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資料1
中央教育審議会大学分科会大学院部会
理工農系WG(第5回)平成17年1月11日

中央教育審議会大学分科会大学院部会 理工農系ワーキンググループ(第4回)議事要旨(案)


  日時   平成16年12月14日(火曜日) 10時〜11時30分

  場所   経済産業省別館10階1020会議室

  出席者  
(委員)   黒田玲子委員
(臨時委員)   相澤益男(座長)、天野郁夫、荻上紘一の各臨時委員
(専門委員)   有信睦弘、一井眞比古、井上明久、岩崎正美、植田利久、小野田武、清水康敬、谷村秀彦、田村武、長田重一、野依良治、東島清の各専門委員
(文部科学省)   徳永高等教育局担当審議官、泉高等教育局担当審議官、丸山大臣官房担当審議官、栗山学生支援課長、杉野専門教育課長、小松大学振興課長、山崎主任大学改革官他

 議事

事務局から資料について説明があり、その後、次のとおり意見交換が行われた。

(○:委員、●:事務局)

委員  資料3の2頁の<教育・研究指導の在り方について>は、「修士課程における」という文章が抜けているのではないか。これは修士課程における文章として読んだらよいのか。

事務局  修士課程ということではなくて、全体に通じての文章である。

委員  これまでの議論の中でグローバルスタンダードとか、留学生を入れるとか、例えば、論文審査について、世界的な水準を確保するなどという議論があったかと思うが、国際的な論点の話が抜けている。

事務局  グローバルスタンダードについては、<博士課程の学位の取扱い>のところで議論頂ければと思っている。いずれにしてもこのまとめはあくまでも従来先生方から頂いたものを少し体系的に整理をするとこのような格好になるのではないかということであり、これを採択して、これも採択するというように厳密なことを行っているわけではない。

委員  現実は理工系の大学院は半分くらいは留学生だということを考えると留学生を抜きにした議論というのはあまり現実性がないと考えたので発言した。

委員  基礎研究をどうするのかという視点が全くない。最初の「研究者の養成のみならず」という一言で終わって、後は高度専門職業人をどうするかという関連で、社会の要請だ、産学連携だ、そういう言葉ばかりである。本来の日本の基礎研究をどうするのか、その基礎研究をやるための科学者をどう育てていくかという視点がほとんど取り入れられていない。

委員  大学院の定員が大幅に拡充されて、ドクターコースを修了したPhDが全て大学の教員として収容できるかというと、とてもそういう数にはなっていない。では、国立研究所も含めて収容できるかというとこれもそうではない。そういうことで、産業界の研究者も含めた研究者養成の役割を果たさなくてはいけないという前提で考えたい。その上で日本の研究をどういう形で支えていくか。産業界の研究者も含めた研究者群の中からアカデミアで活躍する人、産業界で活躍する人がかなり流動的に選択されながらそれぞれの役割のところに順次落ち着いていく、或いは機能分化していく。こういう流れを本来は作り出すべきだろう。ここに書かれていることはそういう観点が十分ではないような気がして、はじめから大学に残る研究者とそうではない研究者というような前提のような文脈は何かやはりおかしいのではないかというような気がする。今の定員規模は何を目的としてこれだけ拡充したかという原点に立って考え、その部分をやはり生かしてかなり大規模な高度な研究能力を持った人たちを支えながら、その中で本来アカデミアで活躍する人、産業界で活躍する人、或いはその間の相互の流動性を保ちながら日本の中の研究機関でやっていく理想的な体制ができれば私は産業界にとってもハッピーだし、アカデミアにとってもハッピーだろうと思う。日本の中で基礎研究ということをあえて言わないと、全てが何となく産業界向けの研究になってしまうのだとしたらそれはどこかで言わなくてはいけないかもしれないが、そういうことはわざわざ言う必要はない気がする。産業界サイドとしても基礎研究がなければ産業の将来は無いということは明らかだから、そういう意味でむしろ日本全体としてどういう研究者を養成していくか。その中で教育をどういう形で位置付けていくかということを考えて頂くのが良いのではないか。

委員  5年制の博士課程の修了者、博士取得者が何となくアカデミアの仕事を前提としているように書かれていることは私の認識とは違う。やはりそういう人たちが、産業界で、かつアカデミアでそれぞれ仕事をし、交流し、特に人事交流の最も大事な層だと思う。やはりそういうことを構築しなくてはならない。これにはやはり5年制の博士課程、特に工学系では、理学系のような基礎研究を中心とするところとはちょっと違うフィーリングでカリキュラムを構成すべきなのではないか。
 博士の学位の取得を断念した者に対しても、何とかしてマスターを与えて、という文章は非常に本意ではないという気持ちが強くある。
 基礎研究なのか、応用研究なのか。これは逆に言えば大学のチョイスの問題、或いはバックグラウンドの理学部と工学部の基本的な考え方の問題であって、その辺は各人の見識としてやって頂くことなのではないか。ただそれに対するファンドとか国の政策についてはやはりストーリーとして議論して頂きたい。

