教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チーム(第3回) 議事録

1.日時

平成28年1月13日(水曜日)10時00分~12時00分

2.場所

中央合同庁舎第7号館 文部科学省3階3F1特別会議室

3.議題

  1. 国語科及び外国語科・外国語活動を通じた言語能力の育成について
  2. その他

4.議事録

【亀山主査】
 新年明けましておめでとうございます。定刻となりましたので、ただいまより、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会言語能力の向上に関する特別チームの第3回を開催いたします。
 本日は、お忙しい中、御参集いただき、誠にありがとうございます。
 まず最初に、事務局から、配付資料について確認をお願いいたします。

【平野教育改革調整官】
 失礼いたします。配付資料の確認をさせていただきます。本日は、議事次第に記載しておりますとおり、資料1から6、参考資料が1から3、その他、机上に参考資料を配付させていただいております。不足等がございましたら、事務局にお申し付けください。
 また、机上にタブレット端末を置いておりますけれども、その中には、本特別チームの審議に当たり、参考となる、関係する審議会の答申等や関連資料等をデータで入れております。詳細は次第の裏側に目次がございますので、御参照いただければと思います。
 また、本日、机上に言語能力の向上に関する特別チーム、前回第2回の主な意見を配付させていただいております。本日、後ほどメールで同じものを送付させていただきますので、期限までに御確認いただきますようお願い申し上げます。
 以上でございます。

【亀山主査】
 では、これから議事に入ります。
 初めに、本特別チームの審議会につきまして、初等中等教育分科会教育課程部会運営規則第3条に基づき、原則公開により議事を進めさせていただくこととともに、第6条に基づき、議事録を作成し、原則公開するものとして取り扱うことにいたします。よろしくお願いいたします。
 なお、本日は、報道関係者より会議の撮影及び録音の申出があり、これを許可しておりますので、御承知おきください。
 では、本日は資料1の論点1から4と資料5についての意見交換を行います。議事の流れといたしましては、前回の意見等を踏まえ、修正した資料2、3に関する論点1から3、前回積み残しとなった資料4に関する論点4、資料5の言語能力についての整理メモの順に意見交換を行いたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 まず事務局から資料に基づき説明をいただいた後、意見交換を行いたいと思います。よろしくお願いいたします。
 では、事務局より、本日の論点等について説明をお願いいたします。

【平野教育改革調整官】
 失礼いたします。それでは、私の方から資料1、2、3に基づきまして御説明させていただきます。まず資料1をごらんいただけますでしょうか。こちらは前回配付させていただいた論点について若干表現の修正を加えさせていただいておりますが、基本的には同じ内容のものでございます。前回特に論点1、論点2について御議論をいただきまして、前回の御議論に基づきまして資料2、資料3を修正しております。また、前回論点3については若干これに関連する御意見もいただいたところでございますけれども、本日は論点3を中心に論点1、論点2についても御意見を改めていただければと思っているところでございます。
 まず資料2の方でございます。こちら、前回お配りさせていただいたものについて、事務局の方で何名かの委員の先生にも御相談させていただきながら修正させていただいたものでございます。まず一番左側の個別の知識や技能のところにつきましては文法的な知識ですとか、そういった言葉に関する知識的なものだけに偏っているのではないかと。もう少し使える、思考、判断、表現力に入っているような要素もこちらに盛り込むべきではないかというような御意見もいただきましたので、少し項目をまとめさせていただいた上で、これらについての理解と使い分けができるというところまで、知識、技能というふうに整理させていただいております。
 また、二つ目の白丸でございますけれども、既有知識ということで、国語や外国語に関するものだけではなくて、ほかの教科に関する知識ですとか、一般常識、社会的規範や文化、こういったものも言語能力を構成する重要な知識、技能というふうに分類できるのではないかという御意見をいただきましたので、これを加えさせていただいております。
 それから、真ん中の思考力・判断力・表現力等のところにつきましては、資料3の方で少し構成を見直しましたので、その例を踏まえて、これと対応する形で整理させていただいております。特に前回かなり細かい内容までずらずらずらと書いていたというところがございましたので、それをかなり大くくりにまとめさせていただいております。
 それから、一番右側の学びに向かう力、人間性等のところにつきましては、特に下の二つの黒ポツの内容について追加、修正させていただいております。4番目の黒ポツでございますけれども、言葉が人を傷つけるというような、そういった負の側面についての耐性みたいなものも考えるべきじゃないかという御意見。あるいはそういったことを前提としつつも、やはり言葉を信じて、その力を高めようとするような態度というものを加えてはどうかという御意見をいただきましたので、それを追加させていただいております。また、言語文化については言語文化に対する関心というかなりあっさりした表現でございましたので、少し表現を加えさせていただいております。
 それから、資料3の方でございます。資料3の方につきましては、前回は「テクスト・情報の理解」と「文章や発話による表現」というものがパラレルな流れのような形になっていましたが、スパイラルに回っていくような感じのイメージが出せないかということで、ぐるっと回るような、上の方は左から右へ、下の方は右から左へ、情報のアウトプットとインプットが交互に行き来しながら動いていくというような姿を何とか出せないかということで工夫させていただいたところでございます。
 それから、前回、上の「テクスト・情報の理解」で申し上げますと、吟味と解釈、考えの形成のところが一つになっていたわけでございますけれども、書かれている内容をそのまま理解するという部分と、それに自分の持っている既有知識なんかを統合させていくというのを分けて、二つに分けさせていただいております。
 それから、下の方につきまして右から左へ流れるわけでございますけれども、構成・表現形式の検討や内容の検討、考えの整理というのは必ずしも二つに明確に分割できないのではないかというような御意見もいただいておりましたので、ミシン目のような形でつなげさせていただいております。
 それから、真ん中の方に黄色い枠囲みで掲げさせていただいております。そこで働かせる能力的なものというものにつきまして、前回は上の理解の部分と下の表現の部分、それぞれに吹き出しのような形で書かせていただいたんですけれども、かなり表裏のような関係で、共通する部分が非常に多いということで、真ん中に共通するような形の表現に直させていただいて、整理させていただいたというものでございます。
 本日は、こういった内容について事前に送付させていただいておりますので、詳細な説明は省かせていただきますけれども、こういった整理について妥当かどうかというところ、それから特に発達段階を考慮した場合にどういった違いがここに出てくるのか、あるいは違いは出ないのかというようなところについて御意見を賜れればと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

【亀山主査】
 この言語に関する資質・能力の要素(イメージ案)、前回よりかなりバージョンアップしたなという印象を受けます。より精緻なものになったという印象を受けます。既に委員の皆様方の手元にはこのイメージ案は送られているということですので、それぞれ御意見があろうかと思います。まず論点1から3について御意見をいただきたいと思います。御意見のある方はあらかじめ名札を立てていただきますと、私の方から順次指名させていただきます。発言が終わりましたら、元に戻していただきますように。また、発言の際にはスイッチのオン、発言後にはオフにお願いいたします。
 では、山脇委員の方からお願いいたします。

【山脇委員】
 ちょっと論点がずれるとは思いますが、私、教育関係の委員とかをさせていただいていて、いつも気持ち悪いなと思う言葉がよく使われていると思っていることがありまして、その一つが「気付き」であり、もう一つが「学び」という言葉なんですね。これは私だけの感じ方なのかもしれないのですけれども、多分これは連用語の名詞化だと思いますけれども、他動詞をこうやって名詞化すると、何に気付くのかとか、何を学ぶのかという、そういう目的語がなくなってしまって、いつも実は、感覚として気持ち悪いというふうにずっと思ってきたものですから、この際、言語のチームなので、御反論もあろうと思うことを期待して、ちょっと感想を述べたいと思いました。
 論点1のマル3にある「学びに向かう力」。「学び」って、言葉をよく使うんですけれども、これは一体何なのだろうかと。ここには「気付き」という言葉はないのですが、よく教育関係で使いますが、これは何なのかと。そういうことをもうちょっとクリアにしていただきたいのと、この感覚自体が、私が間違っているのかもしれないので、そのことも御指摘いただきたいというふうに思っています。
 それから、この委員会で申し上げるのが適当かどうかはよく分からないのですが、こうやっていろいろな言語について細かく分析しているときに、思ったのはやはり今、日本で文学が軽んじられているのではないかというふうに思いました。論理的な思考はもしかしたら違うかもしれませんが、色々と書かれていることをほぼ包括しているのが文学ではないかと思っておりまして、日本の教育における文学の位置というのをきちんと定め、そして使い、みんなが親しむ、そして読み込む、そういうことを子供の頃からやることによって、いろいろな言語能力を随分包括的にカバーできるのではないかというような気がいたしまして、ちょっとこのチームの論点からずれるかもしれませんが、意見を申し上げました。

【亀山主査】
 貴重な御指摘、ありがとうございます。私自身もこの「気付き」という言葉については、十数年前、初めてこの言葉が、特に日本語教育等で使用されているのを知ったときには、かなり違和感を覚えたことは事実であります。その後、かなりそれに馴化してしまったというか、慣れてしまって、なかなか悪くはないなという思いも出てきてはいるところなのですけれども、逆にフラットな目で見た場合に、「気付き」という言葉について、私自身も若干違和感を持っているということを表明した上で、もしこれについて何か御意見等ありましたら、最初の5分ないし10分、御意見を賜れれば幸いです。

【高木委員】
 ちょっと説明していいですか。「気付き」と「学び」についてですが。

【亀山主査】
 どうぞお願いいたします。

【高木委員】
 「気付き」と「学び」についてですが、これは教育の内容論の変更の中で出てきている言葉で、例えば昔、「勉強」という言葉がありまして、「勉強」というのは教師から一方的に知識、技能を学習者に習得させるということでした。それが1960年代に教授・学習論というのが日本の中に入ってきまして、ここで「学習」という言葉が入りました。「学習」という言葉は、要するに、双方向でやっていくのですが、もう一つ、1990年代に学習者主体の教育というのが日本の中に出てきまして、その中で、「学習」という言葉と「学び」という言葉をあえて分けて、学習者主体の言葉として「学び」という言葉を使い出したということが中心になっています。ですから、意味があって使っているわけで、単なる言葉の言い換えではないということです。特に「気付き」に関しては、2000年に入って、特に平成元年ぐらいから生活科が入りまして、学習内容を教科の枠から変えていくという学習者主体のそれこそ「学び」ということをすることによって学校教育の内容論を変えていこうという、そういった中で、「学び」という言葉が教育界では名詞として使われてきているのだということを是非御理解いただきたいと思います。
 以上です。

