  教育目標を誰が達成するのか明らかにすることが必要。また、文科省と地方のどちらがイニシアティブをとるのか、といったことも議論すべき。(再掲)

  課題ごとに、今後5年間で優先すべきもの、そのコストはどうなのか、など具体的な議論を行うべき。

  政策目標については、予め診断項目を定め、5年毎などに診断を行い、白書で発表するなど絶えず国民の批判を受けながら進めるべき。

  政策の評価は重要だが、評価の結果をどう生かすかを視野に入れた計画とする必要がある。


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