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資料2

教育基本法に関する委員の意見の概要

1   全体について
   
2   各条文について
   
 
1. 教育の基本理念
  見直しの方向性
生涯学習
個人の能力の伸長
個人と社会・経済
職業生活との関連
個と公
国際性と日本人、我が国の伝統、文化
   
2. 教育の基本原則
  教育の機会均等
義務教育(柔軟な学校システム)
学校制度の区分の弾力化
家庭の役割と学校教育との関係
男女共学
   
3. 教育の主体
  学校の役割等
教員
学習者の視点
社会教育
家庭教育
学校・家庭・地域社会の連携
   
4. 政治教育・宗教教育
  政治教育
宗教教育
   
5. 教育行政・教育の振興
 
(1) 教育行政
  国・地方の役割の明確化
教育委員会の役割
(2) 教育振興基本計画等
  教育基本法との関係
計画の必要性
計画の裏付けとなる財政基盤の確保
計画の目的・目標の数値化等
定期的な評価と見直し
国と地方の連携




1  全体について

  新しい時代の教育を現時点において考えた場合、現在の教育基本法に欠けている面を補い、付加価値をつけてより良いものにしていく方向で検討すべきである。

  21世紀の世界を日本がどう生きるかという観点から、望ましい体系の教育基本法を作るという考えで、全面的に改め、問題提起するという姿勢で臨むべきある。

  現行法で規定されている普遍的な理念は残しながらも、新しい教育基本法はどうあるべきかを検討していくべきであり、一部改正か全部改正かということは、法技術的な問題である。

  教育基本法の中でも、憲法に関わる部分は今回は議論の対象にすべきではなく、社会の変化に伴う教育の在り方について議論すべきである。

  現行の憲法の枠内でも、見直すべき点は多くある。

  基本計画は、教育に対する投資をしっかり行うためにも基本法にきちんと位置付ける必要がある。

  新しい教育基本法においても、理念を中心として、そこに教育振興基本計画の規定を加え理念の実行となる手がかりを与え簡潔な法律とすべきである。

  教育基本法は、人間の生き方、哲学に関わる教育憲章のような気高いものであるべきで、下部構造的なものを入れるのはふさわしくない。

  教育基本法制定から50年たった今、理念が絵に描いた餅で終わらないように、具体的に実行できる可能性を示唆する方向で基本法を修正するのがよい。

  理念的規定だけでなく、教育に関する根幹的な制度や施策の根拠となる規定を置くことが必要だと思う。

  理念を実現するために、国、地方公共団体、学校等は何をなすべきかを規定する必要があるのではないか。

  現在の教育基本法は、制定当時の時代背景を色濃く反映しているように見える。50年後の社会、特に少子高齢化社会を見通して教育はどうあるべきか考え、地方分権やナショナル・ミニマム論が議論されている中で危機感を持って、具体的な在り方や方向性について検討してく必要がある。

  科学技術振興はいわれても社会運営のためのソフトはなおざりにされ、ソフトを担う文系の教育は安かろう悪かろうになっている。ソフトを重視する視点を強く打ち出し、具体的な計画を作っていくために、教育基本法に根拠となる規定を盛り込むべき。

  反対論に対して論理的に説明できる見直しを検討していく必要がある。

  現在の教育基本法と現実に乖離があることが問題であり、教育荒廃にどう対処していくかということが緊急の課題である。

  かなりの部分は学校教育法等の下位の法律の改正により対応できると考えられ、教育基本法と下位法の関係を含めて議論する必要がある。



2  各条文について

1.教育の基本理念

見直しの方向性
  教育理念に関しては、これまで指摘されている事柄について、「過去あるいは現在の教育において特に欠けているものを強調する」という制定時の考え方と同様の視点から、現在あるいは将来の教育において何が特に重要であるか、集約していけばよい。

  教育の理念について第1条と第2条を整理し、新しい教育の理念を打ち出す必要がある。「検討の視点」のような考え方でよいと思うが、特に第2条は分かりにくいので、全面的に書き直すべきではないか。

  教育基本法の条文は、理念的には素晴らしいものもあるが、当時の議論を必ずしも明確に表現出来ていない、今の時代に合わない、など文言の修正には十分な余地がある。

  議論の際、可能性すなわち、「現行法に付加価値を付ける」という視点が必要。

  教育理念の中に、期待される人間像的なものを書き込むことは難しい。これからの教育を考える上で押さえておかなければならないことを書き込むことが必要である。

  戦後の混乱、教育勅語との関係等の経緯から、教育基本法には教育の理念が規定されているが、公教育の目的を法律で規定することはあっても、社会教育、家庭教育を含めた教育全体の理念を書くのは適当でない。

  前文や第1条の理念は、普遍的価値であり、変えるとしても、今後の社会の変化に合わせて足りないものを付け加える方向で考えるべき。また、欠けている部分について、すべて基本法に入れる必要があるのか。

