資料8 『我が国の高等教育の将来像』について(メモ)

中央教育審議会大学分科会(第39回)
 2004年9月30日 東京大学 矢野 眞和

  • (疑問1)「五つの方向性」というまとめは、グランドデザインなのか、ロードマップなのか、よく分からず、「五つの方向性」に即したコメントは難しい。
  • (疑問2)「将来像の提示と政策誘導」の時代という判断が、適切なのかどうか疑問。報告書の内容からすると、各大学が努力して、特色を出し、機能を分化させ、質を向上させるのが、高等教育の「将来像」であり、その方向に誘導するのが政府の役割だという主張のように思われる。そうだとすると、私が想像していたグランドデザインとはかなり異なっており、適切なコメントが思いつかない。
  • (大賛成)「個々の高等教育機関ばかりでなく、国の高等教育システムないし高等教育政策そのものの総合力が問われることになる」(5頁/9行)というのは大賛成。審議会が問われているのは、「高等教育政策の総合力」だと思う。この問いの意味を私なりに解釈し、その問いに『将来像』が応えているかどうか、という視点から若干の感想を述べる。

1 見えない「社会像」と「高等教育」(1、2に関連して)

 最終的には改定され、ストーリー性のある筋が立てられると思われるので、遂次の意見は省略。ただ、「社会と高等教育」の関連変数を明確にしないと社会と高等教育との双方向の関係は見えてこないように思う。

2 限りなく透明な「ユニバーサル・アクセス」(と呼んでいるもの)の構図([3‐1][3‐2])

 「専門学校を含めた進学率は、―――、03年度に72.9%に達している。この意味では、我が国の高等教育は、―――、ユニバーサル段階にすでに突入しており、これにふさわしいものへと変革が迫られている」(11頁/13行)。
 高等教育の全体的規模を、専門学校を含めて、ユニバーサル段階だと言及した意味は非常に重いと思った。73%という「ユニバーサル・アクセス」の高等教育像を描くかどうかが、『将来像』のもっとも重要な鍵であり、シナリオの分岐点だと私には読める。
 しかしながら、その構図は、明確ではなく(必ずしもそのように断言しているわけではないようでもあり)、透明人間のように、ユニバーサル・アクセスの輪郭が定かではない。どうにでも解釈できるような透明像にユニバーサル・アクセスという言葉が使われているようで、言及した意味の「重さ」について自覚はないようである(審議の概要<要旨>には、専門学校は登場しない。3割の大学がすでに定員割れになっているにもかかわらず大学の全入学を再計算し、専門学校の進学動向を分析していない)。
 「18歳人口に対する進学率の指標としての有用性は徐々に減少していく」(7頁/7行)のは確かだが、それに替わる「新しい指標」を提示しないと「将来像の提示」はできない。将来像を提示する一つの方法は、複数のシナリオを「指標」に基づいて描き、その中の一つを選択すること(75%の高等教育像、50%の大学像、縮小均衡の大学像、などは考えられる重要なシナリオだし、大いに検討されてよいはずである)。(専門学校から短大、大学、大学院を照射するとそれぞれの特質と問題点がよく分かる)。
 しかしながら、『将来像』は、「現状の高等教育システム」が、ほぼゼロ成長で、20年間も継続するという暗黙の前提に立っているように思われる(ありえない未来社会像)。
 この暗黙の前提が、専門学校を含めた透明な「ユニバーサル・アクセス」の構図をもたらしている。今後の20年間が透明では困るだろう。

3  「量から質へ」という言葉の陥穽([3‐5][3‐4])

