本文へ
文部科学省
文部科学省ホームページのトップへ
Home > 政策・施策 > 審議会情報 > 中央教育審議会大学分科会 > 大学院部会 理工農系ワーキンググループ(第3回)議事録・配布資料 > 資料1−2


資料1-2
中央教育審議会大学分科会大学院部会
理工農系WG(第3回)平成16年11月29日


中央教育審議会大学分科会大学院部会 理工農系ワーキンググループ(第2回)議事要旨(案)


1 日時   平成16年11月2日(火曜日) 13時〜14時30分

2 場所   文部科学省10階 10F3・4会議室

3 出席者  
(委員) 黒田玲子委員
(臨時委員) 相澤益男(座長)、天野郁夫の各臨時委員
(専門委員) 有信睦弘、一井眞比古、井上明久、植田利久、谷村秀彦、長田重一、中村健蔵、東島清の各専門委員
(文部科学省) 徳永高等教育局担当審議官、泉高等教育局担当審議官、丸山大臣官房担当審議官、小松大学振興課長、杉野専門教育課長 他

議事

事務局から資料について説明があり、その後次のとおり意見交換が行われた。

(○:委員、●:事務局)

委員  国際性については分野によって違うと思う。理学系だと大抵の人は英語で論文を作っている。一方で確かに国際的に通用する大学院という観点からは、教員も学生も国際的な経験を積む必要があると思う。分野によってはなかなか国際的な機会のないところに、どうやって経験を積ませることが出来るか。教員の場合単に国際会議に参加するというだけではなく、長期に渡って共同研究をするといった機会が必要であると思う。また、学生の場合、例えばサマースクールやウィンタースクールなどの機会があるが、そのような機会に参加しようと思ってもなかなか旅費等の手当てがつかない。教員、学生に関わりなく、やはり国際的な場にどんどん参加するための資金的な措置がどうしても必要ではないか。特に、学生のために是非とも必要であるにもかかわらず、最も不足している部分であろう。
 事例を申し上げると、ヨーロッパの合同原子核研究所CERNで、学生を夏の間2ヶ月ほど滞在させて実際に最先端の実験をしているグループの中で教育するプログラムがある。日本もこれに誘われたが、学生を派遣するための経費に非常に困り、あちこち担当者が足を棒にしてお願いに歩いたが最終的には研究所の経費と加速器科学振興関係団体から経費を頂いて何とかしたというのが実情だ。

委員  大多数の大企業は修士課程を卒業した人を多く採用するが、どういう専門を学んできたかということをどの程度考えるかというと、例えば採用の基準としては機械系、電気系、情報系など、これくらい大雑把である。また、入社後の配属時に、この人は流体力学をやったからタービンの研究開発をやらせようかなどということは考えることなく、例えば流体力学を学んだ人を情報関係に配置するということは日常茶飯にある。
 一方、大学院は細かく分かれた専門分野ごとの研究室に所属し、そこの指導教官から深く専門的に研究指導を受ける。そこで指導されることと、その学生が将来どういう展開をするかについては必ずしも一致していない。修士課程を出て就職しようと思う人は、ある学問分野を深く極めようというよりはもっと幅広く色々な勉強をしたいと思っているので、大学院教育の中で身につけるべき基本的素養については、修士課程で基本的にどういうカリキュラムを備えなければいけないかという視点と、個々の研究室で指導教官がどういう視点で学生を指導しなければいけないかという二つの視点に分けて考えるべきだと思う。特に、指導教官が指導する視点は、専門性を極めることによって広い視野を持たせるという視点で指導されると思うが、その時の指導の在り方と、大学院のコースの目的に合わせて、基本的にどれだけの素養をつけさせるべきかという観点では、むしろどういうコースを最低限揃えなければいけないかということになると思うが、これらををきちんと議論すべきと考える。

委員  今のご指摘のところは、部会としてヒヤリングをした時にも議論になった。それでは、学部教育と比較し、大学院、特に修士課程の教育に、企業の立場からどういう特徴があるとお考えか。

委員  二つ視点があると思う。一つは、より長期間勉強してきた人のほうが当然知識も広いし、競争を通りぬけてきているので能力も基本的には高いという期待を持っている。もう一つは、基本的知識を現実的な問題に応用するということは、学部で講義を聴くというプロセスからだけでは身につかない。大学院では実際に研究を進める中で、自分が学んだ知識や論文から得た知識を現実の問題として扱うこととなるので、単に知識を持っていて、その使い方を全く知らないということではない、質の良い学生が大学院卒業生の中には多いということを期待している。

