資料6-2 パブリックコメント等による意見(概要)

パブリックコメント等による意見(概要)(7月20日現在)

総件数:123件(※一つの意見を複数の事項に分けて記載している場合があるため、以下の意見数とは一致しない)
●は前回報告以降に寄せられた意見

【質を伴った学修時間の実質的な増加・確保】

(「学修時間の実質的な増加・確保」について)
● 「学修時間」の確保を推進する具体的方策について、十分な検討がされていない。
 学修時間の確保は重要だが、時間量の多さが必ずしも学修の質を保証するものではない。
 大学生の学修は、様々な内容をもった教育プログラムの総称としてであり、個々の授業がバラバラに足し算されて学修目標が達成されるわけではない。最終的に目指すべきは教育の質の保証であることを見失ってはならない。

● 学修時間について、学生の生活必要時間等を考慮すると、大幅な増加が望めないことは明らか。
 学修時間の不足の原因の一つは、通年の講義を欧米式の半期(セメスター)制に変更したことで、学生に夏休みに集中的に自習を行わせる可能性が失われたこと。今後、学修時間を大幅に増加させるとすると、夏期休暇の有効利用以外にあり得ない。その場合、教職員の負担軽減、学生の学修生活の保証に必要な予算の確保が必要。

○ 学修時間を増加させれば問題が解決するかのように短絡的に受け取られかねず、実際にメディアにはそうした傾向が表れている。ポイントは、思考力・判断力や、いわゆる汎用的能力のアップを目指した学び(教育)への質的転換であり、同時に主体的な学びの確立である。それができれば「質を伴った学修時間の実質的な増加」は結果として実現される。

○ 宿題の増加と学生の自主学修強調による大学教員の責任放棄につながるおそれがあり、学生の負担を増やすのみで効果が期待できない。

○ 予測困難な時代を乗り越える能力を育成するには、大学教育での学修時間を増やすことで達成できるのではなく、初中等教育を含めて考えるべき問題であること、一流大学入学・一流企業就職を自己目標とする多くの国民、企業、教育機関の意識の変更(人生の目標として何を設定するか)、問題発見・解決能力を試す入学試験・入社試験など、大きな社会政策として、文部科学省だけではなく、まさに国家プロジェクトとして取り組み、本質的な解決に向かう提案を行うべき。

○ 学修時間増加で質が向上するのか。そもそも大学教員の教育力が明確に定義されていないのに質的向上が図れるのか。FDがあるとしても、社会の期待に応えているのと誰が判断すべきなのか。
 1,000校近い大学が存在する中、どのような質的向上を期待するのか。また、国民、企業は本当に何を期待しているのか。いちいち教えずとも物事を理解し、動ける人間を期待するのであるとすれば、全ての大学でそのような教育が可能なのか。こういった論点も答申に向けた議論の中で検討をお願いしたい。

○ 海外の学修時間と比較するのであれば、日本にも当該国にも精通した人材のヒアリングを含め、意見を聞くべき。

● 「学修時間の確保」が強調されると、何のための大学での学修か、という根本的な目的が希薄になる。

(学び直しができる機会の構築)
○ 大学卒であることを重要視する価値観がいまだに社会の中に強くある。そのような価値観の転換をはかり、社会に出た後でも十分に大学で学べるような機会について検討することが必要。

○ 社会人が少しずつでも単位を取得して勉強を続けていけるように、在学年数の制限を取り払ってほしい。授業料も一律ではなく、登録した単位数によって金額が決まるようにしてほしい。
 社会人大学生が働きながら大学で学ぶのは非常に困難。オンライン授業の拡充(試験だけは大学で受ける)など、ある程度の柔軟的な対応(試験さえクリアしていれば良いなど)が必要。
 社会の枠組みとして、勉強を続けられる環境を整えることが必要。

○ 障害者を含め、いつでも誰でも学べる大学づくりや、学び直しができる制度を作ることが必要。

○ センター試験に高校卒業の基準点を設けるなどして、高校を卒業(もしくは大検に合格)すれば誰でも大学に入れるという現況を是正し、夜間授業や託児所を設けて社会人の再入学や聴講生制度を活発にすることで、各大学の学生数を確保するよう努める。
 専門分野だけではなく、TOEIC・TOEFLや漢字検定、IT・OS系の検定など、教養に関わる資格試験に合格することを大学卒業の条件として国が一定の基準を設ける。
 大学を現実的で社会で役に立つ学問のできる場にし、大学自体の価値観をあげていく。

(改革サイクルの必要性)
○ 10年後に大学に求められる責務も変わる可能性がある。学士課程教育は改革サイクルが必須。

(学生に求める能力)
○ 入学時と卒業時に求められる能力は社会情勢の変化により同じとは限らない。どのような場面でどのような能力を期待するのかを具体的に示すべき。ただし、国が具体的な能力や人材像を示すことは、大学自身が主体性を放棄することにも繋がりかねないので留意が必要。
 学修時間以外の活動についても、課外活動やアルバイトなど人間形成の上では、相当効果があると考えられるが、大学教育全体で見た場合に、どこまでターゲットにするのかについて議論を深めることが必要。主体的な考え方はそれなりに実践を伴うことで育成される能力。

○ 「生涯学び続け、どんな環境においても答えのない問題に最善解を導くことができる能力」をはぐくむためには、まずは「現代社会にそのような能力がなぜ必要なのか」、「そのような能力の個人の人生における意味」を学生が十分に理解していることが必要。また、社会の共通理解が形成されていることが重要。
 その上で「社会とは」、「社会への参加とは」といったことを考える中で、「使命感」がはぐくまれ、また「環境によって価値観は多様である」ことを学ぶことで、「状況に応じて柔軟に最善解を導く能力」が育成される。

(「主体的な学びの確立」について)
○ 主体的に学ぶように改善する提言を行っているものの、提示されている案が総じて学生に強制するものになっている。

○ 「主体的な学び」という言葉が多用されているが、今回の提言の本質は、良い意味でより管理された大学教育の確立であり、学生をいかにきちんと学ばせるのかについての具体的な方策にある。言い換えれば、学生を「学ばせる」システムの確立が重要である。

○ 主体的な学びの確立の方策は、学修時間の増加がすべてではなく、大学が多様な人々の学びの場であることも考慮しなければならない。

● 主体的に考える力の育成取組について、国が単一の計測方法を開発する、開発できると思わせるような安直な誤解を招かないようにすべき。
 また、「主体的に考える力」の育成には多様な手法があるし、各々の学問分野の特性に応じて、各々のやり方がある。さらに学生の個性・資質に応じて多様なバリエーションが必要であり、また選択できるようになっていなければならない。大学教員の個性・資質についても同様。
 さらに、そもそもの多様性・多次元性に加えて予測困難な時代であるのだから、この育成システム成果を計測・評価できることが可能になるなど到底想定できない。
 この答申の趣旨、ターゲットはいったいどこにあるのか、その点が非常にあいまい。多様なターゲットに応じて書き分けるなど、これらの点を明らかにして記述しておかなければ、建設的な政策立案・運営につながる答申にならない。
 なお、どのような薬にも副作用があるように、主体的に考える力の育成を強化することの逆機能にも注意すべき。

● 「主体的に考える力」を育成するには、学生に「主体的に考える」ことの「喜び」や「味」を体験させることが不可欠。課外活動、卒業研究、ボランティア活動など、あらゆる機会を利用してそれらを体験させるとともに、「主体的に考える」方法を教えるシステムの構築や全人的(徳・情・体・知)教養教育のあり方について言及する必要。
 「主体的に考える力を育する」という課題が初等・中等教育をも含め、わが国の教育制度全体の問題として考える必要。大学という学びの場で、唐突に「主体的に考える力」を身に付けなければならないなどと言われても学生は戸惑いを覚える。

(質的転換のための諸方策)
○ 大学改革のため以下の提言をしたい。
 (1) 学生が卒業時の将来像といった、学生生活の目標設定を導入し、学生自らが学ぶという姿勢で学生生活を送られるようにすべき。
 (2) 授業を減らし、問題を自ら設定し、研究・発表する講座を増やすべき。
 (3) 学生が社会に出て、社会人としての教養をさらに高め、生涯学び続けることができるように、また、社会生活に必要不可欠な考え方のフレームワークともいうべき論理的思考法を学ぶ機会を増やすべき。
 (4) 学生が日本の将来に夢を持ち続けることができるように、日本の将来の産業構造の目標を明確にすべき。
 (5) 産業界からの人材への要求を大学教育に反映させるうえでは、産業界からの大学への講師の派遣を大幅に増やすことを即刻始めるべき。
 (6) 質的転換が達成されたかどうかは、大学ごとの個別目標ごとに、達成基準を設定し、大学教員及び学生の評価でもって判断する仕組みを作るべき。
 (7) 大学改革の進捗状況を、一般社会に公開し、大学の改革へのインセンティブとするなどの施策も検討すべき。

(授業の在り方)
○ 大学における授業が、そもそも課題解決型の授業だけでよいのか。また、「どんな環境でも『答えのない問題』に最善解を導くことができる能力」を育成するということと矛盾しているが、それについての説明がない。

○ 授業のスタイルが変わることが必要。
 「成績評価の厳格化」「学修成果の把握」といった今後の課題が示されると、旧来の授業スタイルのままで、宿題ばかりが増え、テストの厳密化などに力が入ることを招く。シラバスの記載事項が増えるなど授業に対する大学教員の労力だけが増える。一方で、学生は息苦しい授業負担が増え、学ぶ意欲の減退を招くといった悪循環を生む可能性がある。
 実際に授業改革に取り組んでいる事例を収集し、どのような取組が成果が上がらないのか、どのような取組に効果があるのかを示してほしい。

(具体的な授業改善方法の提言を)
○ 学修時間の実質的な増加には授業のやり方を根本的に見直すことが必要。講義式ではなく会話式にすること、講義中心から授業参加型にし多数聴講型から少人数制にすること、中多数の場合は、教授に助手をつけて発言者の記録等を取らせ評価を発言力に変えること、授業の前に次回授業の課題を与えたり配布し準備しなかった者には評価を与えないこと、など抽象的な言葉で書くのではなく具体的な授業のやり方を導入しておくべき。
 日本のように、ただ講義に出ているようでは使える能力の発達はない。助手の役割も至る所で必要性がある。自ら考え出せるような教育なのだから、アルバイトなどしていられないくらい学ばなければならないし、自分の学部の授業以外にも日本のことについて学んでないと世界に通用する会話ができないし、相手の国に対しての理解もできない。

