中学校部会におけるこれまでの主な意見(整理中・未定稿)

1.「社会に開かれた教育課程」の実現と総則を軸とした教育課程の総体的構造の可視化

○ 工業社会の時代には、正解を大量に蓄積して、それを定型的に実施できるということが要求されていた。一人一人の子供が自分で考えて、自分で判断して、協働的にそこに価値を生み出していくような学力論や知識像というのはむしろ都合が悪かったのではないか。だから、これまで特に中学校はそれをある種子供の本性に合わない形で抑え込んで、知識を注入する。知識を注入されると子供は余りおもしろくないので落ち着かない、たから部活動で居場所を作って、それで生徒指導を円滑に進めて秩序を維持するという構造になっていたのではないか。ところが、社会像、人材像が変わってきたことで、自分で考えるとか判断するとか、協働的に価値を生み出すとかいうことが学力の中心になってきて、それは子供の本来の学びや知識の在り方と同方向を向いているので、そのことに今気付いて、その方向で修正していくと、全体が好循環に向かっていくのではないか。つまり、一つ一つを抑えていくのではなくて、何らかの好循環を生み出すようなシステムとかサイクルを考えていくということを教育課程行政の中で考える必要があるのではないか。

○ 社会は人口オーナス期という経済に入っていて、多様性の中で、他者とどれだけ違う発想ができるかというところで一人一人が価値を出していく時代になっている。一方で、授業は完全に人口ボーナス期、いわゆる同質性の中で時間を掛けてやっていくというような考え方、いわば「静かによく話を聞く」という授業が展開されている。その発想を根本的に切り替え、新しい付加価値型の考え方をしていくことが必要だと思っている。

2.学校教育の改善・充実の好循環を生み出す「カリキュラム・マネジメント」の実現

○ 学校はそれぞれ地域の特性や子供の実態は異なるわけで、そういったものを踏まえてしっかり目標を立てて、授業作りの基本方針を学校としてきちんと決めていくことが重要である。そのためには教師が授業を作っていくための研修が求められる。では、研修や教材研究の時間をどう生み出すかというと、そのために学校の組織をどう整え、学校外の人材をどう活用するか。全てトータルに考えるのがカリキュラム・マネジメントという考え方だと思う。資料1の1.の五つの○は、それぞれ個別にあるのではなくて、それぞれ常に関係し合っている。これらを相互に関係付けながら効果のある学校作りにしていくことが、授業改善に向けての共通理解を図り、かつ研修や教材研究の時間を確保でき、教師の力量を高めていくということにつながるのだと思う。

○ 校長がカリキュラム・マネジメントをどれだけ理解して、リーダーシップをとれるかが重要。教科担任制の中学校において、校長がしっかりと教科を越えた視点を持ってカリキュラムをマネジメントすることで、教員それぞれにも教科横断の意識をしっかりと持っていただく必要がある。校長のリーダーシップ、そして、各教員の理解という部分をキーワードに据えていただきたいと思っている。

6.何が身に付いたか(学習評価の充実)

○ 大学入試でもやはり同じ問題がある。高校のときに例えば探究的な学習をしたとか、そういうことを大学入試でどう反映できるのか。高校が出してくる調査書や推薦書はダイレクトに入試で客観的資料としては使えない。では、そういう力をどう評価するかというときに、例えばそういう探究の学習を通じて得た力というのはあるわけで、問題を探究して発表するとか、プレゼンテーション力とか、あるいは討論力。そういうのを全員について測定することは難しい。しかし、そういうことを一生懸命やってきて、そういう力が付いているということであれば、どこか客観的に評価してくれる機関があって、例えば、専門のそういう力を見る人がいて、プレゼンテーション検定2級とか1級とか、客観的な機関があれば、それはそこで評価してもらったのを自分で資料として付けて評価してもらう。探究的な学習で得た力というのは決して無駄にならない。そういう学生はペーパーテストの学力も付いているかもしれないが、付けた力そのものも何らかの形で客観性を持って評価できるというシステムがどこかにあって、そして生かされるということがあってよい。それは高校入試でも同様で、そういうことを一生懸命、小学校、中学校を通じてやってきたのだというのであれば、そういうことをパフォーマンスで示したり、それをどこかで評価してくれるシステムがあれば、そういう生徒も報われるのではないか。

○ 高校入試も大事だが、探究的な授業をやる限りは、中間・期末テストでその成果を計ってあげないといけない。そういう問題を作ることによって、先生方はまた授業でどういうような学びを展開していくのかということを意識することになる。