  戦後教育改革の理念は、平和主義、個人主義、国際主義、脱宗教化であるが、教育基本法の一つ一つの言葉じりを捉える議論ではなく、戦後50年を経て、これらの理念が何を生んできたのかを考えるべきである。

  我が国の全体の共通目標、国家目標を教育基本法、教育振興基本計画にどのように盛り込んでいくか検討が必要。

  教育に求められるものには不易のものも多く、不易の部分の補完と、新しい時代的要請への対応の二つを考えることが必要。


生涯学習
  教育基本法には「社会教育」とあるが、一般には「生涯学習」というような言葉のほうが定着している。教育基本法ができた時点では、教育機関を卒業したら
社会に出て働くというライフサイクルの認識であったと思うが、今の社会では教育―労働―教育―労働という形で、生涯の間に学習を繰り返していくという枠組みの中で、生涯教育を大きな柱として基本法に取り込んでいくことを検討すべきである。

  教育基本法を見直すのは、社会の変化にどのように対応するかが検討の理由と考えている。生涯学習社会のことなど検討する必要がある。

  一人一人が生涯学習システムの中で充実させていくという生き方、まさにそういう意味での個人を確立するということの大切さがある。


個人の能力の伸長
  個人としてのアイデンティティをきちんと自分で築き、それに従い、それぞれの個人の能力を高めるといった考え方を明確にすべき。人が持っているそれぞれの能力に合った形で、教育なり、仕事のチャンスがあるような社会を築き上げるために、どういうことをすればいいのか。


個人と社会・経済
  教育は個人にも社会にも与えられる。個人の次元では、成熟や人格の完成を目指すことが大事。社会の次元では、人的資源が大事。経済的価値と人間的価値のバランスを保つことが必要。

  教育改革の発想には、社会的システムからの発想が多いが、個人一人一人が充実した人生を送るための視点でも必要。


職業生活との関連
  教育、学習という面だけではなく、職業に対しての計画に踏み込んだ、キャリア形成に対する考えも、教育基本法につけ加えるべきではないかと思う。

産業化に向かっていくような人たちを育てていくような専門性の高い教育がより重要になってくると思う。


個と公
  基本法見直しの論点として考えられるのは、個の尊重だけでなく、官でも民でもない「公(パブリック)」の概念をどう入れるかということが重要。

  「新しい公共」という考え方が大事である。国家、社会のルールを所与のものとして図式的に学ぶのではなく、法や社会のルールの持つ意味や役割について学び、主体的にどう形成していくかという意識を高める教育が重要である。

  一人一人が生涯学習システムの中で充実させていくという生き方、まさにそういう意味での個人を確立するというこの大切さがある。基礎的な力はきちんと持っていなければいけないし、公(おおやけ)のこともちゃんと考えなければいけないのだというところへ持っていかなければいけない。

  アイデンティティとよくいわれるが、公共性を自覚した自律という意味で、「社会的使命の自覚と実践」と訳したらどうかと思っている。

  「豊かな人間性と健やかな体の育成」は非常に大事だと思う。豊かな人間性というのは何だということになると、これはまた相当幅の広いとらえ方ができると思うが、「人間として生きるルール」と置き換えてもよいのでないかと思う。


国際性と日本人、我が国の伝統、文化
  現行法では、国際社会の視点、国際社会の形成者の育成という観点が欠けている。教育基本法制定時からの社会の変化で、一番大きな点は国際化であり、これを書かなければならない。

  国際社会における共生など、現行法にはない理念であり、「世界の中の日本人」という視点は是非盛り込むべきである。グローバル化した社会にあって、自身の価値観を確立とするとともに、異なる価値観を受容していく能力を培うことが求められている。

  教育の理念として、国際的視点、我が国の伝統文化の尊重が欠けている。

  国際性と民族性(日本人としてのアイデンティティと民族・文化への理解)をバランスよくどう盛り込むか。

  「伝統や文化を尊重する心」というのは回りくどい表現ではないかという気がする。「人間を愛し、地球を愛し、国を愛していく心を育てる」ことが最も重要なのではないかと思う。

  地球国家の中で日本はどういう役割をはたすべきかという目的をはっきりさせる必要がある。

  「伝統文化の尊重」を具体的にどのように実現していくのかが問題である。



2.教育の基本原則

教育の機会均等
  機会均等について、教育基本法には「能力に応じて」とあるのに、結果の平等のみが強調されてきた。

  「柔軟な学校システム」については、これに取り組むことで、例えば格差が生ずる等の別の作用が必ず出てくることを念頭に置きながら考えるべきであり、それらにどのように対応していくかについても議論する必要がある。人間の生命と教育はやり直しができない。

  格差の存在を、それが全体を高めると捉えるのか、皆平等が大事と考えるのか、根本的なところを議論すべき。

  格差には2種類ある。一つには、クラス内の学力格差という問題であり、その解消のために教員の資質を高める計画、もう一つが、伸びる子を伸ばしてあげられるような計画、その2つが必要だと思う。

