 |
大学が行政の関与なしにできることは多数あるのではないか。そうすると,行政の関与なしにできることの範囲を明確にする必要がある。また,国の制度の変化を待っていては遅いという感じを受ける。今の大学生は,職業等に対する教育を受けていないために意欲が薄く,「なぜ働くのか」「何をすれば良いのか」が理解できていない大学生が増えている。それを解決するためにできることから始めることが必要である。行政の関与なしに大学ができることには例えば何があるか。
|
 |
私の提案の中でもっとも行政の支援が必要なのは,高校卒業試験や高校の出口評価をどのように行うかである。これについては,高校単位よりも地域,地方単位で考えていくことで実現性が高まるのではないか。その点で行政のサポートは必要であるが,全てを行政に依存しては,かえって達成が困難になると考えられる。大学の個別学力試験等をどのように合理化するかについては,大学入試センターをどのように再生するかに関係してくるのではないか。学士課程教育の卒業試験をどうするかあるいは入学者選抜の大括り化については,大学間の連携(連合)組織が協力しなければ解決は困難ではないか。よって,これらの事項について,各大学が個別の改善提案を出すというよりも,むしろ,今後の新しい学校システム全体をどのようにするのかというビジョンが必要であり,その認識のもとに入学者選抜の問題を考えていく必要があるのではないか。学校システム全体の改革の問題であるという認識に立てば,大学,高校あるいは自治体がそれぞれ努力しなければならない部分が相当ある。それに対して,国からの支援があることが望ましいと考える。
|
 |
高等学校部門との合同会議等が必要だと考えるがどうか。
|
 |
必要に応じ,初等中等教育分科会との調整を行うことが可能な仕組みとなっている。
|
 |
個別大学でできる余地はかなりあると考えるが,そのためにも前提条件をどのように構築するかが重要である。現在,センター試験だけでは私立大学の入試の選抜性を上げることが不可能であるため,到達度テストのような形で共通の到達度を示すことが必要である。少なくとも最低限,国民としての学力保証の上に大学教育が工夫できることが必要条件である。また,目標設定について,日本の場合,大学ランキングや定量的な評価尺度に依存してしまう傾向がある。このままでは,様々な形で個別の目標設定を具体化させる仕組みやインセンティブがないと,大学が自発的に質保証を図るという行動は起きないだろう。つまり,今の状態では,ランクが下位の学校はできるだけ能動的に行動したくないという形になるため,情報公開のインセンティブを与える必要があるのではないか。初年次教育については,中退者を減らす効果があり,これは現在の私立大学にとっては切実な問題であり,そのためからも初年次教育に関心が集まっているのではないか。
|
 |
移行の問題については,高等学校,大学,社会それぞれの代表者が集まり,人間の成長や学びについて,議論する場が必要ではないか。
|
 |
日本の初年次教育は,アメリカとはかなり状況が異なっているとのことだが,今になってみると,高校教育が多様化する一方で,一般教育課程や教養部を廃止してしまったことが悔やまれる。初年次教育については,何らかの責任組織が必要ではないか。日本では,学部自治が強く,総合大学になれば,学部間の利害調整も難しい。しかし,初年次教育は誰がどのような形で責任を負うのかについては明確にしておく必要がある。その中で,特に総合大学がとるべき施策としてはどのようなものが考えられるか。
|
 |
もっとも参考になるのは,オーストラリアの事例ではないか。オーストラリアの場合は日本の国立大学と同様に学部自治が非常に強く,学部自体がアトリビュートをつくる際にも,全学共通のものを各学部がデフォルメしており,日本の学部に近い発想である。オーストラリアでは,全学の教育方法,FDを担当する部局があり,そこが情報提供し,各学部がデフォルメした上で初年次教育を展開している。よって,学部のオートノミーをある程度尊重することが可能である。
初年次教育は組織的に行うことが必要であり,少なくとも学部単位でないとうまくいかないと言われている。一方,初年次教育をどのように行ったら良いのかわからない教員が多いため,提供される情報に対して比較的抵抗感がない。一定のワークショップやFDを行えば初年次教育を導入することは可能である。神奈川大学では,キャリア教育をアウトソーシングし,初年次教育を大学教員が行うというように役割分担を行っている。その点では,国立大学でも総合大学でもある程度導入は可能である。現在では,立教大学や早稲田大学でも導入準備を進めていると聞いている。
|
 |
専門学部への細分化が進んだ際には,専門科目の教員が初年次教育から専門教育までを一体的に責任を持って行うのが望ましいと考える。大規模私立大学では,そのような取組を行っている。しかし,国立大学のような研究者養成に重点を置いている大学では,専門教育への特化が進み,初年次教育に関心を払わない傾向があるのではないか。その意味では,オーストラリア的な方法をとっても,日本では解決しないのではないか。