○ 中学校の特に社会科や理科は、レポートがほとんどないように思う。もしそういうものを入れていった場合に、また学校の先生が多忙になるということも考えないといけないが、少なくともそういう評価システムを中学校の中にも入れていかないといけない。

7.個々の子供の発達をどのように支援するか

(キャリア教育)
○ ワークライフバランスについては、中学校の段階で時間を割いてこれについての知識を持つことができたらと思う。女性のキャリアということについては、教育は随分影響力があるかと思う。社会にはどういう仕事をしている人がいて、その人に憧れるかどうかというのが特に女子にとっては大きな影響を与えると思う。キャリアの目標、憧れというようなものこそが学ぶというものの一番の原動力になるのではないかという意味で、どれだけ様々な職業があって、グローバルに活躍している女性もいてというような幅広い情報を、中学生ぐらいの時期に知っていただくということが重要かと思う。

○ 労働法の知識をこれほど持たないまま大人になってしまう国というのも珍しいのではないかという問題意識をもっている。三六協定という言葉を知らないまま、社会人10年目ぐらいになっている人がたくさんいる。自覚がないまま働いて、ブラック企業に自ら入っていってしまう。それは、教育の中で労働法をはじめとする労働者の権利を観点として教えてこなかったことの帰結ではないか。また一方で、自分がお金をもらうということは、どういう価値を出していかなければいけない社会なのかというようなことについても、早い段階から現実に合わせて見ていくというようなことが必要ではないかと思っている。特に今の世代は、自分の両親のスタイルが、自分が社会に出たときのスタイルに全く参考にならないような世代なので、これから社会がどう変化しているのかというようなことをしっかりと教育の中で扱っていく必要があるのではないか。

○ ワークライフバランスや道徳、英語については、共通しているのは、子供たちが関心があるテーマであると、けっこうできるということ。「言いたいことがあれば言う」ということで、海外ではCLILと言って、コンテントとランゲージを統合するというアプローチ。つまり、中身についてよく知っていて、それをうまく表現するということがベースの語学力以上に実践できるということで、そういう方向に向かっていくことができるかどうかということだと思う。この考えに対しては、中身が難しいのに、基礎がないのにできないのではないかという認識があって、これまで実践されてこなかったのだと思うが、考えを変える必要がある。道徳においては、基本的な道徳律や考え方が身に付いていないのに、高度に倫理的な問題に立ち向かえないではないかというが、むしろ高度に倫理的なジレンマが多く生じているような難しい問題に立ち向かった方がいい時もあるということ。答えのない問題だけれど、それ自体は結構知っている、関心を持っている、自分に引き受けられるという文脈さえあれば、実は結構できるのではないか。その方が子供は道徳の学びがいがあるし、考えがいがあるし、自分というものが見えてくるし、それによってこんなに考えられた自分を好きになったりする、あるいは仲間をもっと認められるようになるとかということがあるのではないか。これまでは、基礎的な知識をとにかく詰め込んで、その先で何か現実世界に応用しようという考えがあったと思う。例えば職場体験でも、職場体験に行く前によくマナーの訓練をやる中学がある。マナーの訓練をいくらパターンプラクティスでやっても、現実に行ったときには、それはむしろ使えないことがあって、逆に使う文脈の中で考えた方が本当は習熟しやすいのではないか。現実的な問題にもっと早くぶつけたり、子供のできることや関心事をむしろ中心にするのが効果的だと思う。突き詰めると最後は学習理論の話になり、要するに、基礎がないのに応用はできないというふうにずっと考えてきたのに対し、そうではないと理解してもらうことであると思う。一方で、基礎がなくても応用ができるという話が行き過ぎると、かつてのように、自立解決ということで、とにかくやってみなさいということになって、それは良くない。何がどういう意味で基礎になるのかということを問うたり、基礎の部分と、応用の部分をどうやってハイブリッドするかということを考えていかなければならないのだと思う。

○ 学びに向かう力・人間性について、実はもう既に、このような力を付けつつある子供たちの事例が幾つかの学校ではあり、そういったものをいかに吸い上げてくるかということではないか。そういう中から共通に必要な手立てのようなものを整理していく必要があるように思う。例えば、総合的な学習の時間の充実によって、単なる職場体験にとどまらず、地域貢献的な取組をしている事例など、社会とどう関わっていくか、あるいは自尊感情を高めていく事例がたくさんある。また、教科に関しても、教科の内容と社会や将来との諸課題との関連において、今学んでいることがどういう意味や価値があるのかと考えさせることは、むしろ小学生以上に中学生の方が有効だと思うし、実際にそういったことを考えさせている事例もある。

