教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チーム(第3回) 議事要旨

1.日時

平成28年1月13日(水曜日) 10時00分~12時00分

2.場所

中央合同庁舎第7号館 文部科学省3階3F1特別会議室

3.議題

  1. 国語科及び外国語科・外国語活動を通じた言語能力の育成について
  2. その他

4.議事要旨

1.「国語科」及び「外国語科・外国語活動」を通じて育成すべき言語能力について

(1)育成すべき資質・能力の可視化について

個別の知識や技能

 既有知識として伝統的な言語文化をどのように押さえておくかに関しては、言語には、言葉の使い方等も含めて歴史的なものがあるので、社会規範と同じ並びで記載するよりも、別に明示した方がいいのではないか。

思考力・判断力・表現力等

 「吟味」という言葉は、「構造と内容の把握」「解釈」などと並べると、少し高次な言葉なので、別の言葉に置き換えられないか。

 “吟味と解釈”は“論理の理解と批判的検討”としてはどうか。

 ここでいう「吟味」には、理解の初期段階である見分ける力なども含んでいるとすると、論理に踏み込む前の段階で、識別したり、仕分けたりすることを示しているのではないか。良い言葉がなければ、とりあえず「吟味」のままでもいいと思う。

 “吟味と解釈”は“理解と解釈”、「・情報を多角的に吟味し、構造化する力」は「・情報を多角的に検討し、構造化する力」としてはどうか。

 小中高等学校のどの段階でイメージするのかを考えないと言葉が決まらないと思う。「吟味」は、これまで高等学校段階で指導されていたようなことだと思う。

 【創造的思考の側面】において、1つ目・の内容は論理を検討すること、2つ目の・の内容は信頼性・妥当性を検討することだと思うが、それらと3つ目の「・既有知識に基づく吟味、補足、精緻化」は同列ではないのではないか。その上位項目を「→既有知識を活用して情報を多角的に検討、構造化する力」としてはどうか。また、“考えの形成”で働く力である「→新しい情報を評価し、取捨選択する力」は、この【創造的思考の側面】に位置付けられるのではないか。

 【他者とのコミュニケーションの側面】に関して、言葉を使う(使われている)状況や場面を理解すること、つまり、相手と私が置かれている文脈そのもの(全体的な状況)の把握が、言葉の使用や理解において重要であるため、これを加えてはどうか。

 【他者とのコミュニケーションの側面】には、状況を理解する、文脈を理解するということが加えられるのではないか。

 【他者とのコミュニケーションの側面】では、相手への配慮ということが強調されていて、自分の意見や立場、文化的な背景を相手に伝える・説得するという方も位置付けるべきだと思う。相手にだけ配慮するというのではなく、バランスをとった書き方にした方がいい。

 【他者とのコミュニケーションの側面】には、相手だけではなく、タイミングと場所と状況、目的などのTPOが非常に大事。うまく日本語化して盛り込んでほしい。

 “考え(推測や疑問等)の形成”の「推測」は、憶測のようなニュアンスを含むので、突き詰めて考えるという意味のある「推論」という言葉に変えてはどうか。

学びに向かう力、人間性等

 「学び」という言葉は、何を学ぶのかという目的語がなくなってしまっているため、非常に違和感がある。教育関係で良く使われる言葉であるが、もう少し意味を明確にしていただきたい。

 教育学の中での言葉の使い方というのも分かるが、「学び」という言葉は、「生涯の学び」というように、漠然としたソフトな一般用語である感じがする。逆に「学習」は、与えられた時間の中で達成すべきというニュアンスがあるので、ここでは、「学びに向かう力」ではなく、むしろ「学習に向かう力」としてはどうか。

 「学び」という言葉は、1990年代に学習者主体の言葉として、「学習」という言葉とあえて分けて使われるようになったという背景がある。

 「学習」と「学び」はほぼ同じ意味で、漢語の方が硬く、和語の方が柔らかく感じるだけだと思う。それよりも、「自ら学び続けようとする態度」など、ここで表したい意味をストレートに書いた方がいいのではないか。

 「言葉が持つ負の側面」という言葉だけでは、例えば植民地の経験などによる民族や言葉が背負っている負の歴史のこととも捉えられてしまう可能性があるため、不十分だと思う。ここで言いたいのは、人間関係の根本に関わるネガティブなことについてなので、もう少し具体的に平たく伝えた方がよいのではないか。