○ 教育方法の改善・教育スタッフ数の充足、質の向上・資材環境の整備が今までよりまして必要。
 「如何に学ぶか」を改善し、学修の在り方を原点に立ち返らせるためのもっと具体的な案を提示してほしい。

(単位認定の厳格化)
○ 大学は社会構造から孤立化しており、大学で学んだことは一切社会では役に立たない。
 現在の日本社会は子どもの発達段階に応じた教育がなされていない。義務教育期間から高校時代を経て大学に至るまで、段階を踏んで教育は行われなければ意味がない。
 大学の一般教養とは高校時代の復習に僅かばかりのプラスアルファをしただけであり、時間の浪費にしかすぎない。
 大学はもっと厳しく学生を見つめる視点を持たなければならない。学力不足の者は容赦なく落とすという一面がなければ、学生はやる気を起こさない。

○ 単位取得のためのテスト問題を難化させれば自分から予習復習も進んで行い、授業にも出てくるようになるので全体的な学修時間が増加する。
 大学教員個々の意識の問題だが、ある程度の難易度のテストでないと単位が取得できないなどの基準があればよい。

○ 大学の授業は大学教員が内容、テストなどを自由に決めることができるために、同じ内容を取り扱う授業でも、大学教員によって単位取得の難易度が大きく違う。そうした現状を無くすために、しっかり授業内容を理解しないと単位取得ができないよう、授業の内容に一定の基準を定めるべき。
 具体的には、単位取得に関わる小テストを年に3回程を実施して、授業内容の確認を行う。
 出席点を最低でも20点ほど設け、授業に出席しないと単位取得が難しくなるようにする。
 こうした具体的な基準を大学が設けているかを審査することが必要。

○ 単なる講義形態ではない演習や討論を中心とした授業作りは学生の興味をひくのに効果的だと思うが、それらが全て学生の授業外の学修時間の増加につながるとは思えない。
 まず、各授業の単位取得の難易度に差をなくすことが必要であり、講義内容に関するテストよりも、学生自身が能動的に調査を行って作り上げるレポートを基準としてはどうか。

○ 定期試験は論文を主にして、学期途中に論文形式のレポートを課すことで、知識を覚えてそれを応用する力と、自分の意見を論理的に言語化する能力を養えるようにする。また、授業に出席すれば単位をもらえるような現状をなくす。

(学修到達度の評価)
○ 学修到達度の評価は、学士課程の質の保証にとって極めて重要なため、その方法の開発研究は愁眉の課題。

(学生に「基礎学力」を身に付けさせる教育システム)
○ 「基礎学力(自主的継続的に学修する能力、説明能力、コミュニケーション能力、倫理観等)」のない大学生が現在では2/3以上に達しており、そのような学生は、授業のための事前の準備や事後の展開などの主体的な学びができる訳がない。
 さらに、大学教員は研究業績で評価されるので、大学教員は「基礎学力」がない学生に対して、手間がかかり過ぎるので「基礎学力」をつけさせるような教育方法を取らず、卒業させている。
 これらの問題を解決するためには、JABEE(日本技術者教育認定機構)が要求する「学修・教育目標」を取り入れた教育システムを大学(学部)全体で取り組むよう各大学に求めることが必要。
 昔の学生は「基礎学力」があったため、大学で勉強しなくても卒業後社会で十分に活躍できた。

(幅広い分野に触れる機会を)
○ 一年次に他学部の基礎的分野にある程度触れるようにすることで義務教育時に触れることのなかった分野に視野を広げる機会を与える。

(教養教育の充実)
○ 「予測困難」な事象にさしあたったときに解決に力を発揮するのが幅広い教養である。大学の授業の有効性とは、この最も重要な基礎力の形成と、その基礎を活かして専門性を発揮させることにある。大学生ならば当然知っているという知識が理系・文系を問わず有るべき。専門性の縦深性は幅広い教養のもとに培われるもの。今や民間は「教養」を学生に求めている。じっくりと国民共通の文化力をとり戻すために大学の教養課程、教養教育を充実させることが望ましい。

○ 幅広いグローバル化、少子高齢化、情報化といった社会変化に対応するためにも、学部の段階では教養を身につけるということが重要。主体的に学ぶためには学部の枠を超えて授業を履修できるような制度、たとえば、教養学部の復活が必要。

○ 人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会が必要。既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであり、それが大学の存在意義である。
 産業界や地域社会からのニーズのみを基に大学の役割を考えることには疑問。
 「答えのない問題に最善解を導くことができる能力」をはぐくむためにも、あらためて「考える」力を養うこと、そのためにはリベラルアーツ(教養教育)や実学(真実の学問)を学ぶことが重要。

● 学士課程ではリベラルアーツに力を入れるべき。自分の意見を持ったり、他人の意見を評価したり、大衆に流されないようにするためには、思考の元である教養が必要。
 教養を身につけることで、外部環境に対応したり、将来に対する計画をたてることができる。
 社会人になって実感したことは、専門分野の知識ばかりで教養がかけていたこと。
 基礎的な教養こそが、世の中の仕組みや時代の流れを読み、他人の意見を評価する手がかりを与えてくる。

● 学生にとって、社会人として生きるための哲学の基礎を作ることが重要。そのためには、選択できる教養科目の充実が必要。多様な学生にとっては、教養科目を選択することが、与えられた科目から自分自身で選んだ科目という認識が生まれる。専門性も重要であるが、想定外の事象に対応するためには、与えられた座学では得るものは少ない。
 先達の生きる哲学を学修するための読書、クラブ、サークル、アルバイト、ボランティア等の多くの経験のなかで、広い視野や自他の人格の尊重、人間的逞しさ、優しさといった、社会で必要とされる人間力が養われてくる。

(共通教育の外国語授業の見直し)
○ 共通教育科目の外国語授業は、非常に形骸化しており、「主体的に学ぶ」の対極。
 根本には、小学校以来、生きるために役立つことがよく感じられない教科内容が多く、それでも仕方なく学ばされてきたという大問題があり、大鉈を振るう方針変換が必要。
 必修はなくす、外国語の検定類で合格した者は語学受講を不要とする、勉強法・翻訳・会話の心得等、独学の基礎だけ教える、などの具体的な抜本策・応急策をとるべき。
 以上の改革に当たって、既存の語学教員、特に多数いる非常勤講師は解雇せず適切に転用しなければならない。

(日本語の知識と運用能力を身に付けるカリキュラム)
○ 大学時代で、「学ぶ」ということは、知識を得るということだけでなく、得た知識を自分の頭のなかで思考して、智恵にしていくプロセス。その場合に、日本人であれば日本語の知識と運用能力が重要。大学生が教養課程で外国語だけでなく、日本語の知識と運用能力をしっかり身につけるカリキュラムが必要。

○ 大学の授業は、文章力、表現力、外国語力が初等・中等教育において基礎が十分に獲得されていることが前提であり、その上に実際の課題等に対してディスカッションやディベートを行うべき。現在の学生については特に国語力の低下が問題。

(専門教育の更なる充実)
○ 汎用的能力伸長の重要性は確かであるが、それを強調するあまり、専門教育の水準が低下してはならない。「専門教育の更なる充実」も強調していただきたい。

(国家試験制度の見直し)
○ 現在の大学生は高校の延長として、「座って」「教えてくれる」のを待つという姿勢に終始しているものが大半。
 医・歯・薬学系学部では、ほとんどの学生が資格取得を目指して入学しているため、国家試験に合格することに精力を傾けており、保護者もそれを求めている。
 今後、国家試験制度を見直すことが、これらの改善に必須である。現在のようなマークシートを塗りつぶすことで知識を確認するという方式を大幅に改善しなければ、医・歯・薬学系学部、特に私立大学のこれらの学部においては学生の意識や教育に関する変革は困難。
 昨今、医療分野においては毎日のように新規の知見が発表され、これらを習得することが医療の質的向上に不可欠であるにも関わらず、資格取得後は知識修得への情熱を失する者が多数存在する。

(学修モデルの提示)
○ 海外の大学生がどれほど勉強しているかという情報を見える形で与えればよい。
 各大学が学生に求めるモデル的な学修時間や学修スタイルを示すことが有効。これらの情報は高校生や中学生にもしっかり伝えて、「大学は勉強よりも自由な時間を楽しむ所」という意識を変えることが必要。

○ 「事前の準備」、「授業の受講」、「事後の展開」を効果的に行うロールモデルの提示が必須。
 そもそも、そのような教育・トレーニングを受けたことがない大学教員が主導してそのような教育ができ、学生の評価ができるのか疑問。

(学生のレベルに応じた教材の開発・提供)
○ 大学の授業でどの教材がその大学の学生達のレベルに見合っているのかという観点から教材を選択又は開発する。他大学の研究者達と複数で情報を交換して選択する機会を作ってもよい。

(学生の1日当たりの授業時間数の減)
○ より多くの学外の勉強時間の確保のために学生の1日あたりのコマ数を減らし、授業密度を高めるなどの対策が不可欠。

○ 学修量を増やすことが質向上につながるのか。90分という一般的な講義時間の設定自体に疑問。
 高等学校までは、授業時間は50分から長くても60分程度。このような時間設定で授業を受けてきた多くの学生にとって、いきなり30分から40分間も長く講義を集中して受けるのは難しい。
 質向上のためにも、一つの講義時間をもう少し短かく設定すべき。

(各授業の受入れ人数を最少にし、かつ科目履修の際に動機付けを)
○ 出来るだけ各授業の受け入れ人数を最低限にし、科目の抽選の際にはなぜその授業を受講したいのか学生に動機を書かせ、学ぶことの目標づくりにも関連させたら授業の密度が高くなる。
 また、科目を履修する動機を考えさせることでシラバスを読むきっかけにもなり、学生がより授業内容に興味を持って受講するようになる。

(学生に討論させる授業に転換)
● 大学の授業は基本的に討論の場にする。つまり、学生は事前に授業の予習をして、大学教員から推薦図書を読んだ上で授業に臨む。大学教員が授業内容を説明する時間は極力少なくし、授業内容を理解していることを前提に、受講者全体で討論をしたり、グループに分かれて討論をする時間を多くとる。こうすることによって、学生は主体的に事前準備をし、授業に参加しなければならなくなる。
 また他人と討論をすることによって言葉による説得や論理性、他人の意見を受容することなどコミュニケーション能力の向上を図ることができる。