委員  グローバルスタンダードに日本の大学院の出身者が、かなり低い、外れているのではないかという指摘があるが、その辺りのところをどうお考えか。

委員  知識を現実的な問題に使う形で身につけているという点では、そういう訓練は特に欧米の学生の方が良くされている気がする。もうひとつは、例えばPh.Dと日本の工学博士、理学博士とを比較した場合、決して日本が劣っているとは思っていないが、学部のレベルでいうと、例えばアメリカではアクレディテーションが定着していて、日本でもアクレディテーションが進んできているが、基準の設定の仕方が随分違うということもあるし、イギリスだと大学卒業時の成績は大学によらず基本的な標準化がなされていて、どこの学校を出ても例えばレベル2と言えばほとんど同じレベルの成績だという評価がされる。日本の場合大学の名前しか頼る基準がないため、ほとんど競争力が無いという印象を持っている。

委員  大学院に入ったとしても色々なことを知って欲しいと言われるが、やはり色々な文献を読んで自分で実験をしてそれをまとめていくとひとつの領域に固まってしまうと思う。色々な講義を聴くというのが学部教育で、修士課程では専門分野のことを知って自分でまとめていくという訓練をすることが重要。将来どこか他へ移ったとしても、違う分野を担当することとなったとしても、そのやり方を学んでいるということが大事である。ひとつの分野に固まったとしてもしょうがない。それが大学院というものであると思う。

委員  この辺の議論は色々とあるかと思うが。

委員  大学1年生の段階ではみんな目がきらきらしている。1年、2年生くらいが一番やる気がある。3年生でもう疲れ果てているのだが、4年生くらいで研究室に配属になって、初めて問題を与えられて自分の頭で考えるという訓練をし出す。大学院に行くと更に専門的に、学部4年生の場合は本当のお手伝いなのだが、大学院修士課程くらいで初めて研究を始める。ここで初めて自分で問題を設定して、色々な困難に突き当たりながらそれを乗り越えて、自分の予想通りに何かを出したら、それを最終的にまとめあげてみんなの前で発表する。そういう訓練をしているのが、修士課程だろうと思う。
 企業から大学に求められているものが概ね二つある。一つは基礎力がしっかりしていて、どういう時代であっても対応出来る人が欲しいということ。もう一つは、特に博士課程の場合よく言われるが、即戦力が欲しいということ。それはお互いに矛盾しており、大学に求めるのは私はやはり即戦力であってはならないのであろうと思う。基礎的な力をしっかり備えて、かつ自分で問題を設定して解決して発表出来る能力を備える、そこまでだったら大学院に要求しても良いのではないか。
 6年一貫教育というのは、私はやめた方がよいと思う。それはやはりひとつには学生の流動性を育てたい。できれば野心的に外国でも行ってもよいような学生に育って欲しい。学部4年生のところで一旦流動性を保つのは必要だろうと思う。ただ、4年生で論文を書き、修士課程でも論文を書くというのはかなり無駄があると思う。授業及び演習をセットにした緻密な学習をやる場として学部を捉えて、大学院では、色々なバックグラウンドの入学生の知識を揃えるための授業は修士課程1年生にはあったほうが良いと思うが、やはり大学院修士課程の目的は、初めて自分で研究する姿勢を身につけて、それを完成させる充実感を味わってもらう場だと位置付けたい。
 問題は学部と大学院のリンクが、今はまだ旧態依然としたままなので、学部をもう少し充実させることが必要だと思う。特に今の学生はぎっしり授業が詰まっており疲れ果てている。1週間に5科目か6科目くらいしか取らないというくらい充実させればもっとしっかりしたものができると思う。教員もその分少しは時間ができて、両方実のある教育ができるかと思う。学部の教育課程をもっと実のあるものにするというのが大学院を充実させるために必要だと思う。

