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資料1-1
中央教育審議会大学分科会大学院部会
理工農系WG(第3回)平成16年11月29日


中央教育審議会大学分科会大学院部会理工農系ワーキンググループ(第1回)議事要旨(案)


1 日時   平成16年10月25日(月曜日) 10時〜12時

2 場所   経済産業省別館1012号会議室(10階)

3 出席者  
(委員) 黒田玲子委員
(臨時委員) 相澤益男(座長)、荻上紘一の各臨時委員
(専門委員) 井上明久、岩崎正美、植田利久、小野田武、小平桂一、白井克彦、武内和彦、谷村秀彦、田村武、長田重一、中村健蔵、東島清の各専門委員
(文部科学省) 石川高等教育局長、徳永高等教育局担当審議官、泉高等教育局担当審議官、丸山大臣官房担当審議官、小松大学振興課長、杉野専門教育課長 他

 議事
(1) 副座長に荻上委員(大学評価・学位授与機構教授)が選任された。
(2) 座長から挨拶があった
(3) 事務局から資料について説明があり、その後次のとおり意見交換が行われた。

(○:委員、●:事務局)

委員  理工農系分野において特にこれを話し合おうというようなことはすでに何かあるのか。

事務局  具体的に特にこれを、ということはないので、全ての事柄について専門分野別の討議をお願いしたい。ワーキンググループは理工農系、人社系、医療系と立て方が3つということになっているが、3つの分野ごとにそれぞれ一つにまとめるということではなく、先生方の専門分野別に細分化した単位で、細かい御審議と御報告を頂ければありがたい。

委員  理工農系分野に特異的なミッションがかかっているわけではなく、理工農系に特有な問題があると思われる事項について議論するということ。

委員  このWGは、大学院重点化の反省をするという趣旨ではないのか。

事務局  特に重点化を踏まえてここで大学院政策を大きく変更しようとかいうことではない。これから他の分野のことも踏まえ、いわば新しい形を先取りしていくという意味でぜひ御審議いただきたい。

委員  本日は第1回でもあるので、委員の各位が現在まで色々な大学院の問題に直面してこられたことを踏まえ、大学院教育の現状、教育課程の在り方、それから問題点とその改善方法等を自由に御発言頂き、大学院問題とどのような形で携わっておられるかということも踏まえながら、色々な角度から意見を出して頂きたい。

委員  私自身は生粋に近い産業人で、この一連の問題を取り上げて頂くのは大変ありがたいと思っている。大学院の問題が議論された原点というのは、やはり人材育成能力の国際競争力不足が色々な場面で顕在化したということが引き金になったのではないかと感じている。特に私にとって最も関心が深く、また当事者的なものは、工学、工学部、又は工学研究科である。これらがあまりにもグローバルスタンダードと違う人材育成体系、内容を持っている。これはエンジニアの資格にまで関連して、国際的な競争力に対する将来の不安要素になっている。そういうことを踏まえて私自身はこの席にいるつもりである。当然理学、農学とも違う。その辺で先生方と意思の疎通が図れないという面もあるかなと思う。

委員  私は大学審のときから委員を務めており、大学院を倍増するといった当時から「質の向上を先行させて欲しい。絶対に量的拡大は先行させないで欲しい」とお願いしていた。今、一番問題になっているのは、いかに質を確保するか。その質も、国際的な視点に立ち、魅力ある大学院教育をやることが一番重要なことではないかと考えている。例えば資料4−3で大学院というのは教育の課程を提供する場と位置づけているが、学生に支給されるのは「奨学金」なのか、海外の博士課程のような「給与」なのか。あくまでも博士課程は教育の場であると捉えるのか、それともグローバルスタンダードも考慮して博士課程を別に取り扱うのかということも、すこし考えるべきではないのか。
 「トップの研究者を養成しようとしているのか」、「高度職業人を養成しようとしているのか」、「豊かな教育能力と研究能力を兼ねた大学教員を養成しようとしているのか」、「知識基盤社会を多様に支える高度で知的な素養のある人材を養成しようとしているのか」、この4つの目的をすべての大学院がやるのか、やらないのか。やったとしてそれぞれに対してやり方が違うということがあるのか、どうなのか。その辺のことも少し考えてディスカッションしていけたら良い。