【亀山主査】
 山脇さん、いかがでしょうか。

【山脇委員】
 内容については薄々いろいろなことで分かってはいたのですけれども、新しい言葉を作るときに、時代とともにいろいろな言葉ができるので、それこそとんでもない言葉もできますし、いろいろな言葉が変わっていくとか、新しく言葉が生まれていくということについて否定するものではありません。御説明で中身はよく分かりました。ただ、違和感というものはどうしようもないものですから、私だけのものにしておきます。

【亀山主査】
 違和感の共有というのは大事なことだと思いますので。一つ大きな問題提起があったということで、御記憶にとどめておいていただければ幸いです。
 では、早速、本題に入りたいのですが、御意見等ございましたらどうぞ。高木委員のからお願いします。

【高木委員】
 資料2のところの言語に関する能力の検討のたたき台ということで、三つの枠組みは大変大事だというふうに私は思っているのですが、きょう、その中の「学びに向かう力、人間性等」の五つ目のポツの中に「歴史の中で創造され、継承されてきた言語文化に対する関心」とあります。関心というのは大変大事なのですが、その前に言語文化、もう少し言い方を変えて言えば伝統的な言語文化も含めて、既有知識としての文化、例えば英語も国語も、古典というものがありますし、それから、日常文化の中で継承してきているものがございますので、そういったことは「固別の知識や技能」の中に最後の二つ目の丸のところで、「文化等」と軽く使われていますが、もし「学びに向かう力、人間性等」でここまで踏み込むのであれば、「個別の知識や技能」のところにも三つ目の丸としてのこういった文化を、歴史の中でどういうふうに既有知識として押さえておくのかということが必要かと思いました。
 以上です。

【亀山主査】
 それは「個別の知識や技能」という、一番左側の一番下の二つ目の丸にある社会的規範や文化等、これとは別個にということですか。

【高木委員】
 そこに入っていてもいいんですが、ちょっと弱い感じがしました。特に伝統文化に関しての文化ということに関して言えば、社会規範と同等にしてしまうよりも、特に言語に関しては言葉の使い方等含めて歴史的なものがありますので、それを明示した方がいいかというふうに思いました。

【亀山主査】
 分かりました。ありがとうございます。
 ほかにこれについて。幾つか文言の調整を行いたいと思うのですが、私の方から、認知から思考へというプロセスが3段階になっておりますが、それこそ違和感なんですが、「吟味」という言葉が、私としては若干違和感があるんですね。構造、内容、解釈と来て、そこに「吟味」という言葉が入ると、少し別の言葉で置き換えられるといいなという思いがあるんですけれども、このあたりと、もう一つ、「考え(推測や疑問等)」と書いてありますが、これは例えば主張というのはどうなるのかということですね。推測と疑問のみならず、吟味と解釈を通して生まれてくる主張といったものがここに入っていくのかどうかということも、もし併せて御議論いただければ幸いでありますが、いかがでしょうか。
 まず、この言葉が、これでふさわしいか、これでいくかどうかということの御検討をいただければ。特にないということであれば、このままでも構いませんけれども。

【亀山主査】
 キャンベル先生、いかがですか。

【キャンベル主査代理】
 そうですね。言葉として「吟味」というのはちょっと高次な、既に吟味する力を備えたものとして見て、そして、それを識別したり、分析したりするという言葉だと思います。

【亀山主査】
 高次なんですね。

【キャンベル主査代理】
 そうですね。ここではもうちょっと日常的な言葉がいいのかなということは感じますね。

【亀山主査】
 じゃ、今井先生、どうぞ。キャンベル先生、また後ほど。

【今井委員】
 私も、「吟味」はちょっと抽象的かなと。この辺の議論というのは本当に抽象的な言葉に頼らざるを得ない部分はあるとは思うんですけれど、例えば「論理の理解と批判的検討」とか、そういうようなもうちょっと具体的に書いてもいいのかなというのは。

【亀山主査】
 もう一回。

【今井委員】
 論理の理解と批判的検討。ちょっと長いかもしれないですけれど。そうすると、余り構築と変わらなくなってしまうのかもしれないですね。

【亀山主査】
 そうですね。

【今井委員】
 「吟味」だったら、「理解」でもいいかもしれないですね。

【キャンベル主査代理】
 ここで多分、「吟味」と言っている言葉の中に、用捨といいますか、どれが使え、どれを使わないかとか、仕分けるとか、そういう非常にまず理解の初期段階で見分ける力であるとかというようなことも含んでいると思うんですね。そうすると、それはちょっと論理より前といいますか、論理までは踏み込まずに、まずいろいろな、たくさんある情報の中から様々な概念であったり、事象を個体として識別したり、仕分けたり、把握するということかと思うので、今井委員がおっしゃったように、抽象的な言葉に頼らざるを得ない部分でもあるので、ほかの言葉を考えることもいいと思いますけれども、そういったことをここでは目指しているということが共通の理解としてあれば、しばらく「吟味」と置いていてもいいのかなというふうに思いますが。

【亀山主査】
 「情報を多角的に吟味し」というと、情報をどう吟味するというのが難しいですね。

【亀山主査】
 「吟味」という言葉の意味がかなりレベルが高いことを考えますと、「吟味」ということそれ自体の幅が広いので。──福田委員、お願いします。

【福田委員】
 「吟味」という言葉が高度だというのは、確かにそうだと思います。それで、例えばオレンジ色のところに入っているのを、今井先生がおっしゃられたように「理解」ぐらいに押さえておいて、そして、黄色いところの情報を多角的にというところは、せいぜい「検討」というような言葉に押さえるといいのではないかと思うんですが、一つの意見です。

【亀山主査】
 西辻委員、お願いします。

【西辻委員】
 この資料3なんですけれども、小学校段階、中学校段階、高等学校段階のどのレベルをイメージするのかということをまず考えないと、特に義務教育修了段階レベルで書くのかとか、例えば高等学校の必履修レベルで書くのかということで大分変わってくるのではないか。特に「吟味」という言葉は、どちらかと言えば高等学校のレベルで今までは指導されていたようなことだろうと思うし、もっと言えばメタ認知的な中身をどこのレベルで考えさせていくのかというようなことがあると思うので、そこをまず、ここの表はどの発達段階のものなのかというところがかみ合わないと、言葉も選びにくいのではないかなというふうに思います。

【亀山主査】
 恐らくこれはそれぞれの発達段階で書き換える必要があると思いますね。これは全体的なものとして一応整理され、総合された形で出てきているものですが、初等教育に合わせて表現を置き換えるというようなことは十分に可能かと思いますけれども、少なくとも現段階で我々が手にしているイメージ案というのはかなり高度なものであるということは言えると思います。
 今、「検討」で良いのではないかという御発言もあったのですが、ここは御検討願えるといいなと思いますが、いかがでしょうか。

【今井委員】
 私もさっき福田先生がおっしゃったことに賛成で、上のところは「理解と解釈」で下の黄色いところは「吟味、論理の検討」ぐらいがいいんじゃないかなというふうに、全くそのとおりだというふうに思いました。
 もう一つ、今、軸の話をしていると思うので、「吟味と解釈」の隣の「考え(推測や疑問等)」というふうにあるのですけれど、これは自分の個人的な、ちょっとマニアックなことかもしれないんですけど、私自身は「推測」と「推論」という言葉を使い分けたいと思っている。

【亀山主査】
 「推論」?

【今井委員】
 「推論」ですね。ちょっと使い分けたいというふうに思っておりまして、一般の方に分かっていただけるかどうかはちょっと分かりませんけれど、やはりここで大事なのは、「推測」というと憶測みたいな、そういうニュアンスがあるのかなと。ここでしなくてはいけないのは、行き当たりばったりにいろいろ考えるということではなく、やはりいろいろと突き詰めて考えるということで、思考にとって非常に大事なのは「推論」の方ではないかなというふうに思っておりまして、「推論」というのは、一般的な言葉ではないかもしれないんですけれど、通常の範囲内なんじゃないかなというふうに思いますし、「推測」という言葉のニュアンスよりは、私としては認知科学では「推論」という言葉を使うんですね。それは非常に思考の要として大事な認知機能なので、できればここは「推論」にしていただけないかなというふうに思っておりますが、いかがでしょうか。

【亀山主査】
 いかがでしょう。「推測」というのは若干甘いですね。一種憶測的な領域も入ってきてしまうということで、ここはここの表の中におけるより厳密な言葉の使用法ということになると、「推論」という形で置いておいた方がむしろ無難かもしれませんね。一応、そのようにいたしましょうか。「推論」という形に一応置いておきましょう。
 ほか、言葉の問題もいいんですが、このイメージ案ですね、ほか内容の側面においてももし御意見等ございましたら。キャンベル先生。

