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資料5
平成13年9月1日
 
中央教育審議会大学分科会制度部会
 
社会人学生の大学への受け入れに関する課題と提言
香川正弘
 
   大学・大学院における社会人受け入れに関する調査研究でイギリスへ行くため、次回欠席せざるを得ませんので、標記の問題について私見を書いておきます。
   
高等教育機関におけるパートタイム学生の受け入れ問題
     制度改革として、高等教育機関へのパートタイム学生の受け入れが問題とされている。この問題を考えるにあたっては、畢竟、大学を中核とする高等教育機関(以下、大学という)で、成人学生がどのようなことを学びたいと思っているのか、どのような教育機関をどのような形態で活用したいとしているかを顧慮して制度改革にあたる必要があるだろう。その意味では、21生涯学習時代にふさわしい高等教育機関の役割と形態を検討する視点が不可欠である。
   この問題を考えるにあたっては、前提問題として基礎的に検討しておくべきこととして、次の問題がある。
     第1に、成人は果たして大学を活用して学習したいと思っているのかどうか、
     第2に、もし活用したいと願うとするならば、何を学びたいのか、という問題がある。
     第3に、現在、社会人に開かれている大学教育の機会は多様にあるが、それらのどの形態を拡大していくべきか、その重点指向の方向を明らかにすることがある。
     第4に、パートタイム学生を大学に受け入れるのは、教育機関はどのような受け入れ態勢をつくるべきか。
     第5に、パートタイム学生を大学に積極的に受け入れることによって、社会的、経済的にどのような意味が生じるか。
   
大学開放を求める社会人
     大学教育を受けたいという社会人は、量的にも質的にも拡大していると思われる。その要因には、
     国民全体に占める高学歴者の割合が増加してきたこと、
     生涯学習が日常生活の中で定着してき、形態及び内容で多様な生涯学習活動が展開されるようになったこと、
     ライフプラン(生涯設計)セミナーの普及で、人生をよく考えるようになり、サラリーマン・シニアにも自己実現を求める生涯学習への取組みが広がってきたこと、
     終身雇用制が崩壊しつつある今日、実力を身につけることが生きていく上で重要であると広く認識され、職業能力開発への関心と取組みが広がっていること
  などをあげることができる。
   これらの要因を見ると、基礎的な部分では高等普通教育(高校教育)及び多様な生涯学習活動の普及があり、その結果として、従来にない生涯学習を求める動きが顕著になっている。自己の人生をより豊かにしたいと考える人々は、従来のような社会教育的発想での生涯学習だけでは満足できず、より高度で本格的な学習を求めるようになってきているのである。換言するならば、気晴らしとか余暇善用的な発想での生涯学習ももちろん必要であるが、それだけでは不満である層が急速に増えている。求められている生涯学習は、厳しい指導を受けながら、自分なりのライフワークを追究することに至るものであろう。そのような高度な学習の機会が地方でも都会でも十分に開かれていないため、やむを得ず従来の生涯学習活動に参加したり、講演会を渡りあるいたり、友人で学習会を持ったり、あるいは次々と資格取得試験に挑戦するというようなことをしていて、求めるものと現在開かれている学習機会や内容との間に、ますます乖離が生じている。
   
知的生涯学習の内容
     人生80年時代になり、自分の人生を大事にしたいと思う中高年は、より人生を豊かにしたいと考えている。特に基礎学力のある高学歴の人々の生涯学習の志向性は、二つの方向にあると思われる。ひとつは、中年以降になると、長い人生を考え、仕事に代わる「生きがい」を求めようとしている。これは単なる気晴らしではなく、仕事に打ち込んだのと同じように打ち込んで追究できるものを探そうとする。いわばライフワークである。ライフワークを見つけるためには自己発見が必要である。自分が何を求めているか、その自分とは何かということを考える学習が必要となる。文学、歴史、心理、宗教、倫理等の学問から、人間の生き方を考えるような学習が求められてくる。また人々は、自分に最も適したライフワークを見つけようとし、見つければ指導者を得て、時間をかけて基礎を形作ろうともする。中年以降になると、あることに熟達するためには基礎的な学習が必要であることをよく理解しており、その段階を経てはじめて自由闊達な境地と交わりがあることも経験上よく知っている。これらのことが芸事であるならば、すでにわが国には十分に体系化された生涯学習体系が存在している。しかし、学校教育の教科の延長線上では、継続教育としてほとんど何もなされていない。
   もうひとつの方向は、職業能力の開発である。現今のように厳しい雇用状況になると、資格を取得したり、最先端の世界に通用する技術、技能、思考法やアプローチの発想法を修めないと、将来の職業生活に不安を覚える人が多い。この意味で、職業上の能力開発を開発することに関心のある人々が多い。これに対応する生涯学習は、一般にはリカレント教育という分野で考えられる。一定の期間仕事をしては学校へ帰って仕事上のことを学び、また仕事場へ帰ってというのを繰り返すことであるが、これがわが国では種々の制約から十分になされていない。また、厚生労働省が所管している職業能力開発の部分も、多様なニーズに応えられる形態になっていない。大学等では卒後教育に熱心なのはごく一部の学部に限られている。職業能力の開発の分野はあらゆる職種にわたって必要とされるが、直接役立つことに限られて提供される教育が多く、原理的な側面から問題を考えるような職業教養的な分野が欠けている。たとえば和菓子職人は『源氏物語』に表れた四季観を学ぶということを聞いたが、そうしたリカレント教育の発想が21世紀には必要と考える。
   
