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資料2
中央教育審議会大学分科会
大学の教員組織の在り方に
関する検討委員会(第5回)
平成16年2月5日


教員組織検討委員会(第4回)における意見の概要

【テニュア制度・給与の在り方について】
   テニュア制度の定義に、「当該大学の教員としての身分を保障する」と書いてあり、給料も全部保障するようにとらえられるが、必ずしも給料は保障されず、この点が非常に大事である。

   ドイツでは、原則として昇給はなくなり、業績評価により業績給を支給する制度の導入に踏み切っており、このドイツの在り方というのも一つの参考になる。

   アメリカの大学では、テニュアの評価が認められると、その大学のアソシエイトプロフェッサーやプロフェッサーになり、認められなくても、他の大学でテニュアをとったり、企業の研究者になっている。日本の場合、そういう制度を導入したとしても、アメリカのように簡単に動けるかどうかということは難しいではないか。

   アメリカでは、テニュアをとってからでも他の大学にもっと高い給与で引き抜くことはある。日本の場合は引き抜こうと思っても、国公立では、給与関係の法令に縛られているので、少なくとも待遇面でということは、ほとんどできない。

   一種の業績給を導入するというのはどうだろうか。

   国立大学の独立行政法人化にあたり給与についても検討したが、研究と教育だけでなく、社会貢献も含めて多面的な要素で業績査定をしていくことになった。ただ、異議申立ての機会を与えるなど制度的な仕組みをきっちり作ることが必要であり、3〜4年かけてやることとしている。そういうことから言って、現時点では難しいかもしれないが、方向性ぐらいを示すことはあってもいい。

   文化というか習慣というか、日本の場合は、教員の給与は、ほとんど事務的に決まる。主任教授や学部長が給料をいくらにするとか決めるということはまずない。アメリカや中国では、チェアマンなり学部長なりの考えで決まる。これを日本で導入するというのはなかなか難しいと思うが、その辺を少し議論してはどうだろうか。

   すぐに実行できない問題が多いとは思うが、方向としてある程度のことを書き込めたら書き込んではどうか。方向としては業績や能力を評価した給与の制度を導入すべきである。ドイツのように、年功序列給だったものを抑えて、能力や業績に基づいた給与を導入するといった形を導入していかないといけないと思う。

   私学は本来自由にできるはずであるが、現実は、給与も横並びであるという実態の中で、どううまく制度を入れて、機能させていくか。注意深く、なおかつ、知恵を出していかないとなかなか成果が得られないと思う。何かしらの方向性は出すにしても、給与とか評価ときちっと一緒にして提言しないと難しい。

   私学では、年齢が同じくらいの教授で給与が倍ぐらい違うケースがある。それは、実務的な経験もある先生を外から呼ぶために高くせざるを得なかったこともあるらしいが、必要性があれば、かなり柔軟なことが行える可能性を持っている。

   この機会にテニュア制を導入するのは望ましいと思う。ただし、あくまでも日本の場合、流動性を増やすことをやらないといけない。処遇は、固定的な給与と裁量による給与が必要。裁量というのは、必要に応じ、いくら出してもいいというもので、そのような性格を強めることを期待する方向を提言をしていただきたいと思う。

   私も基本的にテニュア制度を導入すべきだと思う。テニュア制度を導入し、できるだけフェアな選考をするということが、日本の大学の全体のレベルを上げることに役立つのではないだろうか。

   例えば、テニュアトラックのアシスタントプロフェッサーは給与がいいとか、若手研究者の研究費がとりやすいとか、何かインセンティブを与えることによって、若い人がそちらに行こうというふうになる仕組みを考えることが必要である。

   今下にいる若い人達からは、上にいる人たちの流動性のなさを指摘される。助手の問題でも、名前だけでなく、給与体系の在り方も考えないといけない。

【講座制・学科目制等の教員組織について】
   平成13年の設置基準の改正の表現も非常に曖昧。しかも、講座学科目省令が廃止されたが、それが周知されておらず、皆誤解している。ここを変えていかないといけない。

   大講座制といっても実は名前だけで、講座を5つ集めているだけの話であり、それぞれの講座は独立していて、大講座を取りまとめる人には権限は何もない。そういう形が非常に問題。基本的には、学科目制をとり、チェアマンをきちんと置き、そのチェアマンが責任を負うのがいいのではないか。

   設置基準の第9条を見ると、教授と助教授、教授と助手が最低ラインとなっているが、講座のこういう規定は廃止したほうが使いやすくなるのではないか。また、教授だけで講座を持てるようにする必要があるのではないか。

   アメリカの場合、チェアマンがオーガナイザー的な役割を担っている。日本の場合は、講座の主任になった教授が全権を握っているという印象がある。大講座制にして、中心となる者が全権を握って全てを運用するシステムを導入しようとしても、中にある小講座が分離した形で機能するような形になってしまうところがある。日本の今の感覚のままで運用するのでは、アメリカのようなチェアパーソンがオーガナイザーとしてやっていくシステムはうまく機能しない。