  教育の多様化、自由化によって生じる格差をどう是正するのか、ということについても考えなければならない。多様化のためには、多元的な尺度が必要である。

  子供それぞれに個性があるのであり、格差を是正せよというときには、知識水準だけでなく、多様な能力を評価し、伸ばせるような、そういう評価の在り方の検討が必要ではないか。

  教育の機会均等の規定には、身体的障害についての書き込みがない。

  外国の基本法には、国民に学習の権利があると謳っている例がある。生涯学習社会の構築という観点からも、学習者の視点から考えていくことが必要ではないか。


義務教育(柔軟な学校システム)
【学制全般】
  諸外国に比べて、日本は学校制度が単線的であるが、50年を経た今、これをどう考えていくべきか。

  中等教育学校や高等専門学校、飛び入学などがあり、日本も必ずしも単線型とは言い難いのではないか。むしろ、子供の発達の現実と学校の年限があっていないのではないか。原理的な議論やデータを添えて検討しないといけない。

  学校制度の柔軟化について、子どもの現実の発達段階に合わせるべきである。発達の前傾現象により、今の子どもが3年ほど発育が早まっていることや、5歳からの義務教育についても、既に46答申で指摘されている。

  「柔軟な学校システム」という場合、現行制度を変えていくのか、現行制度の運用を弾力化するのか、それともその両方か、ということがあると思う。

  現行の学制について、例外として色々なパターンを認めるのか、それとも例外についても一定のシステムを構築するのか。制度を複線化すると、混乱するのではないか。

  柔軟な学校システムの実現といっても、9割が高校へ、5割が大学へ進学する前提が崩れるのか。学校システムの複線化、選抜や原級留置の厳格化などの前提条件の変更が無い限り、理想論にすぎないのではないか。

  学制について様々な議論があることは承知しているが、変更する必然性はなく、むしろ進学年齢の弾力化等を考えてはどうか。

  アメリカではチャータースクールなどの新しい試みがなされている。様々な試みが可能となる柔軟な仕組みを考えていくことが魅力ある学校づくりを考えることにつながるのではないか。

  日本の教育は実は多様性があると思うし、特に私立学校では色々な取り組みを行っている。普通と違う学校はどこが違うか、普通の公立の学校に応用できないか考えることは良いことだ。

  第3条の条文を理念的にどう書き直すかということよりも、才能教育を行う学校をどうやってつくるか、などの具体論から先に徹底して議論すべきではないか。

  幼児教育について、保育行政にも踏み込んで、位置付けを考えていくべきではないか。

  義務教育の年齢は各国でも時代により変わってきている。義務教育とは何なのか一度議論する必要がある。


【義務教育年限】
  教育基本法に義務教育は9年という規定があったので、今まで議論が進まなかった。学制をどうするかはともかく、議論をそこでストップさせるような規定は考えた方がいい。義務教育の複線化については、人によって違ってよいという考え方もあり得るし、固定して考える規定はどうか。

  義務教育期間を1年延長することも含め、青少年の社会化を促進するために、高等教育進学前に一度社会に出るという仕組みはどうか。


【飛び級・飛び入学】
  科学技術創造立国についての話の中で、天才論(飛び入学、飛び級等)をしていたが、教育の原則を検討する際は、この問題を取り上げる必要があるのか。

  飛び級や飛び入学の議論などを聞いていると、急がすような制度や仕組みが子どもたちにどういう影響を与えるのか不安である。じっくり丁寧に慈しんで育てられるという感覚を子どもたちが持てるような教育が重要ではないか。


【就学時期】
  学校制度の柔軟化について、子どもの現実の発達段階に合わせるべきである。発達の前傾現象により、今の子どもが3年ほど発育が早まっていることや、5歳からの義務教育についても、既に46答申で指摘されている。(再掲)

  早く進学すればいいというものでもなく、子どもの成長スピードに合った進学のペースが重要であると思う。例えば、4月1日生まれと2日生まれでは学年が異なることになるが、一律に決めるのではなく、親と教員が子どもの様子をみて判断してもいいのではないか。

  日本の風土に合うかどうかは別であるが、フランスなどでは、校長と親が話し合って就学時期や落第の当否を判断するなど、柔軟な運用をしていた。


学校制度の区分の弾力化
  例えば小学校の5年生から中学校と一緒に授業を行うなどの取り組みが、各学校の独創性に応じてできるようになるのか、それとも制度そのものに手を着けるのかで結論が異なってくるので、しっかり議論すべきである。

  当面は現行の制度を変更せずに、小中一貫、中高一貫、幼小一貫、あるいは高大一貫など、様々な学校運営の形態を支援するような仕組みを作ってはどうか。

  6・3・3・4制を維持するという立場に立つなら、小中一貫校も例外になる。なし崩し的に小中一貫を導入するというのはよくないので、しっかりとした展望をもって行うべきだ。