【キャンベル主査代理】
 二つほどありますけど、一つは、最初議論に入る前の山脇委員が提示したことですけど、「学び」について、私もこれは資料2に大きく上がっているので、私も高木委員の説明、教育界の中での推移、80年代、90年代からの推移をここで初めて知って、必然性ということは大変よく分かりますし、用語、あるいは標語としての重要性ということは十分、分かりますけれども、ただ、「学習」と「学び」がどう違うかといったときに、「学習」は、ある与えられた時間の中で達成すべき、達成可能な、例えばそういうレベルというものがあり、3か月内の学習内容というものがあるという連想はできるんですけれども、「学び」は、生涯の学びであるとか、そういう意味で茫漠とした、ソフトな一般的な言葉として、専門用語としては学習者主体という趣旨があり、それはここでも重要な視点だと思うんですが、「学びに向かう力」という言葉は、余り力が出ない。そこはびっちりと、がっちりと「学習」というふうに決めてほしいと思う。やっていることは「学び」じゃないぞと、ちゃんとある程度評価できるような、あるいは比較対象があるようなことをやっていくというような力が出るような言葉にして欲しい。そういう意味では非常に語感、山脇さんがおっしゃったように、個人差はあると思うんですけど、私にとっては、モチベーションというか、余りテンションが上がらない言葉だと感じますので、ここは教育学の中では議論、あるいはお立場もあると思うんですけれども、「学習」でいいんじゃないかなというふうに思いました。ちょっと蛇足かもしれません。
 資料2のところですが、先ほど平野さんが最初に説明してくださった、右側の学びに向かう力の黒ポチの四つ目、前回の議論から加えていただいたところですけど、言葉が持つ負の側面、人を傷つけたり、あるいは逆に癒したり、ポジティブとネガティブの両面性があるということを明示した方がいいということがあって、そのとおりだと思います。ただ、言葉が持つ負の側面を認識するというのは、私たちの議論の背景が分かると、この意味が分かるんですけれども、これだけを見た人は、言葉が持つ負の側面というのは、例えば日本語の外であれば、例えば植民地の経験があり、民族や言葉が背負っている負の歴史であったり、言葉を用いてそれによって暴力というものが歴史的な経験、体験としてある文化だったり、地域ということもあったりということを、少し日本語から視野を広げたときに、ここは不十分な言葉だと思います。日本語の中から見ても、ちょっと分からない。言葉の負の側面。間違えたら不利益を被るかもしれないというような言葉、日本語って難しいですよねという程度のことなのか。いや、そうではなくて、人間関係の根本に関わるネガティブなものだというふうに多分考えていると思うので、ここをもうちょっと開いてはどうでしょうか。前回、議論していた「人を傷つけたり」というような生々しい言葉をここでは使いたくない。もっと平たく分かるように、言葉が持つ力を信頼するというのもモットーに聞こえてしまって、ないように見えてしまうので、ここはもう少し具体化、前回の議論に沿って少し具体的に、フランクに伝えた方がいいのではないかなというふうに思いました。
 資料4まではこれからですよね。

【亀山主査】
 そうです。

【キャンベル主査代理】
 分かりました。じゃ、以上です。

【亀山主査】
 今キャンベル先生の方から発言がございましたけれども、四つ目が、その前の三つに比較して浮いてないかという心配ですね。また、五つの項目が並べられていますけれども、これがここに入っていて違和感はないか。このあたり、この場で判断するのはかなり難しいんじゃないかと思うんですね。一歩置いて冷静になって、ここは三つ目のあたりに包摂されるのではないかといったような考え方も出ないことはないので、これをクローズアップするといいましょうか、位置合わせする形でここに表現するのであれば、もう少し適切な表現でもって、より幅広く書いた方がいいのかもしれないなということ。いずれにしても、新しい機軸であることは事実であると思われますので、このあたり、御発言、御意見等いただければ幸いですが、いかがでしょうか。どうぞ。

【酒井(邦)委員】
 言葉には確かに正負両方があるので、ここだけ負の側面を認識すると強調するよりは、正負両方の側面をというふうにした方がよいと思います。加えて、言葉というのは曖昧性を本質的に持っているということも付け加えた方がよいかもしれません。つまり、言葉が持つ力を盲信してしまうと、自分が言ったんだから必ず伝わるはずだというのは間違っていて、とりようによっては全然違った意味にとれるとか、構造を変えれば違った意味にもなり得るという曖昧性に対する配慮というのをそういう意味では学習に取り入れるという意味では4番目のポイント、少し曖昧性があるということを認識した上でというふうに追加して膨らませていけば、到達目標に十分だろうと思います。
 あともう一点、先ほどから議論になっている発達段階をどう捉えるかということなんですが、我々、資料2、3にあるようなものは、理想的な到達目標であろうと考えていると思うんですが、ただ、それが初等教育だからこのくらいでいいだろうという設定の仕方というのはむしろ危険だと私は個人的には思います。というのは、子供だからこのくらいでいいだろうという発想は我々が大人が持っているものなので、基本的には子供であっても大人以上に本質を捉えたり、奥深いところを見る能力は常に持っているわけですね。ですから、それを信頼した上で、現場ではかみ砕いてこの部分を強調してやろうとか、そういうような解釈の材料になればよいのであって、余りここでリジットに中等教育はここまでだ、初等はここまでだというふうにしない方がむしろよい。つまり、共通項を我々はこうやって提示しているのだということがメッセージとして誤解なく伝わればいいのではないか。つまり、初等教育でこんなのは無理ですというふうに現場から言われないように、こういうことを初等教育でも中等教育でも考えた上で実際の生徒に接して教育を実施してほしいというメッセージであれば、非常に抽象度が高かったり、むしろ理想論であったとしてもきちんと現場に還元されるのではないかと期待していますが。

【亀山主査】
 ありがとうございました。今酒井委員の発言の中で、言葉の持つ正と負のという、まず匂わせるということと、言葉の曖昧性の持つ、何といいましょう、言葉の波及力のようなものですね。そういったことも含めた表現に変えるということ。
 後半の御指摘ですけれども、西辻委員の方からおっしゃられたことは恐らく矛盾ないと思うんですけれども、この言葉を現場でどう軟らかく表現していくのかということの問題の提起だったというふうに思われますが、御意見、お願いいたします。

【亀山主査】
 西辻委員、お願いします。

【西辻委員】
 今、酒井委員がおっしゃったのと、私も同じです。結局、メッセージを誤らないといいますかね。これは何を意図して作ったものなのかというメッセージを誤らないというところが非常に大切かと思います。
 それと、私、立てたのは、学びに向かう力、学びを学習か、どうするかというのはあると思うんですけど、三つ目と四つ目のところですね。ポツの四つ目を立てた意図はよく分かるんですけど、三つ目に包摂されるのかなという、そういう思いが一つと、今、言語学とか、行動学とかで、配慮というんですか、言語的な配慮、より円滑な人間関係を作るための言語的配慮というか、そういうふうな側面がうまく出るといいのではないかな。「ポライトネス」というタームで呼ばれているのかと思うんですけれども、そういうあたりのところがうまく伝わると正とか負とか、言語の持ついろいろな要素というようなものを注意してやっていかないといけない、配慮してやっていかないといけないというところが出るのではないかなというふうにふと思いましたので、ちょっと発言させていただきました。

【亀山主査】
 先ほどのキャンベル先生の提案で、「学び」よりも「学習」の方がいいんじゃないかという、ちょっと大胆な提案が出たんですけれども、ここは「学び」で押さえなければいけないということはありますか。

【合田教育課程課長】
 ここで書いてあります「学びに向かう力、人間性」というのは、先ほど高木委員からもお話がございましたように、あくまでも強いて勉める勉強というものから、主体的に学んでいくと。そのときに、先ほどキャンベル先生がおっしゃっていただいたのは、「学びに向かう力」というと、幾つかの課題とか障害を乗り越えて、強い意思を持って学習を続けていくというニュアンスが出ないのではないかという御指摘なのかなと思っています。御指摘は踏まえさせていただきたいと思っておりますけれども、他方で、これは会議運営上の形式的なことを申し上げますと、この資質・能力の三つの柱で、各教科を構造化していこうということで、昨年8月に論点整理を中教審の教育課程企画特別部会でお出しいただいておりますので、今の御指摘を踏まえながら、ちょうど各教科がこの枠組みに沿ってかなり精力的に整理していただいておりますので、その全体像を見る中でまた踏まえさせていただきたいというふうに思っております。ただ、意図としては、キャンベル委員も伝統的な教育学の先生方も非常に輪郭のない学びというものをイメージしているのではなくて、本人の主体性の中で、みずからを律し高めていくという観点での学習にいかに主体的に取り組むかという問題意識というのは共通しているんじゃないかなというふうに思っております。

【亀山主査】
 どうぞ。

【今井委員】
 「学び」についてキャンベル委員がおっしゃったことというのは、私も言葉の研究をしているので、非常におもしろいなと思って聞いておりまして、私は、キャンベル委員が思っていらっしゃるような「学び」というのは曖昧であるとかということは余り思ったことはなくて、ごく自然で、学習と学びというのはほぼ同じ意味で、和語と漢語なので、漢語の方がちょっと硬いかなという気はするんですけれど、そんなに意味が違うという感じはしないんですけど、一般的には和語の方が軟らかく感じるのでいいんじゃないかなと。でも、ここで「向かう力」というのはちょっと曖昧かなというふうに思いまして、やはり文科省の方針とか、課長がおっしゃったことをもう少しダイレクトに反映させてもいいのかなと。ここのタイトルに。例えば「自ら学び続けようとする態度」とか、そういうふうにもっとストレートに言ってもいいんじゃないかなというふうには思いました。
 それからもう一つ、先ほどの正か負かという問題ですけれど、私もネガティブ、ポジティブというふうに言うと、文脈がないと、かなり誤解される側面はあるのかなというふうに思いまして、今先生方のお話を伺っていると、二つありまして、酒井先生がおっしゃっているのは言葉の持つ、多分それは一つ一つの言葉の持つ曖昧性というのがあると思うんですね。他方もう一つは、やはり同じことを言うのでも言い方によって非常に不快な気持ちに人をさせたりとか、そういうふうな言い方があるというような、これはレベルが違うのかなというふうに思うんですが、言葉の能力としてはどちらのレベルもすごく大事なことだとは思うんですね。だから、やはり言葉一つ一つの意味を突き詰めて考えるというようなことも非常に大事ですし、実際それは私なんかは、論理を、人って抽象的な言葉を使うと、何となくそこで満足してしまって、全然中身を分かっていない、あるいは考えていないのに、抽象的な言葉が何となく分かると、ああ、分かったよということで、いいことになってしまう。それで、各自が勝手にいろいろなことを自分で妄想というか、思って、そこで全然コンセンサスがないまま、同じ土俵にいるようなつもりになってしまうみたいなことというのは、社会で常にあることなんだと思うんですね。
 だから、その辺の酒井先生がおっしゃった曖昧性について気付くということも大事ですし、他方、同じことを表現によって随分違う印象で伝えることができるということも非常に大事なので、ちょっと難しいと思うんですけれど、是非両方を盛り込みたいなというのはあります。済みません。