量的には現状維持だが、質の向上が『将来像』だと言っているようである。質向上の「方向性」が、『将来像』の主張だと思われる。「質とアウトプット」が大事であることに異論はないし、質の向上に反対するものはいない。『将来像』による「政策誘導」によって、本当に質が向上するならば、誰もが賛成する。
 それほど私は楽観的になれない。教育システムをデザインするには、第一に、「システムの境界を設定」し、しかる後に、「システムの制度(ルール)を設計」するという手順が必要である。
 システムの「境界設定」を明示する上で欠かせないのは、学生数、教職員数、資金投入、施設投入といった「量とインプット」の変数である。最初に考えなければならないのは、この「量とインプット」による構図(境界設定)である。「政策」は、「資源配分」のことだから、この境界設定が、政策になる。
 境界設定(グランドデザインでもある)を明確にしてから、「制度設計」(インセンティブ・デザインと評価システムのルール)を描くのが思考の道筋。
 「量の時代から質の時代へ」という言葉は適切だが、その転換を図るためには、「量とインプット」の条件整備(境界設定)がなければならない(質を量で支援することが重要)。例えば、現在のマスプロ化した大学において、教員の努力だけに期待して、教育の質が向上するだろうかという疑問など。人とお金の投入なくして、教育の質が向上できる範囲はかなり限定される。

 各大学が特色を出すべきだと強調されているが、ほとんどの大学は、3の幅広い職業人養成と4の総合的教養教育である。そのほとんどの大学が最も重要であり、これらの大学の教育の質を世界最高水準にするのが、日本システムの境界設定問題だと私は考える。

4  無力な財政政策‐教育論と財政論を分離してはいけない([3‐5])

 境界設定の最も重要、かつ有力な変数が、財政であり、教育費の負担問題である。補論にある諸外国の改革動向は、「量と財政インプット」という変数を用いて高等教育の全体像が表現されている。
 ユニバーサル・アクセスのモデル設計が透明になっているのは、ユニバーサル・アクセスの将来像と財政政策との関係が直接的にリンクしていないからである。
 日本の教育界では、「教育論と財政論は区別すべきである」というのが決まり文句だが、この発想は根本的に間違っている。財政論なき教育論は無力である。グランドデザインは、財政という筆で描かなければいけない。
 [3‐1]と[3‐2]に[3‐5]を加えて構成される構図が、グランドデザインの骨子だと思う。それを受けてはじめて、「制度設計」の方向性を示すことができる。

5  基礎的な事柄について:学生と大学の“行動モデル”分析に基づいた政策を

 「進学率の伸び悩み」「リカレントの学習」「知識社会における質の高い労働力」といったことが指摘されている。しかし、その実態と政策との関係は希薄である。学生の行動についての分析、さらには、大学および企業の行動分析が十分に蓄積されていない。
 進学行動の要因分析が重要なのは、それによる予測があたるかどうかではなく、行動の「選択」と「制約条件」の関係を理解するため。その理解によって、制約条件の影響が明らかになり、そこから政策の方向が描かれる。
 「高等教育は万人に開かれたものになり、いつでも自らの選択により学ぶことのできる高等教育の整備=ユニバーサル・アクセスが実現しつつある」(11頁/18行)とは言い切れないだろう。「選択」には様々な「制約条件」があり、機会が万人に開かれているわけではない。だから、「政策」が必要になる。さらに、最近の学歴別労働市場の変化は著しく、経済の動向を分析しておかないと教育の方向性を見誤ると思う。

 学生の行動だけではなく、大学の行動についての理解と分析も重要。最近の大学は、昔と比べて、圧倒的に教育熱心になっている。そのような教育熱心行動は、政府による「政策誘導」の結果ではない(一部にその成果があるが)。それよりも、大学の入口の市場と出口の市場が大きく変わったことによる。B型大学(入学前‐Before‐だけ勉強し、入学した後‐After‐は勉強しない)の時代は終わり、O型大学(入学前も、入学後も勉強しない)が生き残れず、A型大学(入学前には勉強してこなかったが、入学後に勉強する)、およびAB型大学へと変わりつつある。
 こうした大学の努力だけに任せて十分かどうか、政策として支援できること、支援すべきことは、何か。学生や企業の行動選択に委ねておいてよいかどうか、政策として支援できること、すべきことは何か。それらを総合的に考えるのが、「高等教育政策の総合力」だと思う。

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