委員  ここでは基礎研究を否定しているわけでもないし、応用が重要だということを言っているわけではない。そういうことではなくて、それぞれの研究者ということがあるはずであってという立場で始まっている。その研究者がちょっと偏ったことではないかということ。産学連携云々ということは別のところに書いてあるが、別に研究者を産学連携にとか云々という話では無い。

委員  コースワークだとか、実習だとか、講義だとかを増やして研究室にいる時間をなくしてということになると、何か基礎研究をおろそかにするようになってくるのではないか。私は分野によって違うと思う。医学や理学では、むしろ大学院の学生を減らしてでも、もっとれっきとした人たちを受け入れることが重要ではないか。これだけ大学に学生が増えたのだからコースワークにしようというは逆の考えで、むしろそんなにたくさん必要ないから減らせば良いと思う。一人の先生の受け持ち学生がものすごくたくさん増えている現状がある。だからコースワークにしろというのだが、それだったらもっともっと質の悪い学生を出して行くことになリかねないと思う。

委員  大学は教育と研究をやるところだ、大学院も教育と研究をやるところだと言って、教員と学生の間の利益相反が起こっていることにやはり一番大きな問題があるのではないかと思う。基礎研究、応用研究の問題もあるかと思うが、学術研究とそうでないものはやはり分けなくてはいけない。色々なところでやはり学術研究というものと基礎研究というものがごちゃごちゃになっているのではないかと思う。大学というところはやはり学術研究をやるところであって、それは基本的には自己の精神の高揚、或いは自己実現ということをやるべきだ。学術研究をするという姿勢が教育と関わって大変大事だろうと思う。基礎研究をどこでやるのかということだが、それは理研なり、産総研なりそういうところでやればいいわけであって、そこには教育がない。基礎研究というのはやはり基礎をやるのであっても、何かの目標の上に何かがあるわけであって、その基盤を築くということ。これは相当アウトカムに対する評価というものが問われると思う。学術研究というのは主としてやる人の主観が大事だろうと思う。しかし、基礎研究というのはアウトプット、アウトカムに対する評価というのがある。対象は同じであっても学術研究と基礎研究は全然違うと思っている。研究するモチベーションであるとか、そういったものは全然違う。大学院の大きな問題は学術研究が全くおろそかにされているということ。

委員  学術研究と基礎研究というのはどう違うのか。

委員  学術研究というのは本来やはり自己実現のためであるとか、或いは精神高揚のためにやるというのが元々の研究だ。だから言ってみれば、文学部の研究であるとか、哲学の研究とか、同じ精神で自然科学の研究をするということ。

委員  工学部でも学術研究はあり得るのか。

委員  それはもちろんだ。農学部もそうだろうと思うし、工学部でもあると思う。そこではやはり考えるとか、感じるとかそういった真善美に関わるようなことというのは非常に大事だと思う。多分物理でいうと湯川先生も朝永先生も基本的には面白いとか、不思議だとかそういう気持ちでやられていたと思う。

委員  基礎研究であっても、そのような気持ちを持ってやっていると思うが。

委員  基礎研究の場合、アウトプットが問われる。

委員  それでは大学では基礎研究はやっていないということか。

委員  やっていると思う。

委員  対象はもちろん同じだろうと思う。

委員  多分、言葉の使い方の問題だと思う。知的好奇心を満たすために行う学問と、人類の役に立つためにやる学問とに分けられるのではないか。知的好奇心を満たすための学問と、人類の将来に渡って役に立つ学問とにいかに限られた財源を配分するかということが科学技術政策である。

委員  学術研究にはそのような資源配分はいらないということか。

委員  そんなことはない。知的好奇心を満たすための学問が10年、50年スケールでは必ず必要だ。それと人類の将来に役に立つための学問もまた非常に重要だ。その両者に限られた財源をいかに配分するかということが我々にとって非常に重要だ。