委員  教える側のあるべき姿があまり議論されていない。教わる側がどうあるべきかということはもちろん大事だが、教えている側が果たして国際的な競争力を持っていて教えているのかどうか。その辺の改善点が相当あるのではないかと思う。また、現在の教員に比べ、昔の教員の方が時間にゆとりがあり、午後から夕方までずっと議論できていたが、今ではそういうことはほとんどありえない。修士でも授業をするようになってきたが、今度は博士でも授業をやるということになっている。その一方、教養での授業も、学部の専門の授業もやめられないし、ゼミも全部やっている。何が捨てられるのかということを併せて議論しない限り、このままでは結果として教員を疲弊させることにつながってしまうのではないか。何かそういうことを教える側のあるべき姿と合わせて議論すれば良いのではないか。
 それから特に理工農系の大学院教育に関しては、プロジェクト型の研究の存在と無関係にはありえない。教授が大型のプロジェクト研究を取っているかどうかにより、そこに所属している学生全員が非常に豊かな資金援助を得られるか、全く資金援助を得られないかという差が生じている。COEについて、文部科学省は得したような政策になっているが、一方でそういう歪みを生じていることも事実。したがって、奨学金をどうするかとか、PDEやRAをどうするかということだけではなくて、大型競争的な共同研究プロジェクトに学生が関与すること自体をどのように捉えるかということを議論する必要がある。これは教員と学生のインタラクションという問題として考えておかないと、今のまま放置しておくと差別感というのが非常に高まるのではないか。

委員  FDについては、教員の意識改革というような指摘があるが、これはまだ十分ではないので大切な点かと思う。それからプロジェクト型研究の問題については、確かに経済的支援の問題だけが十分に取り上げられているようだが、今のような、教員と学生の関係という立場での指摘は、理工系では顕著な問題であるにもかかわらずまだ十分ではなかったかと思うので、これから議論すべきだ。

委員  大学院数の倍増に伴って国立大学はもちろん私立大学でも規模が大きくなり、多分30%位は私学でやるようになっている。学部教育における国立と私立の格差という問題もあるが、国として大学院教育も経済的にやろうとするのかどうかということを相当深刻に考えるべきだ。単に拡大するだけでなく、大学院についてはどういうところのどういうレベルでやるのかという目標設定があっても良い。自由競争を大学院にまで持ち込むことは非常に危険。大学院の質とか量とかについて、国費の投入という観点からのみならず、考えないといけないのではないか。また、私学においては機関で完結性が期待できない。私立大学でも思い切って研究や大学院教育をやれるようなシステムというのはどういうシステムなのか。本当にレベルを上げるために共同の機関で行うなど、機関の完結性に頼らない方法も考えられるのではないか。国公私の差については、私立で行われている大学院教育というのが量的に今後増えていくとすれば、特に工科系の基礎研究などの問題はある。だけども一方で高度な技術者、国際競争力のある技術者を養成するというのであればお金がかかる。そこのところはどうするのかということはやはり議論が必要だ。

委員  申し上げたいことが2つある。1つはやはり学生がその課程に魅力を感じるかどうかというのが一番大事な点かと思う。特に工学系の場合には修士課程は非常に魅力的である。まず就職については非常にメリットがある。それから経済的負担も奨学金等もあるので自分で負担するにしても、保護者に負担してもらうにしても納得が得られやすい。ただし、博士課程に関してはやはり経済的負担が更に3年、あるいはそれ以上続くことや、研究が主体になっているので、その3年で終わるかどうかが分からない。終わってからどういう道があるのかもよく分からないというような非常に不確定な部分がある。やはり優秀な学生が素直に進学できるようなメカニズムにしたいと感じる。それからもう1点は、私立大学は他の外国の大学等に比べてPDを含めたいわゆる専任研究員を多く常駐させるということが非常に難しく、大学院の学生に研究の一部を担当してもらうというのが実情。ただし、教育の面からはこれは悪い点ばかりではなく、特に創造性の高い学生を育てるという点からは教員自身も正解を知らない研究に携わっていくというのは創造性を喚起する良い方法だと思っている。教育と研究をあまり分けずに重要な点をうまく使いながら教育にも反映させられるようなシステムが良いのではないか。

