本文へ
文部科学省
文部科学省
Home > 政策・施策 > 審議会情報 > 中央教育審議会大学分科会 > 大学の教員組織の在り方に関する検討委員会(第6回)議事録・配布資料 > 資料2


資料2
中央教育審議会大学分科会
大学の教員組織の在り方に
関する検討委員会(第6回)
平成16年3月17日
教員組織検討委員会(第5回)における意見の概要



「意見の整理(案)」に対する意見

 「基本的な考え方」を文面の先に出した方が良いのではないか。
 高専の教員についても「基本的な考え方」の中で一言触れていただきたい。
 キャリアパスの問題や助手の役割について、どうも研究の方に傾いているの気がする。大学院の役割や大学の役割は何よりも教育にあるので、そこで優秀な大学教員を養成するためのキャリアパスというのは何なのかということを考えないといけない。
 研究者の養成はポスドクでも出来る。ポスドクと助手の役割は大きく違いがあると思う。助手の採用をやめて全部ポスドクにしたら良いかというと、それでは研究者養成は駄目になるのではないか思う。大学院や学部の教育の中で今助手がやっていることは非常に重要な役割を果たしている。
 教授が運営上の責任を負うこととするべきである旨の記述があるが、これは大学運営全体と間違えて紛らわしい。教育研究上の責任を負うということでは。
 「若手研究者」だけではなく、「若手教員」という概念も考慮したほうがいいのではないか。
 教授と、その前段階の職と、若手研究者という3段階の分け方はちょっと違うのではないか。大学では一般にテニュアを持っているかいないかで分かれて、テニュアを持っている人達は研究業績の大きさなどで順番がつくのはいいかもしれないが、実際の運営はイコールフッティングであるべき。
 「教育上運営の責任を負う」という書き方については、うまく書かないと、助教授は研究室を運営できないのかという講座制を肯定しているような読み方にもとれる。
 「若手研究者養成」という言葉について、若手研究者を教育者として養成するポジションなのか、自らが若手研究者になる為に研鑽を積んでいくポジションなのか。適当に読めるのではないかという気がするので、はっきりした方が良いのではないか。
 「研究者」という言葉があまりにも多く使われすぎている。使いわけで文脈の整理の仕方がもう少し工夫が必要という感じがする。実際に大学が求めているのは優れた研究だけではなくて、同時に優れた教育者も持っていないといけない。教育と研究のバランスをうまく整理していただきたい。
 若手研究者について、特に「むしろ教育面の能力や実績を重視することも考えられる」とあるが、やはり若手研究者というのは、研究を出発にするのではないだろうか。教育ばかりが非常に優れているからといって良いのかという問題があるのではないか。社会経験とか実務を土台にして教員になる方については、このような表現が当てはまるのだろうが、大学院段階からずっと育てていくような人については、この表現振りだとちょっと違和感がある。

教員の資質、資格について

 教育をメインにする大学の先生の資質は何か。予備校の先生の授業は非常にうまいが、大学の教員としての資格があるかどうかという議論をしなくてはならない。そこの境目は見識の部分だと思っている。見識を大学の先生の質にしないといけない。
 医学部の場合は、診療面において非常に優れた知識・能力を持っていることが求められる一方、基礎医学教室があるので、診療とはまた別の視点で教員の資格を審査する。そこで求められるのは教育であるが、しかし、優れた教育をするには、研究的な背景の無いと駄目である。研究のバックグラウンドがあり、かつ医学に関しての知識も持って教育を担当できる人という観点で審査をしないといけない。

キャリア・パスについて

 新設の大学・学部においては大学院修了者以外の者を大量に採用しているところも多く、その人たちは多くの場合に学位を持っているわけでもなければ、研究者としてキャリアを積んできたわけでもない。大学の教員増というのはアカデミックキャリアパスを通ってくる人たちだけを想定していれば済んだ時代はもう終わったと思う。教員集団を一枚岩で考えて、キャリアパスも1つか2つだけだと思うというのは間違った認識になっているということを確認した上で議論した方が良い。
 大学院を出た学生がすぐに大学の教育研究者になり得るかどうかということを中心に制度設計するのが必要ではないか。助手が色々事務職員の代わりをしているという問題はまた別に議論すべき。

講座等の教員組織について

 同じ大学の中で教授・助教授・助手をフラットにする組織を作ったとして、研究に着目すると割合理解しやすいが、教育のときにそういう教授・助教授・助手の階層があることが大学の教育にとってどういう意味があるのか、或いはそこもフラットの方がより大学の教育の姿として望ましいのかという議論はきちんと詰めておかないといけない。
 組織のピラミッドについての批判があるが、一方で、組織を運用するのに果たして本当にフラットなだけで動けるかということにも疑問がある。
 医学分野に関し、ピラミッド構造は診療体系上の問題なので、本来これは病院長、診療課長という位置付けの中に講座の教員が横すべりしている二重構造になっているわけで、これはなかなか切り離せない。
 専門職大学院の観点から見た時には、若手研究者の育成ということよりも、いかに時代のニーズに応えた人材を確保していくかということだろう。非常に流動性を高め、国際社会で通用する人材の育成する形なので、従来の大学院と専門職大学院を比較した際、専門職大学院の教員組織はちょっと違った面があるのではないか。