委員  私が先程発言した基礎研究とは、知的好奇心を満たすための研究で学術研究に相当するのかと思う。

委員  対象は同じになることは多いと思っている。しかし、例えば理化学研究所は基礎研究をやっているが、これは社会的な要請でやっている。それは科学の基盤なり、或いは産業の基盤なり、社会的な要請に基づいて基礎研究をしている。しかし、大学で行われるいわゆる基礎研究というのはそもそも、そういうものではなくて、学者が知的好奇心に導かれて自己実現のために行うというのが本来だ。しかし、科学と社会の関わりということが非常に多くなってきて、大学にもやはり多大なお金が投じられる。お金を投じるからそれを評価するということが起こってきて、今のような状態になる。これは、私は全て正しいとは思わない。しかし、割り切って考えると、学術研究と基礎研究とは、要するに今おっしゃったブルースカイ・リサーチとベーシック・リサーチとは違う。政策的に、或いは社会の要請によって行われる研究とは違う。そういうことで、大学人として考えれば、社会からの要請によって行われる研究というそういう力が大学を侵略してきている。全てではないが、本来の教育を損なっている面があると思う。

委員  学術研究を大学がやるべきだということか。

委員  学術研究をきちんとやるべきだ。クオリファイされた教員を選んで、そして、そこで自由にやりなさい、それが大切だ。そこは望むならば評価の対象外であって良いのではないかと思う。その観点がなくなってきている。日本だけの問題ではなく、世界中の大きな問題だが、大学の教育というものが衰退していると思う。

委員  この資料を説明して頂いて、少し違和感を持たざるを得ない。一番気になるのはドクターコースの教育のことである。修士に関してはいわば理工系であればスクール制があっても良いと思うが、ドクターコースについては、「コースワークを経て学位を要求する」とか、「論文に偏重した評価を行わないよう留意する」というのは、何か形だけ、或いは方法的なことだけで良いので、中身はあまり評価しないよという、まさにこれは学術研究では全くないというような感じにも読み取れる文章であって、どうも私はドクター論文を書くのに研究的手法や専門知識を徹底的に習得したことに対して学位を与えることが基本であると少し反論したくなる。それと同じことだが、「学位取得に至るプロセス管理を通じ、積極的に課程博士を与える」ということも何か学位を安売りしているのではないかという感じがあり、どうも大学でやる学術研究という観点からすると反対側の意見になっているのではないかという印象がある。修士課程の議論とドクターコースの議論をかなりミックスしてしまって、曖昧になっている。修士課程ならばイエスと言えるが、ドクターコースではノーと言わざるを得ないところが合い混ざっていて、どうも私としては修士に関しては色々なところで賛成できるが、博士に関しては「ああ、そうですか」と言えない部分が多々ある。

委員  全体的には色々な方法が共通していて、取り入れるべきというか、取れ入れられたら良いなということがたくさん書かれている。ただ、理工農系全て同じ方向に行きなさいという感じに取れる。今回大学院の在り方を考えるときに大きく分野を分けたというのは多様な時代だから多様に対応できるようにというところを考えてワーキンググループを作ったと聞いている。その観点から見ると、理工農系を一本に見えるような記述というのは良くないと思う。例えば、各大学はまず各課程において育成すべき人材像を明確にするべきではないか。それに基づいて教育方法なり、評価をどうするか、或いは研究とか能力の点も含めて、そういったことをきっちり考える独自性の高い課程をまず考えるべきであるという大枠があって、その中にここに書かれているのは、それぞれこの中から自分の課程にふさわしいものを組み合わせるなりして、或いは更に独自のものを考えて人材育成するということを明確にするべきであると思う。

委員  私は文科系の人間で良く分かっていないのかもしれないが、今ご指摘の通り、理工農と一緒に考えているために色々と議論が複雑になっているというか、明確にならないところがあるのではないか。前回もプロフェッショナル・スクールのことを申したが、やはり日本の大学院制度はプロフェッショナル・スクールとグラジュエイト・スクールが分化していない。しかもプロフェッショナル・スクールに当たる部分がどんどん肥大して、グラジュエイト・スクール的な部分を圧迫しているというのが現状だと思う。一番圧迫度が少ないのは理学部で、工学・農学はほとんどマスターの学生が中心になってしまっているわけだから、それで一括で議論すると問題があるのではないか。もう一つの問題はそういう中で、ここに書かれているが、要するに独創的な研究者をどうやって養成するのかということは確かに影が薄くなっていると思う。だから課程博士を出すようにしようとか、コースワークをしようという話ばっかりになっていて、アメリカで言えばPhD型の研究者をどうやって養成するのだという視点が非常に弱くなっているのではないかと思う。今ある日本の工学や農学系の修士課程の大学院を専門職大学院化するべきかどうかは別にして、機能的に本来分離した方が良いものがごっちゃになって、しかもそれが全体を歪めているという構図がここに来て投影されているので、このままいくと、実は人文社会系の学問も段々似たような状況になって困っているのだが、基礎的な学問というか、本来の意味での学術研究が大学の中で廃れるのではないかと。そういう危機感を私は持っている。

