義務教育の在り方ワーキンググループ(第7回)議事録

1.日時

令和5年7月18日(火曜日)16時00分~18時00分

2.場所

文部科学省 (※WEB会議も併用)
(東京都千代田区霞が関3-2-2)

3.議題

  1. 論点整理を踏まえた今後の検討について
  2. 有識者からの御発表 ・1義務教育の意義⑴子供たちに必要な資質・能力と学校が果たす役割
  3. その他

4.議事録

【前田教育制度改革室長】  それでは、定刻となりましたので、ただいまから中央教育審議会初等中等教育分科会 個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に向けた学校教育の在り方に関する特別部会 義務教育の在り方ワーキンググループの第7回を開催いたします。本日、御多忙の中、御出席いただきまして誠にありがとうございます。本日は第12期中央教育審議会における初めての開催となりますので、しばらくの間、私、教育制度改革室長の前田が議事を進めさせていただきます。
 本日の開催方式でございますけども、対面、ウェブ会議を併用しております。ウェブ会議から御参加されている委員の皆様におかれましては、会議を円滑に行う観点から、大変恐れ入りますが、御発言時以外はマイクをミュートにしていただきますようお願いいたします。カメラにつきましては、御発言時以外も含め、会議中はオンにしていただきますようお願いいたします。委員の先生方には御不便をおかけしますけども、御理解のほどよろしくお願いいたします。
 次に、本日の配付資料の確認をさせていただきます。本日の資料でございますけども、議事次第にありますように、資料1から資料6まで、加えて参考資料1から参考資料4までとなっております。まず資料の1でございますけども、本年3月に義務教育の在り方ワーキンググループとしての論点整理を、本日資料4として配付させていただいておりますけども、取りまとめいただきました。この論点整理に基づきまして、引き続き具体的な検討を行う必要がありますことから、第12期中央教育審議会においても本ワーキンググループを設置する旨、4月26日に開催されました特別部会において決定されたところでございます。続きまして、資料2のワーキンググループの運営についてでございます。まず、本ワーキンググループの主査及び主査代理につきましては、今画面共有させていただいておりますけども、特別部会の運営規則第2条第3項の規定によりまして、特別部会の部会長が指名することとなっています。これを踏まえまして、第12期におきましても、主査は奈須委員に、主査代理は秋田委員に引き続き御就任いただくことになっております。
 また、本ワーキンググループの公開についてでございますけども、特別部会の運営規則第3条に基づき、公開を原則としておりまして、本日も報道関係者や一般の方に向けて、YouTubeにて配信を行っております。加えて、会議の傍聴につきましても、同規則第4条に基づきまして、会議を撮影、録画、録音する場合は、事務局が定める手続により登録を行い、主査の許可を受ける必要がありますので、御承知おき願います。
 次に資料3でございますけども、本ワーキンググループの委員の名簿となっております。第11期から引き続き御就任いただく委員の皆様に加え、今期より新しく放送大学教授の中川委員に御就任いただいております。
 中川委員、就任に当たりまして、一言いただけますと幸いでございます。よろしくお願いいたします。

【中川委員】  ありがとうございます。放送大学の中川です。今回から委員として参加させていただくことになりました。
 今はもう、GIGAスクール環境の整備とか活用の充実とか、AIの更なる進歩、こういうことがある時期だからこそ、全国の学校や自治体に関わる立場から、子供主体の学びの実現のために何が必要か、そこを特に立ち止まって追求していきたいと思いますし、本ワーキングはその議論にとっても大切な場であると思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

【前田教育制度改革室長】  ありがとうございました。第11期から継続いただいております委員の皆様方も、改めまして、今期も何とぞよろしくお願いいたします。
 このほか、参考資料の1、検討のための関連資料といたしまして、これまでもお配りしているものと同一でございますけども、各論点に関する内容をまとめた資料を参考としてお配りしております。加えて参考資料2-1から2-3、それから参考資料3を配付させていただいておりますけども、これらは本ワーキンググループにおける議論にも関連する重要事項となりますので、追って議題1において簡単に御紹介させていただければと思います。最後に参考資料4は、先月閣議決定されました、いわゆる骨太の方針でございますけども、初等中等教育関係部分の抜粋でございます。本年は、質の高い公教育の再生という表題の下、例年以上に質、量ともに充実した内容が盛り込まれておりますので、御参照いただければと思います。
 長くなりましたけども、資料についての御説明は以上となりますので、ここからの議事進行につきましては奈須主査にお願いしたいと思います。奈須主査、よろしくお願いいたします。

【奈須主査】  よろしくお願いします。主査、また引き続きということで承りました奈須でございます。第11期から引き続きの議論になりますけど、今ほど御挨拶頂戴しました中川委員を加えて、いよいよ盤石な陣容で、引き続き、この12期の中でも議論を進めてまいりたいと思います。よろしくお願いいたします。
 それでは、議題に入りたいと思います。本日の議題は二つございます。まず議題1、論点整理を踏まえた今後の検討について、事務局から御説明いただいた後、議題2として、有識者から御発表いただきたいと思います。
 それでは、議題1、論点整理を踏まえた今後の検討について、まず事務局より御説明をお願いいたします。

【前田教育制度改革室長】  資料4のとおり、本年3月には、義務教育の在り方ワーキンググループとしての論点整理、令和5年3月と書いてある資料でございますけども、取りまとめをいただいているところでございます。
 冒頭申し上げましたとおり、本ワーキンググループにおいて、この論点整理に基づき、引き続き具体的な検討を行っていただきたいというふうに考えております。その際、ワーキンググループにおける今後の議論にも関連する動きといたしまして、配付資料についての御説明の際にも触れさせていただきました参考資料2-1から2-3、そして参考資料3について御紹介させていただきたいと思います。
 まず参考資料2-1でございますけども、5月末に開かれました中央教育審議会において文部科学大臣より諮問がなされました「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策についての諮問文でございます。
 具体の内容につきましては、既に報道等を通じて御存じかと思いますけども、令和4年度実施の教員勤務実態調査の結果でございますとか、本ワーキンググループの委員である貞廣委員が座長を務められました質の高い教師の確保のための教職の魅力向上に向けた環境の在り方等に関する調査研究会が取りまとめた論点整理等を踏まえ、更なる学校における働き方改革の在り方、教師の処遇改善の在り方、学校の指導・運営体制の充実の在り方について審議をお願いするものでございます。
 参考資料2-2と2-3は、この勤務実態調査の結果の概要と論点整理でありますので、御参考いただければと思います。加えまして、義務教育に関する重要な動きとしまして、参考資料の3でございますけども、今月、初等中等教育段階における生成AIの利用に関する暫定的なガイドラインを公表しております。
 生成AIにつきましては、発展途上にあり、多大な利便性の反面、様々な懸念も指摘されているところでございます。他方、学習指導要領では、情報活用能力を学習の基盤と位置づけており、生成AIの仕組みの理解や、学びに生かしていく視点も重要でございます。
 こうした中、夏休みの課題に不適切に適用されることを懸念する声があったこと、また、学校現場における活用の適否の考え方をできるだけ早く示したいという趣旨から、暫定的なガイドラインとして策定、公表したものでございます。
 ガイドラインでは、利用規約の遵守を前提に、発達段階を踏まえ、事前に生成AIの性質を十分理解することが可能かを見極めた上で、教育活動の目的を達成する上で効果的か否かで判断すべきとの考えを示しておりまして、活用が適切でない例、あるいは活用が考えられる例、その両方をお示ししております。
 本ガイドラインの取りまとめに当たりまして、本ワーキンググループ委員でもあります堀田先生に大変御尽力をいただいたところでございますので、もし堀田先生のほうから補足、コメント等があれば、お願いできますと幸いでございます。

【堀田委員】  堀田でございます。少しだけ付け加えをさせていただきます。
 この資料の24分の4ページに当たるところが基本的な考え方でございます。この基本的な考え方の冒頭にありますように、情報活用能力は、学習指導要領において学習の基盤となる資質・能力とされており、さらにGIGAスクール構想で端末が子供たちの手元に来ていますので、子供たちはいろんなことができるわけです。あとは、やっていいことかどうかとか、どうしてそういう結果になるかということを理解できるかどうかということが重要であると考えます。
 一番下に「総合的に勘案」と書いてありますが、そこに書いてありますように、今回は限定的な利用から始めるということと、パイロット的な取組をいろんな学校で行っていただいて、実践の実績をためていって、それから横展開を広くやっていくということになりました。
 また、表紙に書いてございますように、そもそも今回のガイドラインは暫定的なガイドラインであり、同時に、右上にありますように「機動的な改訂を想定」と、文科省の文書にあまり見られない書きぶりでございますけども、これは日進月歩の技術ですので、追従しながら変えていくというような形になっております。
 私からの補足は以上です。

【前田教育制度改革室長】  堀田委員、ありがとうございました。
 以上が、質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策と、生成AIの利用に関するガイドラインについて御紹介させていただきました。これらの動きにつきましては、また状況を共有させていただきたいと思いますので、今後、本ワーキンググループにおいて、各論点について具体的な検討を行っていく際の参考としていただければと考えております。
 事務局からは以上でございます。

【奈須主査】  ありがとうございました。ワーキンググループにおける議論に資する、とても重要な内容かと思います。
 本ワーキンググループとしては3月に、多岐にわたる様々な論点をまとめたところですけれども、このうち要となるのは、個別最適な学びと協働的な学びの具体的な姿の提示であり、現場で実践する具体的なあるべき授業、そして学びを示すことが求められていると考えています。
 その一方で、子供たちが有能な学び手として、学習方法、学習材、あるいは進度等を選択したり、一人一人の得意分野や特性、あるいはキャリアの志向性等に応じた学びを実践するということは、教育課程、学習の在り方とも強く連動します。
 したがって、今回御紹介いただいた内容も含め、関係会議における議論の内容をしっかりと踏まえることが必要になるかと存じます。したがって、今後の検討としては、資料4の論点整理のうち、まずは、1、義務教育の意義(1)の子供たちに必要な資質・能力と学校が果たす役割、それから、2の学びの多様性の(3)学びにおけるオンラインの活用に係る論点から着手し、その後、関係会議における議論の進捗状況等も踏まえつつ、様々な授業実践、取組事例の紹介を更に重ねながら進められればと今考えておりますけども、いかがでしょうか。
 よろしゅうございますかね。
(「異議なし」の声あり)