委員  専攻や研究科においてどういう学生を育て上げたいかという全体としてのカリキュラムなどについての話し合いが教員の中で行われ、相互に理解が得られていれば、一体感がある形で専攻や研究科としての人材育成や教育研究指導がなされ、自ずと全体的にうまく整合して総合能力が発揮されて、良い人材育成がなされていくのではないか。もちろん教員の個性によって大学院の中でプラスアルファとして伸ばす部分も含めて専攻を考える。そういう体系性が非常に重要だと思う。教員の個性に委ねられすぎるのはいかがなものかと思う。研究科、専攻全体の観点と教員の個性の観点の兼ね合いが重要だと思う。

委員  各教員それぞれが独自の教育展開をしているのが現状だが、専攻ごとに全体の教育目標等々をしっかりと議論することが必要であるとの指摘だと思う。

委員  大学院で必要なのは最終的には課題探求能力だろう。現在の博士課程修了者の能力は現実的に例えばポスドクを見ていても必ずしも問題を発見する能力が十分についていると思えないということを結構実感する。博士課程まで行けば少なくとも課題発見ということはきちんとできるという能力まではつけてもらいたい。修士までであれば、発見までは少し難しい部分はあっても、課題の解析や解決という能力については十分あるというところまでの教育をすべきではないか。その時に重要なのは、教員の意識改革ではないかと思っている。教員の研究業績主義が変わらないとなかなか難しいだろうと思う。学部の場合もそうだが、学生にとって必要なものを提供しようという形ではなく、どちらかというと先に教官が教えられる事項があるということが、大学院にも同じ様にあるのではないか、そういう気がしている。
 もう一つは、研究成果主義になりすぎているのではないかという点。そこで、できるだけ総合力をつける形にしていく。そのために修士論文、それから博士論文の在り方というのを、私は考えなおすべきではないか。具体的には、欧米の学位論文を見ていると、第1章のイントロの部分、これが非常に充実しているというが、そこが充実しているということは総合力が非常についているのではないかと思う。日本の大学院生はその部分は比較的弱い。それ以外の部分は非常に高い能力を持っていると自信を持っているが、最初の部分の能力というのがやはり多少外国に比べたら弱いのかなと思う。そういう意味で学位論文のあり方そのものも、少し教員としても意識改革をしていく必要があるのではないか。そうすることによってもう少し研究の成果主義から総合力をつけることになるだろう。そのことによって最終的には博士課程を終えても、例えば行政官になるような人もどんどん出ていくべきではないか。そういう人材はたぶん今の教育体系の中ではなかなか難しいだろう。そういう意味では総合力というものをきちんとつけるようにすることによって、初めて行政官的なレベルの人も輩出できるのではないか。そのためには学位論文のあり方そのものも少し我々としては考えていくべきだろうと思っている。

委員  研究室にすっぽりと入り込んで教育を受ける仕組みが多く、そこの中では学生に視野を狭くするような要因と同時に、今、御指摘の教員の研究成果主義というものが強く出ているために、この御意見の中にも研究労働者というような言葉が出てくるような形で大学院の学生が位置付けられている。そのようなところがあるので、それを何とか打破しなければいけないだろうというような指摘だと思う。この辺りが日本の大学院では、色々な分野で問題になっているところではないかと思うがいかがか。

委員  私はそれで何が悪いのだと言いたい。私自身、理学系の研究室にいて、ポスドクでヨーロッパへ行ったが、やはり研究室で仕事をして、完全徒弟制の形で、良い先生の教えを受けて学位を取った。その間、決して研究室だけにいるのではなく、外国に出たり、あるいは外国から来た様々な人達と話したり、隣の研究室に行ったりなど、決してひとつの研究室に留まっているばかりではなかった。色々な情報も入ってきたし、徒弟制度だから悪いというのは何かおかしいと思う。

委員  研究室によって、そのように広がりのある形で国際的に展開されていると良い方向にいくだろう。しかし、多く指摘されているところは、研究室の中の閉鎖性で終わってしまっているケースが色々とあるということだろうと思う。この辺りのところが議論のひとつの重要な点だと思う。広い視野と専門性は、相反するようなところもあり得るが、御指摘は、そういうものが一体となってうまく機能してきたということであろう。そういうことも当然あるとは思う。

委員  その通りだと思う。大学院の教育2年、あるいは5年をどのように考えるか。教室あるいは専攻において、ここの卒業生だったらこれだけのものを育成しようという全体の教員にある程度義務付けられているベーシックなものがあってしかるべきで、その上で今御指摘のあったこともその通り重要なことだろう。決して意見が食い違っているということではないと思う。我々自身もやはり研究室に入り、色々と指導を受けてきたのであって、決してそれが悪いという意味ではない。