(生徒指導)
○ 生徒指導と学習指導の関係についても、本来は学習指導で生徒指導の側面もかなりカバーできるはず。授業を変えていくことによって生徒指導も変わっていくということはあると思う。そういう面からも中学校の風土を変えていければいいなと思う。

(個に応じた指導)
○ 知識・技能と思考力・判断力・表現力、そして、学びに向かう力・人間性と3つあるが、この中でも最も日本の中学生に総体的に欠けていて深刻な問題、そして、10年後、20年後を捉えたときにより深刻であるというふうに考えるのが、学びに向かう力の部分だと思う。それは、自己肯定感の低さとか社会の当事者性の意識が低いということで表現できる。知識や技能をどういう授業作りでより定着させるかということについて、研究や検証が既に行われている一方、例えばこの自己肯定感を高めて社会の当事者性を持って向かっていく、いろいろな課題を発見して自分でそれを解決しようとする力をどのような授業作りや教育活動で定着させるかということはいまだ検証されていない。一番重要な点が検証されていないということを大変問題視している。この部分の検証を行うということを将来を見据えて積極的に行うということを意識していただきたい。

○ 資料1にあがっているそれぞれの事項が、別々のことではなくて、絡み合いながら展開しているし、現状は絡み合いながら頓挫していたり、かえって悪い方向に行っているということもあるんだろうと思う。どこに引っ掛けて、どこからどう回していくと全部がつながって動いてくるかということを考えるということかと思うが、一つはやはり教育の方法の改善なんだろうと思う。
最近では、管理職の先生を中心にアクティブ・ラーニングに向けての関心、それをやっていこうという機運はすごく高まってきているというのは感じるが、それがやり方とか手続の話になってしまうといけない。子供というのはそもそもどんな存在で、学ぶということはどういうことで、学んだ知識というのはそもそもどういう質のものかということを問う必要がある。そういったことを、授業研究を通して、子供の姿を見ながら皆で議論をしていくことが重要。子供の研究をしていくことを通して、学習や子供、知識に対する概念が少しずつでも変わっていくのだろうと思う。残念ながら、中学校では、先生方がこの子たちは「これができない」というところから出発しているような気がする。それだから子供たちも力を発揮して伸びやかに自分の意見が言えない。自分の意見を伸びやかに言えないから、できないのではないかと思って、また後退するという悪循環があるような気がしている。「子供ができるところ」を足場にして授業を作るという発想が必要。幼稚園が典型だが、できないところを何とかしようという発想ではなくて、できるところを使って、次のことをやろうというふうに考える。小学校の先生も比較的そのような考えをお持ちだとお見受けするが、だんだん学年が上がって、中学、高校に行くと、これができないから、まず基礎をたたき込まなければという発想にどうしてもなりがちな気がしていて、そこを変えていただきたいと思っている。心理学の分野で日常的認知という考え方が出てきて、日常生活の中で自分にとって文脈や状況がとれていると、驚くほど人間は有能に動けるということが分かっている。つまり、その子にとってできるところを足場にして、それを洗練させていくと良いということで、今回の指導要領の議論の中にもそういったものがバックボーンにあるような気がしている。授業研究によって、学習とか子供とか知識とかいうものに対して、先生方が少しずつ見方を変えていったり、あるいは自分なりの見方を形成していったりすると、子供をもっと信頼できたり、もっと子供に任せられるとかいうことになるだろうし、そういう扱いを受ける子供は自己有用感や自己効力感を高めていくこととなり、好循環になっていくのではないか。いずれにしても、根の一番深いところは子供観や学習観であろうと思う。

○ 中学校に入ると、思春期になり、自分の考えを人前で述べることに関して、間違ったらどうしようかという気持ちが強いだろうという、大人の考え方があると思うが、私は決してそうではないと思っている。むしとそういう子供観を前提に授業をやるということが先生方の中にあるからからそういう傾向を助長するように思える。自分の経験を言うと、私は中学1年から3年まで、国語と数学と理科と社会科は、3年間ずっとグループ学習だった。それで私は、「中学校はこういうところだと、みんなでどんどん意見を述べ合って、解決していくところ、理解を深めていくところが中学校の勉強なんだな」と思っていた。多分そういう経験が今の仕事にも生きていると思う。現代においても、例えば入学直後のオリエンテーションで、「中学校というのは、皆さんが一人一人自分の考えを持って、小学校とは異なり、みんなで議論をして、何が正しいのかということを学んでいく場なのだ」ということを宣言して、うまくいっている中学校はある。そういうことを子供たちに宣言するために、先生方が変わっていかねばならない。中学校の授業をもっと変えていかねばならないということを、子供や保護者に宣言することで、先生方の意識が更に明確になっていく。そういった取組が既にあるので、うまく吸い上げて、整理していくことが必要だと思う。

