第9回総則・評価特別部会における主な意見

■.教育課程の総体的構造の可視化と「カリキュラム・マネジメント」の実現

○ 高等学校だけ第1款、第2款という形で款が維持されている。今回の改訂でもこれは維持されるのか、なぜ高等学校だけ款を維持しているのか。
○ カリキュラム・マネジメントという片仮名の用語はこのまま総則に使われることになるのか。その場合、例えば、カリキュラムと教育課程や指導計画といった用語の関係をどう整理する予定なのか。
○ 第3の1に「第2章以下に示す各教科等の内容のまとまり(単元、題材、主題など)」と入ったことは良いが、この表現では指導要領に示されている個々の内容、すなわち教育課程の基準としての内容が単元や題材や主題と読めてしまう。第2章以下に示されるものは国が示した基準であり、この内容を足場にして、各学校が単元や題材や主題を自由闊達に豊かに創造するということが重要。
○ 教育課程の編成について桁をどこにそろえるのか考慮が必要。第2の教育課程の編成の最後にある「調和の取れた全体の指導計画」は各学校の教育課程といわれる年間指導計画、全体の指導計画を示していると思われるが、その中の具体的に「ごんぎつね」や分数といった単元や題材や主題を何時間ぐらいの扱いで、いつやるのか各学校が学校の実情や子供の実態に合わせて編成することもまさに教育課程の編成作業。今回の総則は、できるだけ各学校が自由闊達に着実に教育課程を編成するためのガイドになるようにする必要がある。それを踏まえると「第2章以下に示す各教科等の内容について育成すべき資質・能力をイメージし、主体的・対話的で深い学びを通じて計画的に育成すべく児童にとって意味のあるまとまり(単元・題材・主題など)を豊かに創造していくことの重要性」と表現するのが良いのではないか。教育課程の現場的な編成の部分なのか、教育の方法、つまり、実施の部分なのか。その結節点に、まさに単元があり、その桁をどちらに合わせるのかが問題。
○ 今回の改訂が目指すことは、カリキュラムというものがどこかにあり、教員は訳も分からずそれを粛々と実施するという意識を改めること。一人一人の教員も指導要領を読み、資質・能力を考え、同時に目の前の子供や教材を見つめ、そこの間をつないで創造的に授業を生み出していくことが、学校全体のカリキュラムを動かすということがつながっているという感覚が重要。その結節点に単元があり、単元は4月に生み出されてもいるが、4月以降、子供を見ながら開発されるものでもある。これを教育課程の編成の方とするのか教育方法とするのかは考慮が必要。
○ 教育課程に関する情報を各学校でもう少し公開をしてもいいのではないか。カリキュラム・マネジメントの観点や、情報公開の観点、家庭や地域との連携の中での対外的な説明の観点など、一考いただきたい。
○ 社会に開かれた教育課程という言葉には、三つの意味がある。一つは、資質・能力。これからどういう資質・能力を育てるかというときに、社会の中でも必要とされる資質・能力を育てる。二つ目は、社会の中で、社会生活を行うために必要な、知識・技能を考慮した指導要領にしていくということ。子供にとっても先生にとっても、社会に出た際にこう使われる知識・技能だということが見えやすい内容としていくこと。三つ目が、社会の構成員として自分が社会的な問題に関心を持つ、あるいは選挙などに自分が参加し、社会の仕組みを自分たちで作っていくという関心、意欲。これらが社会に開かれた教育課程の意義になるのではないか。
○ 社会に開かれた教育課程は今回、重要なキーワードになっているが少し分かりにくいところもある。社会に開かれた教育課程とは何かということの頭出しを冒頭にしておく必要があるのではないか。
○ カリキュラム・マネジメントとアクティブ・ラーニングが今回の指導要領改訂の大きな目玉。その中でも、カリキュラム・マネジメントの方が実は学校は今すぐ取り組まなければいけない大事な点で。アクティブ・ラーニングは、カリキュラム・マネジメントに基づいて、どこでその手法を取るかという関係にある。その中で、アクティブ・ラーニングは非常に先行して捉えられている。社会に開かれた学習指導要領にしていくかという観点で言うと、学校が従来の教育課程経営、教育課程管理と言われていたような領域を踏み越えて、より学校の特色を生かしながら、学校自身が、また、その構成員である教員が組織的にカリキュラム・マネジメントという手法に基づいて教育活動を構築していく意義。今までアクティブ・ラーニングが先行して出ている分、強めに出さなければいけない。
○ 教科間のつながりや総則と教科の関係、教科と教科の関係や学校と学校との関係なども検討が必要ではないか。総論は立派だが、各論は旧態依然で、従来のトーンでまとめられているということではいけない。教育課程の全体的な流れが、総体的な構造になっているということを意識し、まとめていくことが必要。
○ 今回の教育課程の改訂に関して、構造化ということが一番重。教育目標と各教科の関係、各教科の関係、それを含めた構造化が一番重要であり、その構造化した中身を議論する場がどうしても必要ではないか。

■.「何ができるようになるか」(教育目標と育成すべき資質・能力の明確化)