大学教育の社会人への開放
     上述したような生涯学習の志向性に応える機関としては、大学が最も適していると考える。わが国では、大学を中核とする高等教育機関は、全国のどの地方にもあり、誰でもが車でどこかの機関に通うことが出来るということがある。これはポリテクセンターのように全国展開はしていても数が少ないのとはわけが違う。若い人ならば、何か学びたいと云えば、生活の場を移して学ぶことが出来るが、社会人は家庭があり職場があるから、通信教育や放送大学の例外はあるが、基本的にはその地域で学ぶしかない。次にそれらの高等教育機関は、専門家集団と専用施設を有し、18歳以上の若者を教育することに慣れていることがあげられる。若者中心から社会人をも教育の対象に含むとするには、他の学校よりも遙かに近い教育機関である。大学は学問をしたいと思う人に対して、出来るだけ機会を開放してきたということを思い起こせば、本来の大学の姿に戻るということでもある。また大学における教授法も成人の教育に適している。広く体系的な知識を授けるには講義方式、学習法と探求力を学ぶには演習方式があり、生涯学習における講義は成人講座に、演習はゼミやチュートリアルクラスになっているからである。
   さて、上述の人間の生き方に関して学ぶ場として、大学は最も適しているであろう。単に年を取れば、どのように過ごすのが良いかとか、社会で行われている生涯学習でも生きる意味を考えさせる講座がたくさんあるが、ハウツーものが主流で、真に生きることを考えさせるものになっていない。歴史上にみる人の生き方、思想家、文学作品、芸術等を通して、多様な生き方を考えさせるには、大学の文科系諸学科はその扱う幅が広いので、多くの人の問題関心に適合していると考える。また、文系の範囲内でライフワークを追究するのであれば、研究するという姿勢を持たない他の生涯学習機関ではできないことであろう。リカレント教育の部分も、大学が適している。単に卒業生を送り出せば仕事が済んだという発想から、将来にわたって卒業生の専門分野の学力に責任を持つという卒後教育の発想を導入することは考えられることである。リカレント教育や職業能力開発の諸機関が現実対応的であるのに対して、大学は原理的、先端的な教育を提供するならば十分にその存在意味を発揮することが出来る。
   