家庭の役割と学校教育との関係
  今後の社会を考えると、保護者の意識が変わり、学校選択、教育選択(ホーム・スタディなど)といった問題は避けて通ることができない。


男女共学
  男女平等は憲法に規定されているのだから、教育基本法に男女共学を規定する必要はないのではないか。

  男女共学について、女子教育の方が「女性らしさ」にとらわれず能力を伸ばせるという指摘もあり、全て男女共学である必要はないと思うが、男女共同参画の視点は重視すべき。

  男女共同参画の視点は必要だと思う。女性が社会で活躍するという以外にも、家庭という観点からも男女がともに社会を築くという観点を入れてほしい。

  ヨーロッパでは例えば「男女平等の促進に寄与する」のように、結果として実効性をあげるというところまで法的な表現が踏み込んでいる。第5条の男女共学の規定についても、変えていくべきではないか。



3.教育の主体

学校の役割等
【役割全般】
  教育基本法には学校の役割に関する規定はないが、学校だけが教育をする時代ではなくなっている現在、学校は何を求められているのか、何を達成しようとしているのかを議論する必要がある。

  学校の権威の重みがなくなってきているのを、取り戻そうとするのか、あるいは軽くなるのはやむを得ないとして他の手段を講ずるのか。

  学校を教育の基軸と捉えるのか、それとももっと広い範囲で捉えるのかについては、やはり学校を基軸に位置づけることが重要ではないか。
    そして、学校を、喜んで行けるような魅力あるものにすることが重要。

  土日は家庭がしっかり子どもの面倒をみるべきで、あとの5日については学校が責任をもって学習を突き詰めることが必要だと思う。少なくとも、その真ん中をとるような選択はすべきでない。

  学校の5つの使命として、人格形成、能力開発、知識伝授、知的生産、文明の継承があり、3つの国権付託として、学校設置、教育、学位・資格付与がある。


【人間性・道徳・公共心】
  学力サイドの面と、人間性サイドの面と、両方があって、特に人間性サイドの面では、この50数年間あまり踏み込んだ議論を躊躇してきた経緯があるが、今後もタブーとしてオブラートに包むのかどうか、コンセンサスが必要と思う。

  21世紀になって、日本人がいかに生くべきかが議論されるなど、基本的な道徳律が見直されるようになった。このようないかに生くべきかといったことについてのガイダンス、方向のようなものも必要になっているのではないか。

  これまで日本は経済と徳の調和を考えてきた。生産性やものづくりといった経済的な価値と心の豊かさなどの人間的価値の両面から考えていく必要がある。

  イギリスでは、「心の教育」というものはなかったが、最近では社会に送り出す際に必要とされる知識やマナーについて教育する、citizenship education(市民教育)が重視されている。

  子どもの公共性の感覚が薄れている。これまでの知的理解中心の道徳教育から、問題解決型の、学んでいる者が主体的に学習できるスタイルに変える必要がある。もう一度道徳教育あるいは公共性の感覚の再構築を願いたい。市民教育あるいは一市民としての意識をきちんとつけるような教育を、中等教育あたりで必修にするようなことはできないのだろうか。

  宗教に基づかない道徳教育や心の教育は、日本独自のものとして、世界に発信できるものである。


【学力・知識・学び方】
  教育基本法は精神論中心で学力については触れられていないが、今後これについても盛り込むのかどうか議論する必要がある。

  「詰め込み」は個性の無視であり、問題であるが、「教え込み」は徹底しなければならない。柔軟で可能性のある時期に教え込むことは大変重要なことである。

  これからは、基礎と創造性をつなぐものとして、「学び方」の学習が重要であり、それをいつ頃から始めるかということについても議論が必要。

  変化の激しい社会にあって、知識はどんどん変化するので、学校の役割としてフランス法の「知識と学習の方法を教授する」という考え方は魅力的である。


【体育・スポーツ・芸術】
  教育の中で重要な役割を担う知・徳・体の「体」の部分、スポーツ、芸術などが議論から抜け落ちているので、盛り込むべきではないか。


【大学教育】
  現行法には高等教育の視点が無い。基本計画には高等教育のことが当然入ってくるのであるから、基本法に盛り込む必要がある。

  高等教育は「高度な社会的ニーズに応える」ことも必要だが、「文化・学問の土台を養成し、一人一人を豊かにする」面もあることを明確に打ち出すことが必要。

  大学の教育と研究のバランスがとれていない。教えることがおろそかになっている大学に卒業を難しくせよと言っても無理である。教育は大学における第一の責務ではないのか。

  日本の大学は以前からゆとりがあり過ぎるから、もっと厳しくする必要がある。


教員
【優秀な教員の確保】
  雇用対策にもなるからというので、少人数学級が流行だが、教員の量的な側面だけを考えて、質的な面は考えていないのではないか。教員の質をどうするのかということを視野に入れて考えていくべきである。