○ 子供が高校に入って、1か月もたたないうちに、学校の勉強についていけないから塾に行かせてほしいという話が出てきた。なかなか相談することもできないし、ついていけているのか、いけていないのかということ自体が分からないようだが、塾に行くと、明白に言ってくれる。それで安心したというところもある。だからこそ、子供を中心にどう見ていけるのか。いわば、子供の思いがどう伝わっていくのかというところがすごく大事なのが中学校だというふうに思うので、そういったことも踏まえて考えていかなければならないと思っている。

○ 中学生になったら自動的に内気になったり、無口になったりするわけではなくて、中学校のカルチャーというのがそうさせてしまうというところがあるのではないか。例えばアメリカの中学生などを見ると、ますます活発になっていくというようなところがあって、静かに先生の話を聞いて、黙々とノートをとって、テストを受けるというようなカルチャーではなく、中学生、高校生が明らかに違う行動を示している。学校のカルチャー、先生の教え方、指導の仕方によるところが大きいのだと思う。今回はアクティブ・ラーニングの視点からの授業改善という言葉を浸透させることにより、優秀な先生にだけ頼るようにはならないということにしようというものだと思う。しかし難しいのが、「入試との関係はどうなるのか」といったこと。学校でアクティブラーニングを実践すると、子供は何だか学力がついていないような気がして、塾へ行き、そこで知識を詰め込むような学習をすると、結局今回のねらいが達成されないのではないかと思う。

○ 中学校全体がなかなか旧態依然として変わらないというような印象のお話が多く、それも一理あるが、最近いろんな学校を見ていると、大分変わってきたかなと思う。やはり一つはアクティブ・ラーニングという言葉がかなり入ってきて、子供を主体にして授業をやらなければいけないという意識の教員は、増えているのが実態だと思う。ただ、実際に教員の授業を見に行くと、本当に活動が取り入れられて、生徒主体の時間が増えている場合もあれば、何をやっていいか分からないということで、授業はまだ旧態依然としているという場合がある。ただ、空気としては変わってきているのではないかというのは、是非ここでお伝えをしておきたい。

○ アクティブ・ラーニングというのは大変優れた学びであるというふうに評価をしているが、教員にとってだけではなくて、子供たちにとってもハードルが高い学びなのではないかと思う。特に小学校の段階で、例えばアクティブ・ラーニングに必要な、新しいものに積極的に興味を持っていく能力や、コミュニケーション能力、分からない問題をじっくりと我慢して考える力等を身に付けてこなかった一部の子供たちにとっては、むしろ知識集約型の学習よりもずっとハードルが高いと思う。アクティブ・ラーニングの視点による授業改善で、学力格差がなくなり、学習意欲の低下がなくなるかというと、決してそういうことではなくて、むしろこれまでの研究では、知識集約型の学習で学力達成を上げられているところは、運用力などでも非常に学力達成が高いという結果も出ている。優れた学びの実践の中でも、学力格差や学習意欲の低下層にどういうふうな配慮をするかという問題は、中学校では大きな問題として残るだろう。今まで日本の教育は、全ての子供たちに同じような教育条件で教育を行うことが一つの強みであったわけだが、アクティブラーニングの視点からの授業改善の中で、運用の間違いによっては、より学力格差を広げてしまうかもしれない学びにかじを取る可能性もあり、学力低下層に対しては傾斜的に、加配的に、人的・物理的な支援を行って、底上げを行っていくという考え方を促進していくことが重要かと思う。

(特別支援教育)
○ クラスの中に6%若しくは10%と言われているが、特別な配慮を必要とする児童生徒への対応についても大事だと思っている。総則の改善イメージで、第4のところに記載されている、特別な配慮が必要な児童生徒に対する授業作りというのは、いわばユニバーサルデザインの授業作りであって、発達の障害を抱えている子供にとって重要であるのはもちろん、他の多くの子供にとっても大変重要なことだと思う。分かりやすく、誰にでも伝わる授業作りをする。そうした取組が全ての子供たちにとって、より学びやすい授業作りにつながる。そういう意識を醸成することも必要。

