(1) |
学制発布から明治20年代 〜 住民負担・受益者負担の時代
明治5(1872)年の学制発布以後、小学校教育費は設置者である学区が負担していたが、学校教育費負担の大部分は、学区内集金、寄付金などの形による住民負担に頼っていた。
明治18(1885)年の改正教育令は、当時の不況による町村収入の減少に対応するために教育費の節減を図ったが、その際文部省の通達により、町村立小学校では授業料を徴収するものとして、事実上の受益者負担主義を打ち出した。翌年、森有礼文部大臣の下で公布された小学校令は「父母後見人等ハ小学校ノ経費ニ充ツル為メ其児童ノ授業料ヲ支弁スヘキモノトス」と定め、受益者負担主義を導入した。これにより、明治16(1883)年にいったん51.0%まで上昇した小学校への就学率が、明治20(1887)年には45.0%まで低下している。
明治21(1888)年の市制・町村制、明治23(1890)年の地方学事通則及び第2次小学校令により、義務教育は国から市町村への委任事務とされ、市町村に小学校の設置義務が課されるとともに、教員給与費を含めその費用は市町村が負担するという設置者負担主義が導入された。しかし、授業料は依然として徴収されており、学校教育費の20%以上を占めていたため、就学率はなかなか上がらず、明治25(1892)年においても55%にとどまっていた。このため、地方行政関係者や教育関係者から義務教育への国庫補助を求める要望が盛んに行われた。
|
(2) |
市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法(明治29年)及び市町村立小学校教育費国庫補助法(明治33年)
〜 国庫補助制度と義務教育無償制の確立
義務教育への完全就学を実現するためには、授業料を廃止して無償制を実施する必要があった。そのため、時の政府(井上毅文相)は、明治26(1893)年6月、初等教育への国庫補助と授業料の低減・廃止という方針を定め、同年、勅令により尋常小学校において「授業料ヲ徴収セザルコトヲ得」と定め、授業料徴収の義務づけを廃止して、徴収するかどうかを市町村の裁量に委ねることとした。
授業料の低減や廃止を促進するためには、授業料に代わる財源を国が保障する必要があった。そのため、政府は明治26(1893)年、小学校教員の年功加俸(勤務年数に応じて本俸に加えて支給する給与)に要する経費を国庫補助する制度として「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」案を帝国議会に提出し、明治29(1896)年、同法が制定された。また明治32(1899)年には、日清戦争の賠償金の一部を教育基金とする「教育基金特別会計法」が制定された。さらに、明治33(1900)年には、国庫補助対象経費に特別加俸を加えて「市町村立小学校費国庫補助法」が制定された。
こうした義務教育教員給与費に対する国による財源保障制度の整備にあわせて、明治33(1900)年、第3次小学校令が制定され、ついに小学校の無償制の原則が確立された。
このような無償制の確立により小学校への就学率は急速な伸びを見せ、明治33(1900)年には80%を超えて81.5%に、明治35(1902)年には90%を超えて91.6%に、明治38(1905)年には95%を超えて95.6%に達している。
このような歴史的事実が示すのは、義務教育への完全就学の実現のためには無償制の確立が必要であり、無償制の確立のためには国による財源保障措置が不可欠であったということである。
|
(3) |
市町村義務教育費国庫負担法(大正7年)とその増額運動
〜 定額国庫負担制度の成立と教職員給与改善及び地方財政の健全化
義務教育の無償制の確立は、小学校の設置者である市町村による公費負担の増大をもたらした。さらに、明治41(1908)年には、義務教育年限が4年から6年に延長されたため、市町村の負担はさらに増大した。町村の財政においては、税収入に対する教育費の割合が、明治20年代中ごろにはすでに50%に近づいていたが、明治30年代には50%を超え、明治40年代には60%を超えるに至っていた。
このような町村財政における過重な義務教育費負担は、町村の財源の不足と小学校教職員の低水準の給与という二つの問題を突きつけることになった。
このため、町村長を中心とする地方行政関係者からは地方財政の負担緩和のため、また教育界からは教職員の待遇改善のため、小学校費の国庫支弁を求める声が高まった。
こうした状況の下、大正6(1917)年9月に内閣直属の諮問機関として設置された臨時教育会議では、義務教育費負担の在り方が最初の検討課題としてとりあげられ、同年11月には、教員給与費の国庫負担を建議した。この建議では、市町村立小学校の教員の俸給を、国庫と市町村の「連帯支弁」とし、国庫支出額は定額であるが「教員俸給ノ半額ニ達セシムコトヲ期スヘシ」とした。国庫負担の目的としては、 地方財政の緩和、 教員の増俸の両者を同時に行うべきであるとされた。