(チュートリアルの導入)
○ チュートリアルを導入すべき。講義は知識を得ることが目的に対して、チュートリアルでは、自分の考えを述べて他の学生とディスカッションする中で学びを深めていくことができる。チュートリアルにより、学生は講義の内容を自分の関心に引き付けて捉え直すことができる。
 オーストラリアの大学では試験やレポートだけでなくチュートリアルでの発言等も成績評価の対象となる。

○ イギリスのセミナーやチュートリアルといった授業形式を取り入れて、授業の中で学生たちが発言する場を多く設けるべき。大学の授業でディスカッションする場を設けることが非常に重要。

(毎回の授業で小テストを実施)
○ 毎回の授業での小テストを実施する。学生たちは小テストに向けて進んで勉強するようになるだろうし、一度学んだことの復習にもなり、学修の理解を深めることにもつながる。

(試験、レポートの作成にあたって直筆を義務付け)
○ ICT、デジタル化に偏らず、本来あるべきコミュニケーション能力を強化すべき。
 特に最近では卒論にコピペが横行する事例が多く、それを発見するソフトまで作る有様。自らの、意志、知識、論理を自らの手で書き、説明し、納得させ、賛同を得るための、訓練を徹底実施することが必要。全ての試験、論文等の作成において自筆を義務付けてはどうか。

(シラバスの充実)
○ シラバスを読めば授業の概要がわかるというだけでなく、シラバス自体に授業そのもののエッセンスが凝縮されていることが有効な自主学修の一助になる。

(企業の求める要素を講義に)
○ 企業の求める要素をもっと講義に積極的に取り入れるべき。大学での講義と就職との繋がりが感じられず、まったく別のことを要求されている感じが否めない。社会に出たときに役立つのかと疑問に感じる講義も少なくはない。目的のわからないまま講義を受けていては、単に受け身になりがちである。目的をどうもたせるか、シラバスの取り扱いについても通じる部分がある。

○ 大学での学修内容と企業が求めている内容とが乖離してしまい、修士号を取得しても就職口が全くないという事態は本当に憂慮すべき状態。
 大学の教授内容と企業の要求するものとの違いを検証して、大学でしっかり勉強した分、就職に役に立つという内容に大学の教育内容を見直すべき。
 企業が重きを置かない内容を身につけさせても役に立たない。学生もやる気がしない。なぜ大学での学修が就職に役立たない状況になったのかの検証が大事。

(インターンシップの充実)
○ 授業以外の時間を全て学修時間に充てたからといって、社会に求められるような人材になるとは思えない。
 社会に求められるような人材を育てるためには、学生をインターンシップに参加させることが効果的と考える。より多くの学生に参加してもらうための方法として、インターンシップによる単位認定を提案する。

○ 大学の夏季や春季などの長期休暇を利用し、インターンシップ期間を長期化することによって、グループワークや社会で働く力がしっかりと身に付くため、社会に出たときに即戦力となる。

○ インターンシップやボランティア活動等の社会体験をもっと気軽にできるようにする。

● 企業からの要求を実現するためには、企業が自らその機会を提供することが必要。そのためには、本来のインターンシップの充実が必要。

(ルーブリックの活用)
○ 学修評価をするときにルーブリックを取り扱うべき。ルーブリックを使って評価の基準を定めることで、評価する大学教員側だけでなく、評価される学生側も達成度をより明確に理解することができる。

● 学生個々の人間力の検証が重要であり、ポートフォリオの活用が有用。
 さらに、ルーブリックを用いることで、ポートフォリオの評価が可能となる。
 ルーブリックは、
 (1) 大学教員の成績評価の時間を短縮し、効果的なフィードバックを可能にし、学生の学修意欲を促進する評価方法
 (2) 課題に対して大学教員の期待を明確に示すことができる採点ツール
 (3) 「批判的思考力」についても測定可能
 (4) 人間力の評価において、到達目標の評価に有用

(単位制の見直し)
○ インターンシップや海外留学等により、学生の意識を変えていく必要がある。そのためには、夏期休業等を十分な期間確保することが必要。「1単位の授業科目を45時間の学修」「15週(又は10週)にわたる期間」という基準を変更することも検討してみてはどうか。ゆとりと詰め込みのバランスが必要。

○ 幼児期から高校まで自主的な活動を保証されずに、受験勉強も補習と詰め込みの中で主体性を持てないで大学に入学してくるのが現実。
 大学教員も自らは受験勉強を潜り抜けて、「主体的な学修」の体験が少ない中で、どのようにして学生を育てていくのか。大学の授業も予習から復習まで管理しようとするものであるとしたら本末転倒。
 高校までの「学習」を踏まえると、まず必修を少なくして卒業のための単位の縛りを減らし、自分たちで課題を見つけてその学修の深化のために大学教員を探すくらいの意気込みが必要。
 上から事前準備や事後指導の在り方を確認して、高校までの管理教育を更に4年間広げるだけでは意味がない。

○ 現在の単位と学修時間の関係について、ゼロサムで再構築していくことが必要。

(時間割、授業期間の弾力化)
○ 各授業科目の授業期間等について、一層多様性・自由度を高める措置があるとよい。海外における短期留学や海外インターンシップ等を増加させ、全体として留学体験を持つ学生を格段に増加させるためには、時間割や授業期間上の組織的対応が必要(ごく一部の学生に支障が出なければよい、という制度設計ではなく)。

(キャップ制における再履修科目の取扱いについて)
○ 各大学等が履修単位数の上限を設定する際には、上限設定の中に再履修科目を含めなくても良いことを明確にしていただきたい。

(図書館機能の充実)
○ 学生の自学自習に必要な知識・情報を収集・提供するとともに、快適な学修空間を備え、学修サポート機能を併せ持った大学図書館を充実させることが極めて重要である。欧米と比べ日本の大学図書館はあまりにも貧弱であり、この状態で学生に主体的学修を求めるのは酷。

(SNSツールの活用)
● 大学教育の問題点は実践的でないこと。
 具体の改善案は、学生のアイデアを起業につなぐ仕組みを作るために、大学内にネットワークインフラというSNSツールを整備することである。
 若い日本人の能力を開放すれば、新技術創生、雇用創出等、日本人の若者に希望を示すことができ、日本の雰囲気を改善できるのではないかと考える。
 日本文化の最大の問題は、万人が認める価値観が小さく、議論ができないこと。
 学生の大部分は2chやtwitterなどのSNSツールによって、自分の学修を補助し、自分のコミュニケーション不足を補完している。この点に着目すると、大学内でSNSツールを採用することは議論を促したり、学生交流の良き助けとなるのではないか。
 ロールモデルを大きく世に示すことも必要で、それにはマスメディアとの連携も必要。

(学生の詳細な実態調査を)
○ 授業料の支払いや生活費を賄うためにアルバイトをせざるをえない学生も多く、授業への出席や学修時間に影響がある。学生アルバイトに関する調査を行い、学生の実態を詳しく把握した上で、諸施策の検討をすることが必要。

(新しい学修方法の効果の検証)
○ アクティブラーニングや主体的学修というものが従来までの教育・学修方法に比べて本当に効果的なものであるのかについての検証を欠いている。個人的な経験や思い込みで立案せず、evidence-basedに考えていくべき。

(大学院教育改革こそ緊急の課題)
○ 先進国における大学教育では、人材育成として質の高い大学院の存在が極めて重要な役割を果たしている。特に、理工学系においては大学院教育の質が科学技術の将来を左右している。
 大学院改革を早急に行うべき。大学生以上に大学院生は勉強していない。
 (1) 大学院入試
 透明度は極めて低いのが実情。大幅な定員割れを防ぐため、受験者のほとんどを合格としている。学部教育における学力保証を確認する仕組み作りを検討し提言してほしい。
 (2) 大学院教育
 極めて狭い分野の学修を強いられていることが問題。修士論文至上主義になっている。これではグローバル化した技術社会で活躍する基礎学力が身につく訳がない。
 博士課程は修得単位数が、欧米と比べると明らかに少ない。博士課程の学生が鍛えられるような仕組みを検討してもらいたい。
 修士・博士論文審査は、大半は指導教員が主査となっており、客観的な審査は行われない。
 客観性のある審査制度としない限り人材の質保証は不可能である。

(大学院接続を重視した改革が必要)
○ 学部教育単独の改革は片手落ちである。今回の答申では学修時間の保証のような提言であるが、次元が低い。大学の教育水準は広いが、国家として重要なのは、トップレベルが国際的に通用することであり、したがって、大学院接続を重視した改革こそ急務である。大学院教育こそ国際競争にかかわる人材養成の要である。

● 自分が専門としたい分野では、勉強すればするほど、わからないことが増えて行くような勉強の仕方が不可欠である。また、理工系では、学部教育で完結するのではなく、大学院での研究経験も含めた動機付けができるように考える必要がある。忙しすぎるカリキュラムは、学生に考える時間を与えないことから、好ましくない。

○ 多くの大学院生は学部から接続した進学者であり、大学院の授業も学部時代と同じ大学教員、学生となる。また、研究テーマも学部時代と同じ内容であり、視野が狭くなる。学生と大学教員がなれ合いで、緊張感がない授業・研究指導になりがちである。大学教員は研究業績作りのために教育不熱心となり、それが故に学生の質が上がらず、研究論文も出せないという悪循環になっている。実態調査をし、諸外国の大学院教育との比較などもし問題点を明らかにしてもらいたい。

(就職活動の早期化・長期化の改善)
○ 現在の学生の「学修時間の確保」を阻害する大きな外的要因として、就職活動の早期化・長期化がある。企業側の人材確保と大学におけるキャリア教育として、スキルアップ・キャリアップのために膨大な時間が費やされていることも改善すべき。

○ 学修時間が一番確保されるべき3・4年次(あるいは大学院2年次)の学生が、専門教育を集約化していく最も大切な時期に就職活動が行われており、就職活動の時期の抜本的な見直しをなくして、大学の質保証及び学生の学修時間確保の根本的な問題解決にはならない。日本の企業全体が遵守するルールの設定も必要。