○ ユニバーサルデザインとして、全ての教員が分かりやすい授業を展開していくという視点と、もう1つは合理的配慮の視点が重要。合理的配慮は、一人一人の子供に合った配慮をしていくということなので、ユニバーサルデザインの授業とは違った視点で一人一人に配慮していかなければいけない。そうはいってもなかなか一人一人に配慮していくのは難しい実態があるので、「チーム学校」というところが特別支援教育にとっては重要。いかに外部の方等、色々な資源を使っていくかということが大事なので、「チーム学校」の中には、配慮を要する子供の支援もあるというような形で入っていくといいかなというふうに思っている。

○ 特別な配慮を必要とする生徒への指導については、校内委員会や、特別支援教育コーディネーターを配置するという形としては進んできたが、その質がどうかというようなことが今後課題になってくると思う。

○ 通常の学級に在籍する特別な配慮を要する子供の成長や、周囲の人間の理解の促進、そして、共生社会を形成していく上でも、特別支援教育の推進はとても大きいことだと思う。具体的には、今回、学習指導要領の各教科で、困難のある子たちにどのように配慮したらよいかという例が示されると聞いており、これはすごく大きいことだと思う。特別支援教育の側からだけではなく、小学校や中学校でこういう配慮ができるということを示していただくということは、様々な理解につながっていくのではないかと期待している。

○ 特別支援学級も通級による指導も、小学校・中学校に在籍する子供のことであることを踏まえると、総則の中で、特別支援学級や通級による指導の教育の目的やねらいをもう少し書き込んでいただけると、特別支援教育についての理解が広まると思う。

○ 通級による指導は非常に効果的だと実感している。大方の授業を通常の学級で受けながら、部分的に指導を受ける。その意味を、保護者も子供も理解して受けるということを広めていきたいと思う。特に、自立活動という領域の考え方が、一般の小学校、中学校でもわかるように書いていただくということが大事かなと思う。

○ 交流及び共同学習については、「共生社会」というような文言を入れていただいて、交流及び共同学習が共生社会の形成を目指しているということが共有できればと考えている。

○ 合理的配慮の提供については、個別の教育支援計画に記載することとなっているが、子供たちにいろいろ配慮されることが、ただそのときの行き当たりばったりであったり、たまたまそのときの学校体制に左右されるということではなくて、計画的にきちんとしていく必要があるので、個別の教育支援計画や個別の指導計画も、もう少し位置付けが深まっていくといいと思っている。

8.実施するために何が必要か

○ 教科横断のイメージとして、中学校の教員は特に指導方法にイメージを置きがち。内容的にも指導計画等を並べてみると、理科と数学で重なっている部分があったり、英語と国語で連携が図れる部分がある。その辺りをしっかりと見ていけるような教員を育てなければならない。

○ 中学校における総合的な学習の時間の充実のための一つの切り口が教科横断的な 指導であると思う。総合的な学習の時間をうまく教科横断とリンクさせることができると充実が図りやすいのではないか。

○ 授業研究は非常に大事なことだと思うが、一人の教員が全科を扱う小学校と異なり中学校は教科担任制なので、校内研究がうまく進まないというような状況があると思う。だからこそ、中学校であればどのような授業研究ができるかというようなことも示唆できれば良いと思う。

9.中学校における諸課題への対応

(1)教育課程外の教育活動と教育課程との関連
○ 地域教育との関係というのは慎重に書いた方がいいと思っている。資料4の1ページ目にあるこのイメージについては、見た人はいろいろな受け取り方をすると思う。地域教育の人たちは、90年代から、週5日制になっていくプロセスの中で、もっと地域で教育の受け皿をと言われて、それをどんどん充実させてきた。完全週5日制になったときに、いかに地域で子供たちを育てるかということにかなり腐心なさって、それなりに充実してきている。一方で、最近、土曜日にまた授業をやりますという動きが出てきて、せっかく地域教育を充実させてきたのに、一体どうなっているのだという話になっている。地域の人たちは、やはり子供たちを育てたいという意識があってやってきた。我々は、やはり学校が中心であって、地域はそれを支援するというふうに見てしまいがち。それが高じると、自分たちが地域教育も仕切らないといけないというようになってくる。これは少し行き過ぎではないかと思う。地域との連携に関して12月に出た答申の中で、地域は、学校と一緒に、子供たちをともに育てていくというふうに大きく変わってきたと述べられている。地域が学校を支援して、子供を育てていくのではなくて、ともに育てていくというふうにはっきりうたわれるようになった。地域教育の人たちもそういう意識はかなりあると思う。これまでのように、例えば総合的な学習の時間に地域の人が入ってきて協力するというような形だけではなくて、地域の人たちが運営しているプログラムが相当あるので、それらに子供たちを参加させるということも大事になってくる。また、そこでやった活動を学校の総合的な学習の時間や社会科の時間に発表することによって連携ができる。子供たちが地域の社会人たちと一緒に学んでいくにあたって、運営主体は地域の人たちというあり方があって良いと思う。一方で、学校では学校のカリキュラムがしっかりある。それらがつながっているということを見せることはすごく大事だと思うが、地域教育も学校の先生が入っていって、カリキュラム化しようとなると、これは明らかに行き過ぎ。こういったことも踏まえた書きぶりが必要となると思う。