委員  地方の博士課程、あるいは大学院については、開発途上国の人材育成への貢献という要請が強いのではないかと思う。定員を非常にオーバーして農学系の修士課程に入るのだが、そこでほとんどが技術者として出て行く。それには研究者としての受け皿がない面が一つはあるのではないかということも考えられる。一番我々が感じるのは現場に積極的に出て行こうとする教官が比較的少ない。それにもかかわらず学生を世の中に出そうとしている。一般社会を経験したことがない人間が学生を育てて社会に出そうとしている。そういうところにやはりかなりギャップがあるのではないかと感じた。各大学、特に有名大学ほどほとんど純粋培養的に上がっている。そういう意味ではもっと教官の流動性というものを高めるべきではないか。学生について一番感じることは、農学分野ではいったん社会経験をして、その中から本当に問題点を把握して、これは何とかしなくてはならないという経験をした学生というのはやはり対応が全然変わってくるということ。フィールドがいかに大事かと感じている。そういう意味ではもっと教育研究の現場としての海外に長期に滞在できるようなシステムをつくり、教員もどんどん送り出すことが重要。あるいは10万人の留学生の受け入れと同じように、何万人かの留学生をこちらから派遣する。留学生はみんなアメリカなど先進国に行きたがるが、一方で途上国と交流協定を結んでもこちらからは決してなかなか留学しない。非常にレベル差ができていて、それは大学間のレベル差も同じような感じである。ちょっと今の問題点を申しあげたが、そういう意味では教官の公募についても任期制と同様に、もっと国外からどんどん良い人材を取り入れていくような方向で考えられないといけないのではないか。

委員  「国際的に魅力ある大学院教育」というのがすべて。これが国外の学生に対しての魅力なのか、外国の優秀な人材がどんどん日本の大学院に入ってきて頂きたいという観点からの魅力なのか、そこのところの視点が重要。材料系において、グローバルな視点で将来構想すると、色々な国から留学生がやって来るのだが、優秀な日本人の学部学生がまだ完全に英語化されていないことが多い。そういう意味で、語学教育のあり方についても審議すべきと思う。また、国際化を進めていくにあたっては、世界のトップレベルとの協調、共同歩調という視点が必要である。さらに、文部科学省は21世紀COEプログラムに力を注いでおり、2年半後には第1陣のプログラムについて評価が行われることになるが、質の向上の観点からこことのリンクを保つことは非常に重要なのではないかと思う。その一方、文部科学省の従来の施策との整合性というか、これについても何か審議する必要があるのではないか。

委員  ちょっと色々な学生の流動性といったようなところでいくつか感じるところがある。大学院の学生がなかなか研究所に来てくれないという問題があるが、それは学生が出身研究室、もっと言うと出身大学に進学したがる傾向があるためである。学生はかなり保守的に考えるので、これに対しては何らかの手を打たないとそういう傾向になるのも当然かと思われるが、日本学術振興会の特別研究員の場合、出身研究室を替わったり、他機関に進む学生を優遇するように、学部から大学院に進学する場合に何らかの政策的な方向で、何らかの経済的な支援を強化することで、学生に他大学の大学院等に進む意欲を持たせるような方法が必要なのではないかと感じていた。また、総合研究大学院大学は、もともと博士後期でやっているが、現在は既に生命科学研究科で5年一貫性を取り入れている。そのほかの研究科でも5年一貫性を目指しているが、博士後期の段階で痛感したのは、他大学の修士課程を終えた学生は、もっと良い研究環境、非常に良い研究施設を持っている機関への進学希望をかなり強くもっているということである。しかし、博士課程で修士課程と別の大学に行くと、また入学金を取られてしまう。せめて国立大学であれば一度どこかの修士課程に入学して入学金を払えば、より教育研究環境の良いところに移っても、再度入学金を徴収するということは何とか免除して頂けないかと思う。
 分野の中で比較すると、日本の大学院の博士課程の学生の上のレベルはアメリカの大学院生と比べて遜色がない。しかし大学院重点化で量的な拡大をして以降特に目立つのは、特に博士課程の学生の質も非常にスペクトルが広くなり、大学院の教育研究に付いていくのがやっとの者や、あるいは外国の大学院生と比べて見劣りがする部分がある者もいるということも感じており、そういう部分を一体どうしたら良いかこれは検討していくべき問題だと思う。それから、資料4の視点9を見ていて、論文博士の問題というのはずいぶん取り上げられていたのでそれに関係していることも書かせて頂いたが、このワーキンググループでその範囲にも立ち入るようなら、また後ほど考えを述べさせて頂ければと思う。