|
 |
FDの出席率は,比較的教育熱心だといわれている大学でも1割程度である。この問題は,話を聞いてもらわなければ始まらない。FD等において情報を共有することから始める必要がある。
初年次教育を導入している大学は,比較的トップダウン型が多いが,FD等について同様に行おうとすると,教員の反発を招きやすいため,ワークショップのような仕組みがないと,なかなか根付かないのではないか。
|
 |
我々の世代は初年次教育を受けていない。その経験から言えば,大学でここまでやらなければならないのかという印象を受ける。一昔前までは,大学の質を保つためには,いわゆる「悪貨が良貨を駆逐する」的に悪貨には退場を促すという議論も成立したが,現在ではそのような議論は成り立たないだろう。
今,国公私立合わせてどのくらいの大学が,初年次教育に関心持ち,実施しているのか,それについてのデータはないのか。また,初年次教育は,学生を教育するという真摯な視点もある一方,中退者を少なくして学校経営に役立てようという側面もあるのではないか。さらに,初年次教育において学習適応を扱うのはわかるが,生活指導や対人関係を扱うとなると,そのための専門家が必要ではないか。
|
 |
初年次教育は必要かと問われれば必要である。統計については,リメアディル教育を含め,導入教育,初年次教育の概念整理が十分できていないため,あくまで推計であるが,全大学の3分の1以上の大学で実施されているようである。その中で,学習技術について初年次教育で扱っている大学が多い。また,アメリカの例では,ハーバード大学では,8割の学生が初年次教育クラスに在籍している。数年前の15パーセント程度から急速に増えた。
初年次教育はアメリカで普及した時には,もともと経営的な側面が強かった。1年で3分の1以上の学生が中退してしまうため,それを防ぐための切実な問題であったが,最近ではその状況が改善され,学生が満足し,大学としての評価を上げるのに効果的だという認識になっている。
大学教員は,実はゼミを通じて双方向のディスカッションを行っており,そこで人間関係を構築している。アメリカの初年次教育の手法は,もともと,同じ人間が共同で行動して,学習行動をとることから始まったとされる。日本では双方向授業を行っている者は少数であり,この点を改善しなければ,日本の大学教育は改善しないのではないか。
|
 |
適応・不適応が入口に関係なくリスクがあるとのことだが,リスクについては,大学固有の問題ではなく,世代に特有の問題ではないか。もしそうならば,解決不可能なことを大学固有の問題として解決しようとしているのではないか。大学進学率の上昇により,今まで見え隠れしていたことが社会全体に平均的に現れていると見るべきなのか。
|
 |
これは大学固有の問題ではないと考える。しかし,大学が解決努力をする必要があり,また,社会システム全体で設計しなければならない問題でもある。これは成熟社会が共通して抱えている問題で,イタリアでは大学中退率が67パーセントとなっている。成熟社会では,社会が共通して豊かになる,幸せになるという共通目標というのが持ち得なくなっているようだ。
アメリカでは「ヘリコプター・ペアレンツ」が大学関係者共通の話題になっている。大学に入って,寮で自立生活をしていくことで,独立心旺盛な個人主義のアメリカ人が育成されるはずが,最近では,親が毎週のように寮にやってきては,身の回りの世話を行い,何かあればヘリコプターのように子供の上を旋回している様子を風刺したものである。このヘリコプター・ペアレンツは日本の親にも共通している。つまり,独立心がなく,目標も明確にない世代の問題である。
しかし,だからといって問題を先送りするのではなく,高校から大学の間に発達段階のハードルをつくるべきである。そして,大学でも,社会的損失を生まないような学士課程教育の設計の見直しが必要であると考える。
最大の問題は,社会的損失が大きいことである。新聞報道にあった,企業側が内定者に対して在学中に資格取得を推奨するという話は本末転倒ではないか。
|
 |
昔はアーティキュレーション(学校間進学の接続関係)がないからこそ教育的な意味があり,大学入学後の驚きに教育学的意味があった。例えば,クラブや寮生活といったインフォーマルな形で教員との接触があったり,ヒドゥン・カリキュラムが存在した。初年次教育の導入は,これら全てをフォーマル・カリキュラム化することか。
|
 |
そうではない。
|
 |
そうすると,これまで日本の高等教育のキャンパスの中にあった,インフォーマルな部分をすくい上げるようなことについてはどう考えているか。
|
 |
アメリカではラーニング・コミュニティというグループ単位で学習や生活を行う形態ができている。そのような例からもわかるように,ヒドゥン・カリキュラム自体も教育資源だと考え,それらを取り込むかどうかという問題だと考える。よって,自発的な能力がないならば,ある程度サポートする必要があるのではないか。