○ 生徒一人一人の中で、教育課程外の様々な体験活動が、教育課程内の様々な学びとつながらないと意味がないと考えている。部活は部活、ボランティアはボランティアではなくて、中学校生活全体の中で、自分がどんな生き方をしていきたいのか、どんな学びをしていきたいのかというのをしっかり考えた上で、教科の学び、道徳の学び、部活動、そして、学校外での様々な体験がつながっていくことが重要である。例えば高知県の中学校では、「知の総合化」というものを総合的な学習の時間の中でやっており、主に、将来生きていく上で必要な力を元に、子供たちが様々な学校内の学びと学校外の体験をつなぐというようなことをやっている。部活動に関しても、松山のある中学校でこんな取組があった。二日連続雨が降った時、野球部が放課後図書室に集合して、野球に関する書籍を部員全員が1人1冊ずつ読んで、1時間の間にチームに役立つ情報を抽出する。その後、ワークショップを行い、「自分たちはどんなチーム作りをしていくのか」というのを、書籍から学んでまとめた。このように様々な工夫次第で部活動も変えていけるし、もっと子供の主体性を伸ばせるような取組もできるのではないかと思う。

○ 「社会に開かれた教育課程」の観点からも、諸活動をつないでいく核が必要であると思う。そのときに重要になるのがコミュニティ・スクールの仕組み。制度的な枠組みがあってこそ、皆さんがそこで協働できるという土壌が整うので、やはりコミュニティ・スクールの取組が広がっていくということが重要であろう。

○ 家庭の教育力向上に中学校がどのような役割を果たせるかということに関わって 、この主体の書き方、「中学校が」というふうに書いてしまっていいのかという懸念がある。子供がうまく育っていないということについて、親がいけないという御意見が世間に大変強い。「中学校が」というふうにすると、ちゃんと早起きをさせてください、家庭学習させてください、宿題の丸付けはしてくださいというような契約書のようなものを作って、どの家庭の親にも一斉に同じような教育力を求めるような、一斉授業的、画一的なことを学校がすることがある。こういうことをやると、もともと教育力のある家庭の保護者はそれを受け止めて、より教育力を高めが、そもそも諸事情で、やりたくてもできない保護者がもっと周辺化されていくことになる。困った事情を抱えていて、子供の教育に向き合えない保護者には、画一的に中学校が指導するというよりも、個別的に、例えばスクールソーシャルワーカーが対応するということの方が大事。幸福の顔は単一だけれども、非常に困った人たちの顔は多様だといわれるように、やはり個別の対応が必要であると考える。学校の先生方は、1年間で子供たちの指導を完結するという時間の感覚をお持ちである一方、スクールソーシャルワーカーの方々は3年、4年、5年掛けて一つの事例を解決に向けていくというような時間軸を持っている。それぐらい難しいので、家庭の教育力向上ということを考えるのであれば、中学校単体というよりも、小学校、中学校、又は幼稚園の段階からの連携と継続した支援が必要になってくると思う。

○ 幼稚園の段階からしっかりと取り組むべきことが家庭の教育力の向上につながるということには賛同する。今までの経験上、学校とうまくいっていない家庭を見ると、やはり地域とうまくいっていないように思う。PTAもどう関われるかというところはすごく苦労している。やはり「チーム学校」という形に期待しており、地域学校協働本部という体制で、それぞれの形でうまく引き込むということをやっていきたいと思っている。これらがこれからの地域社会形成に必要だと思うし、家庭の教育力向上のキーは地域であり、その中心となるのが学校なのではないか。