委員  教員自身が非常に忙しい。大学院を作っても、学部の講義はしなくてはならない、アドミニストレーションはしなくてはならない。委員会を開かねばならないで手一杯だ。学生とゆっくり話をする時間はなくなってきて、それではレベルが低下するのは当然のことと思う。さらに、10年間で経費を20%カットしろと言われて、益々程度を低くしようとしている。それがイヤなら自分でどこかから資金を稼いで来いと言われるが、稼いでくるためにまた出歩かねばならず、学生のための時間がどんどん少なくなっていることに危機感を持っている。それから国際的に魅力のある活動、国際貢献が必要だと思う。ただし、学生に関してはシンガポールや台湾の方がよっぽど元気だ。次から次と質問をしてくるし、やる気が満々である。むしろ日本の学生の方が全然やる気がない。国際貢献の前に日本の学生をどうにかしてほしい。もっときちんとした初等中等教育を受けていない学生が大学に入ってくるとどうなるのだろうという心配は非常にある。もう1つは「大学の流動性」。私の研究室でいえば自校出身の学生は3割にも満たない。ただ、大学院の学生が日本学術振興会の特別研究員を取る場合、どこか他大学に移ることを条件とされるのは無茶苦茶と思う。あと1年でも2年でも我が校にいて、特別研究員が取れれば仕事がまとまるのに、それではお金は差し上げられませんといわれるのは何となくおかしい感じがして、そういうことを上から決めて欲しくないと思う。あと、評価の問題は大事だと思う。ただしあまりにも評価に際して提出すべき書類が多すぎる。2ヶ月おき位に何か書かないといけないが、これではナンセンスだ。

委員  大学、あるいは大学院のキーワードは知的感動だと思う。もちろん小学校・中学校も知的感動はしているが、学問という観点から言うと知的な感動を与えるところが大学・大学院にあたる。そういうことから言うと、我々の学生の頃は良かったと言うのではないが、最近の学生は知識の量が減っているのではないか。ゆとり教育せいかどうかは判らないが、大学レベルではなくなっている。それは多分、高校の中身も少なくなっていることと連鎖反応的になっている。そういう意味で、本来、大学院はもっと知的感動を与えないといけないが、今はそうできなくなっているのではないか。大学院では講義ばかりをするのではなくて、知的感動さえ与えれば後は自発的に勉強してくれるというのが大学院のあるべき姿だと思うが、教える側からすると、いま大学院で教えるのは大変だ。学部レベルの基礎的な事項を大学院で教えているという状況があるが、これは学生の内部的な問題である。
 それから政策的な、大学の外部的な観点から言うと、良い学生をもって来るとか、あるいは流動性を高めるとか言うが、学生自体は市場原理で動いていると思う。留学生にしても市場原理で動くので、そこにいけば名誉か富かどちらかを得れば必ず来るわけで、その名誉と富をどのように与えるかということが政策的には大事になってくる。良い学生がアメリカに行くというのはアメリカに行けばお金が儲かるし、地位も上がるということがはっきりしているから。そういう観点から政策を考えていかないとならないということ。このWGで我々に課されていることは、理・工・農の3分野で大学院教育のビジョンが何であるかを作ることだと思う。おそらく各大学、各学部等によってビジョンは違うかもしれないが、少なくとも理・工・農ぐらいの大まかな立場からは大学院教育はどういうビジョンをもつべきかということをこの場でご審議頂ければありがたいと思う。

委員  今日お配り頂いた資料の理工農系関連資料の中に工学教育プログラムの資料がついているが、これは1999年の古いレポートであり、その後工学教育プログラムの国際化というか、日本のエンジニアリングディグリーを国際的に通用するものにしようということでこの分科会レポートが出た後かなり発展している。そのJABEEの認証を得るということが色々なところの工学部で大騒ぎをしているということはもうすでにご紹介になっているのか。