初年次教育については,例えばハーバード大学のそれには生活面についてのカリキュラムが多く含まれているかというとそうではない。つまり,優秀な大学になればなるほど,問題の発生リスクが低いため,アカデミックなウエイトが高くなる傾向にある。しかし,そのような情報や目標が明確になっていないため,それを明確にする必要がある。大多数の学生は以前に比べて脆弱になっているため,意図的な支援が必要であり,それを学部単位で行うのか大学単位で行うのかを検討しておく必要があるのではないか。
|
 |
適応と不適応がどうして分かれるのかについての分析がもう少し必要ではないか。例えば,大学教育の違い等についての分析も必要ではないか。適応,不適応はどの学生にも起こりうると述べているが,実際には,大学が行っている教育の質によって,何らかの差があったのではないか。初年次教育を行えば適応する学生が増えるという前提で議論されている気がする。特に,初年次教育が本当に必要なのかについてを論証する必要があるのではないか。例えば,高校時点で大学教育のような形態の授業を受けていた学生ならば適応しやすいということであれば,これは初年次教育の効果ではなく,高校教育の効果になる。不適応者が生まれる原因について,幅広くとらえた上で対策を考える必要があるのではないか。
|
 |
パネル調査の困難さは,時間が経過するにつれて回答数が徐々に減ってくることである。現在,4年生に対する調査を行っているが,その中で,高校での履修状況等についても調査しようとしている。しかし,これまでの調査の中で,大学による差や高校の成績による差は認められなかった。高校の成績によって初年次教育の効果が薄れてしまうほど,調査分析が粗いとは考えていない。
|
 |
最近「大学で何をやりたいか」という目的意識を持って入学してくる学生は10数パーセント程度であると言われている。目的意識がはっきりしている学生に対しては,導入部分の教育はあまり必要ないと考えるが,自分の分野をどのように広げるかという教育は必要だと考える。昔は,この役割を国立大学では教養部が担っていたのではないか。最近では,学生の裾野が広がり,目的意識が非常に曖昧になっていることは事実である。現場で見て,夢が語れない学生が多いことからも初年次教育の重要性は理解できる。
私が所属する大学では,教養教育委員という制度があり,約8割の教員が何らかの形で教養教育に携わっており,FDも強化している。その中で,教員が学生と接する機会を増やす必要があると痛感している。現在「基礎セミナー」と称する初年次教育を行っているが,今後,かなりのケアをしない限り,学生が不適応に陥る可能性があるということをしっかり認識しておく必要があるのではないかと考えている。
|
 |
大学の初年次における教育が問題になっているのは明らかである。学生の高等学校での履修状況を見ると,基礎が全くできていないのは明らかである。現在のように,大学・短大進学率が50パーセントを超えるような状況では,本来進学すべきではないような学生を大学が受け入れているという現実がある。この現実を踏まえれば,初年次教育の重要性は分かるが,これを大学教育の中で行う必要が本当にあるのか。大学には大学としてのポリシーがあり,それぞれの成果,目標があり,それに入学した学生がどのように対応,適応していけるかが問題になっている。そして,どのような教育をすれば,卒業時に大学が目指す卒業生を輩出できるかが問題となっている。
大学は4年間どのように教育し,学生を育て社会に送り出すかについて,明確な目標を持つべきである。初年次教育については,他大学が導入しているから,我が大学でも導入するというのでは意味がない。
高等学校・大学間の関係を改善するのは困難であるが,大学がどのように対応するか,現行の枠組の中で対応できることは何かについてを検討すべきである。そうしなければ,社会に出ても全く役に立たない大学生が輩出されてしまう。そうすると,大学そのものが必要かという議論に発展しかねない。
現在,専門職大学院の質が問題になる事例があるが,学部教育でも同様のことが言えるのではないか。各大学が自らのポリシーを社会に対してはっきり打ち出すことが必要であり,それがなければ,この問題は解決しないのではないか。初年次教育の在り方は重要であるが,それ以上に各大学の目標,目的をはっきり打ち出す必要がある。
|
 |
かつて国立大学には教養部があったが,高校教育や入試制度の多様化に対し,大学の受入態勢をどうするかについての議論の最も必要な時期に解体されてしまった。教養部の在り方には問題がなかったとは言わないが,現在,多くの国立大学では,初年次教育に限らず,学士課程前期教育の責任組織をどのように構築するかという問題に直面している。一つの打開策として,教養教育組織の再組織化とは言い過ぎであるが,初年次教育,あるい専門教育と初年次教育との間の接続の構築のために,東北大学では高等教育開発推進センターを創設した。ここには教員が約60名が在籍し,学生の学力面だけではなくメンタルな問題についても取り扱っている。このような組織をさらに拡充し,初年次教育の責任組織としての役割を果たしていくことが必要ではないか。