 「学びに向かう力、人間性等」の4つ目の・の内容は、3つ目の・の内容に包摂されるという考え方もある。

 言葉には、正負両方の側面があるので、負の側面を認識すると強調するよりは、正負両方の側面を、とした方がよい。また、言葉というものは、曖昧性を本質的に持っている。言葉の持つ力を盲信し、自分が言ったことは必ず伝わるはず、と考えることは間違いであるので、曖昧性に対する配慮を学習に取り入れる必要がある。

 より円滑な人間関係を作るための言語的配慮(例えばポライトネス)のような側面を含められるとよい。

 ネガティブ、ポジティブという言い方は、文脈がないと誤解される場合がある。ここには、言葉の持つ曖昧性について気付くことと、同じことを表現によって違う印象で伝えることができるということの2つの重要な点があるので、両方盛り込んでほしい。

認知と思考のプロセスのイメージについて

 近年の言語研究の発展もあり、国語教育、外国語教育において、日本語や英語の歴史や文化、敬語、ポライトネス理論などについても扱われるようになってくると思うので、資料3に加えることができないか。

 敬語や言語の歴史的な変化などは、「言葉の位相」というような形でまとめることができると思う。

 この資料においては、「思考」と「考え」が区別されて使われている。おそらく、「考え」は、個人の中で、表現したくなる具体的な内容としてまとまったものを指しているのではないかと思うが、改めて、「思考」と「考え」の言葉の意味を定義してはどうか。

 「思考」と「考え」を別個に定義することは難しいと思う。「考えの形成」は「思考の形成」でもいいのではないか。

 「思考」には、考えのプロセスを意味する場合と、考えたプロセスに結果として出てきたものを意味する場合があると思う。一般の人にも分かるように、言葉の意味を定義するか、文言を変えるか、どちらかにすればよいと思う。

 “吟味と解釈”“考えの形成”の際に働く力には、国語の力を基盤としながらも、外国語に特有な要素もあるというニュアンスが含まれると、より一層、国語と外国語の連携の形が見えるようになるのではないか。また、外国語の学び初めの段階では、国語の力を基盤としながら、外国語を使って理解したり表現したりすることになるが、発達段階を経るに従って、異文化コミュニケーションに特有な考え方を身に付けていくというように考えることもできる。

 場に応じた言語の運用を考えると、「文章や発話による表現」の“テーマの設定”のあたりに、相手や目的を考えることが関係してくるのではないか。

 「状況に応じた調整」にある【音声】は、【発話】とした方がよい。また、音声表現であっても、推敲のような、話し言葉における言葉の最後の整備にあたることは行われているはずなので、「状況に応じた調整」ではなく、きちんとした用語にして示してほしい。

 発話だけでなく、ジェスチャーなどもあるので、【発話及び身体表現】としてはどうか。

 せっかくサーキュレートするような形にしたので、注意書き「※必ずしも一方通行、順序性のある流れではない。」は必要ないのではないか。

(2)他教科における言語能力の育成との関係について

 社会科には社会科固有の言語表現があり、理科には理科固有の言語表現がある。国語と外国語の2教科の連携の中で気付いてきた言葉の働きへの意識が、他教科での言葉の働きまで広がることで、すべての教科・領域のパフォーマンスを向上させることにつながっていくのではないか。言語に関する資質・能力の育成を、すべての教科で重視することによって、国語と外国語の2教科での学習が、他の教科の学習にもつながっていくと思う。

2.言語能力を向上させるための、「国語科」及び「外国語科・外国語活動」における指導内容の系統性について

 子供であっても、大人以上に本質を捉えたり、奥深いところをみたりする能力を持っているので、初等教育はここまで、中等教育はここまでといった固定的な到達目標の設定の仕方は危険である。学校現場で、どの部分を強調して指導するといいのかという共通項を提示しているということがメッセージとして伝わるといいのではないか。

 いま、日本では、文学が軽んじられているのではないか。日本の教育における文学の位置を定め、使い、親しんだり読み込んだりする、といったことを子供の頃からやることによって、色々な言語能力を包括的に育成することができるのではないかと思う。

 現行の学習指導要領の〔コミュニケーションの働きの例〕において、「気持ちを伝える」の後に、「議論する」といったことを加えてほしい。また、相手の感性や考え、他者の世界観を理解する、情報を得るといったところが欠けているので、資料3との整合性を図ってほしい。