委員  私も生命機能研究科にいるが、やはり最初の半年は授業を充実しておいて、色々な先生から物理、化学、生物など種々の授業を聞き、実習があって、というのを半年みっちりやってから講座に入っていくという体制を取っていて、それは学生にとって良い感じで動いていることは事実だ。

委員  例えば企業の研究でもやはりひとつのことを極めなければ他のことができるわけが無い、これが常識だ。ひとつのことを極めることしか知らない人は、それはそれなりに企業の中でも貴重な人。研究をやる上で言うと、そういう意味で一つの事を極めて、更に他の部分についても転進していけるという、こういう資質、あるいはそういう素養を身につけてきた人は、そういう形で色々な展開ができるし、一つの事を極めることしか興味のない人はそういうことでやれる。
 ただ問題なのは、企業は研究をやる人達だけを求めているわけではなくて、そのようにひとつの事を極めた他にも展開できる人は逆に研究以外にも展開できるし、さきほど発言があった行政官、あるいはそのようなマネジメント的業務をやらせても、色々な意味で人間を知っているということもありそういうことができる。もうひとつ企業で必要な人達は、問題を与えられたときにどこのどの文献、あるいはどの本、あるいはどのフィールドを調べればその答えが得られる糸口が掴めるかという訓練を受けていることが必要である。学部では一応体系的にそれなりの学問を勉強するが、具体的にそれを更に一歩、例えば大学院で言う特論のような形で展開をしていく中で、つまり特定の問題に対しては、ある種の体系だった学問領域だけではとても不十分であって、いくつもの体系だった学問領域の知識を持っていかなければ問題が解決しないと、こういう訓練をするような、そういう視野も必要だろう。それはもちろん研究でも同じことだ。そこのところの訓練の仕方は、幅広いほうに重点を置くか、より深いほうに重点を置くかで多少違うのではないか。そういう時に、ではどの方向性を持った人を育てるか、どの範囲でどのように育てるかという、そのプロフェッショナリティーの定義はさきほど発言があったように、専攻なりのプロフェッショナリティーな部分の最低限の保証が必要なのではないか。

委員  優秀な先生のところに優秀な学生がついて少人数教育でやれば、徒弟制は上手くいくと思う。何故、徒弟制が悪いと指摘されているかといえば、必ずしも優秀な先生ばかりではないということと、それから少人数ではなく、今や何十人という人が入ってくるということ。そういうところで徒弟制のようなことをやっているとどうしても実力に問題のある学生が輩出されるということが議論の基だ。分野別によっても違い理学系は人数が少ないのではないかと思うが、工学系だと何十人という単位になってきているから、徒弟制ではもうやっていけない状況が、特に大学院重点化された後はみんなそうだと思う。そうすると少なくとも修士課程ぐらいは先程の議論のようにスクール化というのをやって、各教員が議論して共通のイメージを持ち、プログラムのきちんとした教育をやらなければいけない状況が来ているということだと思う。徒弟制度は条件が整った時には最も良い制度かもしれず、徒弟制度が悪いというのではないが、徒弟制度でやっていけなくなった状況をどうしていくかということを議論すべきではないか。

委員  工学系の大学院教育の調査の資料によると、学生も先生も基礎知識や能力が無いということが問題だと考えている。そして学生の側からは、どうも自分たちが教員の研究に利用されているのではないか、あるいは教員の研究に参加することは最も良い教育方法だというのは間違っているのではないかなどの不満がある。
 日本の大学院全体が研究至上主義と言うか、研究は大事だということで学生達は教育を受けているというよりも研究労働者になっているのではないかという実感があるような印象をこの調査結果を見ると受ける。先生方は研究至上主義というか、研究が重要であると思って、学生達は将来研究者になると思っているかもしれないが、学生はそうではなくて、職業人として専門職業に就くのだからそのための基礎的な知識や幅を持たせて欲しいと思っている。そのずれが非常にあると思う。もうひとつ研究室制度の問題が絡んでいて、一体、日本の大学院の基礎的なカリキュラム編成なり指導のユニットは何なのか、研究室なのか、専攻なのか、研究科なのか。これが曖昧なままに大学院が肥大してきたということがあるのではないか。同時に、修士課程の教育は職業人養成のためなのか、研究者養成のためなのか。今、約2万5千人が修士課程を出る。4千人くらいがドクターコースを出る。この辺の区別をはっきりさせる必要が規模の拡大の結果出てきているという感じがする。