事務局  ご指摘頂いたことは冒頭に「研究者養成プログラムと高度専門職業人養成プログラムとを明確に区別して設定することが必要」ということで、少しすっきりさせようという宣言をしている。例えば資料3の2頁の一番上に書いてあることだとか、或いは3頁の一番上に書いてある事柄というのはどちらかというと、独創的な研究者を養成するための組織的な教育活動、そして在り方はこうではないかということのつもりでまとめて整理されているものだと思う。もちろんご指摘のように少しここでは端折った感じにはなっているので、理学・工学とか、理学の中の物理とか生物とかについて何も聞いていないので申し訳ない気はする。そういう意味では全体として記述は先生方に伝わらないような、文章が稚拙であるということのはそのとおりだと思うが、在り方としては学術を中心としたいわば研究者養成プログラムということを少し高度専門職業人養成プログラムから分離して別なものにしようということの思想には立っているのだろうと思う。

委員  少し触れられている点が少ないと思われるのは定員枠について。ドクターコースの定員枠に関しては一切述べられていない。定員枠を満たす、満たさないというのは大学法人としての評価にも関わる問題だ。それで今、実際問題として、私立大学の大学院の充足率なんて10%、20%というところ。ゼロというところも結構出ている。定員枠が大学院重点化によって増えたことによって、質の問題が出てきている。質の高いPhDを将来育成するためにはやはりそこの問題を少し何か考慮する必要があるのではないか。それと同時に、学生にとってもこういう報告書が魅力あるように映るためには、産業界が日本全体として、ドクターを終えたときに当然大学側に残る人とするのではなくて、学生がドクターに行って魅力ある産業界と大学とを相互的に考えていくという次のステップという辺りがもう少し記述の中に含まれてほしい。学生の定員と同時にその後の問題ということについて記述が少ないと思う。

委員  もし入れるとすればどのような方向でということか。

委員  例えば、1頁目の「学生の流動性を確保する」の後半にでも定員枠なんかも、或いは今の実態と何か少し考慮するような、ほんのわずかの文章があっても違ってくるのではと思う。後は産学連携のところでも国全体として、卒業したドクターを、産業界もやはり欲しがっている。例えば電気会社等は非常に欲しがっていると思う。やはり自動車とか、大きなそういう産業を支えているところになるが、ドクターも極端に就職が厳しくなってくる。だからそういうようなところを何か全体的に何か政策に打って頂くということが伝わるような内容にして頂くと、ドクターの学生にとっても励みになると思う。

委員  非常に疑問に思っていることが一つあって、教育指標の国際比較という資料集が机の上にあるが、一体、理工系の博士いうのはどういう質の人のことを言っているのか良く分からないので、定員が多いとか少ないとかそういう議論について、33頁にこれは「学位取得者の専攻分野別構成」で、主要な国の国際比較ができるようになっているが、日本を見ると理学系が1,586、工学と農学を合わせて約5,000というのが博士の数だ。これを国際的に見ると非常に違う数字になっている。アメリカは理学系が9,600で、工学・農学合わせて7,600位、イギリスは理学が4,200で、工学・農学が2,000ちょっと、ということで日本は理学系が極めて少ないということが具体的に見てすぐ分かる数字だ。ドイツと比べて見てもそうだ。一体、日本で博士が就職等の役に立つかどうかという問題はあるが、どの博士のことを言っているのか。私はむしろ日本は理学系が少なすぎることに問題があるのではないかと前々から思っている。理工系の先生は日本の工学や農学が理学化しているから問題ないというお話をいつも伺うのだが、本当に役に立つ、立たないという議論や、定員が多い少ないという議論はどこの問題なのだろうかということか良く分からない。

委員  大学院重点化以降は重点化大学院に他大学から多くの学生が流れてしまって、地方の私立大学の中にはドクターコースの定員充足率が極めて悪い状態になっている大学もある。他方、重点化大学院でも、なかなかやはり100%の充足率というのは、社会人ドクターを受け入れても達成しづらいという状況にあるのも事実だと思う。これは論文博士があるから課程博士の方に入らないというそういう仕組みを大学院教育としてどのようにやっていくかというようなことと同時に、やはりドクターを卒業している人はマスターの人とは根本的に違うという、何かそのような教育プログラムにすることによってもっと人数を増やしていって、社会人も受け入れるという、そういう仕組みを作り出すことが非常に重要なように思う。実質アメリカと国土は全然違う、実質は私も良く分からないが、実質大学院の充足率、修士のように100何%いて入学できない人も出るというようになかなかそういう状況が達成されていない。