この臨時教育会議の建議を受けて、大正7(1918)年市町村義務教育費国庫負担法が制定された。この法律は、義務教育費を国と地方がそれぞれ責任を負って分担するという原則を確立したものとして、画期的な意義を持つものであった。負担金額は初年度の大正7(1918)年度では1000万円で、小学校教員俸給の2割にあたり、臨時教育会議の建議した教員俸給の半額には及ばなかった。さらに、第一次大戦後のインフレーションの影響を受けて小学校教員俸給費総額に対する国庫負担金の割合は年々低下し大正11(1929)年には8%程度になってしまった。
この間において、大正10(1921)年、原内閣は臨時教育行政調査会を設け、教員の削減などによる義務教育費節減計画を打ち出したが、世論の非難を浴びて挫折した。
一方、三重県七保村の大瀬東作村長らの町村長は、大正10(1921)年に全国町村長会(現在の全国町村会の前身)を結成し、義務教育費国庫負担金の増額を求める運動を展開した。また、帝国連合教育会などの教育団体も国庫負担金増額を求める運動を行った。こうした国民の声を受けて、大正12(1923)年には、国庫負担金額を一挙に4000万円に引き上げる法改正が行われ、その後段階的に増額が行われて、昭和5(1930)年には8500万円まで引き上げられ、この時点で小学校教員俸給費総額に対する国庫負担金の割合は半額を超えて52%に達した。
このような大正期から昭和初期にかけての義務教育費国庫負担制度の確立とその拡充の歴史は、義務教育費負担が地方財政にとってきわめて過重であったという事実、及び教職員給与の改善と地方財政の健全化のために、国による義務教育費に対する財源保障の拡大が必要であったという事実を示している。
|
(4) |
義務教育費国庫負担法(昭和15年)
〜 2分の1国庫負担制度の成立と教職員給与財源の安定化
昭和初期におけるたび重なる経済恐慌とその後の軍需景気は、地方間の富の偏在と市町村間の財政力の格差を著しく拡大させた。財政力格差は教育費支出水準の格差として表れた。ある研究によれば、昭和3(1928)年当時、児童1人当たりの小学校費は、東京府が最高で65円81銭、沖縄県が最低で17円24銭だったとされる。このような教育費支出水準の格差は、財政力の弱い町村において、教員給与の支払い延滞や強制寄付による割引支給という形での教員給与の削減を急速に増大させた。
このような状況に対処するため、国は昭和7(1932)年、市町村財政の窮迫の緩和と教員俸給不払いの防止を目的として、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法を制定し、毎年一定額(当初1200万円)を市町村に補助することとした。義務教育費国庫負担金の配分においても、市町村の財政力に応じた配分がなされていたが、この臨時国庫補助金の配分にあたっては、財政力の弱い市町村に対しより重点的な配分を行った。
このような措置がとられた背景には、当時、市町村の財政力を是正・調整する財政調整の仕組みがなかったため、市町村の予算支出のうち最大経費である教員給与費に国費を配分することにより市町村間の財政調整を行うこととしたという事情がある。義務教育費国庫負担金の累次の増額や国庫補助金の創設は、義務教育費に対する財源保障の拡充というよりは、むしろ義務教育費を通じて市町村間の財政力格差を是正するための財源調整を行おうとしたものと見ることができる。
しかし、このような方法によっては、 義務教育費の財源保障、 地方間の財源調整という2つの目的のいずれをも十分に達することはできなかった。
このため、義務教育費の財源保障のためには、市町村負担の制度そのものを改めて、教職員給与費を府県と国に分担させるとともに、地方間の財源調整のためには一般的な財政調整制度を設けるべきだという意見が、教育関係者や地方財政関係者から強く主張されるようになった。
こうした考え方のもとに、昭和15(1940)年、義務教育の教員給与費(当初は俸給のみ、昭和18(1943)年からは諸手当を含む給与費全体及び赴任旅費)を府県の負担とし、その2分の1を国庫負担とする義務教育費国庫負担法が制定されるとともに、地方間の財政力格差を是正するため、本格的な地方財政調整制度として地方分与税が創設されるに至った。
このような義務教育費国庫負担法の制定に至る歴史は、義務教育費国庫負担制度の本来の機能は義務教育のための安定的な財源を保障するという財源保障機能であり、地方間の財政力格差を是正するという地方財政の財源調整機能をこの制度に求めることは適当ではなく、別途一般的な財政調整制度を設ける必要があったという事実を示している。
|
(5) |
義務教育費国庫負担法(昭和28年)
〜 義務教育費に対する国による財源保障制度の必要性を再確認
戦後、我が国は国も地方も極めて厳しい財政状況の下で、新制中学校を創設して義務教育の年限を3年延長するという財政的には無謀ともいえる改革を行った。新制中学校の校舎建設に当たっては、予定された国庫支出が行われなかった事情などにより、各市町村において増税や強制寄付などを余儀なくされ、その責任を問われた市町村長の辞職や自殺が相次ぐという事態も生じた。しかし、それでも何とか新制中学校制度を出発することができたのは、教員給与費についてはすでに国庫負担制度が存在しており、ドッジ・ラインの下での定員定額制(昭和24(1949)年度)による抑制措置の影響はあったものの、新制中学校に教職員を配置するための財源はともかくも保障されていたことに負うところが大きいと考えられる。