  優秀な教員を確保し、その教員にいかにやる気をもってもらうか、そして、適格性を欠く教員に退場してもらうことが重要である。

  優秀な人材が産業界に流れてしまわないよう、教員の給与をあげてはどうか。

  教員養成機関の教員の質を向上させることが重要である。これなくして日本の教育は良くならない。


【第三者評価等】
  教員の第三者評価が重要である。また、研修機会の促進についても、単に参加を促進するだけでなく、参加した後の成果の評価を重視すべきである。

  特別免許の議論の際に、教員の側に、教職の専門性を理由にして、外に向かって開くことへの大きな抵抗を感じた。日本の学校をもっと開いていくことが必要ではないか。

  第6条で、教員は「全体の奉仕者である」と公務員と同様に規定しているが、これは50年後にも妥当する概念なのか。


学習者の視点
  外国の基本法には、国民に学習の権利があると謳っている例がある。生涯学習社会の構築という観点からも、学習者の視点から考えていくことが必要ではないか。(再掲)

  教育する側の責任や権利は大切であるが、同時に教育される側の人間としての尊厳や基本的権利についてきちんと踏まえた上で議論をしなければならない。

  教育を担うべき主体は書かれているが、教育の客体である学習者の責務も書く必要がある。

  学校の役割や生徒の責務といった点は現行法では欠けている。生徒は学校の規則を守るべき、などの規定が必要ではないか。


社会教育
  現在は雇用が流動化して個人主導のキャリア形成へ視点が変わり、個人主体の考え方になっているので、社会教育についても、職業能力開発と組み合わせた継続教育の視点を取り入れて教育基本法の規定を見直す必要がある。

  特に家庭教育や社会教育の分野では、政府は禁欲的になって活動領域を限定していかなければならない。行政が責任を持つべきことと踏み込んではいけない分野を明確にする必要がある。

  社会教育の関係でボランタリーな組織のことも書けないか。


家庭教育
【家庭教育に関する明確な規定】
  「家庭」は独立して規定すべきではないか。

  家庭教育が基本であり、親が教育基本法を読めば、自分たちの責任を自覚できるようなものがよい。

  家庭が原点であり、そこがスタート地点で、地域社会、日本、世界へと広がりを持っていけるような考え方や、子育ての基本は知識的教育ではなく子どもの社会的自立であるということを教育の理念として入れて欲しい。

  家庭教育については教育改革国民会議の議論を生かすべきである。


【親になるための教育】
  臨教審でも都市化と核家族化を背景とした家庭の教育力の低下が言われていたが、その後も悪化している。親になるための学習が不足していることが、家庭の教育力の低下につながっていると思う。核家族化に伴う家庭教育の問題についても検討する必要がある。
  18歳を過ぎたら、教育についての教育をすることも必要ではないか。いきなり親になっても何をしたらいいのかわからない人も多い。


【学校と家庭の役割分担】
  家庭が学校に全てを委ねるという形になってきているが、それを考え直すことが一つの重要なポイントではないか。

  「父母や地域に信頼される学校」ではなく、「子どもや学校に信頼される父母・地域」が重要な問題。教育制度をいくら変えても、父母や地域が変わらない限り、何も変わらない。

  家庭、親については、単に学校と役割を分担するのではなく、それぞれが責任を負うことを明確にすべきである。

  土日は家庭がしっかり子どもの面倒をみるべきで、あとの5日については学校が責任をもって学習を突き詰めることが必要だと思う。少なくとも、その真ん中をとるような選択はすべきでない。(再掲)


【行政による支援の在り方】
  教育の原点は家庭であることを確認し、家庭教育支援の方策も家庭の多様化に対応したものとすべきである。育児と仕事の両立には大変な努力が必要だということを認識すべき。

  日本の教育は学校教育中心で進んできたので、学校を通じて家庭教育に取り組むこともありうるのではないか。

  市民活動の中にも、家庭教育に関する色々な相談に応じるシステムもある、何もかも学校でしようとするのではなく、官民の役割を明確にすることが必要ではないか。

  特に家庭教育や社会教育の分野では、政府は禁欲的になって活動領域を限定していかなければならない。行政が責任を持つべきことと踏み込んではいけない分野を明確にする必要がある。(再掲)


学校・家庭・地域社会の連携
【情報公開の必要性】
  教育委員会は、教育的配慮を理由に、情報公開に拒否的である。学校の情報公開として、どの程度のことを考えているのか。