【奈須主査】  特段異議ないようでしたら、このように進めさせていただきたいと存じます。
 それでは、続いて議題2、有識者からの御発表に移りたいと思います。先ほど議題1でお話ししたとおり、論点整理のうち、まずは1、義務教育の意義、そのうちの(1)の子供たちに必要な資質・能力と学校が果たす役割について具体の議論を進められればと思いますが、本日の議論に資する話題を提供いただくため、お二人の有識者に御参加をいただいておりますので、御紹介申し上げます。
 お一人目は、青山学院大学特任教授、一橋大学名誉教授の木村元先生です。教育制度の社会史を御専門とされておられ、教育や学校の歴史に関する様々な著書を出版されておられます。本日は、学校の意義・役割に関する歴史的な振り返りと、今後の在り方という切り口から御発表をいただきたいと思います。
 続いてお二人目は、信州大学学術研究院教授の伏木久始先生です。伏木先生は、過去には都内で学校の教員として勤務されたほか、長野県教育委員会では教育長職務代理者として兼任をされ、また、昨年度は1年間、サバティカルでフィンランドの国立教育研究所研究員として活躍されておられます。本日は、その御経験を踏まえ、フィンランドをはじめとした海外の教育事情と日本の教育の課題について御発表いただきたいと存じます。
 木村先生、伏木先生の順番で約20分ずつ、続けて御発表いただき、その後まとめて1時間程度、質疑討論の時間とさせていただきたいと思います。それでは、まず木村先生より御発表をお願いいたします。