○ 第1の3の中に初等中等教育を通じて育成すべき資質・能力との関係という記述が出て来るが、これは一番冒頭で述べられるべきではないか。今のままでは、それぞれ小学校も中学校も、埋没してしまっている印象がある。
○ 小学校で言えば、総則第1、小学校教育の基本、その第3番目で、小学校教育を通じて育成すべき資質・能力、その下に、小学校教育を通じて育成すべき資質・能力と初等中等教育を通じて育成すべき資質・能力との関係、その下の各教科間で育成する資質・能力との関係、これらの関係性を具体的にどう出すかが一番の問題。
○ 義務教育学校については新たな学校種として、その資質・能力の設定など独立した表現をしていただきたい。

■.何を学ぶか(教科横断的な視点での教育課程の編成)

○ 教科横断的に育成すべき資質・能力について、包括的な評価や見立てを持つ視点も必要ではないか。
○ 小学校では合科的・関連的な指導があるが、中学校時にはそれがない。これはすなわち、教科横断的に資質・能力を育成するとしても、現実的にはそれは合科的・関連的な指導という現行の条項に満たない水準でしか認められないのかという見方もできる。これは、合科的・関連的指導がこれまでの役割を終え、教科横断的に育成すべきという部分で、より包括的な条項に置き換わることとなるのか。どのように単元を作り、時数処理を行い、評価をするのかを含め、手続き的に明らかにすべきではないか。
○ 現代社会の課題、いわゆる○○教育と呼ばれるような課題というのがあって、それをどう扱っていくかということも今回大事な課題。その中でも重要なキーワードの一つにESDがある。

■.どのように学ぶか(指導案等の作成と実施、学習指導の改善・充実)

○ 深い学びと主体的学び・対話的学びの次元が異なり、深い学びのための方法としての主体的な学び・対話的学びがあるように解釈される。そうした誤解を避けるように、もう少し表現を工夫されたい。
○ 6ページのあたりで、見方・考え方を導入して、資質・能力を各教科等でしっかり育てるということが書かれて、非常によい記述だが、その中で、教科に固有な見方・考え方を各教科等で指導するわけで、そこから汎用的な能力などがすぐ獲得されるということではない。すなわち、その教科固有の情報の整理の仕方のようなものを適用する場面が少しずつ広がっていくということ。別な言い方をすれば、その教科等の固有な見方・考え方を身に付けることを通して、汎用性を獲得し、使う場面を広げていくという趣旨の表現が良いのではないか。
○ 深い理解については、認知心理学の立場からすると構造化された知識体系を作ること。個々ばらばらの断片的な知識をただ暗記しているとか、あるいは、一定の手続で答えが出せるということではなくて、構造化された知識体系を作る、つまり、構造化された知識、関連付けられた知識体系を持つことが深い理解なのだというふうに結び付けていただけると良い。技能についても一定の手順に沿った技能のみならず、変化する状況に応じて主体的に活用できる技能の習熟・熟達に向かう。なぜそういう手順を取るのかが分かってくれば、記憶にも残り、応用も利く。これがただ繰り返していることとの違い。これらを深い理解と結びつけてもらえると良い。
○ アクティブ・ラーニングというのは何かということが、まだよく分からないところもある。主体的・対話的で深い学びという言い方がされていても、主体的・対話的というところに大きなウエートが置かれ、深い学びの実践というのは、一体何を見ると深い学びにつながっているのかというところがまだつかみ切れない。「主体的・対話的」と横に並んで「深い学び」というのが三点セットであると考えているうちはなかなか見えないので深い学びは一種の、アクティブ・ラーニングと称する手法が達成されているのかどうかを測る視点と考えることができるのではないか。深い理解、深い学びがこれから資質・能力を身に付けさせていく上で重要な手法であり、その目標に向かって対話的学びや主体的学びや、あるいは一種の講義型の授業というのも中に存在しているのではないか。
○ 学校教育を通じて身に付けた見方・考え方が知らず知らずのうちに活用されているという現状は好ましくない。明晰な自覚を持って選択的・戦略的に使えるように今後はしていきたい。そう考えたとき、見方・考え方は当初特定の教科で学び取る、その当初学んだ領域なり対象なりに対して学び取ったものを、ほかの対象や領域に広げるということ。さらに広げることで学びが深まっていき、そこは互恵関係にある。広げることによって、元の教科で学んだことの意味や、その教科でこの方法を使うことの妥当性が深い納得を持って理解され、定着する。
○ 見方・考え方は各教科ならではという面もあるが、教科横断的な面もある。例えば、図工の造形遊びにおける物を別な物に見立てるということは、国語科の詩や俳句でも用いられている。すなわち、見方・考え方を働かせた学びは汎用的な能力の育成にもつながり、各教科の学力も定着し、各教科ならではの見方・考え方もより深い理解を持って定着するのではないか。

■.何が身に付いたか(学習評価の充実)