  学校から情報を外に公開し、地域やPTAと一緒になって考えることが良い。

  学校から情報を外に出し、外から学校にも色々なコメントが出せるような体制にすることが大事ではないか。


【学校と家庭・地域社会の連携】
  地域の人々の協力で、大きな責任を担っている学校の教員を支えていくことも必要。

  フランスのジョスパン法には、生徒及び学校内外で生徒の教育に携わるすべての人々により教育共同体が構成されると定めており、このような考え方は参考になるのではないか。

  フランスのジョスパン法の「教育共同体」という考え方は、個人主義の強いフランスでは必要な規定かもしれないが、日本においてそのまま適用できるのかどうかは慎重な検討が必要。

  教育には、学校だけでなく家庭や地域社会の民力を使う必要があり、民を支援する施策が国、地方公共団体レベルで必要。学校も、もっと地域に開いていくべきであり、評価することが必要。評価することは支援することでもあり、支援する家庭や地域社会は学校とともに子育てに責任を取るということでもあると思う。

  欧米で大学生が在学中の1年間程度、海外に行ったり会社で働いたりする慣行であるギャップイヤーや、子どもを周りの大人もしつけるような、社会が教育に参加するという面も、制度的に、あるいは慣行が自ずから出てくるような雰囲気をつくっていくような努力が必要ではないか。

  教育基本法などになかった言葉は「参加」あるいは「参画」ということではないかと思う。教育というのは、今までどちらかというと教育委員会、学校というような、一つの専門領域のところでやるものと受けとめられていたが、これだけ情報化社会になってきて、改めて本質的なことを考えると、様々な人々がかかわって教育は成るものだと感じる。



4.政治教育・宗教教育

政治教育
【公共心・公共へのかかわりに関する教育の必要性】
  今、投票率も下がっており、民主主義を考える上で政治教育についても考える必要。

  小さい頃から教育の場において、司法や政治など公共的なものへの関わり方を教えることが必要。基本法にも政治教育や宗教教育の規定があるが、こういうものに触れることをどう考えるか。公共的なものへの積極的なかかわりを一つの柱にすべき。

  社会や司法や政治、産業とのふれあいを実体験として、教育の場に取り入れることが必要。

  「新しい公共」という考え方が大事である。国家、社会のルールを所与のものとして図式的に学ぶのではなく、法や社会のルールの持つ意味や役割について学び、主体的にどう形成していくかという意識を高める教育が重要である。(再掲)

  イギリスでは、「心の教育」というものはなかったが、最近では社会に送り出す際に必要とされる知識やマナーについて教育する、citizenship education(市民教育)が重視されてきている。(再掲)


【政治教育の範囲の明確化】
  政治教育、宗教教育は、教育基本法では第8、9条の第1項でその意義を認めながら、第2項があるために、現場では警戒すべきもの、もしくはタブーとなっている。

  第8条の政治教育はなぜ必要なのか。また文言も不可解でよくわからない。

  もう「政治教育」という言葉は使われないし、政治教育・宗教教育を教育の中立ということでまとめるなど、50年前の社会から変化しているところを強調するべき。


宗教教育
【宗教教育の必要性】
  次の世代の教育を考えたとき、例えば日本では、宗教はアンタッチャブルになっている。中高生は次の時代はどうなるのか、どうしたらいいのか不安を持っており、ここの部分をきちんと大人が伝えなければならない。

  これからの教育の施策として科学技術や社会科学だけでなく、宗教、道徳、芸術、文化なども中心に置くような取り組みも必要であり、このことを国民に分かりやすいかたちで規定し、実践できるかについて議論したい。

  イギリスでは、最近は心の部分を知ってもらおうということで、宗教教育等をを随分取り入れて、少なくとも世界の4大宗教についてはきちんと教育するということまでシフトしてきている。

  宗教に基づかない道徳教育や心の教育は、日本独自のものとして、世界に発信できるものである。

  21世紀は宗教の世紀と言われている。宗教を普及するという意味ではなくて、どういう種類の宗教があって、宗教というのはどういうものなのかということを教える必要があるのではないか。宗教に無防備である日本国民が、このままでは21世紀は大変なのではないか。

  どういう形でもよいが、子どもたちが学校で宗教に触れることがあるということを実現したい。

  学校で子どもたちに宗教に触れさせようとしても、5つの宗教を全部教えられる先生は少ないなどの問題がある。

  特定の宗教ではなくても、普遍的な宗教心、いろいろな宗教に共通している部分は教えていく必要がある。今の科学技術、科学信奉の考え方、物質主義的な考え方、目に見えないものを大事にしない考え方、こういったものが日本だけではなくて、世界で非常に大きな問題になっているのではないか。宗教、道徳、普遍的な宗教心、こういったものを教えていくべきではないか。

  宗教教育について規定する必要があるのか。


【宗教教育の範囲の明確化】
  教育基本法の条文は、理念的には素晴らしいものもあるが、当時の考えを必ずしも明確に表現出来ていない、今の時代に合わない、など文言の修正の余地がある。例えば、第9条の宗教教育についての書き方や、第6条の学校教育について、法人格、教職員の身分、義務教育とは何かなどシステムに関することも議論する必要がある。

