資料5 教育課程部会幼児教育部会(第2回 平成27年11月20日)における主な意見(未定稿)

教育課程部会幼児教育部会(第2回、平成27年11月20日)における主な意見(未定稿)

1. 幼児期において育みたい資質・能力について

○ 幼児教育においては、これまでの心情・意欲・態度などということを重視しながら、遊びを通しての総合的な指導により子供たちの発達を見るという視点から、資質・能力の三つの柱を見たときに、遊び込む子供たちの姿の中に目的を持って最後まで頑張るとか、友達と協力しながら、協調しながら目的を実現していくことが、学びに向かう力につながっていくということはよく理解できるし、現場の先生方にも理解してもらえるのではないか。
   少し気になるのは、個別の知識や技能である。私は、何を知っているか、何ができるかという視点で子供たちの資質や能力を見ていくという、この文章がとても大事ではないかと思っている。幼児期の場合、特にこの個別の知識や技能といったときに、個別の知識や技能を獲得していくものであるが、その過程で、何ができるかというよりは、何を知ったり、何に気付いたりしているのかという視点で子供たちの遊びを見ていくことが大事ではないか。

○ 思考力・判断力・表現力等の基礎の説明は、幼児の最初は、興味とか関心がまずベースにあって、知っていることとか、気付いていることを使って考えたり、試したり、表現したりというような表現がよいのではないか。
  学びに向かう力、人間性等は、小学校以上の注釈を見ると、どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るかとあり、幼児期は人生が始まったばかりであり、幼児教育は環境を通しての指導がベースにあることから、「どのように環境と関わって、より充実した生活を送るか」という表現の方が適しているのではないか。

○ 資質・能力の三つの柱でまとめていくとともに、幼・小・中・高の教育を縦のつながりの見通しを持って系統的に組織していくことが非常に大事ではないか。
   小学校の学びにつながっていることが分かるようにするために、幼児期に育みたい資質や能力は、育成すべき資質・能力の三つの柱との対応が分かるようにしていくことが大事。具体的には、今ある5領域の内容についても、ある程度資質・能力の三つの柱に沿った形で整理していく必要があるのではないか。

○ 個別の知識や技能とは結局何を指すのか、また、基礎という言葉が何を指し示すかというイメージがとても大事。小学校以降の知識とか基礎という概念を変えていくことが、今回の大きな主題ではないか。小学校以降において、知識や技能ということが何を指すのか、少なくともその暗記的で要素的なものではないという方向に向かい、基礎というものが何かばらばらな要素を詰め込んでいて、それが先に応用されるのだという概念を変えていくために、幼児教育部会の議論は大事。

○ 現実には保育記録を見たり、実践を見たりすると、もっと子供はできている。概念的な理解とか、知識が活用されるという意味でも、もっと獲得している。例えば、数量に対する関心などというレベルではなく、数量に対するかなりの概念や技能が、4歳、5歳で獲得されている。

○ 幼児が音声の響きやリズムなどに気付く。生活に必要な言葉を分かったり、使ったりする。生活の中で様々な色や形に気付く。まさにその生活の文脈、子供の自発的な活動の中で、結果的にそういったものが形成されるということではないか。それが小学校以降の生活や学習の基礎になっている。つまり、遊び込む中でおのずと子供の側に形成されていったような意味での知識・理解であり、そのような質の知識や技能が基礎になるのだということではないか。それとは別に、子供に文脈もないのに教師側が要素的に教え込んでいくような、小学校の前倒しをするようなものではないのだということがここにも伝えられていると思う。そういった日々の活動が、小学校以降の生活や学習の基礎につながっていることを幼稚園の先生方に再認識してほしい。つまり、幼稚園の先生方が既にやれていることを自身が自覚しているか。あるいは、それを意図的に取り組んでいるか。意図的にということは、それを切り離して教えるということではなくて、子供の自発的な活動とか遊び込む活動の中で、子供たちの学びが深まるような意図的な関わりや環境整備や支援ということである。それは可能で、そこをより精緻にしていくことをここで求めている。そういう意味で個別の知識や技能という位置付けがここにあるのではないか。