委員  基本的にこのワーキンググループは例えばJABEEもあるが、各分野別に、そういうかなり細かいところまで教育課程の問題、特にカリキュラムの問題、或いは設置基準の問題について具体的に提案をして頂きたいということもあり、特に工学分野では先行してこのようなことを行っているというご紹介でつけた。

委員  工学部分野ではこのレポートを基にして既に国際的な評価を行ってアクレディテーションするという段階まで進んでいるということを申し上げたい。そのときの大きな問題意識としては、日本のエンジニアリングディグリーを持っている人が全く国際的に評価されない、実力はあってもディグリーに対して評価が低いということ。よく言われるのは、日本の工学教育は問題解決能力が少ない、知識はあるが、問題解決能力に劣る、それから語学ができないので、国際的に通用しないということ。そこで、日本の工学部でも工学倫理ということを必ず教えるようにしよう、また知的所有権等についてもこれからは必ず教えるようにしようというようなことがアクレディテーションの条件になっている。アメリカから評価委員会の人が来て、日本の大学院の学生がとっているノートを見ると、とても日本の大学人が言っているような週何時間勉強するということをやったような形跡が見られないというような指摘もあって、かなり刺激を受け、割と一生懸命やっている大学もあるのではないかと思う。
 もう一つ、先ほどの国際競争力に関する発言に大変共感した。国際競争力のある大学にしようということは今までの検討結果にたくさん書いてあって大変良いが、それをいかに担保するかということが何も書いていない。ぜひ、国際競争力を担保するためには例えば何をすれば良いかという議論が必要である。それには国際的な流動性がもっと高まるような支援が必要だし、日本の大学で一流の先生をもっとどんどん雇えるようなリソースや、発表の機会も必要だと思う。そういう意味で今日本の地方の国立大学を見てみると、博士課程のリソース、これはお金という意味でも、人材という意味でも、学生に対する支援という意味でも、施設という意味でも非常に貧困である。COEに選ばれたところはまだ良いが、公立大学で選ばれたところは非常に数が少なく、そういうことになると改善する望みが全くない。だから、博士課程の充実、特に地方における博士課程の充実ということを考えたときには、すでに実績があるところに重点的に特化するということも意味があると思うが、これからのところにもある程度の配慮をすべき。