委員  国は何を求めてきたのか。ものすごい勢いで大学院の学生を増やしていく。そして高校教育で何も教えられていない。本来なら大学でやるべきことを大学院の修士課程に求められている。本来なら高校でやるべきことを大学がやらざるを得なくなった状況ができた。これまでは大学院は研究者養成でよかったものが、そうではなくなって、それで大学を出ただけでは全然通用できない状態になっているから、マスターの学生を増やして、という感じで、何かそのつけをみんな大学院に持ってきているという気がする。

事務局  大学側も従来旧制大学にしかなかった博士課程を新制大学にも設置したいといった御要望があったことも事実。
 一方、文部科学省としても、社会全体が高度化していく中で、社会全体として大学院に求めるものが多様化してきたということに対応し、それに対して従来の研究者に留まらない。先程、御発言があった行政官庁や企業に就職する人についても、大学院レベルの教育が必要だという認識にたって大学院の充実を図ってきた。
 大学院を充実をする政策を推進することで、大学に対する公財政支出が上がったのも事実である。

委員  大学院が結果的にやはり多様化している。その多様化に対してどう対応すべきかということを議論しなければいけないだろう。

委員  もう一つ言わせて頂ければ、2万5千人も修士課程の卒業者が出る時代だから、もう修士課程の大学院自体が多様化している。研究者養成型の大学からそうではない大学まであって、既に大学院の役割は変わってきていると思う。全ての大学院が同じ教育方法や指導の仕方ではやっていけなくなってきている。私立大学のかなりマンモス化しているところ、地方の国立大学で博士課程がうんと小さいところ、東京大学のようなところと、同じであるはずがない。しかし議論が同じに行われると、研究者養成型の大学ではないような大学の方に無理がいくような形になるので、分けて考えるべきではないかと思う。

委員  主として修士課程は、研究者養成だけが目的ではないということをもう少しきちんと考えて欲しい。

委員  研究者養成の部分に対してはどうしても徒弟制度的な指導は避けて通れないと思うが、論文作成は博士後期課程に行った人にのみに要求して、修士課程は授業及び演習、ゼミナール、そういうものだけで単位が取れるようにしてしまうというようなことにして良いものか。研究者養成という観点から言えばそれで良いが、ただ修士課程で卒業してしまった人達は、一回も自分で問題を設定して解決してまとめあげて発表するという訓練を経なくて社会に出てしまって、それで良いものかという疑問がある。

委員  これはこれから議論をして頂きたいところだが、大学院の多様化というのは修士課程と博士後期課程とを切り分けるということではなく、修士課程の中に色々な多様な機能があるという認識で、コースで切るという考え方ではないと思う。

委員  今お伺いしたのは、修士課程に人材が混在しているのに一律に修士論文は廃止するということにしてしまって問題はないかということである。

委員  多様化しているにも関らず、すべての大学院に対して同じようなスタンダードをひとつ作ろうということがそもそも間違っているのだという認識が最も必要ではないか。修士課程と博士課程は違うし、それだけではなく、研究者養成をするのであったら、やはり修士課程から研究者養成を目指した研究者養成ということも必要なのだろうと思う。
 東京大学の理学系の生物科学の大学院では、多くの学生が博士課程に進学するが、修士課程で卒業する学生にはしっかりとした修士論文を書かせている。そして博士課程に行く人に対しては、投稿論文を書くことに専念をするが、何も書かないしまとめないということではなく、20ページの制限をつけて自分の研究の背景、それから何を目指していてどこまで成果を得られて博士課程に進んだらどういうことをやりたいかということを書かせて、修士修了及び博士進学のための審査をやる。そういうことでひとつの大学院の中で、しかもほとんどが博士課程にいくというところも多様性を認めることをやっている。ましてや、修士論文を廃止しようなどということを全ての大学に提言するということはまったくナンセンスではないか。