○ 少なくとも既にできているような知識・技能は、文脈的で関係的な知識や技能ではないか。脱文脈的で要素的なものではなくて、そういった知識を子供が獲得していったプロセスを子供が自覚的に理解して、知識というのはそういう中で生まれてくるということを知ることが大事。これは、少し思考力や判断力になるかもしれないが、自分たちが望む活動をし、その中でより良いものを求めて工夫していく中で気付いたり、分かったりできることが増えるのだということをメタ認知的に自覚することが、まさに小学校以降の学びの基礎になっていく。つまり、それによって個別の知識や技能が何を指し示すか。基礎というものがどういう意味においてであるか。それを既に達成されている幼児教育の質の高い実践を、計画的に意図的に進めていくことが可能になるようにどうするか、ということが大事。それは思考力・判断力・表現力のイメージもそうで、どうしても私たちは思考・判断・表現、これは認知的な、もう一つの学びに向かう力や人間性がノン・コグニティブ、非認知的な方をイメージするのだとすれば、思考力・判断力・表現力というのは、認知的な意味での汎用技能、ジェネリックスキルを想定しているが、そういったときに私たちは思考力・判断力ということを考えると、学校教育文化的には極めて近代科学的な、こういうことをしようということを鋭角的に目的として定めて、それに向かって合理的な計画を立てて、それを実行して評価する。その中で使われる、どちらかというと分析的な思考力や判断力を考えがちだが、そういうものを幼稚園教育で育むとなると、自由度も減ってくる。子供の遊びの中で、創発的、偶発的、あるいは対話の中で協同的に起きるようなものをもっとイメージしていいのではないか。それが小学校以降の基礎になる。

○ 小学校以降でも、理科のような教科では、近代科学をモデルにした思考判断が実行され、そういったものが培われることが目指されている。例えば、図画工作科や音楽科などでは、典型は造形遊びだと思うが、創発的で偶発的な出来事の中で活動を展開し、より質の高い造形や問題解決がなされていく。いろいろな哲学や議論の中でも、近代科学をモデルにしたような思考力と、そこにあるものを使って、何とか組み合わせて工夫して、その中で高い問題解決を成し遂げていくという創発的な、クリエイティブで拡散的な問題解決もあるわけで、そういった思考や判断も小学校以降でもいろいろな教科の中で培われていく。
   小学校以降もそういった思考や判断をもっとイメージすべきだと思うが、幼稚園での思考・判断というのは、まさにそういうことが多い。やりながら偶発的、創発的に生まれていく中で、子供が工夫し、あるいは対話をし、その中で思考や判断が鍛えられていく。そういう質の思考・判断がとても多いと思う。思考・判断・表現といったときに、どんなものを無自覚のうちにイメージしているかということを問い直して、もっと豊かな、そして幼児教育の中で既に達成されている実際の質に寄り添う形で、それをより自覚化して意図的に取り組めるような形での描き方、示し方を工夫することが、今回求められている。

○ 知識や技能ということで、認知的なところに流れているような気がしてならない。できれば、気付きよりも感じるとか、感じ取るという面をベースにおいて、その上で感じて気付くことがないと、これだけが一人歩きして先生方に気付かせるという形の教育にならざるを得ない。感じ取る、感じるという感覚面を体験的に学んでいくことを重要視できるような文言が必要ではないか、また、基礎という言葉はどこまでが基礎なのかということを考えていきたい。

○ 幼稚園教育要領が、この資質・能力の三つの柱とどう結び付いているのか改めて見たときに、どこか一つに結び付くところもあれば、この三つのうちの二つに関わっているものもある。幼児教育の特性に配慮すると、括弧の中に書く言葉として、「気付く」、「感じる」、「興味や関心を持つ」など、現行の幼稚園教育要領第2章の5領域にある言葉、子供たちの姿を表す言葉で書くと、現場の幼稚園の先生方に分かりやすく通じるのではないか。知識や技能の基礎については、具体的な子供たちの姿があると、もう少し実際に先生たちの教育要領の理解や実践につながるのではないか。

○ 幼稚園において、知識を獲得するために試行錯誤をするとか、物の性質を活用した遊びは面白いとか、数を数えると友達と競えるとか、文字があると自分の思いが皆に伝わったというような、豊かな経験を積み重ねていき、便利だとか、いいなというのを生活の中で必要性を感じさせることがとても大事である。これこそが小学校以上の分かる、できるにつながり、義務教育以降の学びに円滑に接続できるのではないか。幼児教育は、生活や社会との関わりを通して、これから生きていくための知恵を付ける、何かそういうイメージではないか。思考力は、「考える」とか、「感じる」とか、「気付く」とか、あるいは、判断力であれば、「関係付ける」とか、表現力では、「伝える」とか、「対話する」とか、そういう文言があると分かりやすくなるのではないか。