【亀山主査】
 ありがとうございました。酒井委員、お願いいたします。

【酒井(英)委員】
 ちょっと観点が変わりますけれども、外国語によるコミュニケーションということを考えたときに資料3のイメージ案について2点発言させていただきます。
 まず1点目ですけれども、前回第2回の資料のところでは、日本語と英語、国語と英語ということを考えたときに、英語の含まれる要素というんですかね。関わる側面がどのように実現されるかというと、かなり小さい枠になっていたかなというふうに読み取れることもできたかと思うんですけれども、今回改善された流れを見ますと、かなり英語のコミュニケーション、外国語によるコミュニケーションという観点を見ても、とても妥当な流れになっており、適切ではないかなとに思います。
 2点目は、これは意見ですけれども、構造と内容の把握の下の影響を及ぼしている、知識と技能の枠の部分に「日本語や外国語の特徴やきまりに関する理解と使い分け」ということが書かれています。同様に考えますと、思考力、それから、感性、情緒の側面、他者とのコミュニケーションの側面、読み取りの部分も国語によるこういう力の基盤を支えとしながらも、英語に共通する部分、あるいは外国語に共通する部分と異文化間コミュニケーションの場面で特有に必要になってくる思考の方法、感情の読み取り、吟味の仕方や評価の仕方、そういう要素も出てくるわけです。ですので、先ほどの理解と解釈の下の黄色い枠というんですかね。真ん中の黄色い枠、それから、考えの形成の下の問いを立てていく力等、この黄色い枠のところについても国語力を基盤としながらも、外国語に特有な要素もあるというようなニュアンスが含まれると、より国語、外国語という連携の部分が見えるような形になると思っております。
 発達段階を考えますと、最初の英語、外国語を学び始めの段階は、むしろ国語による力を基盤としながら、習った、あるいは学んでいる外国語を使って理解したり、表現したりということになるかと思いますが、これが発達段階を経るに従って、異文化間コミュニケーションに特有な考え方を身に付けながら、ふさわしいコミュニケーション能力を付けていくという、そういう考え方もできますので、御検討いただければと思います。

【亀山主査】
 ありがとうございました。では、中村委員、お願いいたします。

【中村委員】
 新しく付け加えてもいいんじゃないかという要素なんですけれども、先ほど今井先生から御発言があったことと重なりますけれども、言葉が使われている状況や場面を理解する、あるいは言葉を使う状況や理解の場面を理解するというような文言を、例えば資料3のところですと、他者とのコミュニケーションの側面では、他者という相手はそこに存在しているんですけれども、相手と私がそこにいる文脈そのものについての把握ということも言葉の理解、あるいは言葉の使用において重要かと思いますので、資料3あるいは資料2にも他者とのコミュニケーションの側面がありますけれども、文脈とか、状況というものを「思考・判断・表現」、あるいは「学びに向かう力」のどこかに位置付けられればいいんじゃないかと思います。

【亀山主査】
 今の御意見ですけれども、他者とのコミュニケーションの側面の二つ目の相手との関係の理解というところがありますね。ここに関係というだけではなくて、もう少し膨らませて、全体の状況ですね。相手と私が置かれている全体的な状況への理解ということが加わればいいかもしれませんね。

【中村委員】
 そうですね。

【亀山主査】
 田中委員、お願いいたします。

【田中委員】
 資料3についてですけれども、二つか三つ述べることになりますが、先ほど議論になった、言葉の持つ負の側面、あるいは最初のところで高木委員がおっしゃった歴史とか文化、そのあたりのことについて資料3に明確に入れられるといいと思いました。それをどこに入れるかということですけど、初めの「構造と内容の把握」の下の黄色いところに言葉の特徴やきまりについてのことが書いてあります。まず、これは言語学的に非常に重要なことなんですけれども、近年の言語研究の発展と、先ほどのポライトネス理論とか、それから、日本語、英語の歴史についてのことなどを知識として教科書でも扱うようになってくると思いますので、そこに例えば従来の言葉で言えば敬語、それから言葉の歴史、こういう項目を明確に各論のところに入れてはどうかなということを考えました。これが1点です。
 それから、これは前回議論になったことかもしれませんが、先ほど「学び」という言葉と「学習」という言葉の違いが出てきたこととパラレルなこととして、「思考」と「考え」という、この二つの用語が、この図では明確に区別されていて、恐らく「考え」というのは、個人の中で表現したくなる具体的な内容としてまとまったものを指しているんじゃないかと思うんですけれども、ただ、一般的になかなかそういう理解はできないので、認知から思考へというときの一番重要な思考へというその先にあえて「考え」というこの用語を使って言おうとしていることは何なのかということが明確に言えるような、そういう論理的な説明をどこかでできるといいと思います。具体的にどこにどうすればいいかというのは分かりませんし、今ここでは「思考」と「考え」と区別されているから、これそのものを変えるということではないんですけれども、この言語のイメージ案をよりよく分かってもらうための説明のときに先ほどの「学び」と「学習」を定義すると同時に、「思考」と「考え」というのも定義して提案するといいのではないかと思います。それが第2点です。
 それから、第3点は細かいことと曖昧なことなんですが、一つ細かいことは、下の青いところですけど、文章や発話による表現、このところから始まるので、その左側に濃く青くなったところに「推敲【文章】」、「状況に応じた調整【音声】」とありますが、これは【音声】ではなくて、【発話】にした方が対応していいと思います。
 その上で状況に応じた調整というのは分かりにくい表現で、音声表現であっても推敲に似たことは何かあるので、推敲に当たるもっと的確な話し言葉における言葉の最後の整備ですね。それに当たるものを何かきちんとした用語にした方がいいのではないかと思います。上の赤と黄色の部分がかなり練られてきたことに比べて、下の青のところの議論がまだ不十分な気がいたしますので、今の発話とか音声とか状況に応じた調整、このあたりのことを最初の始まりとして少しこの場で議論した方がいいんじゃないかと思います。
 以上です。

【亀山主査】
 ありがとうございました。今の御意見の中で最初の部分の「構造と内容の把握」の中に例えば敬語とか、言葉の歴史といったようなものを入れる、あるいは文化的なものも含ませるという場合に、これは丸ポツですか。それとも丸で立てた方がよいかどうか。ちょっとカテゴリーが違うように思われますが。

【田中委員】
 そうですね。資料2でいきますと、二つ目の既有知識という、ここに当たることになるので、大きな丸にしてもいいと思います。そういう説明にした方が確かに分かりやすいかと思います。

【亀山主査】
 ありがとうございました。
 今、田中委員の方から出ましたが、島田委員。

【島田委員】
 それでは、今の最後の話に少し絡めてということになりますけれども、現行の学習指導要領の中では恐らく敬語であるとか、あるいは言葉の変化というようなことは、言葉の位相というような形でまとめられているように思います。ですから、「構造と内容の把握」の中に位置付けるとすると、言葉の位相というようなことが立てられて、その中に例えば敬語とか、あるいは言語の歴史的な変化とか、そんな形でまとまってもいいのかなというふうに思いました。

【亀山主査】
 その場合にはポツですか。丸ですか。

【島田委員】
 ポツだと思います。

【亀山主査】
 ですね。分かりました。

【島田委員】
 それからもう一つよろしいですか。

【亀山主査】
 どうぞ。

【島田委員】
 中村先生おっしゃったコミュニケーションの側面の中で、相手との関係というところ、状況とか文脈というふうにもう少し膨らませてというお話でしたけれども、場に応じた言語の運用というふうに言ったときに、すぐ頭に浮かぶのは、相手と目的だと思うんですね。主張するときにまず相手のことを考えて、それから自分がどういう目的でそれを言うのか。おわびするのか、説明するのかというのが最初のところでどうも考えそうなことでもあるかなと。そうしてみると、その下の青い方のテーマの設定のあたりに相手のこと、それから、自分が言おうとすることの目的を考えることというのは、何か関係してくるようにも思いました。
 以上です。

【亀山主査】
 ありがとうございました。
 まずちょっと先に福田委員の方から。

【福田委員】
 私も資料3についてなんですけれども、イメージ案というのはとてもインパクトがあるもので、重要になってくるんじゃないかと思います。それで、ちょっと細かいんですけれども、認知から思考への吟味というか、理解と解釈の下の黄色のところなんですが、まず最初に創造的思考の側面ということで、情報を多角的に吟味し、構造化する力ということで、三つ中黒があるんじゃないかと思います。最初の二つの中黒は、論理を検討する、信頼性、妥当性を検討するという中身じゃないかと思うんですが、三つ目の中黒は既有知識を検討するわけではないので、ここにあるのは変なのかなというふうに思いました。
 それで、御提案なんですけれども、最初の三角形のところに「既有知識を活用して情報を多角的に検討、構造化する力」ということで、三つ目の中黒はとった方がいいのかなというふうに思いました。そして、お隣の黄色いところの「新しい情報を評価し、取捨選択する力」というのは実は「理解と解釈」のところに入るのかなというふうに思います。
 それから、中村先生等々、他者とのコミュニケーションの側面というところで問題になっているところなんですけれども、テキストの理解の話なので、他者だけではないんじゃないかなと思います。そのために最初の見出しは、コミュニケーションの側面として三角形は「相手の心を想像する力」。もし余裕があれば、「相手の意図や感情の読み取り」というのが入っていいんじゃないかと思うんですが、同じように三角形で「状況を理解する」とか、あるいは「文脈を理解する」というような、そういったことがここに入るのかなというふうに思います。
 さらにですが、「考えの形成」というところの黄色いところなんですけど、今1個抜けちゃったわけなんですが、それだと寂しいですし、また、亀山先生がおっしゃられたように、主張が入ってないんじゃないかということだったので、ここに例えば自分の考えを形成する力などというものが入るといいかなと思いました。
 それから、田中先生がおっしゃられた「考えの形成」というところで、実は私もちょっとあれ?と思ったんですが、もしかしたらここは逆に思考なのかなと。思考の形成が最後に来て、そして表現の方に行って、内容の検討、思考の整理というような形でこれがぐるぐる回っていくということかなというふうに考えました。「思考」と「考え」を別個に定義するというのはなかなか難しいのではないかと思います。
 そして、一番下にあります米印ですが、せっかくこういうふうにサーキュレートするような形にしたので、これは要らない注釈かなというふうにも思いました。
 以上です。