また,専門学部が全学教育に取り組むことが不可欠である。問題は,そのためのインセンティブをどのように作り出すかが重要である。それなしには,高校・大学間の接続あるいは大学・社会間の接続についても,具体的な骨格を作ることができないのではないか。また,国として具体的なアイデアを発信しなければ,現場である大学には伝わらないのではないか。
|
 |
産能大学では,初年次教育を早くから導入してきたが,中小企業の子弟の教育という目標があったため導入しやすかったという背景がある。現在,多くの私立大学でも初年次教育が実施されており,これらは,民間企業に例えれば経営ゴールを達成するために大学が積極的に行うべきものであり,方法論は大学の特性に合わせて様々な方法があるのではないか。
行政の政策として何を議論するのかという観点に立てば,職業教育や適応教育についても,アウトカムをどのような観点で評価するのかについて,インセンティブ等を含めた議論が必要ではないか。
|
 |
初年次教育の内容の7項目を見て,企業の人材育成の項目と類似している印象を受けた。企業の人事担当者との会話では,これらの項目が必ずと言って良いほど出てくる。現在,大学生がこれらの7項目について,しっかり教育を受けずに社会に出るため,企業の教育担当者は悩んでいる。また,半数の者がキャリア挫折を経験していることは,もはや社会問題であり,何らかの形で手当てが必要なのではないか。この問題の原因が初等中等教育の部分に関連するのだとすれば,中学,高校,大学,社会の関係者が一堂に会し,人間力を高める人材育成のためには,どのような政策が必要かについて議論する必要があるのではないか。
また,入試については,既に約半数の者が一般入試を経験しないで入学しているが,これは社会に出てからのキャリア挫折と大きな関係があるのではないか。競争にさらされていない状況で実競争社会の中に入った者は競争に弱くなっているのではないか。
|
 |
「大学入試センター試験の改善に関する懇談会−意見のまとめ−」については,ただ今の議論とずれがあるのではないか。大学入試センター試験には,高校の学習到達度の測定と大学入学選抜の手段としての2つの目的があるが,推薦入試やAO選抜の割合が高くなった状況では「別試験についても検討すべき」という意見があるにもかかわらず,このまとめでは,依然として入学者選抜の側面しか触れられていない。そして,2つの目的の1つである高校の学習到達度をどのように測定するのかという視点に乏しい。この問題についてはどのように考えているのか。
|
 |
高校の学習到達度を測定する別試験については,センター試験のスキームに合わせる必要性はないと考える。これまで高等学校は,大学入試を生徒指導の一つの手段として利用してきた。ところが,いわゆる大学全入時代の到来により,生徒に対して「このままでは大学に行けない」という指導ができなくなったため,高等学校側は別試験を立ち上げることについては,恐らく反対しないのではないか。その意味で,社会全体の大きな移行の仕組みの中で考えなければならないのではないか。また,この問題は政策的なインプリケーションから,大学入試や大学教育という枠だけでは解決しないだろう。特に,社会が一元的な尺度のままであるときに,多元化・多機能型になっているということに対する情報発信がうまく行われていない。移行の問題については,イギリスのPDP(Personal Development Planning)という手法が参考になるのではないか。これは,学生のキャリア形成の記録を自分自身で管理するという仕組みである。そのため,高校生のうちから進路指導や適性検査が行われている。しかし,高校の進路適性検査の結果は,大学には引き継がれない。一方,アメリカのSATでは,そのようなデータが継続してつながっている。高校教育から大学,大学から社会への移行の段階で,情報が共有されるという仕組みがないことが,社会的損失が高くなりやすい原因になっているのではないか。
|
 |
私は,大学入試センターは一度解体して再発足すべきだと考えている。平成2年(1990年)に共通一次試験からセンター試験に変わった際,高等学校の学習到達度を測る機能は放棄したと考えている。既に,その機能を維持できなくなったにもかかわらず,センター試験が未だ続いているのは理解に苦しむ。高等学校の学習到達度については,地方ごとに評価センターを創設し,そこで評価を行い,解体後の大学入試センターは,技術的に継承すべき部分のみを残し,新しい大学入試改革のために活用する必要があると考える。
|
 |
英国では,子供たちの学習に対するインセンティブが非常に下がっており,従来どおりの教育では,学生が全くついて来られなくなってしまった。そのため,ケンブリッジ大学でも従来では考えられないくらい,カリキュラムが易しくなった。一部には,イギリスの教育は地に堕ちたと言う人がいるが,それでも日本の学生と競争したときに,まだイギリスの学生の方が強いのではないかという印象を受けた。また,イギリスでもっと深刻な問題は,大学が個別の入学試験を課すことができず,学習意欲が低い学生も,オックスフォード大学やケンブリッジ大学に入学してしまうという状況がある。このことからも,世界中で初年次教育が必要とされるのは分かる気がする。 |