○ 小中高とある中で、中学校区をベースに地域コミュニティを構成していくという戦略が大事で、小学校の方が親とはつながっているんだけれども、最終的に地域を再組織化していくというときに、やはり中学校区が一つベースになるんだろうと思う。

(2)部活動の取扱いについて
○ 部活動について、資料1で述べられている趣旨は全くそのとおりだと思うが、「部活動頼りではなく」というところについて、実態は決して部活動頼りではなくて、部活動はその一部ではあるが、生徒指導はもっと組織的な観点を持って行っている。資料4の中の体育、保健・体育WGの主な意見にもあるように、部活動にはやはり重要な意義があると思うので、「部活頼りではなく」という文言が出てしまうと、この意義が薄らいでしまわないだろうか。一方で、大きな負担となっていることも事実なので、やはり外部の指導員の力等を借りるということも考えに入れて、正にカリキュラム・マネジメントをしていく必要があろうと思う。

○ 部活動については、その概念を変えていくことが必要。つまり、部活動も一つの学習だと考えれば、伝統的な部活の指導は、結局一斉指導でたたき込むということで、とにかくいっぱい練習して身に付けるという授業のやり方と共鳴している。そういったところは変えていかねばならない。学習、授業も変えるなら、部活の方法論も変えていくことが必要で、それを我々も研究して、事例集等を出していかねばならないのだろう。部活の活動自体をもっと多様にしていくみたいなことは考えてもいいのだろうと思うし、スポーツ科学の観点からしても、ただ練習すれば上手になるということでもないだろうから、様々な科学的トレーニングの概念を学ぶということもよいのではないか。部活の中でそれをやるというのは斬新な発想だし、それを通して、自分の体や心を大事にするという意識も芽生えるのではないか。ある学校では、部活動の指導でカリキュラム研究に時間が割けないという問題意識から、週2回ぐらいノー部活デイを作って、早く子供を帰すようにした。すると、子供たちは、限られた時間を効率的に使って、短い時間だけれども、集中して効率的に身になる練習を計画して、結果を出したという事例があった。一方で、3時半に子供を帰したら、3時半から子供は何をしでかすか分からないから、5時や6時まで学校にいさせることも大事だというふうにまだお考えの先生方や地域の方、保護者もいらっしゃって、そういった意識をどうするかというところが課題。地域全体で子供を見るという考え方や、さらに、3時半に子供を帰しても、子供は何かいきなりしでかすわけでもないということを信じるということだと思う。最終的には子供観を変えていくという話になり、また、子供観を変えられるようになるためには、学校で日頃子供と付き合っているときに先生が確認する子供の姿が現実的に変わってこないと、先生方もそこに確信を持てない。そういう意味でもやはり授業研究は大事で、このように全部のことがつながって動いていることを意識することは、中学校改革においては大事。ただ、こういったことをどのように現場に伝え、実行に移していくかということは難しいことだと思う。

○ あるバスケットボール部で、その顧問は素人だった。本人は体育でしかやったことがない。だから、これは自分は教えられないからということで、たった5人しかいない部員に、今で言えばアクティブ・ラーニングの視点からの話し合いを実践させた。「概念化シート」と付箋を使った選手主体のミーティングが定着し県内でも上位の結果を残しただけでなく、生徒指導面で課題のあったチームの雰囲気が大きく改善していった。この事例からもわかるように、中学生というのは非常に可塑性があって、手立て次第で変わる。それは授業もそうだし、部活もそうなので、そういったことを、我々研究者が発信していかねばならないと思っている。

(3)学校段階間の接続
○ 幼稚園、小学校、中学校になるにつれて、地域と学校の関わり度合い薄くなっていくように感じる。中学校区は近しい地域ではあるので、中学校を核として地域を結びつけていくということが重要。また、幼稚園から小学校、小学校から中学校という流れではなく、中学校発信の形が大事と思うので、「チームとしての学校」を作って形成していくには、中学校は大事な部分だと思う。

○ 幼稚園のときにはまず、教育に初めて触れる機会ということで、保護者、両親とも参加するという形が多が、小学校になると少し減っていき、中学校になってきたら大幅に減る。関わり方というところが見えていないためだと考えられるので、「チームとしての学校」の形を作るに当たっては関わり方を示していかなければいけないのだろうと思う。

○ 小中一貫校となると、中学校の教員の意識は大きく変わる。確かに中学校の教員は、中学1年生の入門期の子供を非常に幼くみている。ただ、小中一貫になったときに「6年生ってこんなにできるんですか」「こんなに自分の思いを発言できるんですか」ということに気づいて驚く。そこから校内研究は変わり、小中つないだカリキュラムが一気に作り上げられたという経験をしたことがある。このようなことを鑑みても、小中の接続の部分を強調するのは一つのポイントだと思う。