【亀山主査】
 ありがとうございました。今この「考え」と「思考」をどう区別するかという問題ですね。「思考」という場合には考えのプロセスを意味する場合と、考えたプロセスに結果として出てきたものを意味する場合がありますから、一番右のところの「考え」というのは、形成された思考ですね。ところが、「思考」というと、思考のプロセスを表してしまうということもあるので、ここを区別するために「考え」というふうになされているのかなと思うんですが、ここはちょっと分かりにくいので、このイメージ案が一般の人に見られた場合にこの「考え」って何かというような。「思考」そのものの定義が求められるかもしれないので、それを避けるために、ここ、文言を変えることができるのであれば変えてもよいのではないか。「学び」と「気付き」というのは歴史がある言葉なので、ここはまずは踏まえていこうということで押さえた上での、しかし「考え」というところは誤解を招かない表現に変えてもよいのではないかと思います。
 では、キャンベル委員、お願いします。

【キャンベル主査代理】
 また細かいことですけれども、私も資料3に関して、田中委員が指摘してくださったように、例えば「状況に応じた調整」では、【音声】ではなく、例えば【発話】にするというのはいいと思うんですけど、ただ、発話だけではなくて、身体表現であるとか、ジェスチャーであるとか、相手を受け入れるとか、威嚇するとかということは、音声や発話だけではないので、【発話及び身体表現】というような言い方もありかなというふうに思いました。
 その下に二つ黒ポツがありますけれども、相手に配慮、あるいは相手の視点を考慮するというところがあり、そのとおりでしょう。黄色いところ、「吟味と解釈」のところに他者とのコミュニケーションの側面は、全部三つとも相手の心や関係や意図という、想像する、読み取る力というものがそこで書かれているわけですが、これは言うまでもないことで書かれていないかもしれませんけれども、これはみずからの主張であり、考えを伝える上でのことなんですね。ここでずっと見ていると、最初にこれを目にした人が見ると、相手への配慮ということが非常に強調されていて、自らの意見であるとか、立場であるとか、文化的な背景を相手に伝えるとか、説得するという言葉はここではちょっと強い言葉かもしれませんけれども、それを位置付けるといいますか、もうちょっとここは表面に出てくるようにした方が、しなければならないのではないかなというふうに思います。今、日本の高校生の自己否定が世界の中で注目されているところなので、相手にだけ配慮するという、なぜ配慮するのかということを、そこはバランスをとって表現を整えた方がいいかなと感じました。

【亀山主査】
 貴重な御指摘ありがとうございます。若干受け身な感じのイメージになっているということだと思います。
 ちょうど議論すべき時間がほぼ予定どおりになっておりますので、この1から3までについてはこのあたりで……。酒井先生、お願いします。

【酒井(邦)委員】
 少し戻ってしまいますけど、先ほどの「状況に応じた調整」というのが非常に論点だったと思うので付加したいんですが、TPOが大事だということなので、相手だけではないわけですね。だから、タイミングと場所と状況、目的。何人もの委員から御指摘があったことをまとめれば、TPOというのは非常に大切なので、それを是非盛り込んで、状況という言葉だとちょっと軽過ぎるように思います。ですから、うまくTPOという言葉を日本語化して入れていただければと思いました。
 そう考えると、ポイントは論点4につながっていくんですけれども、特に我々外国語に接したときに、そのバリアが非常に大きいわけで、限られた体験や学習の場だけで外国語を学んだときにTPOが身に付かないんですね。ですから、こういうふうに表現できるということを教わったら、生徒たちはどんな状況でも言えるんだと思ってしまうんですね。だから、相手に非常にぶしつけにフー・アー・ユーと言ってしまう。あなたの名前は何ですかと言えばいいところをその表現が出てきてしまったら、TPOが間違ったことになるわけですね。ですから、そういう言語使用の問題というのは非常に大切で、敬語のような、さっき言語の位相ということも関係している。極めてユニバーサルな問題ですね。ですから、例えば表面的に英語には敬語表現はないよというような言い方にしてしまったら、大きな間違いなわけですし、それから、例えば韓国語の場合には日本語と非常によく似た敬語を持っているわけですし、そういうようなことを踏まえて、外国語におけるTPOの言い回しというのが論点4につながってくると思うんですね。
 そう考えたもう一つは、私も国語の委員を同時にやっているので、恐らく英語の委員会では我々日本語を共有している中でいかに英語を身に付けるかという発想は分かりやすいと思うんですが、国語の場合には、むしろなぜ外国語を学ぶことによって国語にメリットがあるのかという意見が実際にその場で出ておりまして、我々の方でかなりまとめて国語の委員会におろさないと、溝が深まるばかりだと思うのです。ですから、やはり論点4でいかに外国語を入れるという発想が大切なのかということをもうちょっとこの場で練って、国語におろした方がよいと思いました。
 論点4は、先んじてしまうと申し訳ないですけど、実際に「気付き」という言葉もあって、私も数年前に「気付き」という言葉を聞いた瞬間から違和感をずっと持ち続けた人間なので、非常によく分かるんですが、これは深い意味での理解というふうに置き換えてお話をしたいと思います。

【亀山主査】
 酒井先生、論点4に徐々に入りつつあるんですね。

【酒井(邦)委員】
 はい。

【亀山主査】
 事務局から説明をまずいただいてからということで、その続きをお願いできれば幸いです。
 では、いよいよ論点4の方に行きたいと思います。事務局から論点4の資料について説明をお願いいたします。

【平野教育改革調整官】
 それでは、論点4について御説明させていただきます。資料4をごらんいただけますでしょうか。
 「言葉の働き(機能)と仕組みについて」と題した資料でございます。まず言葉の働き(機能)につきましては、様々な整理の仕方があるわけでございますけれども、ここではヤコブソンの6分類というものを紹介させていただきました。言葉には様々な機能がございますが、こういったものというのは日本語固有、あるいは英語固有、そういうようなものではなくて、言語にある程度共通して、こういった機能が備わっているというふうに言うことができるだろうということでございます。
 ヤコブソンの6分類は非常に一般的な分類の仕方でございますが、特に対人コミュニケーションの場面における言語の機能、外なる言語という部分に着目した整理がなされておりますので、思考の言語としての内なる言語としての能力の部分、機能の部分というのはここでは明確に出ていないというような特徴がございますが、一般的にはこういった整理というのがよく知られているということでございます。
 それから、国語力という観点で申し上げますと、文化審議会の答申でかつて三つの側面に沿って国語の果たす役割というものを整理したというような経緯もございまして、こういった切り口で見ても、恐らくこれは日本語特有とか、英語特有というような話ではなくて、いずれの言語においてもこういった側面は有しているということが言えるのではないかと思っております。
 こういった言葉の働きについて、今の学習指導要領できちんと教えるようになっているのかということに関してですけれども、小学校の国語科でも、言葉には事物の内容を表す働きや、経験したことを伝える働きがあることに気付くこと、言葉には考えたことや思ったことを表す働きがあることに気付くことというふうに指導するべき内容として記述はなされている。外国語についても、外国語活動、外国語科それぞれについて、こういった言葉の働きについて指導するというような内容が記載されている。
 ただ、その内容がきちんと現場で意識されて子供たちに伝えられているか。教員の側もちゃんと意識して伝えているか。子供たちがちゃんとそれを受け取って、自分のものとしての認識を深めていることができるかというと、そこは若干課題があるのではないかと思われます。
 2枚目、言葉の仕組みでございますけれども、言葉の仕組みに関しましては、言葉の働き(機能)と違いまして、それぞれの言葉が持つ固有性、違いがある。もちろん共通する部分もありますが、違いがあるという部分がございまして、この点についての認識というものが不十分なまま、母語における教育において不十分なまま外国語を学ぶと外国語の学びの過程でつまずいたりするというようなことが起きているのだろうと思っております。どのような点に違いがあるかというと、音声、母音と子音の組み合わせ、あるいは母音の数そのものが違ったりというようなことがございますし、言葉をどういうふうに世界を切り分けるか。その言葉の意味をどういうふうに意味付けるかというようなところでは、似ているようでも必ずしも一対一で対応するわけではないというようなところがございます。
 テクストの構造、語順、主語・述語・目的語等というもののきまりというものが違いますし、語順を変えても意味が通じるような言語、日本語のようなものもあれば──これはかなり助詞に依存すると思うんですけれども、順序性がかなり決定的な意味付けを持つ──中国語なんかはまさにそうだと思いますけれども、そういうようなものがございます。
 これが違うことによって次のテクストの文脈上の意味にも関わってくると思いますが、意味内容が全く変わってしまうというようなことがございますので、そういった違いをきちんと考えなければいけないと。
 それから、次のテクストの文脈上の意味については、若干共通性のある部分ですが、額面どおりというか、言葉、文字通りの内容以外に文脈などに応じて違った意味というものを含んでいるという部分についての理解というものがある程度ないと、言葉というのは適切に使っていけないだろうということでございます。
 最後は、「文字、表記のあり方」ということでございますけれども、日本語の場合には平仮名、片仮名、漢字というようなものを混ぜ書きすることによってある程度読みやすくするというようなテクニックを使う。一方、アルファベットの字体のような場合ですと、単語ごとにスペースを分けて区切っていくということによって読みやすくするというような工夫。そういった工夫は共通しているんですけれども、使われている仕組みというのは違う。そういった違いを認識していくということが必要ではないか。
 下の方の赤字で書かせていただいている白丸でございますけれども、国語と英語というものを同時並行的に学ぶということのメリットとして考えられるものとしては、まず国語の学習において言葉の働きに気付くということが重要ではないかということ。そして、言葉には共通の働きや仕組みの違いがあるということを児童生徒が認識した上で、国語科、外国語科の学習を行うということが、外国語の学習だけじゃなくて、母語としての国語の学習にとっても有意義ではないかということでございます。
 これに関連して、本日欠席されてございますけれども、矢原委員から広島中学校ことば科における事例ということで、資料を御提出いただきました。詳しくは次回3月のときに御本人、矢原委員から御説明いただければと思いますけれども、広島中学校のことば科においては、ことば科という新しい学校設定教科を設定して、それを国語の領域と英語を中心とした領域、二つに分けて、構成していると。裏面を見ていただくと、例えばどういう指導の順序性になっているかというようなところでございますが、まず国語系の論理領域できちんとプレゼンテーションとか、ディベートというのをやった上で、それを外国語、英語系のロジカルコミュニケーション領域で英語を使って表現するというような取組をやっている。こういったある程度順序性をきちんと考えた上でやっているということでございまして、これをやることによって国語の能力も英語の能力も両方相乗効果が上がって高まっているというような資料でございます。
 資料1に戻っていただきまして、資料1の論点4でございますけれども、今御紹介させていただいた資料4は言葉の働きや仕組みに関する観点でございますが、こういった観点も含め、国語科、外国語科・外国語活動双方を学習することによって、言語能力の向上という観点からどういった効果が期待できるのかというようなところについて御意見をまずはいただければと思っております。
 説明は以上でございます。