【木村教授】  青山学院大学の木村と申します。今年の3月まで一橋大学に約30年間、勤務しておりました。新しい職場に、まだ慣れず、ばたばたして、今日も授業をやってからここに参っている次第です。
 今日大きな社会変動の中に義務教育が置かれていますが、本日は、最初のページにも掲げましたように公教育制度としての義務教育について、日本の学校の展開の中で歴史的な位置がどういうふうにしてあるのかということから押さえてみたいと考えております。内容については以下のようです。
 まず、どんな立場からということですけれども、今もありましたように、私の研究テーマは、教育制度の社会史などと一言で申し上げています。教育の社会史という研究領域がありますけれども、端的に言うと人々に教育や学校がどう受け止められてきたかということを歴史的に研究する領域です。社会の中での人間形成の展開を踏まえながら、制度化された学校という人間形成の固有な場が作り出す事実を捉える枠組みとして「教育制度の社会史」というものを考えてまいりました。簡単に言うならば、学校という制度の中で、自分がどう生きたいかという生活の論理だけでは生きられない、一方で、制度が決めるようにしか学校が動くわけでもない、その中間地点に学校というものが作り上げられて展開していき、その力動関係を追うというものです。
 私自身の研究の展開については、産む、教える、育てるという産育のレベルを基盤に、学校というシステムがどういうふうにして人間形成を担ってきたのかを追う研究を行ってきました。大きく言うならば、学校ができて、定着して、そして問い直されるという展開を社会の変動を踏まえながら描いているということです。幾つかのポイントがありますが、最終的には、一番左側の『学校の戦後史』では日本の学校を4層構造で描きました。後でも少し触れますけども、日本の学校というのは、「近代学校」という、ある種の普遍的な学校の上に、「日本の学校」という日本独特の学校が置かれた。そして戦後は、民主主義社会の担い手の形成と権利としての教育を軸とする戦後教育が制度化され、その枠の上に構築された学校システムが動揺し今日を迎えているという構造を描いた本です。このように押さえることで、学校において今日動揺しているのがどの層なのか、見えるように整理したわけです。
 それと、もう一つは、学校というと、多くの場合は中核の学校に注目して、それを捉えて少なくとも通史把握がなされてきたわけですけども、そうではなくて、学校の周辺や周縁に注目して、学校の境界の在り方というのが今日の学校の、ある意味では中核的な問題を示しているという見方でもって、今日の学校を検討することで学校教育の流れを辿ってみました。こうした知見の上からも、公教育としての義務教育ということを捉えてみたいと考えているわけです。
 まず、ちょっと大きめの話なのですが、人類史的な観点で、文化伝達という指標で学校教育の流れを見てみました。それはつまり、学校というシステムが、ある意味で今揺れているわけですけれども、その学校というシステム自体も、長い人類史の中では、ほんの短期間のシステムなんだということが示されています。
 一番左側にある絵は、西洋史家の泰斗である中世史の阿部謹也という方の著書から取ってきているのですが、これは靴屋さんのマイスターを描いています。このマイスターは、親方ですけども、どうやって弟子(徒弟)を育てるかというと、今日でしたら、靴の作り方というのは、こういう革を使って、かかとのところをどのぐらいの角度にしてとかということを教えて、次の世代の靴屋さんを育てていくのではないかと思うのですけども、圧倒的長い間の人間の育て方というのは、ここにあるマイスターのように、ひたすら「自分で」靴を作るという行為で次の世代を作っていたわけです。つまり、この外側に弟子がいて、その弟子が親方を見ていて、その親方のようになるということなわけです。ですからそういう意味では、弟子が親方そのものになるということなので、技術の最も内実を伴った伝承がなされるということになる。ただし、それは弟子全体に保障されているわけではない伝達方法でもあります。こうした徒弟方式による人間形成が、圧倒的に長い間の人間の次世代養成のシステムであったわけです。
 ところが19世紀に入ってくると、それ以外のシステムが生まれてくる。ランカスターの学校と言われている教育の歴史の中では比較的有名な近代学校ですけども、これは近代学校の過渡期のものです。ちょっと見づらいんですけども、たくさんの子供が並んで座っていてその前に教師がいて、横側にモニターがいるというようなシステムに大きくはなっているのですが、過渡期であるというのは、実は前の人が物を教えているわけではなく、教えているのは、左側にいるモニターであるということで、いわゆる一人の教師による一斉教授ではありません。ここでは教えることを通しての学ぶ形を身に付けさせることの2つの機能を浮き上がらせて、教えるという文化伝達を行っているわけです。学校方式で文化を伝達するということは、中身を教えるということだけではないわけですね。子供自身がその学ぶという形を身に付けるということが行われている。
 この絵の見えない部分、つまりこの外側の世界がどうなっているかというと、産業革命期で、農村から若者が都市部にいっぱいやってきて、無秩序な大喧噪の現実が存在しているわけです。私たちが慣れている学校を取り巻く環境とは異なって、きわめて特殊な場として学校が存在していたわけです。こうした空間がなぜ成り立つのか。子供たちが時間がきたらこの空間にやってきてちゃんと学習を行うことを管理するモニターと実際に文化伝達を行う横に並んでいるモニターの二つの機能がこの空間を作り上げている。今は一体となって見えなくなっている独特な文化伝達の過渡的な様相を示している絵です。
 さっきの親方の絵と比較してみましょう。そこでは親方が一生懸命靴を作る、すなわち一生懸命生きるということがそのまま文化伝達であったわけですけども、親方そのものになるという文化伝達が図られた弟子がある一方で、なされなかった人まで伝達に幅があったわけです。他方、学校方式の場合は、産業革命期の社会の中で全ての人にそこを生きていく力量を形成することを目標とした場でもあった。ここにある教えるという文化伝達の方式がそれを可能としているということです。これまでの徒弟方式の文化伝達では受け取る人それぞれであったものが学校方式では全てに保障するというシステムを作りあげていく。そうした人間形成のシステムの転換が学校方式においてなされました。学校方式は、教えるという介入行為が内包する抑圧性も強く内包しています。全てに社会の最低の必要な能力を養成しようとすることに伴うものです。
 今日テクノロジーが展開する中で、最適化された学習方式というものが準備され、その中で個別化された学習で次の人間形成を行っていこうとする動きが見られます。つまり、学校方式の在り方が問い直される状況は、具体的には教えるということの抑圧性の克服、自由に学ぶ機会の拡大という課題への対応の必要を生じさせており、学校方式を相対化していく流れの中で捉えられると思います。
 次に、人類史レベルの動向を踏まえたうえで、日本の学校の展開を押さえたいと思います。どういうふうに今日の学校が作り上げられてきたのか、特に、先ほどの日本の学校の4層構造のうちの第2層にあたる「日本の学校」という層が今問われているわけなので、その形成過程について見ておきたいと思います。
 「日本の学校」の最初のシステムというのは、思い切り図式化した描き方ですけれども、日本が近代化する中で、西洋の知識技術をいかにして移入していくのかを課題に作り出されたと言えます。システムの根幹は、そろばんの昇級のように、下から、下等小学の8級があって、7級と上がっていきます。それは試験に基づいて――1か月ごとに小テストを行い、そして半年ごとに定期試験に合格し進級していくというふうな、厳密な試験制度で学校の階梯を上っていきます。進級することによって、西欧の知識・技術というものの修得を図る機関としてあったというふうに言えます。ですから必ずしも一つ一つ階段を上がらなくとも飛び級で進級していってよい。逆に試験に合格できなければいつまでも同じ級にとどまる。そうした機関として日本の学校は出発します。
 そのシステムが大きく転換するのは、1890年代からです。ここに、1891年、「学級制度等ニ関スル規則」というものを挙げておきましたが、これが大きな転換点となったものです。1人の教師と多くの子供たちが共にする時間、経験というものが学校の基本的なユニットであり、それに基づいて進級していくというシステムです。つまり、等級すなわちグレードの修得を基盤とするシステムから、学級すなわちクラスという集団の経験を土台とするシステムへと19世紀の末に変わるということをここで確認しておきたいと思います。ただし、システムの移行は簡単ではありませんでした。
 先ほど述べました等級制は、試験制度に基づく段階に応じた知識の修得でしたので、必然的に下の級に滞留するものの数も多かった。これは能力が低いということではなく、なぜこの知識が必要であるかというレリバンスがなかったことが大きかったと思われます。そもそも西欧での近代学校の成立は産業革命を経てであったのですが、日本の社会は産業革命前でした。人々にとって自分たちの生活からかけ離れた知識の修得は学校に行くインセンティブにはならなかったのですね。背景的にはそういうことがあったわけです。
 そうした現実を踏まえて学校のコアのシステムを学級に変えたわけですが、それでもなかなか子供を学校に誘うには困難がともなった。子供を学校に通わせるという大きな国家課題を実現することはなかなか難しかったのです。学校に行く意味が人々に理解されないわけですから、強権的に督促をかけてもなかなかうまくいかない。20世紀に入るくらいにはだいたい学校に行くようになったとされていましたが、実はその根拠となる文部省の統計、『文部省年報』というもので世界に冠する統計書ですが、この時期の就学の実態をそのまま表しているというわけではないということが教育史研究のなかで示されてきています。今日の研究では、全体的にちゃんと毎日学校に行くようになり、そして卒業するようになったのは1930年代を迎えてからとされています。
 ここで一人の教師が書いた日記を紹介したいと思います。学校の枠組みを変えながらもなかなか学校が人々の生活に定着することが難しかった状況の一端が見える資料です。日記ですから、人に見せるために書いているわけではなくて、ありのままの学校を書いていると思われますが、そこにはよく見ると、たとえば、むちが備えられており、生身の教師のレベルで学級として成立させる際の困難の一端が現れています。
 戦前の学校システムは、自立的な個をもとにした近代国家とは異なった、天皇制国家といういわば大きなムラシステムの一環として構築されます。その際、学校の定着は強権的になされたものだけではないと思われます。教育の実践のレベルで教師がなんとか学級を作り上げるときに、学校を子供たちが生活するムラに作り直すことで安定を図ろうとしたのではないか。ムラや家族の家父長的な関係を投影し、保護と従属というかたちで学校においてもパターナルな関係を作り上げ、それを通して学校・学級を意味ある空間に作り直していったということがあるように思われます。
 パターナリズムとは何かというと、平たく言うならば、あなたのために介入するという方式です。先生は子供のために精一杯尽くす子供は先生に従うというそういう関係形成が国家の教育の枠組みと重なりながら「日本の学校」の独特な形を作り上げていく。