委員  定員枠は確かここではあまり議論に出てきていないが、今、後半でおっしゃったことがむしろこのワーキンググループとしてはスターティングポイントではないか。その場合に一番強く突き刺さっている問題は、現在日本で生まれてくるドクターが色々なニーズのところに質的に合っているかどうか。そこがずれている。だからもっと質的に高いものをドクターとして出さなくてはいけないのだという議論から、こういうようなシステム上の問題等々で議論が進んできていると思う。ただこの定員枠の問題はそういう意味で系統的に議論するのはおかしい問題だと思う。ちょっとこの限られた時間のところに議論できるかどうか。

委員  やはり鶏と卵で、役に立たないから企業も採らないということだろうと思う。やはりきちんと質を確保するということを明言されるべきだろうと思う。これは多分8月12日の中央教育審議会のを受けてここにきていると思う。「国際的に魅力ある大学院教育の展開に向けて」だから、これは質を明確に謳っている。日本はどんどん少子化していくわけだから、しかしある種の、ある一定の産業活動を保たなくてはいけないということで、世界のあらゆる地域から優れた若者が日本にきて勉強して、日本に相当程度定着してもらうということが大事なのではないか。

委員  この数字を見ると明らかにイギリス・アメリカは理学部のドクターが多いのは明らかだが、現実に私たちがアメリカやイギリスの大学と共同で研究をしたり、委託研究を出すのはきまって理学部で、工学部に出すことは極めて稀である。従って、アメリカやイギリスの理学部では、実際に私たちの産業に役に立つような、例えば、半導体の物理に関する研究などもやっている。日本では工学部の大学でかなりやっているが、これを実際どのように考えるかだが、おそらく大学の歴史的なバックグラウンドは色々あるから、多分理学部と工学部というところに議論をもっていくとなんとなく不毛になるような気がする。学術ということについていうと、大学の見識で処理すべき部分と、社会的な枠組みで定義しなくてはいけない部分とそれはやはり分けるべきだろうと思う。従って、学術研究、或いはブルースカイ研究が無駄ということは全くなくてそれは重要だと思っている。しかし、それはあくまでも研究をやる側の見識の問題であって、これを枠組みとしてこれをすべきだということは、学長の裁量、大学内部の判断だろうと思う。ただついてくる企業の問題というのはあるが、これについてはまた別途違う手段を考えてあげるというのはあるかもしれない。大学の自主性とか独立性に任せる部分と、やはり枠組みとして決める部分、例えば、今のドクターコースのプロセスの問題をなぜ議論しなくてはいけないかというと、PhDなど国際標準という問題がある。だからそういうことをきちんと整備することが必要という気がする。

委員  先程からの議論の中で、研究者養成(博士)と高度専門職業人養成(修士)プログラムとを明確に区別するという記述があり、先程のご発言でプロフェッショナル・スクール、グラジュエイト・スクールというご指摘があったが、プロフェッショナル・スクールの方は修士で、グラジュエイト・スクールの方が最終的に出す学位は博士ということかと思うが、そういう理解でいいのか。プロフェッショナル・スクールはドクターはいらないのか。修士があればいわゆる修士と専門職学位とか2種類あるが、どういうように考えれば良いのか、それとも現状で良いのか。

委員  日本でいう工学系と言われるもの、これは主力は産業界で仕事をすると思うが、俗に言うプロフェッショナル・スクールという定義にすごく反対だ。やはりプロフェッショナル・スクールというのはリテラシー重視という感覚が強いと思う。やはり科学系の産業で働く人たちにとっては、サイエンスベースドであることが基本である。しかも巨大な分野だ。それだけに、プロフェッショナル・スクールという定義は避けていただき、修士課程を国際標準で言えばディプロマに相当するプログラムとして完成度を上げて欲しい。またそういうことを目標とする大学というのがあっても良いのではないか。その後にプラス3を乗せる場合には博士課程のそれ相応の実力や体制を持たなくてはならない。質として確保できるかどうかというのは大学の判断だと思う。4たす5を作り上げるときに、変わってくるのではないか。学術研究というとややロマン、やや古典的であり、現在のユニバーサル化した大学システムにはやや合わない。それをやはりクリアにしていくということが必要ではないか。

委員  ただ今のところはシステム上の問題としてそういう切り分けを明確にするということを全面的に打ち出すかどうかの基本的な問題だ。今回の資料3は先程から議論があるように、これは必ずしも報告書にまとめるというスタイルということではなくて、色々なものが併記されている。そのためにいろんな混乱を生じている。今の段階で冒頭に書かれていることは重要なポイントだ。今回のご議論の全て、色々なことが議論が併記という形で終わる可能性も大いにある。それをもって分野によって違うのだからということでするのか、理工農系については大枠こういうところで、そして問題を残すような形にしていくのか。この辺りのところが何回かのワーキングで煮詰まっていない。多分それだけ統一するのが難しいのかもしれない。