○ 幼児期の総合的で主体的な遊びから学ぶという本質を表すためにどうするのかという表現上の工夫が必要ではないか。小学校以降と同じような文言をもってそれを貫く力を育てるということを出していけるとよい。子供は一体的にこの資質・能力の三つのそれぞれの力が関連しながら育っていく。それが幼児期の総合的で主体的な遊びから学ぶということではないか。そういったことを表現し、一体的でその境目が曖昧で、でも、確かに育っていく、小学校以降につながっているということを表してほしい。

○ 基礎ということを、知識とか技能、思考力・判断力・表現力等の中身の基本的な部分と捉えるか、それを獲得していく過程のファーストステップとして捉えるか、どう捉えるかで見え方が違ってくるのではないか。プロセスの最初のところを基礎と捉えると、子供の知識や技能、思考力などの習得は分かりやすいと思う。例えば、「知る」であれば、「気付く」とか、「感じる」という、まず「心が動く」ということがあると思う。そう考えると、子供が世界に関わりを広げていく、開いていくということが、知識とか技能の基礎の最初としてあるように思う。また子供は、興味を持つ、関心を持つなど、心を知ることに開いていくと、関心を持ったものには、そのまま眺めているだけではなく、手で触ってみたくなる。それは子供にとっての考えるということであり、頭の中で考えることだけではなく、身体性を伴っていくことである。その辺りの、子供が思考というものを獲得していくファーストステップを見ていくと、幼児教育ならではの三つの柱が見えてくる。

○ 5歳のときにできていることが小学校で消えているということがあるのではないか。単純に積み上がるものではない。そうすると、単純に積み上がらない骨格の部分はどういうふうに育っているのかということをどう表現することがよいのか。体験を通してとか、遊びを通してという言葉をずっと使っていたわけであるが、その意味は何なのかというと、子供がいろいろなものを習得していく時間の流れのようなものが、ネットワークの中の中核に位置付くための重要な要素であると感じている。

○ 幼児教育の場合、発達の段階ということが非常に強調されて、現行の幼稚園教育要領でもそのようになっているため、幼児期の特性が明確に出ていかないと勘違いされる。「感じて、知ったり、気付いたり」という、先生方にとって納得がいく、幼児期特有の活動がイメージできるような言葉に置き換えたり、定義をしっかりと落とし込んでいくことが必要ではないか。また、領域が三つの資質や能力とどうつながっているのかということ、今やっていることが資質や能力につながっているということが明確になると、先生たちがこれを頑張れば、ここは特にというのが少し見えるようになり、つながりが見えてくるのではないか。

○ 何を知っているか、何ができるかということより、幼児期は、何がやりたくて何を知りたくて何ができるようになりたいかということが大事ではないか。環境の豊かさとかが出てくると、できたという実感が起こり、自己肯定感とか、学びに向かう力が出て、結果としていろいろなことができてくる。子供たちが感じているとか、やりたいと思っていることが、知識や技能の基礎になっていったり、思考力・判断力・表現力みたいになっていったりというプロセスという部分をどう表現していくか。例えば、基礎の基本であるというところの出し方がもう少し丁寧さが必要ではないか。

○ 幼児教育の特性というのは、他の学校種とは違うため、その特性を出すことが大事。幼稚園教育要領の幼稚園教育の基本である、幼児期にふさわしい生活の展開、遊びを通しての総合的な指導、幼児一人一人の特性に応じた保育というところは、例えば、「感じる」とか、「知る」とか、「気付く」とかというような土台の上に出てくるものである。資料2にある小学校の資質・能力の思考力・判断力・表現力等の下に、教科等の本質に根ざした見方や考え方等とあるが、幼稚園教育要領総則第1章の第1幼稚園教育の基本の内容の趣旨を入れると、幼児期の特性が表れるのではないか。