   今までの講座組織を合体させた大講座にし、研究教育診療体制もうまく機能し、話し合いでうまくいっている大学はあるが、一方では、大講座になりながら、結局、小講座に分離してしまったという捉え方をしている大学が多いのも事実。その辺、運用の仕方によってだいぶ違うのではないか。

   うまくいっているところというのは、リーダーシップを唱えてやっているところ。大講座になったとはいえ、従来の発想が抜けずにそのままになっているのが多い。問題は、新しい教育体系に変えたいという場合に、それが出来ないことである。そもそも一緒にやろうという発想がない。これがやはり問題である。

   現場では、未だに各講座が権限を持っていると思いこんでいる節がある。この講座制に関する規定が中途半端な書き方だと、現場では錯覚するのではないか。

   アメリカの内科の場合、主任教授がいて、その下に現在で30〜40名いるが、その教授を全部束ねてオーガナイズをしないといけない。研究面ではそれぞれは完全に独立しているが、臨床面ではチェアマンが責任を負って全部決めている。そういう形にしていくと、うまくいくのではないかという気がする。

   チェアマンの権限、教授の権限をきちんと決めることが必要。教授も本来はアメリカで見ていると、そんな大きな権限はない。自分の研究を進める権限はそれは持っているが、大学運営に関してはチェアマンが大きな権限をもっている。そのように制度を変えていかないといけない時期に来ていると思う。個人的には、学科制にして、チェアマンの権限をきちんと定義してやることが重要ではないかと思う。

   自分が工学部にいた経験では、各講座がそれほど絶大な権限はなく、むしろ若い人を育てるのに一つのユニットとして機能していたと思う。若い研究者を育てることを考えた時に、研究者の成長に対し責任を持っている人がいるということは、完全に一人一人がばらばらになってしまったときの育て方とは少し違う良さがあるかなと思う。今まで講座という形で運用されてきたが、大学科目や大講座にしても、人を育てる体制を運用で作っていくことはできると思う。

   大学院重点化大学だと、研究組織とは別に、教育組織は更地で作っていく。また、その方が教育組織には他の学部まで巻き込んでカリキュラムを構成しているので、かえって、今のところよく機能している。つまり、教員組織が教育を軸とするのか、研究を軸とするのか、大学によって相当違ってくる。

   基礎医学は、従来、全部講座単位で教育を行うシステムだったが、モデルコアカリキュラムが示され、講座単位の教育をやっていたのではできなくなった。つまり、呼吸器なら呼吸器というものについて、解剖の先生が構造を教え、呼吸器の機能について生理の先生が教え、そこへまた放射線の先生が画像を教える。そういう混ざり合った教育をしないと、今の教育はできない。若い人たちは如実にそれを感じており、従来の講座単位のシステムを改めるべきだといっている。基礎医学では、大きく言えばひとつの講座単位にしてしまい、その中で各教員が何をやるのかという、そういう動きになっている。

【大学教員の職制について】
   助教授の規定の「助」という文言は、実質的に意味がないので削るべきだと思う。その場合、教授という1つのパーマネントテニュアのポジションとするのではなく、2つのポジションがあって、昇進ということで評価が入るような仕組みにしておいた方が全体の活性化になる。また、上位の職に上がるときには、同一大学では禁止するというものも大学によっては決めていい。その辺をフレキシブルにするためにも、段階としては教授だけでなく、その前段階の職を置くことが望ましいと思う。

   ある程度プロモーションというものがないと、評価が難しくなってくるので、そういう意味で、段階としては3段階くらいがいいと思う。
 運営上の責任を負うのは上位の教授でないといけないと思うが、それ以外の教授も研究的では独立してやれる、そのような立場がいい。3段階というのは、アメリカで言うと、教授・準教授・助教授。そういう形で準教授以上はテニュアにして、一番下はテニュアトラックにする。そういう3段階がいいのではないかと思う。

   長い歴史の中で社会的にも、講師・助教授・教授の名称が認知されていると思うので、それを払拭するだけのものがないと、様々な影響が出てくるのではないかということを懸念している。
 また、これからは評価、競争というものも入ってくるので、その場合、国際的には3段階だとしても、各大学では、もっと様々な資格制度というものを入れていかないと対応できなくなるのではないか。それはその学校の考えでいいと思う。

   例えば社会科学の領域では、助教授というのは、単に教授になっていない若手の教員という捉え方であり、ほとんど対等で助けてもらうことは無いという関係なので、改めなければいけないという意思は強くない。ただ、教授に上げる際に何らかの審査が必要というのは間違いないところであり、それを準教授という名称にするということであれば、それでいいと考える。ただ、社会的に新しい名称が根付くかどうかという問題はあるかと思う。

   実際、自分の配下に置いて研究の手助けをさせている例は多い。やはり、名称の問題で、助けなくてはいけないということで、助けることをやっているところがあるのは事実。分野によって多少違うとは思うが、やはり外国との比較で、インターナショナルにどういう位置づけにあるのかということを比べればいい。