委員  先ほど事務局から説明があったが、大学院というのは教育機関であるという位置づけだと思う。そうであるとすればこの修士課程・博士課程・あるいは専門職学位課程、今の大学院で提供する学位はこの3種類あるが、この修了者に学位を授与するということが目的とする機関のはずだから、その趣旨を徹底させないといけないのではないか。現状では大学院というのは教員組織なのか、教育機関なのか、研究機関なのか、学生が所属する組織なのか、色々様々な側面を持っているが、すでに目的の明確化を実現している大学もある。教育機関としての大学院の教育研究者の所属する組織があり、研究院であるとか、研究部であるとか、学群であるとか、大学院によって様々な呼び方がされているようだが、要するに教員組織である。それは主として研究者集団と言ってよいと思うが、それと大学院とを区別して、教員組織に所属する教員が学士課程、修士課程、博士課程、専門職学位課程といった様々な教育プログラムを提供するという考え方を明確に打ち出すべきだと思う。現実的にはそうなっていないというところをきちんと整理する必要があるだろうと思う。
 それからこれは理工農に関してはあまり関係ないかもしれないが、大学院を教育機関と考えた場合には、入学定員と実入学者数との乖離は問題にするべきだし、就業年限と就業率の関係等も当然問題になるのではないか。定員を充足していない、あるいは定員をどれだけオーバーしているといったようなことは学部の場合には非常に問題になる。あるいは卒業率がどのくらいかというようなことも大学を評価する際のかなり重要な観点になっているのではないかと思われる。大学院の場合は、受験者の質が良くなかったから定員だけ入れなかったとか、あるいは入ったが質が悪かったから3割しか学位を出さなかったとかいうようなことがごく当たり前に起こっている。特に学位授与率は文系においては驚くべき低さだが、こういう状態で良いのかということをぜひ問題にするべきではないか。
 それから学位の質だが、これは大学院というのは学校教育法第65条で目的が定められているわけで、大学院を設置するときはこの65条に基づいて審査をするわけだが、そこでそこを修了して学位を授与するに当たってきちんと目的を達成した者に授与しているのかどうかという点の検証は果たして行われているのか。当然そういうことはそれぞれの大学院に任せていると思うが、それで良いのか。
 それから国際通用性ということが盛んに言われるが、国際通用性ということに関して私が非常に痛感するのは、まず論文が日本語で書かれているケースが非常に多い。日本史であるとか、日本の文学であるとかいう論文を日本語で書くのは当然だと思うが、学問分野が極めて国際的であると思われる分野にあっても日本語の論文が多いということが非常に不思議である。日本語の論文を書いて国際的に通用するはずはないだろうと思われる。ものすごく立派な内容であれば日本語で書いてあっても外国人が日本語を勉強して読んでくれるかもしれないが、少なくとも大学院の学生が博士論文を日本語で書いて国際的に評価されるとは思えない。私の分野に関して言えば、日本語で書いたものについては通常論文と評価しない。これは多分そういう分野が幾つかあることは承知しているが、日本語で論文を書くことが多いのは理工農の中でも結構あると思われる。これは先ほど教える側の姿勢ということもあったが、研究者がまず論文を外国語で書いてみせなくては国際通用性はそもそも担保できるのかどうか非常に疑問だ。
 社会のニーズということも盛んに言われるが、私の分野、あるいは医学の分野で言えば研究の原動力は社会のニーズと言うよりもむしろ知的好奇心であると思う。社会のニーズに誘発されて独創的な研究をするということはもちろんあるが、基本的な原動力はやはり知的好奇心であるということは強調し続ける必要があると思う。社会のニーズにばかり目を奪われてはいけない。これは理工農といっても、自分の分野の主張をしても良いようであるから、そういうことを声を大にして言っておきたい。
 また、学位授与率の低さとの関係では、単位取得満期退学という概念があるが、これは全くおかしい。少なくとも学部にはそんな概念は存在しない。単位取得満期退学という取扱いは、外国に証明書を書くときに書きようがない。これは考え直す必要があるのではないか。
 それからPD制度をきちんと確立する必要があるという点も問題提起をしておきたいと思う。学生の質とともに教員の質についても非常に重要で、設置審査の時に教員審査をするが、いったんできてしまえばその大学に任せるということになっていて、しかし事後評価をすれば良いではないかといっていて今そういう方向に動いているわけだが、国際通用性ということを考えるときに教員の質の確保ということは非常に重要な点ではないかと思われる。以上何点か問題提起をしておきたい。

委員  何人かの方から大学院の重点化に関係して質の低下のことが色々言われたが、私自身はもう少し楽観的に捉えている。重点化で大学院生の数が増えて、理論物理学の分野でも、大学院修了者がオーバードクター、あるいはPDEとして、日本全国だけではなくて、世界中にあふれている。行く先がないということで非常に困った状況になっているが、その中のトップクラスの人たちは多分どこかで助手の職について学問を支えていくだろうし、ちょっと希望が持てないという人たちはどこかで見切りをつけて、社会の色々なところに入り込んでいくのだろうと楽観的に捉えている。学位を持った人たちが社会の色々な場所で活躍する日がいつかくるのではないか。そういう融通性をもって色々な人を受け入れることができるような社会が実現すれば良いと思っている。ただし、今何人かの方もおっしゃったように、質の面では確かに低下している。昔ではとても大学院に入れなかった方たちも大学院に入ってきている。それに対して、旧国立大学の一部では依然として大学院を研究者養成機関として捉えているということで、修士課程でやめていく学生、あるいは社会で色々な分野で活躍していくことを期待される学生に対する教育がなされているかというと、確かになされていないと思う。一方、重点化で一部の大学に定員を増やしたために、教員がかなり多忙になっているということも事実。アメリカだと大きい大学でも大学院生、ドクターコースは1人くらいしか持たないということでやっているので、それに比べると教員の側が非常に大変だということは事実。大抵の大学では、大学の学部の1年生から大学院博士課程までものすごく長い期間の教育を背負って大変だが、色々な教育課程を可能な部分は簡略化して、メリハリの利いたものにしていくことによって何とか乗り切れるのではないかと思っている。
 それでも幾つか心配な点がある。学振の研究員とか、TA、RAなど色々なものが導入されているのは非常に良いことだと思っているが、あまりにも早い段階で評価される。しかも一番弊害があるのはDC1。あれは修士課程2年になった瞬間に申請するわけで、あの段階では独創性があるかどうかは多分わからない。それなのに、その段階でDC1を取れたかどうかということがその人が研究者になれるかどうかということに大きく影響してくるのは、非常に大きな弊害を生んでいると私は思っている。
 それから研究者になった後も、科研費の制度であまりに短期的な評価が横行しすぎるというのでは、私の分野のような基礎科学では非常に困ったことである。全体で日本のサイエンスを支えているという点では、日本の産業界とつながった工学の技術分野というのをサポートすることも重要だが、やはり基礎科学の分野も十分にサポートしていかないといけない。木の上の方にきれいな花を咲かせるためにはやはり根っこのしっかりした木を育てないといけないし、大きな川の流れを生むためには高い山の方からちょろちょろと小さな水が流れ出すような全体的な構図を作っていかないといけないという意味で、理と工のバランスのとれた大学院というものが作りだされていけば良いなと思っている。