【亀山主査】
 ありがとうございました。では、早速論点4をめぐって御意見をいただきたいと思います。酒井委員、続きをお願いいたします。

【酒井(邦)委員】
 今御紹介いただいた資料4の2枚目なんですけれども、真ん中にテクストの構造というところで曖昧の例があります。「赤い、ストライプのシャツ」と「赤いストライプのシャツ」。今あえて区別せずに読んだんですが、よくよく見ると、シャツの前に2番目の方はスペースが若干空いているのかな。だから、もしこれを普通にテクストで打ったときにはどちらの意味か、むしろ後者の場合に曖昧性があるんですね。ですから、両方解釈し得るというところが大事なわけです。ですから、音声で表現した場合には、「赤い、ストライプのシャツ」、「赤いストライプのシャツ」というふうに、言い分けられるというところで実は情報が多いということを気付いてもらいたいわけです。
 一番下に、先ほど私が申し上げたかったことなんですけれども、言葉には共通の働きや仕組みの違いがあることをというふうに書かれているんですが、そこに是非、言葉と心には共通の働きや仕組みの違いがあるということを入れていただきたいなと思っているわけです。私の専門からすれば、むしろそこに人間の脳もと入れたいところなんですけれども、それはなくても結構なんですが、もちろん非常に唐突な感じを受けるかもしれませんが。要するに、心というのは共通の働きや仕組みを持っているということ。それは我々、例えば外国人に接したときに、全然違うことを考えているんじゃないかとか、これだけ慣習や文化や歴史も違うので、そもそも言葉も違うわけだから、分かり合えないのではないかというような言語的なバリアに対して、いや、人間というのはみんな同じだということをどこかの段階で深い意味で分かってもらえるかどうかにかかっていると思うんですね。そういう観点からすれば、国語も英語も、外国語も人として分かり合えるかというところで言葉を選んでいくことになるわけなので、ですから、論点4に戻りますと、言葉の働きや言葉の仕組みに関する観点などではなくて、人の心は皆同じだということが分かる。そういうことが多言語をやることによって、むしろ言語間の対比を通して分かりやすくなる。結局、みんな考えていることは同じなんだということに到達してもらえるという目標を設定することが私は理想だと、少なくとも思います。

【亀山主査】
 今の酒井委員の意見にはいろいろ異論もあろうかと思いますが、いかがでしょうか。論点4をめぐっていろいろ御意見を賜りたいと思います。山脇委員、お願いいたします。

【山脇委員】
 今の酒井委員のことについて、若干の異論があります。人間は皆同じだと言いたいところですが、やはり違うんだということは踏まえなくてはいけないと思います。そして、もちろん日本語を使う人たちの中でもいろいろ違うんですが、歴史や文化や言語による思考の違いということもあるので、これは違いを知ることも必要なことだと思うので、人間皆同じで着地させるのは私は反対であります。

【亀山主査】
 両方必要ですね。国語と外国語を学ぶこと、その意味という観点からすると、非常に貴重な、重要な示唆を含んでいると思います。ほかいかがでしょうか。どうぞ。

【今井委員】
 私も、酒井委員の着地点として皆共通だという着地点はちょっと危険かな。危険という言葉はよくないかもしれないですけれど、両方が違うということも認識した上で、共通性と違うところというのを──実際言語も文化もかなり多岐に及ぶことは確かですし、そういうところをやはり言葉の違いに着目して、そういうことを心の──心というと非常に抽象的なあれですけど、考え方の違いとか、世界の捉え方の違いとか、そういうことに気付くことというのはとても大事なことだと思います。
 一つここで論点4で大事なことって、こういう観点をいつから持ち出すかということ、発達的なところはすごく大事なんじゃないかなというふうに思うんですけれど、国語をまずやって、そこから言葉の働きに気付くことが重要ではないかというふうにあるんですけれど、確かに言葉を学ぶことで気付くことというのはあるとは思うんですけど、ただ、やはり私たちって母語に関しては本当に小さいときから当たり前、体の一部になっているようなところがあるので、なかなか母語では気が付かないところってあると思うんですね。外国語をすることによって、外国語と母語を比べることによって初めて得られる気付きというのは非常に大きいところなんじゃないかなというふうに思うので、やはり対比、先ほどもどなたかおっしゃいましたけど、母語と外国語を対比して、共通点もそうですけど、こういうところが違うというところを見ていくことというのはすごく大事なんじゃないかなと思います。ただ、そういうふうに言うと早くからそういうことをすることが大事なんじゃないかというようなことにも受け止められかねないと思うんですけれど、いつからそういう母語と国語の対比をするかということはよく考えなくてはいけないことで、外国語を最初に学ぶときにあまり分析的に始めてしまうとそれだけで子供は嫌になってしまうというところはあるとは思うので。ただ、いつまでたっても遊びばかりというのも困るとは思うんですよね。だから、子供が外国語にイマースしていく過程で、どこからそういう分析的な視点を取り入れていくかというのは、その視点自体は非常に大事なので、いつから取り入れていくかということは、国語教育にとっても、英語教育にとってもとても大事なことなのではないかなと思います。

【亀山主査】
 分かりました。酒井委員。

【酒井(邦)委員】
 むしろ明確に反対意見が出たので、はっきり言いやすくなったんですけれども、むしろ表面的に外国語と日本語は違うとか、肌の色が違うとか、宗教が違うとか、明らかなんですね。だからこそ、同じだというところを教える意義があるんです。黙っていればデフォルトはみんな違うわけです。しかも人間は多様なのは当たり前なんです。ですから、それは多様でばらばらで、適当でよいのではなくて、そうしたら社会も作れないわけですね。だから、どう歩み寄っていくのか。それから、翻訳という作業も考えてみれば、言葉を訳すのではなくて、心を訳すわけですね。もちろん、亀山主査が一番ご専門だから、私が言うようなことでは全然ないんですけれども。ですから、基本的に人間というのは脳によってデザインされていて、それは我々、今現代人であろうと、脳がデザインされた数万年前、数十万年前とほとんど変わらないんです、実は。ですから、考えている我々の気付きだろうと、何に我々が感動し、何に問題を感じ、何を自己表現しようとするかという脳の働きは全て同じでありまして、これはたまたま見掛け上、みんな違うように見えているだけなんです。ですから、それを言葉というものを通して、最終的には、この本は日本語で翻訳で読んだときに、やっぱり自分で分かったという感動がこの作家と自分はつながったというふうに思うわけだし、そういうふうに自分も発信しようとするわけで、要するに、他者とつながるというのは共通点を見出そうとする努力にあるわけなんです。ですから、それは少なくとも何らかの形で、小さくてもいいから入れていただきたいという意見です。

【亀山主査】
 恐らく山脇委員もそのあたりは了解した上で、どう着地させるかという問題ですね。今、双方の意見があると思うんですが、同じであるということと、同じではないという、その二つの観点をうまく書き込んでいただければ非常にありがたいと思います。どうぞ。

【山脇委員】
 私は同じじゃないことが悪いと思っていないということを理解していただきたいと思います。違うことは別に悪いことではないというふうに思っております。

【亀山主査】
 これも発達段階のテーマと関わってくるのかもしれませんね。どうぞ。

【今井委員】
 違うことは当たり前で、一目瞭然だというふうに酒井先生はおっしゃったんですけど、私は必ずしもそうは思っていなくて、むしろ人は母語が当たり前だと思っているので、ほかの言語で、自分の母語と違う概念の切り分けをしているということを理解するのはなかなか難しくて、そこが外国語を学習するときの非常に大きな障害になっていると思うんですよね。だから、共通点もあるんですけれど、むしろそれよりは人ってすごく思い込みで生きる生き物で、子供のときから様々なことを思い込んで自分で世界を作って、知識の世界を作っていくので、その中で、私は、子供を見ていて気付くのは、自分の母語の切り分けがどの世界でもユニバーサルだというふうに思ってしまうこと。ユニバーサルだというのは正しいことなんでしょうけれど、例えば一つ一つの文法なり語彙を学んでいくというところでは非常に多様性があって、それを学ぶためには多様性に気付いていかないと学べないんじゃないかなというふうに思います。

【亀山主査】
 今ふと思ったんですけど、発達段階の問題だと思いますね。つまり、教育というレベルに落とし込んだ場合に、デフォルトは歴然として違う。しかし、早い段階で同じだという認識をまず教育の中で与えて、さらにその上の段階で違うんだという認識を与えていくという。そういう段階の問題と密接に絡んでいるのではないかと認識いたしますけれども。島田委員、お願いします。どうぞ。

【島田委員】
 何回調査をしても同じようなんですけれども、実は日本の児童も生徒も古典が好きじゃないんですね。それはなぜかというと、違う言葉に思えるからということなんですね。日本の現代の言葉も古典の作品に出てくる言葉も同じ日本語だよという、そこのところの、こんなに違って、外国語みたいだからやりたくないという、その障壁をまず取り除いてあげないと、なかなか発達段階の下の方の子供たちには抵抗も大きいだろうというふうには思います。そこで、小学校の低学年ぐらいであれば、その言葉の役割、働きの話ですけれども、言葉には何ができるのか、言葉がないと何ができないのかということをよくよくまずは知るということは大切だろうというふうに思います。平成17年度の高等学校教育課程実施状況調査の結果として国語の中で一番最初に挙げられた改善のポイントは、国語を学ぶことの意義というのを学習者も指導者も明確に自覚することだということでした。これは外国語というふうに言い換えても同じかと思います。言葉を学ぶのはなぜか。そのことをまず知るということから始めるというのがよさそうに思えます。