 このような内実をもって学校による義務教育制度が定着していきますが、この義務教育の成立自身も自明ではありません。どこにポイントを置くかで義務教育の成立時期が変わるからです。少なくとも保護者による就学の義務と国家による学校の設置義務という要件が重要なのは言うまでもないですが、ここでは加えて、学校に子供を通わせることが保証されることを指標に置きたいと思います。というのは、子供たちはこの当時働き手として期待されており、家計の一助になることが子供の生活だったわけです。そのような子供の就労という現状に対して、就学を保障するという枠組みが1900年の(第三次)小学校令によって示され、制度的に義務教育が成立したと考えています。また、義務教育は戦前の国家体制の中では、大きく言うならば、天皇の慈恵とされていましたので、権利義務関係というよりも、慈恵関係で成り立つシステムを取ります。
 実際に、教育に関しては勅令で定められていましたし、例えば戦前の三大義務と言われましたが、大日本帝国憲法の中で教育は義務として定められているわけではありません。こうした、「日本の学校」の成立が前に述べました第2層の形成で、その後の第3層が戦後の学校ということになるわけです。この戦後の学校は、戦前から正に教育理念を転換させたもので、国家を目的とする学校制度ではなくて、民主的な社会を担う個人の育成、つまり権利としての教育に組み替えたところに特徴があります。今日、公教育のシステムとして、日本国憲法において普通教育を受けさせる義務、つまり権利としての教育を位置づけ、全体の構造の中では生存権の中に義務教育が位置づけられるということになっています。ただしそれは、先ほど挙げた第2層の「日本の学校」の性格自体を変えたわけではなく、教育の現場ではその性格を維持しながら理念を転換させたというのが実態でした。制度化された義務教育は、基本的に就学によって行うという形で、学校教育法という包括的な法が設けられ、学校教育法の一連の体系の中で、就学義務というものを前提にしながら作られています。そうして作り上げられた、戦前からの就学に基づく義務教育システムというのが今日問い直されているということになります。
 次のページの表は、『学校の戦後史』の中に書かれているものですけれども、上のほうは高等学校の就学率です。高等学校というのは、言うまでもないですけど、義務教育ではないのですが、義務教育でもない学校にみんな行くようになるのが、大体1970年代の中頃です。同時に、2次関数のような曲線がありますけど、これは子供が学校に行かなくなっていることを表した曲線です。これはもちろん縦軸のパーセントの尺度は違いますけども、傾向を見る上で挙げました。つまり子供が学校に行かなくなる傾向が強まるのは、みんなが学校に行くようになった時期と重なっている傾向を捉えたわけです。ただし、行かなくなっている原因が違う。左のほう、つまり不就学がどんどん下がっていくほうは経済的要因、あるいは文化的要因が中心ですが、70年代半ば以降上がっていくほうは、それももちろんそれも含みますが、むしろ「学校嫌い」などを理由とするなど学校という制度が子供と合わなくなっているというようなことが含み込まれています。学校に通うという人々の行動の大きな流れの中で、先ほど挙げた義務教育というものが問われているということになっているわけです。
 次のページは義務教育のシステムについてですが、ちょっと時間がないので、コメントのポイントだけを申したいと思います。この中教審の中で議論されている義務教育を捉えるための重要なシステムとしての履修主義、修得主義、年齢主義、課程主義というカテゴリーがあるわけですけども、この用語の使い方が、事実をどう捉えるのか、あるいはどういう方向で議論していくのかという上で非常に重要だと思います。申し上げたいのは、このページはHPに掲げられているもので割愛しますが、次のページで確認したいのは、課程主義とか年齢主義とかというカテゴリーが議論に出てきたのには背景があり、用いられ方も限定的であるということです。課程主義、年齢主義という場合には、1950年代の改めて教育と国家の関係が問われた時期に示されたもので、義務教育の義務完了の類型として提出されたものです。もう一つの履修主義と修得主義というのは、教育課程の履修原理に関わる概念ですけども、これは1960年代の中頃に出てくるカテゴリーです。どういう文脈かというと、子供が学校で修得する力というものを保障するということを原理として出されてきたカテゴリーです。ところが現実は、ここは先ほども挙げましたように、厳しい受験戦争のなかでどんどん子供が落ちこぼれていくという、いわば「教育不在」とも言える状況の解決を目指して作り上げられたある種の規範的なカテゴリーとして、この修得主義というカテゴリーが提示されているということです。このことは、「日本の学校」の形成に伴って作り上げられた教師と生徒が一緒にいる時空間を原理とする履修主義では、多くの子供が社会を生きていく力(学力)が保障されなくなっている状況を作ってしまう。修得主義は、その克服を目的として作り上げられたカテゴリーです。ですから、先ほどの中教審が示している、この2つのカテゴリーを二項対立ではなく折衷していくという言い方自体は、このカテゴリーが生まれた状況をどういうふうに総括して、だからこういう形で作り直すというようなことを説明しなければならないと考えます。でなければ両方とも大切ですねということにとどまり、意味あるカテゴリーとしては機能しない。
 ですから、義務教育というものを成立させる上での重要な概念については、やはり歴史的な枠組みが持つ意味というものを押さえながら展開してほしいなと考える次第です。その上で、『境界線の学校史』という本のなかででも示しましたように、義務教育の境界線の緩和と拡張という動向の中で義務教育の場が今どんどん広がっているということがあります。つまり、それぞれの子供が置かれた状況に積極的に制度を合わせていこうとするものです。それが悪いというふうに言っているわけではありませんけれども、とはいえ、その境界線には境界線の意味があるということで、ただ広げればいいということにはならない。その点について境界線が拡張していく中核の状況、あるいは周辺の状況というようなことを掲げておきました。
 次に行ってください。教育機会確保法は2010年代の後半に作り上げられるわけですけども、そこに至るまでの過程というのは、やっぱり結構重要であって、今日の報告で言うならば、就学を前提にする義務教育システムが、この時期に揺れたということがやっぱり最大のポイントだと思います。その時の議論では、学校教育法という法律で義務教育を果たすという枠組みを相対化しようとするものも含まれています。そのことは、今日触れたように、やはり歴史的な転換点というものを示していたと思います。結果としては右のような図になるわけですけども、恐らくこの議論というのは、既に終わりましたという話ではなく、こうした地点まで今日の学校を考える段階に来ているということを確認しています。
 最後のページに行ってください。ここで人類史的な位置づけというものを行っています。そういう転換の中にあるということを示しているわけです。ここでも1点だけ強調するとするならば、学校方式が持っている、全ての社会構成員に生きる力というものをどう保障するのかという問題を深めることが重要であるということです。個別の最適化のメリットを示すだけでは問題を押さえられないということだけ指摘しておきたいと思います。
 次のページに行ってください。すみません、ちょっと時間が超過しています。最後だけ、ポイントについてお話をしたいと思います。今日の報告というのは、人間形成方式の中で今日の学校教育が人類史的な転換点にあるということを指摘しました。それと、公教育システムというのは、個人がよりよく生きるということだけではなくて、社会を更新しながら個人がどう生きるのかというふうな視点が入っているということです。ですから個人と社会の関係がしっかり位置付けられる必要があるということです。ちょっと今日時間がなかったので、下の図については説明できないわけですけれども、近代以前の社会というのは共同体の中で、フォーメーションとエディフィケーションという人間形成のカテゴリーを用いて近代以前の人間形成と近代以降の個人というものの自己実現を保障しながら、同時にそれを踏まえながら社会のメンバーを作るというふうなシステムの原理的な特徴を示した図を掲げてあります。
 今回の報告では「それぞれ」と「全て」という形でカテゴライズしましたけども、それをどういうふうに押さえるのかというのが重要な論点になるということになります。それと就学義務の課題ですけれども、ここでも恐らく教育のデジタル化が議論になっていると思いますけれども、やはりどうしても教育格差への対応の問題が強く意識される必要があるであろうということです。階層によるデジタルリテラシーの格差、これはどうしてもあることですので、それをどういうふうに捉えるのか。 
 一方で、中上流階層の公立学校からの離脱という問題をどう考えるのかは重要な論点になるのではないかと思います。それと、子供の関係作りとしての学校の意味として社会を構成するための共通経験を学校が与える、これは非常に重要なポイントです。ただ、同時に、様々な理由で学校に行けない人の排除の場になるということもあるわけで、全人的な関係の即時的な強調というふうに言っているわけですけども、それは今までの学校の課題ともされてきたわけですが、改めてその関係を導く指導というカテゴリーが恐らく重要であろうということです。
 最後に、先ほどの学校の境界線ということとも関わりますが、就学が前提になることで、どうしても抑圧を感じる子供がいて、その子供にどう対応するのかがやはり非常に大切なポイントになるということです。当然その子にあった配慮は欠かせません。のみならずそれは単なる一人の子供だけの問題ではなくて、そうした子供を生む学校空間の在り方を検討する指標にもなるという点も指摘しておきたいと思います。ただし、その場合でも単に学校の境界線を広げるということだけでは、恐らく先ほど言った公教育の課題というのは解決できないだろうと思われます。その難しさというのは、先ほど紹介しました『境界線の学校史』の中で夜間中学という学校が、夜間中学出身の人にとっては、「あってはならないがなくてはならない」という表現でこの学校を捉えているところに伺えます。
 それはどういうことかというと、夜間中学が成立してきた当初、子供は働いているわけですから、なかなか子供は学校に来れないわけです。先生は何とかして子供を学校にやろうとするから、学校の枠を緩めるんです。つまり学校では、時間を限定してじゃあ国語と数学だけやろうねという形で緩めると、子供は学校に来れるようになるわけです。それは確かに万々歳なんですね。ただし、その万々歳がそのまま許されると、今までしっかり学校を守ろうとしていた先生たちが、いざとなれば夜間中学あるでしょうという形で境界線を緩めるということになってしまう。そのことを言い表していると思うんです。本当はあってはならないですけども、でもなくてはならないというような領域も含みながら、公教育というものが緊張感をもって作り上げられてきた、そういう学校の境界線というものの意味を捉え返すことが重要であると。
 すみません、時間をちょっと超過してしまいました。以上です。

【奈須主査】  ありがとうございました。就学とか、そもそも学校とか義務教育とかいう、このワーキングの前提条件になっているものが歴史的にどこから来て、なぜそうなったのか、あるいはどこに行こうとしているのかということを包括的に教えていただいたような気がいたします。
 それでは続けて、伏木先生に御発表いただきたいと思います。よろしくお願いします。