大学開放の問題
     大学に社会人を受け入れるために、現在は様々な形態が採用されている。科目等履修生、聴講生、研究生、公開講座、そして正規の学生として学びやすくするために、入試制度を変えたり、昼夜開講制、果ては社会人学生を中心にした放送大学等や、夜間大学院などもあり、最近は大きく入口が開かれてきた。確かに新しいメディアを利用した大学教育は今後も普及して行くであろうが、やはり教育の原点は、人と人との人格的接触によってなされるということにあるのではなかろうか。その意味では、既存の大学に社会人を受け入れる努力をもっとする必要がある。特に大学教育は、単なる知識の伝達ではなく、知的探求力を身につけさせることにありとするならば、その中核は演習にあると言っても過言ではないだろう。少人数の演習に参加することによって、問題発見、資料検索、意見交換などを通じて探求力を身につける。この教育の過程は、社会人にとっても最も意味があるであろう。なぜなら、彼らは大人の学習の仕方を学ぶことができ、かつ自分の生活経験に照らして意見を述べること機会が与えられるからである。その意味で、社会人に大学教育を開放するのであれば、演習の開放が必要であると考える。
   科目等履修生に大学の授業科目のどれを開放するかということは、教員の意向を図り、大抵は基礎的な概論科目の講義に限定される傾向がある。私の授業(講義)にも科目等履修生は何人か参加しているが、概論で人数の多い授業であるから、履修生と個人的な接触はないに等しい。一般学生と異なり明確な問題意識を持っているから講義を聴きに来る熱心な社会人の場合、多人数の講義では質疑の時間を設けることもないので、自分の問題意識を教員にぶつけるのは難しい。また学問を通して一般学生と交わろうとしても、人間的なつながりを持てるような場にはなっていない。学生数が多いから時間を昼間から夜間に移すことも出来ない。このような状況では、単位補充の科目等履修生はあっても、その他の利用者はあまり発展するとは思えない。
   次に社会人を対象にした大学開放講座(extensionlectures)がある。これの本来の意味は、「大学で学びたい社会人に大学教育を開放する」ということであるが、優れた実例はあるものの、必ずしも適切に大学教育を提供しているとは言い難い。概論や輪講が多く、本来大学教育で課す指定読書、発表、レポートなどを課したものは極めて少ない。また授業科目が概論・概説に偏りがちで、社会人の多様な学習ニーズに応えていないこともある。時には、なぜこれが大学開放講座なのかと疑うようなものすらある。概説的講義であるから、若い人たちは担当しがたいものがあるし、研究や探求する熱意も伝わりにくい。大学院にも社会人は入ってきているが、問題を起こす場合が多々見られる。学問の論理よりも生活体験の論理が優先するとか、自説に固執して教授とぶつかるとか、といったことはトラブルの原因になっている。
   
社会人に大学開放を進めるには
     社会人の生活態様と高度な学習ニーズに応えていく筋道としては、大学開放講座での学習を基礎にして、大学院教育へ社会人を入学させることであると考える。科目等履修生も制度的にはいいが、ここでは開放講座で、演習・ゼミ形態での講座をぜひ奨励して欲しいと思う。少人数(少なくとも受講生が相互に議論できる程度の人数として最大限20名以下)、問題探求型で、担当教員が研究している分野で開放するというようにすれば、社会人のニーズにも応えるのではないかと考える。担当教員が研究している分野で社会人を対象にして演習を行えば、若い人でも授業を担当することが出来るし、その教員の研究にかける情熱も伝わる、何より教員の側のやる気が違うだろう。自分の研究していることを直接授業で扱えるというのは、一般学生が対象の大学教育では滅多にないことだからである。演習であれば、教員と受講生、またそれに参加する在校生との交流も生じるし、忘れていた大人の学習の仕方も身に付けられる。少人数であれば、お互いの都合を考えて都合のいい時間帯に動かして開ける。これならば多様な科目が開放講座として開かれることになる。教員が研究しているテーマを出して果たして受講生があるのかということは疑問に思われるかもしれないが、多くの人の中には案外おられる者である。私はかつて地方の国立大学で研究テーマそのものの「イギリスにおける大学開放の起源」と題して開放講座をしたことがあるが、7人も受講生が来て驚いたことがあった。人数が少なくても研究の面白さを分かち合うのでいいというように、発想の転換をしないといけないと思う。
   この演習開放にはもちろん一般学生も参加させて良く、単位を求める受講生がいれば単位を出してもいいだろう。受講生がこの種の演習講座で教員と密接に結びつき、自立したテーマを見つけ、継続的に探求したいということになれば、レポートを提出させ、それでもって優秀であれば大学院の課程に進学を認めるようにすることが考えられていいだろう。社会人が直接に大学院に進学する場合もあるが、演習開放で学問的ディシプリンを経て進学してくれば、教育に携わる方としても指導がしやすいと考えられる。一大学内で多くの教員が研究を演習形式で開放すれば、それに参加する受講生達と担当教員は固く結びついた支援者となり、車で通える広範囲な地域社会に大学がしっかりと根付くことにもなる。併せて大学の経営も向上することにも繋がるだろう。
   