3.言語能力を向上させるための、「国語科」及び「外国語科・外国語活動」相互の連携について

(1)目標・指導内容(当該教科において育成すべき資質・能力)等全体に関して

 限られた体験や学習の場だけで外国語を学んだとき、TPOが身に付かない。TPOに応じた言語使用の問題は非常に重要である。

 母語で会話が豊かだったり、よく聞き返したり、色々なことを実際に言葉に出していく人たちほど、外国語の学習に入った時に、それが引っかかりになり、上達していくという相関性があるのではないかと思う。ただ、学校現場のカリキュラムや教材の中で、どこを結び付けたり強調したりすれば、国語と外国語の通路が開けるのかを考える必要がある。

 現行の高等学校学習指導要領では、我が国の文化と外国の文化の関係に気付く、理解するという指導事項が入っているが、実際には、教科書にうまく反映されていなかったり、授業の中でそういう視点が取りあげられていなかったりする。日本は、外国語の文化を色々な時期にかなり柔軟に取り入れてきたということもあるので、そういうことも学びながら、言葉の関係についても考えてほしいというメッセージだった。これらも踏まえながら、小学校からどういう発達段階の中でこの関係を考えていくのかを整理する必要がある。

(2)言語の働き、仕組み(音声、文字、語句、文構造、表記の仕方等)に関して

 心というのは、共通の働きや仕組みを持っていて、慣習や文化や歴史、言葉が違っても、人間はみんな同じだということを、どこかの段階で理解してほしい。多言語を学習することによって、結局、みんな考えていることは同じだというところに到達するという目標を設定することが理想だと思う。
表面的には、日本語と外国語、人種、宗教などが違うことは明らかなので、だからこそ、同じだというところを教える意義があると考える。人間が多様なのは当たり前だが、ばらばらでは社会をつくることができないため、どう歩み寄っていくのかが大事。だから、言葉を通して他者とつながるということは、共通点を見出そうとする努力にあり、そのことを何らかの形でいれてほしい。

 歴史や文化、言語による思考の違いということもあるので、人間皆同じで着地させるのではなく、やはり違うということを踏まえる、違いを知ることも必要だと思う。

 言語においても文化においても、共通なところと違うところは多岐に及ぶので、言語によって世界の捉え方が違うことに気付くことが大事。
人は母語が当たり前だと思っており、母語による概念の切り分けがどの世界でもユニバーサルだと思い込んでいる。このため、他の言語が、母語とは違う概念の切り分けをしていることを理解するのは難しく、その点が、外国語を学習する時の非常に大きな障害となっている。

 同じである、同じでないという2つの観点のどちらも大事で、どう着地させるかだと思う。両方の観点をうまく盛り込んでほしい。発達段階とも関係していると思う。

 母語に関しては、小さいときから当たり前に、体の一部になっているところがあるので、母語では気が付かないところがある。母語と外国語を比べることによって、初めて得られる気づきは非常に大きい。母語と外国語を対比して、どういうところが違うのかを見ていくことは非常に大事である。また、外国語を学ぶ時に、あまりに分析的に始めてしまうと子供は嫌になってしまうが、ただ、いつまでも遊びばかりでも困る。いつからこういった分析的な視点を取り入れていくと良いかということも考えなくてはならない。

 何度調査しても、日本の児童生徒は古典が好きではないという結果が出る。理由は違う言葉に思えるからであり、現代の言葉も、古典の言葉も同じ日本語で、外国語みたいに違うという障壁を取り除く必要がある。

 小学校低学年くらいであれば、言葉には何ができるのか、言葉がないと何ができないのかをよく知ることが大切。国語を学ぶことの意義を学習者も指導者も明確に自覚することが大切であり、それは外国語においても同じで、言葉を学ぶのはなぜかを知るところから始めるとよいと思う。

 小学校国語で言葉の働きについて扱うこととなっているが、余りに重大すぎて、逆にどう教えたら良いか難しく、往々にして、生活指導的な観点から言葉は大事だという指導になりがちである。そういう意味では、国語と外国語の比較の観点が入ることによって、国語の学習でも指導可能性が高まるし、教材の工夫にもつながると思う。

 「国語と外国語の双方を学習することによって、それぞれの言語能力の向上に効果があると考えられる点は何か」という問いかけに対して、端的な答えを見出せていないので、これを宿題としたい。

以上。

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