● 企業側の若者の受け入れについて再考が必要。採用については、
 (1) 通年採用を徹底する
 (2) 特に大学生については採用試験を4年生の後半以降とする
 (3) 企業は採用を人物本位とし、社会人(離職者、高卒)も積極的に採用する
 この様な事が実施されることで、社会において大学の学修の意味(何故学ぶか)が理解され、広く社会人にも門戸を開くことにより、社会人学生の学びも増えてくる。

(授業で討論した結果について)
○ 「審議まとめ」について、授業内で討論した結果、次のような見解が挙げられた。
 ・抽選等による受講者数の制限が学修意欲を低下させる。
 ・企業の求める要素をもっと講義に積極的に取り入れていくべき。
 ・授業外の課題を増やすべき。
 ・履修科目数が多い。
 ・目標をどうもたせるかが重要。
 ・授業とキャリア教育の継続、インターンシップ義務化の検討。
 ・高校教育の在り方の再検討。
 ・シラバスの取り扱いについて必修科目は参照していない。
 ・授業評価システムの確立。
 ・「K-16」のような学習の系統化。
 ・系統性のある教材づくりや教材活用が大切。
 ・学修量を増やすことが質向上に繋がるのか疑問。
 ・授業時間90分は長い。
 ・「大学ポートレート(仮称)」の組織的な位置づけと効果に疑問。 

 

【教学マネジメント】

(学長と教授会の関係性の整理・見直し)
○ 学長のリーダーシップを強め、トップダウンで教学改革を実行に移す場合、「教授会の自治」との衝突が予想され、教授会との関係をどのように調整していくか、制度や仕組みの見直しが必要。

● 大学教員が高齢化しており、教授研究以外のマネジメントを含む雑事をこなす力量が昔に比べて組織的に低下している。雑事とよばれる業務が、急速に高度化し、また、専攻分野の教育研究の内容も高度化が進んでいる。
 今後の大学経営は、一層難しくなる状況であり、大学運営については、教授会が関与する必要がないことを法令や通達などで明確に整理することが必要。

(組織の主体的な点検、改善活動の促進)
○ 学生の主体的な学修を可能にするためには、大学という組織体の主体的な点検、改善活動を促進することが必要。そのためにも、教育目標を達成するための具体的な方法論の明示義務化、学修成果の評価指標、学長などの支援機能充実、資源配分の際の支援・奨励制度などの方策が講じられることが必要。

(事務職員の活用)
○ 大学教員の使命は教育と研究なのだから、極力、その関係の委員会だけに限定し、教育と研究に精力を注ぐべき。事務職員に予算・権限、責任を持たせて大学運営を任せるべき。大学教員が大学のすべてを背負って運営するのは時代遅れ。

○ 教学マネジメントには、大学教員だけでなく事務職員のマネジメント力も活用する必要。そのためには、現場の努力だけではなく、法令の改正を要望。
 特に、学校教育法については以下の改正を検討していただきたい。
 (1) 大学における事務職員特有の職務についての説明を加える。
 (2) 教授会について、事務職員が加わることが可能であることを明示。

(マネジメントの力量を持った専門人材の育成)
○ 大学のガバナンス、教学マネジメントを担える力量を持った専門人材の育成に国を挙げて取り組むべき。
 現在の学長や学部長等の教学マネジメントにおける管理職は、研究者であり教員であり、管理運営のプロになることを志して大学に奉職したわけではない。
 大学教員には何よりも研究業績が求められ、最優先されるにも関わらず、このような管理運営の負担は、本人、大学、国のいずれにとっても人的・知的資源の浪費。
 法的にも裏付けられた権限を持ち、大学の管理運営を専門に担う職種・人材層を制度的に作り出していくことが必要。
 また、そのような職種を志望する優秀な人材を広くリクルートしてくる施策も講じるべき。
 単なる「民間経験者」というだけでは、複雑な大学内部の運営は到底担うことができない。

(大学教員の流動化)
○ 大学教員の視野をより広げることが、研究成果を上げる上でも、教育や社会貢献のレベルを高める上でも役立つので、5~10年に一度は、異なる大学に異動するような制度を導入するのが良い。

(科目相互の有機的連関は困難)
○ 学科及び学部の科目相互の有機的連関の実現可能性は極めて低い。多くの大学で、カリキュラムの相次ぐ見直しの中、つぎはぎだらけの科目構成になっている。多くの場合、トップダウンでなされた学部・学科の改組などの影響を直接受けた結果である。
 仮に連関性を持ったカリキュラムができたとしても、履修においてその連関性が保たれるようにするには、必修化の度合いを高めることになる。

(単位認定を厳格に行う大学運営)
○ 「勉強しない大学生」であっても単位を与える大学教員、進学を容認する学科運営、卒業認定をする大学運営に問題がある。
 大学教員は研究成果を出すことが最も重要であり、教育は片手間で良いという考えが浸透している。単位認定を厳格に行うと、留年生が多数出るという問題が生じるため、どこの学科でも特別の配慮をしているのが実情。留年生が出ることは、文部科学省からの運営費交付金の削減につながり、また、大学の評判が悪くなるなど、学科や大学側から圧力がかかるため正直な単位認定はできない。このような運営を大学教員組織が行っている状況では大学教育の質保証はできない。
 米国の大学のように、入試は容易だが単位認定が厳格であり卒業は難しく、留年するのは当たり前のような運営にする時期に来ている。

(大学教員の意識改革)
○ 大学教員の意識の低さ、特に、危機感を全く持ち合わせていない大学教員がいることが問題。
 学修時間を確保するために、大学教員は学生に指示すべきでないと誤解している、または、言い訳している大学教員の意識改革が必要。

(教員の合意形成が重要)
● 大学教員に意識改革を求め、統一的な学位プログラムの中で与えられた役割を果たす等、「組織的教育という名のバス」に乗るように求めている。何か「標準的」な科目が存在して、それを教員の誰もが理解することが改革の基本認識とされている。しかし、小中高と異なる大学の教育水準では、能動的学修の発露を目指して、批判的精神を涵養することがきわめて重要であることから、それが保証されない学位プログラムが教員の合意形成なく一方的に作成されるとすれば、これは自由な発想を貴ぶ学問の府には馴染まない。

 

【大学教員の教育力向上】

(大学教員にマネージャ教育を)
○ 学生に主体性を持たせるには、感動を与え、自らできるようになりたいと思わせること。そのためには、大学教員の側にある種カリスマのようなものが必要。学生の身近な目標になり、手本を示しつつ、その先に進んでいきたいという学生の欲を引き出すテクニックが必要。
 准教授以上の大学教員も、部下や学生を育てるために、マネージャの教育(メンタリングとコーチング)を一通り受けるのはけっして無駄ではない。

(教育研修事業の充実、大学教員にも教員免許を)
○ 能動的な授業を中心とした教育が保証されるには、大学教員の能力とインセンティブを高めることが必須。
 「能動的な授業」を行う能力など、ほとんどの大学教員は訓練を受けていない。
 各大学のFDは、年1回の講演会のようなアリバイ作りが実態。大多数の大学教員も、いやいや付き合わされている。授業アンケートも、PDCAサイクルのCとAは各大学教員に任されている。
 原因は、依然として大学教員の評価が研究重視で行われているため。文部科学省の政策にしても研究重視と教育重視のバランスに関する全体的な整合性が取れていない。科学研究費補助金の2割でも次代を担う若者の教育の向上に振り向けるほうが日本の将来にとって有効。
 教員研修のあり方・方法・内容等に関する研究開発を行うとともに合宿形式で教員研修を実施するなど、教員研修事業を実施するセンターをまとまった地域ごとに設置してはどうか。

● 大学教員の教育力を向上させることが必須。大学教員のみが教育の基本を学ぶことなく教壇に立つことが伝統的に許されている点を見直さなければならい。
 予習や復習のさせ方、課題の与え方を学ばせるなど、「持続可能な方法」による教員研修の必須化が必要。

○ 大学に期待されていることは、職業生活や経済環境に直結する教育であり、学習の系統化。「K-16」を実現していく必要がある。
 学生の学修経験を尊重し、学生の能力、日常の生活経験などを基盤として、カリキュラムを構成するべき。 そのためには、大学教員の質の向上が不可欠。例えば、非常勤講師も含め大学教員に対しても一定期間ごとの研修の導入、教員免許の有無を大学教員採用の採用基準とすることがあげられる。

● 大学教員の基盤は、その教員が教え育った教育観であり、意識改革で大学教育の課題を解決していくことにも限界がある。自律的に大学教員の自己改革を促すにも、どこまでできるかは疑問。
 高等学校以下の教員に義務付けている、教育職員免許のようなものが大学教員にも必要ではないか。
 組織的に大学教員の意識改革を取り入れるのであれば、ファカルティディベロッパーという改革業務を専門に担う人材を養成し、全国の大学に採用することを義務付けて、各大学がファカルティディベロッパーによる大学教員の意識改革を全国的に促すことを行えば、多少の改善効果があるのではないか。

(大学教員の教育貢献を正当に評価すべき)
○ 大学教員の教育貢献を正当に評価することが不可欠。
 大学教員の採用・昇格は、研究業績によってほとんど決まってしまうので教育に注力しても報われない。
 ティーチング・ポートフォリオ等を用いて教育貢献を可視化し、大学教員間で比較することで教育貢献を評価できる。
 国立大学の大学教員人事は公募が原則だが、公募の際にエビデンスを含むティーチング・ポートフォリオの提出を求めることにより、教育能力も考慮した人事が可能。また、毎年行われている教員評価の際にも同様のチェックを行うことで正当な評価が行える。

(学生の授業評価は必要。教育と研究の役割分担を)
○ 大学教員の教育力はかなりのばらつきがあるのが実態。大学教員は研究者であり教育者でもあるが、研究は評価されても授業はあまり評価されない。学生による授業評価は必要。
 更に、将来的には大学教員を研究者と教育者に分けた方がよい。思考力や表現力を育成するならなおさら。研究の傍らやれるほど教育は甘くはない。

(学生参加型FD)
●「学生参画型FD」が既に一定の有効性を発揮しつつある、という主旨のことも明示的に盛り込んだ方がよい。

 