委員  学術研究はロマンで、古典的だといわれるとがっかりする。バイオの分野においても、これまで、ロマンの研究から大事なものが出てきている。ペニシリンにしても、DNAの組み換えテクニックにしても、みんなそうだ。好奇心から出てきた。だからロマンで古典的だから切捨てていこうというように聞こえてくると非常にがっかりする。

委員  博士後期課程を置くにふさわしい実力や体制を持って、それをやる覚悟を持ってほしいということ。

委員  我々は覚悟を持っている。

委員  全ての大学に当てはまるか。

委員  それは区分していかなくてはならないと思う。先程大学に任せるべきとの発言があったが、大学に任せると基礎研究費は減るし、産業界から金を持ってこいと言われ、どんどん好奇心に基づく研究ができなくなっている状況だ。だからそれをどうするか。大学によって違うということを考えないと無理だと思う。

委員  工学研究科を出ると博士(工学)になって、博士(理学)は出ない。研究の内容に合わせて学位を出せば、ドイツの統計と話しがあってくると思う。創造的なブルースカイの博士と、研究者としてグローバルライセンスをもっている博士が同じ名称であるところに混乱があるわけで、博士の多様性を実現するような制度を作るとか、そういうような議論をして頂けたらと思う。

委員  大学の審議経過の概要の7頁のところに、今後の大学院の在り方をどうするのかというところで、基本は課程制大学院で構成しようと記載されている。課程制と言うのはこれから大学は3つの課程から成り立つと書かれている。要するに博士課程と修士課程と専門職学位課程のこの3つの課程が大学院の中に存在するような形を構成していくわけだ。その中で博士課程と修士課程のそれぞれの目的が書かれているが、目的をはっきりさせるということ。その前提からすると、ここの用意された話はそれに沿って書かれている。ただ修士課程の部分が非常に大きく書き込まれているので、学術研究を含めた博士課程ということだけが薄くなっている。学位制度を言えば今、博士(○○)、或いは修士(○○)、専門職学位となるが、学位があまり何を表しているか分からないというのが、日本の状況ではないか。

委員  わざわざプロフェッショナルスクールを議論しなくてはならないバックグラウンドとしては、一つはヨーロッパで学位制度が非常に多様になっている、例えば、ドイツやフランスではそれぞれ、特色ある学位を設けている。ドイツでは、ユニバーシティとホッホシューレが別々に発展し、片方が専門的なエンジニアを養成し、もう一方が職業的なプロフェッショナル・エンジニアを養成するディプロマ・エンジニアのコースである。それと日本の制度を比較すると工学部の修士課程に相当する。アメリカの大学では、PhDとマスターが別立てになっていて、マスターはPhDの前段階ではないことになっている。日本の場合は一応、研究者養成の一貫の大学院の中にマスターとドクターがあり連続している。差別化しないと、国際舞台に外国の人たちと同等に扱われる基準が明確にならないということがあって、そういう流れの中で良質化をはかるという考え方はある。産業界の立場から言うと、マスターという資格をきちんと出していれば、プロフェッショナル・スクールという位置づけをわざわざ当てはめて区別するということ自体あまり意味がない。

委員  このワーキンググループとしては魅力ある国際的に質の高い大学にするためには具体的に何をすべきか、そのためには体系的なカリキュラムとしての教育プログラムが確立されていないということが共通の認識だったと思う。どういうものが欠けているのかということで議論が分かれてきた。そういう意味で1頁のところは先ほどからまだこれでも整理しきれない部分かもしれないが、2頁辺りのところから「課程制大学院の趣旨に沿った教育課程や研究指導の在り方」というところにかかるのだが、特にここの書き方は確かに先程の博士課程と修士課程の問題が入っているが、混乱していると思う。もう1つ上のところでは基本的には前期と後期を5年間体系的な教育課程を編成することが必要ということで別なところに入ってきているというようなことがある。このようなところに今度は議論を向けて頂きたい。ここが全部何か多少ずれた形の、違いのある意見の列記になっている。これはあくまでもこういう意見があったという形で列記しているので、この辺りのまとめという方向への議論を続けて頂きたい。

委員  まとめになるかどうかわからないが、教育の中身についてのグローバル・スタンダードという考え方が重要だ。工学系、農学系も含めて、インターナショナル・スタンダードのJABEEという技術者教育認定システムが進んでいる。ヨーロッパでもボロニアの宣言以来、共通した教育認定システムを作り上げようとしている。その中心は日本で言う修士課程レベルだ。JABEEもマスターレベルのインターナショナルな認定システムを作り上げたいと準備をしている。外部評価というアクションというのは、それぞれが何の目的かということがクリアになっている。学部以上に大学院修士課程は大学の自主性が強い形での基準作りになっている。そういう外のアクションというものが必要となってくるということに触れていただきたい。