【伏木教授】  それでは、画面を共有したいと思います。信州大学の伏木です。
 私からは「日本の教育を国際的視野から問い直す」と題して、主にフィンランドの教育に着目して日本の教育の課題を考えるという趣旨の話題提供をしたいと思います。
 簡単な自己紹介をさせていただきます。私のキャリアは心理カウンセラーに始まり、中高一貫校の教諭に転職しましたが、それを経て10年後ぐらいに博士課程に復学し、その後、小学校教諭として再就職しました。40歳のときに信州大学に転任してから、ちょうど20年たちます。昨年度1年間はサバティカルをいただいて、フィンランド国立教育研究所の研究員として在外研究をしておりました。この建物はユバスキュラ大学の教育学部棟ですが、この中に国立教育研究所のスペースがあり、私の研究室もここにいただいていました。
 本ワーキングにおける検討の視点という資料を拝見しましたが、特に、学びに何らかの困難を抱える子供たち個人に問題があると考えるのではなく、困難の背景にある学校や社会の在り方を問い直す観点から、子供が安心して学ぶことができ、ウェルビーイングを実現できる場所として考えていく、そんなふうに書いてありまして、この方針に大変共感いたしました。
 このワーキングの議論において私に求められたミッションと、本日のプレゼン時間を考慮し、日本型学校教育を国際的な視野から捉え直してみた時の特色はどのように説明できるのか、北欧の教育と対比しながらまとめてみました。また、これらの特色は継承していくべきか、それとも問い直して変えていくべきなのか、学校の当たり前をダウトしながら言及してみたいと思います。
 まず、海外から見た日本の学校教育の主な特色をピックアップしてみました。例えば、セレモニーが多く、号令に合わせて姿勢を正して挨拶をする。学期ごと、学級ごとに共通の目標を立てるとともに、個人の目標も別に設定する。学級ごとに生活班などを単位とした相互協力のシステムを導入している。掃除当番を決めて、毎日のように子供が学校清掃を行うなど、いずれも国際的にはとてもレアケースだと思います(スライド資料の一部を紹介)。ただし、他国の教育を語る際、見える教育の部分や、データだけを切り取って説明することは妥当ではありません。学校教育は、それぞれの国の地理的・歴史的背景や社会制度、教育理念などとの因果関係を踏まえて理解する必要があります。
 そこで、ごく簡潔にフィンランドという国について概観することから始めたいと思います。フィンランドの国土面積は、日本の総面積から九州を除いた広さに匹敵しますが、日本と同様に、国土の約7割が森林です。日本とは違って、山がなく、平たんな森と湖に囲まれた土地に、日本の人口の5%にも満たない550万人が生活しています。地下資源も農産物の生育条件にも恵まれないエリアなので、人が資源だという考え方が古くからあり、特に社会福祉国家型の政策が進められるようになってからは、一人も取り残さないという社会保障理念が浸透しています。
 ちょうど私がフィンランド滞在中に、NATO加盟問題で、ロシアと国境を1,200キロ接していますから、フィンランドにいては危ないんじゃないかという心配メールを日本から随分頂きましたけれども、フィンランドでは、私が住んでいた集合住宅も地下にシェルターがありましたが、ホッケー場、駐車場、全て有事のときにはシェルターになりまして、国民の8割はシェルターに避難できるという国です。歴史的にソ連、ロシアとのいろんな問題もありましたし、有事に対する備えは私たち以上のものがありました。
 また、消費税は24%、所得税の割合も日本と比べるとかなりの高負担ですけれども、これらは医療、福祉、教育に有効に使われていると国民は納得しており、また、政治家や公務員に対する信頼度が極めて高い、こういう点は北欧共通です。
 下の写真は私の毎日のジョギングコースで撮った6月の湖の風景と、北極圏のラップランドで休暇を過ごした7月中旬の写真です。この夏休みの時期は家族、親族で、湖畔のロッジなどで1週間以上過ごすのが、ごくごく一般的な日常になっています。また、多くの企業でも、従業員が家族に合わせて、子供たちに合わせて夏休み休暇を取るため、この時期には大学生や高校生のアルバイトシーズンとなります。それがインターン実習的なキャリア教育にもなっています。
 また、World Happiness Reportにおいて、フィンランドは6年連続で世界幸福度ランキングで世界一になりました。これは、それぞれの国民が考える理想の人生と比較したところの現在の自分の生活を自己評価するという調査の結果を反映したものです。日本は昨年よりも順位を上げて47位にしたものの、健康寿命という項目以外は、フィンランドよりもずっと低く、特に人生の選択の自由度や、他者への寛容さが極めて低い結果になっています。
 フィンランド教育を支える社会制度や生活様式のコンセプトには、「人はそれぞれ違う」という前提があります。それは、同調を求めるのではなく、異なる者同士の協働を求める社会を構成しています。フィンランドの働き方で感心することは、勤務時間が少なく、夕方4時には帰宅ラッシュが始まり、残業はほとんどないことです。あらゆる職種で労働時間は週平均で37.5時間と決められており、有給休暇は100%毎年消化するのが当たり前です。職場でも家庭でも男女平等で、上下関係を嫌うため、年齢や地位に関わらず、みんなファーストネームで呼び合います。また、デジタル化とペーパーレス化が進んでおり、私もフィンランドでは現金を財布から出した記憶がありません。
 教育現場も同様にデジタル化、ペーパーレス化が進んでいますが、こうした改革が労働生産性を高めることにもつながっていると言われています。近年はウェルビーイングが強調されるようになり、在宅勤務やフレックスタイムなど、柔軟な働き方が増えています。さらに、自然の中で健康的な生活を送ることが価値あるものとされているほか、学校の体育は、チャンピオンシップではなく、生涯スポーツのために重視されています。
 それでは次に、フィンランドの学校教育の特色を、時間の関係で以下10項目にまとめて、簡潔にお話ししたいと思います。
 まず一つ目、フィンランドでは、義務教育はゼロ年生、いわゆるプレスクールから高校生までに拡大されました。給食費をはじめ、学用品や授業料や交通費など、高校まで全て無料です。家庭の経済的背景を子供の学力等に反映させないという基本方針があるので、学校は家庭から一切集金できません。修学旅行を企画した場合、子供たちが鶏を飼って卵を売ったり、ケーキを作って売ったり、クラウドファンディングしたりなど、努力して旅費を工面することになります。また、9年間の小中一貫の基礎教育の修了時には、大学・大学院まで進学するための進学高校か、あるいは職業教育を専門的に学ぶ職業系高校かを選択するわけですが、進学後にコースをチェンジすることも可能です。状況に応じてコースも変更できる柔軟な制度ですが、学費は大学院まで無料です。
 二つ目、私が取材した関係者から漏れなく聞かれたキーワードが、トラスト、信頼でした。国は地方公共団体を信頼し、自治体は学校長を信頼し、学校長は教員を信頼するという風土の中で、心理的安全が保たれています。その中で教師に与えられている自由裁量が、新たな実践への挑戦意欲や、学び続けるモチベーションを高めていると感じました。教科書検定制度や全国一斉の標準テストは1990年代に廃止されていますが、単元ごとに理解度の一部を評価するためのテストはあります。
 個に応じて発達的、形成的な評価をしますが、集団の中での相対的順位をつけることはありません。これは北欧共通です。常に変化する世界に合わせて学校や学習指導も変わらなきゃならないという考え方が教育関係者に共有されていることも重要なポイントだと思います。
 三つ目。フィンランドの学校の年間授業日数は190日ですが、それ以外の日に教員が出勤することはありません。8月初旬に新年度がスタートしますが、入学式、始業式はありません。10週間後、10月ぐらいに1週間の秋休みがあり、12月に2週間のクリスマス休み、2月に1週間程度のスキー休み、4月にイースターの春休み、6月初旬に年度末を迎えますが、この後、約2か月半の夏休みになります。日本の特別活動はなく、朝の会や帰りの会、一斉での授業前後の挨拶みたいなものもありません。
 四つ目、日本における総合的な学習に当たるPhenomenon-based Learningは、それ自体の授業時数の配当はありません。そのため、各教員が教科群のカリキュラムマネジメントを行って実践しています。基本的にはグループワークの形を取り、協働的な学習活動を重視していますが、横並びではなく、教員個人の自由裁量が大幅に認められています。
 このPhenomenon-based Learningにしても、プログラミング教育にしても、学習指導要領には実施するように決められていて、小学校1年生から導入されていますけれども、これらは常に複数の教科にまたがる活動や、STEAM教育を意識したような教科横断的な活動の中で行われています。
 五つ目、個性的にトライできる教師の裁量ということについてです。この写真は教室を写していますが、1年生のA組、1年生のB組、1年生のC組の写真を撮っています。教室のレイアウトや学習材についても全て教師の裁量に任されているので、この写真の同じ学年の三つの教室のように、その教師の個性が教室に反映されます。通常は、1クラス22、3名が上限です。その子供がクラスに編制されていますけれども、学校によっては半数の、10名ずつくらいの授業ができるようにしています。それは、特定科目の時間割を朝一番と午後の最後に配置し、10人ずつに分けて、子供の登校時刻や下校時刻をずらすんです。時間割をスライドにすることによって、半数の子供で授業をやるという学校を幾つも見てきました。
 六つ目、これは3年前の4月に、フィンランドのマリン前首相がコロナの緊急事態宣言を発した直後、小学生の子供記者からの質問に答える場面をテレビの生放送で伝えているシーンです。フィンランドでは幼児期からアントレプレナー教育が行われており、「私は社会を変えられる」という社会参画意識や当事者意識のようなものが育まれています。だから小学生にもなると、地域社会の政治的問題を親と食卓で議論するということをよく聞きます。
 七つ目、特別支援教育についても話題に加えました。日本の場合、障がいを個人の欠陥と見るメディカルモデルに基づいて特別支援が提供されるという制度になっていますが、フィンランドにおける障がいは、本人ではなく環境の側に欠陥があると考えるソーシャルモデルに基づいて特別支援が提供されます。そのため、特別なケースを除いて、医者や心理士からの診断を必要としません。また、全ての通常学校に、学級担任を持たない特別支援教諭が配置されるルールになっています。そこで個別の指導や、担任・保護者へのコンサルテーションを、この特別支援教育の専門教員が行っています。
 なお、近年フィンランドでは、特別支援学校に在籍していた子供たちを地域の一般校へ編入させる政策が進行しています。そこで一人一人の子供の特性に応じて学習環境を工夫するということが、教師たちにこれまで以上に一層求められていて、なかなか難しい状況が生まれています。ソーシャルモデルを基本とするフィンランドの特別支援教育においては、個人に障がいがあることが困るのではなく、環境の側が無配慮だからその子が困るという考え方に立っています。そのイメージを図示したものがこれですが、日本の学校が平等を基本にするのに対して、北欧諸国では公正という概念が優先されるという違いがあります。そして、これからの日本も、環境そのものを見直していくという発想で、ソーシャルモデルに移行していくことが求められるように思います。
 八つ目、教員の指導環境や指導意識を国際比較したTALIS調査に触れたいと思います。この調査結果から、日本の先生たちが最も長時間労働を強いられていることが数値で示されました。そして授業の在り方も、他のOECD参加国の先生たちとの間に顕著な違いがあることが示されました。
 ここに抜粋した表は、日本の小学生と中学生の授業をTALIS調査全体の平均値と比較したものです。この調査結果から言えることは、国際比較をしてみると、日本の授業は批判的思考を養う授業が極めて少ないこと、授業は予定どおりに進行することが優先され、児童生徒の個々の理解度に対して十分に対応できていないこと、日本の授業は全員が同じ正解に導くタイプの授業が多いこと、授業以外でも日本の学校教育は子供の学習行動や生活行動を統制する傾向が強いということ、こんなふうにTALIS調査の分析から評価されています。日本の結果は、TALISの平均値とも顕著な違いがみられますが、それ以上にフィンランドの結果との差が大きいです。個別最適な学びや多様性への寛容が令和の日本型学校教育で唱えられている今日、この調査結果からも授業改善の方向性が示唆されているように思います。
 九つ目、フィンランドの高校は、学年も学級もなく、標準3年間の単位制高校となっています。ちょっと簡単にお話ししますけれども、進学系の高校も職業系の高校も、時間割は自分で作ります。何か大学のような感じでした。そして学級担任ではなく、学校に配置されているキャリアカウンセラーが、どんな科目を取ったら、君のやりたい進路に都合が良いのか、何を学ぶ必要があるのかというアドバイスをしてくれるということになります。
 最後、10個目です。昨年5月に、大学院修了まで残り1年となった教職課程の学生たちにインタビューしたときの写真です。フィンランドの教員養成学部の入試倍率は10倍を超えています。この学生たちは難関を突破して入学し、教職科目、それから教育実習等をクリアして、あと修士論文の提出を残すだけ、その修士論文を書くのに、まだ補充的な教育実習をやる学生もいます。フィンランドには教員採用試験はありませんが、修士論文が受理された修了証明書を携えて、公募の出ている学校へ採用選考の面接に行く、これが就活になります。ですから、修士論文の提出前に就職活動はできませんし、修了時期は、論文が書き上がった、認められた時期によりますので、修了時期は学生によりまちまちです。なので、教育学部の場合一斉の卒業式はありません。日本の学生たちは、この時期採用試験の対策に忙しいんだよって説明したら、彼女たちは、こう私に質問してきました。「大学での教職課程を履修するのに自治体ごとの教員採用試験合格しなければ採用されないということは、大学での学びが現場から信用されていないということでしょうか」と。なるほど、本来なくても良いシステムが日本人の仕事を忙しくしていることもあるのかもしれないなとも思いましたが、とにかく狭き門で、教育実習も附属学校にほぼ限定されていて、濃密な教育実習を経験します。教育実習まで行く学生で教員になるつもりがないという学生はいませんので、開放性がかなり拡大している日本の状況とは違うかなというふうに思います。
 ちなみに、フィンランドの大学には、学生の就職活動を直接サポートする事務部署はありません。就活は自分がやることと捉えられているからなんですね。どれだけ日本の教育は至れり尽くせりなのか、これは大学もそうですよね。そんなことをフィンランドと比べると痛感します。
 参考までに、最近のフィンランドの学習環境の典型事例を写真で御紹介します。どんどん新しくなり始めているんですけども、古い学校が改築したりコンセプトを変えるときには、大体こんな感じになってきます。フィンランドは、1950年代まではソ連の、子分のような感じの国で、非常に暗く堅い国だったんですけども、60年代以降に北欧諸国と共に福祉国家型を目指し、1980年代ぐらいから教育改革が始まり、そして90年代には、いろんな画一化をやめ、国家のコントロールをやめて地方分権になり、高度福祉国家型の教育政策の国になりました。2000年から始まったPISAで世界一位になったのは皆さんも記憶に新しいかと思うんですけれども、フィンランド人もびっくりしていました。この写真にあるような、こういう空間がだんだんフィンランドの主流になっているということです。
 ついでに、これが一般的な職員室の写真ですけれども、固定席はありません。先生たちはデイパックのような、ナップザックのようなものを持って教室と職員室を移動しています。職員室は、コーヒーを飲んで、皆さんと和気あいあいとコミュニケーションする場所、リラックスする場所という感じです。
 さて、以上、フィンランドの教育の特色を10項目に分けて話題を整理し、日本の教育の課題を挙げ、今後もっと日本の教育を優れたものに発展するためにどんなことを考えたら良いのかということの話題提供をしましたけれども、以下、日本の学校教育の課題を改めて整理したいと思うんですね。
 一つ目、何を学んだかという学習歴ではなく、偏差値ランキング等の学校歴を重視してしまう競争原理型の教育になっていると思うんです。これは刷新されなければならないでしょう。まだ東アジアはこういうことが過熱していますけれども、今EU圏の学校は、もう点数で合否を切るみたいなことはやらなくなっていますよね。先進国の日本は、こういうことも変わらなければならないなと思います。
 私が東京で小学校の教員をやっていた頃に、連日夜10時ぐらいに学習塾から帰る子供たちと会うということがありました。ちょっと異常だと思うんですよね。これこそ日本が幸福度世界一位にならない理由の一つだと思うんですけども、また、学習塾がない過疎地、長野県の自治体でも、こういう過疎地に教育委員会が民間と連携して学習塾を設けて、ここに子供を通わせようとするということが増えているんです。こういうのを見ると、なぜフィンランドのように、学校だけで完結することができないんだろうか、なぜ学校以外の学びが必要とされるんだろうかということを根源的に問わなきゃいけないかなと教育学者としては思うわけです。この構造的な問題は何から手をつけるべきか分かりませんが、学習指導要領の教科内容の見直しだとか、進学後の柔軟なコース変更だとか、北欧の教育が示唆することに目を向ける必要があるように思います。
 二つ目ですが、日本の教師の労働生産性が低いということを謙虚に受け止めて、これに着目すべきだと思います。勤務時間が短く、休みも多いフィンランドの教師たちのように高い労働生産性を発揮していくために、年齢や性別や立場を超え、上下関係を度外視して、職場の心理的安全性を高め、一人一人に裁量を与えていくことが必要なのかもしれません。
 三つ目、教科書解説型の一斉授業と、それに伴った標準テストによる評価、これを学年でそろえようとする横並びの教育が、まだ全国で幾つも行われていると思うんです。こういうことが教師たちの多忙感を強めているように思います。教師の個性的な実践を許容した上で、必要に応じて先生たちが協働的に取り組めるチームでありたいなと思います。
 四つ目ですが、過度な授業規律や管理教育は、子供の自律性、主体性をそぐことを再確認したいと思うんです。そして、一律に同じことを求める同調圧力というものが、ある意味、子供の主体性だとか自律性を育む教育にはマイナスになっていたかもしれない、そういうことを警戒できるプロの教師たち、先生たちであってほしいと思っています。
 五つ目ですが、100年間も学校教育目標が変わらないなどという不思議な慣習を見直し、伝統行事を守るという大義名分で未来を生きる子供の可能性の芽を摘まないように、学校の当たり前をダウトする職員室にすることを期待したいと思います。時間の関係で細かいことは挙げませんけれども、学校にはびこる、この伝統という言葉で前例踏襲が続いていくことにメスを入れたいです。先生たちが忙し過ぎてストップできない、立ち止まって考えられない、ゆとりを失っているということが最大の原因だとは思うんですが、ここを何とかしたいと思う一人です。
 六つ目ですが、子供たちに与える教育、安心なレールを敷く教育、失敗させない教育ということをやり続けてきたのではないだろうか。あまりにも丁寧なんですよね、日本の教育は、ヨーロッパからすると。ヨーロッパが雑だという意味じゃないんですが、もっと子供に主導権を与える、子供の選択というものをもっと広範に認めている、ここの違いが、この1年間ずっと感じてきたんですが、もしかしたら、この丁寧な教育が弊害にもなっているかもしれないというふうに思い、子供が自律的、探究的に学ぶ機会を奪わない、そういう試行錯誤ができる、挑戦できる、こういう教育観、学校観にシフトしていくべきなんだろうというふうに思います。ここまでフィンランドの教育現場を紹介しましたが、この写真は日本です。私がサポートしている日本の学校にも着実に変化が起きています。子供に学びの主導権を渡すこと、子供に選択を委ねること、子供に自分のペースで学んで良いことを時には保障することで、子供たちの学び方は見違えるように変わるのです。
 本報告では、国際比較から思う日本的学校教育の課題と、それについての解決策に言及しましたが、いずれも構造的な問題が絡み合っており、容易に実行できることではありません。しかし、フィンランドの学校教育を参観し続けてきて、日本のどの学校のどの先生でも、どの御家庭でも、今日からできることもあります。どんなに幼くても社会の一員という扱いを受ける子供、クリティカルシンキングを重視する学校の授業を通して、自分の考えを持てる人になるよう教育される子供、こんな子供に育てていこうとするということです。それから、「分かる人は?」ではなく、「あなたはどう思うの」と問う教師、それから、学習した結果を叱ることではなく、その努力を褒める教師になっていくこと、こういう先生に少しずつ変化していく。そして、子供に対して過度なストレスやプレッシャーを与えない学校生活、自然の中で体験すること、友達と遊ぶことが優先される学校生活を作り合っていくこと。私も、サポートしているたくさんの学校の先生方と、できることからトライしていこうと思います。
 以上で私の報告を終わりたいと思います。御清聴ありがとうございました。