【高大の円滑な接続】

(初等中等教育との連携)
○ 大学構内に小中高一貫校を置き、小中高との連携を強化してはどうか。

○ 学修時間が少ないことが問題視されているが、質を伴った学修時間を増加すれば好転する確証がどこにあるのか。2003年PISA調査にて世界トップの成績を収めたフィンランドが、年間授業日数、家庭での学修時間ともに日本を下回っていてもトップとなり得た理由の一つがテストや順位などという方法で勉強を強制しないため。グループ学習、少人数学習、個別指導が多く、生徒の自主性や協調性を重視。生徒たちが自ら教え合い、話し合うことで知識が確かなものになる。学習する内容も生徒だけで決めることもある。テストのために暗記をする必要もないので応用力もつくのである。日本のように受験や成績のために、徹夜で暗記などという考えはない。

○ 高校卒業程度試験を設けるなど、大学教育の質の保証を考える前に大学入学時点での学生の学力の保証を考える必要がある。高校までの学習のつけを大学に押し付けるべきではない。

○ 「大学における主体的な学び」は「義務教育及び高校教育を通じて知識・技能の着実な習得やそれらを活用するための思考力等、学修意欲の基盤として形成されてこそ成立する」ものであり、大学入学前の初等・中等教育段階での学びの改善は重要な課題。

○ 高校教育における学びの質の転換の必要性を、もっと強調していただきたい。
 一部の高校や府県で探究的な教育課程の導入が始まっているが、その成果の検証結果を明示し、高等教育にとっての意義を加筆されたい。

○ 初等中等教育・高等教育がバラバラに動いてきている現状を改めない限り、真の解決にはならない。そのための方策として、大学教員と高校以下の教員が互いの職場を行き来するような真摯な取組を国が主導することについての議論が必要。

○ 「初等・中等教育において学生が12年間受けてきた教育課程の内容・質についての評価分析」と「教育を受ける主体(学生)の質の一定程度の保証」を抜きにして学士課程の質を高めようとする論は机上の空論。
 入学試験においてもセンター試験が学生の質を試すシステムになっているかの検証も必要。
 さらに初等・中等教育での「ゆとり教育」や「総合学習」は、考える力や自主学習を育んできたか、その結果の検証がオープンに行われていない。
 日本の教育システム全体を考えた上で、高等教育・学士課程教育のあるべき姿を提言すべき。

○ 小学校から高校までの12年間で、受験インセンティブ(学習=入試のためのもの)に価値観をおいてしまい、受験インセンティブでしか学習意欲を持たせないような傾向になっている。
 受験インセンティブでしか勉強しない若者を作り上げてしまっている現行教育制度を変えていくことが必要。高校生に学習意欲をもたせる高校教育改革も必要。

● 学士課程教育について本格的に質的な転換を求めるのであれば、大学だけでなく、小中高校、および企業がそれぞれこの問題を真剣に検討し、社会全体も大きく変貌することが必須。基本的に学修方法は受動的で、最小限の努力で効率よく結果(成績)が得られることを目指す習慣が身についた状況で大学に進学することを考えると、大学での対処には限界。
 覚えるだけの単純記憶型の学修ではなく、「なぜ」と問いかけ、自ら考える複雑記憶型の学修は、小学校高学年の頃の教育から始めるべき。
 間違えてはならないのは、優れた教育をすれば、だれでもその能力が発揮されるという訳ではないこと。目標は、能力がありながら、それが埋もれている状況を改善することであって、能力が備わっていない学生についてまでも教育することには限界がある。国全体としては、そのような限定的な能力を持つ学生も、それなりに受け入れることが必要。

● 高校教育の現場では理解することは重要視されていない。正しいか正しくないのか答合わせが中心であり、知識が体系的に組み上がっているわけではなく、使える知識にはなっていない。
 センター試験も、結果的にその形で出題され、知識を使う形になっていない。
 対策として、以下の様な内容を大学入学前に整えることが考えられる。
 (1) 「答のない問題を解く」力が付くことを中学生の頃から経験させ、それを評価する指標を導入する。その重要性を産業界からも伝え、会社で評価されることを伝える。
 (2) 色々な考えを人に伝え、また、人から色々な考えを聞き、様々な角度から物事を理解して議論することを早くから体験をさせる。
 (3) 試験で課さない実験や体験を小さい頃から教育に取り入れ、評価指標を導入する。

(教育制度の根本的立て直し)
○ 多くが就職する専門高校に対する企業からの評価も低い。それは、学校での教育が社会の要望する教育とずれているから。教科の中で、実社会の問題を取り上げ教科の枠を超えた教育が必要。
 答えの決まっていない問題に対し自ら考え答えを出す力を育む教育が初等教育から必要。
 小学校ではある程度成果を上げている総合学習も、中学・高校となるといまいち。その一番の原因は入試。子どもは受験のために勉強し受験が終われば学習意欲はなくなる。
 大学だけの改革や教育課程の変更などでは基本的には何も変わらない。初等・中等教育の30人以下学級の実現と入試制度改革、教員養成課程と教員免許交付制度、及び秋入学への移行も含め教育の大改革を望む。

(学力低下の原因の徹底した調査を)
● 最近の大学卒業生の学力が低いのは、大学教育の責任かあるいは大学入学以前の問題に起因するのか、徹底的な調査研究が必要である。

(入試の見直し)
○ 高校教育と大学教育の接点となる大学入試をどのように変えていくかがポイント。
 試験内容はいまだに「覚える」ことが重視され、「考える」ことは軽視されたまま。

○ どんなに大学が改革しようとしても、高校入試や大学入試が現行のような制度を続ける限り学びの質は変わらない。大学進学者を抱える進学校は、入試問題対策に力を入れ授業時間は増え続け家庭学習時間は減り続ける。試験訓練された子どもたちが、大学に入って急に主体的に学べる訳がない。

○ 高校段階までの入試・受験のための勉強、点数学力への偏重から転換をはかる必要。大学入試制度の見直しも必要。
 また、これまでの学習環境との違いから、主体的な学びへの取組ができずにいる学生に対する支援の充実が必要。

● 大学教育の質的な転換のためには、教員の意識改革のほかにも、学生の意識も同時に変えていくことが必要。そのためには、「入試の変容」も必要。
 学生側の「なぜ学ぶか」を考えさせるキャリア教育を浸透させることで、(入試にでるのであれば考え続ける)はじめて学生は大学の授業に主体的にコミットできるようになる。

○ 個別入試の問題は、当たり外れの大きなギャンブル性の大きな試験。
 さらに問題は個別入試の問題作成は大学教員に負担が大きいこと、出題ミスや採点ミスが起きるために教職員への負担がとても大きい。費用、時間、管理コスト増にも繋がっている。
 一部の難関校を除き、個別入試は実質的な意義を見いだすことは困難。入試結果の得点と大学4年間の成績との相関関係を分析した結果は無相関である。
 入試結果の実態(センター試験と個別入試との相関)を明らかにし、個別入試の意義をきちんとすべき。
 現在の入試制度の矛盾を改善し、教職員が払っていた個別入試への精力を教育研究に振り向けるようにしてもらいたい。

○ 現行のセンター試験を入試資格試験とし、ある基準点以上の生徒はとりあえず入学させて、卒業を難しくする。また、原則すべての学部学科で数学、現代文、英語、理科2科目、社会2科目の受験を課すようにする。
 もしくは、フランスのバカロレアのように、知識を組み合わせて自分の意見を論理的に表現する試験を導入して、一定以上の学力がある者を大学に入学させるようにする。

 

【国への要望】

(大学教育への公共投資こそが有効な方策)
○ 1990年代以降、大学設置基準の大綱化とその結果生じた教養教育の崩壊、大学院重点化、国立大学の法人化、少子化による全入化傾向や学力低下など大学はその根底から揺るがされている。
 大学が直面する今日的困難について様々な立場からから議論されているが、「大学とは何か」という大学概念自体の再定義が置き去りにされている。高等教育が未来の社会でいかなる公共的価値を担いうるかという根本の問いが必要である。
 大学のビジネス化を歓迎する動きが顕著であるが、はたしてそれが、大学の理念にふさわしい改革なのか。市場の需要と供給にまかせておけば、教育の内容が効率的に編成されるわけではない。大学のワンパワー改革を検討するためには、学問や文化芸術などの経済的価値の還元しにくい分野に対しても考慮が必要である。大学の理念を掘り起こし、その理念を支えるためには資源論からの改革支援がなければならない。
 近年、大学の義務と努力を促す提案が増えている。「大学の評価」が義務化され、「キャリア支援」の導入が義務化され、「情報の公開」が義務化された。今回「質の保証」が義務化されようとしている。このように政府の議論の中心は大学の経営努力に移っている。しかし、日本の大学問題の根幹にあるのは、大学に投入される資源が貧困だということである。この資源のあり方を変更するためには、大学人の努力だけではどうにもならない。
 大学教育の「質の低下」の主因は学生の「学力低下」であるが、新入学生の学力低下は大学の責任ではない。「ゆとり教育」が行われたこの30年間に子どもたちを取り巻く社会構造が急速に変容し、学力や学習意欲に影響した。
 「ゆとり教育路線」の学習指導要領は1977年に告示され、さらに1998年の改訂では教育内容の厳選選択教科の増大、年間授業数のさらなる削減と学校週5日制の導入や総合的な学習の新設が盛り込まれた。しかし、一連の教育改革は、調査をして問題点を明らかにしたうえで実施したものではない。国全体で教授法についての考え方を一挙に変更することは、失敗した場合に、そのリスクがあまりにも大きい。とりわけ、改革が目指す改善の方法が明確ではなかったり、経験と専門性を有する大学教員でなければ十分な成果が挙げられないような教授法においては、失敗の可能性が高まる。学習指導要領の理念と学校現場や社会の実態とのかい離や社会変化への対応を欠いた教育は、次世代を担う子どもたちを最大の被害者に仕立ててきた。
 また、学習時間の調査から、ゆとり教育が生徒の関心興味に基づき、家庭や社会における自由な勉強や読書、経験を促進するねらいであったこととは裏腹に、生徒が安易な娯楽に走ったという結果がうかがわれる。不況の長期化、新自由主義的政策の拡大のもと、「家庭の経済格差、教育格差の増大」によって、下層の「文化資本」の不足が子どもたちのさまざまな文化的体験を貧弱にし、将来の目標や夢を狭め、ひいては学習意欲を削いでいると考えられる。
 このような状況の中、選抜の厳しい大学入学試験が、質を保証する装置としてそれなりに機能してきたが、大学全入の時代では入口の学力も担保できない。入学の選抜基準を強化し、成績評価を厳格にしたくてもできない現状が日本の大学システムである。私立大学は学生の授業料によって経営されており、大学経営と質保証の矛盾に陥っているのが現状である。
 経済理論的には経営努力の競争が教育サービスの質を向上させると捉えられるが、教育サービスの質は一般の財やサービスとは違って評価の尺度が明確ではなく、経済学の競争モデルが適切に機能しない。質の確保よりも量の確保が優先されるのが現実の大学システムである。大学からすれば、入学試験で学生を選抜することよりも、確保することが深刻な経営問題となり、どのような学生でも入学させることが合理的な選択になる。そのような学生の指導は大学教員の個人的な努力で対処することを余儀なくされ、そして、経営的判断から本来なら認められない単位の認定が強要され、卒業させることを強要される事態が現実び起こっている。
 「低い学力」の学生がそれ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、日本社会にどのような影響を与えるのかを考える必要がある。企業内教育の投資量は減少し、企業の人材育成能力が衰退している。企業が職業人の教育訓練投資を少なくすれば、日本の労働力の質は低下し国際競争力を失う。企業が人材を囲いこむ時代は終わりを迎えている。
 大学教育への公共投資こそが、中長期的に見た場合最も経済効率的であるだけでなく、人生のさまざまな段階において学修と仕事のやり直しをいつでも可能にする、最も有効な方策であると考える。