   助教授については、「〜を助ける」という職務規定を読んで助教授になった人はいないと思うが、その職務規定が実態とかけ離れているのであれば直せばいいと思う。職務規定がそう書いてあるから助けている人はいない。助教授は現在それなりの地位があるので、その名称についてあまりこだわっている人はいないと思うが、職務規定が変なのでこの際変えるというのであればいいと思う。

   新たに設ける研究者養成コースの人は、置くか置かないかは大学の実情に応じて違ってくるので、「置くことができる」というふうになると思う。

   テニュアトラックは、全てが上に上がるのではなくて、激しい競争があって、別の大学のテニュアトラックに行ったり、企業の開発研究に行ったり、いろんな人生のキャリアパスのネットワークがある。日本には、それがないとすると、割合を何%対何%対何%で思い描いて3段階のキャリアパスを作るのか。そのビジョンを描いておかないと、ぐちゃぐちゃになってしまって、上に上がれない人が溜まってしまうことになるのではないか。

   今までの議論からいうと、準教授というのは助教授としてしてきた人たちを指しているんだろうと思う。そこまではテニュア。で、テニュアトラックのところとして、今の助手層の一部を、まあ、講師の層だろうか、その中からいわゆる新しい助教授を作ろうというのが今までの議論だと思う。ただ、そのうえピラミッド構造も考慮していく議論するというのは、これは議論し切れるのかなと思う。これはかなり各大学の運用の問題に関わってくる問題なのではなかろうかなと思う。

   日本の助手は、あまりにも職域の幅が広いので、アメリカのアシスタントプロフェッサーに相当する方が何%なのかはこれから精査していかないといけない。

   将来の研究者養成のコースの、あるいは教員組織の機能単位としてのユニットの中に組み込まれる者として、講師相当の力のある者が就く職を置く。助手は各大学により事情があるだろうから、残しておくことも可能にしておかないといけないと思う。一律に全員が上の職に位置付けられたら大変なので、その辺の配慮が必要。

   これまで助手は教員の一種として扱われており、国家公務員の給与体系から言うと間違いなく教員の給与である。助手のうち、いわば教員でもない、事務職員でもない層というふうなものをどうするのか、ということが重要である。

   将来の研究者養成コースではない、教育研究の補助を行っている助手相当の者は、教官に育っていくラインとは別かなと思う。

   教授については、階層としては3段階ぐらいが妥当ではないかという意見が多く見受けられる。それから、名称に関しては、どうも教授・準教授・助教授でいいのではないかという意見が何名の方から出されていたように思う。職務内容に関しては、「〜を助ける」という規定は改めないといけない。職名に関しては、必ずしも「助」という字を排除しなければいけないという意見でもないように思う。

   今いる助教授と新しく作ろうとしている助教授は全く格が違うので、社会的に混乱するかも知れない。今は一般の人には助教授は結構えらいという感覚が結構ある。

   新しい「助教授」をつくるとなると、社会的には間違いなく混乱を起こすのではないか。アメリカのアシスタントプロフェッサーに見合う日本の名称は「助教授」はとるべきでないと思う。むしろ、「教授補」、「補教授」にするとか、何か全く違うものをつけないと、明らかに混乱を起こす。

   今の助手を講師にしたらどうか。確かに今の助教授より下だという概念は定着していて、もうちょっとで助教授になる人ということでいいと思う。

   講師という名前は非常に幅広く、助教授の下の意味の講師もあるけれども、そうではない講師もいる。

   名称に関しては各委員の先生が知恵を絞っていただければいいと思うが、例えば「権まるまる」というのも考えられる。判事補もあるので、「教授補」も考えられるかも知れない。

【内部昇格について】
   内部昇格、つまり移動しないということも問題ではないか。かならず上がるということを考えてもらうと困る。やはり上に行くときは、中で飛躍してもいいけど、外でも飛躍してもらわないといけない。内部昇格が2回続けてできないところもある。助手から助教授になった人は、絶対に教授になれない。そうでもしないとずるずる上に行ってしまう。そういうことも考慮したシステムを作らないといけない。

   現状では、国立では違うのかもしれないが、多くの大学では、講師の昇格で公募するというのはまず無いと思う。また、公募で助教授を採用すするというのもまず聞かない。教授については原則公募でやっているが、それ以外では大体外部からということが多いだろう。

   助手の公募は例外だろう。大学院の博士課程の修了者に対して、その中で指導教授が能力を見ているというのが多いパターン。臨床系だと、そこの実績を勘案して、要するにティーチングスタッフとして助手を採用している。そういう形で採用しているので、自校出身者の割合というのは、卒業後の教育段階から出ている場合には高くならざるを得ない。ただし、最近に変わってきている。

   臨床系では、卒業した人が大学の附属病院に残って臨床のトレーニングを受けて、そのままプロモートされていく。今後は、来年から臨床研修の必修化ということになり、卒業した人たちがみんな2年間の臨床研修が義務化されて、定員が各大学病院で決められたので、卒業生でも自分の大学で受け入れることができなくなった。従来より10%強の人が今まで以上に他の施設に移動する、混ざり合うようなことになる。そういう動きが始まっているので、これからは自校出身者ということだけではいかないだろうと思う。




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