○ 小学校の英語が教科化されていくという中で、中学校教員は、小学校で何をやっているのか、英語の時間にどんな指導でどんな子供たちが育っているのか、そういったことをしっかり見ることが必要。そうすれば中学校の英語教育も変わると思う。

○ どの学校種の関係者も、子供の前の段階の校種の事情をよく知らない。大学の先生も、1年生が入ってきたときに、君らは何も知らないからという姿勢でいる。18歳は何でもできるのにと思うが、どうしても下の校種に対して、できない方ばかり見てしまう。異なる学校種間の交流が少なかったのだと思う。それは幼小連携でずっと課題だったが、最近改善が進んできた。つまり連携というのは、いわゆる上級学校の方に適用できるように下の学校が合わせて準備するとか、あるいは逆に上級学校の方が適用できるようにスタートラインのレベルを引き下げるとかということではなくて、幼児期に育っているものが何かということをしっかり見据えて、そこで育っているものを上手に生かしてスタートラインを切っていくというやり方に変わってきて、その方がむしろ短期間にかなり高度なレベルまで行けるし、子供の方からすれば、自分たちがこれまで学んできたことや経験してきたことが小学校でもこんなに生かせて、それによってまた小学校の新たな学びがこんなにもできるということになっていく。その方が自己肯定感や自信につながるし、意欲も高まるという話だろうと思う。それを小中でも今後やっていこうじゃないかということ。中学校に入った途端、いきなりおとなしくて恥ずかしがり屋になるわけではないわけで、静かで恥ずかしがり屋でいた方が適応できるような授業をやっているからいけない。だからこそ、そこを変えるということが重要。

(各教科等に関すること)
○ 「特別の教科 道徳」、これが非常に大切だと思う。学校の安全と安心の確保にもつながる。それがなければ教員の研修も実現しないし、アクティブ・ラーニングも成り立たない。中学校で一番直面している大きな問題、いじめ、暴力、学級崩壊、これを防止するために、今まで随分ルールを作ってきたが、やはりペナルティでは問題の解決にならない。一番大切な一歩は道徳教育の充実だと思う。グローバル化の進展により、様々な価値観が社会に増えてきて、その中で多様な価値観を理解するということの重要性が強調されているが、多様な価値観が共存するためには基本的なルールが大切になってくる。一部では、固有の価値観を押し付けるのではないかという御意見もあるが、「嘘をついてはいけない」「弱いものをいじめてはいけない」といった、不変の価値観を徹底して教え込むことが、グローバル社会の実現のために大切だと思う。これに関しては、家庭の教育力向上にもつながる。子供たちに道徳を教えることによって、家庭の教育力が向上する。東京都の調査では、家庭の教育力が向上しない理由の65%が、親がマナー、ルールを知らないというところがあると聞いているので、子供が学ぶことによって、家庭の方の教育力も向上させていけるのではないかと期待する。

○ 外国語教育について、改めて必要なのは目標の明確化ではないかと思う。この過去10年、ICTの普及によって、世界で使われている英語というものが変わってきた。今、何らかの形で英語に携わっている人口が世界推定で16億から17億人で、4人に1人が英語を使っているが、そこで使われている英語、求められている英語というのは簡単な文型や語彙を使って、どれだけ自分の意思の疎通を図るかというベーシック・イングリッシュで、日本で言えば、中学校レベルの英語である。アメリカでは既に標準的な英語として、ミドルスクールの修了者が初見で理解できるレベルが求められるようになっている。ミドルスクール修了レベルで初見で分かる英語というものがどんなものかというと、例えば安倍首相のアメリカ議会における演説。国内でも好評で、中学校英語レベルだけれども、分かりやすいという高い評価がされているが、中学校レベルの英語だけれどもではなくて、あれが今、世界が求めている英語だという認識は共有したいと思う。そうすると、中学校の英語教育に求めるものは、高度化ではなくて、今の指導要領に盛り込まれていることをより定着させることだと思う。その上で、次期指導要領でさらに力を入れるとすれば、運用能力の開発で、中学校の教科書や一般に言われる英会話の教科書を見ても、あまりそこに踏み込んでいないものが多く、中学校になれば、既に相当の情報量も知的能力も高くなっているので、そのレベルに合わせて簡単な英語でどう表現するかということが重要。

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