○ 個別の知識や技能と資料に書かれているが、技能という小学校以上と同じ表現としてしまうと誤解や問題があるのではないか。幼稚園教育は、子供を全体として見るところが大切ではないか。総合的に指導するということであって、技能と書くならば、「生活技能」と書く方がよいのではないか。せめて遊びを通した知識にしておく方が、今の幼稚園教育としては、誤解を生まないのではないか。例えば、言葉を習得していくにしても、過程がある。小学校の就学を見通しつつ、幼稚園の3年間で、どういう言葉力を身に付けていくのかとかという共通理解が、カリキュラム・マネジメントの中で教育課程としては必要ではないか。幼稚園教育といっても3、4、5歳はそれぞれ全く意味が違ってくる。教育課程における発達的な要素も押さえてほしい。また、人間として人と折り合いを付けたり、友達と一緒に拮(きっ)抗しながらトラブルを解決したり、友達とのきずなを作っていく満たされた体験は、小学校に行くまでに必要なことではないか。

○ 資質・能力の三つの個別の知識、技能の基礎、思考力・判断力・表現力等の基礎、学びに向かう力、人間性等について、小学校以上とのつながりを踏まえ、幼稚園教育において整理しておくことは大事。ただ、これをどのように幼稚園教育の中で位置付けるかということに関しては、幼児教育の特性とか、方法、内容の独自性を踏まえて位置付けることが必要。どれだけ丁寧に基礎とは何かということを説明し得るかということが大事で、ステップとして捉えるのか、内容として捉えるのかはかなり難しい。この知識・技能の基礎と、思考力・判断力・表現力等の基礎というものは、かなり融合しているので、そこをどのように捉えていくかが重要である。幼稚園教育の内容にせよ、方法にせよ、かなり重要な部分は複数の領域やそれに関わる資質・能力を総合的に指導するということであって、それは基本的に子供の発達特性にも応じており、実態としても遊びを中心として指導するときに、切り分けられないところがある。その切り分けられないものをいかに切り分けて記述するかというのが、今、課されているミッションではないか。

○ 何か分かりやすい成果で幼児教育の成果が評価されてしまうことや、活動主義的な感じで何らかの活動を取り出していくことが強調されることになってしまわないかということを少し慎重に議論することが必要。
   小学校以上につながっていくときに、一人一人に何が身に付いているかということも丁寧に見ていかなければいけない。ここでいう個別の知識や技能が、小学校の教科と対応するものだけではなく、もっと土台の部分も含むということを見ていくことと、個別とは言うけれども、幼児教育は、いろいろな活動の中で埋め込まれているので、先生が自覚的になって初めて個別として捉えられるものであるということも言っていく必要がある。

○ 3歳、4歳の子供をイメージするときに、なかなかこの三つの柱はイメージがそぐわないという思いがある。3歳台、4歳台の子供にとっての個別の知識や技能とはどのようなものかと思う。小学校へのつながり等を考えたときに、同じ幼稚園でも、入りたての子供ともうすぐ小学校を迎える子供では随分と育ちが違うことから、一律に3年間、この三つの柱をそのまま持ってくることはそぐわない。せいぜい発達的に見たときにフィットしてくるのは5歳台ではないか。もし、幼稚園に三つの柱を持ち込むとしたら、表現を工夫しないと、勘違いする部分が出てくるのではないか。

○ 三つの柱は、小学校において三つの柱を個別に指導しようと言っていることではなく、具体的な授業場面では、三つの柱が総合化され、あるいは、つながって具体的な学習活動になる。そういう意味で、幼稚園教育がより総合的なのだということをどう表し、その中で、子供の育つものとしての三つの柱を徐々に整理していくことが必要ではないか。
   また、3歳、4歳、5歳、それから、満3歳児まで流れで捉える必要があって、例えば、考えるということも、より感覚的、身体的な関わりの中で考える部分と、言葉を使いながら目的・思考的に考える部分の大きな流れの変化がある。別の言い方をすれば、学びの芽生えから自覚的な学びへの変化ということであり、幼児期は全部自覚する前だと言っているのではなく、そちらに向かっていくという表し方が必要ではないか。