  教育基本法第9条第1項には「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」とあり、宗教についてきちんと教えなければならないにも関わらず、公立学校では、同条第2項で禁止されている「特定の宗教」教育に限らず一切の宗教教育を行ってはいけない、というイメージが一般的である。

  政治教育、宗教教育は、教育基本法では第8、9条の第1項でその意義を認めながら、第2項があるために、現場では警戒すべきもの、もしくはタブーとなっている。政治・宗教の教育というものを少し基本的に考え直してみる機会ではないか。

  教育基本法の8条、9条については、第2項のほうが強過ぎて、第1項のほうが何かおろそかになっており、この辺はかなり前向きにどう変えるべきかということを考えていかなくてはいけないのではないか。

  教育基本法の第9条の第1項と第2項の表現は、21世紀流に、あるいはイギリスの新しい方式のように、何かもっときちんと新しい時代にふさわしいものにしていくような感じで私はとらえている。


5.教育行政・教育の振興

(1)教育行政
国・地方の役割の明確化
  教育の問題は、文部科学省がしなければならないこと、できること、国民全体ですべきことを明確にし、打ち出すべき。

  国民教育は、国民国家が成立してできたものだが、地方分権化、国際化、NPO、NGOの登場等で、国家の権限は圧縮され、国民国家がゆらぐ中で国民教育の制度もゆらいでいる。

  国は、高等教育政策について、予算配分だけでなく、認可や大学の財産基盤をどう安定させるかという仕組みづくりも行うことが必要。自然に起こる話、例えば進学率上昇による学習ニーズの多様化への対応などは役所がやらなくてもよいが、設置認可の弾力化、高等教育機関の質を確保するシステム作りは役所がやる必要がある。

  最近、国の任務と地方の任務とが分かりにくくなっているのではないか。

  10条2項は、諸条件の内容をもっと詳しく書く必要がある。

  第10条の「必要な諸条件の整備」に関連して、韓国の基本法のように教育財政についての明確な規定を置くべき。


【地方分権】
  公教育における今後の地方分権について、これまで文部省が果たしてきた役割や中央教育審議会が果たしてきた役割を等も踏まえ、どこまでを分権するのか切り分けが必要。

  柔軟な学校システムについて、国際化の中で何を想定するか、また、地方の特性ある教育をどう進めるか検討が必要である。

  地方分権の施策と国と地方の財政負担の在り方を踏まえることが重要である。教育振興基本計画は地方が協力しないと実効性があがらず、また、地方財政が窮迫している中で、日の目を見る計画になるのは難しい。

  国立大学の法人化と地方分権の関係はどうなるのか。国が支える大学、地方公共団体が支える大学のビジョンはあるのか。

  地方分権推進会議で現在、義務教育費国庫負担などナショナル・ミニマムについて考えているところ。義務教育のナショナル・ミニマムの在り方については、中央教育審議会で十分議論をしていかないと、勝手に決められてしまうことになりかねない。


教育委員会の役割
  我が校ではこれを重点的にやる、というプランを策定させ、教育委員会もバックアップするような取組が必要。

  教育の中立性の確保ということで、教育委員会制度が取り入れられたが、教育行政が硬直的であるなどの問題点があるのではないか。今後の教育を考える上で、市町村長や知事部局との権限分担についても検討することが必要。

  教育委員会制度については、むしろ、合議制の機関としてスピード・柔軟性に欠け、頑固なくらいの方がいいと思う。



(2)教育振興基本計画等
教育基本法との関係
  教育基本法を教育現場で存在感のあるものにするためにも、教育振興基本計画を盛り込み、教育現場との橋渡しをすることが必要。

  教育には理念と、どう現状に対応するかという技術論の2つの側面がある。教育基本法は主に前者に、振興計画は後者にかかわるもの。振興計画では10年程度を見通せば良いが、教育の目標はもっと長期的に考えなければいけない。理念的な基本法の中に現実の目標を実現するという振興計画がうまく入るかという問題がある。

  教育基本法は基本設計、教育振興基本計画は詳細な設計。教育基本法が昭和22年にできて以来、ずっと長期的な計画がなく、場当たり的な対策でここまでやってきた。しかし、それではいよいよ立ちゆかなくなって、教育振興基本計画を作ろうというのが、今の状況。

  環境基本法と循環型社会形成基本法が併存している例もあるように、例えば「学習社会形成推進基本法」のようなものを作って基本計画を根拠づけてはどうかと考える。

  韓国の基本法は教育基本法と教育振興基本計画が一緒になったような内容だが、基本法があって、それに基づいて計画が各論を述べるという構成が望ましい。
  教育振興基本計画については、ぜひ、基本法に規定すべき。そうでなければ基本法を改正する意味がない。