教員と事務職員の関係について

 従来は職員と教員が対等、或いは一緒に大学を作ろうとしても、少なくとも国公立の場合は教特法があったので、先生が上、職員は下という構造だった。今それをやろうと思えばそれが出来るようになったと思う。
 研究・教育活動はを教員中心でうまくやれるが、大学が地域貢献や国際交流を行う際、教員が中心で事務的な職員が従属的であるという考え方ではうまくいかない。運営や事務などを担当する職員が排除されないで参加できるような仕組みにしないとうまくいかない。
 事務方が色々なものに参加できないことについては、今はそういう上下関係があってまずいと思うが、研究教育の本質の部分には事務方は入って来るべきではないと思う。運営には充分入ってくるが、そこの切り分けがきっちり出来る組織にしないと大学そのものが死んでしまう。
 工学の分野では、社会と一緒になって次の世代を育てなければいけない部分がある。例えば知財などは研究者だけではやれず、法律や知財のハンドリングに詳しいエキスパートが事務官サイドや教官との丁度中間層にいるような構成になった方が良い場合が出てくる。あまり明確に事務、教員と分けられないゾーンがこれからは必要になってくるのでは。これも助手を考える上で視野に入れる必要がある。

教員の職務規定等について

 学校教育法第58条6項には、「教授は学生を教授し、その研究を指導し、またはその研究に従事する」と書かれているが、「教授は」というところを「教員は」に置き換えれば、これが教員の定義になるのではないか。まずはこれを教員の定義として、大学の教員の中で教授とは何であるか、何とか教授は何であるかというような議論の組立てできないだろうか。
 第58条を「大学には学長、教員及び事務職員を置かなければならない。」、第2項では「教員は学生を教授し、研究を指導し、または研究に従事する。」とすればすっきりするのではないか。
 助手を単に教育研究に従事するものとして考えれば、このような定義で差し支えないのだろうが、それ以外の現在いる助手というものをどのように取り扱うのかという問題もある。
 学校教育法第58条では置かなければならないという必置のポジションについて書いている。「学長、教員及び事務職員を置かなければならない」の規定だと、助手を置いてはいけないということはどこにも書いていない。必要があればそれを書き加えればいい。
 学教法第58条との関係で言いたいことは、「教員」と「事務職員」を対比するような形で全て現在のものが上手く取り込めるのかということ。これは国立大学にとっては助手というのは教員というか、身分的には教育職員ということで事務職員とは区別されており、運営費交付金もそれによって算定するという問題がある。若手研究者という部分だけを教員層に入れて、残りは全部事務職員にするという決断をされるのであれば、それはそれで1つの考え方だと思うが、そういった形を今回取るのかどうかというのは1つの大きな課題。
 どういう職を置くかという教員組織の問題と、どういう人がそれぞれの職にふさわしいかという教員の資格を定義した問題もある。学校教育法と大学設置基準を大幅にそこの部分を書き直さないといけないということがあると思う。
 助手という名称そのものは教育上、現状でも研究も参加しているので、議論もあると思うが、名称そのものについてはもうなくした方がいいと思う。
 文面を整理する場合には、助手云々という名称等を少し変えていくことと、講座制ということの表現をどうするかということを考えていくことと、後もう1つは運用の形態をどこかで明確に示すというスタンスでいくべき。

教授について

 教授の主たる業務は何なのかということを改めてもう一度回問わなくてはいけない。
 私学の社会科学系の観点からは、教授・助教授・講師は仕事上ほとんどないという感じがする。それでは何でその差が出てくるのかというと、年齢か、または教育歴であるが、行き着く結論は、教授になるまでは一生懸命研究するが、教授になったとたん研究をしないということ。
 この委員会でやらなくてはいけないことは、前提は、大学はもっと良い人材をなぜ育成できないのかということが問われていると思う。それが制度が悪いからなのかというところで受け止めているが、よく考えてみると頂点にいる教授が悪いから余り上手く人材を育成できないのではないか。

テニュア制度について

 テニュア制を導入するとなると、任期制とのつめが必要ではないか。
 制度設計は良い人材をどうしたら採用できるかということが大事で、その基本はテニュア制だと思う。テニュア制を定着させてから大学の職制や身分を議論すべき。
 テニュアの話は実際重要だと思うが、学校教育法等の法案等の文面にそれを入れることは、やはりこれは運用の問題と理解すれば良いと思う。

本委員会における議論の仕方等について

 現状にできるだけ合わせたいということで制度を変えるのか、或いは各大学が自由裁量で色々なことができるように理想に近づけたいということ変えるのかでは、随分違う。後者をとるべきだと思っている。
 色々な大学がある場合、それぞれの大学がどういう組織で運営したら良いかということがまずあって、その中でどういう職種と、階層と、それがはっきりそれぞれの種類の異なった大学、専門が違った分野で明らかになって、それを包含するようなものは専門家の方に法制度化してもらう、そういった筋道を取らないと、何か訳の分らない議論になってしまう。
 自分の分野や大学のことしか知らないので、この分野こういうところだったらこれが理想だということを幾つかあげてもらえれば議論がしやすいのではないか。

ページの先頭へ   文部科学省ホームページのトップへ