委員  私の経験を踏まえると、今でも良い学生、国際通用性も持ったトップレベルの学生というのは生み出されていると思う。ただ入学者が増えてきていることを考えると、今度は質を上げなくてはいけないという意識に代わっているのだと思う。この前も、OECDがリリースした加盟国統計で、相変わらずのわが国のGDPに対する高等教育への公財政支出が平均に比べて7割という数字がでている。運営費交付金が今後毎年1%ずつ減っていくという状況は、国際スタンダード、グローバルスタンダードではない。そこをきちんとしてからでないと大学院改革の議論というのは砂上の空論で、先生方も学生も負担が増え、なかなか行き着きたいところに辿り着けないのではないだろうかと思う。改革は必要ではないといっているわけではないが、日本の大学院制度というのは従前の帝国大学の大学院のイメージを引きずっていて、研究主体で、各先生の研究そのものに密着してその好奇心を満たし、その専門的知識も身につけるというような格好できていると思う。今は研究自体がプロジェクト化されているというか、競争的資金を取ったりもしており、以前に比べてもより研究と直結しすぎるような状況にある。資源が研究プロジェクトに重点化されていることの弊害だと思うが、生まれてくる学生は、自分がやったそのプロジェクト研究のことは一生懸命やるものの、視野が狭い。社会ニーズに合う必要はないが、社会ニーズの意味するところは結局、専門バカでなくて、もっと社会性を持てということ。広い視野を持って、国際性をもつというのは、専門性では同じレベルにある学生と外国の学生とを比べると、他の分野に対する理解が乏しいということがある。国際性を達成するには、教える側の先生が、自分の研究プロジェクト以外のより広い視点から、若い人や国際通用性、社会通用性のある人を育てるのだという意識でやる必要がある。これはFDの問題になるわけだが、現状では評価報告書だとか、競争的定義の申請書を書くとかで、会議は多いし、忙しくてFDの催しをやっても、とても出席できないという現状だということを認識している。大学院にもっと教育的視点を入れるということは大切だと思うが、これがコースワークをたくさん導入してこういうものに単位を与えるということになると、今の単位の計算方法が大体学部の単位計算のようなことになっているので、非常に現場は困っている。先生方の研究指導であるとか、実習であるとか、フィールドワークであるとかそういうものは柔軟に分野、現場に応じて単位をきちんと認定する。ただこれが何でもありになってしまうとまた困るわけで、今後工夫が必要なところだと思うが、理系の場合には特にその辺の工夫が必要だと思う。
 それから大学院を教育という観点にシフトすると、学生がどうしても受益者という立場に追いやられがちだが、やはりグローバルスタンダードでやっていくならばOECD並みに公財政投資を増やし、国立であろうが、公立であろうが、私立であろうがやはり高度な国の人材を育てるという観点が必要。国が責任をもってそういう人たちを育てるのだという財政的な資源をしっかりしないと良い学生はこないし、きても余裕がない。3年間、ほかの人が稼いでいるときに一生懸命高度な研究に携わっているわけだから、できるだけ短い時間に必要最小限をやって出なくてはという羽目に追いやられているのが実情。学生の気持ちの中に国際通用性、社会通用性を持たせるには、経済支援というのは非常に重要な観点だと思う。

 その他
・次回以降の会議日程について、事務局から連絡があった。

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