しかし、昭和25(1950)年には、前年のシャウプ勧告に基づいて、義務教育費国庫負担法が廃止され、新たに設けられた地方財政平衡交付金に吸収された。このとき昭和25(1950)年度予算において地方財政平衡交付金に吸収されるべきものとされた国庫補助金・国庫負担金305億円のうち、義務教育費国庫負担金は247億円(81%)を占めていたといわれる。いわば、地方財政平衡交付金を創設するために義務教育費国庫負担金が廃止されたといっても過言ではない。
義務教育費国庫負担制度の廃止にあたり、義務教育の財源を確保するため、地方財政平衡交付金制度の中で義務教育費として算定した額は義務教育費として支出しなければならないとする標準義務教育費の確保に関する法律案が閣議決定されたが、総司令部の反対のため国会上程にはいたらなかった。
義務教育費国庫負担制度の廃止により、義務教育費の教職員給与費はすべて地方の一般財源で賄われることになったが、その結果、義務教育におけるナショナル・ミニマムの水準の確保が困難になり、 教育条件の全国的な低下、 地域間格差の拡大という事態が生じた。教育条件の低下については、たとえば小学校1学級あたりの教員数が、昭和24(1949)年度の1.22人から26(1951)年度の1.20人に減少したといわれる。地域間格差については、たとえば昭和27(1952)年度の児童1人当たりの小学校費における東京と茨城の格差が100:53であったといわれる。このため、教育界からは義務教育費国庫負担制度の廃止直後からこの制度の復活を求める声が大きかった。
また、義務教育の教職員給与費が地方財政に与える圧迫も大きくなり、都道府県の一般財源に対する義務教育教職員給与費の割合は、昭和25(1950)年度の38%から昭和27(1952)年度の44%へと上昇した。そのため、昭和26(1951)年6月には全国知事会議において義務教育費国庫負担法復活を求める決議が行われるなど、地方行政関係者からの声も高まっていった。
このような教育関係者や地方行政関係者からの要望を背景に、昭和27(1952)年3月に当時の文部省は、標準的な義務教育費のうち各地方団体の財政力に応じた負担分を差し引いた不足分を国庫負担するという内容の義務教育費国庫負担法案を策定した。その後、政府・与党の中での検討・調整を経て、昭和27(1952)年8月、義務教育費国庫負担法が成立し、翌年施行された。
このようにして制定された新たな義務教育費国庫負担法は、旧国庫負担法の仕組みを基本的に引き継ぐものであったが、給与費等の負担対象職員に事務職員が加えられるとともに、教材費も国庫負担の対象費目とされた(当初は一部負担、昭和33(1958)年度からは2分の1負担)。事務職員が国庫負担に加えられたのは、事務職員が教員と同様学校運営を支える基幹的な職員であり、すでに昭和23(1948)年の市町村立学校職員給与負担法によりその給与費等が都道府県の負担とされていたためである。また、教材費が国庫負担の対象とされたのは、当時問題とされていたPTAの寄付金等の形での教材費の家計負担への転嫁を解消する必要があったためである。
このような義務教育費国庫負担法の廃止から復活制定に至る歴史は、地方間の一般的な財源調整制度によっては義務教育費を確保することが困難であり、義務教育の水準確保と地域間の機会均等を保障するためには義務教育費に目的を特定した国による財源保障制度が必要であったという事実を示している。
このような経緯は、現在にも通じる教訓として受け止めるべきであるが、当時と現在とでは地方の財政の状況が違うとの意見もある。しかし、地方財政の状況の如何を問わず、義務教育のための安定した財源を制度的に保障することが義務教育費国庫負担制度の目的であって、地方財政が良好なら不要だが、悪化すれば必要だというものではない。むしろ、今日のように地方の財政状況が深刻の度を増しているときこそ、この制度の必要性を再認識すべきであろう。
|
(6) |
全額国庫負担制度の構想
義務教育の教職員給与費については、その全額を国庫負担するという構想が戦後2度にわたって浮上している。
このような構想が初めて発表されたのは、昭和21(1946)年1月、前田多門文部大臣の下で田中耕太郎学校教育局長を中心に策定された地方教育行政機構刷新要綱においてである。この構想は、フランス、イタリアの制度にならい、全国を大学を中心とする学区に分かち、公立学校の教職員給与費を全額国庫負担するというものであった。
2度目は、岡野清豪文部大臣の下で作成され、昭和28(1953)年2月に国会に提出された義務教育学校職員法案である。この法案では、義務教育諸学校の教職員を全て国家公務員とし、その給与費は定員定額によって全額国庫負担とすることとされた。この法案は同年3月の衆議院の解散に伴い廃案となった。
このように、全額国庫負担の構想は存在したが実現を見ることはなかった。
戦後の義務教育制度は、義務教育を地方自治体の事務とする一方、国民の教育を受ける権利の保障とそのための教育内容・教育水準の適正な確保を国の最終的な責任とする考え方に立っているといえるが、義務教育の教職員給与費の2分の1を国庫負担する制度は、そのような戦後の義務教育制度の考え方に合致した、きわめて安定した制度として、今日までその役割を果たしてきている。 |