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イギリスの大学は約90校である一方,プログラムが100あるということは,いくつかの大学が複数のプログラムを有しているということか。また,プログラムには法的な義務づけがないにもかかわらず,大学がプログラムを導入している背景には,どのようなインセンティブがあったのか。
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例えば,インペリアルカレッジロンドンのセンターは,HEFCEからのインセンティブで作られたものである。また,プログラムに法的な義務づけがないとはいえ,デアリング報告やその後の高等教育白書において,これらが国策として位置付けられ,実現に向けた行動計画が定められているため,ある程度,国からの補助と同時にプレッシャーもあるとのことである。
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HEFCEがセンター設置のためのインセンティブを与えるのは理解できるが,大学が教員の採用に当たりプログラムの受講を義務付けるのは,これとは別の事象だと考えるがどうか。
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イギリスでは,以前からベテラン教員が新任教員の授業を参観するということをやっていたようである。このように,以前から大学の中にこのようなことを行う要素があったのではないか。
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センターの教員はこれを追い風にプログラムを開発していった背景がある。
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イギリスは学位の同等性を維持するために力を入れている。もともとアウトカムが話題になったのは,卒業試験を複数の大学が合同で行い,そこで優等学位,普通学位を授与しているため,その同質性を確保することがねらいであった。また,ポリテクが大学に昇格する際に教員が大量に必要になり,そのとき以来,新任教員の研修を始めたという経緯がある。アウトカムにおいて,学位がどの大学でも同等であることを維持するためにインセンティブが働いているという側面があるのではないか。
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知識基盤社会と言いながら,学習については,これまでなかなか取り上げられてこなかったのではないか。
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知識基盤社会における高等教育については,強い問題意識を持っている。アウトカムが論じられるようになった背景は何か。高等教育の大衆化か,それとも伝統的なイギリス高等教育の内容を抜本的に変えようとしているのか。
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自ら学習目標を設定し,学習を計画,実行することができない学生が増えたことが背景にあると考えられる。それに対して,アウトカムズを明確にし,学生たちに何をどうすればよいかのプロセスを伝えることが重要になっている。また,知識基盤社会への転換も大きく影響している。このような社会では,高等教育こそがリーダーシップをとれるということをワークショップの中でも強調していた。
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単位認定の基準設定に当たり教育内容の標準化が必要であるという考えには同感である。例えば,アメリカでは,学会と出版社が一体となっているのか。経済学では標準的な教科書が存在し,様々な大学で使用されているが,出版社と研究者が共同で標準教科書を作成していくべきなのか。
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そのとおりである。全ての分野で一斉に行うのは困難であるが,可能な分野はある。現に経済学の分野では,資格認定機構もできている。いずれはそれが単位認定,卒業認定の判定材料の一つとなるのではないか。
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共通試験については,実施時期はいつを考えているのか。また,共通試験実施によって発生するコスト負担の問題や実施組織についてはどのように考えているか。
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組織については様々な形態が考えられる。経済学の場合は,NPO法人が実施組織となり,料金を徴収し実施している。共通試験を単位認定や進級判定に利用する大学もあれば,大学院入試の一部として利用している大学もある。
共通試験の実施時期,方法については,さらに議論が必要ではないか。
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日本のFD関係施設の現状はたしかに貧弱である。欧米では1980年代に既にFDスタッフがおり,センターも設立されていた。日本の場合,センターが作られてはいるが,国立大学の教養部を解体した際,教養教育の実施組織として作ったという経緯があり,カリキュラム調整等が主な役割となっており,教授法の開発は期待されてこなかった。
最近では,京都大学に教授法開発のセンターが設置され,日本の状況も徐々に変化しつつあるが,どのようにすれば欧米レベルに追いつくことができるのか。現状では,人員も予算も極めて少ない状況である。
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我が国でもっとも問題と考えられるのは,学習に対する意識が転換されていないということであり,この状況は深刻である。高等教育に限らず初等中等教育を始め,日本の教育で遅れているのが「学習への転換」「学習者中心の学習」である。また,それに必要な構成主義的な考え方も普及していない。私が所属する大学では,大学教育開発研究センターにおいてFDの開発研究を中心に行える状況にあるが,センターがある大学であっても,FDが片手間であったり,センター内での学習についての理解が進んでいない場合も見受けられる。
よって,まず基準枠組みを作成することが必要である。それにより,すでに行われているプログラムの内容も,基準枠組みに従って変えていくことができる。基準枠組み作成の段階で,学習とは何か,それに必要な教育方法とは何かを,センター教員が学び合いながら共に基準枠組みを作成していくことが必要である。また,同時に,分野別のベンチマークや学位プログラムとしての基準枠組み作成が必要ではないか。
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センター協議会や大学教育学会が,基準枠組みについて提言を行うのか。それとも,中央教育審議会として検討して行くべきなのか。
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学会等でこのような話をすると,基準枠組みを策定することがコンテンツを規定するという誤解があるため,「大学の学習指導要領をつくるのか」という回答が返ってくる。現状では,学会内で共通理解を深めることは困難であり,行政としての提言が必要であると考える。
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共通試験については,文系と理系でも状況が異なる。また,医学教育では,最低限の知識・技能を修得させる観点から,在学中に共通試験を実施している。費用については,各大学で負担すると共に,一部は学生にも負担させている。
学習への転換は日本の教育の欠けている部分である。欧米では,構成主義的な自己解決型教育を初等中等教育段階から取り入れているのではないか。我が国でも教育意識を普遍的に持つには,早い段階から導入,実施することが重要ではないか。
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確かに分野によって状況は様々である。中でも,工学,医学,法学の分野は先進的な取組を行っている。教育内容の共通化,標準化は今後も進める必要があり,世界的にもその方向に動いている。今後は,評価の段階で学生の学習到達度が問われるようになるのではないか。
現在日本には4年制大学が700余りあるが,形態は多様である。博士課程まで持ち,大学教員を養成する大学とそうではない大学との間では,大きな差がある。また,教員市場の動向により,短期間で研究成果を挙げることが要求されているため,研究テーマが細分化している。しかし,実際就職する大学はこれまで体験してきた環境と全く異なる場合があり,教員と学生との間の摩擦が起きている。大学教員は,専門家であると同時に教育者であるから,幅がなければならない。そのためにも,大学院在学中に教員としてのインターンシップを行うべきである。そうすることで教員同士が様々なストラテジーを共有する必要があるのではないか。
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マスプロ教育がもたらすデメリットについて意見発表があり,大学設置基準上に受講生の上限設定や数値基準の設定について提言しているが,この数値基準とは受講生の上限設定に限ったものか,もしくは,学部教育の充実,質の向上のためにその他の数値基準も設定すべきということか。
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念頭に置いているのは,受講生の上限設定に関する数値基準のみである。大学を取り巻く状況は大きく変化しており,その変化に見合った形で大学設置基準も見直す必要があるのではないか。
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私が所属する大学では,教員の賞与を削減し,それをもとに優秀な教員の給与を上増しするような仕組みを作ったが,教員の間には,未だにこの仕組みには抵抗がある。限られた資源を有効に配分する趣旨であるが,実施はなかなか困難である。
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私も同様のことを学内で提言しているが,導入はなかなか困難である。日本の大学教員は非常に横並び意識が強い。諸外国では業績に応じて教員の給与に差が生じるのは当然のことと考えられている。 |