委員  「課程制大学院の趣旨に沿った教育課程や研究指導の在り方」というところは2頁の最初の教育・研究指導の在り方については両方に触れているが、次の3頁から4頁にかけては全部博士課程についての記述だ。修士課程の教育課程をどうするかという話は書かれていない。記述のバランスが悪いと思う。もう少し整理して書いた方がいいのではないか。

委員  ここは教育をちゃんとしろと書いて欲しい。教育が第一義だと。これを書いて頂かないと、きちんとしたスタンダードの学生は育たない。それをしっかり評価すると書いて欲しい。その次に気になるのは「研究指導」とあるが、学生が研究するということか。研究するのは先生であって、学生は研究者ではない。こういうことをいうから、ややこしいことになる。少なくともマスターの学生は研究者ではない。これはファンディングの在り方にもかかわる。競争的資金の問題と基盤的経費の観点。ここにこんなことを書くのはいかがなものか。

事務局  「教育・研究指導」というのは間違った書き方かもしれない。ただし、研究指導というのは現在大学院設置基準で使われている用語である。

委員  学生は研究者ではないと言われると抵抗がある。

委員  先生が研究している。その中に組み込まれて研究の仕方を勉強しているに過ぎない。そういうように書けば学生がやはり主導的な、主体的な研究をすることになる。もし、本当に学生が研究しているならば財政支援から何からみんなすべきだ。優れた人が研究をするということはそれは構わないが、基本的には研究者ではない。だから、教育するということが大学院の学生に対して大切なことである。

委員  個人的には学生も研究するのだという意識を持っている。

委員  学生とディスカッションしていると、彼らが私の気付かなかったことを言ってくれたりする。やっぱり彼らも研究をしているのではないかと思う。

委員  主体はやはり先生だ。

委員  現実的に学生とどういうやり取りをしているか、或いはどういう研究をしているかという問題ではなく、予算の配分がどういう思想でやられているかというところまできちんとしておかないと、修士課程が曖昧になるとおっしゃっているのだと思う。もし学生が研究しているというのであれば競争的資金などが入ってくるべきである。そこを分けるべきということであろう。

委員  そのとおり。

事務局  大学院設置基準で、大学院の教育は授業科目の授業及び学位論文の作成等に対する指導によって行う。学位論文の作成等に関する指導のことを研究指導と称すると記されている。大学院生が学生なのか、研究者なのかということについてはこの言葉からは出てこない。

委員  最近ではDCやPDの制度が出来てきて、実際に研究活動に携わる学生を特別研究員という枠でサポートしつつあるが、授業料を徴収している以上、きちんと教育すべきであり、研究従事者として勝手に使うなという倫理的な意味がそこにあるのではないかと思う。

委員  授業料を払っているか、払っていないか、奨学金なのかそれとも給料を与えるものなのか。グローバル・スタンダードを考える必要がある。アメリカは給料を与えて博士をやっている。そのような制度が日本にできるかどうかということがやはり一つのファクターだと思っている。つまり今スーパーポスドクなどが出来ており、アメリカのような給料を与えるというものに合うようにしているのかなと思うが、やはり一度議論すべきことではないかと思っている。それから自由裁量だと言いながら、やはり外から見て大学毎にPhDが違うというのも困るし、やはり海外から見たときにアジアのトップクラスの人が日本の大学院でPhDを取りたいと思うようになっていかなくてはいけないと思う。その辺のところも考えなければいけないと思う。やはりコースワークをきちんとしないといけないというのは重要だが、論文偏重にならないように留意する、と書かれると、思うような論文が書けないということでよいのかという問題は出てくる。やはり列記したら都合のいい方向に流れていくわけで、論理的に破綻したようなことが列記されないような書き方をきちんとするべきではないかというように考えている。

委員  基本的なところでは先程の2頁の中ほどの「今後は個々の研究室における指導だけではなく、各課程における組織的かつ計画的な教育をしっかりと行うことが必要」とあり、このことから議論が始まったわけだが、どうここのところでまとめていくかということによってこんなに考えが次から次へと色々と出てきたということで列記されている。ここについて一つ一つ議論するとまた同じ議論の繰り返しになってしまうが、やはりこういうようなことにならざるを得ないのか、そこを一括してそういうようなことを各大学院が特徴ある組織的、体系的な教育プログラムを確立すべしというだけで終わってしまうのか。