【亀山主査】
 ちょっと質問していいですか。英語のできる子と国語のできる子というのはばらつきといいましょうか、私は個人的なことを言うと、英語はよくできたんですけれども、国語は古典が非常に苦手だったという経験があるんですね。それで、それはいろいろある種の身体的な好悪の問題もあったのかなと思うんですけれども、そういったところでそういう視点もちょっと交えていただけるといいなと思っておりますが、どうなんでしょうか。

【島田委員】
 それは国語の学力観に関わることかもしれなくて、先生は国語が苦手だとおっしゃったのは、もしかすると試験ができなかっただけということかもしれなくて、そこで何が測られていたのかということですね。それがもしかすると偏っていたかもしれないということもあって、もう少し総合的な言葉の力というのを考えたときに、国語を学ぶこと、外国語を学ぶことの共通点というのも見えてくるんじゃないかというふうに思います。

【亀山主査】
 今のテーマの流れの中で、キャンベル先生、じゃ、キャンベル先生、お願いします。

【キャンベル主査代理】
 そうですね。それぞれの経験や記憶によって違いはあると思うんですけれども、国語ができて、国語の基盤というか、国語がおもしろくて、それを学んでいく、自分の能力を伸ばしていこう姿勢と外国語の学習に入っていったとき、外国語と出会ったときに、そこへ食らいついて続けて勉強したいという意欲はすごく僕はつながっているものだというふうには思います。学習の中で、実際に学校の教育の中で、それぞれが別々の場所で行われているので、今、島田委員がおっしゃったように、片方は教え方であったり、環境が残念だったり、向いていなかったりというようなことは、適性ということもあると思うんですけれども、ただ、総じて言うと、私の周りから見ていても、例えば外国語、ヨーロッパの言語やアジアの言語を第二国語として、大体10代の頃から接触し、学習するわけですけれども、前後10歳ぐらいの人たちをずっと見ていくと、まず英語、母語での会話が非常に豊かであるとか、質問をよく聞き返すとか、分からなかったことを聞き流さずに、ちょっとしつこくにいろいろなことを実際に言葉に出していく人たちほど、外国語の学習に入ったときにそれが引っ掛かりとなり、続き、そして、上達していく。外国語が豊かになっていくということとは、相関性といいますか、関連というものはあるようには思っています。
 ただ、教育学、あるいは国語学の高等教育の専門ではないので、それをどういうふうに具体的に現場の中で、あるいはカリキュラムや教材の中でどこを結び付ければ、生徒たちにそのことに気付かせ、それが動機に、あるいは勇気につながり、あるいは総合的な理解の通路が開くかということの具体的なノウハウというのは、私は知らないので、逆にここで少しでも、その辺が話し合われればと思っています。逆に国語学や教育学が御専門の先生たちに教えていただきたいのが、どこが接点、フランス語でpoint d'appuiといいますね。一番の通路になり得るような、例えば外国語と国語のところがどこにあるのか。それを具体化するときにどこを強調していけば、我々が示していくかということはどこかということを逆に問いとしてコメントさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。

【亀山主査】
 今のキャンベル先生の質問はかなり複雑なものであるので、一旦、他の委員の御意見を伺ってから、そこに戻って、この議論を締めたいと思います。論点4は非常に重要で、ある意味では我々の言語能力の作業チームの大きな、最も大事なある種の大きな結論を出さなければならない部分でもあると思いますが、また余裕もあるようですから、後ほどということで、まず西辻委員の方からお願いします。

【西辻委員】
 今、国語と外国語ということで言語について話題になっているんですけれども、この関係について、現行の高等学校の国語の学習指導要領の方では、言語に限定はしていないんですけれども、言語文化の特質、我が国の文化と外国の文化の関係について気付くというのが必履修科目の中に指導事項として入っています。選択科目の中では理解するというふうに入れています。だから、先ほどからあったように、発達の段階というのを考えたときに、現行の高等学校の方ではその枠組みを一応意識されているんですけれども、実際、教科書にはそれがうまく反映されていないということと、高等学校の授業の中でも、なかなかそういう視点が取り上げられていないということはあると思います。
 だから、国語と外国語の関係という言い方をしないで、もう少し広げて、我が国の文化と外国の文化と。先ほど古典が出てきましたけど、従前は我が国の文化と中国の文化という形で古典の中でそういうものを考えていたんですけれども、現行では、それをさらに広げて、国語総合でも現代文Aでも外国の文化という言い方をしています。それは発達の段階を考えて、高等学校段階ではかなり外国語学習も進んでいるので、そういうことも踏まえながら日本の文化と外国の文化というものを、特に日本というのは外国語の文化をかなり柔軟にいろいろな時期に取り入れてきたというようなこともあるので、そういうことを学びながら、言葉の関係についても考えてほしいというメッセージを出したということです。そういうメッセージもあるということも踏まえながら、小学校からどういう発達の段階の中でこの関係を考えていくのかというところを整理していただけるとありがたいと思っています。具体的にはお手元にある高等学校の学習指導要領の国語の解説編の29ページと51ページが該当のところで解説もしているというところです。
 以上です。

【亀山主査】
 中村委員、お願いいたします。

【中村委員】
 資料4の下に小学校の国語で言葉の働きについて扱うということになっていますが、あまりに重大なことといいますか、逆にどう教えたらいいのか難しいということもあって、実際に教え方など、先生方が苦労されているところだと思いますし、こういうことに興味のある、あるいは重要だと認識されている先生方が教え方を工夫されるということがあっても、往々にして、この言葉の問題が、生活指導的な観点から「言葉は大事だよ」というような指導になりがちなところがあろうかと思います。
 そういう意味で英語という2教科の比較の観点が入ることによって、国語の学習でも、こうした現行の指導要領に記載されていることの指導可能性が高まるというか、また、そうした教材の工夫などにもつながっていきますし、その観点はこの資料4の2枚目にあるような様々にあると思います。こういうふうにして2教科間の連携の中で気付かれてきた言葉の働きというのは、もう少しその先に、他の教科・領域での言葉の働きまで子供たちの意識が広がっていくことで、社会科には社会科固有の言語表現の仕方がありますし、理科には理科固有のものがあるというふうに考えていったときに、全ての教科・領域のパフォーマンスを向上させていくことにつながっていくんだろうと思います。そう考えると、カリキュラムの問題になるかもしれませんけれども、言語活動の充実という現行の指導要領、もう一歩進めて、例えばきょうのこれまでの議論で出てきました言語に関する資質・能力を全ての教科・領域で重視するということによって、言葉の働きに気が付いていくという国語と英語での学習が、ほかの教科・領域の子供の学習にもつながっていくのではないかというふうに考えます。

【亀山主査】
 ありがとうございました。

【キャンベル主査代理】
 一言だけ。また個別のことですけれども、資料4で今中村委員がおっしゃってくださった学習指導要領における主な記載のところに「コミュニケーションの働きの例」、これは現行のものですので、これはこれから刷新されていくと思いますが、「気持ちを伝える」の後に「議論する」とか、そういう部分を加えるべきだと思いますし、先ほど私が発言した資料3をめぐることと逆になりますけれども、ここでは相手の感性や考えを理解するとか、情報を得るとかという部分が、あるいは他者の世界観を理解するとかというところが欠けているので、バランスが欠けているように思いますので、それをちょっと違う方向ですけれども、資料3との整合性を視野に入れながらそういった部分を少し整えていただきたいと思うことと。
 2枚目の、細かいことかもしれませんけれども、三つ目のテクストの構造のところで、太郎は花子が好き、花子が、太郎は好きというのは、同じことではないんですけれども、語順を自由に変えられる例としていいと思うんですけど、ただ、Hanako likes Taroをそこでそれに対するのは、ちょっと違和感があるんですね。もともとそこは違うものなので、パラレルにしない。あえて言うなら、そういうふうにしようとすると、Hanako likes Taroになってしまってそれは不的確になるということを説明しないといけないので、これは並行ではない関係になる気はするんですね。英語だったら、Hanako-Taro likes herとかというふうに言うこともできますし、herというのをもう一回繰り返さないといけないので、あえて言うならば、花子を先に、花子が好かれる者として表現する方法はないわけではないので、ここの例としてはちょっとどうかなと思います。
 次のテクストの文脈の意味、これはたまたま例文が、不必要に家の中の役割分担とか、そういうことをあまり出すべきではないと思います。母親が電話に出るものだというふうにここではインプットしているので、自宅で母親が父に扉が開いているよとかということでもいいと思いますし、ちょっとここはもう少し配慮──当たり前ですけれども、「お茶だ」とかというふうにお父さんが言うというようなことと同じような例文になっているのでやめていただきたいという二つです。
 すみません。以上です。

【亀山主査】
 ありがとうございました。
 いろいろ議論は尽きないですね。私の中で浮かび上がってきたテーマ。先ほど古文は外国語かみたいな、この議論もある程度考えなきゃ、視野に収めて議論しなきゃいけないじゃないかという気がしています。しかし、きょうは時間がなくなってしまいましたので、キャンベル先生の質問は後ほどの宿題ということになろうかと思います。
 私の希望といたしましては、きょうの論点4で出されている問題設定について、きょうの議論の中でいろいろ意見が出てきたんですけれども、できるならばこれだといったような回答を一つずつぐらいもらえないかなという気がするんですね。つまり、国語と外国語の双方を学習することによって、それぞれの言語能力の向上に効果があると考えられる点は何かという問い掛けについて端的な答えがまだまだ見出せていないというふうには思います。幾つかちらほらとはありましたけれども。もし可能であれば、きょうお帰りになってからこの論点4に対する一つ答えを用意していただけないだろうかと。それを全体的につなぎ合わせて、一つの大きな、しっかりとした説得力のある提言のようなものができるかなというふうに思いますので、ひとつ宿題として念頭に置いていただければ幸いです。
 そろそろ時間も迫ってきました。では、次に、事務局の方から言語能力の向上に関する特別チーム整理メモについて、資料5ですが、説明をお願いいたします。