【奈須主査】  ありがとうございました。お二人の御発表、今回の議題、特に論点整理3ページ目から4ページ目記載の論点について、重要な示唆をいただいたかと思います。
 それでは、木村先生、伏木先生の発表に関する御質問ございましたら、質疑応答の時間とさせていただきたいと思います。加えて、お二人の御発表を踏まえて、本日の論点についての御意見もいただければと存じます。御意見ございます方は、「手を挙げる」のボタンを押していただき、こちらから指名をいたしましたら、ミュートを解除いただいて、御発言をお願いします。また、御発言が終わりましたら、「手を下げる」のボタンを押して、挙手を取り下げていただきますようお願いします。会場から御参加の皆様は、直接手を挙げていただくか、あるいは名前札を立てていただくというやり方でも結構です。
 それでは、いかがでしょうか。それでは、まず戸ヶ﨑委員からお願いします。

【戸ヶ﨑委員】  まず木村先生の御発表についてです。義務教育についての歴史的な転換の中で、その意義と課題について整理されていて、大変勉強になりました。
 意見としては、ChatGPTや生成AIが今後普及していく中で、改めて学校での学びの重要性を考えてみると、個別学習の中で困難が生じることや、実現が難しいことについて、他者の意見に触れながら、自分の考えや価値観を相対化して捉え直したり、修正したりして成長していくということです。つまり、学校での人と人との触れ合いを通しながら、教育基本法の目的にも書かれている、「人格の完成」を実現していくことの必要性だと思いました。また、生成AIによって「もっともらしいもの」として提示される情報を鵜呑みにしているだけの教育ではなく、教科書という検定制度を通して、一定の「正確性」が保証された日本の教育内容を理解し身に付けることが、読解力や情報活用能力の育成からも意義を持っていることだと思います。
 また、御発表の中にあった16ページの記載の流れについては、振り返ってみると、文科省が2018年に「Society5.0に向けた大臣懇談会」の報告書としてまとめた中にある、「Society5.0に向けた学校ver3.0」の内容に大変近い印象を受けました。その資料の中でも、学校ver1.0は「勉強」の時代で、ver2.0は「学習」の時代、そして「学び」の時代である学校ver3.0では、教育プログラムは個別最適化した「学び」となります。公教育の重要な役割は、子供の学びの状況を観察して、個々人に応じた学びの実現を支援すること、次世代型学校を軸にして、大学、NPO、企業などが提供する様々なプログラムを選択して学ぶ、いわゆるユビキタス・ラーニングが実現されることと、教師の役割は、「個別最適化された学びのまとめ役」、ラーニング・オーガナイザーであることなどが記載されています。
 こうしたしっかりとした方向性が、実は5年前に日本では出されていましたが、これが現在実現されているのかというと、当然疑問符がつきます。何が学校ver3.0の実現の阻害要因となっているのかを改めて分析して、そこに応じた施策の手当てを考えていく必要があると思いました。
 次に、伏木先生の御発表については、フィンランドの教育についてということで、意見だけ申し上げます。最後の23ページにある、「日本の教育にも生かされるフィンランドの教育の要素」ということで、特に日本の幼児教育においても、ここに記されているようなことは、もう既に実現されているのではないかと思っています。したがって、日本においてフィンランドと同じような教育ができていないことが問題なのではなく、幼児教育等ではできていたことが、なぜ小学校に入る段階から、一斉授業や予定調和、正解主義の授業が増えてきてしまうのかのボトルネックの分析を今後していく必要があると思います。
 また、10ページの現象ベース学習、Phenomenon-based Learningと近い学びである、Project-Based Learningを本市においても積極的に導入しています。正解のない実生活・実社会のリアルな課題に子供が臨んでいく中で、教師が学びの伴走者としての役割を果たして、それを教科教育の場面でも拡張していこうと考えています。こうした「脱・正解主義」や「脱・教師主導」、また「脱・予定調和」の学びの実現に向けた方策についても、部会で今後議論を深めていく必要があると思いました。
 さらに、この資料の一番最後のほうで触れられた空間の重要性についても、ちょうど私も先月、2か国の学校を訪問させていただく機会がありましたが、空間というのは、すなわち学習の環境であって、空間によって促進される学びと、一方で阻害される学びもあると考えています。現在の日本の教室環境では前と後ろがあり、どうしても教壇に向かって一列に並んでいく形、すなわち一斉授業がデフォルトになっています。ちょうど今、考えてみると、日本の多くの学校の校舎は、本市もそうですが、築40年ぐらいを迎えていて、これから長寿命化改良と言われる、外見上は新築と大差なく、フルリニューアルが行われていくと思います。そういうタイミングであるからこそ、この個別最適な学びと協働的な学びを実現する上での「空間」の在り方、ハード面の観点も、今現在の日本の長所も含めながら、阻害要因についても議論する必要があると感じました。
 以上です。

【奈須主査】  ありがとうございました。それでは、続けて中川委員、柏木委員という順番でお願いします。中川先生、お願いします。

【中川委員】  放送大学の中川です。ありがとうございました。大変本当に示唆に富むお話をお二人からいただいたと思います。木村先生からは、学校教育の在り方、価値について、本当に再考する機会になりました。本ワーキングでこの後議論すべき、オンラインをどう取り入れるか、そこのところを考える、本当に良い機会をいただいたなと思います。
 伏木先生のほうは、もし時間があれば質問をさせていただき、答えていただきたいと思ったんですが、私もコロナ禍前に、ヴァンターやエスポー市の学校に毎年のように行っていまして、大変懐かしく思ったのと、それから今のフィンランドの様子を正にお話しいただいたこと、大変興味深く思いました。
 それで、エスポー市やヴァンター市に行ったときに、学校や先生と話したときに、とても私が驚いたのは、教員研修がほとんどないことなんですね。特に日本で当たり前のように行っている、授業を見合って、それを討議するようなことは、どこの学校でもそんなことしたことがないとおっしゃっていました。これは多分、伏木先生がお話しされた教員の自由裁量とか、あるいは勤務時間との絡みもあると思うんですが、この点について、いろいろとフィンランドで見られて、教員研修の日本の在り方どうすべきだとお考えなのかということが、是非時間があったらお聞きしたいなと思っています。
 以上です。ありがとうございました。

【奈須主査】  今の御質問、伏木先生、後でまとめて、木村先生にもまた御質問があると思うんですけど、少しまとめて最後に整理してお話しいただければと思います。

【伏木教授】  はい。

【奈須主査】  それでは、柏木委員、お願いします。

【柏木委員】  非常に貴重な御発表ありがとうございました。私のほうからは、それぞれの先生に質問をさせていただきたいと思います。
 まず、木村先生の社会を重視する視点というのは、非常に共感するところであります。その中で、義務教育の境界線の意味があると、ただ広げればいいのではないとおっしゃられたと思うんですけれども、それが夜間中学校の例から示唆する形で語られましたけれども、改めて境界線の意味というのを、直接的な言葉として、表現として教えていただければと思います。
 それから、履修主義、修得主義、年齢主義、課程主義ということについて教えていただいたんですけれども、先生御自身としては、今どこまで日本の状況がかつての課題に関して達成されていて、今後どんなふうになるべきだとお考えかというところをお聞かせ願えれば有り難いなと思っております。
 それから伏木先生に関しては、非常に重厚で面白い御発表、ありがとうございました。その中で、フィンランドの高校を例に挙げてくださったんですけれども、個別最適な学びの参考として、義務教育としてはどんなことが考えられるのか。先ほどの写真では、オンラインとかを使っていなかったような感じに見受けられたんですけれども、端末とかオンラインはどんな感じで使われているのかとか、あと、すいません、先生に関してですけれども、先生が職員室ではリラックスしてというのであれば、一体どこで教材を作ったり授業作りをしたりなされているのかということをお伺いしたいと思います。
 以上になります。

【奈須主査】  ありがとうございました。今の御質問も後でと思います。この後、鍵本委員、それから今村委員の順でお願いいたします。まず鍵本委員、お願いします。

【鍵本委員】  失礼いたします。お二人の先生方、本当にありがとうございました。お時間の関係もあるので、特に私からは伏木先生の御発表について、少し感想と、それからお伺いしたいことを申し上げたいと思います。
 御発表を聞きまして、我が国の子供たちの現状と見比べてみながら、今後改善を進めていかなくてはいけないということで一番感じましたことは、やはり子供たちに自分で決めさせる、子供たち自身に判断させる場面というのを学校教育の中でもっと増やして、自分の考えを持って行動できる子供たちにしていかなきゃならないなということを強く感じたところであります。
 我が国の子供たちが、他国との比較調査がよく公表されますけども、自分の将来や目標に対する質問で、他国よりも低い数値が出ておりますことは、学校において、御指摘もありましたけれども、教師の指導や指示を受け身的な姿勢で聞いて、それに従って行動している場面が非常に多いこととやはり大きく関係しているなということを御発表からも強く感じたところであります。
 学習指導要領に書かれております主体的・対話的で深い学びの視点で授業改善は学校現場で進みつつありますし、本県においても変わってきているところではありますけども、現場の先生方の声はやっぱり、もっと子供たちに委ねて考えさせていきたいけども、教えるべき内容が多くてなかなか追いついていかないという声が多いのが実態であります。
 我が国においても教育内容の重点化は図られていかなければいけないというふうに思っておりますけども、フィンランドにおきまして、フィンランドの先生方は、学習指導要領の内容と日々の授業との関係をどういうふうに捉えて、今日も幾らかお話ございましたけども、どんな形で授業を進めておられるのか、お時間があればもう少し教えていただければなというふうに思っています。
 また、まとめの中で、「あなたはどう思うのと問う教師」という言葉が最後のあたりに出てまいりましたけども、これは非常に大事な言葉だと私は、常々思っておりまして、子供たちに判断を委ねる場面では、授業だけでなくて、生徒指導でありますとか、学校行事における指導など、学校教育全般でこういった考え方や教師の姿勢が増えていかなければいけないというふうに感じておりまして、これが我が国で今、不登校が増えておる状況にもつながっているんじゃないかなというふうに強く考えておるところでございます。重要な御指摘であったと思いました。フィンランドにおきましては、例えばこの不登校という状況がやはり見られている部分があるのかどうかということも教えていただければ有り難いと思っております。
 私からは以上でございます。

【奈須主査】  ありがとうございました。続けて、今村委員、水谷委員、堀田委員の順番にお願いします。まず、今村委員からお願いします。

【今村委員】  大変面白いと言いますか、学びになるお話をしていただきましてありがとうございました。お二人にいっぱい、あと3時間ぐらいお話をお聞きしたいところなので、ちょっとこの時間が惜しいんですけれども、木村先生にお聞きしたいです。すごく今、私たちがこの議論の上でもやもやしているところを、歴史をひもときながらお話しいただいたと私は感じています。
 というのは、私自身は、本当にここまで不登校の子供が増えてしまっているという現状を捉えたときに、表現された言い方で言いますと、公教育の境界線というところをどう緩めるのかというところを考えざるを得ない、教育機会確保法のように、理念法だけではなくて、もう制度として緩めていかざるを得ないんじゃないかということに、大変心を痛めつつも、現状、支援の現場とか、緩めた先、実際運用されている現状のフリースクールとか家庭学習とか、いろんな実践の現場に、これを教育って呼んでいいんだったっけということにすごく悩むという現場もあると。同時に、生涯学習を正にフィンランド同様、日本でも臨教審で生涯学習でいこうって話になったんだから、生涯学習を前提とした社会にしたときに、別に18歳までに仕上げなくてもいいんだけど、でもやっぱり学年相応の学びというところを私たちは前提にした社会に現状はなっていて、そこに標準があるからやっぱり合わせに行かなきゃいけないだけで、その子が30歳になっても40歳になってもゆっくり修得していくなら、それを支えるべきなんじゃないかというのは分かりつつも、現状のシステムの中では本当に、学校なんか行かなくたっていいよというのをどこまで認めるのか、そして多様な学びと言われているものを質の観点で見たときに、それをどういうふうにありとしていけばいいのかというところに、大変毎日心を痛めてというか、悩んでいる。
 そこで、お話しになった、正に共同体として私たちがこの社会を作っていく上で、公教育の義務教育、義務教育の根底にあるものは、個の要求に応えるだけではなくて、社会を生きて支える力の養成をしていくのも義務教育の役割なんだというところが、正にこのフリースクール、フリースクールが悪いんじゃないんですけれども、国家教育権みたいなもの、学習権のほうだけによって、国家としてどういう子供を育てていくのかという議論をどこまで緩めるのかというところが、すごく重要な投げかけだと思うんです。ただ現状、もう緩めるしかないと、ここのところにもう少し踏み込んだ御提案といいますか、現状を見たときにどうすべきだと思うかというところをもう少し語っていただきたいなというのがお願いです。
 ありがとうございます。