委員  修士課程が現在のままで良いのか。修士課程をどのように変えるかということについてもっと御意見はないのか。

委員  大学院重点化で学生数が増えたため、質の低下が起きた。修士課程では特にそういう現象がおきている。修士課程は昔ながらの研究者養成という認識で教員は対応しているが、実質、中身は変わっている。だから修士課程については、しっかりとした教育プログラムに沿って教育を実施するということは、ここでかなり統一した認識があったのではないかと思う。そこを書けば良いのではないか。

委員  博士課程の方はどうか。

委員  博士における研究指導のあり方について、これは博士課程後期を意味するのか、博士課程全般ということなのか。これはほとんど修士、博士前期課程と読み替えても矛盾が無い。従ってここはそういう呼び方をした方が良いのではないか。これを特に博士課程後期の教育としてということはもう少し絞り込んで、5年間一貫で教育をする必要があるという文章はあるが、体系的なという枠組みで考えると、前期課程に重点を置いたという印象を受ける。

委員  論文博士のことについて意見を頂ければと思う。全体の討議としてはここで論文博士のシステムを撤廃すべしというところまでは意見がまとまらなかったわけで、そのためにこういうような形の文面になっているが、これについてはいかがか。

委員  論文博士はグローバル・スタンダードの観点からは、あまり適切なものではないのではないか。必要悪ではあるが、あまり好ましいものではないということを付け加えたらどうか。

委員  やはり完全になくすことはできないのではないか。

委員  例えば、会社の研究員が学位を取りたいというときに3年間のコースを経て学位を取るということになっても産業界の方は特にそれほど大きな問題ではないということか。

委員  今まで私たちは論文博士の制度を有効に利用させて頂いてきた。つまりその有効性だけを利用するということでやってきた。では、博士、PhDとは何か、という議論をしている中で基本的な教育も必要ということになってきた。世の中でPhDとして通用するためには論文さえあれば良いという考え方は成り立たないと思う。バックグラウンドとして基本的な素養があるということが証明されているということが必要である。例えば、3年間、博士課程に費やす時間が論文作成に費やされているわけで、論文ができているとすると、基本的な教育をやりながら、論文が社会に対して本当に認められる形になっているかどうかをブラッシュアップしていくような過程が必要だろうと思う。従って3年間、一からやりなさいということはないと思う。基本的に今社会人コース等々でやっており、またその中身が充実していけば、あまり問題は感じない。

委員  そうすると社会人コースと従来のコースがある種のダブルスタンダードになる可能性があるが。

委員  そこを合わせる必要はある。つまりここでいう教育の問題というのは、バックグラウンドとしてPhDが持っていなくてはいけない、基本的な素養のことを論じているわけで、それは社会人コースについても同じだと思う。

委員  例えば、50歳くらいの研究者が20数歳の学生と同じように、素養がないので、もう一回大学院に行って研究して来いというのは構わないということか。

委員  素養がなければしょうがない。むしろそういうことが現実にあった方が良いと思う。

委員  審議経過の概要の46頁に博士学位の授与データが出ている。これを見ると論文博士の占める割合が10年間で56%から36%と大幅に減っている。理工農系では3割をきっている。これは後10年でほとんどなくなってしまうという位の数字になっている。理工農系ではここまできているのだから、もう論文博士は廃止して良いと言った方がよいのではないか。

委員  学位の定義をしっかりしなくてはいけないと思う。学位は学術を修めたことに対して与えられた。ところが産業界でより技術的な成果を出された場合も、「学」と言えるのか。実態は産業界での研究成果も大学での成果も同じかもしれないが、精神というか根本論において違うだろう。それを良いか悪いかというのは判断によると思うが、そういう点で、日本とヨーロッパとの物の考え方というのは若干違うのではないか。

委員  論文博士のところは質の観点から、少なくとも早期撤廃というところまで表現できるかどうかは別として、その方向で、もう少し強い表現に変更して頂くということにさせて頂きたい。次回のワーキンググループが1月に予定されており、今日の意見を基に資料3を書き直して整理し直すということをして、次のワーキンググループに御意見頂くということで進めさせて頂きたい。

委員  その他のところで申し上げようと思ったのだが、教員の教育・研究指導能力の向上の項だが、ここは教員の研究実績の評価について出てくるが、教育能力という言葉については、私は教育の実績とはっきり言った方が良いのではないかと思う。今までは教員が中心であった大学を学生を重視するような方向にもっていくべきと思う。特に大学院については。研究については実績で教育は能力というのは気になる。

委員  先程のワーキンググループの議論については今月の22日の大学院部会で審議状況を説明しなければならない。私の方で取りまとめて報告させて頂きたい。

 その他
「大学の教員組織の在り方について(審議経過の中間的な整理)」について事務局から報告があった。
次回以降の会議日程について、事務局から連絡があった。

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