委員  例えばスタンフォードでは学生にあるテーマを与えてそのテーマを解決するために企業なら企業に協力を求めて、そこで問題解決のための様々な訓練をする。例えば紙だけで車を作るなどの課題を与えて、その課題を解決するために、例えば色々な力学や様々な手段を駆使して、紙だけで実際に車を作って見せる。それから、例えば東京大学の機械工学科ではPBL、プロブレム・ベースド・ラーニングというトライアルをしていて、似たようなことをやっている。ただこれは教員の負担がものすごく大きくなるが、何も論文を書かせるだけではなく、具体的な訓練の試みは随分なされていると思う。

委員  研究者になるために博士課程に進学する学生が修士論文を書くのは無駄であると思う。また、修士課程を卒業して就職する学生についても、必ずしも修士論文というものを要件としなくても良いのではないか。あることをまとめあげるということは非常に大事なので、修士論文を書く、作り上げるということは大事なのでなるべくそれはやったほうが良い。しかし、やはり理学系だけ考えてみても、東京大学から他の幅広いスペクトルのある中で全てにそれを要求するのが良いのか。学生は大体修士課程1年を終えたところですぐ就職活動に入ってしまう。それである程度ブランクが開き、また修了間近のところで論文指導だけすれば良いのか、それとももっと修士課程として充実するために講義、演習、その他ゼミであるとか、あるいは何か物を作り上げるなどの課題を与えて、修士課程をできるだけ充実させる。必ずしも論文を書くだけが全てではないのではないかと思う。論文を書く以外のコースがあっても良いのではないか。

委員  マスターの就職は、1年修了後ではなく、1年次の9月から始まっている。もうそれはやめていただきたい。大学院の教育というものではなくて、1年次の9月から次の年の3月、4月まで就職活動である。

委員  それは確かそのような御要望があるので、経団連でも取り組んでいると聞いている。

委員  日本化学会を中心として、化学関係の協会が連合で会長声明を作り経団連にもお願いしており経団連としても積極的に取り組んでもらっている。しかし、これは大学側にも統一戦線が組めずにいるような状況もある。

委員  大学院の拡大によって従来、意欲はあるものの大学院教育を受けられなかった人達が大学院に進学していける状況となった。一つの国の人員構成を見た場合に、人数を増やせば元々専門的な非常にレベルの高い人がいたところに、それ以外の人が加わるので平均的なレベルは当然下がるが、国全体の、例えば私は工学だが、工学的なレベル、能力は上がってきたと思う。したがって大学院の量的拡大というのは、日本全体としては良かったのではないかと考えている。
 それからもう一つ、どんなに良い教育を受けていたとしても、学生が制約を受けた中で研究をしていると感じることは良いことではない。学生にとっては研究室は一番身近な存在なので、あまりリジットなものでないようにする必要があると思うが、これには特効薬はないのかもしれない。可能性があるのは、そこにいる教員や研究者が多様な価値観をすでに持っているということが大事だと思う。そのためには異なった教育を受けた教員がいるとか、あるいは異なった大学、日本だけではなく外国も含めてだが、それらの出身者で構成されているということ。それからテニュアの人はもちろんそういうのが存在すると同時に、やはり研究室にポスドクなどのテンポラリーな人がいて、定期的に人が入れ替わりながら色々な刺激を研究組織に与えていく。これが非常に重要ではないかと思っている。外国の研究所や研究組織、研究室に魅力を感じるのは、そこに複数の国、あるいは複数の研究機関で教育を受けた人が話をする場がある。そしてそこにまた短期に研究者がポスドクとしてくる。やはりそういう多様性があることに魅力を感じる。ただ、流動性というのは常に出入りしているというようなイメージを受けるが、そうではなくて、ファカルティー・スタッフとしてのテニュアの重要性が非常に強く、その人の個性がまずあって、専門的な知識と責任感をきちんと植え付けていく。その中で流動的な研究者の多様性がミックスするような研究組織があれば研究室も非常に良く機能するのではないか。