行政上の整備
     現在、大学は18歳人口の減少に伴って、時代のニーズに合わせて改編を繰り返してもなお、経営が危ない大学や短大が多くある。大学生の学力不足も深刻な面もあり、大学は正に変革を余儀なくされている。この両方の問題を一挙に解決して行くには、生涯学習の分野に大学が積極的、主体的に進出していく以外には道はないと考える。現状を打開するためにという姑息な考えではなく、本来、自律した人間が大学で学びたいと思うならば、学べる場にするという本来の大学の姿勢に換えていくことが必要なのである。その際、今在籍している若者たちと社会人(高齢者を含む)が一緒に学ぶ場となるということで、大学の教育の原則はそのままに維持することに留意する必要がある。つまり社会人を入れたいがために教育・研究の原則を曲げて安易に流れれば、それは大学の自滅につながり、一般学生にも却って悪い影響を与えるであろう。
   本提案では、従来の大学開放講座に加えて演習講座の開放の必要性を強調し、演習講座が社会人の大学院への進学の苗床だと位置づけた。一人の教員が少人数の演習講座を持つということは、大学経営から見ると採算がとれないに違いない。大学を地域社会に根付かせ、国民にライフワークを追究させて知的能力と創造力を開発させ、在校生にもいい影響を与え、真の生きがいを見付けさせることによりモラル・ハザードを防ぎ、かつ大学の経営にも資するために、担当教員の講師謝金は国費で持つことを考えてはどうであろうか。たとえば、一人の教員が10人の受講生を持ち、前期だけで2万人がこの種の講座を担当するとする。教員の講師謝金を授業のための教材資料作成費を含めて前期20万円とすると、かかる国費は40億円となり、年間を通じては80億円となる。受講料収入はきまえよくその大学の収入にすれば、大学の経営にも役立つに違いない。受講生は演習講座を自分の居場所にして、従来からの大学開放講座や文化活動にも参加するであろうし、大学院に進学するようになれば、さらにそのまま経営を好転させる。大学で学びたい人が学べるようにするためには、一般学生に与えられているような奨学金も必要だろう。
   また、社会人を大学の構成員に加えていくには、大学と地域社会との結びつきを強めていく必要がある。この役割を果たすのは学生部や広報部ではなく、大学教育開放センターである。現在、200弱の大学にこの種のセンターが設けられているし、また技術系でも産学提携のセンターが設けられている。この両センターは統合し、大学と地域社会とを結ぶ結節点にならないといけないだろう。大学の持つ資源を社会の専門職集団や職業集団、ニーズに合わせて開放するにはどうしたらいいかを考え、地域社会の学習ニーズを教育的に編成していく能力のある人材を教員レベルでも事務レベルでも配置していくことが必要である。最後に、社会人が大学で学びたくなるためには、地域社会で展開されている生涯学習活動の中に、知的生涯学習を導入してレベルアップしていくことが前提条件になる。
  追記
     パートタイム学生という表現は、わが国では馴染みにくいのではないでしょうか。パートタイム学生の対句はフルタイム学生となり、フルタイム学生という言い方はされません。定時制学生と全日制学生というのも実態に即しません。また伝統的学生、非伝統的学生という表現も、にわかに出現した言葉で直訳的です。もともとこれはイギリスの大學でいえば、学生の着る衣服が貴族、庶民等で異なっていて、非伝統的学生は平服で出たというのに由来し、その正しい意味は日本人には分かりません。欧米ではアダルト・スチューデントというのが最もポピュラーと思いますが、それならば社会人という表現が分り易いと思います。
     加えて、大人の学生が、すべて大学卒業の資格を得たいと思っているわけではありません。学びたいことを学びたいという人が多いと思います。大学卒業には、所定の単位が必要で、関心もないことを学ぶ気などは多くの人にないことです。その点、特化されたことを学べる高度な講座というのは、社会人にはよくあっています。社会人に大学を開放するのならば、大学院が中心になるというのは、特化された領域だけを問題にするからです。特化された領域を学ぼうとすれば、必然的にその概論部分を押えなくてはならなくなります。
     わが国で遅れているのは、学卒を中心とした高学歴者に対する生涯学習です。公的な生涯学習は社会的弱者に向けられていて、高学歴者の盛んな学習意欲に対応していません。彼らこそこの国を支える知性人の大部分を形成しているのであって、そこの知性がさらに開発されるようになっていないのはまことに遺憾なことです。
     大学開放は「大学教育の開放」と本文で述べていますが、それは基本ですが、「大学の研究の開放」というのがわが国では妥当するでしょう。ならば、それぞれの大学の位置において、実質的な開放がなされると思われます。地域住民の知的生涯学習を振興するためには、大学コンソーシアムよりも、大学開放コンソーシアムの方こそ必要であると考えます。
     旧労働省は、学習企業といい、従業員の知的熟練化を推奨しました。社会において知的なことに意味があるということを再認識させ、それを企業においても実現するように、学ぶことに時間を使うことが一般的に認められるようになる必要があります。これには人事考課において、個人の学習歴を考査の対象にもするようにしてはどうでしょうか。その学習歴が正当なものかどうかを判定する団体も設けられるべきでしょう。大学と企業、それに行政当局も交えて、大学開放の諸問題を絶えず戦略的に考える組織が必要不可欠と考えます。

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