(大学本来の役割を果たせる環境整備)
○ 大学の目的は、学問により真理や正義を追及すること。産業界や地域社会の要請により大学教育を追随させるのではなく、そうした実学的分野は専門学校などで行うとして、大学に本来の学問的役割を十全に果たすことができる環境を整えるべき。

● 大学教員は基本的に研究者で、研究の立場から内容を吟味し、教え方を工夫しながら教育を進める。そのためには専門的な立場から教育内容のたゆまぬ吟味が大切。しかし、社会で求められている多様な能力は、大学教員が考えている能力とは必ずしも一致しない。
 今の大学は雑務が多すぎて教育のために割く時間が足りない。また、研究に費やす時間が大幅に減り、大学本来の使命から逸脱しており、状況は深刻。
 近年の大学教員数を減らしつつある状況からすれば、雑務を大幅に減らさなければ、教育の質を維持するのは益々難しくなってる。大学教員のステータスは下がる一方で、給与も大幅に下がり、若い優秀な人材は民間に流れて、大学の人材は不足傾向にある。百年の計として大学教育を位置付けるのであれば、大学教員に対する待遇改善と職場環境の整備は必要。

● 教員に本来の能力を発揮していただくため、規制緩和が必要。予算の執行、報告、監査をもっと簡単にする。優れた教育研究者が教育・研究ではなく、事務処理で四苦八苦している。

○ 「本当に答えのない問題に取り組む」場は(卒業)研究である。研究は、世界で唯一の未踏の問題に取り組むチャンスであり、大学が卒業研究を卒業要件としてきた歴史の意味はそこにある。
 今回の提案によって授業科目が増大し、卒業研究の期間を圧迫するようなことがあれば、大学が本来持っていた「答えのない問題に取り組む」最大のチャンスを潰すことになりかねない。
 大学生が主体的に教科に取り組めない理由は、「なぜその教科が必要なのか」が分からないからでそれが分かるのは、研究を始めてからである。ひとつの方法としては、学部1年生の段階で一度研究室に配属させ、「研究」の空気を肌で体験し、その後「教育」に帰す、というのが有効。
 大学教員が時間的余裕を持って研究にあたり、学生がその背中を見ることができるような環境の整備をしてほしい。研究こそ学生が生き生きと学べ、個として独立できるチャンスである。

● 国際的にみて見劣りする低水準の高等教育予算では、学修時間の実質化のための措置や工夫を施こそうとしても実現するのに十分な体制が担保できているといえない。「国際的な信頼の源泉」と位置付けるのであれば、高等教育の基盤的条件整備については、政府として別途抜本的な対策を行うことが喫緊の課題。

(学生の経済的負担の軽減)
○ 日本においては、高等教育は個人に帰属する利益が大きいため、教育を受ける個人が負担を負うべきという受益者負担論が跋扈していたため、公費が抑制されてきたが、高等教育の受益者は、教育を受ける個人のみではなく、その者が活躍する将来の社会も、高等教育の受益者である。
 教育を、国の将来のための最重要分野と位置づけ、その負担を社会全体で負うことが必要。

○ 個人が人生の様々な時期に大学で学ぶことを可能にするには、学費の問題が最大と言っても過言ではない。国公立と比較して圧倒的に国からの補助金が少ない私立大学においては、さらに大きな困難がある。学費が高い最大の理由は国からの補助金額の少なさである。

○ 現在の教育費にかかる負担は、学生・保護者にとって非常に重く、仕送り額も年々減少傾向にある中で、学生は生活費を稼ぐためにアルバイトを余儀なくされており、「大学での学修」に専念できない厳しい環境に置かれている。何よりも学生・保護者の教育費負担軽減や、経済的支援(給付制奨学金の創設など)を充実させることが不可欠。
 2012年度の文部科学省予算では、私立大学への予算措置は50億円であるのに対し、国立大学には252億円の予算措置がされており、国立大学と私立大学の間には非常に大きな格差がある。
 大学生の圧倒的多数(全学生数の75%以上)を占める私立大学生の「学修時間を確保」するためにも、安心して学ぶことができる物理的条件を整えることが喫緊の課題。

(給費制奨学金の導入)
○ 学生が学ぶ時間を確保できないのは、教育カリキュラムの問題以上に、社会情勢によるところが大きい。
 (1) 経済状況の悪化に伴い多くの時間が学費を稼ぐためのアルバイトにとられている。
 (2) 就職活動が苛烈を極め、就職活動と内定後の「通信学修」に多くの時間がとられている。
 (3) 就業時間(サービス残業)の長さから社会人学生の実質学修時間が確保できない。
 この三点の問題のため、特に修士課程学生などは時間をかけて研究課題を考え問題解決に当たれる時間は皆無に等しい。講義出席の義務化がこれに拍車をかけ、自ら講義の要・不要を判断する能力すら失っている。この状況の解決のためには、
 (1) 現在のローン方式の奨学金を改め、もらいきりの奨学金とする(併せて私学助成金を取りやめ、奨学金提供を通じて優秀学生を確保した国公私立大学を支える体制とする)。
 (2) 就職時の「学位条件」の提示を「見込み」により見なすこと、および、卒業条件の就業時賃金への反映を法的に禁じ、就業と卒業を切り離す。
 (3) 高等教育を受ける権利を国民の基本的人権の一つとし、雇用者に長時間勤務をさせることで、教育機会を奪ってはならないこととする。の三点を中心とした制度改革が必要。

○ 3%の金利である有利子型奨学金は事実上「教育ローン」であり、教育を受ける権利の実現や奨学の措置としては不十分。無利子型・給付型の奨学金を拡大して、子どもの権利条約や国際人権規約の遵守および国内での実現をすることが必要。

(私学助成の充実)
○ 大学進学率が5割を超える中、学士課程教育の質を保証するためにも、国立・私立を問わず、国から大学に対する補助金が毎年削られている状況についてよく検討することが必要。
 とりわけ私立大学の大学数は全体の76%を超え、学生数は全体の73%を超えているにも関わらず国立大学に対する予算に比べて私立大学に対する助成金の低さは差別的。
 私立大学に対する助成金を抜本的に増額し、早急に経常費の2分の1まで助成金を増額すべき。

(私学助成・国立大学運営費交付金の廃止と高大接続テストに連動した教育バウチャーの導入)
○ 現行の学生数等を基準とした私学助成や運営費交付金だと、基礎学力を問うことなく、学生数を確保することに奔走せざるを得ず、退学させないよう成績評価を甘くせざるを得ない。
 そのため、私学助成・国立大学運営費交付金の廃止と、入口段階での高大接続テストに連動した教育バウチャーを提案する。
 義務教育修了程度の学力すらおぼつかない者の「潜在能力」を見出して、大学で鍛え上げて社会に送り出すということは、理念としては美しいが、本当に学生に学修成果が身についているか、また、学修成果を身につけさせる教育がなされているか、検証することは極めて難しい。それよりは、入口段階で規制する方がよほど低コストである。

(大学院重点化大学の学部は廃止もしくは縮小を)
○ 大学院重点化大学における学部の廃止、もしくは大幅削減を提案する。重点化大学は研究大学としての責務が明らかになり、その他の大学は教育大学に軸足を移すことが可能。
 教育大学は教育に熱心な大学教員を求め、一方、研究大学は研究能力の高い教員を求めることになる。学生も、重点化大学の大学院に進学希望するなら一生懸命勉強しなければならない。大学教員も学生も競争化社会に身を置き切磋琢磨する環境を構築できる。

(標準修業年限の見直し)
● 4年で卒業するための単位を取得するには、どうしても日々の生活のゆとりがなくなってしまう。
 やりたいこと(留学、就業体験、旅行)があるなら留年するしかないが、留年というレッテルは悪いイメージしかない。4年制をなくしてしまえば良いのではないか。
 そもそも、各学部、各学科、各分野でやっていることは星の数ほど違う。しかし、共通なのは、4年制であること。大学は4年制であることに、こだわりすぎではないだろうか。
 4年制であることをやめたとき、やる気のある学生の幅が広がるのではないか。

(定員管理の見直し)
○ 定員の130%以上を入学させることを禁じる制約は撤廃した方がよい。大学の使命は学生に付加価値<アウトカムズ>を付け世に出すこと。卒業させる数を定員とし、予算は実員に対して出すのではなく、定員と第三者による教育の質を保証する評価を受けた上で、卒業生数を加味して配分すべき。

(学生数等に見合った大学教員確保)
○ 国立大学と私立大学では、大学教員一人あたりが担当する学生数に2倍以上の開きがある。
 特に、私立大学の教員は学力上の困難を抱える学生など、多様な学生に対応するために授業改善の取組や学修支援の活動を行っている。
 私立大学教員一人当たりの負担を軽減し、より充実した教育環境を整備するための予算措置を講ずるべき。