○ 三つの柱で、幼児期に一番重要なところは何かということであるが、個別の知識、技能の部分で言えば、ここで一番大事なことは個別性だと思う。そういう個別的な関わりというのが基本的な出発点であり、幼稚園教育要領には、これに類した言い方はいろいろあって、物事の在り方に気付くとか、いろいろなことに積極的に関わるとか、それに応じていろいろなことをするとか、行うとか、そういう部分が該当する。
   幼児教育の中で、思考力が一番よく出てくるのは、何かしたいと思って工夫するところではないか。子供たちがいろいろなものを動かしたり、作ったりする中で工夫するところとか、あるいは自分たちの工夫をいろいろな形で言い表すところなどに思考力・判断力・表現力等が出てくるので、その当たりを中心に考える。これも教育要領に既に幾つか書き表されている。
   それから、学びに向かう力、人間性等の部分であるが、これは別な言い方をすれば情意面だと思う。情意面は、感情豊かに感じるというところから、自己調整できるようになっていくという流れである。これも表現が少し違うが、幼稚園教育要領に入っている。さらに、情意の意で言えば、意思の部分、最後まで粘り強く取り組むとか、難しいことに挑戦していくとか、そういうことになる。そういう意味で、従来言われているような、関心、意欲、態度とか興味とか、これら全般を見通して言えば、こういう柱になっていく。
   既に5領域の個別の項目を見ると、結構近いものがあるので、それをそのままの形で、別な形で柱を見せるのか、5領域の中身も整理しながら部分を明確にするか、小学校以上と同じ表現である必要は全くないので、それを受けながら改めて幼児教育の在り方を整理していきたい。

2. 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の明確化について

○ 自然との関わりなどが入っているが、病弱児で長く入院している子供はどうしたらよいかとか、言葉による伝え合いのことは、聴覚障害の子供はどうしたらよいかとか、その辺が心配である。もう少しユニバーサルにいろいろな子供に当てはまるような姿を描くことができたらよいと思う。

○ 幼小接続というのは、教育体系上つながっているが、そこの関係性が、なかなか見えにくかった。幼小接続を各都道府県や市町村が実施する場合は、小学校と幼稚園との関係性において、例えば、生活をつなぐとか、学びをつなぐとか、心をつなぐとか、いろいろな視点を決めてやっているが、その視点を作っていく難しさがある。これから、保幼小中高と見通してやっていくときに、接続の視点を明らかに示していくことが大切。そういう意味において、育成すべき資質・能力の柱に沿って、これから整理をしたものを次の要領改訂に示すことによって、幼稚園から高校までを見通した体系的なものが出てくるのではないか。それを踏まえて、各自治体が幼小接続に取り組むことができる。
    したがって、幼小中高の教育を縦のつながりの見通しをもって系統的に組織していく視点から見ると、幼児期の終わりまでに育ってほしい具体的な姿についても、現在の状況を踏まえて整理する際に、育成すべき資質・能力の三つの柱に沿って整理していくことが大切。それぞれの項目を、幼児期に育成すべき資質・能力で示すことによって、幼稚園から高校までを見通した、つながりを持った教育として押さえていくことができる。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の12項目は、大分網羅されていると思うが、自己肯定感といった文言も入るとよい。人や社会に対する安心感と信頼感といったものを育ってほしい姿として入れてほしい。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の12項目には、それぞれ目標とかイメージがあるが、どうしてもこれは評価をする項目になっている。幼児期には、評価されない心地よさみたいなものも感じ取ってほしい。

○ 学びの土台には意欲が極めて重要で、意欲とは自信とか自己肯定感と非常に強い関係にある。体力等の調査の中で、小学校の段階でもう運動が嫌い、自信がないと言っている子供たちが結構いる。この子供たちが一番の原因に挙げているのは、幼稚園のときに既に自分ができなかったとか、経験していなかったので、皆がやれたことができなかったという話が多い。これは、どういうものをやってよいか分かりにくいということに原因があるのではないか。
   したがって、向かうべき姿を一度整理していくことは必要なのではないか。そうしないと評価が難しい。ただ、この評価も大変難しく、ある程度緩やかにしておくべき必要がある。スポーツの世界では、月齢によって差が当然あり、完全に差が埋まったと言えるのは、二十歳ぐらいだろうという見解が出ており、幼児期で、ものすごく差が大きいのは当たり前のこと。同じ5歳、6歳であっても、かなりの開きがある。
   幼児期の終わりまでに育ってほしい姿も、あくまでも例ということであるが、世の中に出たとしても、これだけやればよいということになりはしないか、危惧される。

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