【奈須主査】  ありがとうございます。それでは、水谷委員、お願いします。

【水谷委員】  本日はどうもありがとうございました。もっといっぱい聞きたいですが、残り時間が無いので、一つお願いします。
 自分は、直接の学校経営から離れて、今年度はいろいろな学校を回らせていただいていて、必ず中学校へ行くと入試があるから端末なんてということを言われて、いや、そうじゃないんですけどという話をしています。本当に根深いなということを思っています。
 それは置いておいて、先ほどフィンランドでいろいろやられている中でも、インクルーシブ教育が難しい状況だというお話があって、ちょっと驚いたのですが、事前にこの資料を読ませていただいて、もしも日本でこのぐらい、環境が障害を作り出すということを踏まえて対応したら、もっと変わるのではないかと、学校でのストレスが減って、随分支援する子供たちが減るのではないかと思ったのですが、いや、インクルーシブ難しいのですと言われて、それはどうしてなのかということをすごく疑問に思いました。その辺りを少し教えていただけると助かります。お願いします。
 以上です。

【奈須主査】  ありがとうございます。それでは、堀田委員、お願いします。

【堀田委員】  大変根本的なところからお話しいただきまして、お二人には感謝申し上げます。
 日本の私たち、今日は義務教育のワーキングですけども、どうしても全ての子に等しく機会を与えるという話が、全ての子に同じことをさせるみたいに、どこかで変換されてしまっているようなところもありますし、私も教師でしたけども、教師から見れば、やっぱり授業時間と授業で教えなきゃいけない教育の量、この2つでかなり圧迫されている現実があるかなと思います。これはカリキュラムオーバーロードでもあると同時に、やっぱり裁量が、あまり任されてないという現実があるのかなと思います。
 私が今言おうとしていることは、今村委員の発言とほぼ同じなんですけど、特別な支援が必要な児童生徒、ギフテッドの子とか、あるいは不登校の児童生徒とか外国人児童生徒とか、いろんな子供たちが増えてきている現実の中で、現場現場で判断しなきゃいけないことがたくさん出てきている、そういう時代に、伏木先生のおっしゃった信頼、トラストを私たちがどのぐらい持てるのかというようなこと。
 一方で、現場に裁量を増やせば増やすほど、木村先生のおっしゃった境界線はだんだん太くグレーになっていく、そこをどこまで許容するのかという、これは制度の問題だと思うんですけど、端末がやって来て、ICTで結構できることがあると私は確信していますけど、そしてそれは学校に毎日来ているお子さんであっても、当然十分にその恩恵を享受すべきだと思いますけど、今のところ先生が教えることがベストだみたいな、子供たちが端末を使って学び取るみたいなことは時間がかかってしようがないみたいに思われてしまっている現実、そのような状況の中で、お二人は、裁量権を委ね、境界線を少しあやふやにするということについて、教育学者としてどういうふうに思っていらっしゃるかということを伺いたいというのが私の質問でございます。
 以上です。

【奈須主査】  ありがとうございました。それでは、小柳委員、お願いします。

【小柳委員】  お二人の先生方、本当に貴重な御報告ありがとうございました。
 終始私の頭の中をよぎったのは、ウェルビーイングという言葉でした。これまでの長い歴史の中で生まれた学校方式ということについて、それが今も続いている状況もありますけれども、今の教育制度の中で教員も、学習指導要領の内容であったり、いろいろな教科書の内容に基づいて、本当に苦労しながら子供に接したり、指導したりしておりますが、その状況の中で現実問題として、今の教育制度の仕組みに対してノーを出している子供の数、不登校の数がどんどん増えてきています。
 そうした中で、教員も子供たちも頑張っているのに、拒否している子供、それから保護者も子供と一緒に悩んでいる方、すごくたくさんいらっしゃいますし、苦しんでいる状況の中で、例えばフィンランドのような教育が理想ではあるんですけれども、お話を伺いながら、これは学校教育だけではなくて、社会の仕組み全体を変えていかないと、なかなか実現が難しいのではないかなとも思いました。
 そこで一つ質問ですけれども、フィンランドの教育について、学校教育の役割、家庭教育の役割、保護者の方の立場、立ち位置というのはどういった状況かというのがもし分かれば、お教えいただきたいと思います。ありがとうございました。

【奈須主査】  ありがとうございました。御質問、御意見はここまででよろしいでしょうか。それでは、お二人にお答えしていただこうと思います。少し今日、時間延長させていただこうと思います。随分御質問も多岐にわたるので、御了承いただければと思います。
 それでは、まず木村先生からお願いいたします。

【木村教授】  御質問ありがとうございました。
 いろいろ出ましたけれど、一つには、先ほどちょっと問題にしました修得主義と履修主義という問題をどういうふうに考えるのか。もう一つは、結局学校の境界線をどう考えるか、あるいはそれを緩めるとするならばそのことをどう考えるのか。大きく分けるとこの2点かなと受け止めました。そういう観点から、特に後者についてはこれが答えだという答えにはならないと思いますけれども、お応えさせていただくというふうにしたいと思います。
 1点目ですけれども、やや論争的に示しました修得主義と履修主義という問題ですけれども、先ほどもちょっとお話しいたしましたように、現実把握の概念が作られるときには、現実の問題解決のためにカテゴリーが準備されそれを用いて整理が行われる、という文脈をもつと考えられます。そう見たときに、1960年代の中頃、私の先ほどのグラフで言うならば、上級学校への進学要求が高まり入試競争が生み出され教育の世界が選別の論理で席巻された時期、その根幹に存在した相対評価の論理を批判の俎上にあげるために、こうしたカテゴリーが準備されました。
 そのとき問題にされたコンテクストというのは、日本の学校システムが、基本的には履修主義という形になっている現実があるということです。その現実に対して、現象的な問題、例えば入試競争の影響で落ちこぼれがおきるという時、入試が悪いとか、偏差値が悪いとか、という話になるんですけれども、そうした状況を生み出す根底には履修原理の問題があるとして提起されたのが修得主義というカテゴリーだったわけです。そのことを押さえなければ、幾ら小手先の話をしても議論は深まらないというところから出されたカテゴリーであるということだと私は少なくとも理解しています。
 もし修得主義と履修主義という概念を折衷してこれからやっていくんだというふうな言い方になるとするならば、それは原理的に問題にされた状況が変わったからそうなるという判断に立つのか、それとも、そんなことは別にこだわらなくともいいのだというふうな判断になるのか。そこはやっぱりちゃんと押さえて、カテゴリーで現状を分析し、そのカテゴリーを使って新しい履修システムを考える、というふうなロジックにしていただかないと議論が進められないのではないかと思いました。
 それで、じゃあ私はどう考えているのかというふうな御質問だったと思いますけれども、その修得主義という原理での履修原理が実現したかというと今だ実現されていないと考えます。この問題にどのように向かうのかが依然課題で、折衷することで対応するということでは、日本の学校の第2層のなかで構築された履修主義による履修原理が大きな影響力を発揮することになると思います。そうした学校の構造も踏まえて、あえて学校が果たすべき公正な対応ということから修得主義が提起した歴史的な意味を捉える必要があると考えます。
 今村委員が言われたことに対しては以上のようにお応えしたいと思います。してほしいという要望ともちょっと重ねながら、お応えしているということになります。
 もう一つの方は、公教育の境界線をどのように維持しながら、柔軟に対応するかという問題で大変難しいものです。公教育の制度の境界線は、生活を背負って学校に来る子供に対応せざるをえないので、その境界線を広げて対応することになるのが常です。制度の境界線と実際の教育実践の境界線の間で大切な教育の実践がなされている。だから実践の境界線の幅を見据える必要があるわけです。しかし、境界線を広げれば問題が解決するかというとそれは簡単ではありません。報告でも示しましたが、教育をより良くしようとすると、個別の善意であっても公教育のシステム全体ということでは逆に矛盾を広げることにもなります。例えば、学校が定着する1930年代に生活綴方という日本の教育実践を代表する一つでもある教育実践が展開することになりました。そこではに寄り添って、学校での生活を保障しようとして子供の生活にまでおりてそこでの課題の解決に取り組んでいくのですが、そのなかで教師は疲弊してしまって結果として教師を続けられなくなった事例もみられるようになります。公教育の実践の幅を無限定に拡大すると難しくなることの例です。
 そのような意味でも、子供の生活を踏まえた教育の実践を公教育として保障するためには、そこでの境界線を支える意味を押さえることが重要と思われますが、そこでは、どの様な力を保障するかというレベルだけでなく、学校論的なレベルとして子供たちに学校という場の提供すること自体の意味を深めていくことが大切と思います。学校という場は確かに権力関係に子供を取り組むという側面がありますが、その境界を無原則に緩めてしまうと報告でも触れましたように教育格差を助長し、一部の階層の学校離れを大きくしていくことが予想されます。義務教育段階では学校になじめない子には柔軟な対応をとることは欠かせませんが、同時に学校を息苦しくしている、制度が子供の生活から乖離している問題の原因を考えながら、その場をより良く作り直しみんなが集える場として維持していくという観点は重要と考えます。