● 何より重要なことは専任教員数を増やすこと。このような大学教育の基礎的整備の立遅れこそが、現在の学士課程修了者の学力低下の根本原因。教員数が増加し、教員一人当りの負担が減少すれば、教員間の連携はより良く行われる。
 「教学マネジメントやガバナンスを確立する観点」から施策が提起されているが、本末転倒。
 管理体制の金銭的、人員的な増大は教育力の増大とは無関係であり、優先すべきは私大経常費補助を増額し、一教員当たりの学生数が国立大学の2倍以上となっている私大の専任教員を増やすことにほかならない。

○ 非常勤削減や退職教員の不補充により、半期あたりの大学教員の持ちコマ数が8コマをはるかに超えている状況。それに加え、多様な学生への対応(不登校、いじめ、精神的な疾患、学習障害など)が必要となる学生の入学が増えており大変な労働強化となっている。こうした状況の改善なしには、今回のとりまとめ案のようなことは到底できない。

(学生の能力が発揮できる社会環境整備)
○ 就職が上手くいかず、それを苦にして自殺する30歳未満の若者の数が増え続けているような状況下で、個人の能力で「最善解」を導き出すことなど到底できない問題。個々の学生(若者)に対して、「大学での学修」を通じて「最善解の回答を導き出す能力」を身に付けるよう求めるのであれば、そうした能力を存分に発揮することのできる社会環境(労働環境)を整えることが必要。

(競争的環境下での先進的な教育モデル構築の推進と情報共有の場の設定)
○ 「生涯学び続け、主体的に考える力」の育成教育の推進と普及のためには、職業人として持続可能な生涯専門教育を支えるためのキャリア形成教育や、実効的で主体的な自己理解・自己管理のための能力育成教育などの新たな教育支援の推進が重要。
 先進的な取組を実践している教育機関を競争的環境の下で選定し、財政的なインセンティブを付加した教育支援事業を新たに実施するとともに、『GPフォーラム』等の幅広い教育分野間の情報共有の場を設けることが必要。

○ 大学が改革を進めながら機能別分化に対応し、それぞれの強みと特色を発揮していくためには政府によるインセンティブを付与した支援策が欠かせない。

(高度英語教育を受ける機会の提供、留学生への奨学金制度の見直しを)
○ 留学生を呼ぶことは確かに大学の国際化を進めているが、海外留学生がマジョリティになることによる日本人に対する逆差別を懸念。学ぶ意欲のない留学生を奨学金を支払って招くことが、真に他の学生や大学全体の競争力につながるのか疑問。
 国籍や成績で奨学留学生を判別すべき。
 留学生の日本語を学ぶ機会のように、日本人学生向けの高度英語教育の機会も平等にあるべき。

(留学生の受入れと国内就職支援の充実)
● 外国人留学学生の積極的な受け入れと、移民政策を革新し留学生の卒業後国内就職支援を充実すべき。

 

【評価制度の見直し】

(評価制度の簡素・合理化)
○ 認証評価や法人評価には重複する部分が多い。
 大学が評価の準備に多大な労力を取られ、結果的に教育研究活動に従事する時間が減っている。
 各種の評価の評価サイクルを揃えて統合することが必要。機関別評価を行う主査と、学科等を単位とする専門別評価を行う評価者(学科毎に1名)によって評価チームを構成し評価を行うなど、評価の無駄を減らしてはどうか。
 また、専門職大学院の場合、機関別認証評価と専門別認証評価の両方を受けなければならず、大きな負担。機関別認証評価を免除できるような制度の導入を検討すべき。
 技術者教育の分野ではJABEEによる認定審査が普及しており、実質的に専門別認証評価と同等。
 JABEEによる認定を受けた教育プログラムには認証評価や法人評価の一部を免除してはどうか。

(評価結果の積極的公表を)
○ 「国民は大学教育の現状に満足していない」というところから、「学士課程教育の質的転換」という方向は、高い評価を受けた大学に対しても足かせをはめることにつながりかねない。大学は個別に評価を受、個別に改革に取り組むべき。
 例えば「ある尺度で高く評価された大学の名称とその尺度」を文部科学省が公表してはどうか。
 各大学の認証評価の結果(の中で高く評価された部分)をホームページ等で国民に公開するとよい。「大学」という総称で呼んでいるうちは、いつまでも護送船団方式で、国民にとって「ブラックボックス」のまま。結果的に低い評価の大学に改革へのインセンティブが働かない。

(情報公表に支えられた対話型の評価を)
○ 認証評価に関しては、負担の大きさに比較して改革へのフィードバックが少ない。
 大学ポートレートにおいて教育情報の公表を徹底すれば、アクレディテーションの多くの部分が代替され、認証評価では大学改革に資する評価に作業を集中できる。
 また評価は、評価機関と評価される大学との間での継続的な対話を通して、評価される大学に十分に納得感が得られるものとなって、初めて有効に機能する。
 今後は、情報公表に支えられた厳密なアクレディテーションを担保した上で、評価される大学と評価機関とが十分なコミュニケーションをとりながら展開させる評価の在り方が求める。

(専門分野別評価の導入)
○ 大学教育では、学生は何ができるようになったか、何を学修したのかという効果を測定する教育効果(アウトカムズ)が大切。
 現在の大学教育における最大の欠陥は、学科単位の教育に関する外部評価の仕組みが制度としてないことにある。機関別認証評価は、評価対象が学部や専攻科単位であり幅広いため、各専門単位(たとえば学科単位)の教育内容にまで立ち入って評価することは困難。
 工学系においては既に国際的同等性を持ったJABEEが10年以上の実績を持っているので、この種の認証評価もしくは認証審査機構の受審を法的根拠とするよう検討してほしい。専門分野別に評価を行う仕組みを4年制大学ならびに大学院に適用することが重要。

○ 学部だけでなく、専門分野別の認証評価が必要。大学院の教育・研究を聖域としてはならず、この部分の質保証こそ技術立国日本を標榜するならば不可欠。
 そのためにも、専門分野別認証評価を厳格に行い、4年制大学ならびに大学院として世界的な教育・研究水準に至っていない教育機関は退場する制度の確立が急務。4年制大学のレベルに至らない場合は公表すると共に、大学ではなく、専門学校や大学校と名称を変更するように制度をつくるべき。
 専門分野別認証評価を厳格に行うための予算を重点的に配分すべき。これらの予算は、国立大学に配分している運用費交付金や私学助成から拠出するべき。

(授業についての項目別評価の導入)
○ 普段の授業の質を項目別(出席状況、学生の授業を聞く態度、定期試験やレポートの難易度、大学教員の授業に対する熱意、学生に対する教育サポートなど)に評価し、一般に公表する。年度を通して評価が低かった大学(下位10%など)は助成金などをカットする。
 一部の私立大が就職のための専門学校化していることに懸念を覚える。

 

【その他】

(表題の変更)
○ 「予測困難な時代」という認識は、既存の知識・技術や方法では対処できなくなった閉塞感を表現する言葉として、近年、産業界を中心に盛んに流布されている言葉をそのまま転用している印象が強い。将来の指針を国民に示すべき答申の表題としては適切でない。

○ 「予測困難な時代において」を「持続可能な社会の構築に向けて」に置き換えるべき。
 学ぶ意義を明確にして、学生の学びへのモチベーションを引き出すことなしに、学修時間だけ管理しても、教育改革に値しない。
 大学教育は社会的なものであり、「何のために学ぶのか」は、その時代と社会の要請に応えるものでなければならない。東日本大震災を経て、中教審が示した時代認識が「予測が困難な時代」というのでは、中教審の見識が問われる。
 今日の社会に「絶対解」など無いことは言うまでもない。「最善解」も個人で導びけるものではない。利害の異なる当事者が互いの立場を尊重しながら熟議し、共通の利益を見いだし、協働して作っていくものである。そこでの共通利益は、持続可能な社会の構築をおいてほかにない。
 教育を通じてどういう社会を作っていくのかという課題に対して、真剣な議論に基づいた見識を示すべき。それは、「予測困難」といった思考放棄ではないはず。

○ グローバル化社会への対応や国際通用性等の観点から学士課程教育の質を考えるならば説得力があるが、「予測困難な時代」という漠然としたタイトルが登場し非論理的になってしまっている。
 第1章のまとめ「予測が困難な時代と大学の責務」についても、質的転換を求める議論の本筋とは噛み合っていない。
 また、「生涯学び続け、主体的に考える力を育成する」ことが、現在の大学の使命を適切に言い表すものなのか。より適切なタイトルを立案いただきたい。

○ 「予測困難な時代」と題されているが、何をもって予測困難と考えるのか。人類は行き着くところまで行き着いたという意味であるならば、将来への希望が広がるよう例えば「新たな未来を切り開く」といった言葉を用いた方が、社会に対する明るさを提供することになるのではないか。

○ 今の学生(若者)にとって「予測困難な時代」というには、厳しい社会状況。企業における若者の働かせ方や、非正規雇用の増大によるワーキングプアといった労働環境の下で、「大学での修学」を通じて「次代を生き抜く基盤」を身に付けるよう求めることは、あまりに過酷な要請。

● 「予測困難」であれば何をめざして努力を積み重ねればよいかわからないという印象を与え、主体的な努力を促すことへの逆効果になるのではないか。
 さらに「生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」について、まず、「生涯学び続け」がその価値を理念的に謳っているものだとすれば、高等教育だけが担うものではなく、初等、中等も含めた教育課程全体を視野に入れるものであり、また、教育機関だけではなく、社会全体として担うことになるもの。大学だけを対象にした本答申で入っていることに強い違和感を覚える。
 市民社会の多様なニーズに応じて、多様な大学が存在する必要があり、その教育システムも当然多様であることが必要。多様さの重要性を明快に打ち出した上で、さらに改善していく上で大切なことは何かが提示されるべき。

(大学教育の本旨)
○ 産業社会に有益な人材を送りだすという明治以来の大学教育の本旨に立ち返り、グローバル化に対応するための多様な語学教育も含む多様で高度に専門的かつ応用可能な幅広い知識修得を目指すべき。