【平野教育改革調整官】
 失礼いたします。時間も限られてございますので、これについての御議論は次回また改めてたまわるということにさせていただいて、きょうは資料の御紹介だけさせていただければと思っております。資料5をごらんいただけますでしょうか。
 前回の御意見の中でコミュニケーション能力についての委員の間の捉え方に違いがあるんじゃないかですとか、それを受けて主査から言語能力についてもきちんと整理した方がよろしいのではないかというような御議論もいただきましたので、少し整理のためのメモを用意させていただいたということでございます。そして、これが特別チームの最終的な成果物として文章化したものを作っていく際のたたき台にもなっていくのではないかと思っております。
 まず言語能力についてでございますけれども、これまでのいろいろな会議での整理など、あるいは今回、こちらの特別チームで御議論いただいております内容を踏まえますと、言語の役割ということについては創造的思考とそれを支える論理的思考の側面、感性・情緒の側面、他者とのコミュニケーションの側面の──表現ぶりについてはまた調整の余地があろうかと思いますが、基本的にはこの三つの側面から整理するというのがよろしいのではないかという提案でございます。さらに本日御議論いただきました資料2、資料3の要素をさらにここに付加していった上で、言語能力についてのある種の定義付け、整理をしていければと思っているところでございます。
 それから、2.資質・能力の育成と言語能力との関係についてということでございますけれども、今ほどの御議論でも御指摘いただきましたけれども、ほかの教科についても言語能力というのが基盤となっていくと。論点整理で整理した資質・能力の三つの柱、個別の知識・技能、思考力・判断力・表現力、学びに向かう力、人間性といったいずれの場面においても言葉を通じて身に付けていくという要素がありますので、これが全教科を通じた基盤となっていくんだろうということを書かせていただいております。
 それから2ページ目、3.でございますけれども、コミュニケーション能力との関係を含めまして、ほかのいろいろな資質能力、何々力みたいなものがあるわけでございますが、それについてもある程度整理できればと思っております。コミュニケーション能力については、ここでは文部科学省の有識者会議の定義を引かせていただいておりますけれども、特に先ほど言語能力の三つの側面というのを申し上げましたが、あそこで言いますと、他者とのコミュニケーションの側面だけではなくて、そこの側面では論理的な思考ですとか、相手の感情を理解する力というようなものも、当然合わせた上でコミュニケーションしていくということになりますので、三つ目の柱を中心としつつも、一つ目、二つ目の側面にも支えられた能力として考えていく必要があるだろうと。
 さらに3番目の黒ポツでございますけれども、コミュニケーションといった場合は言語だけではなくて、非言語、イメージや音や身体表現といったものも含めた、もう少し広い意味で考えていく必要があるだろうということでございますので、3ページにございますけれども、非言語能力との関係ということで、色や形などのイメージや身体の動き、音の強弱やリズムというものの能力も、芸術ですとか体育といったような学校活動全体の中でバランスを見ながら育んでいく必要があるだろうということを書かせていただいております。
 最後に言語活動と体験活動の関係というところでございますけれども、言語活動をそれぞれの教科の中で充実させていくということと併せまして、体験活動をほかの教科等の中で実生活の中での体験活動をやっていく中でも言語を使った活動の場面というのを増やしていく。特に今回の学習指導要領改定の中で重視しているアクティブ・ラーニングの視点からの授業改善を進めていくという観点の中でも言語活動という要素を充実していくというのが必要ではないかということで書かせていただいたものでございます。
 また、これにつきましては特にこの点は問題ではないかというような意見ですとか、これについてこうしたらいいのではないかというような御意見を、きょうは時間も限られておりますので、書面等でいただければ、次回までにリバイスして、配付させていただきたいと思っております。

【亀山主査】
 ありがとうございました。御意見をいただくというのは時間の関係でできませんので、書面等でいただきたいということであります。
 次に事務局から教育課程部会の特別支援教育部会における状況の報告をいただきたいと思います。よろしくお願いします。

【大杉教育課程企画室長】
 失礼いたします。全体的な、教科横断的な議論の取りまとめをしていただいております総則・評価特別部会の方から、今回、特別支援教育に関して各特別チーム、ワーキングの方にお伝えするようにというふうにことづかっておりますので、御紹介をさせていただきます。今後の議論の何らかの参考にしていただければというふうに存じます。
 資料6をお手元に御用意いただければと思います。特別支援教育に関する議論についてというペーパーでございまして、1枚表紙をおめくりいただきますと、ホチキス止めの総則・評価特別部会資料2-1ということが出てまいります。この中で特別支援教育に関しましては育成すべき資質・能力を含め、様々な議論がされているところでございますけれども、特に2.にございますように、幼小中高を通じて各教科の目標を実現する上で考えられる学習の困難さに配慮するために必要な支援の改善、充実でありますとか、通級指導、特別支援学級、合理的配慮、校内体制の確立、それから共生社会の実現に向けて、交流、共同学習ということが議論されているところでございます。
 本特別チームと関連の深いところで申し上げますと、資料をおめくりいただきますと、下に19という番号が打ってあるところでございますけれども、各教科等における障害に応じた配慮事項についてというところでございます。19の上の段の方を見ていただきますと、これまでの示し方というところがございますけれども、これまで学習指導要領、総則の部分におきまして黄色い枠囲みのようなことが書いてありまして、障害別配慮の例ということを解説にごらんのとおり書き記しておったというところでございますけれども、今後、資質能力の議論でありますとか、様々な学習プロセスの議論が進んでいることも踏まえまして、総則に加え、各教科において、障害別の配慮のみならず学習の課程で考えられる困難さごとに示していくということ。例えば情報入力、イメージ化、情報の統合処理、表出・表現といった、ごらんのようなところで考えられる困難さということに対してどのような配慮の意図を持って、どのような手だてを講じていくことが求められるかということを教科別に示していくということが検討されているところでございます。
 1枚おめくりいただきまして、20ページに参りますと、例えば小学校の国語科の例でございますけれども、赤字の部分のような困難さの状況、学習の課程で考えられる困難さの状況に対して緑の字のような配慮の意図を持って青の文字にございますような手だてを教員が講じていくということが求められるというようなこと。
 同様に外国語活動につきましても22ページに上の段に外国語活動につきましてもございますけれども、今後、各教科の学習指導要領本体なり、解説なりにおいて、こういったような記載を特別支援教育の観点からしていくというような、そんなことも今後検討しているところでございますので、御参考までに紹介させていただいたところでございます。
 以上でございます。

【亀山主査】
 ありがとうございました。これについては特に御意見、御質問等をどうぞ。

【今井委員】
 特別支援を必要とする子供に対しての言葉の教育をどういうふうにするかというのは非常に大事な問題で、取り上げていただいて大変ありがたいんですけれど、ここの議論の中に入っていないんですれども、大事な観点は、もしかしたら別の部会で扱っていられるのかもしれないんですが、今、外国人の方の子弟が普通の学校でとても増えていて、幼稚園、保育園、あるいは小学校でもそういう方々のお子さんの日本語が非常に弱くて学校についていけないという問題は非常に大きくなっていて、実際、私のところにもそういう教育に関わっていらっしゃる方が相談に来られることが非常に多いんですね。保育園の方に講演なんかしても、必ずそういう質問が出て、外国語、日本語が母語でない子供が今クラスにいて、その子をどうしたらいいのかというような話が、必ず質問を受けるんですけれど、そのことに関しては、特別支援とは別の枠組みで何か検討はされているんでしょうか。

【大杉教育課程企画室長】
 はい。外国人児童生徒でありますとか、海外帰国児童生徒に対する配慮事項というのも、別項目になるんですけれども、総則において今回記載を充実するということになってございます。恐らく学習プロセスの中での困難さというような捉え方からしますと、共通に議論しなければいけない部分も多いというふうに思いますので、一方で、この特別チームの回数がかなり限られているという中で、どこまで深めていただけるかはあるんですけれども、是非その部分もペーパーなどで考え方のヒントをいただけましたらありがたいかなというふうに思っているところです。

【亀山主査】
 これについて酒井委員の方から。

【酒井(邦)委員】
 私は手話の研究もしているんですが、改善の方向性ということをよく理解しているつもりなんですけれども、一方で、特別支援という形で、今までの聾学校が統廃合される中で、手話を活用した教育ということがやりにくくなっている。しかも、これだけいろいろな学習障害を含めますと、多様なスペクトラムの中で自閉症などを含めて、こういう困難さごとに示す必要があることはよく分かりますが、聞こえにくいというワン・オブ・ゼムという対策の仕方では、聴覚障害の場合はもたないと思うんですね。その視点をどこかチャンネルとか、私が発言できる機会がありましたら、是非問題点を申し上げたいと思います。

【亀山主査】
 どうぞ。

【大杉教育課程企画室長】
 ありがとうございます。本日そういった御意見をいただいたということ、もし詳細いただければ、これは主に特別支援教育部会の方で御議論いただくことになろうかと思いますので、特別支援教育部会の主査につながせていただきたいというふうに思います。ありがとうございます。

【亀山主査】
 本日は様々な御意見をいただきましたが、時間も参りましたので、これまでといたしたいと思います。本日お出しいただいた御意見につきましては、事務局で論点ごとにその趣旨を理解していただくようにお願いいたします。
 なお、限られた時間内での討議でしたので、更に御意見やお気付きの点がありましたらペーパーで事務局の方に御提出ください。特に論点4に関するそれぞれの、これだというような一つの決めの御意見等いただければ幸いです。
 本日予定されていた議題はここまでです。
 最後に、次回以降の日程などについて、事務局の方から説明をお願いいたします。

【平野教育改革調整官】
 失礼いたします。次回は、3月3日木曜日、10時から12時を予定しております。場所はまだ決まっておりませんので、決まり次第御連絡させていただければと思っております。
 また、主査からもお話がございましたように、ペーパーによる御意見等も頂戴したいと考えておりますので、ファクス又はメール、郵送でもお送りいただければと思っております。
 また、本日の配付資料は、机上に置いていただければ、後ほど郵送させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

【亀山主査】
 それでは、本日の言語能力の向上に関する特別チームを終了させていただきます。ありがとうございました。

―了―

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