委員  農学では地方大学といわゆる旧制大学の学生比率は、たいして差は無い。修士課程で言うと、6対4くらいの割合で地方大学の方が多く養成している。博士課程になると大体6対4くらいで6割程度を旧制大学が養成しているということで、そう大きな差は無い。したがって、地方大学は旧制大学に比べたら一定程度の非常に大きな貢献はしていると思っている。
 ただ旧制大学と地方大学では教員の数が決定的に違う。例えば東京大学と地方大学で比べると、3倍から4倍くらい教員数が違う。旧制大学は附置研究所等を持っているので、そこの研究者が実研究科に貢献をしているということからすると、実態はもう少し差が開くのではないかという印象を持っている。そのような教員数の差が非常に大きな影響を持っている。現在大学院の個性化などが指摘されている。そうすると大学院はどうしても専門化、細分化していくということになる。先程の教員のエゴという部分があるかもしれないが、どうしても研究をしたいということが頭にあるので、そういう方向に行ってしまう。そうするとそれが学部教育に影響が出てくると思う。学部というのは、総合的に広い教育をすべきだが、大学院が個性化していけばいくほど、逆に学部教育に不足する部分が出てくる。これに対しては大学間の連携ということで対応していきたいと思っている。そういう意味で大学院が活性化し、個性化していくためには、一方では学部教育ということをきちんと考えて、その時の学部間、大学間の連携ということをできるだけ進める方向をやりやすいようにしていただきたい。そうすることによって大学院の個性化も進んでいくだろうし、高度化も進んでいく。それによって学部教育がより充実していくことができるのではないかと考えている。

委員  その場合の大学間連携というのはどういう形態のものをイメージしているか。

委員  当面は学部教育だ。最近は例えば農学関係では畜産学という講義が出来る人がほとんどいなくなっている。それから土壌学などというものもほとんどいない。これは学部教育には非常に大事なものを占めている部分があるが出来ない。それをするために大学院で個性化すればするほどそういう問題点というのは出てくる。そういう点を何とか大学間で補完出来るよう支援していただければありがたい。

委員  只今のは、学部教育での御指摘だが、この大学間連携というのは国内だけでなく国際的なレベルでも、これからの議論で出てくることではないかと思うので、これはまた改めて検討させていただきたい。

委員  その通り。大学間だけではない。我々も東南アジアの大学に拠点を作ってそこからやっていこうということを試みているが、そういうことが必要かと思う。

委員  色々なご意見を頂いた。本日のところはこれで意見を集約するということはまだ早期かと思うが、二つだけ今後、議論を煮詰めなければいけないかと思った点がある。一つはやはり大学院の多様化の問題。これを機能分化という形で見ていった場合に、専門職大学院も一つの大学院の重要な機能である。この専門職大学院以外の大学院について機能分化ということを、何かはっきりとした形で打ち出していくべきなのか、あるいはそこのところは、大学院のミッションとして、こういうような部分がある、ああいうような部分があるということを列記する程度なのか、その辺りのところを更に議論を深めていく必要があるという点だ。
 それからもう一つは、大学院のスクール化であったが、先程来色々とご意見を頂いて、現状に対する認識にも色々なスペクトルがあった。
 しかしながら共通して言えることは、やはり教育のユニットというか、専攻なりそういうユニットのところできちんとした教育のプログラムとしての体系化が必要であろうということが一応共通としてあり得ることではないか。これはやはり今後、更にディスカッションを重ねなければいけない。現在教育GPという形で学部教育を中心とした文部科学省の支援プログラムがあるが、大学院の教育支援のプログラムが来年度スタートする。そのようなことも見据えてやはり教育プログラムの具体的なことに関して、グットプラクティスに相当するようなものを蓄積していかなければいけないであろうし、それから更に積極的に構築していかなければいけない。このことについては先程いくつかご指摘があった。修士論文に変わるものとしてはこのようなものもあり得るのではないか等々。それらは、プログラムを考えていくにあたって非常に重要な指摘だったと思う。

事務局  修了要件については、現在大学院設置基準では研究の成果を修士論文に代えることができることとなっているが、それをさらに広げることができないか、これは是非先生方に御議論いただければと思っている。また、大学院部会では今後の修士課程については研究者養成機能、高度専門職業人養成機能21世紀市民の知識人養成機能として、その中から専攻ごとにどの育成目標を選ぶかということと、修得させるべき知識、技術体系を詳細に公表することを義務付けるという案を出しているが、これについても御意見を賜ればありがたい。

5. その他
平成16年11月15日(月曜日)に行われる大学院部会において、本ワーキンググループの審議状況について報告することとし、その報告及びその際の資料について座長に一任することとされた。
次回以降の会議日程について、事務局から連絡があった。


ページの先頭へ   文部科学省ホームページのトップへ