○ 社会の期待に応える努力をすべての大学が行うべきであるというメッセージであれば、多様であることをしっかり明記した上での答申にしたほうがよい。

○ 大学はまさに多種多様。全国一律の提言は、個々の大学においてはほとんど役に立たない。例えば、授業の規模、大学教員の持ちコマ数、学生の基礎学力、学生の小・中・高校までの学習習慣や学習意欲など、1つの大学内でも学部や学科毎に大きく異なっている場合も多い。これらをひとまとめには論じられない。

● 高等教育機関である大学での教育内容は、4半世紀以上意味のあることが必要。卒業して数年で色あせてしまっては意味がない。このような文脈でいえば、「すぐに役立つ」ような教育は大学で行うべき教育ではない。「学修時間」という一見わかりやすい数値指標を持ち出すことが、真に大学が行うべき教育の改善の議論になぜ繋がるのか、明らかな論理の飛躍がある。

(大学の機能別分化)
● 大学をそのミッションと機能により、研究主体型、教育主体型、職業訓練型の3種に分類し、抜本的な改革を図る具体策を策定すべき。
 (1) 研究主体大学(大学院)
優れた研究者の背中をみて学生が育つスタイル。研究後継者育成と人類への貢献がミッション。この種の大学は、欧米等のグローバルな研究大学と直接競争することで、自ずと淘汰され、進化することを期待。
 (2) 教育主体大学(専門職大学院を含む)
企画職、総合職、起業家など各種ビジネスの中核となる人材育成をミッション。4年間の学部教育に加えて職業分野によっては大学院での1~2年間の修学期間とする。大学教員は、研究学術での業績だけではなく、アカデミア以外の実務経験と実績、教育指導力に重点を置く。
 (3) 職業訓練主体大学
大学卒の資格は維持しつつ、実務的職業スキル訓練を半数以上の単位とする。教学システムは高等専門学校のカリキュラムと指導方法を参考。修学時間の確保を強制する措置が、特に必要。真のインターンシップ導入も必要。
 各分類への各大学の配属は個々にミッションを検討して自主的に決定できるものとするが、制度設計と補助金配分についてはミッションに対応した原則を厳守するべき。

● 高等教育の大衆化を踏まえて、一律に同じ目的の大学としない検討が必要。

(国が期待する人材像の明確化)
○ 教育振興基本計画との関係も含め、今後我が国の在り方と我が国に必要な人材像を国が具体的に提示する必要があるのではないか。
 いくら大学がスピード感をもって改革を進めようとしても、人材育成の成果が見え始めるのは早くて4年後になることを考えると、我が国の10年後の在り方を見据えた議論でなければ、常に周回遅れの議論にならざるを得ず、国民や企業の大学に対する評価は変わり得ない。

(変化に耐えうる大学か厳正な審査を)
○ 「国際化」「単位の実質化」についても盛んに議論と助成金交付とが行われているようだが、こうした取組に注力していた大学が閉学したことについて、文部科学省はどのような見解を持っているのか。あれほど財政がひっ迫していたにもかかわらず、認証評価機関がそのことを十分に予測していなかったのはどうしたわけか。教育機関に「変化」を許すのであれは、まずはそれに耐えるだけの体力を備えているかどうか、厳正に審査していただきたい。

(新たな提言はこれまでの政策の反省の上で行うべき)
○ 新たな提言や政策は、これまでの高等教育政策の反省の上に行うべき。これまでの政策に問題点や不十分な点があれば、まずはそれについて責任を追及することが必要。無責任なまま反省を行わず新奇な策を弄するだけでは、高等教育のような数十年・数百年単位で考えるべき問題に対して、対処法を誤りかねない。

(変化を求める際には十分な審議と実効性の高い方策を)
○ 学校教育、小学学習教育について根拠に乏しい予測を行い、それに対してあれこれと新しい方策を考え、むやみに実行しているように思える。変化をもたらそうとする際には、本当にそれが必要かどうか十分に議論してもらいたい。中教審だけの議論ではなく、教育現場で実際に学び働く人々の実直な意見に耳を傾け、需要と実効性の高い方策を検討してほしい。

○ 審議まとめで用いられているデータは、日本経団連(2004)、CRUMP(2007)となっており、本当に現状認識にマッチしているのか。今回の審議まとめは、それなりにデータは示されているものの、データが存在しないことも含め、特定の偏ったデータをエビデンスとした議論にも見える。
 大学教育の質的向上は、十数年来のテーマであり、それにも関わらずエビデンスとなるデータが少なすぎる。

(大学教育の目標等について)
● 「学士課程教育」の質が何を拠所あるいは物差として考えられているのかが明確ではない。また「予測困難な時代」という漠然とした状況認識や、「答のない問題に最善解を求める」など形容矛盾の抽象的な表現に終始した具体性に乏しい目標が、上記の問題意識に照応するものとして、敢えて掲げられた根拠は薄弱である。「答えのない問題」を未知の問題と読み替えるとしても、それは未知であることから、教育プログラムに組み入れるのは困難である。

(学生の置かれた現実に立脚した具体性のある議論を)
● 今日の日本企業が行っている非人間的な働かせ方(低賃金、非正規雇用、長時間過密労働等)こそが学生・若者達を閉塞的な状況に追い込んでいる最大の原因であり、こうした学生達の置かれた現実に立脚した具体性のある議論が必要。「審議まとめ」は、若者達に対し、「グローバル化」「少子高齢化」「情報化」「労働市場や産業・就業構造の流動化」という日本社会が直面している問題を、一切の批判的・分析的な思考過程を抜きに、現実として受容・適応して「生き抜く」ための「耐性」の涵養を強制するものというほかない。

(議論は尽くされ、実行あるのみ)
○ 結局は「勉強しない学生」という結果であり、今までの答申などが基本的には無視されており実効的でなかったことを意味している。さらに、大学改革実行プランがこのパブリックコメントを募集している間に、何の脈絡もなく出てきている。これらの審議会、委託事業などを含めて多くの税金を使う無駄遣いはいい加減にしていただきたい。
 現在の大学の問題点はほとんどが明白であり、その改革の方法も、わかりきっている。
 文部科学省は、答申内容などに関するポイントを大学に通達しているが、それらが実行されたことの確認はやっていないし、効果があったとの認識と現実は乖離している。
 大学教育のお粗末さが世界的に見た教育レベルの低下になっており、追いつくことも不可能な状況に陥っている。気の毒なのは学生であることを大学人に強く説得するべき。
 議論は尽くしており、大学改革実行プランを着実に、不退転の覚悟でやり抜くこと。

(大学教育の質保証のため学科レベルでの大学間連携を)
○ 複数大学での学科レベルでの連携を推進することが、大学教育の質保証の推進に資する。
 同一大学の異なる学科よりも、別の大学の同一専門学科の方がカリキュラム的にも近いことや、学会活動を通じた教員間の連携も個人レベルで多く存在している。
 専門別質保証の仕組みとして、JABEEに協力して、プログラム認定を行っており、互いに同等性がある。さらに、国際協定を通じて、海外の認定プログラムとも同等性がある。これらの認定プログラム間の連携を政府としても支援できるような制度を整備すればよい。

(学位の国際的質保証について)
○ 今後は海外の大学とのDouble Degreeの授与を含め、学士や修士等の学位の国際的同等性が重要。
 国際的な同等性を確保するための方策として、ワシントン協定やソウル協定の枠組み(JABEEによる認定を得ている教育プログラムに対して、両協定の加盟団体が認定した教育プログラムとの間の同等性を相互に認めようとするもの)を活用するのが良い。

(授業週の解釈)
○ 15週の解釈について、学修時間の増加・確保の前提となる問題であるので、「審議まとめ」に何らかの記述があることが望ましい。最も誤解を生じているのは定期試験の扱いで、15週の授業期間には含んではならず、別途設けることは明確。一方で、単位計算に含んでならないと考えるのは誤解。欧米では15週に祝日休講が含まれる見かけの授業週だが、日本ではそれらを差し引いた実質授業週で計算している。議論の前提として基準を統一する必要がある。

(大学ポートレート)
○ 大学ポートレートについて、単に現場の教育活動を登録し、公開するだけでは様々な要因から制度化・組織化の意義が低減する。
 「大学の特色や強みの表示」について、具体的な方法を早い段階から公表いただきたい。
 また、「グローバルな教育活動を重視する大学に関する情報を海外発信」とあるが、選定基準を早い時期に示していただきたい。

○ 認証評価で求められる情報や、マスコミ等から求められる情報も積極的に収集・公表できる、利便性の高いシステムの整備が必要。

(高専専攻科の更なる改善)
○ 高専教育では、演習時間を多くとり実質的な授業時間の確保を図り、また卒業までの中間時点での学習到達度試験を実施し質の保証を確保している。そして地域社会からの意見を取り入れるために長期インターンシップを実施し、教育の改善及び学生の興味喚起を行っている。このような高専教育の大きな部分を高専専攻科が担っている。大学教育の改革と同時に高専専攻科の更なる改善が必要。高専と地元大学や企業などのステークホルダーとの連携が十分に行われるような施策が必要。

(早期からの高専教育の導入)
○ 少子化、技術断絶、産業界からの高い評価、世代間連携を鑑み、高専の下に中学校を設置したらどうか。早いうちから、技術、人間性などを身に付けることは、多様化時代には必要。

(学校教育制度の見直し)
○ 現在の6・3・3・4(6)の学校教育制度について、旧制の学校制度6.5.3.3(4)制を含めて検討し、改変することが最も重要。
 教養の教育は、家庭、社会、教育機関が協力して、子どもからの発達段階に応じた教育を行うことが大切。現在の高校教育は大学受験の予備校と化しており、大学における一貫教育は無責任体制になっている。

(義務教育の単位化と年齢によらない進級の導入)
○ 義務教育期間に得なければならない知識と技能を定義し、小・中学校でも「単位制」での教育を行うべき。自ら学ぶことと、それを「単位」という形で責任をとること、及び「義務」とされた学習目標を達成できなければ、進級できないという仕組みにする。現在のような「出席」と「シラバス」による教育改革は、結局学生に対して過保護な環境を与えることになり、学ぶ力自身を早期に摘み取る結果になっている。
 学習の義務化と、義務教育の単位化、及び年齢によらない学年進行の導入という大胆な改革を提言の中に入れるべき。

(提出された意見を事務局の責任において整理、取りまとめたもの)

 

お問合せ先

高等教育局高等教育企画課高等教育政策室

-- 登録:平成24年07月 --