  基本法の理念法としての性格を大事にすべきであり、あまり振興基本計画についての具体的な規定を盛り込んでそれを損なうのはいかがなものか


計画の必要性
  これまで、教育については、「そもそも・・・」と「・・・だった」の議論、つまり理念や結果に対する議論しかせず、その間をつなぐ具体的な方策についての議論に乏しい。この間をつなぐのが基本計画であり、しっかりと具体性をもって議論する必要がある。

  ある程度先行きを見ながら、単年度予算の中に反映させていくことで、効率的にお金を使うための計画を示すことが必要になってきたことが、平成に入ってから基本計画が増えた理由ではないか。

  科学技術基本計画の策定の背後には、場当たり的政策が失敗したという反省があったと思う。教育も一生懸命やってきたが、脈絡なくやってきたことが現在の問題につながっているという反省があるのではないか。


計画の裏付けとなる財政基盤の確保
  財政的に厳しい中でも教育について優先的に取り組むべき課題があることを打ち出すべき。

  教育振興基本計画は、5年、10年のパースペクティブで何をするかというもの。しかも、財政的見込みも含んだものになると思う。

  計画には裏付けとしての財政基盤が必要であり、どの程度投資するかが決め手。そのためには国民的な世論の結集が必要であり、これなくしては実現できない。基本法に基づいて計画を立てる場合、一般法で計画を立てる場合、単年度ごとの予算で対応する場合、特定財源を持っている場合等、いろいろあるが、教育に先行的に投資するという大きな世論形成が必要。

  基本計画の中で、財政がすべてではないが、財政がある程度ウエイトを占めないと、絵に描いた餅になる。単年度主義の中でどこまで踏み込めるか。科学技術基本計画のような閣議決定をするというのかという問題がある。

  予算の裏付けがないとせっかく計画を作っても、施策を実現することは難しい。財政状況が厳しい中、どう効率的に使うかを含めて考える必要がある。

  子どもの成長には、基礎基本や勤勉性をしっかり教え込む時期と、これに基づき、自らの意欲や個性を伸ばしていく時期がある。この以降の時期は、子どもにより異なり、すべての子どもを一斉に扱うべきではない。個々に対応して行くには金がかかるため教育振興基本計画が必要である。


計画の目的・目標の数値化等
【具体性のある目的、目標】
  計画では、項目ごとにベンチマークを設定し、達成度を評価するなど、かなり具体的なものにして、世の中にアピールすべき。

  諮問理由にあるように基本計画はわかりやすい具体的な政策目標、政策を盛り込むことが重要。子どもがどんな人になって欲しいのか目標を明確に出すことが必要。5年ぐらい先の社会がどのようなものになるのか、どういう社会の担い手が必要か予想しながら策定することが必要。

  教育振興基本計画の具体的目標は、数値化できるものは数値化したほうが良い。目標を数量化することにより、後で投資の効果をチェックをすることが可能になり、教育予算が効率的に使用されることにもつながる。

  基礎的な部分は数値化になじむと思う。ただ、数値目標にすると、同じ方向に向いてしまう恐れもあり、どの事項について数値目標化するかを考える必要がある。


【優先順位の明確化】
  資源、原資の効率化という意味も含めて、優先順位をギリギリ詰めて、そこに原資を投入するというその発想は重要。

  振興計画では目標にプライオリティーをつけて、具体的にどう施策を行っていくかを明らかにする必要がある。

  あらゆるアイデアは出ている。時代の変化を見つつ、プライオリティを付けてそれらを体系化していく必要がある。


定期的な評価と見直し
  教育振興基本計画はどんなタイムスパンで作成するのかが重要。目標を数値化すると寿命が短くなり、定性化するとタイムスパンが長くなる。

  数値目標を入れるならば、3年ごとに見直すなど定期的に見直さないと硬直化する。見直しの規定を教育振興基本計画に位置づけることが必要。

  政策の評価は重要だが、評価の結果をどう生かすかを視野に入れた計画とする必要がある。

  教育振興基本計画の具体的目標は、数値化できるものは数値化したほうが良い。目標を数量化することにより、後で投資の効果をチェックをすることが可能になり、教育予算が効率的に使用されることにもつながる。

  政策目標については、予め診断項目を定め、5年毎などに診断を行い、白書で発表するなど絶えず国民の批判を受けながら進めるべき。


国と地方の連携
  地方分権の施策と国と地方の財政負担の在り方を踏まえることが重要である。教育振興基本計画は地方が協力しないと実効性があがらない。地方財政が窮迫している中で、日の目を見る計画になるのは難しい。官と民の棲み分けも考えていかなければならない。高等教育や就学前教育は私立学校に依存しており、今後どのように考えていくか。振興基本計画に国民全体のプライオリティがおかれ、うねりがないと実現可能性は乏しい。

  教育目標を誰が達成するのか明らかにすることが必要。また、文科省と地方のどちらがイニシアティブをとるのか、といったことも議論すべき。

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