【奈須主査】  ありがとうございました。伏木先生、お願いします。

【伏木教授】  御質問ありがとうございました。時間も超過していますので、木村先生と重ならないところで、先生方からいただいた質問、ちょっとまとめて話をしてみたいと思います。抜けがあるかもしれませんが、また必要があれば御指摘ください。
 まずフィンランドの教師の教材研究という観点からお答えします。先生たちはいつ教材研究しているのかということですが、部活指導とかはありませんので、低学年の子だったら1時台に帰り始め、2時にはもういません。低学年の先生たちは、そこから1時間、1時間半と教材研究を毎日学校でやります。高学年の子供たちでも3時以降はいませんので、そこで先生たちは4時ぐらいまで教材研究をします。これは日常のルーチンワークになっているかと思います。多くの学校で校務分掌というのがありません。なくてもやっていけるんだというのは私も驚きだったのですが、分掌があるから仕事を増やしているんだなという感じもしました。けれども、それだけでは終わらないそうで、先生方は御自宅に戻られて教材研究をやっているそうです。
 また、私がコミュケーションした先生たちは基礎学校(小中学校)の先生たちだけですので、高校の先生の話はちょっと今日はできませんが、基礎学校の先生一般の話を続けてしたいと思います。
 それから、先生たちには個人の裁量が認められているので、自分なりにカリキュラムマネジメントをします。例えば今日例に挙げたPhenomenon-based Learning、日本で言うところの総合的な学習の時間、それから同時にプログラミング教育も、学習指導要領では必修になっているんですね。でも日本と違って、これは時数配分が無いんです。無いから、先生たちは、国語と社会と音楽と…など交ぜてそれをやるということです。大体1週間丸ごとぐらいの時間数を目安にしてますから、30時間前後ぐらいの時間をかけて年間に実践しています。でも私がお付き合いしている先生は30時間どころじゃなくて、恐ろしくたくさんやっています。
 とにかくフィンランドの先生たちは、学習指導要領がほぼ完璧に頭に入っています。検定教科書はもちろんないので、教科書をなぞって授業をやっていくという人は見たことがありません。教科書は教室に置いてあるものを使い、子供がもらっている教科書に準拠したサブノートみたいなのがあるんですけど、それを使いながら日常、教科の授業をやっています。その中で先生たちの仕事は、日本で言えば単元というほどのスパンで、この単元で何を子供たちに理解させたいのか、身に付けさせたいのかみたいなことを徹底的に教材研究をしています。学習指導要領のようなものを頼りにしますが、国が出しているのは、日本からすると数十分の一の厚みです。そこから、地方分権なので、自治体ごとに裁量が与えられています。
 この自治体というのは日本とは違って、学校設置者イコール人事権があるんです。これは全国で共通しています。日本は人事を管轄する都道府県と設置者である市町村が分かれていますけど、フィンランドはこれが一致していて、この設置義務者、採用権者である自治体が、国の学習指導要領に合わせて、もうちょっと細かな学習指導要領を作っているんです。先生たちは、もちろん国の学習指導要領は読んでいるけども、地方ごとの学習指導要領を完璧に理解しているということです。それに合わせて、こういう内容だし、今ちょっと雪が降ってきたから、こういうテーマでやろうかなとか、オリンピックが今度あるから、オリンピックというテーマでやろうかなとか、そういうふうにそれぞれ構想して、どの教科の内容が指導している学年の子供たちと探究できるかということを常に考えながらやっているということです。これを同僚の先生たちと、カフェタイムとか、授業中だって張りついているわけじゃないので、はい、これをやりましょうねと言ったら、子供がそれぞれ個別にやっている時間があって、そういう時に隣の先生と何かいろいろ相談することもあるので、日常、協働しているんです。
 先生たち同士が上下関係を嫌ってみんなファーストネームで呼び合い、自分のアイデアを同僚と高め合うというようなことが大事だとおっしゃっています。正に信頼ですね。学校現場の中で信頼ということが先生たちのモチベーションを高めていると、そんな感じです。
 それから、コロナの前も、フィンランドの大半は過疎地、超僻地なので、3割ぐらいの事業所がオンラインを導入していたのです。家から職場が遠過ぎる場合があったのでやむなくです。通常フィンランドでは通勤移動時間に1時間以上かかるなんていうのは駄目だと考えられているので、東京の人はもっと大変だと思いますけど、なので、そういう遠くの人はオンラインで仕事ができるようにという配慮がどの業界でも昔からあったんです。そこにコロナが入ってきて、そういうことにあんまり関係ない業種もこぞってやるようになり、大学の事務スタッフなんかは、もうほとんど私が行っていたときもオンラインでしたけども、そんな感じになっているのです。ICTの質問も出たましたが、教員たちが日常的に使っているので、それから親も使うようになってきたので、日本の状況よりもかなりDXは進んでいて、ペーパーレスなので、学級通信を紙で持ち帰るということは絶対ありません。みんなIDパスワードで、親が学校のホームページにリンクしたサイトに行き、Vilmaシステムというのを使っていて、これが親と先生との連絡帳ツールになっています。なので、学校を休むとか、先生からは「急に明日の時間割を変えるのでこうしてね」とかというのも、全部Vilmaシステムで親と学校が連絡できるようになっているので、電話をかけるということはまずないです。電話は相手の時間を束縛するので、そういうことはお互いにとってやめましょうという感じです。
 それから、保護者と教員の関係の質問も出ましたが、教員が自分のお子さんのために学校を休むとか、それから有給休暇を取ってパートナーと1週間休んじゃうとか、あるんです。ちょっと日本の先生には理解できないと思いますけど、親はこういうことに対して、先生も市民だという、そういうことを認めるんです。だからストライキもやるんです、教員が。私が行っていた時も、看護師も教員もストライキをやっていました。しようがないよねって、みんな認めます。保護者も、やっぱり最近モンスターペアレンツみたいな呼び方もあるそうですけど、関係が難しくはなってきたとおっしゃっていますが、特にオンラインになってから、直接顔を合わさないでいろいろ苦情が来ることがあって嫌だわと言っていました。保護者が先生をリスペクトしているというところは、昔の良き時代の日本みたいな感じです。
 それから、子どもの権利条約が、全く理解のされ方が違うなというふうに、痛切に感じました。私たち日本では、1994年に子どもの権利条約が批准されても、まだこのレベルかと思うぐらい理念が現場に浸透していません。きちんと国際的に批准したものに関して、子供に近い教育現場がどれだけそこに近づいているのか、また、親も含めて問い直す必要がありそうです。
 先日、私のゼミにこども家庭庁の専門官が来てくださって一緒に議論したのですが、アンケート調査データを見ても、一般的な子どもの権利条約の理解が教育現場でもまだ浸透できていないということが言えます。他国の、ヨーロッパ系の民主主義や人権を重んじる人々は、親子であっても子供の権利を尊重する、そこの考え方は日本では理解しにくい理由の一つかなと、個人的には思っています。
 それから、私も学校の教員時代にやっていましたけど、理想の子供像、こういう子供を育てたい、こういう子であってほしい、ここに向けて教職員または保護者は一生懸命にその子と理想を比べて、ないものを入れていくんですね、影響を与えていくんです。注入していくんです。でもこれって、その子供にとってどうなのかと問い直す必要もあると思うのです。子供の自己肯定感を下げていないかとか。だから同じ状況を見ても、日本の先生だったらここ叱っているだろうなとか、注意しているだろうなという場面で、フィンランドの先生の多くが褒めています。この違いは、子どもの権利条約を理解する水準で議論しないと理解が難しいんじゃないかなと思っています。
 それから、人に迷惑をかけないというのが、私も子供の頃から大人に教わったと思うんですけど、フィンランドでは、北欧では、そうじゃないんですよ。他人の力をどう借りるかということを学ぶんです。一方、日本ではこの人に迷惑かけるとか、忙しいのに私が助けを求めたら何か迷惑をかけそうだと、日本の若い先生たちはベテランの教員の忙しさを見て、声かけられないと言うのです。でもフィンランドはそうじゃなくて、私には能力の限界があって、できないこともある、分からないこともある、だから得意そうなあの子にこれを聞く、よく分かっているこの人に助けてもらうということを考えるのが自立と考えているんです。その辺、ちょっとこれは文化的な問題もあるとは思いますが,これを理解していくには、教育現場だけを見ていてもちょっと分かりにくいかなというふうに思いました。
 それから、研修の質問が出ていました。日本とフィンランドの研修の在り方が違うのですが、法律でフィンランドの先生は昔から年間3日、丸ごと3日は研修しなきゃいけないルールになっています。その研修は、以前は個人が自分の学びたい研修を選んで行ってました。財政的に豊かな時代は、丸ごと自治体がお金を出して、無料で研修に行けましたが,不在となる教員の空いた枠を代行する学校のパートタイマーの補強も自治体予算でまかなったのです。でも、だんだんフィンランドもお金がなくなってきていて、年間3日分の研修のやり方が変わってきました。例えば、この数年はICTが大人気です。ICT活用に関する研修を先生たちが一緒に研修するようになりました。以前は個人で研修を受けていたんです。日本だと10年目の人を集めて悉皆研修やりますけど、フィンランドでは経験年数で悉皆研修を課すことはないです。
 人はそれぞれ違うというのは子供も教師も同じなので、教師が基本的に希望して研修をやるんですが、だからばらばらだったわけですが、最近ちょっと変化してきているのは、統廃合が増えてきて、学校ごとの教員数が増えたり、考え方の違う教員が交ざり始めてきたことで、校長の中には、多様なメンバーを集めて一緒に研修をやりましょうと提案するという動きが少しずつ出てきました。特にヘルシンキ辺りは統廃合が急速に進んでいます。過疎地での統廃合なら分かるけど、そういう都市部で統廃合が進んでいて、マンモスになっちゃっているんです。お分かりだと思いますけど、学校って大きくなると、教職員の意思統一が難しくなり,親睦の機会が激減しますよね。だから、みんなで一緒に研修しようという感じで研修日を合わせるんです。夏休みの最後の日とか、年間の最初の日に1日合わせちゃえば、これでもう2日、みんながやったことになるとか、そんな感じの研修が増えてきました。
 しかしながら、日本の先生たちが日常的にやっている授業研究、これをみんなで見合うというようなことは、ヨーロッパではほとんど見かけない。でも、日本のレッスンスタディーが有名になって、そういう研修もいいよね、真似してやってみようねというのが少しずつ増えてきていると思います。ですが、北欧でもお互いの授業を見合うという研修会はめったにないし,私も目にしたこともありません。けれども授業そのものの時間帯で、近隣のクラスの先生はお互い常時見ることができるのです。ずっと黒板の前に立ってしゃべっている人じゃないので可能なのです。その辺が日本とは違います。
 まず学習指導案というのを書かないですから、フィンランドなど北欧の人からすると,最初の5分でこういうことをやって、子供たちはこう発言するだろう、それに対して教師はこう対応するみたいな日本独特の指導マニュアルを考えようともしていない。子供全員の発言を予想するのは無理だし、子供みんな違うんだし、書くとすれば、教室に居る20人全員分を書かなきゃいけないということになるため,学習指導案は書かないのです。そういう学校文化の違いが授業研究、研修の在り方の違いに出ているかなと。
 更に研修について補足します。私も参加しましたが、1月の終わりに毎年、Educa(エデュカ)という一大イベントがありまして、ヘルシンキで大体やるのですが、教育産業がみんな出展する幕張メッセみたいな感じです。最新の教え方、学び方、それから教育学者や、大学生や大学院生などがコラボしたミーティングや議論がスケジューリングされます。こういうテーマでみんなで話し合おうとか、そういう教育イベントが2日ないし2日半にわたって大きな会場で繰り広げられて、ここに1日参加することによって、1日分の研修をクリアしたとカウントをする先生も増えてきて、このエデュカのイベントが毎年充実しています。ちょうどアメリカの学会のエキシビションみたいな、そんな感じの雰囲気なんですけども、それが研修としても認められます。
 その他にも,オンラインでユーチューブなどいろんなところで先生方は日常的に情報をキャッチしています。
 十分に答えられていなかったかもしれませんが、申し訳ありません。このくらいでよろしいでしょうか。

【奈須主査】  伏木先生、ありがとうございました。もう時間ですので、ここまでとしたいと思います。時間の都合で御発言いただけなかった委員いらっしゃると思いますので、事務局宛てにメールをいただければ、議事録に掲載したいと思います。
 それでは、今日はここまでにして、最後に、次回以降の予定について事務局からお願いします。

【前田教育制度改革室長】  先生方、ありがとうございました。次回の本ワーキンググループの日程につきましては、また追って御連絡させていただきます。
 以上でございます。

【奈須主査】  それでは、本日予定した議事は全て終了しました。これで閉会します。ありがとうございました。
 
―― 了 ――

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