○ 「学習意欲の向上」の「意欲」という表現はこれまでの関心・意欲・態度を引きずりかねない。三観点の中の主体的に学習に取り組む態度、若しくは大きく捉えるならば、学びに向かう力・人間性等といった言葉への統一が必要。
○ 「何が身に付いたか(学習評価の充実)」の三つ目の丸で、「具体的な観点や趣旨については学習指導要領に記載するわけではなく」と記載されているが、評価規準を具体的に作る際には、学習指導要領の目標、内容によって評価の観点を作ることになる。現在、多くの学校で教員が評価の観点を作る際には、教科書会社の作るものに依拠してしまっている。学習指導要領の観点の中に、指導内容指導事項として評価の観点を示しておく必要がある。そうしなければ、学習指導要領を見なくても授業、学習指導ができるという現状から転換はできない。この示し方が非常に重要になるので、文言を修正されたい。
○ 「キャリアレポート(仮称)を導入する」とあるのは大変重要な変化。総合学習の成果や今度新しく高等学校で始まる理数探究は今までの指導要録の形式の評価にはのりにくい。一種のポートフォリオのようなものを作ることが重要。ただ、文章表現として、「自らの学習状況やキャリア形成を見通し振り返る」と書いてあるが、「自らの学習成果を示したり」という方がいいのではないか。学習成果を示す方法が指導要録では不足している。これだけいろいろ教育の目標を広げてきた中、従来どおりの指導要録では不足しているのではないか。

■.子供の発達をどのように支援するか(キャリア教育、特別な配慮を必要とする児童生徒への指導等(特別支援、日本語指導)

○ 特別な支援を要する子供たちに対して高等学校で通級指導が行われることは大変良いこと。高等学校の先生方は、小・中の先生と比べ、通級指導やインクルーシブ教育で、同じ学級の中に支援を要するお子さんたちが入ってきているという御指導をこれまで十分にされてきていなかった現実がある。高等学校における通級指導を導入するに当たってはかなり周到な用意と、きちんとした告知をしていかなければ混乱が起きてしまう。特に教科指導に関しては、教育課程の編成が、支援を要するお子さんたちに向けてのものと、学校全体での教育課程との関係も出てくるので、しっかりと書き込みをしていただきたい。

■.実施するために何が必要か(家庭・地域との連携、チーム学校等)

○ 家庭・地域との連携・協働だけでなく、連携・協働による学習活動により学んだことを生かすということを書き込んでいただきたい。
○ 中学校におけるカリキュラム・マネジメントの具体的な方向性の中で、部活動などの教育課程外の学校教育活動や地域の教育活動というところがあるが、具体的に、では部活動をどうしていくかという方向性がよく読み取れない。学校教育活動の一環であり教育的意義が高いという指摘もあり、現実に中学校、義務教育学校では、子供が学校選択する場合に、部活動によって選択するということが多々ある。そうした中で具体的に教員の負担軽減の観点からどうするのかということ、それが具体的な方向性という中で余り示されていない。また高等学校においても同様の問題があるのではないか。
○ 高齢者などとの交流の機会については、多様な人との出会いや対話、地域の人との出会いが、子供たちを成長させると考え、高齢者に限らず、外国人の方や障害者の方など、様々な方との出会いが学びを深めるという意味で記述してはどうか。

■.小・中・高等学校それぞれにおける諸課題への対応

○ 小学校低学年の部分で、幼小の円滑な接続のためのスタート・カリキュラムについて記述されるのは非常に良いことだが、「生活科を中心に合科的・関連的指導を工夫する」という表現ではなく、「低学年全体に全ての教科等において幼児教育とのつながりを図る」あるいは、「低学年の子供の発達的な特徴に配慮する」、もしくは「小学校教育の基礎をしっかり育てる」といった特徴を書き込むのが良いのではないか。
○ 小中の接続については、義務教育学校に触れつつ、加えて、小学校高学年の指導の在り方について配慮するなど発達的特徴に配慮する記載があると良いのではない、か。
○ 高等学校の卒業に必要な単位数について、下限として卒業までに習得させる単位数は74単位とある。ただ、その一方で、高等学校の学習指導要領解説総則編、全日制の課程における週当たりの授業時数は30単位時間を標準とするとある。3年間では90単位で、必要がある場合には更にこれを増加することができるとなっている。下限を示すのであれば、上限という考え方もあるのではないか。実際に全日制の課程で74単位で行っているところはかなり珍しいのではないか。
○ 部活の問題は非常に大きい。特に最近は、特定教員に過度に負担が集中し過ぎる問題。それから、少子化が進み、各学校でも部活が立ち行かなくなっている。これまでの議論では社会教育に移行してという意見もあれば、学校にとって部活は必要だという御意見もあり決着がつかない。20年後、30年後を考えた場合、公的な機関としては、例えば、教育委員会なり自治体なりが幾つかの学校をまとめ、いろいろな学校から参加できるような形で部活動的なもの、それを公的に保障していくと。そこで実際に指導するのは、地域の方と学校の先生と両方が連携・協働し合って運営していく。子供たちにとってもいろいろな活動があり、そこに参加できることを保障していくというようなことも考えられるのではないかと。ただし、急にできることではないので、20年後、30年後を見据えて、何か一歩踏み出せるといいのではないか。

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